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November 30, 2008

堺歴史文化交流会議2008・公開シンポジウム

アジアの海がはぐくむ堺

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先日、堺市が主催する、堺歴史文化交流会議2008・公開シンポジウム「アジアの海がはぐくむ堺~中近世の港町ネットワークを掘り起こす~」に出席した。南海本線「難波駅」から約10分、「堺駅」で下車。会場は、駅に隣接する「リーガロイヤルホテル堺」(写真左)4Fの「ロイヤルホール」(写真右)だ。

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部屋に入ると、右手に参加各都市のブースがあり(写真左)、観光案内などのリーフレットが並べられていた。正面が堺市(写真中左)、右手奥はアユタヤ県(写真中右)、右手手前はホイアン市(写真右)、左手奥はバンテン州(写真下左)、左手手前は厦門市(写真下中左)だ。また中央には、堺環濠都市遺跡から発掘された陶磁器類が展示されていた(写真下中右・下右)。

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さらに奥に進むと、シンポジウム会場だ。2~300名分の席が用意されており、既に数十名の方が着席している(写真左)。シンポジウムは午後2:00に始まり、以下のメニューで進行した。

Ⅰ.開会の挨拶(写真右 : 堺市副市長)
Ⅱ.基調講演「アジアの海がはぐくむ堺~中近世の港町ネットワークを掘り起こす~」(桃木至朗 / 大阪大学大学院文学研究科教授)
Ⅲ.報告とコメント(堺歴史文化交流会議参画都市から)
① ベトナム社会主義共和国・ホイアン市
・菊池 誠一 / 昭和女子大学教授
・タ・ティ・ホアン・ヴァン / 建設省建築都市農村計画ベトナム研究所研究員
・チュオン・ホアン・ヴィン / ホイアン遺跡保存管理センター研究員
② タイ王国・アユタヤ県
・吉川 利治 / 大阪外国語大学・名誉教授
・チャーンウィット・カセトリシ / タンマサート大学・東南アジア学課程顧問
・スポンコット・トントーンティップ / チャオ・サン・プラヤー国立博物院館長
③ インドネシア共和国・バンテン州
・深見 純生 / 桃山学院大学教授
・グスティ・アスナン / アンダラス大学講師
・ソニー・ウィビソノ / 国立考古学研究センター考古学研究部長
④ 中華人民共和国・厦門市
・藤田 明良 / 天理大学教授
・徐 暁望 / 福建社会科学院歴史研究所所長
・陳 娜 / 厦門市文化局文物処副処長
⑤ 日本国・堺市
・吉田 豊 / 堺市博物館学芸課課長補佐
・續 伸一郎 / 堺市博物館学芸課主査
Ⅳ.質疑応答
Ⅴ.閉会の挨拶

次に、講演内容を、当日配布された「要旨」から転載する。

一. 基調講演「アジアの海がはぐくむ堺」・桃木 至朗教授

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グローバル化とIT化の中で、過去を扱う歴史学や考古学もやはり急速に変化・発展しつつあり、それに合わせて歴史教科書も大きく変化してきた。そこでは例えば、陸ばかりではなく海、欧米ばかりではなくアジアにも光を当てる動きが盛んで、それらの角度から日本史を見直す作業も進んでいる。では中世から近世初期にかけての日本列島を代表する港町であった堺の歴史は、どのように書き換えられつつあるのだろうか。今回の公開シンポジウムでは、技術や消費を含んだ広い意味での文化に焦点を当て、アジアの4都市の代表も交えながら、最近の研究を紹介する。堺で花開いた茶の湯や、堺で発達した鉄砲製造の背景には広大なアジアの交易ネットワークがあったこと、また堺環濠都市遺跡の出土品がそのネットワークの重要な証人であることなどを通じて、参加者の皆さんとともに21世紀の堺、21世紀の国際交流について考える手掛かりを見出す事が出来れば幸いである。

二. 報告とコメント(ベトナム社会主義共和国・ホイアン市)
「アジアの海がはぐくむ堺~中近世の港まちネットワークを掘り起こす~」・菊池 誠一授

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ベトナム中部の港ホイアンは、東南アジアの伝統的な港町の景観とベトナムの古都市の市の部分を良く保存している点で、1999年にユネスコの世界遺産に登録されている。このホイアンには、17世紀に日本人の住む日本人町が存在し、いわゆる鎖国後も在住日本人は日本や東南アジア諸国との貿易に従事していた。このホイアンでは、1993年から日本・ベトナム経堂の考古学調査が始まり、17世紀の日本町跡と考えられる場所や日本との交流を示す数々の考古資料が出土している。例えば、17世紀後半に作られた肥前磁器(伊万里焼)や唐津焼、そして寛永通宝銭や長崎貿易銭である。また、近年、堺市をはじめ日本各地から出土する17世紀のベトナム陶器や茶の湯の世界に伝世された茶道具の中に、ホイアン出土のものとよく似た陶器がある。これは当時の交易で日本に運ばれたものであり、その生産地がホイアン近郊にあったと考えられる。堺とベトナムの関係は、江戸時代に大変近かかったのである。

三. 報告とコメント(タイ王国・アユタヤ県)
「アジアの海がはぐくむ堺~中近世の港まちネットワークを掘り起こす~・アユタヤの場合」・吉川 利治名誉教授

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アユタヤはタイ湾(シャム湾)から約80キロも遡ったところに位置するが、北からのチャオプラヤー川、ロッブリー川、パーサック川の合流点に当たり、タイの北部、東北部からの森林物産の集積に都合良かった。物納租税として集めた獣皮、蘇芳、象牙、スティックラック、香木がアユタヤからの輸出品となった。又アユタヤ周辺のデルタ地帯は稲作地帯であり、余剰米を輸出していた。
日本との交易は、15世紀から16世紀は琉球の船がアユタヤを訪れ、中国や日本の商品を運んできて、アユタヤの物産を中国や日本に運ぶ、中継貿易を行っていた。日本本土では日明間の勘合貿易が衰えて、堺の商人や京の町衆が「富める南蛮」に向けて16世紀から貿易船を送り出した。16世紀末のアユタヤはビルマとの戦いも止み、外港となるインド洋岸のマルタバン、テナセリムなどの港を奪い返していた。アユタヤでは中国船、日本船、ポルトガル船、オランダ船などが来航して賑わっていた。そしてアユタヤの島の周囲には、外国人の居留地が形成された。
日本からアユタヤ向けの御朱印船は、1604年(慶長9)~1636年(寛永13)までの間、少なくとも56隻がアユタヤに向かっていた。アユタヤからの輸入品は、蘇芳、鹿皮、鮫皮、鉛、錫などであった。日本からの渡航者の中に、アユタヤに定住するものが増え、日本人町が形成された。貿易を営みながら、アユタヤ宮廷に仕え、政治に容喙する日本人も現れた。
アユタヤでは国王が外国貿易の総元締めとなり、シャム湾から南シナ海を管掌する左方港務局とベンガル湾貿易を管掌する右方公務局に分け、左方の貿易実務は中国人、右方の貿易実務はムスリムに委託していた。1629年(寛永6)にはアユタヤの使節が江戸を訪問している。この時、同行(通訳?)していたのが、渡シャム経験を持つ堺出身の貿易商木屋弥三右衛門であった。鎖国以降にもアユタヤ船は交易を求めて長崎を訪れている。日本との交易で用いられたのが銀子であり、胴棹であった。日本銀は東南アジアに向かったが、東南アジアで中国の物資と交換に、銀は中国に持ち去られていた。銀の流通を通じて世界が経済的につながった。

四. 報告とコメント(インドネシア共和国・バンテン州)
「ジャガ・イモのうしろ」深見 純生教授

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① イモの旅
南アメリカ・アンデス山地で栽培されていたジャガイモは、16世紀にスペイン人がヨーロッパに運び、ポルトガル人がアジアにもたらした。そして東南アジアのジャカルタから日本に伝わったと言われる。
② ジャガのもと
ジャガはジャガタラ、つまり現在のインドネシアの首都ジャカルタの事。バンテン王国を建てたファタヒラが1527年ポルトガルとの戦いに勝ち、旧名スンダカラパをジャヤカルタ(勝利の町)とあらため、これがジヤカルタに変化し、海外ではジャカトラ、ジャガタラなどと呼ばれた。
③ ファタヒラの旅
スマトラ島北部・パサイの出身で(ペルシャの出身ともエジプトの王子ともいう)、メツカ巡礼の後、中部ジャワのドウマク王国の軍隊を率いてバンテン、ジャカルタ、チルボンなど西部ジャワの港市を支配した。中国に漂着し園イスラム化に貢献したとも伝えられる(これは怪しい)。
④ むすび
ヨーロッパ人の大航海と海洋東南アジアの活性化、特に東南アジア軍のイスラム化という時代背景。

五. 報告とコメント(中華人民共和国・厦門市)
「16世紀の大厦門湾・月港と日本列等」・藤田 明良教授

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アモイ市のある大厦門湾は泉州府と漳州府の境界に位置する。堺が繁栄した16世紀は、漳州側の月港が海外貿易の中心であった。明王朝は成立直後から海禁政策によって民間貿易を禁止したが、15世紀後半になると密貿易が目立ち始める。月港もその拠点の一つであった。九龍江河口に位置するこの港は漳州府城の外港であり、水陸の交通によって福建省内の内陸各地さらに景徳鎮のある江西省と繋がっていた。すでに15世紀末には「小蘇杭」と呼ばれる賑わいを見せていたが、16世紀には入るとポルトガル人も来航し、アジアの港町ネットワークと本格的に結びついた。だが、非合法貿易の拡大は海禁政策との緊張を高め、ついに「大倭寇」と言われる武力衝突の連鎖に発展した。事態収拾のため、明政府は民間船の海外渡航を条件付きで合法化することにした。1567年、月港は唯一の窓口として公認され、管理強化のため海澄県が新設された。最盛期を迎えた月港にはアジア内外の産品があふれ、中国各地から商人が雲集した。周辺には陶磁器・銅銭・生糸など輸出品生産・加工の工房が群立し、景徳鎮などブランド品の輸出向けコピーも盛んに作られた。
日本との往来の禁止は解かれていなかったが、実際にはたくさんの船が銀や刀などを求めて来航し、そのまま日本に住み着いた人たちもいる。来航地である九州沿岸には現在でも中国陶磁器片が大量に出土し、中国船の守護神・媽祖の小像も各地に残っている。特に薩摩や大隅など南九州は堺への中継地になっていたようで、大阪湾から紀伊水道にかけての地域との色濃い交流の痕跡が数多く残っている

六. 報告とコメント(日本国・堺市)
「港町・貿易都市の文化・文化交流」・續 伸一郎 学芸課主査

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貿易都市として繁栄した堺の町跡である堺環濠都市遺跡からは、当時の貿易を物語る多量の陶磁器が出土している。特に朱印船貿易がおこなわれていた17世紀初頭には、中国・東南アジア製の陶磁器が出土量のピークを迎える。中でも四耳壺・瓶などの貯蔵容器が多く認められ、これらは中身(内容物)を運搬する容器(コンテナ)として使用されていたと考えられる。
これら貯蔵容器の産地は中国・タイ・ヴェトナムであることが判明している。堺が海外から物資が集まる集積地としての機能を持ち、東アジア海域・交易ネットワークの終着点であったことを示している。
また、貯蔵容器以外に南蛮・島物と呼ばれる「茶の湯」に使用される陶器も出土している。これらの産地はヴェトナム中部のフエ・ホイアンやタイのアユタヤなどで、本来は炊事等の日常生活用陶器であった。そこに存在した日本町に居住もしくは渡航した人達が「茶の湯」の道具に採用したと想像される。このように物流だけでなく、文化的交流も行われていたのである。

以上、私にとっては非常に興味深い内容で、勉強になり、また参考にもなった。今後はこれをベースに関連する書籍なども読み、さらに理解を深めて行きたいと思う。

堺歴史文化交流会議のHP
http://www.city.sakai.osaka.jp/city/info/_kokusai/rebuk.html

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