November 13, 2009

天皇陛下御在位20年記念5百円貨幣の棒金をゲット

天皇陛下御在位20年記念5百円貨幣の棒金をゲット

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昨日から引き換えの始まった、天皇陛下御在位20年記念5百円貨幣。本日から1人2枚までという制限がなくなったので、棒金(50枚)で引き換えるため、地元で最も規模の大きい銀行の支店に行ってきた。窓口で尋ねると、シッカリ残っていた。昨日バラで28枚引き換えているので、本日は棒金1本の入手に留めた。

銀行の窓口で引き換えるタイプの記念コインについては、昭和39年に発行されたオリンピツクの1000円銀貨以外まったくプレミアムは付かないので、数多く引き換えてどうするのかと言う方もおられるが、預金していてもほとんど利息の付かない時代。貯金箱に500円玉を貯めている思えばよいのだ。コレクターとしては、手元に100枚ぐらいあっても気にはならない。

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ところで棒金についてだが、かつては銀行の名前が入ったフイルムで、もっと古い時代はペーパーでコインが巻かれていた。しかし今回入手したものは、「金融機関共通巻き」と書かれたフイルムで巻かれていた。これはコスト削減のため、金融機関が共同で作成したものなのであろうか。支店でコインを棒金にするのは、手間ばかりかかって儲けにならないからなのであろうか。それとも今回のように、新しく発行されるコインだけなのであろうか。また記念コインは、各金融機関の支店に、どのような形で送られてくるのだろうか。日銀から各銀行の本店に麻袋に入った状態で送られ、本店で棒金にして各支店に割り当てるのだろうか。コインそのものよりも、その流れの方が気になったのだが、答えは良く分からない。どなたか教えてください。

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November 12, 2009

天皇陛下御在位20年記念5百円貨幣の引換え

天皇陛下御在位20年記念5百円貨幣の引換え

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本日、天皇陛下御在位20年記念5百円貨幣(写真上 : 裏面、写真下 : 表面)の引換えに行ってきた。8つの金融機関を廻り、28枚のコインを手に入れた。「引き換え日初日は一人2枚まで」という財務省通達を守る金融機関が増えたため、いくつも廻らなければならないのだが、普段行かない信金や農協などを訪ねるのも楽しいので、苦にはならない。

昨日、関西のコイン商数社を訪れたのだが、どのコイン商も本日の引き換えには行かないと言っていた。なぜならば、初日は1人2枚なので引き換え効率が悪いからとの事。引き換え日の翌日に金融機関の本店や地方の中核となる支店に行けば、かなりの枚数が残っており、棒金(50枚)で何本も手に入れることができるのである。しかし、私のような個人コレクターの場合は、やはり引き換え日に入手したい。ただ、引き換えたコインをいくら丁寧に扱っても、すでにコレクターではない行員が業務としてコインを扱っているため、指の油によるくもりや、コイン同志のあたりキズなどは避けられない。やはり棒金の方が、もう少しコンディションは良いのかもしれない。

本日入手したコインの中から、比較的状態の良いものの写真を掲載したが、アップにすると細かな傷やくもりなどが目に付く。私もコイン商にならい、棒金で引き換えるため、明日もう一度金融機関を訪ねようかと考えている。

財務省のHP(天皇陛下御在位20年記念5百円貨幣の概要)
http://www.mof.go.jp/jouhou/sonota/kokko/kk211007sankou.htm

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November 09, 2009

シリアの現行紙幣

シリア・ヨルダンの旅(番外編その1)
貨幣ぶらり旅(第173回)

今回の旅でも、現地で流通している紙幣やコインを収集した。ホテルだけでなく、街のみやげ物店など、米ドルやユーロの通用するところが多かったので、観光客はそれほど現地通貨に両替しないようだ。そのためか、外貨両替の店は少なく、比較的状態の良い紙幣を手に入れるのに苦労した。もちろん銀行に行けば、もう少し簡単だったとは思うのだが、行く時間がなかったのだから仕方がない。ちなみに5シリアポンド、10シリアポンド、25シリアポンドについては法律上有効だが、市場ではコインが流通しているため、紙幣は事実上流通していない(我が国の100円や500円と同じ)。このため、5シリアポンドは帰国後「第7回おおさか大収集祭り」でコイン商から購入、また10シリアポンドと25シリアポンドは、現地のコレクターからプレミアムを支払って譲り受けた。なお今回は、残念ながらシリア中央銀行や付属貨幣博物館を訪れることはできなかった。

ウィキペディア・フリー百科事典(シリア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%82%A2#.E7.B5.8C.E6.B8.88
シリア中央銀行
http://www.banquecentrale.gov.sy/index.htm


① 5シリアポンド(1991年発行/1412H) ※Hはヒジュラ暦(イスラム暦)
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(表面)右に女性戦士の像、中央にボスラの劇場が描かれている。
(裏面)中央に綿花の収穫作業、左に綿紡績工場がデザインされている。

平成21年10月28日付当ブログ「世界遺産・ボスラ遺跡観光」
http://coinkun.cocolog-nifty.com/coin/2009/10/post-cdd8.html
ウィキペディア・フリー百科事典(ボスラ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%82%B9%E3%83%A9

② 10シリアポンド(1973/1393H)
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(表面)右に民族衣装で踊る女性、中央にダマスカスのアゼム宮殿が描かれている。
(裏面)水処理施設工場(淡水化プラント)がデザインされている。

平成21年10月17日付当ブログ「アゼム宮殿(民族民芸博物館)」
http://coinkun.cocolog-nifty.com/coin/2009/10/post-bb98.html
ウィキペディア・フリー百科事典(アゼム宮殿 : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Azm_Palace

③ 25シリアポンド(1991/1412H)
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(表面)右に民族衣装を着たサラディーンの肖像、中央に堅固な要塞クラック・デ・シュヴァリエが描かれている。
(裏面)中央にシリア中央銀行の建物がデザインされている。

ウィキペディア・フリー百科事典(サラーフッディーン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%83%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3
平成21年10月26日付当ブログ「クラック・デ・シュヴァリエ」
http://coinkun.cocolog-nifty.com/coin/2009/10/post-bff0.html
ウィキペディア・フリー百科事典(クラック・デ・シュバリェ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AA%E3%82%A8

④ 50シリアポンド(1998/1419H)
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(表面)右にハマの水車、中央にアレツポの要塞が描かれている。
(裏面)左にアサド図書館、中央上にアビシャンスタジアム、中央下に生徒たちがデザインされている。

ウィキペディア・フリー百科事典(ハマー)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%9E%E3%83%BC_(%E9%83%BD%E5%B8%82)
ウィキペディア・フリー百科事典(アレッポ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%9D


⑤ 100シリアポンド(1998/1419H)
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(表面)右にピリップス・アラブスの胸像、中央にボスラの劇場が描かれている。
(裏面)ヒジャーズ鉄道の列車と、ダマスカスの駅がデザインされている。

ウィキペディア・フリー百科事典(ピリップス・アラブス)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%96%E3%82%B9
平成21年10月28日付当ブログ「世界遺産・ボスラ遺跡観光」
http://coinkun.cocolog-nifty.com/coin/2009/10/post-cdd8.html
ウィキペディア・フリー百科事典(ボスラ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%82%B9%E3%83%A9
ウィキペディア・フリー百科事典(ダマスカス)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%82%B9
ウィキペディア・フリー百科事典(シリア)
http://en.wikipedia.org/wiki/Syria


⑥ 200シリアポンド(1997/1418H)
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(表面)右に騎馬姿のサラディーンと剣を持った兵士の銅像、中央に古代コインと無名戦士の墓が描かれている。
(裏面)左に綿の花と綿花の収穫作業風景、中央に糸紡ぎ機と織物機械など、繊維産業がデザインされている。

平成21年10月15日付当ブログ「現存する世界最古のウマイヤド・モスク」
http://coinkun.cocolog-nifty.com/coin/2009/10/post-d001.html
ウィキペディア・フリー百科事典(サラーフッディーン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%83%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3


⑦ 500シリアポンド(1998/1419H)
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(表面)右にパルミラの女王ゼノビアの彫像、中央にパルミラの遺跡が描かれている。
(裏面)ユーフラテスのダム、灌漑地と農作物がデザインされている。

平成21年9月14日付当ブログ「シリア・ヨルダンの旅(準備編その4)」
http://coinkun.cocolog-nifty.com/coin/2009/09/4-63b0.html
ウィキペディア・フリー百科事典(ゼノビア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%8E%E3%83%93%E3%82%A2
平成21年10月20日付当ブログ「世界遺産・パルミラ遺跡(上)」
http://coinkun.cocolog-nifty.com/coin/2009/10/post-0646.html
ウィキペディア・フリー百科事典(パルミラ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%83%A9


⑧ 1000シリアポンド(1997/1418H)
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(表面)右にアラブ民族主義者で、1970年のクーデタで政権を掌握したアサド前大統領の肖像、中央にコインやウマイヤド・モスクが描かれている。
(裏面)石油パイプラインと石油産業労働者、コンバインを使った穀物の収穫作業、近海での漁業風景がデザインされている。

ウィキペディア・フリー百科事典(ハーフェズ・アル=アサド)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%82%A2%E3%82%B5%E3%83%89
平成21年10月15日付当ブログ「現存する世界最古のウマイヤド・モスク」
http://coinkun.cocolog-nifty.com/coin/2009/10/post-d001.html
ウィキペディア・フリー百科事典(ウマイヤド・モスク)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%82%B9%E3%82%AF

※サラディン肖像画、ハマの水車、アレッポの要塞、ピリツプス・アラブスの胸像、ダマスカスの駅、ゼノビアの肖像画、アサド前大統領肖像写真は、各ご案内の「ウィキペディア・フリー百科事典」から転載した。

(参考文献)
・「カラー版世界紙幣図鑑」(植村峻編著)[日本専門図書出版刊]
・「Standard Catalog of WORLD PAPER MONEY」(Neil Shafer他編)[Krause刊]

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November 08, 2009

ドーハ―経由で関空へ

シリア・ヨルダンの旅(最終回)

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昼食を終え、あとは日本に帰るだけである。13:45頃、バスでレストランからアンマン「クイーン・アリア国際空港」に向け出発。1~2分ほど走ったところで、この近くにガイドのムハンマドさんの自宅があるとの案内があった。街の中心部、なかなか良いところにお住まいである(写真左)。街中の道路は車で混雑しているが、渋滞と言うほどではない(写真中左・中右)。15分ほど走ると、右手に外務省の建物(写真右)が、左手には変わった形の建物(写真下左)が見えた。外務省は中央から少し離れたところにあるのだが、機能充実のため、空港寄りの場所に移転したとの事。左に見えた変わった形の建物は、リゾートホテルであった。14:27、飛行機が見え始めた(写真下右)。いよいよ空港である。

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14:30、空港に到着(写真左)。30分ほどで搭乗手続きを済ませる。我々の乗るカタール・ドーハ行きの飛行機は、17:20発なので、まだ2時間半ほど待たなければならない。3~40分ほど空港内のお店を見て廻った後(写真中左)、ファーストクラス用のラウンジに入る。ラウンジは広々としており、窓からは空港を見渡す事ができる(写真中右)。飛行機の離発着などをぼんやり眺めているうちに、ついウトウトしてしまった。16:30にラウンジを出て、3番搭乗口に向かう(写真右)。16:48、搭乗。すぐに飲み物のサービスがあり、続けてデイツとコーヒーが出された。お世話してくれるアテンダントは、インド人と中国系フィリピン人の2人の女性だ。

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17:17、離陸。しばらくすると食事が運ばれてきた。メニューは次の通り。

・前菜(七面鳥と野菜のパンケーキ巻き、チリソース添え : 写真左)
・車海老のマリネとアラブ風野菜の付け合わせ(写真中左)
・サラダ
・グリルドチキン、羊肉のコフタ(香辛料入り肉団子)、海老のソテー、千切り野菜とオリエント風ライス(写真中右)
・パン
・デザート(オレンジとデイツのケーキ : 写真右)
・コーラとコーヒー

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1時間ほどで食事を終え、しばらくすると、カタールのドーハ国際空港に到着した。ここからはバスでターミナルに移動するのだが、来た時と同じく、ビジネスクラス利用者は別のラウンジに案内されるため、添乗員をはじめエコノミークラス利用者と別れる。19:45、ターミナルに到着(写真左)。15分ほどで買い物を済ませ、20:05、今度はビジネスクラス用のラウンジに入る(写真中左・中右・右)。次に乗る飛行機は1:05発なので、まだ5時間ほどあったことから、ラウンジで今回の旅についての資料整理を始めることにした。このような事をしていると、時間が経つのは早い。搭乗時間が近づいたので、00:15、バスに乗って飛行機に向かう。

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00:30、座席に着く(写真左)。1:30頃離陸。1:50に軽食(私は「きつねうどん」を頂く)が出された(写真中左)。食後は、疲れていたこともあり、すぐに寝始める。帰りの飛行機では、行きの飛行機のように、アテンダントの皆さんとお話しすることはほとんどない。とにかく眠いので、いつも寝てしまう。8:00(日本時間14:00、以下日本時間)頃に目覚めると、中国・天津上空を飛行していた。14:30、昼食の時間である。あまりお腹が減っていなかったので、軽食を頂くことにした。今度は牛丼を注文(写真中右)。考えていた牛丼とはかなり違っていたが、美味しく頂いた。帰りの飛行機は日本人の乗客が多いため、すでに日本食はなくなっていた。私の隣に座っていた方は、残念そうに別のメニューを頼んでいた。彼はサウジアラビアのジェッダで仕事をしているとの事。海の綺麗な紅海沿いなので、楽しいでしょうと問いかけるが、サウジアラビアはイスラムの戒律が厳しく、酒も賭け事もダメ。娯楽施設もほとんどないため、まったく面白くないと言っていた。そういえば、先ほどからワインやビールを飲み続けている。お酒が好きなのであろう。彼は1週間の休暇を利用して、日本に帰るところであった。子供が1歳なので、奥さんは日本にいるとの事。まだ数年、この生活が続くと言っていた。お話をしていると、アッと言う間に時間は過ぎる。窓の外を見ると、明石大橋の上空を飛んでいた(写真右)。

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16:18、関西国際空港に到着。これで今回の旅も終了。無事、帰ることができたことに感謝。税関を過ぎた後、そのまま関空の3F、飲食店街に向かった。もちろん好物のトンカツを食べるためである(写真)。酒が飲めないのは問題ないが、豚肉が食べられないイスラム圏は、私にとって厳しい場所なのかもしれない。

カタール航空
http://www.qatarairways.com/jp/jp/homepage.html/
クイーン・アリア国際空港
http://www.qaia.gov.jo/
ドーハ国際空港
http://www.dohaairport.com/

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November 07, 2009

アンマン国立考古学博物館

シリア・ヨルダンの旅(第24回)
貨幣ぶらり旅(第172回)

10日目・11日目(最終日) : 10月7日(水)~8日(木)

7:00 起床
7:30~8:15 朝食
8:20~9:30 ビーチを散歩
10:07 バス出発
11:17~12:13 アンマン城砦・国立考古学博物館
12:40~13:42 昼食
14:30 アンマン「クイーン・アリア国際空港」に到着
15:10 チェックイン手続き終了
15:52~16:30 ファーストクラスラウンジで過ごす
16:48 搭乗
17:17 離陸
19:35 カタール・ドーハ国際空港に着陸
19:45 バスでターミナルに到着
19:45~20:05 ターミナルのショツプで買い物
20:05~00:12 ビジネスクラスラウンジで過ごす
00:15 バスで飛行機まで移動
00:30 搭乗
1:30 離陸
1:50 軽食
2:50~8:00(日本時間14:00 : 以下日本時間) 睡眠
14:30~15:00 昼食
16:18 関空に着陸


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本日は、アンマンでこの旅最後の観光をする予定だ。10:00出発なので、朝はノンビリ出来る。7:00に起きて、7:30から朝食を頂く。ツアーメンバー人達が少なかったので、添乗員に尋ねると、すでに食事を済ませ、海に行った人たちがいるとの事。皆さんお元気である。食後、私もビーチに行ってみることにした。もちろん、海には入るつもりはない。同じツアーの人達はすでに上がっていたようで、外国人の方達が数人海に浮かんでいるだけだった(写真左)。海岸の岩は、塩で白くなっている(写真中左・中右)。泥の壺の方を見ると、朝から全身に塗っている御婦人がいた(写真右・下左)。その横を見ると、ライフガードの人が暇そうにしていたので、2つ質問をしてみることに(写真下中左)。第一は、壺に溜められている泥について、どこから持ってくるのかを尋ねた(写真下中右)。すると、死海の北の方にたくさんの泥の取れるところがあり、毎朝トラックで運んでくるとの事。壺に入れられた泥はすぐに無くなるので、壺数配分を持ってくるようだ。それでも足りないときは、電話で連絡して業者に持ってこさせると言っていた。第二は、沖に張られているロープについて。鮫もいないし、沈むこともないのだから、沖にロープを張る必要はないのではないかと尋ねたところ、流れがあるので、ウッカリ沖に出過ぎると、遠くに流されてしまうためだという。後で添乗員から聞いた話だが、死海の中央にある国境線を越えてイスラエル側に入ってしまうと、大変なことになると言うのも理由のようだ(写真下右 : イスラエル側)。

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1時間ほどビーチやホテル内を散策し、9:30頃部屋に戻った。荷物を再度チェックし、10:00にロビーに集合。バスはアンマンに向け走り出した。30分ほどで、海抜ゼロメートルのポイントを通過(写真左)。砂漠の中を走りつづけ、11:00頃、街中に入る。車で混雑する道路(写真中左)。その先には、山の斜面にギッシリと立ち並ぶ家々(写真中右)。そして、アンマンのダウンタウンの中心へ。右手にニンファエウム(写真右)、ローマ劇場(写真下左)と続き、次いで左手に王宮(写真下中左)が見える。アンマン城砦は丘の上にあるのだが、この丘は「ジャバル・エル・カラ」と呼ばれている。坂道を登り、大きなカーブを曲がると王宮の入り口(写真下中右)があり、さらに進むと、箱をギッシリ積み上げたような住宅街が見える(写真下右)。

ウィキペディア・フリー百科事典(アンマン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%B3
ウィキペディア・フリー百科事典(アンマン : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Amman


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11:17、アンマン城砦跡に到着。バスを降りて少し歩く。途中、地元の子供達が、親しく声をかけてきた。自分たちの写真を撮れと言うのだ。みんな良い笑顔だ(写真左)。城砦跡の入り口は新しく、出来たばかりである(写真中左)。現在工事中のため、何か落ち着かない雰囲気。舗装工事中の道を歩く(写真中右)。その先には、ヘラクレス神殿跡が見える(写真右)。もともとこの場所には古代のアクロポリスがあり、ローマ時代に要塞が築かれ、その度幾度となく改築されたのである。城壁はダブルウォール、二重構造だ(写真下左・下右)。

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城砦の南側からは、アンマンの街が一望できる。先ほどバスの中から見えた「ローマ劇場」も、その全体像が分かる(写真)。このローマ劇場は、紀元169~177年に、丘の斜面を自然のまま生かして造られている。階段席は三層からなり、収容人員は約6,000人。保存状態が良いうえ、修復もなされていることから、現在も様々な文化的催しに使用できるようになっているとの事。またステージの両袖には、「ヨルダン伝統文化博物館」と「ヨルダン民族博物館」が併設されている。

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この劇場の北東に、紀元2世紀に建てられた小さな天井付き劇場「オデオン」が見える(写真)。内部のオーケストラ、舞台共に往時の姿をとどめており、500人を収容できる観客席は近年改築され、コンサートなどに用いられているという。

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アンマンの街を眺めた後、城砦の跡を歩き、ヘラクレス神殿跡に立つ円柱のそばにやって来た(写真)。この神殿は、紀元2世紀、マルクス・アウレリウス帝(A.D.161~180年)を記念して建てられたもので、かつては神殿から丘の下の町まで壮大な階段が伸びていたと言われるが、現在はその名残はない。ファサード(建物正面)には4本のコリント式円柱があったが、完全な形で残っているのは三層のアーキトレーブ(横石)を載せた2本の円柱のみである。円柱の高さは約17mとの事。

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ヘラクレス神殿の横を通り100mほど西に進むと、青い屋根の右手にドームが見えた(写真)。この一帯は、近年発見された中世初期の遺跡群「アル・カスル」である。紀元720~750年頃、ウマイヤ朝後期に築かれたもので、為政者の住居、行政府の置かれた場所であったと推測されている。青い屋根のドームは、「謁見の間」と呼ばれる、一辺25mの壁に囲まれた正方形のホールで、4つの角にはさらに方形の部屋が続いている。このギリシャ十字式設計の中央にあたるホールの装飾は見事だという。

さらに西に200mほど進むと、「ヨルダン考古学博物館」がある。階段を昇り館内に入る(写真左)。入口の外、左手にあった指の形をした彫像の断片は印象的だ(写真中)。館内を覗くと、それほど広くないスペースが、展示物でギッシリ詰まっているといった感じである(写真右)。

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ここには、新石器時代からオスマントルコ時代の遺物が集められ、次のような区分で展示されている。

1. The Paleolithic (1,000,000 – 10,000 years ago) (写真上左).
2. The Pre-pottery Neolithic (8300-5500 BC) (写真上中左).
3. The Pottery Neolithic (5500-4300 BC) (写真上中右).
4. The Chalcolithic (4300-3300 BC) (写真上右).
5. The Early Bronze Age (3300-1900 BC) (写真中上左).
6. The Middle Bronze Age (1900-1550 BC) (写真中上中左).
7. The Late Bronze Age (1550-1200 BC) (写真中上中右).
8. The Iron Age (1200-550 BC) (写真中上右)
9. The Persian Period/Iron III (550-350 BC)
10. The Hellenistic Period (332-63 BC) (写真中下左).
11. The Nabataean Period (312 BC-AD 106)
12. The Roman Period (63 BC – AD 324) (写真中下中左・中下中右・中下右).
13. The Byzantine Period (AD 324 – 636) (写真下左).
14. The Islamic Era (AD 636 – the present) (写真下中左・下中右・下右):

ヨルダン国立考古学博物館(英語版)
http://www.visitjordan.com/default.aspx?tabid=113#1
ヨルダン国立考古学博物館(英語版)
http://wiki.blogjordan.com/Jordan_Archaeological_Museum


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なかでも注目されるのは、「死海文書」である(写真)。「死海写本」とも呼ばれ、ヘブライ語聖書の断片を含む約850巻の写本の集まりである。「文書は、ヘブライ語のほかにアラム語・ギリシア語で、紀元前2世紀から紀元後1世紀の間に書かれている。この時代に書かれたものとしては事実上唯一のユダヤ教聖書の文書であり、聖書本文の内容が写本を通して劣化されることなく比較的正確に伝えられてきた歴史を証明するものとして、貴重な資料であるとみなされる」(ウィキペディア・フリー百科事典(死海文書)より)との事。

ウィキペディア・フリー百科事典(死海文書)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E6%B5%B7%E6%96%87%E6%9B%B8
ウィキペディア・フリー百科事典(死海文書 : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Dead_Sea_scrolls


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2番目に注目されるのは、漆喰と瀝石(れいせき)で出来た像である(写真)。紀元前6,500年頃、「The Pre-pottery Neolithic時代」に作られたもので、1985年にアンマンで発見された。高さは1m前後ある。

ヨルダン国立考古学博物館(英語版)
http://www.art-and-archaeology.com/jordan/amman/am01.html


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その他にもジェベル・クスールのテラコッタ製の人型石棺(写真左)やヘレニズム期の大理石によるダイダロス像(写真中)、テラコッタ製のアフロディテの小像群(写真右)など、貴重な品々が展示されており、ジックリ見ているといくら時間があっても足りない。

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このような中、私が最も興味を持って見たものはコインである。ナバテアのコインやローマ支配下デカポリスのコイン、イスラム支配下のコインなど、非常に面白い。ナバテアのコインを見ると、紀元前2世紀、ナバテアがもっとも繁栄した時代に、国王アレタス三世は銀貨と銅貨を発行するのだが、ギリシャコインと同じものが造られていたのである。しかし、アレタス三世を継いだオバダス二世は、コインのスタイルを変え、表面に王または女王の、もしくは両者の像を刻み、裏面には豊穣の角をデザインさせた(写真左)。デカポリスについては以前お話ししたので省略するが、これらの都市では当然のことながらローマコインが流通していた(写真中左・中右)。イスラム時代のコインが展示されているコーナーには、ササン朝ペルシャのディレハムやビザンチンのデナリウスなども一緒に並べられている(写真右・下左・下中・下右)。これらを見ていると、イスラム支配下になっても、コインはペルシャやビザンチンの影響が残っていたことが分かる。特に偶像を嫌うイスラムであるにもかかわらず、初期のころのコインには、キリスト教などに関する像が残されているのだ(写真)。後にアラビア文字が加えられ、その後完全にイスラムスタイルであるアラビア文字だけでコイン面がデザインされていくのである(写真)。

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約1時間で、城砦並びに博物館の見学を終えた。これで今回の旅の観光はすべて終了である。我々は昼食を取るため、バスで移動する。中心街から北西方向に15~20分ほど走ると、昼食会場であるレストラン「Tawaheen Al-Hawa」(タワーヒヌ・アル・ハワー)に到着した。「Hawa」とは「風車」の意味らしい。レストランの入り口に、風車のデザインがあった理由が分かった。中に入ると、中庭にテントを張り、その下にテーブルが並べられていた。我々はそのうちの一つに座る。何となく楽しい雰囲気のレストランである。メニューはアラブ風前菜にミックスグリル、そしてフルーツだ。今回の旅行では、何度も食べたパターンだが、それぞれお店によって味が異なるので、飽きることはない。約1時間、ツアーメンバー全員で囲む最後の食事を終え、13:42、空港に向けバスで出発した。

レストラン「Tawaheen Al-Hawa」
http://www.lonelyplanet.com/jordan/amman/restaurants/418103


・「地球の歩き方ヨルダン・シリア・レバノン 07~08」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド社刊]
・「芸術と歴史の国ヨルダン(日本語版)」(Francesca Casule著)[ BONECHI刊]


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November 06, 2009

死海での浮遊体験

シリア・ヨルダンの旅(第23回)

9日目 : 10月6日(火)

5:30 起床
6:00~7:00 朝食
7:00~7:50 部屋で休息
8:05 バスで出発
10:05~10:35 ペトラ・ツーリスト・コンプレックスで休憩
11:57~12:00 海抜ゼロメートルポイントで写真撮影
12:20 ホテル到着、ウェルカムドリンク
13:00~14:00 昼食
14:10~16:50 死海で浮遊体験後、プールで過ごす
17:00~18:25 入浴、資料整理
18:30~20:00 夕食
20:30 就寝


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本日は、午前中にペトラから死海に移動し、午後は死海のリゾートホテルでノンビリ過ごす予定だ。出発が8:00の予定だったので、5:30に起きて6:00から朝食を取る(写真左)。食後部屋で一休みし、8:00頃、バスで死海に向けて走り出した。ペトラから死海まで、約220km。その内、かなりの部分が砂漠だ。出発して間もなく、「王の道」(キングス・ハイウェイ)を走っているとの案内が、ガイドからあった(写真中左・中右)。1時間ほど走った頃、「砂漠の道」(デザート・ハイウェイ)に入る(写真右)。

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10:05、「DOLMEN」と名のお店で、トイレ休憩を取る(写真左・中左)。ご記憶のある方もおられるだろうが、マダバからペトラに行く時にも利用したお店である。30分ほど休んだ後、再び砂漠の中、バスで死海に向けて走り出した(写真中右)。1時間半ほど走ると、急に耳に違和感を覚え始めた。エレベーターに乗って急降下した時の感じだ。ガイドによると、この辺りから一気に下り道になっているとの事(写真右)。ご存知の通り、死海は海抜マイナス418mにある。ゆえに、この山間から800mほど下るのだ。半分ぐらい下ったであろうか。丁度、海抜ゼロメートルの標識が置かれたポイントがあったので、写真を撮るためバスを一時停止させた(写真下左)。海抜ゼロメートルの碑(写真下中左)と、ここから死海の水面まで、まだ390mの差があることを示す解説パネル(写真下中右)が立てられている。ここから死海まで18kmの表示もある(写真下右)。写真撮影を終え、バスは最後の下りを走りだした。

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12:14、ペトラを出て約4時間。右手に死海が見え始めた(写真左)。12:20、ホテル「モーヴェンピック・リゾート & スパ・デッド・シー」に到着(写真中左)。リゾートホテルと言うに相応しい雰囲気のホテルである(写真中右)。宴会場のように広い部屋に通され(写真右)、ここでウェルカムドリンクを飲みながら、添乗員がチェックインの手続きを終えるのを待つ。12:45、部屋に入る。シンプルで明るい感じだが、茶系統でまとめているため、非常に落ち着いた雰囲気も持つ(写真下段)。

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13:00、ホテルのレストランで昼食を頂く(写真上段)。1時間で食事を終え、いよいよ死海での浮遊体験である。部屋で水着に着替え、ビーチまで歩いて行く。ホテルの庭はかなり広く、なかなかビーチにたどり着かない(写真下左・下中左・下中右)。プールを越え、歩くこと約10分。ようやくビーチに到着(写真下右)。

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子供の頃に体が沈まない海があると知り、是非一度訪れてみたいと思っていたのだが、今回やっと実現した。ビーチサンダルを履いたまま海に入り、いきなり浮かぼうとすると、上手くいかない。それを見かねたのか、浜辺にいたライフガードの方が上手な浮かび方を教えてくれた。まず、中腰になって両手を横に広げる。そしてそのまま仰向けになり、両足を上げる。すると自然に体が浮くのである。一度コツを覚えれば、後は簡単だ。プカプカと浮かびながら、波まかせに流れていく。ポートを漕ぐ要領で、腕で水をかいて岸に戻る。また流される。何度も繰り返して楽しんだ。事前に、「浮かぶのは簡単でもバランスを取るのが難しい」と聞かされていたのだが、そのようなことはない。カナヅチであわて者の方なら分からないが、そうでなければ全く心配はない。また、「海の底はトゲトゲしており危険」とも言われていたが、こちらも違っていた。一般のビーチであれば、事前に聞かされていたような危険もあるのだろうが、宿泊しているリゾートホテルのプライベートビーチだったので、清掃も行きとどいており、またライフガードの方も数人いたので、予想とは異なり、全く安心できる環境で浮遊体験ができた。

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楽しいのは浮遊体験だけではない。ビーチに死海のミネラル分を含んだ泥が壺に入って置かれているので、これらを自由に体に塗ることもできるのだ(写真)。約10分で肌がスベスベになるという。しばらくすると、同じツアーの方達数人がビーチにやって来た。私が泥を塗っていると、ツアーメンバーの一人が、背中に塗るのを手伝ってくれると共に、何やら文字を書いている様子。写真を撮ってもらっていたので、後から分かったのだが、「アホ」と書かれていた。「バカ」と書かれると腹が立つが、「アホ」と書かれると嬉しくなるのは関西人だからであろうか。壺の周りには泥を塗るために集まった男女で大混雑である。面白いと思ったのは、アバヤを着た女性が、空のペットボトルに泥を詰め込んでいた事だ。イスラムの戒律で肌を出せないため、部屋で泥を塗るのだろうか。

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ところでこの死海だが、どのようにして出来たのであろうか。一説によると、死海から流れ出る川がないうえ、比較的高温で乾燥した気候であることから、年間を通じて大量の水が蒸発する一方、周囲の土壌に元来含まれていた塩分が雨によって流され、海抜マイナス418mにある湖で凝縮する形となり、塩湖が形成されるのだと言う。この結果、一般の海水の塩分濃度が3%程度であるのに対し、この死海の塩分は10倍の30%程もあるのだ。この塩分濃度のおかげで浮力が大きくなり、人間の体も浮くのである。事前の注意として、死海の海水を目に入れないように、また飲まないようにと言われていたのだが、浮遊しながらおしゃべりをしていると、少し海水が口に入ってしまった。この時の感触は、塩辛いという感じではなく、苦いという感じでもない。これまでに味わったことがないものだったので、何とも表現できないのだが、とにかく奇妙であまり心地よくないものが残った。死海に入っていた一人の女性が、浮遊に失敗し一回転。顔を海水に浸けてしまい、目に塩水が入った様子。ライフガードの人があわてて飛んできて、彼女の眼をペットボトルに入れた水で洗い流していた(写真)。海水を飲んだのか、目に入ったのか、どちらか分からないが、泣き叫ぶ幼い子供もいた。浮遊体験を楽しめる死海だが、海水にはご用心である。

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1時間半ほど海で浮遊体験を楽しんだ後、ホテルのプールで1時間ほど過ごした(写真)。砂地のプールと段々と深くなるプールの2種類がある。日光欲している人の方が多く、泳いでいる人の数は少ない。しかし一人だけ熱心にプールに潜ったり、泳いだりしている少女がいた。シンクロの練習をしていたのだ。お母さんらしき女性が指導している。少女は黙々と練習に励んでいた。明日のオリンピック選手を目指しているのだろうか。

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17:00前、日が沈み始めたので、部屋に戻り、入浴と資料整理を済ませる。18:30からホテルのレストランで夕食を頂き(写真)、20:00頃、部屋に戻る。久しぶりに、体を動かして良く遊んだからであろうか。睡魔が襲ってきたので、20:30頃ベッドに入った。

ウィキペディア・フリー百科事典(死海)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E6%B5%B7
ウィキペディア・フリー百科事典(死海 : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Dead_Sea
モーベンピック・リゾート&スパ・デッド・シー
http://www.movenpick-deadsea.com

(参考文献)
・「地球の歩き方ヨルダン・シリア・レバノン 07~08」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド社刊]
・「芸術と歴史の国ヨルダン(日本語版)」(Francesca Casule著)[ BONECHI刊]

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November 05, 2009

世界遺産・ペトラ遺跡(その4)

シリア・ヨルダンの旅(第24回)

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昼食を終え、いよいよ「エド・ディル」に向かって出発である。ここまでは平地を歩いてきたが、ここからは昇りの山道(写真)。しかも影が少ないので、強い日差しを直接浴びてしまうため、疲労も激しくなることが予想される。昇りの細い道を、一歩一歩踏みしめながら進む。降りてくる人もいれば、ロバに乗って登る人達もいる。狭い道なので、お互いに譲り合いながら歩く。ツアーの中では、私が一番若かったので、誰よりも早く歩けると思っていたのだが、私よりもはるかに早く上って行く女性がいた。彼女は毎日、大型犬であるシェパードを散歩させているのだという。ナルホド、毎日歩いている人は強い、と感じざるを得なかった。

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足場の悪い急な坂道に暑さが加わり、私は少々疲れはじめていた。途中、「ライオンのトリクリニウム」と呼ばれる墳墓があるはずだったのだが、すっかり見落としてしまった。同じ小道をさらに先に進む。レストランを出てから約40分、ようやく道が広い高台に出る。すると、その右側に巨大なファサードが見えた。これが「エド・ディル」である(写真左)。ディルとは「修道院」の意味で、かつてこの場所に修道士たちが住んでいたことに由来する。ナバテア王国末期、紀元1世紀末頃のラベル二世の時代に、当時神格化され崇拝されていたオボダス王に捧げられた神殿だ。高さ40m、幅47mと、エル・カズネに比べて幅広の比率になっていることから、幾分重苦しく感じられるものの、エル・カズネの様式と構造を簡素に再現している。ファサード下部では、イオニア式柱頭を持つ8本の円柱が少し後ろに下がった中央入口を囲み、両脇の柱間にはアーチ型ペディメントを乗せた空の壁ろうがある(写真右上)。ファサード上部では、トリグリフとメトープを施したフリーズで飾られたトロス(周柱円形堂)を挟んで両側にパビリオンがあり、その上にも同じフリーズと半分に切られたペディメントが乗っている(写真右中)。そしてトロスの上には、エル・カズネ同様、壺が載せられている(写真右下)。

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ここが最終ポイントかと思っていたのだが、この先にまだビューポイントがあるとの事だったので、3名を残し、最後の力を振り絞って坂を登ることにした。振り返ると、エド・ディルが少し小さく見える(写真左)。途中、岩の木陰でノンビリ過ごす山羊たちに出会う(写真右上)。4~500mで到着。下を覗くと、吸い込まれるような絶壁である(写真右中)。他の人達も、恐る恐る覗き込んでいた(写真右下)。

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ビューポイントでしばらく眺めを楽しんだ後、14:00頃、来た道を引き返す事にした。昇り道を行く時、体力的にはキツイものの、エル・ディドを見ると言う楽しみがあったので、元気よく歩くことができたが、帰り道は疲れが溜まっているうえ、同じ所を通るだけだと思うと、何となく気が重かった。しかし下り道から見る遺跡の眺め(写真左・中左・中右)が素晴らしかったので、すっかり元気を取り戻した。レストランの前辺りに戻ってくると、観光用のラクダが数多く待機していた。皆さん利用しないのだろうか。ラクダ引きの男の人達が、しきりに勧誘してくる(写真右)。

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我々はそのまま進み、「カスール・アル・ビント」(写真左)→「凱旋門」(写真中左)→「柱廊の道」(写真中右)→「アーンの墓」(写真右)まで歩いた。私とあと2名は、疲れていたので真っ直ぐホテルに向かった。残りの人達は、「アーンの墓」や「シルクの墓」の前まで行くため、再び岩山を昇るとの事であった。

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我々3人は、「ローマ円形劇場」(写真右上)の向かいにあるカフェで一休みし、その後「エル・カズネ」まで戻った。14:30過ぎぐらいだったのだが、朝方見たエル・カズネに比べて、ローズ色が濃くなっているように思えた(写真右中・右下)。光のあたり方によって、色々な顔を見せてくれると聞いていたが、これがそうなのか。シークに入り振り返ると、ローズ色のエル・カズネが見える(写真左)。朝方、狭いシークの終わりに現れたエル・カズネを見た瞬間の感動は忘れられない。

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再びシークを歩くが、朝方とは異なり、太陽の光が差し込んでおり、結構暑い(写真左)。シークを抜け、「オベリスクの墓」(写真中左)や「ジン・ブロック」(写真中右)の前を通り、ようやくペトラ遺跡の出入り口が見えた(写真右)。ここからホテルまでは近い。ビューポイントを離れて約1時間半、15:45にホテルに到着した。

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夕食は18:30からだったので、昨日に続き、私はホテルのプールでノンビリ過ごす事にした。年配の男女数人が元気に泳いでいる中、私もプールに入る。炎天下を歩いたためであろう。体が熱くなっていたので、熱が奪われてスッキリするように感じられた。泳いだり日光欲をしたりして、プールで1時間半ほど楽しむ。17:20、部屋に戻って入浴を済ませ、18:30、ホテルのレストランに向かう。本日もバイキングだ(写真)。1時間ほどで夕食を終え、いつものように部屋で資料整理を済ませ、21:15頃ベッドに入った。

(参考文献)
・「地球の歩き方ヨルダン・シリア・レバノン 07~08」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド社刊]
・「芸術と歴史ペトラ(日本語版)」(Dominique Tarrier著)[BONECHI刊]
・「ペトラのすべて(日本語版)」(ムフセン・ウラマー著)[アル・ウラマー書店刊]
・「芸術と歴史の国ヨルダン(日本語版)」(Francesca Casule著)[ BONECHI刊]

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November 04, 2009

世界遺産・ペトラ遺跡(その3)

シリア・ヨルダンの旅(第23回)

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9:45、エル・カズネを離れると、再びシークが続く(写真)。2~300mほど歩くと、ファサード通りに出る。このペトラ遺跡の最も奥にあるエド・ディルまで行くとするならば、まだ三分の一の地点に過ぎない。見たいポイントは数多くあるが、体力と時間を勘案すると、メイン通りに面する遺跡に絞る必要があった。以下観光した場所を、順にご紹介する。

① 「17基の墓」
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シークの出口辺りから、数多くの墓が見られる。ギリシャ神殿のファサードを模した1つの入り口、二重のアーキトレーブ、最上部の半狭間が基本的な特徴である。中でも左手の絶壁に並ぶ「17の墓」は特筆に値する(写真上段・下左・下中左)。岩を深く刳り抜いた岩窟墓で、中には14基の床石式の墓と、ホールの後ろ側の壁面に3基の墓がある。続いて墳墓群のある岩塊が現れ、数え切れないほどのアッシリア風の墓が幾重にも重なっている(写真下中右・下右)。

②  「ローマ円形劇場」
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紀元後1世紀頃に造られたもので、6,000人近くの観客を収容できたという33段の階段席が印象的である(写真左・右上)。赤みがかった灰色の特に砕けやすい砂岩を彫って造られているため、周囲の丘から流れ込む雨水によって、常に激しく浸食されてきたという(写真右中)。両脇の通路は今も完全に残っているが(写真右下)、古代のダムが消滅したため辺り一帯に枯れ谷の水が氾濫し、舞台正面の建物は流されて、現在は土台だけとなってしまった。最近修復が行われたが、いくつかの円柱を立て直すだけに留まったため、かつての外観を取り戻すまでには至らなかった。長い間、劇場はエル・カズネと並んでローマ時代の建築とされてきたが、発掘作業が行われた結果、建築年代が見直され、これまで考えられていたよりも古く、紀元後1世紀初期であることが明らかになった。

③ 「アーンの墓(壺の墓)」
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ローマ円形劇場の北東に、紀元後1~2世紀頃に造られた岩窟墓がある(写真右上)。その中の並外れた高さと奥行きを持つ墓、これが「アーンの墓」だ(写真左)。マリコス二世のために、紀元後70年頃に造られた墓で、ファサードはかなり浸食が進んでいるがアッティカ様式の横石を二重に戴いた4本の円柱からなり、その上部の三角形のペデイメントにはまさにアーンのフリーズが見られる。アーンの墓のすぐ左手には、「シルクの墓」がある(写真右中)。風化による浸食のため、ファサードにはかろうじて見分けのつく程度に残った4本の半円柱が見える。砂岩の壁に走る青、白、黄色、赤などの入り混じった天然の縞状の色彩がマーブル模様の絹を思い起こさせるところから、「シルクの墓」の名が付けられたのではないかと言われている。さらにその隣には「コリント風の墓」がある(写真右下)。ファサードの構造はエル・カズネに非常に似ているが、保存状態が悪く、往時の面栄はない。

④ 「柱廊の道」
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道幅は6m、道の左側には円柱が何本か立て直されており(写真左・中左)、柱廊の一部には、ローマ時代に施されたであろう舗装が残されている(写真中右)。両側には、ビザンチン時代に修理された商店や住居が並んでいたようだが(写真右)、紀元551年の大地震によりほとんどの建造物が倒壊したとの事。

⑤ 「南神殿」
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柱廊の道の端に近い左側に、神殿入り口の堂々たる階段の跡が残っている(写真左)。これを上って行くと第一の小広場があり、次いでもう一つの広場の突き当りに大きな神殿がそびえていた。現在発掘中のこの神殿はナバタイ人が建設したもので、南神殿と呼ばれている(写真中左)。外郭の高さは28m、神殿の前には階段があり、奥行き8m、4本の円柱が並ぶプロナオス(神殿前の柱廊)につながっていた(写真中右)。神像安置室の入口は2本の円柱で示され、長さ28m、幅18mの室内は三方に合計22本の円柱が並んでいたという(写真右)。

⑥ 「凱旋門」
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柱廊の終わり、北の端にあるのが凱旋門だ(写真左)。この後見る「カスール・アル・ビント」と並んで保存状態の良
い石積み構造。門には開口部が3つあり、ペトラで最も重要なテメノス(神域)へ通じていた(写真右上)。道路に面したファサードは、4本の円柱で飾られ、その柱頭には動物神の像が施されていた。中央の開口部には植物の渦形装飾を施した柱頭が見えるが、他の2つの開口部はナバテア様式である。門全体の装飾は化粧漆喰の小さなパネルから成り、それぞれのパネルには神々の胸像、幾何学模様、それにヘレニズム様式の影響を受けた様々な要素が彫られている(写真右中・右下)。

⑦ 「翼のあるライオンの神殿」(写真 : 「芸術と歴史ペトラ(日本語版)」より)
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先ほど見た、「南神殿」の向かい側に建っていた。伝説的な獅子の像が柱頭に施されていたことから、「翼のあるライオンの神殿」呼ばれている。地震により倒壊した状態で残されているため、円柱が横たわっているだけだが、「獅子の像」についてはパルミラ博物館に展示されている。翼のあるライオンが翼のあるエロス神を取り囲む構図だが、右側のライオン像は現在残っていない。

⑧ 「カスール・アル・ビント」(写真)
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「カスル・アルフィラウ」または「ファラオの娘の宮殿」とも呼ばれている。ドゥシャラ神に捧げられた神殿、テメノス(神聖なる場所)で、発掘の過程で様々な遺物が発見された。現存する中ではペトラの唯一のナバテア時代の建物で、しかも岩壁に造ったものではなく、唯一の組石による建物である。オボダス三世期に建てられ、アレタス四世の時代に完成されたものと考えられている。円柱の並ぶ柱廊の跡、内部の広い空間に通じるアーチなどが奇跡的に残っており、また厚みのある側面の壁には屋上のテラスに通じる階段の跡があることから、特別の宗教儀式に用いられた場所ではないかと言われている。現在修復工事中のため、金網が張られており、中まで見ることができなかったことは残念である。

ウィキペディア・フリー百科事典(ドゥシャラ : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Dushara


⑨ 「パルミラ博物館」
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レストハウスの横に建つ博物館(写真左)。「翼のあるライオンの神殿」でご紹介した「獅子の像」(写真中左 : 「芸術と歴史ペトラ(日本語版)」より)を始め、スフィンクス像(写真中右 : 「ペトラのすべて(日本語版)」より)やナバテア磁器(写真右 : 前掲書より)など、遺跡から発掘された美術品や日用品などが展示されている。その他、幾種類かのコインも見ることができる。

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以上、主だった観光ポイントをご紹介したが、それ以外に面白いと思った場所を2か所ご紹介する。第一は、ガイド曰く、「世界一美しいトイレ」である(写真上段)。洞穴式のトイレのため、天井や壁に岩の縞模様が現れているのだ。ピンク絵の具の上に、何色もの色を垂らしたような不思議な模様。確かに美しい。第二は、絵壺を造るお店である(写真下段)。パルミラの砂を使い、ガラス瓶の中に絵を描いて行くのである。実に簡単そうに作るのだが、とても真似はできない。行きに注文しておけば、戻って来る時までには出来ている。皆さん、自分の名前入りのものを注文していた。オーダーは、小さいもので1つ5~10米ドルぐらいだ。

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11:30、博物館の隣にあるレストランで昼食を取る(写真左・中左・中右)。こちらもバイキング形式だが、レストランの外で調理しているコロッケ(写真右 : 豆やパセリが入っており、中は緑色)やフライ、グリルなども熱アツで食べ放題だ。約1時間で食事を終え、後は自由時間。ペトラ遺跡の最も奥にある「エド・ディル」に行く人と、ホテルに戻る人に分かれたのだが、13名中10名「エド・ディル」に向かった。

(参考文献)
・「地球の歩き方ヨルダン・シリア・レバノン 07~08」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド社刊]
・「芸術と歴史ペトラ(日本語版)」(Dominique Tarrier著)[BONECHI刊]
・「ペトラのすべて(日本語版)」(ムフセン・ウラマー著)[アル・ウラマー書店刊]
・「芸術と歴史の国ヨルダン(日本語版)」(Francesca Casule著)[ BONECHI刊]


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November 03, 2009

世界遺産・ペトラ遺跡(その2)

シリア・ヨルダンの旅(第22回)

いよいよペトラ遺跡で最も有名な「エル・カズネ」の観光である。エル・カズネについてはご存知の方も多いと思うが、「芸術と歴史ペトラ(日本語版)」を引用しながら詳しくご紹介したいと思う。

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エル・カズネ(写真左)は、「宝物殿」という意味を持つ。このモニュメントの頂上を飾る壺(写真右)に由来する名で、19世紀にこの周辺に定住していた人達の間では、そこに「出エジプト記」のファラオの宝物が隠されていると信じられていた。実際、秘密の宝物殿説は長い間外国人の立ち入りを禁じる良い口実となっていた。この建造物については多くの議論が戦わされてきた。最初に調査した考古学者は、様々な建築様式がミックスされていることを指摘し、ナバタイ人がこのような建造物を作り出す事ができるとは思えなかったらしく、ローマ時代、正確に言うと2世紀の建築であるという結論を出した。最近の研究では、エジプトのアレキサンドリア建築との類似が明らかにされ、ヘレニズム建築の影響を間違いなく受けていることが確認された。朝の光を浴びてバラ色の岩肌が輝くエル・カズネは、巨大な断崖を彫って造られたもので、宝石箱に収めるように岩壁で囲まれている。調和のとれた美しいファサードは高さ40m、幅約28mで2層式に分かれ、コリント式の豪華な装飾が全面に施されている。

ウィキペディア・フリー百科事典(エル・ハズネ : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Al_Khazneh
ウィキペディア・フリー百科事典(ファサード)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%89


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ファサード下層の上部にはアーキトレーブがあり、その上のペディメントとともに、入口より前方に建てられた中央の4本の円柱によって支えられている(写真左)。初めてペトラの探検が行われた頃には、4本の円柱のうち1本は一部しか残っていなかった。1960年に文化省史跡局が実施した修復作業のおかげで、現在見られる調和のとれたファサードが甦った。ファサード両脇の柱間には、馬に連れて立つ人物像が表されているが(写真右)、この2人はギリシャ神話のディオスクロイ、つまりゼウスとレダの間に生まれた双子カストールとポルクスと思われる。

ウィキペディア・フリー百科事典(アーキトレーブ)
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ウィキペディア・フリー百科事典(ペディメント )
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ウィキペディア・フリー百科事典(ディオスクーロイ)
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ファサード上層の中央には、トロス(周柱円形堂)と呼ばれる円形の建物が置かれ、三方を列柱で囲まれている(写真左)。その両脇にある二柱式のパビリオンには、角が強調された半分のペディメントが乗っている(写真中左・中右)。列柱の柱間には浅浮彫で「勝利」の像が表され、両脇のパビリオンにはアマゾン族の女性像が刻まれている(写真右・下左)。トロスの中央に見えるのはイシス神で、「幸運の女神」の典型的な持ち物である豊饒の角と杯を左右の手に携えている(写真下右)。この女神は紀元前2世紀のアレキサンドリアの壺に描かれたトトメス3世の妻ベレニス妃に似ているという見解もある。

ウィキペディア・フリー百科事典(イシス)
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ウィキペディア・フリー百科事典(トトメス3世)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%88%E3%83%A1%E3%82%B93%E4%B8%96


ペディメント最上部のワシ、下層部アーキトレーブ両端のスフィンクス、フリーズの中で向き合う怪獣グリフォンなど、装飾には数多くの動物像も含まれている。その他の装飾要素は植物模様と思われ、特に下層部フリーズの葉、柱頭の渦巻模様はナバタイ人彫刻家が考案した珍しいもので、アレキサンドリアの秀逸な金細工品からヒントを受けたらしい繊細な仕上がりとなっている。

ウィキペディア・フリー百科事典(グリフォン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3


ティンパムに「ブドウの房を持つ女性像」が表されたペディメントの最上部、つまりイシス女神の像が施されたトロスの真下には、ハトル女神の2本の角と麦穂に挟まれた日輪が見える。この装飾要素と中央パビリオンに堂々と立つイシス像から、エル・カズネはペトラの各所に像が残されているエジプトの最高神を奉った神殿と考えられていた。しかし実際には、このモニュメントを美しく飾っている浅浮彫は、頂上の壺からディオスクロイ像まで、すべての古代伝統によれば死者の魂を導く役割を持ち、明らかに葬祭の象徴体系に属していることから、エル・カズネは神殿ではなく、壮大な墓廟であると考えられるようになった。しかし、誰の墓であるのかを特定するのは難しい。だか、このように壮大な墓に葬られたのはナバタイ人の偉大な王の一人に違いない。モニュメントの様式的な特徴から判断して、おそらくアルタス3世(紀元前84~56年)ではないかと考えられている。


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玄関広間の中央にある10段程の階段を上ると、エル・カズネの内部を見ることができる(写真左)。かつては中に入ることができたようだが、現在は立ち入ることはできない。部屋の壁はシークの断崖と同じく、カラフルな岩肌を見せている(写真中左)。非常に質素な感じの内部だか、かつては化粧漆喰で作られた外部と同じ装飾要素を飾るための場所だったと考えられている。玄関広間の両側には、繊細な装飾が施された2つの入り口があり、どちらの入り口の上にも明り取りの丸窓がある(写真中右)。左側の部屋の方が大きく、正方形に近い形をしているが、何に使われていたのかはハッキリ分かっていないのだが、葬儀の宴会用の部屋だったのではないかと考えられている。その前には、ヨルダンの兵士が立っていた(写真右)。彼らは砂漠のパトロール隊に属するらしい。

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ところで、エル・カズネ全体を見ると、正面に並ぶ円柱は12本あり(写真左)、ファサード上層のアーキトレーブに花の装飾が31個、そしてファサード下層のアーキトレーブにワイングラスの装飾が7つある(写真右)。ガイドの話によると、これは12か月すなわち1年、31日すなわち1カ月、7日すなわち1週間を表しているのだという。各部分に色々な意味が含まれていることを知ると、ますます面白い。

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我々はエル・カズネで4~50分過ごしたのだが、その間次々と観光客が訪れ、かなり混雑し始めた(写真左)。広場では団体客が集合写真を撮ったり(写真中)、新婚さんがラクダに乗っている写真を撮ったりして楽しんでいる。シークを歩いて疲れたのか、休憩所で座り込む人たちもいる(写真右)。そのような中をブラブラしていると、日本人の若者男性と出会った。彼も仕事を辞めての一人旅との事。パルミラで会った若者と同じである。ただ彼の場合とは異なるのは、他の一人旅の若者と旅先で知り合い、今は数人で旅している点だ。昔から一人旅をする人たちの話は聞いていたが、このような人たちと出会ったのは今回が初めてである。このような場所だからなのか、それとも現在の流行りなのか。9:45、我々ツアーグループはエル・カズネを離れ、さらにペトラ遺跡の奥に進み始めた。

(参考文献)
・「地球の歩き方ヨルダン・シリア・レバノン 07~08」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド社刊]
・「芸術と歴史ペトラ(日本語版)」(Dominique Tarrier著)[BONECHI刊]
・「ペトラのすべて(日本語版)」(ムフセン・ウラマー著)[アル・ウラマー書店刊]
・「芸術と歴史の国ヨルダン(日本語版)」(Francesca Casule著)[ BONECHI刊]

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November 02, 2009

世界遺産・ペトラ遺跡(その1)

シリア・ヨルダンの旅(第21回)

8日目 : 10月5日(月)

5:50 起床
6:15~6:25 ホテルの周りで写真撮影
6:25~7:05 朝食
8:15 ホテルから徒歩でペトラ遺跡へ
9:00~9:44 シークを通りエル・カズネ宝物殿へ
10:10~10:32 トイレ休憩
11:05~11:25 博物館
11:30~12:20 昼食
14:00頃 エド・ディルと展望台
14:00頃~15:45 来た道を戻りホテルへ
15:55~17:15 プール
17:20~18:20 入浴、休息
18:30~19:40 夕食
19:45~21:15 資料整理
21:20 就寝


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本日の予定は、丸一日ペトラ遺跡の観光である。出発時間が8:15といつもより早かったので、5:50に目覚め、6:00にレストランに向かった。しかし、レストランが開くのは6:30からだったため、仕方がなく、ホテル内を散策するなどして時間を潰した。まだ夜が明けておらず、月も出ていたので、月を中心に写真を撮る。だんだん夜が明けて行くので、岩山の表情が次々に代わるのが面白い(写真左・中左・中右)。また、我々の部屋があるのはホテルの本館だが、より岩山に近い場所に別棟もあったので、そちらも訪ねて見た(写真右・下左)。6:30にレストランに入る。朝食もバイキング形式。シリアルやパン、野菜サラダやジュースなどを頂く(写真下中左・下中右・下右)。30分ほどで食事を終え、部屋で一休みする。

ところで、ペトラ遺跡観光の話に入る前に、ペトラについて簡単に触れておく。このペトラ遺跡は、1812年、英国系スイス人の探検家ジョン・ルイス・ブルクハルトによって、初めてヨーロッパに伝えられた。元々この地にはエドム人が居住していたのだが、紀元前6世紀頃からナバテア人が住むようになる。彼らはナバテア王国をつくり、アラビア付近の交易の要所として栄えた。紀元前1世紀から紀元後1世紀にかけてローマに属国化されていくと、主要な通商路が変更されるなど色々な困難に直面するが、かろうじて独立は保たれる。この頃、ローマ人の手により、凱旋門や列柱街道などローマ式の街がつくられた。エル・カズネが造られたのもこの頃である。ビザンチン時代には司教座が置かれ、教会も建てられたという。しかし、この時代に度重なる地震に襲われ、街の99%が破壊されてしまい、2度と街が再建されることは無かった。1985年に世界遺産に指定されるまでは、ナバテア人がペトラのほら穴に住んでいたが、世界遺産に指定されたのを機に、彼らは新しいペトラの街に移住させられた。ペトラ遺跡に入ると、観光客相手に馬やラクダを引いている人を見かけるが、彼らはかつてのここの住人で、唯一ここで商売することが許されているのだという。露天商人も同じだ。

ウィキペディア・フリー百科事典(ペトラ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%88%E3%83%A9
ウィキペディア・フリー百科事典(ペトラ : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Petra
ウィキペディア・フリー百科事典(ナバテア王国)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%90%E3%83%86%E3%82%A2%E4%BA%BA


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8:15、ロビーに集合し、ここから歩いてペトラ遺跡に向かう。ホテルは、遺跡の入り口まで2~300mと非常に立地が良い。2~3分で到着。数多くの土産物店が並び、観光客で賑わっている(写真左・中左)。ガイドが入場券を買いに行っている間、ビジターセンター(写真中右)でペトラ遺跡の案内書を貰う。入場料金を見ると、1日券が21JD。2日券、3日券と言うのも売られており、それぞれが26JD、31JDと表示されていた(写真右 : チケットオフィスに出来る行列)。遺跡は広いので、3日かけて見学する観光客もいるのだろう。ちなみに15歳以下は無料だ。

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入場ゲート(写真左)を通ると、観光用の馬がいる。希望者はシークまで馬に乗ることができたのだが(写真中 : ツアー料金に含まれている)、ゆっくり写真を撮りたかったので、私は歩くことにした(写真右)。

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150~200mほど歩くと、右手に3つの巨大な塔型の岩の塊が見えた。これが「ジン・ブロック」(精霊の岩 : 写真)である。この岩の塊が何であったかということについて、貯水槽であるとの説もあったが、塔の墓であることが判明した。紀元前1世紀頃に造られたもので、塔型の岩のひとつには、ピラミッド状の岩の塊が載せられている。墓の内部には埋葬室があるという。このような墓はいくつも見られ、これらは古代オリエント全域に広く普及していた塔墓と繋がりを持つようだ。その中で最も有名なのが、シリアのパルミラで見た塔墓である。

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「ジン・ブロック」の向かい側には、4本のオベリスクを持つ岩窟がある。「オベリスクの墓」だ(写真)。ペトラ独特の岩窟建造物の一つで、マリコス2世(A.D.40~71年)の時代に建てられたと言われている。岩壁を削って作られたファサードは、他の岩窟墓には見られないヘレニズムやオリエント、特にエジプト風の装飾が施されている。全体は2つの部分からなり、実はこの上の部分が「オベリスクの墓」で、下の部分は「トリクリニウムの墓」と呼ばれ、「オベリスクの墓」とは全く関係が無い。「トリクリニウムの墓」の内部には広い部屋があり、ここに岩を掘って作られた長椅子が3脚置かれ、古代ローマの食堂に大変良く似ているという。このため「三方に長椅子がある寝ころんで食べられる食卓」を意味する「トリクリニウム」という名前が付けられたとの事。

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入場ゲートから300~400mほど歩くと、シークの入り口である(写真左)。馬に乗っている人たちも、ここで降りなければならない。シークは、切り立った断崖に挟まれた細く狭い道のことである。もともとは地殻変動により出来た山の裂け目で、全長は2kmに及ぶ。ムーサ川の河床に沿っているのだが、ナバテア人はペトラの町の入り口としていつでも利用できるように、少し北にある長さ88m、高さ6mのトンネル方向に流れを変え、かつそれでも起きる突然の洪水に備え、シークの入り口に堰を設けたのである(写真中左)。我々は階段を下りて、シークに足を踏み入れた(写真中右)。最初に目についたのは、町に水を引き込むためナバテア人によって設けられた水道である(写真右・下左)。我々はさらにシークを進む。道幅は4mぐらい、断崖の高さは60~70mほどあるのだろうか(写真下中左)。不思議な空間を歩く。左手の壁には、ずっと水道の跡が続いている。入口から250~300mほどの所に、石を組み合わせて造られた壁があった。これは古代ローマ時代に造られたダムである(写真下中右)。さらに進むと、道幅は3mぐらいに狭まり、断崖は100m近くの高さになった。見上げると、青空が見える。日差しはかなり強そうだが、ここまで差し込まないので、歩いていても暑さを感じることはない。むしろ心地よい涼しさで、歩くのには丁度良い(写真下右)。

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シークの途中には、石畳で舗装された通路部分(写真左)や、大小の奉納用の壁がん(写真中左)などが見られる。シークの入り口から5~600m辺りに来ると、神殿の形が彫られた岩が置かれている場所に出た。これは「アル・ウザ女神」を表した霊石(写真中右)で、住民はペトラの町を出る時には必ず拝んで通ったという。その左手の断崖を見ると、階段と穴が見える(写真右)。神官の住まいだ。

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この先の道幅はますます狭くなり、3m程しかない。少し歩くと、壁に何かが彫られているのが見えた。シリアから来た祭司が、地元の神を祀るために彫ったものらしい(写真左)。続いて動物の足のような形のものが残されている。ラクダを引く男の像だ(写真中左)。言われて見るとそのような感じだが、ウッカリしていると見過ごしてしまいそうだ。シークはまだまだ続く。しばらくすると道幅は4~5mに広がる。見上げると、断崖の色が先程とは少し違うのに気が付いた。ピンク色が濃くなっているのだ(写真中右)。岩肌は縞模様で、一部にはカラフルなものも見られる。青・赤・黄色に緑。青はコバルト、赤は鉄、黄色は硫黄で、緑は銅との事(写真右)。

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さらに進むと、先ほども見た古代ローマ時代に造られたダムの壁である(写真右上)。ここでは、ダムから水道が引かれている様子が良く分かる(写真右中)。シークに入ってから30分も歩いたであろうか。シークの隙間から、ピンク色の岩肌を持つ建造物が見えた(写真右下)。そう、これが映画「インディー・ジョーンズ/最後の聖戦」の舞台になり、世界の人々に知られている世界遺産「エル・カズネ」(宝物殿 : 写真左)である。巨大な断崖を彫って造られたこの宝物殿、高さ約40m、幅は約28mで、全面にヘレニズム時代の影響を受けた装飾が施されている。暗いシークを抜ける直前、目の前に現れたローズ色の「エル・カズネ」を見た瞬間の感動は忘れられない。

ウィキペディア・フリー百科事典(エル・ハズネ : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Al_Khazneh
ウィキペディア・フリー百科事典(インディ・ジョーンズ/最後の聖戦)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%BA/%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E8%81%96%E6%88%A6
ウィキペディア・フリー百科事典(インディ・ジョーンズ/最後の聖戦 : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Indiana_Jones_and_the_Last_Crusade


・「地球の歩き方ヨルダン・シリア・レバノン 07~08」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド社刊]
・「芸術と歴史ペトラ(日本語版)」(Dominique Tarrier著)[BONECHI刊]
・「ペトラのすべて(日本語版)」(ムフセン・ウラマー著)[アル・ウラマー書店刊]
・「芸術と歴史の国ヨルダン(日本語版)」(Francesca Casule著)[ BONECHI刊]

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November 01, 2009

マダバの聖ジョージ教会

シリア・ヨルダンの旅(第20回)

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昼食会場であった「マダバ・イン・ホテル」から5~60mの所に、「聖ジョージ(ゲオルギウス)教会」がある。街の中心となる道路を右手に見ながら、2~3分で到着(写真)。この教会は、ギリシャ正教の教会で、6世紀、ユステイニアヌス帝の時代に建てられた。「パレスチナの絵図」のモザイク床で知られている。

ウィキペディア・フリー百科事典(マダバ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%80%E3%83%90
ウィキペディア・フリー百科事典(マダバ : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Madaba
ウィキペディア・フリー百科事典(ゲオルギウス)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%82%A6%E3%82%B9
ウィキペディア・フリー百科事典(ゲオルギウス[Saint George] : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Saint_George
ウィキペディア・フリー百科事典(ユステイニアヌス帝)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%83%8C%E3%82%B91%E4%B8%96


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教会内に入り、正面に向かって右側中央辺りに、人だかりが出来ている(写真左)。ここに「パレスチナの絵図」のモザイクがあるのだ(写真右)。朝ホテルで、また先ほど訪れたモザイク工房でレプリカを見たが、今度は本物である。縦6m、横16mの大きさがあり、8世紀の地震により一部失われているが、残存する部分だけでも自由文に楽しめる。少し詳しく見てみよう。

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モザイク画の中心に大きく描かれているのが死海で、船が浮かんでいる(写真右上)。死海から、左手に細長く続いているのがヨルダン川(写真左上)。死海に入った魚が、塩辛かったためあわてて引き返している様子が描かれているという。死海に浮かぶ船の下方に描かれているのはエルサレムの街で(写真左下)、街の中央、左から右に一直線に伸びるのが、メイン通りである列柱道路だ。この道路の左端にあるのは列柱広場で、反対側の右端はゲートである。その周囲には、住宅街や教会等が並び、城壁には17の塔が立っている。エルサレムの街の右手にはベツレヘム(写真右中)が、また左手にはパレスチナの古都エリコ(写真右下)が見える。

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モザイク床周りの混雑から抜け出し、次はイコノスタシスを見ることにした(写真左)。「ブルガリア・ルーマニアの旅」の時にお話ししたが、正教教会のイコノスタシスの中央上には、原則「最後の晩餐」の画が掲げられている。まず、この教会の「最後の晩餐」の画から見ることにした。イコノスタシスの前に行くと、お約束の通り「最後の晩餐」の画が掲げられていた(写真中左)。地域の特色が出た画が描かれていることもあるのだが、この教会のものは、非常にノーマルな感じのものであった。その後、一通り教会内部を見て廻る(写真中右・右)。小さな教会のため、30分ほどで見学を終え、教会の裏を歩いてバスに戻った(写真下左)。途中、オーソドツクススクール(写真下中左)や聖ジョージ幼稚園(写真下中右)などがある。この場所からは、昼食会場であった「マダバ・イン・ホテル」(写真下右)も見える。

ウィキペディア・フリー百科事典(正教会)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%95%99%E4%BC%9A
ウィキペディア・フリー百科事典(イコノスタシス)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%8E%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B7%E3%82%B9
平成21年6月8日当ブログ「ソフィア市街観光(その1 : アレクサンドル・ネフスキー大聖堂)」 http://coinkun.cocolog-nifty.com/coin/2009/06/1-ac3f.html


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本日の観光はこれで終了。後は「ペトラ」に向けて走るだけだ。ペトラは、マダバから南に240kmほど離れている。砂漠の中を1時間ほど走って(写真左)、「DOLMEN」という土産物店で30分ほど休憩をとり(写真中左)、ペトラ山の全景を撮るため途中で数分バスを降りたが(写真中右)、それ以外はただ走るだけ。砂砂漠、礫砂漠と、すでに見慣れた単調な景色が続くだけなのだが、それでも窓の外を眺めていると何故か楽しい。16:59、ようやく本日宿泊するホテル、「クラウン・プラザ・リゾート・ペトラ」に到着した(写真右)。

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ホテルは、砂漠と奇怪な形をした岩山(写真左)の中にあるのだが、リゾートホテルに相応しい作りになっている(写真中左)。部屋も少し広めで落ち着いた雰囲気。ワインレッドのベッドカバーが印象的である(写真中右・右・下左)。私は、部屋に入ってから直ぐに水着に着替え、ホテルのプールに向かった。外国人カップルが2組いただけで、ゆったりとくつろぐことができる雰囲気(写真下中左)。プールの水も温かく、長い間入っていても全く問題はない。久しぶりに泳ぎを楽しむことができた。しかしプールから上がると、非常に寒い。風が出てきたので、体が濡れていると、異常に寒いのだ。急いで体についた水滴を拭き取り、プールサイドのベッドに寝転んだ。まだ太陽が照りつけているので、今度は肌が焼けているのを感じる。ここから見えるぺトラの岩山の眺めもなかなか良い(写真下中右・下右)。45分ほどここで過ごし、日が沈み始めたので部屋に戻る。

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19:00から夕食だったので、入浴だけ済ませ、ホテルのレストランに向かった(写真左)。本日の夕食もバイキングスタイルである。肉、野菜に果物、それぞれ非常に種類は豊富だ(写真中左・中右・右)。いろいろなメニューを少しずつ頂いた。1時間半ほどで食事を終え、部屋に戻る。今晩は、いつも行う資料整理の前にしなければならないことがあった。それはズボンの修理である。実は、この日の午前中、ズボンのお尻の部分が裂けてしまったのである。自分には見えないのでそのままにしていたのだが、周りの人には目立つようで、「替えズボンは持ってないの?」とか「何とかならないの?」などとあまりにも頻繁に言われたので、裂け目を繕うことにしたのである。小学校の家庭科で運針の練習をして以来だったが、30分ほどで上手く縫い合わせることができた。当時、家庭科は得意だったのだ。老眼なので針に糸を通す事が少々難儀だったことと、指が太くなっていたので、縫い目が少し粗くなったこと以外は、当時と変わらない。その後1時間ほどかけて資料整理と明日観光するペトラ遺跡に関する予習をして、22:20頃ベッドに入った。

クラウン・プラザ・リゾート・ペトラ
http://wwwcrowneplaza.com

・「地球の歩き方ヨルダン・シリア・レバノン 07~08」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド社刊]
・「芸術と歴史の国ヨルダン(日本語版)」(Francesca Casule著)[ BONECHI刊]

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October 30, 2009

モーゼ終焉の地・ネボ山

シリア・ヨルダンの旅(第19回)

7日目 : 10月4日(日)

7:00起床
7:30~8:15 朝食
9:05 バス出発
9:55~10:53 ネボ山教会
10:58~11:37 モザイク工房
11:45~12:38 昼食
12:42~13:07 聖ジョージ教会
14:14~14:50 トイレ休憩
16:45~16:50 ペトラ山の写真撮影
16:59 ホテル到着
17:25 入室
17:30~18:15 プール
18:20~18:50 入浴
19:00~20:40 夕食
20:45~21:20 ズボン修理
21:20~22:15 資料整理
22:20 就寝


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本日の予定は、午前中にネボ山の教会を訪れ、午後から聖ジョージ教会を訪ねる。その後、宿泊するペトラに向かうというもの。7:00に目覚め、7:30からホテルのレストランで朝食を頂く(写真左・中左)。食後ホテルの前で、写真撮影をする。昨日はホテル全体を見ていなかったので分からなかったのだが、結構大きなホテルだったのだ(写真中右)。部屋に戻る途中、ロビーの壁に、本日の午後訪ねる「聖ジョージ教会」で見られるモザイクの古地図のレプリカが展示されていることに気がついた(写真右)。解説文も掲示されていたので、午後からの訪問に備え、ここで事前学習をすることができた。

9:05、バスで本日最初の観光地である「ネボ山」に向かう。今日から新しいバスだ。昨日まで載せて頂いたシリアのバスから、ヨルダンのバスに代わる。運転手はテシールさん。ガイドは昨日と同じくモハメッドさんで、これから最終日まで彼らのお世話になる。アンマンの南約30kmの所にマダバという町がある。午後から観光に行く予定の場所だ。このマダバの西約10kmに位置するのが「ネボ山」である。標高800mのこの山からは、ヨルダン渓谷一帯から遠く死海まで見渡す事ができる。旧約聖書に出てくる唯一絶対神ヤハウェが、死を目前にしたモーゼに、このネボ山に登ってユダヤ人の「約束の地」を一目見るように語りかけられたことで知られている。モーゼは、死後この地に埋葬されたとされている。ちなみにイスラエルの民は、その後モーゼの後継者であるヨシュアに連れられ、幾度かの戦いの末、カナンの地を征服したのである。

ウィキペディア・フリー百科事典(ネボ山 : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Mount_Nebo_(Jordan)
ウィキペディア・フリー百科事典(モーセ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BB
ウィキペディア・フリー百科事典(ヤハウェ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%A7
ウィキペディア・フリー百科事典(ヨシュア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%A2


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9:55、ネボ山に到着。オリーブ畑を横に見ながら、教会の建つエリアのゲートの前に出る(写真左)。ここに掲げられていた解説文を読むと、現在修復中のため、教会並びに付属建物はクローズされているとの事(写真中左)。しかし、モザイク等は別棟で見ることができるのでひと安心。ゲートを通り中には入る。7~80m歩くと、モニュメントが見えた。2000年に、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世がこの地を訪れた時の記念モニュメントだ(写真中右)。右手の広場には丸い石が置かれていた。モーゼの記念碑である(写真右)。かつてはビザンチン教会の扉として使われていたという。

ウィキペディア・フリー百科事典(ヨハネ・パウロ2世(ローマ教皇))
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AD2%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)
ウィキペディア・フリー百科事典(ローマ教皇の一覧)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7


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正面に進むと、布で覆われたテント小屋のような簡易建物が現れた。ここでモザイクの展示がなされているのだ。中に入ると、大きなモザイクが2枚、床に置かれていた(写真左・中左)。教会で見つけられたもので、田園での生活風景や、狩猟の様子が描かれている。うち一枚のモザイクを見ると、動物や人物がアカンサスのデザインに囲まれている(写真中右)。コリント式の柱などに見られるアカンサスだが、モザイクに描かれているのは珍しい。ここでガイドからクイズが出された。「日本でも、普段使うものの中にアカンサスがデザインされています。何に描かれているのでしょうか?」と。誰も答えられなかったのだが、答えは「一万円札」である(写真右)。早速実物を出してみると、お札の上部に使われているではないか。答えられなかった貨幣コレクターの私は失格? 

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テント小屋の隣には、ネボ山に関する資料館がある(写真)。ネボ山の歴史や、このエリアで発掘されたモザイクなどの品々が展示されていた。またネボ山の遺跡だけでなく、取り巻く環境そのものを保護するに至った経緯なども説明されている。

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この後、ヨルダン渓谷が一望できる展望台に移動した。資料館の南側の通路を10mほど進み、右手に遺跡を見ながら更に4~5m歩くと展望台だ(写真)。モーゼも、ここからカナンの地を眺めていたのだろうか。雲一つない青空だったのでカナンの地が見えるのではないかと期待していたのだが、少々霞んでいたため、おおよその見当をつけるにとどまったのは残念であった。

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展望台の北東方向を見ると、不思議な形をしたタワーが立っている。「青銅の蛇のモニュメント」(写真)だ。平成21年9月19日付当ブログ「シリア・ヨルダンの旅(準備編その7)」でお話ししたように、これは「エジプトを離れたイスラエル人の一行が葦の海の途中までやってきたときに、苦しみに耐えかねて不平を言った。そこで神は炎の蛇を送ったので、かまれた人々の中から死者が出た。民がモーセに許しを願うと、モーセは神の言葉に従って青銅で蛇を作り旗竿の先に掲げた。この蛇を見たものは炎の蛇にかまれても命を永らえた」という『民数記』に由来するものである。

ウィキペディア・フリー百科事典(青銅の蛇)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E9%8A%85%E3%81%AE%E8%9B%87
平成21年9月19日付当ブログ「シリア・ヨルダンの旅(準備編その7)」
http://coinkun.cocolog-nifty.com/coin/2009/09/7-4955.html


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10:55、約1時間の見学を終え、我々はバスで次の目的地である「モザイク工房」に向かった。修復中のため、教会を見ることができなかったのは残念だったが、貴重なモザイクを鑑賞出来たことは十分な成果である。次に訪ねるのは、このモザイクを制作・販売しているところだ。モザイクに関しては4大モザイクセンターと呼ばれるところがあり、これから行くマダバもその一つらしい。ちなみに残りの3つは、イタリア・ローマ、ギリシャ・アディス、チュニジア・チュニスとの事。「モザイク工房」には、5~6分で到着した(写真左・中)。工房の外壁に、午後から訪ねる「聖ジョージ教会」にあるモザイクの古地図のレプリカが飾られていたので、ここでガイドによる解説が始まった(写真右)。現地、教会の中での説明が禁止されているためだ。今朝、私がホテルで見たものと同じなので、2度目の予習になる。詳しくは、「聖ジョージ教会」の所でお話しする。

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ガイドの説明を終え、工房に入ると、数名の職人が作業をしている(写真)。職人の中には女性もいた。写真撮影の許可を得ることができたので、初めて現地の女性の姿を写す事ができた。モザイク制作の様子を見ると、適当な大きさに切った石辺を、下絵の上に貼り付けていくのである。「やっとこ」のような道具で石辺を切る作業を体験させてもらったのだが、予想外に固いものだったので、思っていたよりも力が必要であった。デザインは職人さん各自のオリジナルとの事。細かい作業を黙々と続けなければならない。数百ピースのパズルでも我慢できない私には、とてもこのような仕事はできない。大きなものとなれば、何十万、何百万ピースのものもあるであろう。ちなみに、先ほど見た「聖ジョージ教会」にあるモザイクの古地図は、200万ピース以上ではないかと言われている。

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工房での制作過程を見た後は、併設されているショップに入った。ここではモザイクだけでなく、寄木細工の製品や壺などのやきもの、宝飾品なども売られている(写真)。モザイクとは全く関係ないが、私はここで「WHAT DO YOU KNOW ABOUT ISLAM?」という書籍を購入した。今回の旅で、カタール、シリア、ヨルダンと廻り、またかつてエジプト、トルコ、チュニジア、インドネシアなどのイスラム教の国を旅した中で、イスラム教の国と言ってもそれぞれかなり違いが見られるため、その共通となるところが知りたかったからである。その他に、2~3年前ぐらいから日本においても知られてきたがイスラム金融、特に利息についての考え方や、非イスラムの外国人女性労働者への制約などについて書かれている項目も面白そうだったからだ。

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約40分、モザイク工房の見学とショップでの買い物を済ませ、次は昼食である。会場はマダバの街の中心に建つ、「マダバ・イン・ホテル」のレストランだ(写真左・中左)。10分ほどで到着した。50mほど歩くと、午後から見学予定の「聖ジョージ教会」がある。レストランは、ビジネスホテルか一時代前の旅館のレストランと言ったイメージか(写真中右)。メニューはバイキング。牛肉や羊肉煮込み、野菜サラダ、パスタにポテトなど色々な品が用意されており、美味しく頂く(写真右・下段)。50分ほどで食事を終え、次の観光地である「聖ジョージ教会」まで歩いて移動した。

Madaba Inn Hotel
http://www.booking.com/hotel/jo/madaba-inn.html?aid=312692&tab=2&label=tripadimg-jo-71856&lang=ja


(参考文献)
・「地球の歩き方ヨルダン・シリア・レバノン 07~08」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド社刊]
・「芸術と歴史の国ヨルダン(日本語版)」(Francesca Casule著)[ BONECHI刊]
・「MOUNT NEBO」(Michele Piccirillo著)[Custodia Terra Santa刊]
・「地図とあらすじで読む聖書」(船本弘毅監修)[青春出版社刊]
・「よくわかるキリスト教」(土井かおる監修)[PHP研究所刊]

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October 29, 2009

ジェラシュ遺跡観光

シリア・ヨルダンの旅(第18回)

観光についてお話しする前に、ヨルダン(正式名称 : ヨルダン=ハシミテ王国)について簡単に触れておく。
1. 国土面積 : 92,300K㎡
2. 人口 : 約588万人(2009年)
3. 人口構成 : ほとんどがアラブ人で、僅かにアルメニア人がいる程度
4. 宗教 : イスラム教スンニ派(90%)、キリスト教(10%)
5. 言語 : アラビア語
6. 首長 : アブドッラー2世・イブン・アル・フセイン
7. 通貨単位 : ヨルダンディナール(JD)=1,000フィルス(Fils)
8. 歴史 : シリア同様、この地域は世界的に歴史の古い土地であり、古代オリエント時代においてもメソポタミア、アッシリア、バビロニア、さらにギリシア・ローマ、ビザンチン帝国と支配者がめまぐるしく変わり、今のようにイスラム世界に入ってからも、ウマイヤ朝、アッバース朝、セルジューク朝、などの各王朝からモンゴル人のイル汗国、オスマン帝国と支配者は変わった(ウィキペディア・フリー百科事典(シリアの歴史)より)。第一次世界大戦中の1916年、英仏の間で結ばれたサイクス・ピコ協定により、イギリスの委託統治領となる。1946年、トランス・ヨルダン王国としてイギリスより独立。1950年、ヨルダン=ハシミテ王国に改称。
9. 経済 : ヨルダン経済を支えているのはリン鉱石と天然ガスで、リン鉱石は256万トン、天然ガスは9.6千兆ジュールを産出している。現在政府は、リン鉱石やカリ鉱石の輸出あるいは海外からの送金や外国からの支援に頼らない産業、例えばITや観光産業を奨励している。
10. GNI : 約195.3億米ドル(2008年)
11. 一人当たりGDP : 3,310米ドル(2008年)

ウィキペディア・フリー百科事典(ヨルダン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%B3
ウィキペディア・フリー百科事典(ヨルダン : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Jordan
ウィキペディア・フリー百科事典(ヨルダンの歴史)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
ウィキペディア・フリー百科事典(ヨルダンの歴史 : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Jordan
地球の歩き方(ヨルダン)
http://www.arukikata.co.jp/country/meast/JO_general_1.html
外務省(ヨルダン・ハシェミット王国)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/jordan/index.html


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国境で1時間半ほどかかったため、既に13:30を過ぎていた。我々はバスで「ジェラシュ」に向け出発。所々に砂漠らしき雰囲気の場所も見られたが、概ね緑の多い中を南に走る。午後から行くジェラシュの遺跡の前を通り過ぎ(写真左)、14:18、昼食会場であるレストラン「グリーン・ヴァレー」に到着した(写真右)。

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入口を入ると正面に釜戸があり、4人の職人が「ナン」を焼いていた。我々が到着すると、パフォーマンスが始まった。生地を片手でクルクルと回し、釜戸の中に入れる。ナンが膨らみ、焦げ目が付くと出来上がりだ(写真)。ふっくらしたナンを皿に盛って手渡してくれる。このナンは、こちらの人々にとって、我々のお米のような存在だ。おかずを挟んだり、スープに漬けたりと、色々な食べ方があるようだ。

ウィキペディア・フリー百科事典(ナン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%B3


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レストランの会場は、鉄パイプで作られた屋根の骨組の上に、すだれをかけただのシンプルな構造で、少々暗い感じだ(写真左)。しかし、色々な国の観光客で賑わっており、通路も人で一杯である。席についてしばらくすると、ナンをはじめ、ひよこ豆を潰して作ったペーストをベースにした前菜などが運ばれてきた。これらの料理は、シリアで頂いたのと同じである(写真中左)。メインはミツクスグリルだ。羊や鶏肉である(写真中右・右)。約一時間、楽しくお話をしながらの食事を終え、ヨルダン最初の観光地である「ジェラシュ」の遺跡に向かった。

ウィキペディア・フリー百科事典(ヒヨコマメ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A8%E3%82%B3%E3%83%9E%E3%83%A1


ジェラシュの遺跡へは、バスでわずか4~5分。早速、観光開始だ。その前にジェラシュについて簡単に見ておこう。ヨルダンの首都アンマンから北へ約50Kmに位置する。紀元後106年に、トラヤヌス帝がヨルダン一帯を制圧し、ジェラシュはアラブ世界におけるローマの属州の一つになった。以後、農工業が栄え、交易でも潤ったことから、ジェラシュは富を蓄積し、約200年に及ぶ黄金期を経験した。その後海上輸送の発達やパルミラの滅亡などにより徐々に衰退するが、なおも繁栄は続いた。しかし7世紀になるとイスラムに征服され、8世紀の大地震によりジェラシュの町は崩壊するが、再建はされなかった。19世紀後半以降は移民や難民が入植し始め、新しいジェラシュの街が遺跡の東隣に作られ、1920年代からは遺跡の発掘が始まり、現在に至っている。20世紀後半には、パレスチナ難民を合わせてのジェラシュの人口は拡大した。パレスチナ難民の流入が多かったのは、1948年~1985年までヨルダン・パレスチナ連合としてハスポートも発行していたからとの事。

ウィキペディア・フリー百科事典(ジェラシュ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%A5
ウィキペディア・フリー百科事典(ジェラシュ : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Jerash
ウィキペディア・フリー百科事典(デカポリス : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Decapolis
ウィキペディア・フリー百科事典(ガイウス・プリニウス・セクンドドゥス)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%82%AF%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%82%B9


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バスを降りて最初に通るのが、遺跡の南端に位置する「凱旋門」だ(写真左)。この門は、紀元後129年に皇帝ハドリアヌスがこの地を訪れた記念に建てられたもの。約6カ月間の滞在であったようだ。3つの入り口があるが、中央はVIP用で、両脇に設けられている小さな入口は庶民が使用したという。材質は石灰石。アカンサスの模様が施されたコリント様式の柱だが、柱の上下にデザインされているのは珍しいと言えよう(写真中左・中右・右)。

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門をくぐり5~6m程に進むと、左手にはヒポドローム(競馬場・戦車競技場)がある(写真左・中)。紀元後2世紀に造られたもので、長さ250m、幅は51mある。道路を挟んだ向かい側には、5世紀頃に建てられた「マリアノス教会」の跡地があり、ここでは床に残されたモザイクを見ることができる(写真右)。

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我々は、さらに北に向って一直線の道を歩く(写真左)。右手には東の町が見える(写真中)。かつては黄金川が流れており、その対岸には西の町があったそうだ。3~400mほど進むと、「南の門」に到着した(写真右)。ここが遺跡の入り口になっており、入場券を購入して中に入る。この遺跡に巡らされていた城壁の長さは3,456mあり、城壁で囲まれた面積は8.47K㎡、人口は約10,000人であった。また城壁には、この南門を含めて6つの門があったとの事。

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南門から50mほど北に、「フォーラム」がある。オヴァル広場とも呼ばれているように、楕円形の変わった形をした広場だ。広場を囲む列柱は保存状態が非常によく、三層の横石を載せたイオニア式の円柱が56本残っている(写真)。

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「フォーラム」から、遺跡のメイン通りであるカルド・マキムス(幹線道路)が北に延びているのだが、我々は西側にある「南劇場」に向かった。階段となだらかな坂道を上る。左手には「ゼウス神殿」が見える(写真左)。もとはヘレニズム時代に建てられものだが、現在残されているのは2世紀に造られたものだという。南劇場は、神殿のすぐ南隣りにある。この劇場が「南」劇場と呼ばれているのは、町の北側に、これよりも小さな規模の劇場があるため。アーチ状のゲートから入り(写真中左)、通路を進むと、目の前に劇場の観客席が現れた(写真中右)。観客席は二層32段からなり、3,000人を収容することができる(写真右)。1953年に修復されており、現在もコンサート等で使用されているとの事。舞台の1F部分の壁には、列柱、壁がん、門などが、ほぼ完全な姿で残されている(写真下段)。

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「南劇場」の次は、「アルテミス神殿」に向かう。先ほど見た「フォーラム」を、高い位置から眺めると、楕円形であることが良く分かる(写真左)。振り返ると、「南劇場」と「ゼウス神殿」が見える(写真中左)。しばらくすると、東の方でカルド・マキムス(幹線道路)と交差する「デキマヌスの道」に出た(写真中右)。列柱が並ぶ比較的細い道だが、カルド・マキムスとの交差点には「四面門」がある。その先には「オスマン時代の住居跡」だ(写真右)。「大聖堂」(写真下左)と「聖セオドア教会」(写真下中左)の前を通り50mほど歩くと、「アルテミス神殿」の礼拝堂である(写真下中右・右)。

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アルテミス神殿は、町の守護神である女神アルテミスに捧げられた神殿。階段を昇り礼拝堂に入る(写真左)。かつて礼拝堂内部には大理石が貼られていたようだが、現在はすべて剥落していた。境内には、高さ13.25mあるコリント式の円柱が121本あったという(写真中左・中右)。柱の中心には鉛製の芯が入っている。これらの柱は、いつも風で揺れているとの事。目では確認できないため、ガイドは境内にある円柱と台の隙間にスプーンを指し込み、実際に揺れているところを見せてくれた(写真右)。礼拝堂を出て、我々は東側に進む。その先には階段があり、下の方に門が見える(写真下左)。これは「アルテミス神殿」の入り口なのだ。メイン通りであるカルド・マキムスから来ると、「アルテミス神殿」にはここから入るのである(写真下右)。我々は逆コースを歩んでいたことになる。この場所からもう一度神殿全体について振り返ると、入口から神殿玄関まで二段の大階段が続き、そこから建て61m、横120mの長方形のテメノス(聖域)に入る。礼拝堂はその先の、一段高くなった壇の上にある。メイン通りから来ると、このようになる。ちなみにアルテミス神殿は、数回に分けて建設されたが、主要部分は紀元後2世紀頃に完成したようだ。

ウィキペディア・フリー百科事典(アルテミス)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%86%E3%83%9F%E3%82%B9


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メイン通りであるカルド・マキムスに出た我々は、通りを南に向かった。4~50mほど歩くと、「ニンファエウム」があった(写真左・右上)。「ニンファエウム」については、パルミラやボスラにもあったが、ほとんど形を成していなかった。しかし、この「ニンファエウム」は素晴らしい。紀元後191年に建てられたもので、保存状態は非常に良い。壁がんが二層に重なっている凹状の壁は、かつては半円蓋の天井に覆われていた。現在は剥落して見られないが、当時は壁に大理石が貼られ、モザイクで飾られていたようだ。ニンファエウムの中央前に置かれている水盤は、ビザンチン時代に付け加えられたものだという(右中)。水は、ライオンの頭の像から注がれていたようだ(右下)。

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ニンファエウムを離れ、我々は再びメイン通りであるカルド・マキムスを南に進んだ。この通り、両脇に合わせて240本の柱が並んでいる(写真左・中左)。しかし、かつては580本あったと言うから、現在は半分しか残っていないのだ。道の長さは約800m、道幅は8mで、道路の下には深さ1.5m、幅1mの下水が整備されているとの事。路面を見ると、マンホールの蓋があった。イルカと魚のデザインが施されており、可愛らしい(写真中右)。また、かつて数多くの馬車が行きかったのであろう。深い車輪の跡が残されていた(写真右)。

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ニンファエウムから50mほど南に、先ほど見た「四面門」に通じる交差点に出た(写真左・中左・中右 : 四面門の写真はウィキペディア・フリー百科事典(ジェラシュ)より)。かつてはここに四つの大きな門があったと言う。パルミラでも「四面門」を見たが、イメージは違うようだ。一直線の石畳の道をさらに200~300m南へ歩くと、楕円形のフォーラムに戻って来た(写真右)。

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フォーラムから南門を通り、凱旋門の前に停まっているバスまで戻る(写真左・中左)。まだ5~600mはある。日差しが強い中歩き続けたからであろうか。また午前中に歩いた疲れも重なっているのだろうか。よくしゃべるツアーメンバーの皆さんも、会話が途切れていた。16:55、ようやくバスに到着。1時間半超の遺跡観光を終え、我々は本日宿泊するアンマンのホテルに向け出発した。30分ほどで街中に出た。シリアと異なり、マクドナルドやバーガーキングなどのお店が数多く並んでいた(写真中右)。17:50、「ル・メリディアン・アンマン」に到着である(写真右)。

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ホテルは欧米の一流ホテルと変わらず、豪華な感じである。部屋も広々としている中、落ち着いた雰囲気をも持ち合わせている上、設備も整っている(写真上段)。添乗員の話によると、ヨルダンはシリアのように石油資源を持たないため、早くから観光を重視し、外資も受け入れてきたので、それなりに充実しているのではないかとの事であった。夕食は19:30から。1時間ほどあったので、入浴と資料整理を済ませ、ホテルのレストランに向かった。このホテルもバイキング形式だったので、好きなものを選んで頂くことができた(写真下段)。よく歩いてお腹が減っていたので、欲張って色々なものを頂戴した。中でもデザートのケーキとアイスクリームは、非常に美味しかったことを思い出す。

1時間15分ほどで食事を終え、国境の両替所で入手できなかったヨルダンの紙幣とコインを手に入れるため、ホテルのフロントで両替を行った。当初コインは置いていないとの事だったが、コレクションしていることを話すと、ホテルのスタッフの方に問い合わせてくれ、私の欲しかったコインを揃えてくれた。親切なホテルの皆さんに感謝である。21:00頃部屋に戻り、再び資料整理と明日の準備を済ませ、22:20頃にベッドに入った。

ル・メリディアン・アンマン・ホテル
http://www.lemeridien-amman.com


・「地球の歩き方ヨルダン・シリア・レバノン 07~08」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド社刊]
・「芸術と歴史の国ヨルダン(日本語版)」(Francesca Casule著)[ BONECHI刊]
・「JERASH(英語版)」(Stefania Belloni著)[Plurigraf刊]

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October 28, 2009

世界遺産・ボスラ遺跡観光

シリア・ヨルダンの旅(第17回)

6日目 : 10月3日(土)

6:30 起床
6:50~7:30 朝食
8:00 バスで出発
10:00~10:30 ボスラ遺跡観光
10:33~11:00 シタデル&ローマ劇場観光
11:13 バス出発
11:55 シリア国境検問所
11:55~12:25 出国手続き
12:40 ヨルダン国境検問所
12:40~13:32 入国手続き
14:18~15:08 レストラン「グリーンバレー」で昼食
15:13~16:55 ジェラツシュ観光
17:50 アンマンのホテル「ル・メリディアン・アンマン」に到着
18:20 入室、入浴、資料整理
19:30~20:45 夕食
20:45~20:55 ホテルのフロントで外貨両替
21:00 就寝


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本日の予定は、午前中、世界遺産であるボスラ遺跡を見学し、その後国境を越えヨルダンヘ。ジェラシュ遺跡観光後、宿泊するアンマンのホテルに向かうというもの。6:30に目覚め、6:50から朝食。豆のスープにトマト、シリアルを頂く(写真左)。8:00にバスで出発。8:17、食品店が見える。路上にパンを並べて売っているところが面白い(写真中左)。しばらくすると、砂漠の中の道路を走る(写真中右)。8:34、右手に私立大学がある(写真右)。ガイドによると、シリアでは6歳~15歳までが義務教育で、その後高校は3年、大学は4年との事。国立大学は3つ、私立大学は7つあるという。19歳から21カ月間徴兵されるが、大学生は5か月間の免除があるようだ。イスラム法を学ぶ場合は、別の進学ルートがあるとの事。9:00、右手にブドウ畑が見える(写真下左)。9:34、ボスラ遺跡の西側にある「風の門」の前を通り(写真下中左)、南側の城壁沿いに走る(写真下中右)。9:50頃、ボスラ遺跡に到着(写真下右)。シタデル(城塞)の東向にあるレストハウスでトイレを済ませ、10:00、いよいよ遺跡見学の始まりである。

ボスラの町は、巨大なローマ劇場がほぼ完全な姿で残っていることで知られている。中世の時代に、外壁で取り囲まれて要塞化された後、砂に埋もれて破壊を免れたからだという。紀元前2世紀に入ってナバテヤ王国の支配下で隆盛期を迎え、紀元前106年トライアヌス帝の支配下でローマ帝国アラビア属州の州都に選ばれ、デカポリスの一員としてますます繁栄した。大都市として街の規格が整備され、壮麗で堂々とした建物で豪華に飾られていったとの事。

(※)「デカポリス」とは、十大都市のこと。「デカ」=「10」、「ポリス」=「都市」を意味し、古代ローマの博物学者であり政治家、軍人でもあるガイウス・プリニエス・セクンドゥスによると、ダマスカス、フィラデルフィア(現アンマン)、ラファナ、スキュトポリス(ベトシャン)、ガダラ、ヒッポス、ディウム(デイオン)、ベラ、ゲラサ(ジェラシュ)、カナタの十都市を指す。現地ガイドの話では、時代によって入れ替わったので、デカポリスと言われている町は10以上あるとの事。

ウィキペディア・フリー百科事典(ボスラ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%82%B9%E3%83%A9
ウィキペディア・フリー百科事典(ボスラ : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Bosra
ウィキペディア・フリー百科事典(ナバテア王国)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%90%E3%83%86%E3%82%A2%E7%8E%8B%E5%9B%BD
ウィキペディア・フリー百科事典(デカポリス : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Decapolis
ウィキペディア・フリー百科事典(ガイウス・プリニウス・セクンドゥス)
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我々はシタデルの前の広場から北東方向に進み、トライアヌス帝の宮殿跡に向かった。カラフルなデザインの陶器や布地を並べるみやげ物店の前を通り、100mほど進むと、瓦礫の山が見える場所に出た。この右手に見える、崩れかけたような壁が宮殿である(写真左)。建物は幅55m、奥行き33mの長方形で2階建。中庭があり、それを囲む2階部分には回廊が設けられているという。残念ながら、我々は内部を見ることはできない。解説文と一緒に掲げられていた立体図から想像するしかない(写真中左)。宮殿跡から50mほど北に歩くと、「ナバテア人の門」があった(写真中右・右)。この門はローマの影響を受けていない、アラブ地方独特の建築方法を取っている代表的な構造物で、パルミラ遺跡でも見ることはできない。サウジの西方から移住してきたナバテア人によって造られたことから、ナバテア人の門と呼ばれている。ボスラ遺跡を東西に走るメイン道路の東側に位置し、ナバテア王ラベル二世のレジデンスの入口であったとの事。

ウィキペディア・フリー百科事典(トラヤヌス)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%A4%E3%83%8C%E3%82%B9


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ナバテア人の門からメイン道路を西に200~250mほど歩くと、右手に「カリベ」、左手に「ローマ風呂」が見えてきた。「カリベ」は、一方が円柱、もう一方が家から伸びる壁という不思議な形をしている部分だ(写真左)。考古学者たちによってねこのタイプのものは「カリベ」と名付けられたのである。この「カリベ」は、今日「王様の娘のゆりかご」として知られており、王の娘を死から守るために建てられたと言われている。壁や柱を飾る彫刻は、繊細かつ優美である。カリベの西側には、列柱の並ぶ一直線の道路が北に伸びる(写真中左)。この道の左手にはアゴラ(マーケット)の跡が、その先には「オマルモスク」が見える。この道路を挟んで「カリベ」の向かい側には、「ニンファエウム」がある(写真中右)。平成21年9月14日付当ブログ「シリア・ヨルダンの旅(準備編その4)」でお話しした通り、「ニンファエウム」は、半神半人の妖精「ニンフ(ニュンペー)」に捧げられた構造物のことだが、ボスラのニンファエウムは一辺1.2mの八角形で、現在は残っていないが、噴水部分は14mあったという。道路の両脇に建つ列柱を見ると、やや黒っぽい。これは、この辺りが火山に近く、凝灰岩が使われたためだ。アゴラ側には数本の白い柱が見えるが(写真右)、これらは本日の午後訪ねる予定のジェラシュ(ヨルダン)から運ばれたものだという。ちなみに、凝灰岩の柱の上に大理石を貼って使っていたので、当時はすべてが白い柱であったとの事。

平成21年9月14日付当ブログ「シリア・ヨルダンの旅(準備編その4)」
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ウィキペディア・フリー百科事典(ニュンペー)
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ウィキペディア・フリー百科事典(ニュンペー: 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Nymph


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次に訪れたのは、「ローマ風呂」である。全体が凸型をしており、石灰岩で造られている。3室に分かれ、手前から冷温室(写真左)、常温室(写真中左)、高温室(写真中右)になっており、熱配分を効率よくするため、カマドは高温室側に設けられている。天井部分が円形になっているのは、滴が落ちにくいようにするためとの事(写真右)。これら以外にも、ドレスルームなどの部屋が併設されていたという。またこのローマ風呂も、他の地域のローマ風呂と同じで、社交の場となっていたようだ。

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先ほどの東西を走る道路に戻り、さらに西に70~80mほど進むと、「キャンドル門」だ(写真左)。夜になると明かりが灯された門で、紀元後3世紀の初めに建てられたもの。こちらの門にはローマ時代の影響が多く見られる。かつて「持ち送り」の上には、フィリップ・アラブの像が立っていたという(写真中左)。アーチは3つあり、中央のアーチは両脇のアーチの倍の高さ、13mある(写真中右)。ここから東西に続く道を西に4~500m進むと、遺跡の西の端、バスの中から見た「風の門」に行けるのだが、残念ながら時間の都合上、我々はシタデル・ローマ劇場に向かった(写真右 : シタデルに向かう途中、振り返って撮影したキャンドル門)。

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シタデルの北側を通り、東側にある入口に向かう。シタデルの周囲には堀が巡らされている(写真右上)。広場から入口に向けて架けられている石橋を渡る(写真右中)。当時は石橋ではなく、跳ね橋であった所だ。中に入り、階段を上って暗い通路を抜けると(写真右下)、目の前に劇場が現れた(写真左)。劇場の観客席は直径約100mで、37段ある。下から14段、18段、5段の3つの部分に分かれており(写真下左)、15,000人を収容できる。ヨルダンのジェラシュの劇場の5倍、アンマンの劇場の3倍の大きさがあることから、古代ローマ時代におけるボスラの重要度がわかるという。この劇場、1960年代に修復されて以降、毎夏に様々な行事が行われているとの事。観客席の最上段からは、ボスラの町を眺めることができる(写真下右)。

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ところでこのローマ劇場、シタデルの頑丈な外壁に囲まれたおかげで、2世紀に建設されたのだが、ほとんど無傷で残っているのだ。舞台の壁は幅45mあり、とても奥が深く、起伏のある装飾が施されている。舞台の柱を見ると、イオニア式とコリント式の折衷様式が並ぶ(写真左・中左・中右)。ちなみに観客席最上部の後ろに並ぶ柱はドーリア方式である(写真右)。

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約1時間で、我々はボスラの遺跡とシタデルの見学を終えた。これでシリア観光は終了。ここでシリアのガイド、ワリードさんとはお別れ。11:13、バスは、ヨルダンに向けて走り出した。国境を越え、ヨルダンのホテルまではこのバスで運んでくれるのだ。10分ほど走ると、ヨルダンまで32kmの表示が見える。右手にオリーブやぶどう畑を見ながら、一直線の道路を走る(写真左)。11:49、国境近くの街、「ダラー」に入る。モニュメントが立ち(写真中左)、お店が並ぶ。道路は車で混雑しており、町は非常に賑わっている(写真中右)。11:55、いよいよ国境地帯だ。周囲にはアサド大統領の肖像が描かれた看板がいくつも掲げられていた。検問所でパスポートチェックを受ける。バスの中で全員のパスポートが集められ、事務所で出国の印が押された後、まとめて添乗員の手にパスポートが返された。この時、あわせて一人12ドルを支払わなければならない。出国税である。出国手続きだけなのだが、約30分かかった。バスはヨルダンの検問所に向けて走り出す。シリアとヨルダンの検問所の間の道路には、厚い壁が設けられている(写真右)。12:40、1~2分でヨルダン側の検問所に到着。ここでもバスのなかでパスポートを渡す。そして次は荷物検査だ。空港と同じく、X線によるチェックを受ける。我々は旅行客だったので比較的簡単に済んだが、シリア側から個人出来ている車は、荷物の細かいチェックを受けていた。密輸を防ぐためだろうが、大行列が出来ていた。パスポートを返してもらうまでの間、我々は国境にある両替所で外貨両替を行う。ここで各種紙幣とコインをそろえようと思ったのだが、限られた種類の紙幣しか置いていないとの事。20JD(ヨルダンドル)と10JDの2種類だけ入手した。ちなみに当日の交換レートは、100円=0.065JD、1$=0.700JD、1€=0.970JD、1SP(シリアポンド)=0.014JDであった。

約50分、ようやく入国手続きが終了し、昼食会場であるレストランに向かった。ここからのガイドはヨルダン人のモハメッドさんである。彼は我々を国境まで迎えにてくれていたのだ。彼は日本語を話すガイドで、JICAのプログラムで日本語を習ったとの事。その後、日本で3か月暮らした経験を持つという。大阪で1か月、東京で20日間、その他京都、奈良、千葉などにも行ったらしい。熱海にも行ったが、温泉には入らなかったと言っていた。湯船に浸かるのは、苦手なようだ。

(参考文献)
・「地球の歩き方ヨルダン・シリア・レバノン 07~08」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド社刊]
・「芸術と歴史の国シリア」(Patrizia Fabbri編)[BONECHI刊
・「The Ancient Monuments in Bosra」(Dured Mekded著)[Sindbad刊]

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October 26, 2009

クラック・デ・シュヴァリエ

シリア・ヨルダンの旅(第16回)

5日目 : 10月2日(金)

6:00 起床
6:45~7:30 朝食
7:50 チェックアウト、バス乗車
8:00 バス出発
9:20~9:42 ホムスの町の手前でトイレ休憩
10:45~10:48 クラック・デ・シュヴァリエの写真撮影
10:50~12:13 クラック・デ・シュヴァリエ見学
12:17~13:25 レストラン・パノラマで昼食
14:45~15:12 カーラの町のレストラン「アルマラ」でトイレ休憩
16:30 ダマスカスのホテル、エブラ・シヤム・パレスに到着
16:50 入室、入浴、資料整理
19:00~20:15 夕食
20:45 就寝


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本日は、「クラック・デ・シュヴァリエ」の観光後、ダマスカスに戻る予定だ。6:00に目覚め、6:45頃、朝食のためホテルのレストランへ。シリアルやフルーツなど、昨日とほぼ同じものを頂く(写真左・中左)。食後、部屋で身支度を済ませ、8:00にバスで出発した。墓の谷を抜け、西に向かう。8:07、イラクとダマスカスの分岐点の表示あり。8:17、ラクダが列をなして砂漠を移動しているのが見えた(写真中右)。8:27、遠くに天然ガスのプラントがある。大きな鉱脈が発見されたことから、カナダと共同で開発が行われているという。9:07、試験農場らしきものが見える。この地に適した作物を捜すため、実験的に栽培しているようだ。この辺りから緑が増え始める。オアシス地帯に入ったのであろう。9:20、ホムスの町の手前にあるショップでトイレ休憩を取る(写真右)。店の周りには、アーモンドやオリーブの木が栽培されていた。

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9:42、我々は休憩を終え、再びバスで走り出した。シリアの3大都市のひとつである、ホムスの街を通り抜ける。10:05、石油コンビナートが見える。しばらくすると、道路の両側に緑の木々が続く。ユーカリの木だ。ちなみに、コアラはいない。コアラが食用にするユーカリとは種類が異なるとの事。10:20、右手に見える山の頂に、「クラック・デ・シュヴァリエ」が小さく見える。10:30、くねくねと曲がり続ける山道を昇る。10:45、「クラック・デ・シュヴァリエ」の全景が見える場所でバスを降り、5分ほど写真撮影する(写真)。「クラック・デ・シュヴァリエ」は、海抜650mに建つ。ちなみにパルミラは海抜400m、アラブ城は海抜600mなので、それほど高さは異ならない。急な坂道を上って来たのは、パルミラからホムスまでが、なだらかに下っているからだ。10:50、「クラック・デ・シユヴァリエ」に到着した。

「クラック・デ・シュヴァリエ」は、11世紀よりも前にアラブ人が建てた城で、クルド人傭兵隊が駐屯したことから、当時は「ヒシュ・アル・アクラツド」(クルド人要塞)と呼ばれていた。1144年に移り住んだ聖ヨハネ騎士団がこの城を要塞化したのである。当時最新の軍事技術を駆使し、包囲戦に備えた防衛設備が充実されていったとの事。この聖ヨハネ騎士団が支配した時代に、「クラック・デ・シユヴァリエ」(騎士の砦)と呼ばれるようになったのである。その後、1271年にマムルーク朝の手に落ち、モスクなどが付け加えられ、イスラム調に改装された。

ウィキペディア・フリー百科事典(クラック・デ・シュバリェ)
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バスを降り、入場門に続く階段を昇る(写真左)。中に入ると、なだらかな上り階段の通路が続く(写真中左)。途中には小さな厩がある。少し歩くと、二重に巡らされた城壁をつなぐ塔に出た。天井を見ると、小さな石がアーチ状に組み合わされている(写真中右)。壁は斜めに造られていた(写真右)。地震に耐えられるように設計されているのだ。

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塔を出て、内堀を渡る(写真左・中左)。内堀と言っても、現在は一部だけしか見られない。かつては砦全体に堀がめぐらされていたのだが、13世紀の地震でかなりの部分が埋まってしまったとの事。我々は、再び建物の中に入った。長く暗い部屋。ここは馬小屋である(写真中右)。砦には全部で2,000頭もの馬がおり、内250頭がこの部屋に繋がれていたという。天井には明かりとりのための小窓があり(写真右)、壁には馬をつなぐための穴が開けられていた(写真下左)。馬小屋の中央辺りの壁に、通路のようなものが見られた。これは秘密の抜け穴との事(写真下中左)。何処につながっていたのだろうか。馬小屋を出ると、埋まった堀と城壁だ(写真下中右・右)。この城壁は、14世紀にイスラムにより修築されたものだという。何故この時に、合わせて堀も造り直さなかったのだろうか。疑問が残る。

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ここから階段を昇り馬小屋の上に出ると、目の前に砦が迫り(写真左)、南側の城壁の外には、水道橋が見える(写真中左)。この水道橋から水を取り入れ、貯水槽に蓄えて籠城などに備えたのだ。南西の護衛塔を通り、我々は西側の城壁の上を歩いた(写真中右)。右手に砦、左手に街並みを見ながら進む(写真右)。砦の北側にある「女王の塔」(写真下左)の前で立ち止まる。床を見ると「1936」のプレート(写真下中左)が嵌められていた。これは、この地を植民地にしていたフランス軍が、砦を接収し、軍事拠点として修復した年との事。この場所は見張り台として使われており、お天気の良い日であれば、40km先の地中海まで見渡せたという(写真下中右)。少し歩くと、直径2m位の円形の窪みがあった(写真下右)。ここにはかつて風車が建っており、粉を引いていたという。そしてこの下は穀物倉庫だ。

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北側の階段で城壁を降り、いよいよ砦の中に入る(写真左)。砦の入り口からなだらかな階段が続き(写真中左)、少し歩くと中庭に出る。正面には会議場として使われていたホールが、右手には教会の入り口、左手にはダイニング、キッチンがある。我々はダイニング、キッチンから見学を始めた。ダイニングはただの広間なので、特に見るべきものはなかったが、キッチンには色々と面白いものが残されていた。最初は床に開けられた幾つもの小さな穴だ(写真中右)。ここにはワインやオリーブオイルが貯蔵されていたという。その奥にはオーブンがある(写真右)。ここでパンなどが焼かれていたのであろう。

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次は、アーチ天井のホールだ(写真左・中左)。砦を取り巻く情勢が安定していた12世紀、ゴシック様式で作られ、会議場として使われていたようだ。ホールの壁には、雨水を取り入れるために通されていたパイプの跡が見られる(写真中右)。アーチ天井の廊下(写真右)を進むと、途中にトイレがあった(写真下)。男性用なのか、それともかつては扉があったのか。そういえば砦には、女性がいたのだろうか。今、これを書いていると色々な疑問が湧いてくる。

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続いて訪れたのは、礼拝堂である(写真左)。12世紀後半、教会として造られたが、イスラム教徒に支配された13世紀、モスクに改造された。ご存知のように、教会の祭壇は東側に設けられるが、モスクのミフラーブはメッカの方に造られる(写真中左)。壁の所々に、フレスコ画の跡が残されているところも面白い(写真中右)。ここではアザーンの実演を見せてくれた(写真右)。澄んだ声で、室内全体に響き渡る。イスラムの街では、お祈りの時間にミナレットから流れてくるのを聞く。礼拝への呼びかけをしているのだろうが、アラビア語を知らない私には、何を言っているのかは分からない。しかしリズムがあるので、心地よい音楽のように感じた。

ウィキペディア・フリー百科事典(アザーン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%B3


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最後に、我々は最上階にある見張り塔に昇った(写真左)。360度見渡せる、大パノラマだ(写真中左・中右)。ここで見張っていれば、どこから攻められても直ぐに分かるだろう。下を覗くと、先ほど渡った堀が見える(写真右)。高所恐怖症の人には不向きな場所か。

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約1時間半、我々は砦の見学を終え、昇って来た通路を引き返しながら、もう一度砦内の様子を楽しんだ。次は昼食である。バスで2分。「クラック・デ・シュヴァリエ」のすぐ南側にある、レストラン「パノラマ」に到着した(写真左)。店内は明るく(写真中左)、窓から「クラック・デ・シュヴァリエ」が見える(写真中右)。メニューはメゼ(前菜 : 写真右)と名物の炭火焼チキン(写真下)、そしてフルーツだ。約1時間15分で昼食を終え、3日ぶりのダマスカスに向けバスで出発した。

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くねくねとした坂道を下り、ホムスから南に向かう。14:45、カーラの街にある「アルマーラ」と言うレストランでトイレ休憩を取る(写真左)。隣にはテーマパークのような建物がある(写真中左)。モーテルかもしれない。レストランの駐車場を見ると、2台が連結されたパスが止まっていた(写真中右)。よく見ると、2台目は宿泊施設になっていた。観光バスがホテルを引っ張っているのだ。これであれば、夜寝ていても移動できるので効率的である。ドイツのナンバープレートを付けているので、ドイツ人観光客を乗せて来たのだろうか。このバスの向こうにはトレーラーが停まっていた(写真右)。こちらは羊のホテルか?

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休憩を終え、我々は再びバスで走りはじめた。砂漠の中の一直線の道を橋っていたが(写真左)、16:00頃、ダマスカスまで18kmの表示が見えると、周囲は急に賑やかになって来た。モスクや街が見え始めた。やがて道路の右手には、カーディーラーの建物が続く(写真中左)。16:30、ホテルに到着。16:50に入室。前回と異なり、本日は1Fの部屋だ(写真中右・右)。内装はほとんど変わらないのだが、少々部屋が広く感じたのは気のせいか。夕食は19:00からだったので、入浴、資料整理を済ませてからレストランに向かう。夕食は、前回と同じでバイキング形式。メニューもほぼ同じか(写真下段)。疲れもなく、体も慣れてきたのであろう。だんだん頂く食事の量も増えてきた。約1時間15分で夕食を終え、20:45頃ベッドに入った。

(参考文献)
・「地球の歩き方ヨルダン・シリア・レバノン 07~08」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド社刊]
・「芸術と歴史の国シリア」(Patrizia Fabbri編)[BONECHI刊
・「THE CASTEL OF THE KNIGHTS」(Nidal Mousslemani)

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