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July 31, 2006

足立美術館

石見銀山の旅(その3)

昨日は石見銀山で丸一日楽しむことが出来、今回の旅の目的は達した。本日は帰りの飛行機に乗るまでの時間、美術館に行くことにした。行き先は足立美術館。最寄り駅はJR安来駅。JR出雲市駅から普通電車で1時間超かかる。午前8:42分出雲市駅発の列車に乗車。車両への乗り降りにはボタンを押して自分でドアを開かなくてはならない。乗務員は運転手一名だけのワンマンカー。本日は少々風が強かったので、窓の外に見える田の稲穂がキラキラと輝いて波打っていた。昨日行った西方面に比べて出雲市より東、松江方面へは列車の本数だけでなく、乗り降りする客の数も多い。夏休みに先生に連れられて写生に行く中学生たちが10人ほど乗っていた。列車は2輌編成で、無人駅に止まる時は1輌目の一番前の扉からしか下りられない。ワンマンカーなので、運転手が切符をチェックするためだ。ところが、中学の先生と生徒たちはそれを知らずに2輌目から降りようとボタンを押しているうちに列車が発車してしまったのである。駅を出てから間もなく先生が大声で「止めてください、降ろしてください」と叫んでいた。バスではあるまいし、当然無理。先生はガックリした様子で、次の駅まで立っていた。次の駅に到着して漸く下車できる時、生徒が1名足りないことに気が付いたらしい。運転手に「待って欲しい」と告げ、2輌目に生徒を呼びに行っていた。田舎だから発車するのを待ってくれたが、要領の悪い先生である。

JR安来駅には午前9:57分に着いた。美術館への無料送迎シャトルバスがあると聞いていたので、発車時刻を見ると次は午前10:40分だ。まだ40分以上ある。駅前にマイクロバスがあったので、足立美術館に行くかと尋ねると、時間は40分位かかるが行くとの事。一律200円。タクシーだと20分ぐらいで3,000円程との事。結局バスに乗ることにした。料金もそうだが、バスに乗ることにしたのは、運転手が街を一周するのも良いとの一言があったからである。バスは午前10:00発、直ぐに出発した。このバスは「広域生活バス」と呼ばれており、安来市が走らせている。バスの側面には、”どじょう”と白鳥が描かれている。”どじょうすくい”で有名な安来だからである。白い鳥の絵を最初は白鷺ではないかと思っていたのだが、運転手の説明では白鳥との事。田に鷺も来るが、冬には白鳥が来るようだ。ここでは鷺は珍しくないが、白鳥は名物にできるのだろう。運転手の家にはキジも頻繁に来る様子。私の住んでいる辺りとは違うのだ。

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バスで暫く走ると、安来・清水寺(写真 : 安来市HPより)に着いた。ここは厄払いの寺として慕われており、観音霊場の一つ。山の中腹には三重の塔が建っている。80歳近い女性がお参りに行くと言って下車した。このバスはコミュニティーバスなので、安全さえ確保できれば、住民はバス停の無い所でも自由に乗り降りできる。道路端でおばあさんが手を上げて合図しているとバスは留まる。乗客は○○の角で降ろして欲しいと言うと、バスはそこで降ろしてくれる。本数は少ないが、村のお年寄りには便利だ。

Geihin
午前10:45分頃、漸く美術館に到着した。まずチケットを購入、入館料は大人1名2,200円だ。あわせて帰りのシャトルバスの時間を確認する。午後12:20分発に乗ることを決め入館した。中に入って最初に目にするのが「迎賓の庭」(写真)である。枯山水庭を中心にした雄大な景色が魅了する。ここの庭園は、米国の庭園専門誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」(JOJG)の「2006年日本庭園ランキング」で、2003年、2004年、2005に続き、4年連続で「庭園日本一」に選ばれたとの事。天候にも恵まれ、澄み切った青空を背景に、庭の緑が一段と美しく輝いていた。

Kokeniwa
奥に進むと通路に蒔絵が並んでいた。蒔絵は日本独特の漆工芸の一つ。立体感のあるもの、金属で作られたように見える作品など、素晴らしい工芸品が展示されている。続いて「苔庭」(写真)、「枯山水庭」と素晴らしい庭を見ることが出来る。途中「童画の世界展」が開催されており、可愛らしいファンタジー作品が展示されていた。Turukame
その後も庭園は続き、館内の窓がそのまま額縁になる「生の額絵」、高さ15mから流れ落ちる人口の滝がある「鶴亀の滝」(写真)、「池庭」がある。館内の奥にある「生の掛軸」も美しい。床の間の壁をくりぬき、あたかも一幅の山水画がかかっているかのように作られている。残念なのは、庭園を見学する人々の姿が入ってくる事だ。人が多いのでやむを得ないが、何時までたっても庭園だけを見ることは出来なかった。Shirasunaseisho
最後は「白砂青松庭」(写真)だ。横山大観の名作「白沙青松」をイメージして作られた庭園との事。美術館スタッフの話では、数年前までは庭の飛び石を歩くことが出来たらしいが、砂の上を歩くことを禁じていても守ってもらえなかったので、中に入ることが出来ないようにしたとの事。少々残念である。(庭園の写真は足立美術館のHPより)

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次は2Fの展示室だ。現在「くらべてみよう!日本画のたのしみ」展が開催されている。同館の解説によると、「絵画を鑑賞する際に、複数の作品を見くらべることで個々の作品の特徴がより際立つことがあります。本展では、この「くらべる」ということに注目し、「同じモノを描いた日本画」を二点一組で展示いたします。たとえば横山大観作「鼬」(写真 : 足立美術館のHPより)と橋本関雪作「秋圃」(写真 : 足立美術館のHPより)は、ともに「いたち」を主題とした作品です。Img_02_06
なるほど大観のいたちは単純化されていて、その丸い目は愛らしくひょうきんな趣があり、親近感あふれる姿に心引かれることでしょう。それに対して、関雪作品の方では写実的に描写されており、体を起こして周囲に注意をはらう様子からは野生の本能がうかがえます。つまり、描く対象への視点や表現方法そして画家の個性などがそこに加えられることで、同じ「いたち」でも異なる趣をもち、それぞれの良さや特色のある作品となっているのです。また比較することによって、個々の作品の魅力がいっそう浮き彫りになるとも言えるかもしれません」と書かれていた。確かに一つ一つ比較しながら見ていくと、表現の差が分かり非常に面白い。

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隣の小展示室に行くと、「滝八趣」と題された展示が為されている。こちらも様々な画家が描く滝を比較することが出来、非常に興味を湧かせてくれる。さらに「横山大観特別展示室」(写真 : 横山大観作・紅葉 : 足立美術館のHPより)があり、ここでは横山大観の絵を堪能できる。丸一日かけて鑑賞しても良いぐらいだが、バスの時間が迫ってきたので、次に進んだ。

1Fに降りて、来た通路を戻り、入り口近くの階段を昇った2Fに行く。ここは陶芸館で、「北大路魯山人」の作品が展示されている。同氏は「佳き食物は佳き食器に盛り、佳き掛軸と相応の花器に活けた花の精に包まれて摂るのが本当の食事である」と言う考えから、自ら作陶に手を染めた稀代の料理人である。私のような素人には、どのような食べ物を盛ると美味しそうに見えるか、といったことを想像しながら鑑賞すると楽しい。焼茄子が良いとか、秋刀魚と卸し大根が似合うなど、考えるだけでヨダレが出る。もう少し見ていたかったのだが、バスの時間が迫ってきたので美術館を後にした。

安来市観光のHP
http://www.city.yasugi.shimane.jp/kanko/
足立美術館のHP
http://www.adachi-museum.or.jp/ja/index.html

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July 30, 2006

石見銀山資料館

石見銀山の旅(その2)

「龍源寺間歩」を出て100m程下ると、「両替屋・石州堂」の「銀の里工房」がある。ここでは銀製品や”におい袋”を手作り販売している。銀製品の中で私が最も興味を持ったのは「丁銀」や「銀地金」のレプリカだ。石州銀で作られたもので、出来栄えはかなり良いのだが、値段は高い。私が欲しかったのは「石見銀山灰吹銀」(写真)。Iwamihaibuki
徳川時代、石見は直轄領だったので、銀山から掘り出された銀は延べ板にされ、検査し刻印を打った後、幕府に納められていた。その延べ板が「石見銀山灰吹銀」なのである。売られていたレプリカは、本物の三分の一程度の大きさで、縦6.5cm、横6.0cmの楕円形で、重さは約70gの純銀だ。桐の箱入りで30,000円(税別)。暫く悩んだが、まだチャンスはあるのではないかと考え、ここでの購入は止めた。

工房から道を下ると、マイクロバスを降りた場所に出た。ここからバスで来た道を歩いて下って行く。川の流れる音を聞きながら歩いていると、割り勘でタクシーに乗った広島の人にあった。彼はバスも使わずに歩いて上って来たとのこと。60代後半から70代前半ぐらいの年恰好だが、私よりも遥かに元気である。彼と別れて、再び私は道を下って行った。道中、山側には数多くの間歩があり、番号が付けられていた。発掘調査中のため、中に入ることは出来ないが、数多くの間歩があることが分かる。「龍源寺間歩」の音声案内によると、坑道は275あり、空気抜きの坑道を含めると600余り有るとの事であった。

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10分程歩くと、「精錬所跡」の表示があったので、下り道から西側に曲がり、上り坂を1~2分進むと「精錬所跡」に着いた。明治時代まで、そこには精錬所の建物が並んでいたのだが、現在は売れ残りの分譲住宅跡地のような感じである(写真 : 石見銀山のHPより)。

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再び先程の下りの道に戻り、ルートマップに従い進んだ。次に訪れたのは石室山羅漢寺「五百羅漢」である(写真 : 石見銀山のHPより)。ここは石見銀山で働いて亡くなった人々の霊や祖先の霊を供養するため、地元の人々や代官、徳川将軍の寄進で建てられた真言宗のお寺で、石窟にある「五百羅漢」は国の指定文化財だ。ちなみに「五百羅漢」とは、お釈迦様に従っていた五百人の弟子のことである。ここに湧き出る水は名水で、ペットボトルを持っていけば有料で汲んで持ち帰ることが出来る。

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その後石見銀山の古い街並みを見ながら進むと、「町並み交流センター」(写真 : 石見銀山遺跡のHPより)があったので入ることにした。ここは旧大森裁判所の建物で、中には当時の裁判の様子が展示されていた。判事と検事が並んで高い席に座り、弁護士は低い席に座っていたのが印象的であった。検事と弁護士が同じ高さで対立するように座っていないところが、明治の裁判制度を表していると思えたからである。ここは現在、街の公民館として使用されているが、銀山に関する資料も展示されていた。職員の方に、置いてあった冊子をもらうことは出来ないかと尋ねると、全部は無いとのことであったが、「石見銀山―歴史ノートー」と「石見銀山―野外手帳―」、「石見銀山―戦国時代の遺跡を歩いてみようー」の計3冊を頂戴することが出来た。

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ここまでで、ほぼ三分の二を下り終え、残り三分の一だ。この辺りは民家が並んでいるが、日陰はほとんど無いので、少々辛い。天候に恵まれて非常に有難かったのだが、久しぶりに夏の日差しになったので、日射病にならないように注意が必要だ。次に訪れたのは武家屋敷「旧河島家」(写真 : 石見銀山遺跡のHPより)である。河島家は、1610年、銀山奉行大久保石見守に召抱えられて以来、銀山附役人を代々勤めた。風通しが良く、夏の暑い日にも拘わらず、涼しい。印象に残ったのは、女中用の屋根裏部屋の天井が高く、採光と風通しが良かったことだ。武家の女中は商家の女中に比べて待遇が良かったのだろう。

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4つ目の有料施設は重要文化財「熊谷家」(写真 : 石見銀山遺跡のHPより)である。熊谷家は、鉱山業、酒造業を営むと共に、代官所に納める年貢銀を秤量・検査する掛屋(かけや)、幕府直轄領である石見銀山御料の支配の一部を担う郷宿(ごうやど)、代官所の御用達を務め、当主は代々町年寄に就くなど石見銀山御料内で最も有力な商家の一つであったという。家屋は大きく、それぞれの部屋には熊谷家が営む業務に関する展示がされていた。私が持つとも興味を持ったのは「掛屋」の仕事で、銀の流通と掛屋の役割について図表にして解説が為されて、また秤量時に使用した「秤」も展示されていた。ちなみに掛屋の儲けは、銀一貫目(約3.75kg)に付き一匁五分(0.15%)との事。

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最後に訪れたのが「石見銀山資料館」(写真 : 石見銀山遺跡のHPより)である。最初に訪ねたところだ。受付は女性に代わっていたので、再度入館のため共通券を呈示し、館内の見学を始めた。この「石見銀山資料館」は、江戸幕府が現地に置いた支配拠点施設である旧大森代官所跡を使用しており、大森の町並みの北東側に位置する。2,600m2ほどの敷地に、瓦葺き平屋建ての表門と左右の門長屋の建物だ。館内には銀山や銅山の鉱石が展示される一方、銀山の歴史についても解説されている。特に印象に残ったのは、銀を抽出するための「灰吹法」を施す際に使われた器具の展示である。「灰吹法」は16世紀前半に石見銀山へ伝えられたのが日本での最初と言われており、やがて各地の鉱山に伝播したとの事。この方法は銀と鉛の融点の違いを利用するやり方だ。
ここには1592年にポルトガルのティセラが政策した日本地図も展示されていた。先日、堺市民会館で角山栄氏の講演でお話があったように、地図には大坂も江戸も書かれていなかったが、石見や堺は載っていた。堺は「Sacay」、石見は「Hivami」と記載され、石見の側には「Argenti fodine」(銀鉱山)との表示があった。ちなみに鉱山では石見銀山だけにこの表示があったのである。私の好奇心を満たしてくれる、素晴らしい資料館であった。受付にいた女性に、有料でも良いので資料があれば分けて欲しいとお願いすると、先程訪れた「町並み交流センター」に無かった資料があったので頂くことが出来た。「石見銀山―銀を作るー」と「石見銀山―いも代官井戸平左衛門の事蹟―」の2冊である。これで欲しかった冊子5冊全てを手に入れることが出来た。大満足である。なお、1999年に「資料で見る石見銀山の歴史」(1,900円)が出版されているが、現在品切れとの事。残念。

帰りのバスの時間まで30分程あったので、安いレプリカなどが無いかと期待して「銀の店」に立ち寄った。中に入ると「龍源寺間歩」の「銀の里工房」に展示されていたものと同じ作品が並んでいた。値段は同じで、種類はこちらの方が多い。「石見銀山灰吹銀」も実物大のレプリカがあった。しかし価格は5万円を超えている。ここもダメかと思いながら振り向くと、幾つかのレプリカが無造作に置かれていた。見本かと尋ねると、販売するとの事。「石見銀山灰吹銀」については、桐の箱は無く、また色々な人の手に触れられているので価格は6,000円との事。即購入を決断した。本物を手に入れる事は不可能だが、参考品は欲しかったので丁度良い。(現在銀は1g=20~30円なので地金価値は2,000円以下)

レプリカを入手して満足したら、昼食を採っていないことを思い出した。直ぐ近くに「お食事処おおもり会館」があったので、遅いランチを頂く。そこの売店で面白い本を見つけた。「それぽっちり物語」という書だ。石見銀山の昔話伝説をまとめた本である。なかなか面白い内容だったので1冊購入した。食事を終えてバス停に行き、5~6分待つことになったが、無事に予定の午後4:24分発のバスに乗ることが出来た。午後4:50分頃に大田市駅に到着。午後5:02分の列車で出雲駅に戻った。

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July 29, 2006

石見銀山・龍源寺間歩

石見銀山の旅(その1)

石見銀山に行ってきた。昨年訪れた甲州金山とともに、一度行きたいと思っていたのだが、天気予報を見て、急に行くことを決めた。

大阪・伊丹空港を午前7:15分に出るJAC2341便(写真上 : JAC資料より)に乗り、出雲空港に向かった。Zfile0001
機種はQ400で74人乗りのプロペラ機。座席は10Aの窓側。いつもは通路側を指定するのだが、国内線のプロペラ機は飛行高度が低く、外も良く見えるので窓側の席にした。離陸後は、一旦関空方向に飛んでから旋回し、神戸空港の真上を飛び、明石大橋を超えた辺りから北上だ。窓からは神戸空港や淡路島、明石大橋などが綺麗に見えた。兵庫県、岡山県の上空、中国山脈を横切る。天候に恵まれ、景色もはっきり分かる。山間には小さな村が点在しており、細い道路が村をつないでいた。やがて広々とした田と街が見え始めた。島根県の日本海側だ。午前8:40分前、予定時刻より少し早く出雲空港に到着した。

空港からJR出雲市駅までバスで25分、スムーズに行けば出雲市駅9:20分発に間に合うと思い、急いでバスの乗車券を購入した。しかし福岡からの到着便を待つという。結局バスは福岡便のお客1名を加え9:00頃出雲空港を発車、出雲市駅に着いたのは9:25分で、予定の電車には間に合わなかった。日本海側のJRは本数が少なく、特に出雲市から西側に行く列車は著しく少ない。次の電車は10:10分発だったので、駅舎内の食堂で本日2度目の朝食をとることにした。それでも時間が余ったので、観光案内所で色々と教えてもらった。交通事情や、明日行きたいと思っていた足立美術館のことなどである。

出雲市駅10:10分発の列車に乗り、石見銀山のある大田市駅に向かった。列車はワンマンカーで、乗降の際は扉横のボタンを押さなくてはならない。単線なので2つの駅で時間待ちだ。途中右手の窓から海が見える。天気が良いので、海の青さが一段と美しい。10:42分、大田市駅に到着した。

石見銀山のある大森代官所跡まで行くには、バスかタクシーに乗る必要がある。ところがバスは11:40分まで無い。1時間も待てないが、タクシーだと三千円以上の料金が必要とのこと。バスの発着場でブツブツ文句を言っていると、同じ様に文句を言っている人がいたので、相乗りを交渉、割り勘でタクシーに乗ることにした。他にもいないかと探すが、結局は2人だけであった。一緒に乗った方は広島から来たとのこと。交通機関の接続の悪さを嘆いていた。ここ石見銀山は、平成12年に世界遺産候補の候補としてリストに載っており、現在町を挙げて世界遺産登録を目指しているという。しかしタクシーの運転手の話では、道路の整備は不十分で、駐車場も少ないとのこと。世界遺産登録されて多くの人がマイカーで訪れた場合は、直ぐに渋滞してしまいそうだ。

色々な話をしているうちに、大森代官所跡に到着した。所要時間20分、料金は3,280円であった。割り勘なので1,640円を渡し、タクシーを降りた。ここからは興味も異なっていたので別行動することにした。

私は最初に石見銀山資料館(旧大森代官所跡)を訪れた。受付窓口に男性職員が一人いた。資料館は有料なので入館券を求めると、ここを含めて坑道までに計5箇所の有料の施設があり、全てを見学するのであれば共通券(1,500円)の方が600円お得ということを教えてくれた。また、坑道までバスが出ているので、そこまで昇って下りながら観光するのが楽だとのアドバイスもくれた。バスは11:35分に出るという。あと5分程しかなかったので、急いでバス停まで行った。

暫くするとマイクロバスが来た。バスは一律200円だ。定刻にバスは出発。客は私一人だったので貸切状態、運転手さんがガイドしてくれた。出発して直ぐ右手に重要文化財「熊谷家」が見えた。暫く走ると同じく右手に武家屋敷「急河島家」が現れ、更に2~3分走ると、左手に羅漢寺「五百羅漢」がある。大森代官所跡を出て約8分、終点の「龍源寺間歩」に到着した。

バスを降りて更に徒歩で2~3分山を昇ると、「龍源寺間歩」の受付が見えた。受付で共通券にスタンプを押してもらい、1枚ものの案内書を受け取る。有料のものでも良いので他に資料は無いかと尋ねるが、無いとのこと。残念そうな顔をしていると、何か思い出したように奥に行き、2つの案内書を取ってきてくれた。少々カビ臭かったが、石見銀山の案内マップと歴史解説が載ったペーパーで、私にとっては貴重な資料だ。有難い。お礼の言葉を述べて、坑道に向かった。Mabu01
「間歩(まぶ)」とは坑道のことで、「龍源寺間歩」は「御直山(おじきやま)」と呼ばれた代官所直営の操業地にあった坑道で、江戸時代には幕府の直轄地であった。坑道はほぼ水平に700m掘り進められており、そのうち600mが公開されている。坑道の高さは160~200cm、幅90~150cmと、人が並んで歩くのには少々辛い。(写真 : 坑道・石見銀座伊遺跡のHPより)

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中に入ると非常に涼しい。それまで流れていた汗が、一時に止まった。細く、暗い坑道を進むと、所々に水抜きのための坑道が掘られていた。(写真 : 絵巻・水抜きの様子と水抜きの道具・石見銀座伊遺跡のHPより)鉱山経営は水抜きとの戦いで、水抜きのコストが高くなりすぎると閉山されたようだ。ここ「龍源寺間歩」は比較的大きい方で、坑夫は一日5交代で働いていた。1530~1630年代、寛永の頃が銀山の最盛期で、当時は焼く1万人の人が住み、年間推定38トンもの銀を産出していた。このピークを過ぎた頃には、新しい間歩の開発に努めたが、結局は維持出来ず、衰退のなか明治時代を迎えた。明治20年に藤田組(現在の同和鉱業)が政府から引き継いで操業したが、大正12年に閉山となった。

坑道を更に進むと、少し蒸し暑くなってきた。そして今度は出口に向かって上りだ。途中「石見銀山絵巻」の写真が並び一枚一枚に解説が付いていた。江戸時代中期、1700年頃に描かれたものだとのこと。一番深い156.7mのところからの昇りのため、出口に着いた頃には再び汗が溢れるように流れていた。


日本エアーコミューターのHP
http://www.jac.co.jp/index.html
大田市商工観光課のHP
http://www.iwamigin.jp/ohda/kankou/
石見銀山のHP
http://www.iwamigin.jp/ohda/minasdeplata/ginzan/index.html
石見銀山資料館のHP
http://fish.miracle.ne.jp/silver/
石見銀山遺跡のHP
http://www2.pref.shimane.jp/ginzan/outline/index.html
石見銀山ミュージアムのHP
http://www.iwamiginzan-muse.jp/

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July 27, 2006

“もてなし”の心を堺から

“もてなし”の心を堺から

今年の4月から政令指定都市になった大阪の堺市が、26日(水)に第118回堺市役所開庁記念式典を開催した。堺市の功労者や功績者が表彰されるのだが、それ以外に記念講演も行われた。この講演を目当てに、会場の堺市民会館まで行ってきた。

講演のテーマは「もてなしの心を堺から」で、講師は角山栄氏。角山氏は現在堺市博物館の館長で和歌山大学の名誉教授でもある。専門は経済史、特にイギリス経済史だ。お茶や時計といった身近なモノを通して経済史に切り込むという斬新な研究活動を続けている。著書には「図説西洋経済史」など難いものは当然だが、「茶の世界史」や「シンデレラの時計」など読み物として楽しい作品も多数ある。私は貨幣史に関連して、イギリスの経済史を研究する過程で著者の作品に出会い、大変興味を持ったので今回の講演会に参加する事にした。以下、今回の講演内容を紹介する。

お茶による”もてなし”は堺が発した文化であり、現在では日本全国に広がっている。身近な所では、食堂などに入ると「いらっしゃいませ」の言葉とともにお茶が出される。資本主義社会において無料で出されるこの”お茶”というものは、まさに文化であり”もてなし”なのだ。

一般の“もてなし”は世界中にもあるが、日本の考えとは少し違う。ヨーロッパでの”もてなし”はラテン語のホスピターレを語源とし、ホスピタルとホスピタリティの2つの意味を持つ。前者は病気で困っている人を助けるという意味、つまり病院につながり、後者は共同体の外から来た人に食べ物や宿を供給するという意味で、ホテルに通ずるのである。一方日本の”もてなし”は、制度化されていない”もてなしの心”である。

それでは最初からお茶に”もてなしの心”があったかと言うと、”否”である。14世紀頃、お茶は貴族の遊びとして流行ったのだ。京の公家がお茶の種類を当てるという、当て物のゲームとしてである。しかし15~16世紀頃になるとお茶の中心が堺に移り、この地で「茶の湯文化」が花開いた。現在の「茶の湯」は、社交的・遊戯的な面は隠れ、利休に代表される”わび”と”さび”の面が強調されているが、当時は2つの面を持ち合わせていた。

このような「茶の湯」文化が栄えた堺は、当時外国からどのように見られていたのかというと、日本を代表する町、世界的国際都市として位置づけられていたのだ。1595年にアントワープ出版から発行された日本初の地図を見ると、京の都と堺の町は載っているが、江戸や大坂は掲載されていなかったのである。当時の日本は経済大国であり、文明大国でもあった。そしてその代表が堺だったのである。石見銀山や生野銀山に代表される銀山を持ち、世界が産出する銀の三分の一を占める豊かな国、日本。ポルトガルからは銀を求めて宣教師など多くの人々がやって来たのである。

一方文化の面では”連歌”と”お茶”が盛んであったが、外国人には前者を理解することが出来なかったので、その興味は後者に集まった。当時のポルトガル人通訳、ジョアン・ロドリゲスの記録によると、茶室には狭い入り口から入る、また当時のイエズス会の予算を上回るような高価な茶碗でお茶を飲むなど、「茶の湯」というのは非常に不思議なものに見えたようだ。

しかし「茶の湯」も最初からこのようなものではなかった。かつては酒を振舞い、果物、菓子を食べ、最後の締めくくり、”もてなし”としてお茶を出していた。しかし応仁の乱が起き、下克上の時代となって人間不信となったため、締めくくりの部分である「お茶」だけが”もてなし”の文化として残ったのだ。63cm四方の入り口から入るのは、刀などの武器を持たないようにするための一種のボディチェックであり、皆の前で茶を立てて、回し飲みするのは毒が入っていないことを見せる為といった風に、安全空間、平和ゾーンを作り出して”もてなし”を表すようになったのである。

ところで、このような「お茶の文化」は、ヨーロッパにはどのように伝えられたのであろうか。1610年、オランダ船により初めてお茶がヨーロッパに持ち込まれた。当時ヨーロッパではアラビアからコーヒーが入っていた。コーヒーはコーヒーハウスで飲む男の飲み物として定着した。コーヒーハウスは当時の情報センターの役割を果たし、ここから政党や保険会社、ジャーナリズムなどが生まれたという。ちなみに女性はコーヒーハウスへの出入りが禁じられていた。そのためコーヒーハウスに入り浸りとなっている男性を家庭に取り戻すため、女性がお茶を家庭の飲み物にしたという。当時のイギリスでは家族一緒に朝食を採る習慣はなかった。しかしブレッド・アンド・バター、ソーセージに卵、そして紅茶。茶を中心にした素晴らしい食事を用意して、家族という人間を結びつけて行った。つまりイギリスでは、お茶が家庭の人間関係を作ったのである。その他アフタヌーンティーという文化も生まれた。日本のお茶から生まれた人間関係を大切にする文化が、イギリスに流れてエチケットを生み出した。例えば女性の前でタバコを吸わないとか、女性を大切にするなどである。日本の「茶の湯」では茶室に女性が入れないなど、女性を排除する封建的な面があったので、明治以降、紅茶の文化と一緒に女性を大切にするといったジェントルマンの心がわが国に逆輸入された。

茶は「Cha」、すなわち「Communication(人間関係)」、「Hospitality(もてなし)」、「Associate(ふれあい)」と言える。先にも述べたように応仁の乱の頃に茶人が考えた茶室は、安全空間という意味で平和に結びつくものである。つまりお茶の精神を学ぶことは、平和の心を身に着けることである。世界のいたるところで紛争の絶えない現代、平和な社会作りに貢献する為、お茶の心、”もてなし”の心を堺から発信することに十分意義はある。

最後に著者の作品のうち、読み易くかつ現在でも手に入れられる書籍をご紹介する。
「茶の世界史」(中公新書)
「時計の社会史」(中公新書)
「シンデレラの時計」(平凡社)
「路地裏の大英帝国」(平凡社・共著)
これらの書籍を読んだ後だと、著者の講演を一段と興味深く聴く事が出来る。また堺市博物館で時々講演会があるようなので、著者の講演を聴きたい方は、堺市のHPをチェックすると良い。

第118回堺市役所開庁記念式典のHP
http://www.city.sakai.osaka.jp/sisei/mayor/kotoba/170726.html
堺市博物館のHP
http://www.city.sakai.osaka.jp/renaissance/inspection/index.html#03
堺市のHP
http://www.city.sakai.osaka.jp/index.html

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July 26, 2006

プラド美術館展

プラド美術館展

大阪市立美術館で開催されている「プラド美術館展」(写真 : プラド美術館展HPより)を見に行ってきた。JR「天王寺駅」で下車、駅の南側にある天王寺公園を北西方向に歩いて約5分、大阪市立美術館がある。
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開場は午前9:30分から。早く着いたので、チケット売り場で並び、少し待たされた。団体入り口の列には白いセーラー服姿の女子生徒が多数並んでいた。開場とともに階段を急いで駆け上り、一番に会場に入った。

会場は次の5つのコーナーに分けられ、計81点の絵画が展示されている。
① スペイン絵画の黄金時代―宮廷と教会、静物―
② 16-17世紀のイタリア絵画―肖像、神話から宗教へー
③ フランドル・フランス・オランダ絵画―バロックの躍動と豊饒―
④ 18世紀の宮廷絵画―雅なるロココー
⑤ ゴヤー近代絵画への序章―

展示作品は、ティツィアーノ、エル・グレコ、ルーベンス、ベラスケス、ムリーリョ、ゴヤなど、注目に値する絵画ばかりである。プラド美術館が所蔵する七千点を越える作品の内の僅か81点だが、厳選された作品ばかりというだけの事はあり、十分に楽しむことが出来た。また解説が日本語と言うのも有難い。現地ではスペイン語、最低でも英語を理解できる力が必要なので、私のように語学に自身がない方は、この機会に見に行かれることをお薦めする。10月15日(日)まで。

プラド美術館展のHP
http://plaza.harmonix.ne.jp/~artnavi/12publicty/181015-ohsakasi-prado/00osakasi-prado.html
プラド美術館展公式サイト
http://event.yomiuri.co.jp/prado/
プラド美術館HP
http://museoprado.mcu.es/ihome.html

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July 25, 2006

イギリスの「金本位制」

貨幣ぶらり旅(第90回)

6月28日付貨幣ぶらり旅(第86回)で、「ラテン通貨同盟」について投稿した。「金銀複本位制」を採っていたラテン通貨同盟加盟の国々も、イギリス式の「金本位制」に移行したことから、ラテン通貨同盟はその意義を失い、1927年に解散したことを述べた。今回はこれに関連して、なぜイギリスだけが「金本位制」を採っていたかという点についてお話しする。

まずイギリスの「金本位制」だが、これについてはイギリスが意図して始めたことではなかった。つまり偶然の積み重ねの結果、「金本位制」をとることになったのである。

第一の偶然は、ポルトガルと結んだ「メシュエン条約」だ。産業革命前、17世紀のイギリスも当時のヨーロッパの強国と同様、重商主義政策を採っていた。そのため、海上の安全確保と海上覇権獲得を目的として戦争を繰り返していた。このような時代に、戦火を交えることなく外交で成立した条約が「メシュエン条約」である。この条約は、ポルトガルが輸入禁制品に指定していた毛織物の輸出をイギリスに認める一方、イギリスはポルトガル産ワインの輸入関税を低率にするという内容のものであった。当初ポルトガルおよびその植民地であるブラジルの購買力は低く、この条約のメリットは少ないと思われていたが、ブラジルでゴールドラッシュが起こったことにより事態は一転した。つまりブラジルが金を産出したことにより、ポルトガル・ブラジルの購買力が増したため、イギリスは毛織物を輸出することで莫大な金を受け取ることが出来るようになったのである。

第二の偶然は、ヨーロッパでの金銀交換比率が「金:銀=1:15」の時に、イギリスの植民地であるインドでの金銀交換比率が「金:銀=1:10」と銀高であったことである。この場合、銀10をインドで金1に交換し、その金をヨーロッパで銀に交換すれば15の銀を受け取ることが出来るので、銀5の儲けが出る(金銀の輸送は可能で、輸送コストや手数料は無視する)。これに銀5を加えて銀10を再びインドで金1に替え、当該金1をヨーロッパで銀に交換すると、更に銀5の儲けが出て、トータル銀10の利益を得ることが出来る。これを繰り返せば、金銀を移動するだけで儲かるのだ。現在のように交通・通信・情報網が発達していない時代には、このような裁定は簡単に行うことが出来たのである。この結果、銀の流出、金の流入が続いた。

第三の偶然は、スペインの植民地であるメキシコの銀山やポトシ銀山(現ボリビア)などの大鉱脈が発見され、南米からの銀の流入が続き、銀の価値が大きく下落したことである。金銀交換比率は13世紀頃には「金:銀=1:9」であったが、16世紀には「金:銀=1:11」、18世紀の初めに「金:銀=1:15」にまで下落した。その後東インド会社による厖大な銀の搬出のため、一時的に銀の下落は止まったが、銀産出国でありかつ「銀本位制」を採っていたドイツが「金本位制」に移行した19世紀後半頃から、銀は底なしの暴落過程に入って行ったのである。ちなみに20世紀初頭には「金:銀=1:80」にまで下落している。

そしてこのように金がイギリスに集中している時、銀の下落を防ぐため、イギリスでは「1ギニー金貨=21シリング銀貨」の上限を設けたが、それでも金の流入は止まらなかったのである。その後も金の流入が続いたが、やがて高額貨幣であったギニー金貨も経済が拡大したおかげで、取引に不便な珍しいコインではなくなっていた。

余談になるが、「1ギニー金貨=21シリング銀貨」を定めたのは、アイザック・ニュートンである。リンゴが落ちるのを見て「万有引力の法則」を発見したことで有名な物理学者だ。ニュートンは科学者であるとともに錬金術師で、最後はイギリス造幣局の長官を務めたのである。180度の大転進と言って良いであろう。

話を戻すが、以上のように金がイギリスに集中し、かつ世界的に植民地を持ち、貿易の中心となって決済のネットワークを構築したことも手伝い、金を本位貨幣とすることになった。1816年、「金本位法」により「金1オンス=3ポンド17シリング10.5ペンス」として金を唯一の価値尺度として定めたのである。そして1817年7月にはこれまでの「ギニー金貨」に代わって新しい「ソブリン金貨」が発行された。これは「金本位制」の象徴的なコインと言っても過言ではない。

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July 23, 2006

二千円札は何処に行ったのか?

貨幣ぶらり旅(第89回)

D02000f新聞に「世の中に出回る二千円札の減少ペースが加速している」との記事が掲載されていた。日銀の統計でみると、6月末の残高は3,593億円で、前年同月の残高7,222億円に比べて半減した。

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二千円札は西暦2000年のミレニアムを記念して同年7月に発行された紙幣で、沖縄の守礼門や紫式部の源氏物語がデザインされている。(写真 : 表、裏の順・日銀HPより)

2000年7月残高1,803億円でスタートし、2004年8月の10,262億円をピークにその後減少を続けている。日銀窓口での二千円札直接両替や日銀職員賞与に二千円札を使うなどの工夫を凝らしたり、2sentaisi1
沖縄県では「二千円札流通促進委員会」を設けるなど二千円札普及に力を注いだが、あまり効果は出ていないようだ。(写真 : 二千円大使認定証・日銀沖縄HPより)

発行当初、ATMや自動販売機で使えなかったこと、わが国には2の単位の通貨が無く馴染めなかった事、そして記念紙幣としてのイメージが強かったことなどが、二千円札が普及しなかった理由として挙げられている。

数年前まではお釣りで受け取ることもあったが、最近は全く見かけない。6月末残高の大半が民間金融機関の金庫で眠っているのではないだろうか。記念紙幣感覚でタンスに大切に保管されているものも多少はあるであろう。しかし貨幣収集市場での値上がりは期待しない方が良い。コイン商も多くの枚数を保有しているからだ。100年後は分からないが・・・・。

日銀HP・通貨流通高
http://www.boj.or.jp/type/stat/dlong/fin_stat/money/cdab0010.csv
「二千円札流通促進委員会」に関するHP
http://www3.boj.or.jp/naha/2sensokusin.htm

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July 22, 2006

金融史がわかれば世界がわかる

「金融史がわかれば世界がわかるー「金融力」とは何か」倉都康行(著)[ちくま新書]

著者は東京銀行(現三菱東京UFJ銀行)やバンカーストラスト、チェースマンハッタンなどの金融機関に勤務していた実務家である。本書では今後の国際金融を展望するため、金本位制や金銀複本位制の時代に遡り、基軸通貨はどのようにして生まれ、また引き継がれていくのかといったところから話を始めている。

他の国に先駆けて産業革命を行い、経済大国・軍事大国になったイギリスの通貨ポンドは、金本位制の下、基軸通貨として使用されていた。その後第一次世界大戦により疲弊したイギリスではあるが、第二次世界大戦が起きるまではイギリスのロンドンが世界のマーケットであったことから、引き続きポンドは基軸通貨の地位を守り続けた。しかし第二次世界大戦でイギリスは大打撃を受けたため、同国の通貨ポンドは経済力・軍事力そして金の保有高も最高となったアメリカのドルに基軸通貨の座を譲った。

第二次世界大戦で疲弊したヨーロッパ経済ではあったが、ドイツを始めそれぞれの国が復興を遂げ、経済力をつけたことからアメリカの相対的な優位さは失われ、更にベトナム戦争など軍事的支出が増加したため貿易収支、財政収支が赤字になり、それとともにドルに対する信認も揺らぎ始めた。

やがてドルは金との兌換を停止し、変動相場制に移行したが改善は見られず、ドルの危機も囁かれるようになった。しかしそのような危機を乗り越え、現在もアメリカ・ドルは基軸通貨としての役割を担っている。一方1990年代に膨大な貿易黒字を抱えた日本の円は、基軸通貨になるのではないかといった事まで言われていたが、結局アジアの基軸通貨にさえ成ることが出来ないままだ。著者によると、この差は「金融力」によるものであるという。貿易取引のためだけの金融の時代は終わり、現在は資本取引が中心である。つまり物の移動に伴うお金のやり取りよりも、資本取引から生まれる収益を狙うお金がマーケットの大半を占めるため、経済規模が大きいだけではダメで、資本取引に便利なマーケットを持つ国の通貨の方が有利なのである。アメリカのマーケットはスワップ、オプション、先物などデリバティブの技術が発達している上、格付け機関や不正監視機能など金融インフラが充実している、つまり他国よりも優れた「金融力」を持っていたため、貿易・財政という双子の赤字を抱えていても、ドルは基軸通貨としての地位を失わなかったのだと著者は分析している。

しかしこれからはドルだけではなくユーロも台頭し、ドル・ユーロの二極基軸通貨になるのではないかと著者は考えている。ユーロに統一されたことで、それ以前のようにマルク、フラン、リラ・・・など通貨ごとの為替変動リスクの管理が不要になり、資本取引がし易くなった上、ユーロに統一されたことによりマーケットが拡大し、アメリカのマーケットに迫る「金融力」を持ち始めたからである。
ただ、EUの中央銀行は、アメリカの中央銀行、つまりFRBほどの信認が得られていない点で見劣りがすると著者は指摘する一方、今後はこのような点に改善が見られれば、二極化はより明確なものとなるとも述べている。またBRIC’sと言われている国々の通貨動向からも目が離せないとも言う。

財政と貿易という双子の赤字を抱えるアメリカ・ドルが、基軸通貨としての地位を失いそうで失わない理由を「金融力」に求める本書の論旨は分かり易い。金融・経済を学ぶものだけでなく、コインコレクターにも本書をお薦めする。コインや紙幣が発行された時代の経済的・金融的事情が理解できれば、きっと収集にも深みが出てくるであろう。

著者のHP
http://www.t-fj.jp

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July 17, 2006

ニセ札はなぜ見破られるのか?

「ニセ札はなぜ見破られるのか?」(西島裕之著)[不空社刊]

本書は、世界的な贋札鑑定の専門家であり、紙幣鑑定機製造会社「株式会社松村テクノロジー」社長でもある松村氏を、約10年にわたって取材した著者(西島氏)のメモをまとめることで出来上がった。

我々一般人が新聞やテレビで知る贋札事件は、贋札が造られたとか、実際に何処そこで使われたといったことに限られ、贋札作成の手口を知ることは出来ない。スキャナーでパソコンに取り込みプリンターで印刷したとか、両面カラーコピーされたなどの情報は流されても、具体的に見分けるポイントなどは知らされない。本書においても伏せられている部分はあるが、ある程度贋札の実態を知ることが出来る。

本書では、最初にドル札について取り上げている。まず贋ドル札は約四千種類あり、90年代半ばには約九百種類が流通、特に本物と同じ方法で作られる精巧な贋ドル札は、十数種類あるという。この精巧な贋ドル札は「スーパーノート」と呼ばれ、中でも最高ランクの贋百ドル札は「スーパーK」と名づけられている。「K」は贋札の製造元が北朝鮮ということで付けられたようだ。このクラスの贋ドル紙幣を作ろうと思えば、最低でも五十人の作業員が必要で、初期投資として総額25億円程度の資金が必要らしい。

しかしこの後、このような最高の出来栄えと思われる贋ドル札を超える精巧な贋ドル札が現れたというから驚きである。「スーパーM」と名づけられた。「スーパーK」並みの精巧な贋ドル札を作る場合、「印刷機械」、「版下」、「インク」、「紙」の4要素が揃わなければならない。そしてこれらに加えて「印刷の順番」も重要である。「スーパーK」のケースでは印刷の順番が異なっていたため、肉眼では識別出来ないくらいではあるが本物と比べて微妙に異なった色になっていた。しかし「スーパーM」の場合はこの点までもが一緒であったため、お札の偽造グループ自身が真贋を判定できるようにワザと入れた暗号部分が無ければ分からないという。そしてこれを判別するには顕微鏡が必要とのこと。当然肉眼では分からないので、我々一般人が見ても全く分からないのだ。

ではこのような紙幣の真贋を、どのようにして鑑定機で判別できるようにするのであろうか。一般に思いつくのは本物のデータを入れて、それと異なる部分があれば偽と判定する方法だが、実際は偽物のデータを入れておいて、それに合致しなければ本物と判定するようにしているらしい。しかしこの方法では、ありとあらゆる偽造紙幣を集めなければならないので、民間企業が行うにはかなり危険を伴うのではないだろうかと思う。だが実際この方法で確実に贋札を識別しているというから驚いてしまう。

ところで、これまで贋ドル札のお話であったが、日本円はどうなのだろうか。円はドルのような基軸通貨ではないので、ドル紙幣と同じくらい大掛かりな贋札は出ていないが、今後は注意が必要だと本書は警告する。日本ではまだ「スーパーK」クラスの贋札は出ていないようだが、このレベルの紙幣が登場する日も近いという。わが国で見つかった贋紙幣は、大きく分けて「見た目が本物に近い紙幣」と、「磁気パターンだけ真似た紙幣」の2種類に分類できる。特に後者については、自動販売機普及率世界一の日本では注意が必要だ。一昨年に発行された新紙幣には偽造防止対策として「特殊発行インク」、「すき入れバーパターン」や「ホログラム」などが施されているが、わが国の自動販売機のほとんどはこれらをチェックして真贋を判定していないという。印刷インクに含まれる磁気のパターンで判別しているのだ。そのため、この部分だけ本物に合わせておけば、見た目は気にする必要が無い。深夜、人通りの無い自動販売機に贋札を投入すれば、お釣りで本物の紙幣が戻ってくるのである。

現在はこのような状況だが、今後は見た目と磁気パターンを同時に真似た紙幣が現れても不思議ではない。特に旧紙幣については要注意である。新紙幣のような偽造防止技術が施されていないにもかかわらず、現行紙幣として使用出来るからだ。まして日本の場合はタンス預金が多く旧紙幣の回収率は低いので、まだまだ旧紙幣にお目にかかる機会は多い。これまでの日本では、贋札にお目にかかる機会がほとんど無かったこともあり、自分とは無縁のことのように思ってしまうが、本書を読むと意外に身近な所まで来ているということを認識させられる。海外旅行などでドル紙幣を手にする機会の多い人は尚更である。

最後に、贋札作りは重大な犯罪行為である。贋札を造っても、贋札と知って使っても重く罰せられる。ご留意願いたい。

(ご参考)
平成17年10月18日付「偽ユーロ紙幣現る」
平成17年1月22日付「これで偽札を撃退しよう!」
平成17年1月8日付「「贋札」は持たず、作らず、使わせず」

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July 16, 2006

能楽鑑賞

能楽鑑賞

能楽を鑑賞してきた。場所は堺市民会館。毎年7月の第3土曜日に(財)堺市文化振興財団主催で行われており、今年で36回目になるという。

大阪能楽会館や京都観世会館でも能が予定されていたので、どこに行くかを決めておらず、前売り券は購入していなかった。急遽堺市民会館で催される能を見に行くことに決め、午後12:30頃会場で指定券を購入した。既に数十人の人が居たが、ほとんどが自由席の順番待ちの人達だった。私は指定席を購入できたので、開演時間の午後2時まで近隣を散歩することにした。

午後1:30過ぎに会場に戻り、指定席に着いた。1FのH列32番、横に50番まで席が並んでいるので真ん中よりも舞台に向かって右よりの席だ。堺市民会館は普通のホールなので、能楽堂のように"橋掛かり"が無いため、舞台の左半分には"橋掛かり"が設営される。そのため私の座った席は、能が演じられる"本舞台"の真正面という絶好のポジションであった。

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番組は能のほか、狂言や仕舞もある。能の演目は「野宮」(ののみや)と「菊慈童」(きくじどう : 写真・堺市文化振興財団のHPより)、狂言は「水掛聟」(みずかけむこ)である。
「野宮」は、諸国一見の旅僧が、嵯峨野の野宮の旧跡で光源氏を待つ美しい女性に出会い、彼女の淋しい生涯についての語りを聞くというストーリー。「菊慈童」は、麗縣山(れいけんざん)から流れる霊水の源泉を調べるため山に赴いた古代中国”魏”の国の勅旨が、菊の葉の露が不老長寿の霊薬となり、700年も生きてきた少年と出会う物語。
また狂言「水掛聟」は、日照りの続く夏の日、舅と婿が自分の田に水を引くために意地を張り合って争う滑稽なお話だ。

「野宮」については簡単な解説を読んでいたにもかかわらず、"シテ"の言葉が十分に理解出来なかった。また小鼓・大鼓の「イョ~ ポン」という(私には)単調なテンポのため、眠気が襲ってきた。眠気覚ましのツボを押さえて目を覚まし周りを見渡すと、謡本を持って先ほどまで熱心に聴いていたおばちゃん達、横に座っていたおじいちゃん、斜め前にいる若い女の子などかなりの人達が熟睡状態であった。眠くなる頃なのか・・・。

その後の狂言は爆笑が続き、楽しく鑑賞できた。舅と婿の関係、人と人の関係、日常良くありそうな事で身近に感じられるところが面白い。「菊慈童」は絢爛豪華な装束、能独特のテンポで見せてくれる舞が素晴らしいものであった。こちらは話す内容も理解できたためであろう。眠くなることも無かった。

公演は、途中15分の休憩を挟み約4時間。午後6時に終わった。能をはじめ日本の古典芸能をより深く理解するためには、学生時代に嫌っていた古典文学の理解が必要であると痛感する一方で、あまり難しく考えず楽しく見ていれば理解も深まるのではないかとも思った次第である。

堺市民能について・堺市文化振興財団のHP
http://www.sakai-bunshin.com/pp_info/pp_no41.html
関西の公演情報、能・狂言のHP
http://www.iijnet.or.jp/NOH-KYOGEN/event/kansai/kansai.html
能・狂言のHP
http://www.iijnet.or.jp/NOH-KYOGEN/

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July 14, 2006

ゼロ金利政策解除決定

ゼロ金利政策解除決定

日銀は14日の政策委員会・金融政策決定会合で、ゼロ金利政策の解除を決めた。その結果、金融政策の誘導目標としている無担保コール翌日物金利は「0.25%」になる。日銀が量的金融緩和政策を導入した2001年3月以来、約5年4カ月ぶりに政策金利が復活した。13時40分本件公表後、直ちに実施される。
また、ロンバート型貸し出し(補完貸付制度・注)の基準になっている公定歩合をこれまでの0.1%から0.4%に引き上げることも決めた。これも即時実施だ。
さらに、今回の利上げによる長期金利への影響を勘案し、長期国債を毎月1兆2000億円ずつ買い入れる措置は継続される事になった。

次に、ゼロ金利解除決定の背景となる日銀の景気認識を”日銀金融経済月報”で見ると、「わが国の景気は、緩やかに拡大している」との表現をとり、先月の「着実に回復」の表現よりも強いトーンとなった。また、「マクロ的な需給ギャップは長く続いた供給超過状態が解消し、現在は需要超過状態に入ってきているとみられる」との表現を付け加え、「先行きについても、景気は緩やかな拡大を続けるとみられる」との見通しを示した。

ゼロ金利解除決定により、三菱東京UFJ銀行は18日からの普通預金金利を、従来の年0.001%から年0.1%に引き上げることを発表した。株については本日250円を越える下げとなったが、ゼロ金利解除の影響はほとんど無く、むしろ中東情勢の不安、原油価格の高騰、ニューヨーク・ダウの大幅下落などが原因になったと見られる。また、引き続き長期国債の買い入れ措置が取られるため、長期金利への影響は限定的と判断されることから、国債利払い負担増や住宅ローン金利上昇の懸念は少ないものと思われる。

(注)ロンバート型貸し出し(補完貸付制度)とは、金融機関が日銀に差し出す担保の評価額を限度として、当該金融機関の要請に基づき、日銀が公定歩合で資金を貸す制度のこと。信用不安により資金繰りの厳しくなった金融機関が、インターバンク市場から締め出されることにより、連鎖倒産を引き起こすのを防ぐための制度だ。2001年3月から実施されている。

日銀発表資料 : 日銀HPより
http://www.boj.or.jp/type/release/zuiji_new/k060714.pdf
金融経済月報 : 日銀HPより
http://www.boj.or.jp/type/release/teiki/gp/gp0607.htm


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July 13, 2006

成長を続けるロシア経済の盲点は?

成長を続けるロシア経済の盲点は?

今週はロシア特集の雑誌が数冊発行されている。サンクトペテルブルグで開催されるサミットを意識してのことだ。先日サンクトペテルブルグに行った時、街中工事で交通渋滞していたことを思い出した。サミットに向けて整備していたのだ。この街は、エルミタージュ美術館をはじめ歴史的建造物が並び、落ち着いた雰囲気を持っている。しかし街を走る古く汚れた車は、私にマイナスの印象を与えた。

ところで、最近のロシア経済は順調に伸びているようだ。原油価格の高騰により、輸出およびエネルギー関連の設備投資が増え、雇用者所得のアップで個人消費も活発なためだ。しかし、エネルギー関連以外の製造業の育成が不十分な点、個人ローン残高が急増している点、企業が再国有化されている点など、懸念材料も多々ある。更に詳しく見てみよう。

ロシアの原油の輸出量は世界第2位で、天然ガスの輸出量は世界最大。原油価格の高騰を追い風に、1998年には1,420億ドルの対外債務を負っていたが、現在は金・外貨準備高2,370億ドル(世界第4位)を誇る。そして多くの産油国とは違い、ロシアでは一握りの指導者層だけでなく、一般市民もオイルマネーで潤っているようだ。

ロシア人の全国平均所得は、2000年に月額2,281ルーブル(約9,000円)だったのが、2006年3月末には(約36,000円)と4倍に、特にモスクワ市民の平均は2000年の7,998ルーブル(約32,000円)が、2006年3月末には28,038ルーブル(112,000円)に上昇している。(ロシア国家統計委員会)
また、相次ぐ外資系企業の進出のため、ロシアでは英語を話せる人材が不足していることから、外資系企業が英語を話せる人材を雇う場合、月額2,000~3,000ドル(約22万円~33万円)支払う必要がある。更に経験を積んだ管理職クラスを採用しようと思えば、月額5,000~10,000ドル(約55万円~110万円)でも難しいようだ。こうした人々が新しい中産階級「ニューリッチ層」を形成し、旺盛な消費を支えているのだ。

消費市場を見ると、2005年には3,600億ドルに達し、2002年に比べて2倍の規模になった。(アトン・キャピタルグループ調査)
個別では、ロシアでの外国車(輸入車と外国メーカーがロシアで生産する車)の新車販売台数は、2003年が前年比2倍の22万台。2004年は同86%増の41万台、2005年は同49%増の61万台と爆発的な勢いで増え続けている。また米国ゼネラル・モーターズの調査によると、2001年にロシアで車を購入した人の77%が6,000ドル(約66万円)以下の車を買っていたが、2005年には6,000ドル以上の車を買う人が76%と逆転し、特に15,000ドル(約165万円)以上の車を買う人が20%にまで増えている。
その他、携帯電話が5年前の300万台から800万台に激増し、飽和状態に近くなるなど、エレクトロニクス製品も好調である。

このように好調裡に推移している個人消費だが、個人所得の増加だけが個人消費を支える要因ではない。”信販ローン”や”個人向けローン”の普及も大きい。ロシア中央銀行によると、2005年1月に銀行融資の中で企業向け融資は75.4%、個人向け融資は14.6%であったが、2006年4月現在企業向け融資が68.6%に対して、個人向け融資は20.2%と個人向けの構成比が大きく上昇している。ロシア大手のアルファ銀行によると、リテールバンキング市場は2005年に410億ドルだが、2010年までには1,120億ドルにまで伸びると予測する。また、ロシアの調査会社ロミール・モニタリングによると、この1年間モスクワ市民の四分の一が信販ローンを利用して耐久消費財を購入していると言う。購入した商品の1位は冷蔵庫・洗濯機などの家電(56%)、2位はビデオ機器(18%)、3位は携帯電話(16%)である。

しかしローンについては懸念の声も出ているようだ。ロシアの調査会社ロミール・モニタリングによると、モスクワ市民の債務者の11%は、収入の半分程度をローンの返済に充てているという。また全ロシア世論調査センターのデーターでは、銀行側の消費者向けローン(信販ローンを含む)の延滞の割合は、2004年第1四半期は7%であったが、2005年第1四半期は11%、2006年第1四半期は18%と急増している。このまま増え続けると、やがては銀行の不良債権問題に繋がりかねないのだ。

好調な個人消費の裏で、懸念されることはローン問題だけではない。消費される製品の多くが輸入品という点にも留意が必要だ。原油高騰の恩恵は一般市民にも及んでいるのは確かだが、一方消費される製品のほとんどを輸入で賄うため、製造業は衰退して失業者も増えつつあるようだ。つまり国家経済を資源輸出に依存し、富を消費して投資に回さず、利益は国外に流れてしまうという現在の体質では、石油価格下落とともに経済も破綻してしまう可能性は否定出来ないのである。

懸念材料としてはもう一つ大きなものがある。それは企業の再国営化である。1990年代にエリツィン大統領の下、数多くの企業が民営化された。ソビエト連邦崩壊後の混乱期であったため、民営化に乗じて財を成し政治力を手に入れた”オリガルヒ”(注)が多数誕生した。しかし現在はプーチンの腹心を中心とした新”オリガルヒ”が誕生している。”オリガルヒ”達を潰し、民営化した企業を再度国営化して国営企業の経営権を抑えることで財と政治力を持つ。つまり国営化で財を成したプーチン派が、その財と地位を守るためプーチン政権を支持することでその保護を受けるという構図だ。これでは企業本来の役割を果たすことは出来ない。社会主義時代に逆戻りだ。
原油・天然ガスなどのエネルギー価格高騰で栄えるロシア経済。BRIC’sの一つとして投資先としての人気も高いロシア。今後も注意深くウォッチし続ける必要がありそうだ。

(注)「オリガルヒ」とは、ロシアの資本主義化の過程で形成された政治的影響力を有する”寡頭資本家”のことを言う。

(引用した今週発売の雑誌)
・週間エコノミスト 7/18「初のサミット開催とエネルギー・バブル大解剖ロシア経済」(毎日新聞社刊)
・Newsweek日本版7.12「石油マネーで復活・世界を揺さぶるロシアパワー」(阪急コミュニケーションズ刊)
・COURRIER Japon 7.20「蘇るロシア・巨大オイルマネーと”ロシアのホリエモン”」(講談社刊)

*雑誌から引用した部分も多いが、その都度引用雑誌名を挙げていないのでご容赦願いたい。

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July 06, 2006

沈黙は”金”なり?

沈黙は”金”なり?

“金”と”銀”のどちらの方に価値があるかと問われれば、間違いなく”金”と答えるであろう。事実、7月6日現在の小売価格ベースでは、1gあたり”金”が2,474円、”銀”が47.56円と約52倍の差で”金”の方が高い。またオリンピックのメダルを見ても”金メダル”が最高である。

わが国の諺の中にも、「沈黙は”金”なり」というのがある。すなわち口舌の災いを戒めた言葉で、”沈黙”を最も価値のある”金”に例えているのだ。同様に「雄弁は”銀”なり、沈黙は”金”なり」という諺が西洋にもある。

ところで、このような当たり前のことを何故取り上げたのかと言うと、理解出来ない一文に出会ったからである。その文章とは、「ギリシャの大雄弁家デモステネスは言った。沈黙は”金”の価値よりないが、雄弁には”銀”の価値がある」だ。これまでの私の常識では理解出来ない一文である。このような疑問を暫く棚上げにしていたのだが、最近納得できる回答に出会った。実は当時”銀”の方が”金”より価値があったのだ。

国際通貨としての”金・銀”について調べていたところ、紀元前の世界では、”金”は”銀”に比べて遥かに容易に手に入れることが出来たのである。科学技術の差だ。”金”の場合は純金またはそれに近いものが”砂金”という状態で手に入れることが出来た。一方”銀”を手に入れるには、”砂金”に比べて遥かに複雑な作業、精錬技術が必要なため、科学の未発達・生産力水準の低い時代では、”銀”は”金”よりも高価だったのである。

しかし、絶対埋蔵量は”金”の方が著しく少なかったので、砂金など地表面に近いところにある”金”を採り尽くすと、”金”と”銀”の価値の差は少しずつ縮小、やがては逆転して”金”の価値が”銀”に比べて数倍、数十倍に膨らんだのである。特に水銀を注入して”銀”を取り出す方法を発見してからは、”銀”の採取が著しく容易になったため、"銀"は大量に供給されてその価値を下げることになった、。

西洋諸国を中心に”金”と”銀”との関係、すなわち金銀比価を見ると、13世紀に「金:銀=1:9」であったが、アメリカ大陸の”銀”が流入し始めた17世紀には「1:11」に、また18世紀の初めには「1:15」になった。6月28日付ブログでご案内した「ラテン通貨同盟」では、「1:15.5」に定められ、暫くの間金銀比価は安定を保っていた。だが、イギリスを除くほとんどの国が「銀本位制」または「金銀複本位制」を採っていた時代に、普仏戦争に勝利したドイツがイギリスに続いて「金本位制」に変更した頃から、”銀”の価値は下落の速度を早めた。1873年には「スカンジナビア通貨同盟」(4月30日付および6月24日付ブログご参照)加盟のスウェーデン、ノルウェー、デンマークが、更に1875年には「ラテン通貨同盟」加盟のフランス、イタリア、ベルギー、スイスが、そして1897年に日本、ロシア、1900年にアメリカが「金本位制」を採用したことで、先進諸国の中での”銀”の通貨としての価値は薄れてしまったのである。

話を戻すが、「ギリシャの大雄弁家デモステネスは言った。沈黙は”金”の価値よりないが、雄弁には”銀”の価値がある」の意味は、古代ギリシャ時代の金銀事情を前提にして初めて理解できる言葉なのである。しかしそこまで理解しても、日本人としては「沈黙は”金”なり」の方があっているように思える。それは私が”雄弁”ではなく、ただ”無駄口”が多いだけだから・・・?。

(参考文献)
「経済学事始」(三上隆三著)[東洋経済新報社刊]
「金(ゴールド)が語る20世紀」(鯖田豊之著)[中央公論新社刊]
「ことわざ小事典」(江藤寛子編)[福音館書店刊]
「ゴールド」(ピーター・バーンスタイン著、鈴木主税訳)[日本経済新聞刊]
「マネー」(ジョン・ガルブレイス著、都留重人訳)[TBSブリタニカ刊]
ほか

(関連する当ブログ)

2007.8.8 「デモステネスと沈黙は金」
http://coinkun.cocolog-nifty.com/coin/2007/08/post_6247.html
2007.8.6 「Jhonさん、ご指摘ありがとうございます」
http://coinkun.cocolog-nifty.com/coin/2007/08/jhon_2f6d.html
2006.7.6 「×××さん、ご指摘ありがとうございます」
http://coinkun.cocolog-nifty.com/coin/2007/04/post_f914.html

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July 05, 2006

日豪交流年記念銀貨

貨幣ぶらり旅(第88回)

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本日、造幣局から「2006年日豪交流年プルーフ貨幣セット」(写真 : 造幣局HPより)が送られてきた。1ヶ月くらい前に購入代金を振り込んでいたので、すっかり忘れていた。今年の「日豪交流年」を記念して販売された貨幣セットである。

 平成18年銘の500円、100円、50円、10円、5円、1円の計6枚のプルーフ貨幣とオーストラリア・パース造幣局製の記念銀貨1枚がセットされ、特製ケースに入っている。発行数は五万セット、販売価格は13,500円であった。

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オーストラリアの記念銀貨(写真 : 泰星コインのHPより)は額面が1オーストラリアドルで、表面にはエリザベス二世女王の肖像、裏面には交流年のロゴマークとカンガルーがデザインされている。コインの直径は40.40mm、重量31.135g、銀品位は99.9%の純銀だ。この記念銀貨は、セット以外に単独で三万枚発行されている。日本のコイン商も取り扱っている。

(参考)コインコレクターではない人のために
プルーフ(Proof)貨幣とは、収集用として つくられる表面が鏡のように光沢のある貨幣のことをいいます。プルーフ貨幣の製造工程は、通常の貨幣とは異なり、 表面を入念に磨き上げた極印(貨幣用金型)を使用するほか、 貨幣の模様を深く鮮明にするために極印を二回打ちするなど、 特殊な技術を用い、細心の注意を払って製造しています。(造幣局HPより)

日豪交流年記念銀貨関連・造幣局のHP
http://www.mint.go.jp/coin/page05-28.html
プルーフ(Proof)貨幣について・造幣局のHP
http://www.mint.go.jp/qa/qa_12.html
日豪交流年記念オーストラリア銀貨取り扱いコイン商・泰星コインのHP
http://www.taiseicoins.com/shop/eshop/description.php3?commodity_code=CA1S60035

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July 04, 2006

231年ぶりに”坂田藤十郎”復活

231年ぶりに”坂田藤十郎”復活

大阪松竹座に歌舞伎を見に行ってきた。先日お話した「ラテン通貨同盟」について更に詳しく調べていたのだが、頭の整理がつかなくなったので気分転換を兼ねての鑑賞だ。

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東京の歌舞伎座では、毎月のように歌舞伎の公演がされているが、大阪では年に数回しか演じられていないので、いつでも見に行けると言うわけではない。しかし7月2日から26日までは「七月大歌舞伎」(写真 : 大阪松竹座のHPより)が催されている。

午前10時から当日券の販売が始まり、公演は午前11時からである。10時前に大阪松竹座の前に行くと長い行列が出来ていた。当日券を買い求める人かと思ったら、既に前売り券を持っている人達であった。並ぶ必要は無いと思うのだが不思議だ。当日券売り場は2人並んでいただけなので、チケットの購入が出来ないのではないかという懸念は吹き飛んだ。
当日券売り場では、ディスプレーに示された座席表の空き席の中から自由に選べる。一番安い3階席の2列目右端(34番)の席にした。一番安いといっても6,000円と高額だ。その後エスカレータに乗って指定の席に向かった。1Fはチケット売り場、受付、ガイドブック販売窓口がある。2Fは歌舞伎グッズ、書籍、お弁当などを売る店が並んでいた。3Fが会場の1階席になる。私の席は5Fだ。座席に着いて舞台の方を見ると、谷底を見下ろす感じがした。ただ、偶然とはいえ、私の座った右端の席は、花道や舞台の隅まで見ることが出来る良い場所であった。私より後ろの席では、花道が十分に見えず、また横の座席の人は舞台の角が見えないようだ。

午前の部の演目は「信州川中島―輝虎配膳」と「連獅子」、「坂田藤十郎襲名披露口上」、「夏祭り浪花鏡」の4つである。11時から始まった。「信州川中島―輝虎配膳」は、近松門左衛門の時代浄瑠璃で、越後の長尾輝虎(上杉謙信)と甲斐の武田信玄の争いを描いた『信州川中島』の三段目にあたる。"輝虎"は、武田家の軍師"山本勘助"を味方につけようと、長尾家の執権直江山城守の妻"唐衣"が"勘助"の妹であることを利用して"勘助"の母"越路"と妻"お勝"を館に迎えもてなす。しかし、"輝虎"の策略を見抜いた"越路"は膳を足蹴にした。これに怒った"輝虎"が"越路"を斬ろうとするが、"お勝"が琴の音で"輝虎"の怒りを鎮めるという一幕。

15分休憩の後、次は「連獅子」が演じられた。能の『石橋』に取材した歌舞伎舞踊で、狂言師の姿をした二人が手獅子を持って石橋の振りをみせ、親獅子が仔獅子を谷底へ落として鍛える故事を取り入れたシーンの前半、勇壮な獅子の姿となって豪快に「狂い」から「髪洗い」へ毛振り舞を見せる後半。演じる翫雀(かんじゃく)と壱太郎は本当の親子。ゆえに「成駒屋」と「若成駒屋」との声がかかっていた。

「連獅子」の後、30分の休憩。昼食タイムだ。2Fの売店の前に長椅子があったので、そこでサンドイッチを食べることにした。たまたま横に座った65~70歳ぐらいの女性に話しかけたところ、歌舞伎公演が来たときは必ず見に来るという歌舞伎ファンであった。その方の話によると、中村勘三郎の襲名披露のときはチケットが取れなかったとの事。歌舞伎人気は凄いとも言っていた。確かに3Fから見ると、1Fの席はすべて埋まっていた。2万円の高額でも満席になるほどの人気。やはり日本人は金持ちなのか・・・。

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食事を終えて席に戻ると、「坂田藤十郎襲名披露口上」が始まった。菊五郎、秀太郎、時蔵など計9人のお祝いの言葉の後、坂田藤十郎(写真 : 大阪松竹座のHPより)の襲名の挨拶があった。坂田藤十郎については、大阪歴史博物館で開催された「日英交流・大坂歌舞伎展」(2005年11月2日付ブログご参照)で、先代の錦絵を見たときから強く印象に残っていたため、今回の襲名披露は非常楽しみであった。231年ぶりの復活。今後の更なる活躍が期待されるところだ。

20分の休憩の後、最後の演目「夏祭り浪花鏡」が始まった。喧嘩沙汰で入牢していた魚売りの”団七九郎兵衛”が放免となった。しかし恩のある玉島家の息子”磯之丞”が事件に巻き込まれてしまう。”団七”の友人”一寸徳兵衛”の女房”お辰”が、”磯之丞”の身元を引き受けることに。一方”磯之丞”の情婦”琴浦”を、”団七”の義父の”義平次”が金欲しさに誘拐。止めようとした”団七”は”義平次”を殺してしまうというストーリー。そして団七は夏祭りの神輿とともに消えてしまうのだ。

“団七”が”義平次”に切りつけるシーン。”義平次”は沼の中に落ちてしまう。”団七”がとどめを刺そうと”義平次”を沼から引き上げる。すると”義平次”は本当に泥まみれの状態で舞台に戻ってくる。リアリスティックな演技だ。最後に”団七”が”義平次”を殺した後、”残バラ髪”で演じる姿は狂気を感じさせる。この後どのようになったのか。観客に気を持たせながら幕は引かれる。公演は午後4時に終わった。外に出ると、出口付近には4時半から始まる夜の部を待つ人で賑わっていた。

ところで、兵庫県尼崎市にある「園田学園女子大学近松研究所」では、「坂田藤十郎展」を開催している(12月20日まで)。参考までにホームページアドレスを掲載する。

大阪松竹座のHP
http://www.shochiku.co.jp/play/shochikuza/index.html
園田学園女子大学近松研究所
http://www.sonoda-u.ac.jp/chikamatsu/

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July 01, 2006

重さ3kgの”銅板マネー”

貨幣ぶらり旅(第87回)・マイ・コイン・コレクション(第14回)

スウェーデンの“銅板マネー”(写真)を手に入れた。日本では見る機会の少ないお金だ。4dalerfrsjpg20
ノルウェーのコイン商で見つけた時に購入を検討したのだが、高額かつ非常に重かったので断念した。しかし、入手しておけば良かったという思いが日に日に強くなったため、先日大阪OAPで開催された「第4回大阪コインショー」に出店していたコイン商の一つに“銅板マネー”の有無について尋ねたところ、在庫を確認してくれることになった。コインショーが終わった翌々日に、1枚だけ在庫がある旨連絡があったので、早速購入することにした。

今回入手した“銅板マネー”は、1746年、スウェーデン王フレデリックⅠ世の時代に発行されたコインだ。縦23cm、横26cmの長方形で、重さは約3kgある(*)。銅板プレートの真ん中と四隅の計5つの刻印が押されており、中央の刻印には「4DALER SILF MINT」の文字と「2本の矢がクロスした図」が、また四隅の刻印には「王冠の図」と「FRS」、「1746」の文字が刻まれている。
(*)“銅板マネー”最大の10ダーレルの場合は重さが約20kgある。

ところで、何故このようなマネーを発行したのだろうか。それは17世紀初頭のデンマークとの戦争により、スウェーデンにおける銀の備蓄が著しく不足する一方、銅資源が豊富だったためである。「図説お金の歴史全書」(ジョナサン・ウィリアムズ著・湯浅赳男訳)には、「ヨーロッパのほとんどの銅貨の原料はスウェーデン産、特に大ファルン鉱山で産出したものであった。コイン用の銅の需要はスウェーデン王国の収入を増やして、17世紀ヨーロッパにおけるこの国の政治的、軍事的な役割を突出させる役に立った。銅の価格を穏当な所に維持するために、自国の算出高を十分に吸収しようとするようにスウェーデンは、単なる記号ではない銅の通貨を採用した。それは銅板に金型で刻印を打ち、その価値をダーレル銀貨の単位、1ダーレルから10ダーレルまでの貨幣単位で表示したものである。」と書かれている。つまり、不足する銀でコインを造る代わりに、それと同価値のマネーを銅で製造したのであり、また豊富な銅資源を“銅板マネー”としてストックし、それによって銅の国際価格を維持しようとする狙いがあったのだ。

しかし、非常に重いお金で持ち運びに不便なことから、スウェーデンではヨーロッパ初の銀行券が発行されるようになったのである。最初の銀行券を発行したのは、国王の特許状の下で設立されたストックホルム銀行だ。銀行は“銅板マネー”を預かり、それと同じ価値を表す銀行券を発行する。そして国民は商取引の決済を銀行券で行うのである。この銀行券という「信用証券」は、当初上手く機能したが、やがて過剰発行のため収拾が付かなくなった。この点については別の機会にお話したいと思う。

(参考文献)
・ 「図説お金の歴史全書」(ジョナサン・ウィリアムズ著・湯浅赳男訳)[東洋書林刊]
・ 「Standard Catalog of World Coins 18th Century 3版」[Krause刊]
・ 「THE STORY OF MONEY」[大英博物館刊]
・ 「西洋貨幣史(下)」(久光重平著)[国書刊行会刊]
・ 「物語 北欧の歴史」(武田龍夫著)[中央公論新社刊]

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