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October 31, 2008

北村美術館「深秋のころ」展

茶の湯ぶらり旅(第25回)

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「北村美術館」に行って来た。現在、平成20年秋季特別展「深秋のころ」が開催されている。京阪電鉄「出町柳駅」で下車。南西方向に徒歩で約10分。メイン通りから一つ奥に入った、静かな場所に位置する。赤いタイル煉瓦の建物が印象に残る(写真)。階段を上り、少し重そうな扉を開けて中に入ると、左手に受付がある。見学者は1~2名と少ない。平日の夕方だからであろう。展示は3F。階段を上り、展示室に向かった。

美術館で頂いた展示目録によると、「茶の湯の正月である開炉・口切りもすぎ、京都は北山時雨とともに、深まりゆく秋の風情となります。今回の取り合わせ展示は、そのころを想定し、小間での濃茶、続き薄茶と懐石道具を味わっていただこうと用意しました。床の利休居士の文は、羽柴忠三郎こと蒲生氏郷が、茶事を控えての準備のためかいろいろ質問をしたことに対し、狂歌でもって返答した内容の掛物です」との事。

展示は、「小間・濃茶」、「小間・薄茶」、「小間・懐石」に分けられていた。以下、展示内容を見る。
① 「小間・濃茶」(写真左)
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・茶灼(清厳宗渭作・共筒・銘 見色明心 / 大龍箱 : 写真中左)
・掛物(利休筆・蒲生氏郷(がもううじさと)宛 燈籠の文 : 写真中右)
・花入(古伊賀耳付杵形)
・釜(古天明・霰傘地文)
・炉縁(利休好木地殴・比老斎箱)
・水指(朝鮮唐津一重口)
・茶入(古瀬戸肩衝・銘 末廣 / 江岑直書・如心斎箱)
・茶碗(彫三島・銘 内海(だいかい) : 写真右)
・出袱紗(福寿文紹巴・豊太閤陣羽織裏地裂)
・建水(南蛮内渋・金森宗和箱)
・蓋置(古竹・江月在判 / 普斎所持)

② 「小間・薄茶」(写真左)
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・香合(保全作・伽藍 / 吸江斎箱)
・薄茶器(不昧好・羊遊斎(ようゆうさい)作・大菊棗・銘 山路 : 写真中)
八重の菊、一重の菊、裏から見た姿の菊を重ね合わせ、花芯には
・干菓子盆(根来輪花 / 黒澤明旧蔵)
・茶碗(古萩・筆洗形)
・替(楽宗入作・黒・銘 山猿 : 不見斎箱 : 写真右)
・替(鳴瀧焼・瓢文)
・干菓子盆(根来輪花・黒澤明旧蔵)

③ 「小間・懐石」(写真左)
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・焼物鉢(重要文化財・織部松皮菱(写真右)・保全作・青磁汁次・天啓赤絵写匙(さじ))
・強肴鉢(御本三島)
・徳利(古備前饅頭抜け)
・石盃(絵志野・四方・唐津・保全作・呉須赤絵写)

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これら以外に特別展示として、「仏教美術」と「魯山人と数寄者の手遊び」というテーマで、展示されていた。中でも、北大路魯山人作「絵瀬戸秋草文壺」と「直書名刺」、同じく魯山人筆・扁額「静観」は印象に残る(写真)。

約1時間、ゆっくり見学させてもらった。展示に合わせ、濃茶席、薄茶席などでこれらの茶器を使っているところを想像すると、楽しく見ることが出来る。このような展示方法も面白いと思った。本展は12月7日(日)まで開催されているので、一度訪ねてみては如何だろうか。

(参考文献)
・「茶道雑誌10月号」(河原書店)

北村美術館・秋季展に関するHP
http://www2.ocn.ne.jp/~domoto/imade/kitamura.htm

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October 30, 2008

茶道具と器にみる四季の花展

茶の湯ぶらり旅(第24回)

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「茶道具と器にみる四季の花展」(写真 : 湯木美術館のHPより)を見るため、湯木美術館に行って来た。大阪の中心部にあるにもかかわらず、騒々しくなく、落ち着いて展示物を味わえる美術館である。今回の展覧会は、平成20年<秋季展>として開催されている。展示案内によると、「四季に恵まれた日本では折々の花が愛でられ、常緑の松や竹とともに、工芸品の意匠としても古来より好んで表されてきました。花そのものが主題とされるほか、和歌や物語の象徴として、あるいは吉祥文様や家紋としても表されるなど、多彩な 意匠が見られます。また、蒔絵や螺鈿を用いた漆器、色絵や染付の陶磁器など、素材 や技法によって花の表現は様々です。特に陶磁器では、江戸時代に色絵が発達して一層豊かな花の意匠が現れ、茶道具や懐石の器の中に華やかな彩りを添えています。今回の展覧会では、四季の花が描かれた茶道具と器の中から約70点を展示致します」との事。

以下、今回展示されている作品の中から、3点をご紹介する。なお、写真は同展案内から、また説明文は展示解説から引用した。

① 「藤蒔絵金輪寺(きんりんじ)茶器」(桃山時代)
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金輪寺は、円筒形の身に蓋を載せた茶器で、後醍醐天皇が吉野・金輪寺にて山の蔦で作ったのが始めと伝わります。この茶器は、ざんぐりとした刳物(くりもの)で、藤が金蒔絵で描かれています。一本の幹から伸びる蔦と豊かな花房で全面が覆われて華やかです。割れを止めるために打たれた鎹(かすがい)も景色になっています。箱書は益田鈍翁。

② 「色絵桜透かし鉢」(仁阿弥道八作・江戸時代)
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乾山の端反(はぞり)鉢を倣い、内外ともに満開の桜が白泥に赤と青で描かれています。幹には金彩が施され、土波は明るい緑で、口縁部に小さな透かしが開けられています。深鉢ながら、軽やかな印象です。高台内に道八の小印。共箱 横江竹軒旧蔵。

※道八(1783~1855年)は、乾山写や彫塑に優れ、独自の作風を確立。仁和寺・醍醐三宝院により、仁・阿弥の号を許され、仁阿弥(にんあみ)と称す。

③ 「色絵水仙透かし鉢」(尾形乾山作・江戸時代)
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椀形(わんなり)の鉢の内外に、白釉と黄釉で描かれた水仙の花が、濃い緑釉の葉に映えた美しい鉢です。口縁は水仙の姿に形作られ、胴には葉形に沿って三十二もの透かしが開けられています。背の高い高台は無釉で、内側には一部白泥が施されて乾山銘が大きく書かれています。

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その他にも素晴らしい作品が展示されており、茶室風に作られた展示ケースでは、染付平蓮水差(清時代)や、古染付山水図芋頭水差(明時代)、色絵柳橋図水差(江戸時代・野々村仁清作・久原家伝来)を(写真左 : 左から順に)、また、酒器の展示ケースでは、古清水梅花文銚子(江戸時代)や黄瀬戸平盃(桃山時代)、九谷花文盃(江戸時代・吉田屋)、赤絵升盃(江戸時代・青木木米作)、青磁升盃(江戸時代・青木木米作)、オランダ花文盃(17世紀)を(写真右)見ることが出来る。

今回の展覧会は、12月14日(日)まで開催されている。茶道具に興味のある方にはお薦めである。なお、「春季展」のテーマが茶碗だったためであろう。今回、茶碗の展示はないのでご留意を。

(ご参考)
平成20年4月16日付当ブログ「湯木美術館―茶碗を愉しむ―」(茶の湯ぶらり旅・第13回)

湯木美術館のHP
http://www.yuki-museum.or.jp/exhibition/index.html

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October 29, 2008

千家十職・黒田正玄家の竹工芸展

茶の湯ぶらり旅(第23回)

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「千家十職・黒田正玄家の竹工芸」を見るため、表千家北山会館に行って来た(写真左)。京都・地下鉄烏丸線「北山駅」で下車。西へ徒歩約5分で会館に到着。内部は広々としており、明るく清潔な感じだ。展示は2F(写真中左)、3F(写真中右)と地階(写真右)の3フロアーである。最初に2Fの展示室を訪れた。花入、香合、茶器、茶灼などの茶道具が展示されている。ご存じの通り、黒田正玄家は千家十職の一つで、竹工芸の茶道具を担当する家だ。展示解説によると、「初代正玄は、天正6年(1578)に生まれ、もとは武士でしたが竹細工を生業とするようになります。のちに、小堀遠州より柄杓作りの名手としての手腕を認められ、江戸幕府3代将軍徳川家光の柄杓師として推挙されました。 以来黒田家は8代まで将軍家に仕え、徳川将軍家御用柄杓師として明治維新を迎えました。千家との関係が出来るのは3代正玄時代、表千家6代覚々斎の御用をする頃からです。柄杓のほかにも、竹の花入・香合・中次・茶杓なども製作するようになりました。以来歴代は表千家家元の御用をつとめ、その後、13代(当代)へと家業を継続し、現在に至っています」との事。

本展では、黒田家の歴代の作品を中心に、竹を素材とした各種茶道具が展示されている。今回はこれらの中から5点をご紹介する。なお、写真と解説は、「千家十職黒田正玄家の竹工芸-茶の湯工芸の伝統と創造―」から引用した。

① 「竹一重切花入・銘 : 帰雁」(初代正玄作)
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黒田家は、初代正玄が小堀遠州より柄杓作りの名手としての手腕を認められ、竹を生業とすることとなるが、初代より柄杓のみならず、竹工芸の技で持って茶道具の制作も行っていたのであろう。遠州に熱心に茶の湯を学んだことを感じさせる風情ある竹花入が今に伝わっている。

② 「茶灼・銘 : フルミチ」(初代正玄 次男・正圓作)
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初代正玄の次男、正圓は小堀遠州の弟子で、近江膳所藩主、本多候の茶道役をつとめた。この茶灼はおそらく青竹で作られたが、自然枯れしたもの。全体に穏やかな作ぶりで、筒には武人に共通する爽快な面取りがなされており、側面に「眠らぬそ千代の古道月の駒」と書き付けている。

③ 「片桐石州好・竹水指棚」(十一代正玄作)
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片桐石州は江戸前期の大名茶人。茶を桑山左近に学び、利休以来のわび茶の近世化を完成した。禅への関心も深く、大徳寺の玉室宗珀(そうはく)に参禅。将軍家茶道師範となり、ついに小堀遠州の跡を受け武家茶道の大家としての地位を確立した。この竹の素材を生かした棚は、地板の部分に竹の節を利用して見事な円を描いているところが見どころといえよう。

④ 「竹内栖鳳絵 竹茶器」(十二代正玄作)
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竹内栖鳳は、京都生まれの明治期の日本画家である。四条派の流れを汲み、新時代の流れを盛り込んだ関西における日本画壇の指導者であった。竹の素材を活かした夕顔の墨絵が清々しさを感じさせてくれる。この茶器の蓋裏には裏千家十四代淡々斎の花押がある。

⑤ 「竹 葎(むぐら)香合」(七代正玄作)
Dsc00041葎とは、荒地や野原に繁る雑草の総称であるが、この香合にみられるように自然界に育った竹が持つわびた風情から使われるようになった名称であろう。一位様は、安永六年(1777年)に家督を相続した紀州徳川家十代徳川治宝(はるとみ)卿のこと。この蓋裏に金泥で「喜」(七の字3つ)の一字を書かれている。七代正玄が当時紀州に出仕していた表千家九代了々斎に同行し出来た縁の証であろう。葎とは、荒地や野原に繁る雑草の総称であるが、この香合にみられるように自然界に育った竹が持つわびた風情から使われるようになった名称であろう。一位様は、安永六年(1777年)に家督を相続した紀州徳川家十代徳川治宝(はるとみ)卿のこと。この蓋裏に金泥で「喜」(七の字3つ)の一字を書かれている。七代正玄が当時紀州に出仕していた表千家九代了々斎に同行し出来た縁の証であろう。

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一通り展示品を見終えた後には、お茶を楽しむことが出来る。2Fの呈茶席(写真左)に行き、受付でもらった呈茶券を渡し、しばらくするとお茶菓子が運ばれてきた。「お干菓子」で、「亀末廣」の「菊と葉」(写真中)との事。懐紙に菓子を取り、美味しく頂いていると、お抹茶が出された(写真右)。一服頂戴し、ホッと一息である。約1時間半、名品を見学し、お茶も頂け、非常に楽しい時を過ごす事が出来た。本展は11月30日(日)まで開催されている。千家十職や竹工芸に興味をお持ちの方は、是非訪ねて戴きたい。

なお、柄杓については地階に展示されていたのだが、各種竹の素材も展示され、非常に興味深いものだったので、資料を整理したうえで別の機会にお話ししたいと思う。

(参考文献)
・「千家十職黒田正玄家の竹工芸-茶の湯工芸の伝統と創造―」(表千家北山会館)

表千家北山会館のHP
http://www.kitayamakaikan.jp/special/index.html

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October 28, 2008

茶の湯展 古儀茶道・藪内流

茶の湯ぶらり旅(第22回)

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「茶の湯展 古儀茶道・藪内流」を見るため、「香雪美術館」に行って来た。阪急電鉄神戸線「御影駅」から東南方向へ徒歩で約10分。「弓弦羽(ゆずるは)神社」(写真左)を通り抜け、美術館の入り口に到着(写真中左)。正門を潜ると石畳の通路。緑に囲まれており、落ち着いた雰囲気が漂う。庭には呈茶用に設けられた席がある。真っ赤な色が目を引く。奥には茶室もある(写真中右)。階段を上り、美術館の建物に入る(写真右)。ご存じのとおり、この美術館のコレクションは、朝日新聞の創立者である村山龍平翁(以下翁と呼ぶ)によって収集されたものがベースになっている。彼は近代の数寄者の一人で、「香雪」の号を持つ。薮内流の茶道を修めた。なお、コレクションは茶道具関連だけではなく、書画(屏風・絵巻を含む)、仏教美術(仏画・仏像・墨蹟)、漆工芸、武具(剣・甲冑・刀装具)など幅広い。

ところで、「香雪美術館」によると、「本展では、千利休・古田織部や春屋春屋和尚との親密な交流を通じて、流祖、藪内剣仲を顕彰し、さらに二代真翁以下、歴代家元の業績をゆかりの品でたどりつつ、代々が茶頭を勤めた西本願寺からの厚誼を偲びます。また、利休時代の茶道を本筋として、華美を戒め古儀を守る藪内流の茶風を、棚飾り十八種に取り合わせた点前座の趣向によって紹介いたします」との事。

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展示は1Fと2Fのツーフロアに分かれている。最初に2Fを訪ねた。階段を上った左手に、茶室が展示されている。ここでは、千利休の「竹一重切花入」や、与次郎・阿弥陀堂の釜、井戸雷盆の水指、漢作唐物・薬師院肩衝の茶入、藪内剣仲の共筒・茶灼、高麗茶碗・銘「山井」などが並ぶ。その手前にある小型のケースには、薮内家二代・月心軒から六代・比老斎の茶灼や香合、茶入などが展示されている(写真)。

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壁側の大きな展示ケースには、「旅箪笥」、「山里棚」、「栖楼棚(せいろうだな)」、「中央卓(ちゅうおうじょく)」、「猫額棚(みょうがくだな)」、「台目棚(だいめだな)」などが並び、各棚などには、釜や水指、棗、茶入、茶碗などを載せて展示されている。中でも、「一重切花入」(藪内剣仲作 : 写真左)や、掛物である「寂寥」(せきりょう)二字(藪内剣仲作 : 写真中左)、「弾き三足香合(はじきみつあしこうごう)」(古田織部作 : 写真中右)、「黒茶碗・剣仲銘 社長(むらおさ)」(長次郎作 : 写真右)などは必見である。
※作品の写真は、本展示案内書と香雪美術館のHPから用いた。

一方、階段を上った右手の大きな展示ケースには、「長板」や「小及台」、「大及台」、「紹鴎棚」、「壺盧棚」、「冠棚」、「帛紗棚」などが並び、同じく各棚などには、釜や水指、棗、茶入、茶碗などを載せて展示されていた。低い棚に目を移すと、先ほど見た小型ケースに展示されていた薮内家歴代の続き、七代・桂陰斎から当代・青々斎の茶灼や花入、茶碗などが並んでいる。

次に1Fの展示を見ると、「金紫銅(きんしどう)・卍透火舎(まんじすかしほや)・鼎形香炉」(明代)や「高麗・井戸名物手茶碗・燕庵井戸」(李朝)の他、「台子」や「袋棚」に釜や水指、棗、茶入、茶碗などを載せて展示されていた。

約1時間半、ジックリと見学することが出来た。数多くの名品に接することが出来、色々と勉強することが出来た。本展は12月14日(日)まで開催されているので、茶の湯の美術に関心のある方は、ご覧になることをお薦めする。
なお、11月15日(土)から、一部入れ替えになることにご留意を願いたい。

香雪美術館のHP
http://www.h3.dion.ne.jp/~kousetu/

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October 26, 2008

知られざる紀州の大和絵師

知られざる紀州の大和絵師

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先日、「和歌山市博物館」に行って来た(写真左 : 建物全体・写真右 : 入口)。現在、「知られざる紀州の大和絵師-岩瀬広隆(いわせひろたか)」展を開催している。当初、常設展を見るつもりだったので、「岩瀬広隆」については何も知らなかったのだが、展示を見始めると、少しずつ作品に引き込まれていった。

「岩瀬広隆」は、別名「菱川清春」と言い、江戸時代後期から明治にかけて活躍した紀州の画家である。二十代前半には、自称・菱川師宣五代目として、数多くの版本挿絵を手掛ける京都の浮世絵師として活躍したという。その後、『紀伊国名所図会』の挿絵画家として紀州に招かれたのをきっかけに、作画活動の拠点を京都から紀州に移し、やがて紀州藩十代藩主・徳川治宝に認められたことから、紀州藩のお抱え絵師にもなり、以後、生涯を紀州で過ごしたという。

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展覧会では、古典に取材した大和絵をはじめ、風俗図、風景画など、初公開作品を含む広隆の作品と、彼が挿絵を担当した版本類、関係資料あわせて約150点を、次のような構成で展示している(写真左 : 「摂州大阪天満宮御祭礼図」大判四枚続(阪急学園池田文庫蔵)・写真右 : 伝岩瀬広隆筆「粉河寺縁起絵巻」(摸本)一巻(粉河寺蔵))。

① 京の浮世絵師・菱川清春
② 清春(広隆)紀州へ―「紀伊国名所図会」と紀州の風景
③ 紀州藩お抱え絵師・岩瀬広隆
④ 広隆の絵画世界①―古典と風俗―
⑤ 広隆の絵画世界②―多彩な試み―

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続いて常設展を見に行った。見たいテーマは2つ。「貨幣」と「茶の湯」である。前者は、「和同開珎」について。ご存じのとおり「和同開珎」は、和銅元年(708年)に発行され、全国への流通が図られた。紀伊国では、養老6年(722年)に、調を和同開珎で納めるように命令が出された。和歌山市内太田黒田遺跡からは42枚が出土しており、この地でも流通していることが確認できるとの事。後者については、若いころに古田織部や織田有楽について茶の湯を学んだ初代藩主徳川頼宣は、千利休の曾孫・江岑宗左(こうしんそうさ)を藩の茶道役として召抱えた。「数寄の殿様」と言われた第十代藩主・徳川治宝(はるとみ)の下で、紀州の茶道文化が花開いたという。陶磁器もこのころ盛んに生産され、県内には十か所を超える窯が知られている。中でも御庭焼(おにわやき)を代表する偕楽園焼(写真左 : 赤楽加賀光悦写茶碗・あからくかがこうえつうつしちゃわん)、御用窯(ごようがま)を代表する南紀男山焼(写真中 : 紀三井寺図水指)、民窯を代表する瑞芝焼(ずいしやき)(写真右 : 青磁菊透文手焙・せいじすかしもんてあぶり)などは、すぐれた陶工を招き、素晴らしい作品を多く残しているという。

特別展、常設展とも、私の興味を引くものが多かったので、時間が許せばもう少し見ていたかった。「和歌山市立博物館」は、南海電鉄本線「和歌山市駅」下車、西へ徒歩約5分と非常に便利な場所にある。大阪・難波からは特急で約1時間かかるのが少々不便だが・・・。
特別展は、11月24日(月)まで開催されているので、興味のある方はお出かけになられてはいかがだろうか。

※写真は「和歌山市立博物館」のHPから転用した。

(参考文献)
・「和歌山市立博物館―総合案内―」(和歌山市立博物館編・刊)

和歌山市立博物館
http://www.wakayama-city-museum.com/

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October 25, 2008

第60回正倉院展

第60回正倉院展

本日(10月25日)より、恒例の正倉院展が始まった。今回で60回目を迎える。ご存じのとおり、正倉院には約9,000件の宝物が納められているが、今回はその中から、初出展の19件を含む69件が展示されている。今年の特徴は、工芸の優品、佩飾品(はいしょくひん : 腰帯から下げられた腰飾りのこと)、天蓋の関連資料が、まとまって展示されているところにあるという。工芸の優品としては、今回最も注目される「白瑠璃碗(はくるりのわん)」や「刻彫尺八(こくちょうしゃくはち)」、「平螺鈿背八角鏡(へいらでんはいのはっかくきょう)」、「紫檀木画双六局(したんもくがのすごろくきょく)」が見ものである。また佩飾品では、「犀角魚形(さいかくのうおがた)」が、そして天蓋の関連資料では、「灌頂天蓋骨(かんちょうてんがいのほね)」や「方形天蓋(ほうけいてんがい)」などが見逃せない。当稿末に揚げた各HPに、出展されている品々についての解説が詳しく出ているので、ここでは今回の目玉と言える3点をご紹介するに留めたい。なお、写真と解説文は、奈良国立博物館のHPから引用していることをお断りしておく。

① 「白瑠璃碗(はくるりのわん) : カットグラスの碗」(口径12.0cm  高8.5cm  重485グラム : 中倉)
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厚手のガラス碗。器体は淡い褐色を帯びた透明で、細かな気泡が多数含まれる。外面に円形切子(きりこ)を連続して刻んだいわゆるカットグラスで、凹レンズ形にくぼむ切子に反対側の切子文様(もんよう)が映り、美しい視覚効果が演出されている。製法は、溶かしたガラス素材を拭(ふ)き竿(さお)につけ、半球形の型に当てながら吹き膨らませた「型吹き製法」で、切子は回転する砥石(といし)を押し当てて一つ一つ磨き上げたものである。素材はアルカリ石灰ガラス。産地は西アジア、特にイラン高原北西部のギラーン州より多くの類品が見つかっているため、その周辺で5~6世紀頃に製作されたものと考えられており、正倉院宝物の中で、最も遠方からもたらされた品に入る。なお、本品と同種のカットグラスは世界各地のコレクションに例をみるが、当初の輝きと透明度を保ったものは本品が唯一である。シルクロードの交流を象徴し、古代ガラスの美しさを今に伝える非常に貴重なガラス器である。

② 「平螺鈿背八角鏡(へいらでんはいのはっかくきょう) : 螺鈿のかざり鏡」(径32.8cm 縁厚0.7cm 重3514.8グラム : 北倉)
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『国家珍宝帳(こっかちんぽうちょう)』記載品。鏡背(きょうはい)を螺鈿(らでん)などで飾った白銅製の鏡で、輪郭は八花形(はっかがた)に形作られている。鏡背は螺鈿による花文様で埋め尽くされている。花弁や花心の赤い部分は朱色を下面に彩色して琥珀(こはく)片を伏せたものであり、白色の螺鈿にはヤコウガイが用いられ、精緻(せいち)な線刻(せんこく)が施されている。銅の成分が唐代の鏡と一致することから、唐からの請来品と考えられている。本品は鎌倉時代の寛喜二年(1230)の盗難で大破したが、明治二十八年(1895)に復元された。

③ 「紫檀木画双六局(したんもくがのすごろくきょく) : すごろく盤」(縦30.6cm 横54.5cm 高17.8cm : 中倉)
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紫檀(したん)に様々な色の材料を嵌(は)め込む木画(もくが)の技法で装飾を施した、豪華な双六盤(すごろくばん)である。長側面に二箇、短側面に一箇の格狭間(こうざま)を作り、脚の下には地摺(じずり)を巡(めぐ)らしている。天板は周囲に立ち上がりを作り、長辺がわに三日月形一箇を中心に左右各六箇ずつ花文を木画で表している。側面は立ち上がりや脚に、花唐草文(はなからくさもん)を主とし、間に鳥、雲、鳥にのる人物などを表している。木画には象牙、ツゲ、緑に染めた鹿角、水牛角、竹などを用いている。

本展覧会は、11月10日(月)まで開催されている。例年通り混雑が予想されるが、過去の経験から言えば、平日の午後4:00以降に訪ねると、比較的ゆったり見ることが出来るのではないだろうか。今年はどうだろう?

奈良国立博物館のHP
http://www.narahaku.go.jp/exhib/2008toku/shosoin/shosoin-1.htm
読売新聞社・正倉院展特集のHP
http://osaka.yomiuri.co.jp/shosoin/
宮内庁・正倉院HP
http://shosoin.kunaicho.go.jp/

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October 24, 2008

ローテンブルク(8)[ローテンブルク旧市街を一望]

南ドイツの旅(第25回)

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「聖ヤコブ教会」を出て、「市庁舎」に向かった。「市庁舎」は、昨日から何度も訪れている「マルクト広場」の西側に面して建っている。「ローテンブルク市街地図(日本語版)」によると、堂々たる市庁舎は二つの部分から構成されています。ゴシック様式の市庁舎は鐘楼と共に1250~1400年の間に建てられました。前方のルネッサンス建築物は1572~1578年間に建設され、アーケード突出部が1661年に付け加えられました。これらの建築部分は採光中庭(リヒトホーフ)により繋がっています。~(中略)~建築学上大きな意味を持つのが市庁舎鐘楼です。その特殊性は、それが独自の土台を持たずに切り妻の上に乗せられているに過ぎないことにあります」との事。鐘楼の展望台へは、マルクト広場に面した正面入り口から行くことが出来る。螺旋階段を上ると(写真左)、頑丈な角材で組まれた天井の入り口ホールに着く(写真中左)。このホールを横切った処にある扉が、展望台の入り口だ(写真中右)。まだ開けられていなかったので、入口横に置かれていたベンチに座っていると、同じツアーの人たちがやってきた。しばらくすると、係りの女性がやって来て、扉を開けてくれた。彼女に続いて木製の狭く急な階段を上る(写真右)。事務室で入場料2ユーロを支払い、ハシゴをよじ登る(写真下)と展望台に出た。高さは60mだ。

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ここからは、ローテンブルクの旧市街が一望できる。昨日、今朝と旧市街の隅々まで歩き廻ったので、どこに何があったかがすぐにわかる。最初は西側。「ブルク門」や「ブルク公園」、「フランツィスカーナ教会」などが見える(写真左)。北西に目を移すと、城壁外を流れるタウバー川と、川にかかる「ドッペル橋(二重橋)」が見える。城壁との境あたりには「中世犯罪博物館」がある(写真中左)。北側を見ると、遠くに「シュピタール門」が、またその手前には「プレーンライン」の「ジーバース塔」が建ち、両者の間、右手には馬引き製粉所「ロスミューレ」がある(写真中右)。次は東側。こちら側には「レーダー門」や「マルクス塔」が(写真右)、そして目を少し北側に進めると、手前に「市議宴会館」が、その先には「ヴァイサー塔」と「ガルゲン門」が並ぶ(写真下左)。北側を見ると、修復中の「聖ヤコブ教会」があり、その向こうには「クリンゲン門」と「聖ヴォルフガング教会」が建っている(写真下中左)。最後に、「マルクス広場」の「ゲオルクの噴水」(写真下中右)や「鐘楼の鐘」を見て(写真下右)、展望台を降りることにした。ホテルには、集合時間である午前10:00の5~6分前に到着した。

(参考文献・資料)
・「07~08地球の歩き方 南ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「06~07地球の歩き方 ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「ロマッチック街道(日本語版)」(Kraichgau-Verlag GmbH刊)
・「ローテンブルク(日本語版)」(Wolfgang Kootz著)[Kraichgau- Verlag GmbH刊]
・「ローテンブルク市街地図(日本語版)」(ローテンブルク観光局)
・「ドイツものしり紀行」(紅山雪夫著)[新潮社刊]
・「ヨーロッパものしり紀行(城と中世都市)」(紅山雪夫著)[新潮社刊]

ローテンブルクの観光案内
http://www.rothenburg.de

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October 23, 2008

ローテンブルク(7)[ リーメンシュナイダーの「聖血の祭壇」]

南ドイツの旅(第24回)

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ホテルで朝食をとり、午前8:45分ころ再び外出した。この時間にホテルを出たのは、最初に訪問を予定していた「聖ヤコブ教会」のオープンが午前9:00からだったからである。添乗員に、出発までの時間、「聖ヤコブ教会」(写真左)と「市庁舎の塔」(写真右)に上るのが良いと伝えていたからであろうか。同じツアーの人たちも、私の後を追って来た。

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午前8:55頃、「聖ヤコブ教会」の前に到着(写真左)。間もなく、教会の扉が開いた。受付で入場料2ユーロを支払い、教会内に入る(写真右)。「07~08地球の歩き方 南ドイツ」によると、この教会は「1311~1490頃までの長い建築期間を要して完成したゴシック様式の教会。ローテンブルクの主教会であり、1544年からはプロテスタントの教会となっている」との事。

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そしてこの教会で必見なのが、ティルマン・リーメンシュナイダー作「聖血の祭壇」である。受付で所在を確認すると、入口から左側の階段を上った処(西内陣の上階)にあるとの事だったので、その場所に直行した。「ご礼拝のしおり(日本語版)」によると、「この祭壇は、(リーメンシュナイダーが)1499~1505年にかけて市から注文を受け作った。それはイエスの血の聖遺物を納める新しい豪華な祭壇が必要となった為である。1270年頃と思われる聖遺物の十字架の中に水晶の玉があり、これを納める為に作ったのである。中央の彫刻は最後の晩餐の場面で大変迫力がある。キリストはユダが裏切る事を予言していて、ヨハネスは主の胸元にふせている。左翼はイエスがエルサレムに入ろうとしている場面(エルサレム入場)で、右翼はゲッセマネの庭でのイエスの祈りである(オリーブ山)。この彫刻を組み入れて祭壇に仕上げたのはローテンブルクの巨匠エルハルド・ハルシュナーである」との事。リーメンシュナイダーの作品については、すでにお話ししたように、今回の旅でも、クリクリンゲン・ヘルゴット教会の「聖母マリアの被昇天」やローテンブルク・ブルク公園内・ランツィスカーナ教会の「聖フランシスコ祭壇」などを見てきたが、この作品は、リーメンシュナイダーが自らの最盛期に精力を込めて完成させた最も質の高い優れた作品の一つと言われているだけのことはあり、見ていても飽きが来ない。特に、キリストから一口のパンを受け取ろうとするユダの姿は、リアリティーに満ちている(写真左 : 全体像・中左 : 祭壇左翼・中右 : 祭壇中央・右 : 祭壇右翼)。

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続いて1Fの「大祭壇」に向かった。東内陣にある「大祭壇」は、1466年に完成したもので、「十二使徒祭壇」と呼ばれている(写真左)。祭壇飾り台プレデラ部分にキリストとその12人の使徒が描かれているため、このように呼ばれるようになったという。左右両翼の絵画は、フリートリッヒ・ヘルリン作。中央の巧みな木彫りも見事な出来栄えだが、作者は不明との事。中心に位置する十字架のキリスト、その下には6人の聖者が並ぶ。左からエリザベート、ヤコブ、マリア、ヨハネス、レオンハルト、アントニウス、・エレミタだ(写真中右)。左翼には「受胎告知」と「マリア宅の訪問」、「キリスト降誕と割礼」(写真中左)が、また右翼には「東方三博士の来拝」、「寺院でのキリスト」、「マリアの死」(写真右)が描かれている。

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祭壇の背後には、見事なステンドグラス(写真左)。高さ17mの高窓全体に広がっている。中央には「キリストの生涯と受難の場面」が、左側には「マリアの生涯」、右側には「キリストの救済」が表されている。ここから振り返り、西の高廊に目を移すと、パイプオルガンが見える(写真右)。1968年に奉納されたもので、「ローテンブルク(日本語版)」によると、「空間いっぱいに響きわたるその音色から、世界中の専門家達の間で称賛されているものである。69の音栓、パイプ5,500本、二段で計六つの手鍵盤からなる演奏台を有している」との事。
もう少し見ていたかったのだが、時間が無くなって来たので、午前9:25頃、次の目的地である「市庁舎」に向かった。


(参考文献・資料)
・「ローテンブルクの聖ヤコブ教会(日本語版)」
・「ご礼拝のしおり(日本語版)」(聖ヤコブ教会)
・「07~08地球の歩き方 南ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「06~07地球の歩き方 ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「ロマッチック街道(日本語版)」(Kraichgau-Verlag GmbH刊)
・「ローテンブルク(日本語版)」(Wolfgang Kootz著)[Kraichgau- Verlag GmbH刊]
・「ローテンブルク市街地図(日本語版)」(ローテンブルク観光局)
・「ドイツものしり紀行」(紅山雪夫著)[新潮社刊]
・「ヨーロッパものしり紀行(城と中世都市)」(紅山雪夫著)[新潮社刊]

ローテンブルクの観光案内
http://www.rothenburg.de
聖ヤコブ教会
http://www.rothenburgtauber-evangelisch.de

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October 22, 2008

ローテンブルク(6)[朝食前の旧市街観光]

南ドイツの旅(第23回)

本日は、ローテンブルクを出て、ハイデルベルクに向かう予定だ。午前10:00出発のため、それまでの時間を利用して、昨日回ることが出来なかった場所を訪ねることにした。ひとつは「聖ヤコブ教会」で、もう一つは「市庁舎の塔」である。前者は午前9:00から、また後者は午前9:30からなので、なんとか訪ねることが出来る見込みだ。ただ残念なのは、「ワインジョッキ」のオリジナルを展示している「郷土博物館」の開館時間が午前10:00のため、見ることが出来ない点だ。

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午前6:30に起きて、外が明るくなる午前7:00少し前に外出した。最初に訪ねたのは、「旧鍛冶屋ゲルラッハーシュミーデ」である(写真左 : 南側から・中左 : 西側から)。「レーダー門」のすぐ南に位置し、ローテンブルクの木組みの家々の中で、最も魅力的で美しいものの一つと言われている。素敵な窓がついており、色鮮やかな紋章で飾られた可愛らしく細かい切り妻屋根が印象的だ。その後、「レーダーガッセ通り」を西に進むと、花で飾られた泉「レーダーブルネン」である(写真中右)。「ここでは、可愛らしい民家やロマンチックな泉レーダーブルネンが、マルクス塔の荘重な寄棟屋根やアーチ門レーダーボーゲンと共に魅力的な情景を作り出している」(「ローテンブルク(日本語版)」より)。ここも「プレーンライン」と並び、ローテンブルクで最も美しい眺めの一つと言って良いであろう(写真右)。

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次は「職人の家」である。「マルクス塔」すぐの南東、「アルター・シュタット・グラーベン」(古い市壁の堀)沿いに位置する(写真 : 通路右側の建物)。「ローテンブルク市街地図(日本語版)」によると、建物内部は「1270年建設のこの家の中に、元通りに調度の置かれた11の部屋に分けて、どのように中世において職人がその大家族とともに生活し働いていたかが示されている」との事。早朝なので、内部を見学することはできない。ところで「アルター・シュタット・グラーベン」は、第一次城壁と堀の跡地に出来た通りで、700年ほど前には、その名の通りこの場所は「お堀」だったのである。そして、「郷土博物館」-「ヴァイサー塔」-「マルクス塔」-「中世犯罪博物館」-「ブルク門」には、第一次城壁が張り巡らされていたことが分かる。

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続いて、昨日最後に訪れた「マルクス塔とアーチ門レーダーボーゲン」を潜り、「マルクト広場」に出た。ここで注目したのは、広場の西南角に設けられた「ゲオルクの噴水」である(写真左)。昨日から気になっていたのだが、ようやくユックリと見ることが出来た。噴水の真ん中に立つ柱の頂に、悪竜を退治する「聖ゲオルク(英語名 : セント・ジョージ)」の像があるので、このように呼ばれているようだ(写真中左・中右)。ローテンブルクは、「丘陵の上という地理的条件のために、水の供給は生存に関わる問題でした。そのため町には、飲料水の供給のためばかりでなく、消火貯水池としても機能した40か所を超える噴水が設置されました。ゲオルク噴水は深さ8m、容積10万リットルの町の最大の噴水です。装飾は後期ルネッサンス時代(1608年)のもの」(「ローテンブルク市街地図(日本語版)」より)との事。ところで各噴水には、手で動かす事が出来る、可動式の樋(とい)が付いている。「ドイツものしり紀行」によると、「この樋を操作することにより、泉の中央の台からほとばしり出ている水を手元に導いて、桶などに注ぎ込むことが出来る。泉だけなら各地の中世都市に残っているけれども、このような可動桶まで残っている例はめずらしい。昔は、たいていの泉にこのような可動桶が付いていた」との事。可動式なので自分の手で動かしてみたいところだが、現在は南京錠が取り付けられており、動かすことはできない(写真右)。

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次は、「マルクト広場」の手前、東南に位置する「バウマイスターハウス」だ(写真左)。現在はレストランとして使用されているが、元は市の建設役の家であった。「ドイツものしり紀行」によると、「当市に限らず中世都市ではどこでもそうだったが、建設役は市長に次ぐ要職で、市の公共建造物すべてについて責任を持つとともに、市の財政を管理する収入役の務めも果たしていた」ようだ。現在の建物は、「1596年に再建されたもので、ローテンブルクの中心部にある家としては新しい方だ。ルネッサンス式で、二階と三階のところに七つの美徳と七つの悪徳を象徴する像が付いている」(前掲書より)。簡素な切り妻屋根は17世紀に新しくされたものらしい(写真中・写真右 : 美徳と悪徳の像)。

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続いて「バウマイスターハウス」のある通りから一本西側の道路に面する、「人形とおもちゃ博物館」である(写真左)。入口には「こけし」のような人形が立ち、来館者を迎えてくれる(写真右)。内部は、陳列床400平方メートルに、1780~1940年間に製作された300を超す市に行が展示されている。人形はドイツのものだけでなく、ヨーロッパ諸国のものもあり、人形の家や部屋、台所、そしてお店やブリキの玩具も展示されているようだ。まだ朝が早いので、博物館内の見学はできなかった。

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朝食前、最後に訪れたのが、昨日も見た「コボルツェラー門」である(写真左)。昨日は城壁内から見ただけだったが、一旦城壁の外に出てから写真を撮ると良いとの事だったので、再度訪れた次第である。ここに向かう途中、昨夕、「マルクト広場」でお食事をしていたご夫婦とお会いしたので、一緒に写真を撮りに行った。昨日と異なり、城壁外から見る景色は美しい(写真中)。外郭の門の上は、帝国を象徴する「双頭の鷲」とローテンブルク市の紋章で彩られていた(写真右)。

以上で、朝食前の観光は終了。午前7:40頃ホテルに戻って朝食を採り、午前8:45頃、再び旧市街の観光に出かけた。

(参考文献・資料)
・「07~08地球の歩き方 南ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「06~07地球の歩き方 ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「ロマッチック街道(日本語版)」(Kraichgau-Verlag GmbH刊)
・「ローテンブルク(日本語版)」(Wolfgang Kootz著)[Kraichgau- Verlag GmbH刊]
・「ローテンブルク市街地図(日本語版)」(ローテンブルク観光局)
・「ドイツものしり紀行」(紅山雪夫著)[新潮社刊]
・「ヨーロッパものしり紀行(城と中世都市)」(紅山雪夫著)[新潮社刊]

ローテンブルクの観光案内
http://www.rothenburg.de
人形とおもちゃ博物館
http://www.spielzeugmuseum.rothenburg.de

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October 21, 2008

酒器に酔う―東アジアの酒文化

酒器に酔う―東アジアの酒文化

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「酒器に酔う―東アジアの酒文化」展(写真 : 「酒器に酔う―東アジアの酒文化」展案内のHPより)を見るため、大阪市立東洋陶磁美術館に行って来た。本展では、日本、中国、韓国のやきものの酒器が、約30点展示されている。東アジアでは、古来より独自の酒文化を持ち、その発展とともに酒器もそれぞれに発展してきた。酒甕、酒壺、酒瓶などが各時代、各地域で作られたが、なかでも陶磁器製の酒器は、現代に至るまで東アジアの焼き物の歴史において主要なジャンルの一つになっているという。

以下、展示されている名品の中から、私の気に入った5点をご紹介する。なお解説文と写真は、本展図録「酒器に酔う―東アジアの酒文化」並びに「大阪市立東洋陶磁美術館のHP」から引用したことをお断りしておく。

① 「五彩金襴手 花鳥文 瓢形瓶(ごさいきんらんで かちょうもん ひょうけいへい)」
[明時代・16世紀 景徳鎮窯 / h:55.8㎝ d:24.4cm 4,680g・個人蔵]
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金襴手とは五彩(色絵)磁器に金彩を焼き付ける技法とその作品に対する日本独自の呼称です。もともと明時代の嘉靖年間に景徳鎮の民窯でつくられ、日本にもたらされた作品を金襴手と呼んでいました。織物の金襴に由来する名称といわれています。日本には金襴手の優品が数多く伝世していますが、この作品は金襴手の瓢形瓶としては最大級のもので、さらにその華麗で精緻な文様表現など金襴手中の名品の一つです。胴下部には孔雀、鹿、鶴などの吉祥の鳥や動物が対で描かれています。瓢箪は仙人の仙薬(霊薬)入れとして定着し、仙人のシンボルの一つにもなっている。

② 「色絵 秋草文 徳利(いろえ あきくさもん とっくり)」
[江戸時代・17世紀 京焼・古清水(「岩倉」印)/ h:24.2㎝ d:14.8cm 832g]
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古清水とは、野々村仁清によって完成された江戸時代の京焼色絵陶器の総称で、後発の京焼磁器である清水焼に対するものです。緑を基調にさらに青、赤などによる色絵と金彩で、菊などの草花文が伸びやかに表現されています。底部には「岩倉」銘の小判形印が見られます。同一銘のある陶片が京都御苑(公家町遺跡)の17世紀後半の遺跡から出土しており、この作品もその時期のものと考えられます。京都の公家らによる優雅な酒宴を彩ったものなのでしょう。

③ 「澱青釉紅斑 杯(でんせいゆうこうはん はい)」
[金時代・12~13世紀 鈞窯 / h:4.8cm d:9.0㎝ 110g ]
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鈞窯は宋時代に始まります。澱青釉と呼ばれる失透性で青味が強い灰青色の乳濁釉がその特徴で、なかでも酸化銅による紫紅色の斑文を加える技法は釣窯を最も代表するものと言え、抽象的な文様がその特色です。鈞窯の窯は河南省の禹(う)県(けん)が中心ですが、華北の各地の窯でも焼成されています。

④ 「五彩金襴手婦女形水柱(ごさいきんらんで ふじょがた すいちゅう)」
[明時代・16世紀 景徳鎮窯 / h:33.1cm d:17.6cm 840g]
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青化五彩に金彩が加えられた豪華な「金襴手」の作例です。後補の髷が蓋で、一枝の花を手にした右手の袖口が注口、そして左腕が把手となる舞女の姿をかたどった酒注です。温和な笑みをたたえた上品な顔立ちは美しく、長袖(ちょうしゅう)を翻し、右足を上げて舞う姿は何とも優雅です。衣装も華やかで凝ったものであり、宮廷の舞女を思わせます。明中期以降、奢侈の風が広まり、酒宴での歌舞や伎楽は欠かせないものとなりました。美しい舞女から注がれる酒はさぞかし美味だったことでしょう。高台内には「富貴佳器」銘が見られます。江戸の宝永6年(1709)の箱書きを伴いますが、伝来は不明です。ロンドンのサー・パーシヴァル・デイヴィッドのコレクションなどに類例が知れます。

⑤ 「青磁鉄地象嵌 詩銘 瓶(せいじてつじぞうがん しめい へい)」
[高麗時代・13世紀 / h:30.0㎝ d13.0cm 1,840g]
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素焼後に鉄泥を塗り、青磁釉を描けて焼いたものです。前後両面には象嵌技法により次のような詩文が表されています。「酒為温無毒(酒は温めると無毒となり)/茶因冷不香(茶は冷めると香らない)/此酒不可不飲(この酒を飲まずにいられようか)/佳人才子刹逢(佳人[美しい女性]と才子[才知の優れた男性]の短い逢瀬に)」。酒と茶は熱いのが良いように、男女の恋愛も燃えるように熱くということでしょうか?お酒はその演出の良きパートナーとなるのは昔も今も同じといえます

以上5点をご案内したが、酒器を見ることが出来るのは、この企画展だけではない。常設展にも、十数点の酒器が展示されているのだ。わかりやすいように、展示品の横に薄紅色の瓢箪マークが示されている。日本、中国、朝鮮の陶磁器に興味をお持ちの方は、十分に楽しむことが出来ると思う。本展覧会は12月26日(金)まで開催されているので、一度ご覧になっては如何だろうか。


(参考文献)
・「酒器に酔う―東アジアの酒文化」(大阪市立東洋陶磁美術館編)[財団法人大阪市美術振興協会発行]
・「東洋陶磁の展開」(大阪市立東洋陶磁美術館編)[財団法人大阪市美術振興協会発行]

「酒器に酔う―東アジアの酒文化」展案内のHP
http://plaza.harmonix.ne.jp/~artnavi/10publicity/201226-toyotoji-sake/00toyotoji-sake.html
大阪市立東洋陶磁美術館
http://www.moco.or.jp/jp/index_f.html

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October 20, 2008

ローテンブルク(5)[ 「市議宴会館」の仕掛け時計]

南ドイツの旅(第22回)

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「コボルツェラー門」で城壁を降りると、「プレーンライン」(写真)だ。「ローテンブルク市街地図(日本語版)」によると、「プレーンライン(ラテン語で「小さな場所」)はドイツの中世を伝える町の景観として最も美しいものの一つです。右はタウバー渓谷の二重橋から直接に通じる道、左は南の郊外からの乗り入れ道という二つの重要な乗り入れ道により小さな三角形の広場が出来ており、そのためにプレーンラインという名が付いています。その後方にあるのがジーバーの塔です。1385年頃に建立されており、従って第二の市壁リングの市門です」との事。

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「プレーンライン」での景色は確かに美しい。観光客の写真を撮る姿が目立つ。私も数枚写真を撮り、北に向かった。すると左手に「中世犯罪博物館」が見えてきた。遂に、ローテンブルクの町を一周したのである。さらに北に進み、「マルクト広場」(写真左)に出ると、広場の中心に、人だかりが見えた。「夜警によるガイドツアー」に参加する人たちが集まっていたのだ。中世には町の平和を守る夜警がおり、黒いマント姿をしていたという(写真中 : 黒マント姿のガイド・右 : ツアースタート)。現在は、この姿をしたガイドが、夜のローテンブルクを案内するツアーが行われているのだ。ツアーは10人以上集まった場合に催行され、英語ガイドは午後8:00から、ドイツ語ガイドは午後9:30からとの事。残念ながら、日本語ガイドはない。

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広場の景色を眺めていると、私の名前を呼ぶ声が聞こえた。同じツアーに参加しているご夫婦であった。レストランの屋外席で、夕食の最中であった。本日の夕食はフリーだったので、私もどこかで食事をしなければならないのだが、ご夫婦のテーブルに座らせてもらい、お薦め料理を一口頂く。非常に美味しい。すると急にお腹が減り始めた。しばらくお話ししていると、再び人が集まり始めた。「マルクト広場」の北側に建つ「市議宴会館」(写真左 : 右手の建物・左手は市庁舎)に設けられた仕掛け時計が、午後9:00に動くからである。この仕掛け時計、南ドイツの旅(第20回)でお話ししたように、「マイスタートルンク」の主役ティリー将軍(向かって左側の窓)と、大ジョッキを手にしたヌッシュ市長がワインを飲み干すシーン(向かって右側の窓)を表している(写真右)。

ところで「市議宴会館」だが、「ヨーロッパものしり紀行(城と中世都市)」によると、ドイツ語では「ラーツヘルン・トゥリンク・シュトゥーベ」と言い、「市参事たちがいっぱい飲むところ」という意味らしい。中世には、市参事になれるのはごく一部の有力商人とその一部のものに限られ、市長をはじめ市参事たちはみな重い責任を負い、激務であったにもかかわらず、完全な名誉職とみなされ無給であったという。そして、舞踏会など一定の機会に市の費用で飲み食いできることだけが報酬代わりだったようだ。その飲み食いできる場所が、この「市議宴会館」だったのである。

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仕掛け時計を見た後、同じツアーのご夫婦と別れ、本日最後の訪問場所である「マルクス塔とアーチ門レーダーボーゲン」に向かった(写真左 : マルクト広場側から・右 : レーダー門側から)。この塔は、12世紀に造られた第一次城壁の生き残り。後方には、町の監獄の一つであったかつての「刑吏館」がある。「刑吏館」内には、今日町の文書庫が入っているという。時計塔は16世紀に付け加えられたようだ。日も沈んできたので、本日の観光はここで終了。夕食は「プレーンライン」の近くにある「中華料理店」でチャーハンをテイクアウトし、ホテルで頂いた。

(参考文献・資料)
・「07~08地球の歩き方 南ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「06~07地球の歩き方 ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「ロマッチック街道(日本語版)」(Kraichgau-Verlag GmbH刊)
・「ローテンブルク(日本語版)」(Wolfgang Kootz著)[Kraichgau- Verlag GmbH刊]
・「ローテンブルク市街地図(日本語版)」(ローテンブルク観光局)
・「ドイツものしり紀行」(紅山雪夫著)[新潮社刊]
・「ヨーロッパものしり紀行(城と中世都市)」(紅山雪夫著)[新潮社刊]

ローテンブルクの観光案内
http://www.rothenburg.de
夜警によるガイドツアー
http://www.nightwatchman.de

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October 19, 2008

ローテンブルク(4)[8の字形堡塁・シュピタール門]

南ドイツの旅(第21回)

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「レーダー門」は、14世紀末の建造で、未だに保存されている税関と門番小屋、高い塔に二重の外郭を擁する市門である(写真 : 左・城壁内から、中・城壁外から・右 : 門番小屋)。この塔は上まで登ることが出来るとの事であったが、すでに午後7:00。日没までのあまり時間がなかったので断念し、ここからさらに南に向かって城門の上を歩いた。

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5~600mほど進むと、「シュピタール門」に到着(写真左)。「ローテンブルク市街地図(日本語版)」によると、「市壁の南端は町で最強の防壁です。17世紀に構築された稜堡(バスタイ)には二つの空濠(ツヴィンガー)と7つの門があります。大砲の設置された階は通ることが出来ます。特に印象的なのが、未だに保存されている防壁の堀です(写真中左)。これは決して防壁だけが保護の役割を果たしていたのではないことを明らかにしています。それは、襲撃者が掘りを渡ろうとして既に失敗したことも度々あったからです」との事。また「ドイツものしり紀行」によると、「シュピタール門は七重になっている。いちばん内側の高い塔のある門は14世紀に、それに続く8の字形の堡塁は16世紀にできた。昔は堡塁の外に広い堀があり、跳ね橋がかかっていた。そうしてたとえ敵が跳ね橋を突破して堡塁の中庭に乱入してきても、堡塁の前後に備えられている鉄の落とし格子で出入り口をふさぎ、敵を袋のネズミにしておいて、まわりから攻撃を加えられるようにできていた(写真中右)。16世紀は大砲の性能が向上し、破壊力がとみに大きくなった時代である。城壁を守る側では、敵の大砲の破壊力にいかに対応するかに苦心した。対応策の一つは、それまでの中世風の城壁よりは格段に重厚な堡塁を城門の両側に張り出す事であった。城門を破壊されると一挙に敵軍の突入を許すことになるので、やはり城門が守りのポイントであった。シュピタール門は重厚な堡塁をあとから付け足した好例であるが、円形の堡塁が二つ連なって8の字形担っているところがユニークだ(写真右)。階段を上って堡塁の内部に入ると、砲架がずらりと並んでいて(写真下左)、守る側でも大砲で反撃する備えを固めていたことがわかる」との事。ちなみに、堡塁の内部は薄暗く、少々気味が悪かった(写真下右)。

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「シュピタール門」の次は、すぐ西側に位置する「シュピタール地区」である。この地区の名前は、シュピタール(救護病院)に由来するもの。かつての病院であるシュピタールは、当初城壁の外側に位置していたのだが、15世紀に城壁を拡張し、市内に統合された。この地域の建物のほとんどが、現在老人ホームやユースホステルとして使用されている。この地区の中庭中央には、騎馬巡視官の館(ヘーゲライターハウス)が建っている(写真左)。これは16世紀に、建築家ヴァイトマンによって建造されたもので、かつてこの一階部分はシュピタールの厨房として、またその上の階には、シュピタールで必要とされる物資の管理者たちが住んでいたという。その隣には、井戸を備えた地下貯蔵館と製パン所が建つ(写真中左)。その隣には、教会がある。「シュピタール教会」だ(写真中右)。この地区で現存する建物の中では最も古く、1281年に建立されたという。中庭の南角には、「帝国都市ホール」がある(写真右)。ここは「当時のシュピタール用の大規模な倉庫ツェーントショイネ(十分の一物品税の穀物倉庫、1699年造)」で、「1975年、ローテンブルクはここを「帝国都市ホール」に改造した。それ以来この大ホールには600人を収容することが出来るため、歴史的会議、その他の催し物に利用されている」(「ローテンブルク(日本語版)」より)との事。ホールに続く「シュトゥーバーライン塔」の北側には、屋外の舞台が設けられていた(写真下)。最近造られたような感じである。

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ここから再び城壁に上り、北に向かって進んだ。城壁の小窓から外を眺めると「聖ヤコブ教会」などの景色が見える(写真左)。反対側、城壁内に目を移すと、馬引き製粉所・ロスミューレが建っている(写真中)。「中世の時代では、不作や戦争に備え、市民が自分の家屋に2年分の穀物の蓄えを持たなければならなかった。もし包囲されたり、あるいは渓谷の水位低下で極度の水不足が生じた場合には、タウバー渓谷沿いにある数多くの水車製粉所だけでは切り盛りが出来ないため、ローテンブルクは1516年、市壁内製粉所の建設に取り掛かることになる。内部には、16頭の馬が大きな巻き揚げ機を引いて、4つの製粉作業をすることが出来た」(「ローテンブルク(日本語版)」より)との事。「シュトゥーバーライン塔」から200mほどで「コボルツェラー門」に到着(写真右)。ここで城壁を降りた。

(参考文献・資料)
・「07~08地球の歩き方 南ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「06~07地球の歩き方 ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「ロマッチック街道(日本語版)」(Kraichgau-Verlag GmbH刊)
・「ローテンブルク(日本語版)」(Wolfgang Kootz著)[Kraichgau- Verlag GmbH刊]
・「ローテンブルク市街地図(日本語版)」(ローテンブルク観光局)
・「ドイツものしり紀行」(紅山雪夫著)[新潮社刊]
・「ヨーロッパものしり紀行(城と中世都市)」(紅山雪夫著)[新潮社刊]

ローテンブルクの観光案内
http://www.rothenburg.de


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October 18, 2008

豊臣秀吉が造らせた「黄金の茶室」

大黄金展
茶の湯ぶらり旅(第21回)

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高島屋・大阪店(写真左)で開催されている、「大黄金展」に行って来た。TV報道で、「黄金の茶室」(写真中)が展示されていることを知り、どうしても見たかったからである。ご存じのとおり「黄金の茶室」は、豊臣秀吉が造らせたといわれる組み立て式の茶室。大阪城天守閣の3Fにも実物大のレプリカ(写真右)が展示されているが、今回展示されている茶室も、限られた資料と伝承をもとに再現された複製品である。手の届く場所にそのまま展示されている。もちろん触れることは出来ない。TV報道では、総額3億円と言っていたように思う。広さは6畳ぐらいか。真っ赤な絨毯に、真っ赤な障子紙。それ以外はすべて金ピカだ。金の茶釜に金の柄杓、金の茶碗に金の茶筅、天井も屋根も壁も、とにかくすべてが金。大阪城のものは、ガラス越しに見るため、これだけの迫力はない。

会場に入ると、仏具・食器・置物など、たくさんの金製品が展示販売されている。価格を見ると、数十万円から数百万円まで幅広い。商品展示以外では、5kgの鉄の塊と同じ大きさの金塊を並べ、その重さの違いを体感できるコーナーや、5,250円以上の買い物をしたお客さん向けの、純金茶釜と純金茶碗を使用してお抹茶とお茶菓子を楽しませてくれるお茶席が設けられていた。茶席には着物を着た女性が3名おり、抹茶を点てる準備をしていた。皆さん、純金の茶碗でお茶を点てるのは初めてとの事。金なので熱伝導が良いため、茶碗が熱く、持つのに一苦労だとか。なるほど・・・・。

展示会場の奥に進むと、黄金の茶道具が置かれていた。茶碗が三百数十万円、お茶灼は七十数万円と豪華。すべて24金(純金)なので、曲がったり、擦り減る懸念はないのかと、少々心配になった。結局何も買わなかったのだが、リツチな気分にはなれた。この「大黄金展」は、10月20日(月)まで開催されている。「黄金の茶室」は必見。ご覧になることをお薦めする。

※「大阪城天守閣」については、当ブログ平成18年8月13日付「大阪城・天守閣博物館」もご参照。

大黄金展
http://www.takashimaya.co.jp/osaka/event2/index.html#1
大阪城天守閣・黄金の茶室
http://www.osakacastle.net/exhibition/3f.html

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October 17, 2008

大正ロマン・昭和モダン展

大正ロマン・昭和モダン展

堺市立東文化会館文化ホールで開催されている、「大正ロマン・昭和モダン展-竹久夢二・高畠華宵とその時代―」に行って来た。日本文化と西洋文化が交り合い、新しい文化が見られるようになった大正時代。この時代に活躍したのが、竹久夢二や高畠華宵(たかばたけかしょう)である。彼らが描く哀愁を帯びた大きな瞳の細身の女性像は、大正ロマンという時代の哀調を背景として大衆に大きな支持を得たという。

本展では彼らの作品のほかに、蕗谷紅児(ふきやこうじ)や中原淳一、浮世絵の流れを汲む鏑木清方や伊東深水、池田輝方、池田薫園ら伝統的な画家たち、浮世絵版画の再興を願い大衆普及を目指す「新販画」の橋口五葉、小早川清ら、さらにヨーロッパの版画の影響を受け、自画、自刻、自摺の「創作版画」の山本鼎や恩地幸四郎など、大衆アートとして愛された大正ロマン、昭和モダンの画家たちの作品約200点が紹介されている。以下、8点をご案内する。

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① 「港屋絵草紙店」(竹久夢二作)[大正3年(木版画)](写真左)
夢二、タマキ(中央)、彦乃19歳(右側)が画中に登場するモダンな風俗画で、夢二版画の傑作中の傑作と言われている。
② 「雪の夜の伝説」(竹久夢二作)[婦人グラフ大正15年12月号口絵(木版画)] (写真中左)
③ 「花をいだいて(鈴蘭)」(高畠華宵作)[原画] (写真中右)
④ 「お留守居」(蕗谷紅児作)[「令女界」大正11年11月号の表紙(原画)] (写真右)
⑤ 「あしながおじさん」(中原淳一作)[ジュニアそれいゆ昭和29年7月号(原画)] (写真下左)
⑥ 「化粧」(橋口五葉作)[大正7年(木版画)] (写真下中左)
伝統木版を基礎としつつも、新しい感覚と個性溢れる版画製作に意欲を燃やした「新販画」。橋口五葉のほか、伊東深水、山村耕花(こうか)、名取春仙、川瀬巴水らが取り組む。
⑦ 「踊り」(山村耕花作)[大正13年(木版画)] (写真下中右)
⑧ 「みずうみのほとり」(松本かつぢ作)[原画](写真下右)

その他、鏑木清方作「茶屋娘」や「唐人お吉」、伊東深水作「蚊帳美人図」なども美しい。だが、今回の展示で私が最も気に入ったのは、高畠華宵作「ほたる籠」である。色白の肌に色っぽい目つき、少し西洋人とのハーフを思わせるような美人画だ。実物を見たい方は、本展覧会をご覧願いたい。

本展示作品は、浮世絵研究家・中右瑛氏のコレクションによるもの。なお、本展は10月19日(日)まで開催されている。

※写真は、本展案内チラシより掲載した。

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October 16, 2008

特別展「香炉―東アジアの香りの文化をたどる―」

茶の湯ぶらり旅(第20回)

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特別展「香炉―東アジアの香りの文化をたどる―」を見るために、和泉市久保惣記念美術館(写真)に行って来た。「香炉」なので、「茶の湯ぶらり旅」シリーズにするのもどうかと思ったが、かつては茶の湯でも使われていたことから、ここに記すことにした。

ご存じのとおり、「香炉」は香を焚くための器である。「香(こう)」は、香(かおり)によって臭気を除く効果から、不浄を払うものとして宗教儀礼で重視され、仏教では花瓶、燭台とともに「香炉」は重要な器として扱われたという。このような「香炉」だが、香木が高価であったこともあり、行事や儀式、富裕な人々の嗜好の中で使われた豪華なものが残されている一方、装飾を省いた仏具や、茶の湯で用いられた陶磁製の素朴なものも存在している。本展覧会では、古代から近世にかけて、日本、朝鮮、中国で作られた金属器、陶磁器、木漆器などの約150点を展示している。「博山炉」や「阿古陀(あこだ)形香炉」、「柄香炉」、「火舎香炉」など、興味を引くものばかりである。今回は、これら展示の中から5点をご紹介する。なお、説明文は展示解説から引用したことをお断りしておく。

① 「青磁・袴腰(はかまごし)香炉」(重要文化財)[中国・南宋時代/出光美術館蔵]
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南宋時代の浙江省・龍泉窯で製作された青磁は、鎌倉時代には大量に日本に輸出されていた。教徒や鎌倉の寺院では、今も南宋時代の花生や香炉の優品が遺されている。袴腰香炉は、袴をはいたような形から付けられた呼称で、器形の元となったのは、中国古代の鬲(れき)という足が袋状になった器である。器形は古代の青銅器に倣いながら、古代特有の獣面文などの文様装飾は省かれており、厚くかけられた釉薬が生み出す青磁の美しさを、いかにこの時代の人々が愛好していたかがうかがわれる。

② 「青磁彫刻・鴛鴦蓋(おしどりぶた)香炉」[朝鮮・高麗時代/大阪市立東洋陶磁美術館蔵]
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鴛鴦が蓋に接合されて、蓋に開けた孔を通って鴛鴦の口から香煙が出る作りになっている。頸周りの羽などに片切彫りを使い、背の扇状の羽や胴部の羽などには線刻を用いて、細部の表現をしている。蓋の傾斜面には霊芝雲文、側面に雷文を線刻している。口部に鍔(つば)状の縁を設け、傾斜面をつけた側面下部に3本の足が付けられている。鍔状の縁と3本の足を持つ炉の状態は、唐時代の5足形の香炉から続くものである。高麗青磁には、この形の炉の上に獅子を載せた作品もある。鴛鴦は夫婦の円満を象徴する鳥として、高麗の絵画や工芸の意匠に好んで用いられている。

③ 「色絵・花唐草文獅子鈕蓋(ちゅうふた)香炉」[江戸時代/戸栗美術館蔵]
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透明釉の下の染付(青花)の青と、釉上に描かれた赤、金、緑によって鮮やかに彩られた香炉。花を赤で描き、花芯に金彩を施す。唐草文の蔓(つる)と葉を染付で描き、蔓の所々に緑色で葉を小さく描いている。蔓の中心に獅子形の鈕(つまみ)を付け、縁近くに花形、団扇形、ハート形の煙孔が開けられている。伊万里焼(佐賀県)は、江戸時代初期から磁器の製作が始まり、多色を施す。色絵磁器の製作も、江戸時代中ごろに始まる。この作品は、17世紀後半末頃に制作されたもので、端正な器の仕上がりや赤と青の鮮やかな絵付けから、当時の伊万里焼の目指した色絵磁器の美しさを見ることが出来る。

④ 「鉄銀象嵌・花鳥文鼎形(かなえがた)香炉」[朝鮮・朝鮮王朝時代/高麗美術館蔵]
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長方形の4本足の鼎形香炉で、中国倣古器の影響を受けた器形である。炉は側面・底面を接合して作り、耳、足も別作りしたものを接合している。器面全体に銀象嵌が細かく密に施されている。蔓には雷文と波状文を施し、中央の鈕を囲んで煙孔が設けられている。炉の側面には、枠内に牡丹のような花と2羽の鳥が表され、枠外には雷文が表されている。器形は中国古代の方鼎の形をあまり崩さずに写している。祭祀での供香に用いられたもので、古式な器形は、その用途にふさわしいものであったと思われる。

⑤ 「臙脂紅(えんじこう)・八吉祥唐草文香炉」[中国・清時代/静嘉堂文庫美術館蔵]
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臙脂紅は、上絵付けの技法の一つで、材料に色ガラスの粉と鉛の粉を用いている。濃淡のある絵付けができるのが特徴で、この作品では輪郭線や細部の描線を濃く、塗りつぶす部分を薄く使い分けをしている。八吉祥文は、幸福や幸運をもたらす意義を持つ、白蓋、宝瓶、連華、盤長、法螺、宝傘、宝輪、双魚の8つの文様のことで、胴側面に宝相華唐草文に混じって描かれている。厚く作られた口縁より一回り細く作った頸、肩から長く伸びた耳、丸みを帯びた足など、古代の鼎とは異なる造形が見られる。口縁に「大清乾隆年製」の銘が記されている(乾隆 : 1736~1795)。

以上ご紹介した5点以外にも、「響銅・鶄尾(じゃくび)形柄香炉」、「青銅鍍金・火舎香炉」、「純金・葵紋蜀江文沈箱」などの重要文化財や、香木(十種名香の内)も見ることが出来る。本展は、11月30日(日)まで開催されているので、一度ご覧になることをお薦めしたい。なお、11月5日以降は一部展示替えになるのでご留意願いたい。

※写真は本展チラシより掲載した。

和泉市久保惣記念美術館のHP
http://www.ikm-art.jp/tenrankai/index.html


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October 13, 2008

ローテンブルク(3)[城壁・城門めぐり?]

南ドイツの旅(第20回)

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続いて「聖ヤコブ教会」(写真左)に向かったが、午後5:15を過ぎており、クローズされていた。この教会にもリーメンシュナイダー作「聖血の祭壇」があるのだが、本日は見ることができなかった。明日の朝、再度訪問することにし、次の目的地である「郷土博物館」(写真中)に向かった。残念ながら、こちらの博物館も午後5:00で閉館であった。「ローテンブルク市街地図(日本語版)」によると、「このローテンブルクの郷土博物館は、かつてのドミニコ修道尼院の建物内に収容されています。1258年から1544年の宗教改革までここにドミニコ修道会の尼僧たちが居住していました。敷地の大きさが、中世におけるこの修道院の大きな経済的重要性を物語っています。修道院時代に由来するのが完全に保存されている修道院厨房です」との事。この厨房は、ドイツで現存する調理場としては最古のものらしい。ところで、この博物館で見逃してはならないのが、ヌッシュ市長が一気飲みをした「選帝侯の特大ワインジョッキ」である「マイスタートルンク」(写真右 : 郷土博物館のHPより)だ。3.25リットル入るガラス製で、表面にはエナメル彩画が施されている。「マイスタートルンク」には次のような伝説がある。「1631年、三十年戦争のさなかのこと。ローテンブルクを占領した皇帝軍の将軍が、市参事会員たちの首をはねることになった。たまたま、将軍が市のワインをすすめられたとき、将軍はこの大ジョッキを一気に飲み干す者あらば、斬首はやめようと言った。市長がこれを受け、見事に一気に飲み干して、この窮地を救った」(「06~07地球の歩き方 ドイツ」)というもの。ちなみにこの物語は、のちに訪ねる「マルクト広場」にある「市議宴会館」の仕掛け時計のテーマとなっている。

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「郷土博物館」から「クリンゲンガッセ」に出て、北に向かった。ローテンブルク旧市街の北東の角、ここには「クリンゲン門」(写真左)と「聖ヴォルフガンク教会」(写真中)があるのだ。「ドイツものしり紀行」によると、「クリンゲン門は、城壁の外にもう一つ外郭を備えている堅固な城門だ。外郭の一部を構成しているのは聖ヴォルフガンク教会で、内側から見ると端正なゴシック式の教会だが、外側は城壁と同じ造りになっている(写真右)。このように教会に城壁の一翼を担わせるというやり方は、中世都市でちょいちょい見られる。城壁の築造には莫大な費用がかかるので、このように少しでも費用の節約をはかったのである」との事。

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「クリンゲン門」の右手に階段があったので上ってみると、城壁の上を歩くこが出来るようになっていたので(写真左)、東に向かって歩き始めた。ここからは、先ほど訪れた「聖ヤコブ教会」の全体が見える(写真中左)。しばらく進むと、右手に広場が見えたので、城壁を降りることにした。ここは「シュランネン広場」(写真中右)で、数多くの車が止まっている。ここから南に150mほど歩くと、「ヴァイサー塔(白い塔)」(写真右)の前に出た。この塔は、12世紀に建造された市門で、塔の右手に隣接して建つのは「ユダヤ人舞踏館」である。「ローテンブルク市街地図(日本語版)」によると、「ここは中世におけるユダヤ人の生活の中心地でした。たくさんの帝国自由都市と同様に、ローテンブルクにも大きなユダヤ人共同体があり、一時は人口の20パーセントを占めていたのです。有名なラビ(ユダヤ人数学者)であったマイヤ・ベン・バルッフのユダヤ教典学校は世界にその名声を博していました。庭の塀の中には中世のユダヤ人墓石がはめ込まれています」との事。

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その後、東へ300mほど歩き、「ガルゲン門」(写真左 : 城壁内より・写真中左 : 城壁外より)に到着。「ガルゲン」とは「絞首台」の意味。「ドイツものしり紀行」によると、「中世都市では一罰百戒の意味もあって、人通りが一番多い城門の街道わきに刑場を設け、罪人を縛り首にした後、しばらくは絞首台からぶら下げたままにしておいた。ローテンブルクではこの門外に刑場があったので、ガルゲン(絞首台)門という別名が生まれた」との事。本書によると、この門の正式名称は「ヴュルツブルク門」で、ヴュルツブルクに向かう古来の街道がこの門を通っていたからだという。ここから再び階段を上り、城壁を歩くことにした(写真中右)。しばらく歩いていると、城壁の壁に団体や個人の名前を記した石のプレートが埋め込まれているのに気がついた。それも数多く続いているのだ。これは城壁の修復のため、寄付をした寄贈者たちの名前との事。日本人や日本の団体の名前もある(写真右)。城壁を南に250mほど歩くと、「レーダー門」だ。ここで再び、城壁を降りることにした。

(参考文献・資料)
・「07~08地球の歩き方 南ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「06~07地球の歩き方 ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「ロマッチック街道(日本語版)」(Kraichgau-Verlag GmbH刊)
・「ローテンブルク(日本語版)」(Wolfgang Kootz著)[Kraichgau- Verlag GmbH刊]
・「ローテンブルク市街地図(日本語版)」(ローテンブルク観光局)
・「ドイツものしり紀行」(紅山雪夫著)[新潮社刊]
・「ヨーロッパものしり紀行(城と中世都市)」(紅山雪夫著)[新潮社刊]

ローテンブルクの観光案内
http://www.rothenburg.de
郷土博物館
http://www.reichsstadtmuseum.rothenburg.de
マイスタートルンク
http://www.meistertrunk.de

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October 12, 2008

ローテンブルク(2)[ローテンブルク発祥の地]

南ドイツの旅(第19回)

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「犯罪博物館」の見学を終え、次に向かったのは「ブルクガルデン(城塞庭園)」だ。詳しくは後にお話しするが、この場所はローテンブルクの発祥の地と言われている。「犯罪博物館」から「ブルクガルデン」へは、「マルクト広場」(写真左)を経て「ヘルンガッセ(旦那衆通り)」を西に進めば良い。途中にドイツで最大級のテディベアの専門店「テディランド」(写真中)がある。お客の入りは良いようだ。そしてすぐに「ブルクガルデン」(写真右)に到着。「犯罪博物館」から徒歩5~6分であった。

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入口には大きな門がある。「ブルク門」(写真左 : 門の中)だ。これを潜ると庭園である(写真中)。しかし何故、庭園にこのような門があるのだろうか。実は、かつてこの庭園には、城が建っていたのである。「ローテンブルク市街地図(日本語版)」によると、「1142年にホーエンシュタウフェン家がこの地に帝国城塞を築き、国王コンラッド三世がここから国を統治しましたが、国王はローテンブルクの城塞を使った唯一の支配者となりました。国王の二人の息子が比較的間もなく亡くなると、城塞はあっという間にその意味を失いました。しかし町の発展のための基礎は据えられたのです。城塞から出発して集落が丘陵の上に広がり、1400年には6,000人を超える住民を抱える神聖ローマ帝国十大都市のひとつに数えられるようになりました。1365年、地震により城塞施設が破壊されると、当時貴重な建築素材であった廃墟の切り石は市壁の建設に使われ」たとの事。「ブルク門」は、その時の生き残りで、ローテンブルク市では最古の門である(写真右 : 公園側から)。門の上に立つ高い塔は、14世紀に改築された際、付け足されたものである。かつてはここに堀があり、跳ね橋が設けられていたという。

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庭園内は、お花畑に噴水(写真左)、緑の大樹に木漏れ日と、城塞を感じさせるものは唯一「ブラジウス・カペレ(礼拝堂)」(写真中左)だけである。この礼拝堂は、「元々は礼拝堂ではなく、いわゆる「侯爵達の公館」、つまりおそらくは国王が賓客を接待した会議ホール出会ったのです。修復後に初めて礼拝堂として建物の献堂式が執り行われたもので、今日では両世界大戦の戦没者のための慰霊碑となっています」(「ローテンブルク市街地図(日本語版)」より)。礼拝堂の中(写真中右)では、1400年当時に描かれた壁画などを見ることが出来る(写真右)。さらに西に進むと、公園の先端に出た。ここからの眺めは良い(写真下)。「タウバー川」に三方を囲まれた高台で、谷底からの高さは60mもあるのだ。これがこの場所に城が設けられた理由である。

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庭園の次は、「フランツィスカーナー教会」(写真左)を訪ねた。「ブルク門」の東側、「ヘルンガッセ」沿いにある。前掲書によると、「このかつての修道院付属教会は町最古の教会です。1285年に初期ゴシック様式に建造され、ティルマン・リーメンシュナイダー作の「聖フランシスコ祭壇」を収めています」との事(写真中 : 教会内部・写真右 : 聖フランシスコ祭壇)。

(参考文献・資料)
・「07~08地球の歩き方 南ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「06~07地球の歩き方 ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「図説ドイツ名景の旅」(谷克二著)[川出書房新社刊]
・「ロマッチック街道(日本語版)」(Kraichgau-Verlag GmbH刊)
・「ローテンブルク(日本語版)」(Wolfgang Kootz著)[Kraichgau- Verlag GmbH刊]
・「ローテンブルク市街地図(日本語版)」(ローテンブルク観光局)
・「ドイツものしり紀行」(紅山雪夫著)[新潮社刊]
・「ヨーロッパものしり紀行(城と中世都市)」(紅山雪夫著)[新潮社刊]

ローテンブルクの観光案内
http://www.rothenburg.de

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October 11, 2008

海遊館の人気者・ジンベイザメ

海遊館の人気者・ジンベイザメ

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ニュージーランドのウェリントンから来た交換留学生たちと一緒に、「海遊館」に行ってきた。中学・高校の交換留学生、男女約20名と先生たち約5名、そしてスタッフ他15名の計40名ほどで、一台のバスに乗り「海遊館」へ。入り口前の広場に、午前10:00頃に到着。広場には、小学生や幼稚園のグループが何組も整列して固まっていた(写真左)。我々も一旦集合し(写真右)、団体入口から入場した。

折角の機会だったので、交換留学生たちと話をしようとしたのだが、なかなか会話はスムースに進まない。私の英語がブロークンなこともあるが、彼ら同志の話が盛り上がっており、入り込む余地がないのだ。しかし、先生方とは色々とお話しすることができた。その中の一人の女性に話しかけると、彼女はニュージーランドで日本語を教えているとの事。中学・高校で、いわゆる第二外国語の授業があり、日本語も選択できるのだ。今回の留学生は、第二外国語に日本語を選択している生徒たちなので、簡単な日本語は話せるらしい。日本では高校生も決められた市内の中学校に行き、授業を受けているとの事。もちろん日本語での授業だ。ただし通訳の先生もいるらしい。次に男性の先生に声をかけた。彼は中学、高校で金融・経済を教えているという。日本の金融・経済にも興味を持っており、昨今の世界金融恐慌についても憂慮しているとの事。大阪には造幣局があり、そこにある博物館で、日本の貨幣の歴史を見ることができる旨お話しすると、興味を示してきた。彼が昨日のブログでお話しした、「造幣博物館」へ一緒に行ったニュージーランド人である。

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ところで館内だが、小学生や幼稚園児たちで大混雑。魚を見るというよりも、人を見に行ったような感じである。最も人だかりが多かったのは「海遊館」の目玉「ジンベイザメ」の前。この水槽は、深さ9m、水量5,400tという世界最大級のもの。2匹の「ジンベイザメ」(写真左)が、ゆったりと泳いでいる。彼らには名前が付けられているのだ。1匹が「海(かい)」くん、もう1匹が「大(だい)」くんである。「大」くんは、今年6月に「海遊館」にやってきたとの事。同じ水槽には、まだまだ面白い魚たちが泳いでいる。まずは「マンタ」だ(写真中)。本当の名前は「オニイトマキエイ」で、その泳ぐ姿から「マンタ」の愛称が付けられている。次は「ナポレオン」(写真右)。こちらの正式名称は「メガネモチノウオ」。成魚の頭の形が、フランス・ナポレオン一世のかぶっていた帽子に似ていたことから、「ナポレオン」の愛称が付いたとの事。

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今回の「海遊館」訪問では、是非とも見たいものがあった。それは「オワンクラゲ」(写真左 : YAHOO!JAPANニュースより)だ。先日、ノーベル化学賞を受賞した下村脩氏の研究で有名になったクラゲである。小さな水槽がいくつも展示されており、それぞれに異なった種類のクラゲが泳いでいたが(写真右 : ギヤマンクラゲ)、「オワンクラゲ」は見つからない。スタッフに尋ねると、「残念ですが、いません」との事。残念! 他にも「オワンクラゲ」を探すお客さんがいるのではないだろうか。

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これら以外にも、「赤海ガメ」、「マンボウ」、「タカアシガニ」(写真左)、「シュモクザメ」など、変わった姿の魚たちが多数泳いでおり、これらを眺めているだけでも楽しい。最後に、魚の面白顔面の写真を並べ、今回のお話を終わりとしたい(写真中左から順に「アカエイ」、「マンボウ」、「ハタ」 )。

海遊館
http://www.kaiyukan.com/index.html
YAHOO!JAPANニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081010-00000019-maiall-soci.view-000

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October 10, 2008

造幣博物館

貨幣ぶらり旅(第144回)

Dsc09787_2久しぶりに「造幣博物館」に行ってきた。造幣局の受付で「造幣博物館」に行きたい旨伝えると、博物館は移転したとの事。正門に向かって右手、塀沿いに進むと、博物館の入口を示す案内板が掲示されていた。受付で名前、住所等を記入し、博物館に入った。以前よりかなり明るい。しかし展示面積は狭くなっているように思えた(写真)。

以下、展示品の中から10点をご紹介する。

① 「天正長大判」(写真右側)
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最初から量目を十両に整えて作られた天正大判より上下が長いので「長大判(ながおおばん)」と呼ばれており、長さ17.5cm、幅10.2cmもある世界最大級の金貨として知られていました。天正17(1589)年5月、京都聚楽第で宮家公卿・大名たちを招いて催した「太閤の金賦り(かねくばり)」の際に与えた金子(きんす)がこの長大判といわれています。
量目 : 43.65匁(約163.7g)
品位 : 金750/1000
(参考)当時の大判の価値は、古文書によると米40石(約6,000kg)、仮に1人1日3合(約450g)の米を食べるとすると、実に30年以上食べられる量がこの大判1枚で買えたという計算になります。

② 「天正菱大判」(前掲写真左側)
豊臣秀吉が足利将軍家お抱えの彫金師後藤家に命じて造らせた大判で、無銘大判に埋め金(うめきん)をして量目を調整し、上下の菱形の枠内に「桐」極印を打ち、量目(十両の文字)と製造責任者の署名と花押(サイン)を墨書きしたもので、この菱形の局印から「菱大判」と呼ばれ、現存数はわずか5~6枚といわれている希少品です。金の品位も高く太閤秀吉にふさわしく最も豪華な金貨といわれ、また、大判創始者として貨幣史にその名をとどめています。
両目 : 44.42匁(約166.6g)
品位 : 金740/1000

③ 「菊桐金錠(きくきりきんじょう)」(写真左側)
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ナマコ型の金錠で、”菊”と”桐”の紋が打刻されていることから「菊桐金錠」と呼ばれています。展示品のみが現存する貴重なものです。
注 : 「金錠」とは地金としてではなく、貨幣の目的からつくられた金をいい、菊紋など極印のないものは未完成品といわれ、後の大判はこれをたたき延ばしてつくられたといわれています。
量目 : 43.7匁(約164g)
品位 : 約730/1000

④ 「竹流金(たけながしきん)」(前掲写真右側)
竹のような形の鋳型に流し込んで造られたと見られ、「竹流し金」と呼ばれています。表面の”菊”と”桐”の紋は左に展示しています「菊桐金錠」と同じもので、必要な量に切って使ったと見られ、桐の紋から豊臣秀吉による秤量金貨と推定されています。この「竹流金」と「菊桐金錠」は、昭和10(1935)年造幣局の横を流れる大川(旧淀川)から発見されており、展示品のみが現存する貴重なものです。
量目 : 26.2匁(約98.6g)
品位 : 金 約730/1000

⑤ 「富本銭」(写真)
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「富本銭」は、和同開珎の発行(和銅元・708年)に遡ること25年前の天武12(683)年に鋳造されました。富本銭は、中央に「富本」の文字、孔(あな)の両側に7つの点があり、これは中国の陰陽五行思想の陽(日)と陰(月)と木・火・土・金・水の七曜を表し、天地の調和を示したものといわれており、「富本」とは「国を富ませる本」という意味で、貨幣そのもののことです。

◎展示の「富本銭の鋳棹」は、平成11(1999)年1月19日に奈良国立文化財研究所から発表された”奈良飛鳥池遺跡”から出土したものをモデルにしてつくられたレプリカです。

⑥ 「和同開珎」(写真)
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慶雲5(708)年1月、武蔵国秩父郡(現在の埼玉県秩父市)から多量の自然銅(和銅=「にぎのあかがね」と呼ばれていた)が産出し、その銅を朝廷に献上したことにより年号を「和銅」と改元しました。政府は「催鋳銭司(鋳銭を統括する国の機関をいう)」を新設し、積極的に鋳銭事業をすすめることとし、和銅元(708)年5月に「銀銭」を、8月に「銅銭」を発行しました。

⑦ 「和同開珎の銭笵」[鋳型](写真)

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近江(現在の滋賀県)が「和同開珎」の最初の鋳造地であったらしく、その後、山城(現在の京都府)、河内(現在の大阪府)、大和(現在の奈良県)、長門・周防(現在の山口県)などの鋳銭司で鋳造されました。鋳造法は、木枠の中に細かい土を入れ水分を含ませ、表面を平らにして、母銭で型を押して作られた砂型に、とかした金属を流し込んで鋳造したので、砂型は鋳造の都度亡くなりましたが、展示している和同開珎の銭笵(鋳型)は、千年以上もたった対象10(1921)年に、当時鋳銭場であった周防の鋳銭場跡から、粘土状に固まって出土した非常に貴重な銭笵(鋳型)です。わが国で銭の銭笵(鋳型)が残っているのは、和同開珎のみです。

⑧ 「琉球封印銭」(写真)
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琉球王朝の(沖縄)の貨幣で、鳩目銭といわれるもので、大きさを大体揃えて造られ、紐に通して結び目に封をしたものが封印銭で、総体の目方を量って取引されていたといわれています。また、「奇鈔百円(きしょうひゃくえん)」には”此銭百文をつなぎ国王の封印をなして用う”とも記載されています。
注 : 鳩目銭とは、穴が丸い鳩の目に似た小型で脆弱なうえ、銭文もあるかなしか無文に近い、表裏も判断できない貨幣です。

⑨ 「試作貨幣」(加納夏雄作)(写真)
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貨幣制度が確立するまでにつくられた手彫りの試作品です。


⑩ 「手本銀板(てほんぎんばん)」(一円銀)(写真)
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この2枚は、「龍」及び「菊桐」の手本として、一円銀貨大の銀円板に直接彫刻したものです。
「龍」の手本   加納夏雄刻
「菊桐」の手本  池田隆雄刻

注 : 手本とは、文字や絵を習うための模範とする文字や絵・型となる本などをいいます。

今回の「造幣博物館」の訪問だが、実はニュージーランド人と一緒であった。彼は日本語が全く分からないため、私が英語で説明してあげたのだが、これがなかなか難しい。例えば「江戸時代の初め」とか「明治維新のころ」といった説明では通じないので、「西暦○○年頃」とか「○○世紀半ば」といった表現に変えたり、「武田信玄・甲斐の国」ではなく、「当時の日本は統一されておらず、現在の東京にほど近い一つの国」などと説明しなければならず一苦労であった。展示解説文は日本語だけ、かつスタッフは英語が話せない。外国人の訪問はそれほど多くないので仕方がないが、せめて英語の解説ぐらいは併記しておいてもよいのではないかと思った。だが、海外の貨幣博物館も同じであったことを考えると、やむを得ないのか。なお、最初に見せてくれた「貨幣ができるまで」というビデオには、英語バージョンがあることをご案内しておく。
ちなみに、彼はニュージーランドの中学・高校で経済学・金融論を教える先生。日本で教えられる「政治・経済」の授業に比べ、かなり専門的に事も教えているようだ。今回の「造幣博物館」の見学は非常に有意義であったとの事。よかった!

造幣博物館
http://www.mint.go.jp/plant/museum.html

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October 09, 2008

コロー―光と追憶の変奏曲―展

コロー―光と追憶の変奏曲―展

Corot1_3神戸市立博物館で開催されている、「コロー―光と追憶の変奏曲―展」に行って来た。「コローのモナリザ」とも呼ばれている、「真珠の女」(写真 : 「コロー―光と追憶の変奏曲―展」案内のHPより)が見たくなったからである。パリ・ルーブル美術館所蔵ということだが、以前にルーブル美術館に行った際、鑑賞したのか否か、記憶に残っていない。多くの名画を見たため、印象が薄れてしまったからかもしれない。

本展の主役である「ジャン=バティスト・カミーユ・コロー(1796~1875年)」は、「19世紀のフランス絵画史において、「最後の古典主義者にして最初の近代主義者」として評価される重要な画家です。イタリアとフランスの古典的伝統の中で絵を学ぶとともに、各地を旅して屋外制作をおこない、自然と風景に対する豊かな感性を持ち続けました。その叙情性あふれる風景画は人気を博し、なかでもかつて旅をした土地の光景をアトリエで再構成した《モルトフォンテーヌの想い出》(1864年)はその代表作です。これに対して人物画は、生前に発表されることは少なかったのですが、《真珠の女》(1858~68年)、《青い服の婦人》(1874年)のような傑作を描き上げました。そしてコローの作品は、印象派からキュビスムまで、19~20世紀の画家たちの創作に影響を与えました」(神戸市立博物館のHP)との事。

本展覧会では、約100点の絵画が、次の6つの章に分けて展示されている。
第一章 : イタリアへの旅
第二章 : フランス各地の田園とアトリエ
第三章 : パノラマ風景と遠近法的風景
第四章 : 樹木のカーテン、舞台の幕
第五章 : ミューズたちの肖像
第六章 : 「思い出(スヴニール)」と変奏
以下、代表的な作品を5点ご紹介する。

① 「第一章 : イタリアへの旅」から
<ティヴオリ、ヴィラ・デステ庭園>(写真)
1843年・パリ・ルーブル美術館
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「イタリア中部の丘陵地に位置し、保養地として知られていたティヴォリに、斜面に段状につくられた庭園と多くの噴水で名高いヴィラ・デステ(エステ家別荘)がある。1843年に3度目のイタリア旅行の際にコローは、この壮大な邸宅跡地を訪れて、3点の習作を描いた。本作はそのなかでもっとも著名なものである。あえて逆光気味の視野を選び、昼下がりの暖かで濃密な空気に満ちた風景を、控えめな色調ながら正確な階調でとらえている。欄干(らんかん)に腰掛けている少年は、この絵に構図の中心をもたらすために、後にアトリエで描き込まれた。この作品はコローの生前から称賛され、ベルト・モリゾをはじめとする後進の画家たちによってしばしば模写されている」(展示解説より)。

② 「第二章 : フランス各地の田園とアトリエ」から
<ヴィル=ダヴレーのカバスュ邸>(写真)
1835年~1840年・東京・村内美術館
032
「縦長の画面に高低差のある地形を配することで醸し出される、吸い寄せられるような遠近感の中に、前景に投影された木陰、まぶしい陽光に照らされた道や家々、そして爽快な青空へと、鑑賞者の視線が心地よく誘われていく。ここに描かれているのは、パリ西郊の町・ヴィル=ダヴレーにあったコローの別荘近辺の光景である。コローが21歳の時、父親はヴィル=ダヴレーに別荘を購入した。以後コローはその一隅をアトリエとして、しばしば滞在した。当時はまだ自然に包まれた閑静な土地で、その美しい景色は、コローの自然に対する非凡な洞察力を育んでいった。小品ながら、コロー初期の傑作のひとつとして知られている」(展示解説より)。

③ 「第五章 : ミューズたちの肖像」から
<真珠の女>(写真)
1858年~1868年・パリ・ルーブル美術館
033
「当時16歳前後であったベルト・ゴルトシュミットというモデルにコローがローマからわざわざ取り寄せたイタリアの民族衣装をまとわせて描いた女性像。少女はよく見るとどこにも真珠をつけていないが、冠のような葉が額にかかって真珠の粒のように見えることから、この名前がつけられた。コローの死後、本作が1889年のパリ万国博覧会に展示された時の話である。胸元で両手を組んだ四分の三正面のポーズは、明らかにダ・ヴィンチのモナリザを下敷きにしており、コローが単なるエキゾチックな女性像としてではなく、少女の姿を永遠の魅惑的なミューズ(女神)として描いたことがわかる。そのため本作は、「19世紀のモナリザ」あるいは「コローのモナリザ」と呼ばれてきた。コローの人物画の代表作であり、人気の高いルーブル美術館の至宝である。コローはこの絵を手放すことはなく、加筆を繰り返し、亡くなるまで自邸の客間に飾っていた」(展示解説より)。

④「第五章 : ミューズたちの肖像」から
<青い服の婦人>(写真)
1874年・パリ・ルーブル美術館
034
「本作は、《真珠の女》《モルトフォテーヌの想い出》とならんで、ルーブルが所蔵する「コローの三大名画」と称される人物画の傑作。晩年のコローのお気に入りのモデルであったエマ・ドービニーを描き、ブルジョワ女性を思わせる青いイヴニング・ドレスを着装したエマが、コローのアトリエでふと見せた、もの憂げな瞬間を描きとめている。荒い筆勢を残した表現は大胆で、暗い陰を背景にしてくっきりと浮かび上がる青の色彩はみずみずしく、女性は存在感を弱めることなく力強く描かれている。健康な少女の腕や扇を持つ左手は生命感にあふれ、近代を先取りしたコローの革新性と力量を見るものに伝えている」(展示解説より)。

⑤ 「第六章 : 「思い出(スヴニール)」と変奏」から
<モントフォンテーヌの思い出>(写真)
1864年・パリ・ルーブル美術館
035
「60代を越えた頃、コローは、脚のリューマチが重く、戸外での制作が困難になっていた。彼は描きためた写生に基づくデッサンや、油彩による習作を手元に置いて、記憶と写実を融和させた風景画を描くようになった。それは、けむるような銀灰色の森のなかで妖精がダンスをするなどの添景を配した理想化された風景画であったが、そこにコローの自然観察に基づく真実味が加えられ、全く独自の風景画が制作された。コローは、音楽の教養が豊かで、そのためもあって、こうした後期の風景画は時に流れるような旋律やハーモニーを感じさせる。 本作は、パリの北西50キロの湖沼が点在する景勝地、モルトフォンテーヌの池と樹木を題材にしている。1864年のサロン(官展)に出品され、ナポレオン3世に3000フランで購入されてフォンテーヌブロウ宮殿に飾られた。その後、ルーブル美術館に所蔵され、今ではフランス人の心の風景画となっている。コローの代表作であると同時にフランスを代表する風景画と言ってよい」(展示解説より)。

なお、本展示会は12月7日(日)まで開催されているので、一度ご覧になることをお勧めしたい。


※絵画の写真は、神戸市立博物館のHPから

(参考文献)
・「COROT」(国立西洋美術館ほか編)[読売新聞東京本社発行]


神戸市立博物館のHP
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/57/museum/main.html
「コロー―光と追憶の変奏曲―展」公式HPページ
http://www.corot2008.jp/
「コロー―光と追憶の変奏曲―展」案内のHP
http://plaza.harmonix.ne.jp/~artnavi/10publicity/201207-kobehaku-corot1/00kobehaku-corot.html

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October 08, 2008

尼信博物館・コインミュージアム

貨幣ぶらり旅(第143回)

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尼崎信用金庫の「尼信博物館・コインミュージアム」に行ってきた。「阪神尼崎駅」で下車。南西方向に進む。お寺が並ぶ通りを歩き(写真左)、約5分程で博物館に到着した。白壁で、お城の一角を思わせるような立派な建物である(写真中左)。館内に入ると、広いエントランスホール。左手に受付がある。入場は無料。受付でパンフレットを受取り、エレベーターで2Fに向かった。「コインミュージアム」は常設展なので、開館日であればいつでも見ることができる。エレベーターを降りて展示室に入ると、鎧兜や刀剣類が展示されていた(写真中右)。「城下町尼崎展」で、これも常設展だ。この展示室の奥が、「コインミュージアム」(写真右)。室内は明るく、世界のコインが、地域ごと・国ごとに、また国王・女王、動植物、オリンピックなどのテーマごとに整理・展示されている。

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展示されているコインは、「尼崎信用金庫が保有する日本を初め世界170カ国、4,500個余りの金貨、銀貨から厳選した貴重で話題性のあるもの約2500個」で、「主に1800年以降のコイン」(尼信博物館・コインミュージアムのHPより)であるとの事。面白いのは、操作ボタンでコインを選ぶと、モニターで当該コインの拡大画像と解説を見ることができる点だ。たとえば、「112番・ウエストファーレン緊急貨」(写真左 : 実物展示品)をボタンで入力すると、写真右のような画面を見ることができるのである。

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では、これらのコインがどのように展示されているのか。イギリスコインを例にご紹介する。まず地域ごとに展示されているので、ヨーロッパのコーナーに向かう(写真左)。このコーナーのショーケースには、ヨーロッパの国々のコインが、国ごとに展示されており、主だった国については、壁に解説が掲示されている。「イギリスのコイン」は、「ジョージ1世以後のイギリス王室の系図」(写真中左)と次のような解説だ。
「9世紀にイングランド王国とスコットランド王国が成立、長い歴史を経た後、18世紀に両国が合併してイギリス王国が誕生しました。この国のコインは、古くはケルト・コインや帝政ローマ支配下のコインまでさかのぼれますが、王国が成立してからは、伝統的なデザインを受け継ぎながら、独自の形態でコインを発行しています。主な特徴は①国名を明記しないこと②一貫した貨幣制度(1968年に10進法に改正)③歴代国王の肖像などが挙げられ、時間的な歴史をたどる面白さが、イギリスコインの魅力といえるでしょう。特に収集の対象となつているのは、クラウン銀貨やソブリン金貨(1ポンドのみソブリンと呼ぶ)などで、ビクトリア女王のゴシック・クラウンなどの名品がたくさんあります。最近では1983年より1ポンド黄銅貨が毎年ちがったデザインで発行されています。これらは収集家向けに、厚さと量目を2倍にした銀製のものなどもつくられています」(展示解説より)。
そしてモニターでコインチェックだ。まず「82・ビクトリア女王治世10年記念(ゴシックタイプ)」(写真中右)、いわゆる「ゴシック・クラウン」から。「82」を入力すると、モニターには次のような解説が映し出された(写真右)。
「ビクトリアの肖像の中でも特に美しいと人気の高いゴシックタイプ。銘もすべてゴシック体で書かれています。胸元がやや開いた衣装に、ステータス・クラウンをかぶっています。このクラウン貨は治世10年を記念した1847年の標準タイプが8000枚、縁に銘文のないタイプが2000枚発行されており、ほかに1853年銘のものが少量あります」(展示モニター解説より)。
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同じビクトリア女王のコインでは、「ジュビリータイプ」(写真左)や「オールドタイプ」(写真中)も見られたが、モニター解説は後者のみであった(写真右)。

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日本の貨幣コーナーに行くと、壁には「貨幣の歴史年表」と「江戸時代の貨幣制度」(写真左)が掲示され、ショーケースには江戸時代以降の貨幣(写真中左)が展示されていた。また「コインミュージアム」の部屋を出て「城下町尼崎展」の部屋に向かうと、「日本近代紙幣コレクション」(写真中右)と題し、明治以降の紙幣が掲示されていた。そしてその左には「兵庫県下の藩札」(写真右)だ。「尼崎藩の藩札」(写真下中左)、「藩内の私札」(写真下中右)、「過渡期の藩札」(写真下右)に分けて展示されており、さらに「過渡期の藩札」では「兵庫開港札」、「太政官札」、「兵庫県札」が紹介されていた。ここでの展示解説をご紹介すると、「商品経済が発展し、流通する通貨が足りなくなると、代用通貨として藩札が発行されました。尼崎藩の藩札は17世紀後半、商人たちを札元として発行されましたが、藩の財政悪化とともに藩札の価値も下がっていきました。明治初期には、維新前夜に発行された開港資金づくりのための「開港札」をはじめ、新政府による初の全国通用紙幣「太政官札」、小額通貨の不足を補う「府県札(兵庫県札など)」が発行されました。しかし、政府の信用不足などから、貨幣制度はいっそう混乱しました」との事。面白いと思ったのは、「尼の十二札」(写真下左)だ。展示解説によると、「「尼の十二札」は尼崎藩発行の藩札のひとつです。12枚の藩札から成り、裏には、「いつでも銀に交換できる」ことを意味する「よつのときめく(ぐ)りてやます(ず)」の1文字ずつが、番号がわりとして打たれています。尼崎藩をはじめ藩札の多くは名塩で生産される名塩紙でつくられました」との事。

今回は「コインミュージアム」の紹介に終始したが、常設の「城下町尼崎展」や3Fで開催されている特別展「中世尼崎の風景展」もなかなか面白い。「尼信博物館」に行かれた時は、これらの展示もご覧になることをお薦めする。

尼崎信用金庫(尼信博物館・コインミュージアム)
http://www.amashin.co.jp


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October 07, 2008

裏千家・茶道文化検定

茶の湯ぶらり旅(第19回)

今年11月、「裏千家・茶道文化検定」が行われる。お茶の稽古をしていて、いつも物足りないと思うのは、お点前の細かい点ばかりに注意を払い、お茶の歴史や茶文化、茶道具などについて学ぶ機会が少ないことだ。自分でいろいろな書籍を購入し、博物館などで茶道具などを見て回ることで補うしかない。このような私にとって、今回行われる検定は、非常に興味深いものである。

自分自身で茶道に関連することを学び、色々なことを知ることは非常に楽しいことなのだが、興味は際限なく広がってしまう。しかし、今回行われるような試験があれば、茶道界のプロが初心者に求める最低限の知識が何であるのかが分かるので有難い。今回行われるのは3級と4級だけだが、来年以降1級、2級が実施される予定なので、茶道界のプロが茶道というものをどのように捉えているかを知ることができると思うと楽しみである。

このような検定試験は、主催者を儲けさせるだけなので、あまり好きではないのだが、今回はとりあえず3級の受験を考えている。受験する場合は、正確に覚えていないといけないので、久しぶりに受検勉強を始めなければならない。書籍を見れば分かることを、無理に覚えるのは私の好みではないのだが・・・・・。

茶道文化検定
http://www.chado.or.jp/sinko/exam/index.html
予想問題
http://www.chado.or.jp/sinko/exam/yosou.pdf

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October 06, 2008

地方自治60年記念硬貨(京都・島根)打ち初め

地方自治60年記念硬貨(京都・島根)打ち初め

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造幣局は、本日、今年度発行予定の地方自治60年記念硬貨の打ち初めを行った。打刻したのは京都府と島根県の記念硬貨で、千円銀貨と500円硬貨の2種類だ。ご存知のとおり、京都府の千円銀貨が「源氏物語絵巻(宿木三)」(写真左)、500硬貨は「源氏物語絵巻(宿木二)」(写真中左)、島根県の千円銀貨が「御取納丁銀と牡丹」(写真中右)、500硬貨は「銅鐸とその文様・絵画」(写真右)である。裏面のデザインは各種共通(千円銀貨「雪月花」(写真下左)、500円硬貨「古銭のイメージ」(写真下右))。

なお、京都府の千円銀貨の申し込みは終了しているが、島根県の千円銀貨については10月に販売要領が発表される予定。500円硬貨については、北海道の硬貨と合わせ、12月頃に銀行窓口で引き換えられる予定だ。
また、来年度前半に発行が予定されているのは新潟県と長野県で、貨幣のデザインは、新潟県が「特別天然記念物トキ放鳥」、長野県は「日本アルプスや国宝善光寺などの豊かな自然と文化」とされている。

※写真はすべて財務省のHPから

(参考)
・当ブログ・2008年5月14日付「地方自治法施行60周年記念貨幣・北海道の図柄等が決まる」

(財務省のHP)
500円硬貨の発行枚数
http://www.mof.go.jp/jouhou/sonota/kokko/kk200912.htm
発行要領(京都府・島根県)
http://www.mof.go.jp/jouhou/sonota/kokko/kk200624.htm

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October 04, 2008

ローテンブルク(1)[中世犯罪博物館]

南ドイツの旅(第18回)
貨幣ぶらり旅(第142回)

クリクリンゲンからローテンブルクへは30分ほどで到着。チェックインを済ませ、すぐに出かけた。ローテンブルクは、今回の旅で、私が最も期待していた町。中世の面影をほぼ完璧に残しており、「中世の宝珠」と呼ばれているからだ。町の起源は9世紀ごろ。現在のロマンティック街道は古くからの交易路で、ドイツを縦断、南はブレンナー峠でアルプスを越え、イタリアに達していた。9~10世紀ころ、遠隔地商業が復活し始めると、多くの商人がこの交易路を往来するようになり、やがてローテンブルク伯の城のそばに住みつくようになったという。これがローテンブルクの起源である。今も残る城壁が出来た12世紀に、商人の町として大きな発展を遂げ、1274年に帝国自由都市となった。その後も繁栄を続けたが、17世紀に起きた三十年戦争での敗北から衰退し始め、近世に入っても産業発展の波に取り残された。しかしこれが幸いし、中世の街並みはそのまま残されたのである。第二次世界大戦で約4割焼失したが、現在見事に再現されている。

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城壁に囲まれたローテンブルクの旧市街は、南北1.2km、東西1kmほどの小さな町なので、隅から隅まで回ることも可能である。まず、閉館時間のある施設から訪ねることにした。最初は「中世犯罪博物館」(写真)だ。「ここはヨーロッパ唯一の法と刑罰の歴史博物館で、四階にわたる2000平方メートルの展示場にて、19世紀にまで及ぶ1000年以上の法の歴史が独特の展示法で包括的に紹介されている」(「ローテンブルク(日本語版)」より)。中世の都市の秩序を守るために制定された法律と刑罰。残酷さのあまり恐怖を感じる刑罰もあれば、ほくそ笑んでしまうような刑罰もあり、なかなか面白い。以下、展示内容をご案内する。

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この「中世犯罪博物館」は、旧ヨハネ騎士修道会の建物に入っている。入口には、パンの重さを偽って焼いたパン職人を水責めにするために使用した檻が置かれている(写真左)。建物の中に入り、受付(写真中左)でチケット(3.8ユーロ)を購入する。受付横の階段を降りると、中世の刑事裁判の手続きや刑の執行方法、拷問の道具などが展示・解説されている(写真中右・写真右 : 針の椅子、魔女裁判の頃の拷問道具)。

まず、当時の裁判手続等を展示解説からご紹介する。

① 訴訟手続きの開始
訴訟は、昔から被害者の申し立てにより起こされた。原告と被告が法廷で対立し、証拠をもとに判決が下され、有罪を言い渡されたものは罰金刑か賠償の義務を課された。人権と平和、即ち国家の秩序が安定するにつれ、悪い行いはこの秩序を乱す「犯罪」とみなされ、被害者の訴えの有無にかかわらず、取り調べを行いさらに犯人を罰することが許されるようになった。その場合、犯人の逮捕に至る程強力な容疑事実が必要とされた。

② 立証方法
審理における立証方法は二段階から成っていた。まず、一般的な証拠(目撃者の証言、又は検証による)をもとに犯行を証明する試みがなされた。次の段階で、犯人の確定に重点が置かれ、これは容疑者の自白で明らかになることが多かった。容疑者又は被告人が、犯人であると疑いの余地が無いにもかかわらず犯行を否認すると、容疑を認めるまで拷問がかけられた。しかしこの場合、まず専門家による書類の鑑定が義務付けられていた。

③ 判決に至るまで
立証審理終了後、訴訟書類は再度専門家により鑑定された。裁判官と参審員により法廷内で判決案が検討された後、最終判決が下され、文書化された後、当事者に通知された。これが公正であると認められると、有罪判決とそれに伴う刑罰が決められた。ここまで非公開に行われてきたすべての訴訟手続きが初めて公にされるにあたり、判決がいかにして公衆の面前で発表されるかが細かく決められ記録された。

④ 公開裁判
判決の公表は公開裁判で行われた。裁判官と当事者が、特別に造られた舞台の上で集まった市民を前に席に着くと、古い形式にのっとって、裁判が重々しく開始された。裁判官が訴え及び自白内容を読み上げた後、集められた証拠物件が公開された。自白内容は真意が確かめられ、復唱させられた。最後に判決が下され、参審員がその公正さを認めた。

⑤ 刑の執行
刑罰は、公開裁判の終了後、公衆の前で執行された。死刑台は郊外にあることが多かったので、集まった市民は死刑因と共に死刑台まで向かった。死刑因は刑の執行の直前に今一度話すことと、最後の祈りを捧げることが許され、それが終わると死刑執行人が刑を執行した。それに対して「身体刑」(内容的苦痛や障害を与える刑)はマルクト広場で行われることが多く、「名誉刑」は、社会的名声の侵害、即ち名誉棄損を目的として執行された。

次に、刑罰用の道具の中から、面白いと思われるものを数点ご紹介する。

① 汚名のマスク(写真左)
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道徳上の誤りを犯した者は、このような辱めのマスクを付けたまま、二時間市場に立っていなければならないという(写真右 : 刑罰の様子)。

② 二輪首かせ(写真左 : ディスプレイ上段)
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ガミガミ喧嘩し合う二人の女達を向かわせて、喧嘩を止めるまで首かせをさせて、公衆の前で笑いものにする(写真右 : 刑罰の様子)。

③ 断髪用ハサミ(写真左)
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身持ちの悪い堕落した子女の髪を切るのに用いた。中央では、裁判官の前で当時流行の髪型をした女子が切願している。その右は切られた髪、左は髪を切られた女子が運ばれているところ(写真右)。18世紀には出来るだけ長い髪が通常だったので、髪のない姿とは非常に困ったものであった。未婚の女性は長い髪をしていなければならず、結婚後、髪をくくってボンネットをかぶらなければならなかった。髪型によって女性が未婚であるか既婚であるか、服装によって裕福(その両親や夫が)であるかどうかが分かったという。

④ 水責め用檻(写真左)
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この博物館の入り口のところでご紹介したように、パンの重さを偽って焼いたパン職人に課せられる刑罰に用いられた。檻に入れられ、水責めにされる(写真中 : 刑罰の様子・写真右 : 模型)。

⑤ ダイスとカードの輪(写真左)
Dsc00716Dsc00717ダイスやカードなどを使うゲームで、いかさまをした者の首にかけられ、公衆の面前でさらし者にされた(写真右)。


⑥ ロザリオ(写真左)
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教会の懲戒罰。罪人は札を首からぶら下げ、教会の入り口や説教壇の下に立たされた(写真右)。

1)のろい・ののしり
初回=罰金
2回目=罰金+ロザリオをかけて教会の入り口に立つ
3回目=国外追放、漬神 : 断舌
2)ミサの間での居眠り。
ミサは日の出前から2~3時間続いた。ミサにしばしば欠けた人も同様に罰せられた。ミサに参加しているかどうかは簡単に調べられた。というのは各人の座席が決まっていたので、キリスト教徒として敬神的な日々を送る事が各市民の務めであった。

⑦ 車裂き(写真左)
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役人に課せられた処刑法。死刑の宣告を受けた罪人は地面に横たえさせられ、手足をきつく縛られて、全身の骨がボロボロに砕けるまで、死刑執行人に車(輪)を投げつけられた(写真右)。

⑧ その他
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・アルコール中毒者の樽かせ(写真左・中左 : 右側の図)
・おしゃべり好きな女性用の仮面と男性用のまぬけな仮面(写真中右・右・中段左)
・鉄の乙女(不道徳な女性と女の子を懲らしめる鉄製マント) (写真中段中左)
・貞操帯(夫の不在中、不貞にならないようにするためのベルト) (写真中段中右)
・スイス・ベルンの回転小屋(写真中段右)
・処刑椅子(死刑の宣告を受けた罪人は、処刑椅子に座り、斬首刀で首輪切られた)(写真下左)

最後に、面白い法令があったのでご紹介する。

① 棒法令
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各々の町の路地は、通行の為、一定の広さを保たれていなければならなかった。したがって、路地に品物や薪を積んで置いたりする事は厳禁されていた。お上は定期的に役目を担った官吏に、規定の(通行用の)幅をもった棒(写真左)を与えて、路地を検閲して歩かせた(写真右)。この警察令の目的は、火事が発生した際、消火すべき消防車が十分通過しうる広さを取っておく事にあった。もしもこの令に違反した者があれば、書き付けられて罰金を取られた。

② 貨幣令
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1637年5月30日、アウグスブルク市発布。旧ドイツ帝国は、1806年まで幾つかの小国から成り立っていた。殆どすべての国々は、それぞれ自国の貨幣を鋳造していた。インフレーションや貨幣に含まれている銀の割合が減って、貨幣の価値が下がったので、お互いに貨幣価値を新たに確定するか、或いは価値が薄れて劣等になった貨幣に用心するよう警告する事が必要となった(写真左 : 貨幣令・写真中 : 各国の貨幣・写真右 : フランドルの画家、クゥエンティン・マーシス作「金貸しとその妻」)。

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この為に用いられたのが、天秤である。展示されていたのは、次の二種類。
1)貨幣調整秤(試金てんびん)(写真左・写真中 : 分銅)
1679年に使用された。各硬貨は、一定の重量があった。この秤で、その重量が検査された。もしも重量が規定の重量と一致しなかった場合は、硬貨が良くなかったのである。
2)大きな貨幣調整秤(写真右)
稼働装置付きの試金てんびん。18世紀後半のもの。

③ 債券類
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その他に19世紀から20世紀初頭に発行された債券類が展示されていた。
1) 鉱山会社の株券(写真左・写真中左 : 株券譲渡裏書)
2) ウィーン市債(写真中右・写真下左 : 利札)
3) オーストリア赤十字債(写真下中)
4) オーストリア国債(写真右・写真下右 : 利札)

色々と興味を惹くものが多数展示されており、まだまだ見ていたかったのだが、ローテンブルクの町を隅々まで回りたかったので、あまりノンビリしてはいられない。1時間弱で見学を終え、博物館を出ることにした。


(参考文献・資料)
・「07~08地球の歩き方 南ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「06~07地球の歩き方 ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「図説ドイツ名景の旅」(谷克二著)[川出書房新社刊]
・「ロマッチック街道(日本語版)」(Kraichgau-Verlag GmbH刊)
・「ローテンブルク(日本語版)」(Wolfgang Kootz著)[Kraichgau- Verlag GmbH刊]
・「ローテンブルク市街地図(日本語版)」(ローテンブルク観光局)
・「中世犯罪博物館(日本語版)」(中世犯罪博物館)
・「ドイツものしり紀行」(紅山雪夫著)[新潮社刊]
・「ヨーロッパものしり紀行(城と中世都市)」(紅山雪夫著)[新潮社刊]

ローテンブルクの観光案内
http://www.rothenburg.de
中世犯罪博物館
http://www.kriminalmuseum.rothenburg.de

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October 03, 2008

クリクリンゲン・ヘルゴット教会

南ドイツの旅(第17回)

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昼食後ヴュルツブルクの旧市街を離れ、ロマンティック街道をバスで約1時間、クリクリンゲンの「ヘルゴット教会」(写真左)に到着した。この教会は、ドイツ・ルネサンス期の彫刻家ティルマン・リーメンシュナイダーの傑作、「聖母マリアの被昇天」の祭壇があることで知られている(写真右)。教会の建立にはいわれがあり、「ある日、鋤堀りをしていた農夫が、聖餅ホスチアを見つけたことに始まり、それを大切にして領主ホーエンローエ・ブラウネック家は教会の建立を命じ(1386年~1389年)献堂となった」(「ロマッチック街道(日本語版)」より)との事。

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「聖母マリアの被昇天」の祭壇(写真左)は、1500年頃に備え付けられたもので、高さは11m、聖櫃は赤松の一種からなる。彫刻群は、明るい色の菩提樹製だ。この作品を見ると、「中央部に、天使に囲まれ天に昇りゆく永遠の若さを保った聖母マリアが、その下にはそれを見守る十二使徒たちが掘られている」(「06~07地球の歩き方 ドイツ」より)(写真中左)。祭壇の上部には「天国での聖母マリアの戴冠」(前掲書より)(写真中右)が、また翼扉には「エリザベートの訪問」(写真右)、「受胎告知」(写真下左)、「イエスの誕生」(写真下中左)、「神殿奉献」(写真下中右)の場面がレリーフに彫られている。そして最下段には、「三王礼拝」と「律法学者と論争する12歳のキリスト」を見ることが出来る(写真右 : 左側が「三王礼拝」)。ちなみに、「律法学者と論争する12歳のキリスト」の右端、ベレーをかぶった学者像は、リーメンシュナイダー自身の肖像だと言われている。

30分ほどで見学を終え、我々は本日宿泊する「ローテンブルク」の町に向かって出発した。

・「07~08地球の歩き方 南ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「06~07地球の歩き方 ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「ロマッチック街道(日本語版)」(Kraichgau-Verlag GmbH)

クリクリンゲンの観光案内
http://www.creglingen.de
ヘルゴット教会
http://www.herrgottskirche.de

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October 02, 2008

ヴュルツブルク(2)[マリエンベルク要塞・旧市街]

南ドイツの旅(第16回)

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レジデンツを出た後、レジデンツの南端にある教会に入った。「ホーフ教会」(写真左)である。内部は金細工を施した柱など、贅を尽くした装飾だ(写真中左)。メイン祭壇背後の十字架の下には、A.ボスィ作「マグダレーナと二人の童子」の漆喰像がある。また横の祭壇には、ジョヴァンニ・バティスタ・ティエポロ作「天使の落下」(写真中右)と「マリア被昇天」(写真右)が描かれている。

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「ホーフ教会」を出て、教会の右手にある「ホーフ庭園」に向かった。庭園の入り口には、ロココ風の鉄格子の門(写真左)がある。ここから中に入ると、南の庭園が広がる(写真中左)。芝生、花壇、噴水、円錐形にカットされたイチイの木(写真中右)、その他ペーター・ワーグナー制作の鋳物像(写真右)も見ることが出来る。続いて東の庭園に入る。レジデンツの「庭園の間」から見えていた庭である。芝生、水槽、花壇、バラの植え込み等のある大花壇が美しい(写真下)。

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1時間半ほどで「レジデンツ」などの見学を終え、バスで次の目的地である「マリエンベルク要塞」(写真左)に向かった。「マリエンベルク要塞」は、「1253~1719年まで、歴代の大司教の居城兼要塞となっていた。宗教的権力と政治権力を併せ持っていた司教領主は、城全体を城壁や濠で守りを固めた。建物も全体が複雑な構造になっている」(「06~07地球の歩き方 ドイツ」より)という。7~8分で到着。駐車場から、「シェーンボル門」(写真中左)を通って中に入り、橋を渡ると広場だ。中央には「馬洗い池」があり、左手奥には「シェレンベルク門」(写真中右)がある。この門が城への入り口。門を潜ると、広い中庭に出る。ここには、深さ104mの井戸(写真右 : 井戸のある建物)と、1200年頃に築かれた「ベルクフリート(主塔)」、706年創立の「マリエン教会」(写真下 : 左の丸屋根が教会)がある。

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我々はさらに奥に進み、「領主の庭園」(写真左)に出た。ここからは、マイン川と旧市街を一望できるのだ(写真中左)。先ほど訪れた「レジデンツ」(写真中右)や、マイン川にかかる「アルテ・マイン橋」(写真右)、マルクト広場にある「聖母マリア礼拝堂」(写真下左)、「ザンクト・キリアン大聖堂」(写真下中左)なども見える。景色を楽しんだあと中庭に戻り、井戸(写真下中右)、塔、教会(写真下右)を見学、その後ツアーから離れ、昼食時まで自由行動をとらせてもらった。

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50分程しかなかったので、大急ぎで「旧市街」に向かう。ガイドに教えてもらった出口を真っ直ぐ下ると、「ノイトーア門」(写真左)に出た。かなりの坂道(写真中左)なので、こちらから「マリエンベルク要塞」に向かうのは、少々辛いかもしれない。「ノイトーア門」を潜り、東に進むと「アルテ・マイン橋」(写真中右)である。橋の正面には、「市庁舎の塔」と「ザンクト・キリアン大聖堂」が、また橋から振り返ると、山の上にそびえる「マリエンベルク要塞」(写真右)が見える。

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橋を渡り、「市庁舎」→「ドレスデン銀行」(写真左)→「マルクト広場」→「聖母マリア礼拝堂」→「ファンケルハウス」→「書店」(写真中)→「ノイミュンスター教会」→「ザンクト・キリアン大聖堂」→レストラン「MartinstraBe」(写真右)の順に訪ねた。以下簡単に訪問先についてご案内する。

① 「市庁舎」(写真)
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「WURZBURG市内観光案内(日本語版)」によると、「12世紀に建てられた塔は市庁舎の一番古い部分。噴水から見て左側の赤い建物(17世紀から)とカルメリテン修道院(18世紀から)を増築して拡大された」との事。また「WURZBURG(日本語版)」によると、「ヴュルツブルクの市庁舎は、ドイツでも最古のものに数えられます。これは、市民階級が領主司教の意のままに操られ、その支配から逃れられなかったのを考えると驚くべきことです。ヴュルツブルクの市民階級は、この都市を帝国直轄領とすべく、数世代にわたって争い、実現寸前に至ったこともありましたが、結局は巨大な権力を持つ司教に敗れてしまいます。華やかな街にあって、この建物だけが頑なによそよそしい印象を与えるのは、この歴史が原因になっているのでしょう」との事。ちなみに「市庁舎」内は、手続きをするために待っている市民で混雑していた。

② 「聖母マリア礼拝堂(マリエンカペレ)」(写真左)
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「WURZBURG市内観光案内(日本語版)」によると、「1377年から1480年にわたって建てられた後期ゴシックのホール式教会建築。南側入口の両側には、有名なリーメンシュナイダー作のアダムとイブがある(写真中左・オリジナルはマインフランケン博物館にある)」との事。以前にもお話ししたが(9月17日付、当ブログ「ミュンヘン市街散策(1)」)、建築構造が「ハレンキルヘ」なので、窓が大きく内部は明るい(写真中右)。尖塔の高さは約70m。この最頂部では、「マリア像」が金色に輝いている(写真右)。ところで、この教会は悲劇的な出来事から生まれたという。「WURZBURG(日本語版)」によると、「1349年、ヴュルツブルクで初めて黒死病(ペスト)が流行した時、この災厄の原因が求められ、間もなくユダヤ人という、願ってもない”犯人”が見つかりました。市内のキリスト教徒は、住居に火を放って、ユダヤ教徒を迫害しました。こうして、700人ほどから成るユダヤ人社会は事実上消滅し、間もなくシナゴーグ(ユダヤ人のコミュニティ・センターで宗教的儀式にも用いられる)があった場所に聖母マリア礼拝堂が建設された」との事。ニユルンベルクの「フラウエン教会」も、ユダヤ人の犠牲の上に建てられた教会であった(9月29日付、当ブログ「ニュルンベルク(2)[市街散策]」)ことを考えると、当時から各地でユダヤ人が迫害されていたことに気付かされる。

③ 「ファンケルハウス(鷹の家)」(写真左・写真右 : 「聖母マリア礼拝堂」とともに)
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かつては旅籠だった建物。ロココ様式の漆喰飾りが美しく、ウエディングケーキのようだとも言われている。建物の一階には観光局が入っているので、地図などの資料収集のため立ち寄った。

④ 「ノイミュンスター教会」(写真)
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「11世紀に建てられたロマネスク様式の建物で、赤い砂岩の正面と丸屋根は18世紀に改築された部分だ。ヴュルツブルクにキリスト教を伝えた宣教師キリヤンが殺害された場所がクリプタになっている」(「WURZBURG市内観光案内(日本語版)」より)。「教会内にリーメンシュナイダー作のマドンナと幼な子の像がある」(前掲より)との事だが、工事中のため中に入ることはできなかった。

⑤ 「ザンクト・キリアン大聖堂」(写真左)
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「この大聖堂は、ドイツで四番目に大きなロマネスク様式の教会(写真中左・中右 : 祭壇)。現在の建物は1040年に建築が始まり、時代の流れとともに移り変わる芸術様式の影響も受けている。この内装の主要部分は第二次世界大戦の爆撃から免れている。戦後の再建の際にはモダンな芸術作品を調度・設備に取り入れ、長堂の柱沿いには司教たちの墓石が年代順に並べられた。この中で、天才彫刻家リーメンシュナイダーが作ったルドルフ・フォン・シェレーンベルグ領主司教の墓碑(写真右 : 「WURZBURG(日本語版)」より)は最も有名である」(「WURZBURG市内観光案内(日本語版)」より)。

(参考文献・資料)
・「07~08地球の歩き方 南ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「06~07地球の歩き方 ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「図説ドイツ名景の旅」(谷克二著)[川出書房新社刊]
・「ロマッチック街道(日本語版)」(Kraichgau-Verlag GmbH)
・「宮殿と宮廷庭園ヴュルツブルク(日本語版)」(バイエルン州宮殿管理局)
・「WURZBURG(日本語版)」(トーマス・フート著)[エルマー・ハーン社]
・「WURZBURG市内観光案内(日本語版)」(Tourist Information)

ヴュルツブルクの観光案内
http://www.wuerzburg.de
レジデンツ
http://www.residenz-wuerzburg.de
大聖堂
http://www.dom-wuerzburg.de
レストラン「MartinstraBe」
http://www.martinsklause.com

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