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November 30, 2008

堺歴史文化交流会議2008・公開シンポジウム

アジアの海がはぐくむ堺

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先日、堺市が主催する、堺歴史文化交流会議2008・公開シンポジウム「アジアの海がはぐくむ堺~中近世の港町ネットワークを掘り起こす~」に出席した。南海本線「難波駅」から約10分、「堺駅」で下車。会場は、駅に隣接する「リーガロイヤルホテル堺」(写真左)4Fの「ロイヤルホール」(写真右)だ。

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部屋に入ると、右手に参加各都市のブースがあり(写真左)、観光案内などのリーフレットが並べられていた。正面が堺市(写真中左)、右手奥はアユタヤ県(写真中右)、右手手前はホイアン市(写真右)、左手奥はバンテン州(写真下左)、左手手前は厦門市(写真下中左)だ。また中央には、堺環濠都市遺跡から発掘された陶磁器類が展示されていた(写真下中右・下右)。

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さらに奥に進むと、シンポジウム会場だ。2~300名分の席が用意されており、既に数十名の方が着席している(写真左)。シンポジウムは午後2:00に始まり、以下のメニューで進行した。

Ⅰ.開会の挨拶(写真右 : 堺市副市長)
Ⅱ.基調講演「アジアの海がはぐくむ堺~中近世の港町ネットワークを掘り起こす~」(桃木至朗 / 大阪大学大学院文学研究科教授)
Ⅲ.報告とコメント(堺歴史文化交流会議参画都市から)
① ベトナム社会主義共和国・ホイアン市
・菊池 誠一 / 昭和女子大学教授
・タ・ティ・ホアン・ヴァン / 建設省建築都市農村計画ベトナム研究所研究員
・チュオン・ホアン・ヴィン / ホイアン遺跡保存管理センター研究員
② タイ王国・アユタヤ県
・吉川 利治 / 大阪外国語大学・名誉教授
・チャーンウィット・カセトリシ / タンマサート大学・東南アジア学課程顧問
・スポンコット・トントーンティップ / チャオ・サン・プラヤー国立博物院館長
③ インドネシア共和国・バンテン州
・深見 純生 / 桃山学院大学教授
・グスティ・アスナン / アンダラス大学講師
・ソニー・ウィビソノ / 国立考古学研究センター考古学研究部長
④ 中華人民共和国・厦門市
・藤田 明良 / 天理大学教授
・徐 暁望 / 福建社会科学院歴史研究所所長
・陳 娜 / 厦門市文化局文物処副処長
⑤ 日本国・堺市
・吉田 豊 / 堺市博物館学芸課課長補佐
・續 伸一郎 / 堺市博物館学芸課主査
Ⅳ.質疑応答
Ⅴ.閉会の挨拶

次に、講演内容を、当日配布された「要旨」から転載する。

一. 基調講演「アジアの海がはぐくむ堺」・桃木 至朗教授

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グローバル化とIT化の中で、過去を扱う歴史学や考古学もやはり急速に変化・発展しつつあり、それに合わせて歴史教科書も大きく変化してきた。そこでは例えば、陸ばかりではなく海、欧米ばかりではなくアジアにも光を当てる動きが盛んで、それらの角度から日本史を見直す作業も進んでいる。では中世から近世初期にかけての日本列島を代表する港町であった堺の歴史は、どのように書き換えられつつあるのだろうか。今回の公開シンポジウムでは、技術や消費を含んだ広い意味での文化に焦点を当て、アジアの4都市の代表も交えながら、最近の研究を紹介する。堺で花開いた茶の湯や、堺で発達した鉄砲製造の背景には広大なアジアの交易ネットワークがあったこと、また堺環濠都市遺跡の出土品がそのネットワークの重要な証人であることなどを通じて、参加者の皆さんとともに21世紀の堺、21世紀の国際交流について考える手掛かりを見出す事が出来れば幸いである。

二. 報告とコメント(ベトナム社会主義共和国・ホイアン市)
「アジアの海がはぐくむ堺~中近世の港まちネットワークを掘り起こす~」・菊池 誠一授

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ベトナム中部の港ホイアンは、東南アジアの伝統的な港町の景観とベトナムの古都市の市の部分を良く保存している点で、1999年にユネスコの世界遺産に登録されている。このホイアンには、17世紀に日本人の住む日本人町が存在し、いわゆる鎖国後も在住日本人は日本や東南アジア諸国との貿易に従事していた。このホイアンでは、1993年から日本・ベトナム経堂の考古学調査が始まり、17世紀の日本町跡と考えられる場所や日本との交流を示す数々の考古資料が出土している。例えば、17世紀後半に作られた肥前磁器(伊万里焼)や唐津焼、そして寛永通宝銭や長崎貿易銭である。また、近年、堺市をはじめ日本各地から出土する17世紀のベトナム陶器や茶の湯の世界に伝世された茶道具の中に、ホイアン出土のものとよく似た陶器がある。これは当時の交易で日本に運ばれたものであり、その生産地がホイアン近郊にあったと考えられる。堺とベトナムの関係は、江戸時代に大変近かかったのである。

三. 報告とコメント(タイ王国・アユタヤ県)
「アジアの海がはぐくむ堺~中近世の港まちネットワークを掘り起こす~・アユタヤの場合」・吉川 利治名誉教授

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アユタヤはタイ湾(シャム湾)から約80キロも遡ったところに位置するが、北からのチャオプラヤー川、ロッブリー川、パーサック川の合流点に当たり、タイの北部、東北部からの森林物産の集積に都合良かった。物納租税として集めた獣皮、蘇芳、象牙、スティックラック、香木がアユタヤからの輸出品となった。又アユタヤ周辺のデルタ地帯は稲作地帯であり、余剰米を輸出していた。
日本との交易は、15世紀から16世紀は琉球の船がアユタヤを訪れ、中国や日本の商品を運んできて、アユタヤの物産を中国や日本に運ぶ、中継貿易を行っていた。日本本土では日明間の勘合貿易が衰えて、堺の商人や京の町衆が「富める南蛮」に向けて16世紀から貿易船を送り出した。16世紀末のアユタヤはビルマとの戦いも止み、外港となるインド洋岸のマルタバン、テナセリムなどの港を奪い返していた。アユタヤでは中国船、日本船、ポルトガル船、オランダ船などが来航して賑わっていた。そしてアユタヤの島の周囲には、外国人の居留地が形成された。
日本からアユタヤ向けの御朱印船は、1604年(慶長9)~1636年(寛永13)までの間、少なくとも56隻がアユタヤに向かっていた。アユタヤからの輸入品は、蘇芳、鹿皮、鮫皮、鉛、錫などであった。日本からの渡航者の中に、アユタヤに定住するものが増え、日本人町が形成された。貿易を営みながら、アユタヤ宮廷に仕え、政治に容喙する日本人も現れた。
アユタヤでは国王が外国貿易の総元締めとなり、シャム湾から南シナ海を管掌する左方港務局とベンガル湾貿易を管掌する右方公務局に分け、左方の貿易実務は中国人、右方の貿易実務はムスリムに委託していた。1629年(寛永6)にはアユタヤの使節が江戸を訪問している。この時、同行(通訳?)していたのが、渡シャム経験を持つ堺出身の貿易商木屋弥三右衛門であった。鎖国以降にもアユタヤ船は交易を求めて長崎を訪れている。日本との交易で用いられたのが銀子であり、胴棹であった。日本銀は東南アジアに向かったが、東南アジアで中国の物資と交換に、銀は中国に持ち去られていた。銀の流通を通じて世界が経済的につながった。

四. 報告とコメント(インドネシア共和国・バンテン州)
「ジャガ・イモのうしろ」深見 純生教授

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① イモの旅
南アメリカ・アンデス山地で栽培されていたジャガイモは、16世紀にスペイン人がヨーロッパに運び、ポルトガル人がアジアにもたらした。そして東南アジアのジャカルタから日本に伝わったと言われる。
② ジャガのもと
ジャガはジャガタラ、つまり現在のインドネシアの首都ジャカルタの事。バンテン王国を建てたファタヒラが1527年ポルトガルとの戦いに勝ち、旧名スンダカラパをジャヤカルタ(勝利の町)とあらため、これがジヤカルタに変化し、海外ではジャカトラ、ジャガタラなどと呼ばれた。
③ ファタヒラの旅
スマトラ島北部・パサイの出身で(ペルシャの出身ともエジプトの王子ともいう)、メツカ巡礼の後、中部ジャワのドウマク王国の軍隊を率いてバンテン、ジャカルタ、チルボンなど西部ジャワの港市を支配した。中国に漂着し園イスラム化に貢献したとも伝えられる(これは怪しい)。
④ むすび
ヨーロッパ人の大航海と海洋東南アジアの活性化、特に東南アジア軍のイスラム化という時代背景。

五. 報告とコメント(中華人民共和国・厦門市)
「16世紀の大厦門湾・月港と日本列等」・藤田 明良教授

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アモイ市のある大厦門湾は泉州府と漳州府の境界に位置する。堺が繁栄した16世紀は、漳州側の月港が海外貿易の中心であった。明王朝は成立直後から海禁政策によって民間貿易を禁止したが、15世紀後半になると密貿易が目立ち始める。月港もその拠点の一つであった。九龍江河口に位置するこの港は漳州府城の外港であり、水陸の交通によって福建省内の内陸各地さらに景徳鎮のある江西省と繋がっていた。すでに15世紀末には「小蘇杭」と呼ばれる賑わいを見せていたが、16世紀には入るとポルトガル人も来航し、アジアの港町ネットワークと本格的に結びついた。だが、非合法貿易の拡大は海禁政策との緊張を高め、ついに「大倭寇」と言われる武力衝突の連鎖に発展した。事態収拾のため、明政府は民間船の海外渡航を条件付きで合法化することにした。1567年、月港は唯一の窓口として公認され、管理強化のため海澄県が新設された。最盛期を迎えた月港にはアジア内外の産品があふれ、中国各地から商人が雲集した。周辺には陶磁器・銅銭・生糸など輸出品生産・加工の工房が群立し、景徳鎮などブランド品の輸出向けコピーも盛んに作られた。
日本との往来の禁止は解かれていなかったが、実際にはたくさんの船が銀や刀などを求めて来航し、そのまま日本に住み着いた人たちもいる。来航地である九州沿岸には現在でも中国陶磁器片が大量に出土し、中国船の守護神・媽祖の小像も各地に残っている。特に薩摩や大隅など南九州は堺への中継地になっていたようで、大阪湾から紀伊水道にかけての地域との色濃い交流の痕跡が数多く残っている

六. 報告とコメント(日本国・堺市)
「港町・貿易都市の文化・文化交流」・續 伸一郎 学芸課主査

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貿易都市として繁栄した堺の町跡である堺環濠都市遺跡からは、当時の貿易を物語る多量の陶磁器が出土している。特に朱印船貿易がおこなわれていた17世紀初頭には、中国・東南アジア製の陶磁器が出土量のピークを迎える。中でも四耳壺・瓶などの貯蔵容器が多く認められ、これらは中身(内容物)を運搬する容器(コンテナ)として使用されていたと考えられる。
これら貯蔵容器の産地は中国・タイ・ヴェトナムであることが判明している。堺が海外から物資が集まる集積地としての機能を持ち、東アジア海域・交易ネットワークの終着点であったことを示している。
また、貯蔵容器以外に南蛮・島物と呼ばれる「茶の湯」に使用される陶器も出土している。これらの産地はヴェトナム中部のフエ・ホイアンやタイのアユタヤなどで、本来は炊事等の日常生活用陶器であった。そこに存在した日本町に居住もしくは渡航した人達が「茶の湯」の道具に採用したと想像される。このように物流だけでなく、文化的交流も行われていたのである。

以上、私にとっては非常に興味深い内容で、勉強になり、また参考にもなった。今後はこれをベースに関連する書籍なども読み、さらに理解を深めて行きたいと思う。

堺歴史文化交流会議のHP
http://www.city.sakai.osaka.jp/city/info/_kokusai/rebuk.html

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November 29, 2008

コルドンブルーとスタッフドトマト

第14回ニュージーランド(NZ)料理教室

半期に一度開催されているNZ料理教室に参加した。今回で7回目だ。前回は風邪をひいて欠席したので、一年ぶりとなる。参加者は約20名。講師はニュージーランド人のご夫婦で、日本に来て約3年。ご主人は26歳、幼稚園で英語を教え、奥さんは高校で英語を教えている。出身はニュージーランドのクライストチャーチ。Dsc01014Dsc00998

今回の料理は、ご夫婦が自宅で食べているうちの一つで、ディナー用との事(写真左・写真右 : すべての材料)。

メニューは次の4品。
① クラシック・ニュージーランド・キッシュ(写真左・お皿の左下)
② コルドンブルーとスタッフドトマト(写真左・お皿の左上と中央)
③ ニュージーランド風パンケーキとフランスパン(写真左・お皿の右下と右上)
④ ニュージーランド産ワイン、コーヒーなど

レシピは次の通り(4人分)。

① クラシック・ニュージーランド・キッシュ

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(材料)
・卵 : 4個
・牛乳 : 1.5カップ
・小麦粉(ベーキングパウダー、塩各小さじ一杯加えたもの) : 0.5カップ
・ブロッコリ : 1カップ
・エダムチーズ(すりおろしたもの) : 1カップ
・ハム(さいの目切) : 0.5カップ
・たまねぎ(細かくスライス) : 1個

(作り方)
1. オーブンを160度に予熱し、26cm型のパイ皿に薄く油を塗っておく。
2. ボールに卵、牛乳、小麦粉を入れ、良く混ぜる(写真左)。
3. ブロッコリを茹で、冷凍ミックスベジタブルと一緒に混ぜる。
4. 冷凍ミックスベジタブルと茹でたブロッコリを、用意されたパイ皿に広げ、上にチーズ、ハム、たまねぎを振りかける。混ぜた卵をパイ皿に均等に流し入れる(写真中左)。
5. 予熱しておいたオーブンで45~55分、さわれるくらいの固さになるまで焼く(写真中右)。
6. 温かいうちにキッシュを取りわける(写真右)。

② コルドンブルーとスタッフドトマト

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(コルドンブルーの材料)
・骨なし鶏胸肉 : 小4枚
・エダムチーズまたはスイスチーズ : 4枚
・赤玉ねぎ(みじん切り) : 1/2カップ
・ピーマン(みじん切り) : 2個分
・人参(すりおろしたもの) : 1/4カップ
・塩・コショウ

(コルドンブルーの作り方)
1. オーブンを180度に予熱しておく。
2. 鶏胸肉は、皮と余分な脂肪を取り除いておく。
3. 鶏胸肉の厚い部分の端に、注意して刃の鋭いナイフを入れ、材料が入るようなポケットを作る(写真左)。
4. それぞれの鶏胸肉のポケットの中に、ハムとチーズを1枚ずつ入れ込む(写真中左)。
5. 鶏胸肉に塩・コショウを軽く振る。
6. 鶏胸肉に小麦粉を軽く振って、余分な小麦粉をふるい落とす。
7. ボールの中で卵を泡立てて、小麦粉をはたいた鶏胸肉に卵につける。
8. 鶏胸肉に味付けをしたパン粉の中でまわし、パン粉を良くつける。
9. 予熱したオーブンの中に鶏胸肉を入れ、35~40分間、キツネ色になり汁気がなくなるまで焼く。

(スタッフドトマトの材料)
・ベーコン : 8枚
・トマト : 大4個
・赤玉ねぎ(みじん切り) : 1/2カップ
・ピーマン(みじん切り) : 2個分
・人参(すりおろしたもの) : 1本
・パルメザンチーズ(すりおろしたもの) : 1/4カップ
・塩・コショウ

(スタッフドトマトの作り方)
1. オーブンを175度に予熱しておく。11×7インチ(27.54cm×17.78cm)の耐熱皿に油を塗っておく。
2. ベーコン、たまねぎ、ピーマンをさいの目に切る。
3. ベーコン、たまねぎ、すりおろした人参、そしてピーマンを中高温で均等に茶色くなるまで調理し、横に置いておく。
4. ベーコンを炒めている間、トマトを洗ってへたを切り落としておく。
5. 0.5インチ(約1.2cm)の壁を残しながら、注意して中身をかき出す。
6. きれいに果肉を刻み、半分の量を中ぐらいのボールに入れる。
7. サイコロ状のベーコン、ピーマン、すりおろした人参、チーズ、たまねぎ、塩・コショウをトマトの果肉の中に入れ、軽くかき混ぜる。
8. 混ぜ合わせたものを均等に中が空洞になったトマトの中にスプーンで入れる(写真中右・右)。
9. 耐熱皿に詰め物をしたトマトを置く。
10. 20~25分、中に火が通るまでオーブンで焼く。

③ ニュージーランド風パンケーキ

(材料)
・小麦粉(ベーキングパウダーと塩少々を加えたもの) : 1カップ
・砂糖 : 大さじ2
・卵 : 1個
・牛乳 : 2/3カップ
・バター : 大さじ1
・バター(分量外) : 適量
・ホイツプクリーム
・ラズベリージャム

(作り方)
1. 小麦粉をボール(中)に入れ、砂糖を加え混ぜる。
2. くぼみを作り、卵をくぼみに入れる。
3. 好みの固さになるまで少しずつ牛乳を加えながら、木のスプーンでかき混ぜる。
4. 最後に溶かしバターを入れて軽くかき混ぜ、なめらかになるまでかき混ぜる。
5. テフロン加工のフライパンを中温に温める。
6. フライパンに少量の溶かしバターを敷くか、スプレー缶の調理油を吹き付けておく。
7. 熱したフライパンに、大きなスプーンでたねを入れる。
8. パンケーキは直径約6cmの大きさにする。
9. 表面に泡が現れたらひっくり返し、反対側に焼き色がつくまで焼く。

以上のレシピに従い料理を作り、その後は食事会だ。今回はボリュームがあったので、半分ぐらいを持ち帰りにした。持ち帰り用の弁当箱を2つ持って来たので、きれいに納めることが出来た。飲み物は、ニュージーランド産のワインが3種類(ロゼ・白・スパークリング)用意されていた。今回は車に乗って行かなかったので、ロゼワインを少々頂いた。レシピを見ると難しそうに思えるが、実際に調理してみると意外に簡単である。皆さんも試してみてはいかがだろうか。

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November 28, 2008

ライン川クルーズ(上)

南ドイツの旅(第32回)

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船は、午前11:00にリューデスハイムを出港。いよいよライン川クルーズの始まりである。日差しはやや強めだが、気候は穏やかで、クルーズ日和。屋上のデッキは、乗船客でかなり混雑している(写真左)。1~2分すると、バスを降りた「ブレムザー城」の前を通過(写真中)。続いて、「ゲルマニアの女神像」(写真右)が見えた。前回少し触れたが、この像はドイツ再統一の象徴として、1877~1883年にわたり、国民の寄付で建立されたもので、高さ10.55mの像が、25mの高さの台座の上に乗っている。台座に取り付けられている群像は皇帝ウィルヘルム一世、宰相ビスマルク、そして帝国の将校達だ。その両脇には戦争と平和を象徴する両翼を広げた巨人像が立つ。像の前の斜面には、ブドウ畑が広がる。

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10分ほどで、次の寄港地である「ビンゲン」に到着した(写真左)。港には、多くの客が待っている。ここからは、「クロップ城」が見える(写真中左)。1711年にマインツ軍によって破壊されたが、1875~1879年にかけて再建され、今日、市庁舎および郷土博物館として使われている。午前11:15に「ビンゲン」を出港して間もなく、「ビンガー・ロッホ(ビンゲンの穴)」と呼ばれる難所にさしかかった。「ライン川はビンゲンの先で大きく湾曲し峡谷に入ってゆく。水は渦を巻いて流れ、昔は各所に暗礁があって船が良く難破した。それで船頭たちは魔性の者に水底に引き込まれると言って恐れ、ビンゲンの穴と呼んだのであった」(「ドイツものしり紀行」より)との事。また、「下りの方が、操船が難しくて危険だったから、リューデスハイムで積み荷を下ろし、陸路すぐ下流のロヒルまで運び、そこでまた船に積むということも行われた。リューデスハイムが商業で繁栄した一因もそこにあった」(前掲書より)という。ちなみに、19世紀に爆破により通行は改善されている。ここからは、右手に「エーレンフェルス城跡」が(写真中右)、左手には「モイゼトゥルム(ねずみ塔)」(写真右)が見える。「エーレンフェルス城」は、「15世紀頃、戦争時マインツ大聖堂の宝物の碑難所として利用された城砦の廃墟。ビンガー・ロッホの入り口に近い立地のため、マインツ大司教のライン川関所として関税を徴収するにも最適であった」(「ライン川(日本語版)」より)との事。また、「ねずみ塔」は、「もともとはマウト(Maut)の塔すなわち関税塔。中州の上に建てられた。現在は信号塔として利用されている。伝説では、非常で強欲であったマインツ司教ハットニー二世(968~970)が罰としてここに投じられ、ネズミに食われた、といわれる」(前掲書より)。実際は、土地の人々が「マウト・トゥルム(関税塔)」を「マウス・トゥルム(ねずみ塔)」ともじったところから、この名で呼ばれるようになったようだ。

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次に見えてきたのは、「ラインシュタイン城」である(写真左)。13世紀の初め頃、マインツ大司教管轄の裁判所であった。その後廃墟となった時期もあったが、1825年、プロシアのルートヴィヒ皇子により復元され、「ラインシュタイン城」と命名された。旧帝国時代は、税関として使用されたが、現在は一般参観用に開放されている。続いて、「ライヒェンシュタイン城」だ(写真中左)。トレヒティングハウゼン村の近くにあり、1000年以上の歴史を誇る。盗賊騎士団の巣窟になったことから、1253年と1282年の2度にわたり焼き払われたという。1899年に個人所有となり、現在は、貴重な宝物が展示された博物館とホテル・居酒屋になっている。そして「ゾォーネツク城」(写真中右)。「ライヒェンシュタイン城」の下方に位置するこの城も、盗賊貴族が所有していたことから、ハプスブルグ家のルドルフ皇帝に攻撃され、焼き払われた。その後、再建禁止令を無視して築城したプファルツの侯爵から、マインツ選帝侯が城を没収した。1689年、フランス軍により爆破されたが、1843年に、プロシアのフリードリッヒ・ウィルヘルム四世によって再建された。ここでは200年前のえり抜きの家具や各種武具、またドイツの典型的な城の酒場を見ることが出来るという。観光船や砂利運搬船などとすれ違いながら、しばらく進むと、「ハイムブルク城」だ(写真右)。「バイエルン地方を支配したヴィッテルスバッハ家はプファルツの侯爵位も持っており1214年以来バッハーラッハの上方にシュターレック城を所有し、ライン地方における根拠地としていた。マインツの選帝侯はこれに対し、チェスの名手のように1290年頃バイエルン人の鼻先に「塔」を置いた。それが1305年に完成した「ハイムブルク城」である」(「カラー写真ガイド・ライン川(日本語版)」より)。1689年にフランス軍により爆破されたが、90年ほど前に私有化されたようだ。

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しばらくすると、次の寄港地「バッハーラッハ」に近づいた。山の方を見ると、廃墟らしき城がある。「フュルステンブルク城」(写真左)だ。「ケルン大司教エンゲルベルトが1219年にライン・ディーバッハに建立した城。バッハーラッハの所領保護のためということになっているが、実はライン川の通行税を取り立てるためであった」(前掲書より)との事。1689年、フランス軍により破壊され、塔のみ残ったらしい。現在はワインの貯蔵庫として利用されているようだ。対岸には「ロルヒ」の町。ゴシック様式の「聖マルティン教会」(写真中左)と、ルネツサンス様式の民家「ヒルヒェンハウス」が目立つ。間もなく「バッハーラッハ」に到着。「千年以上の歴史を誇る非常に魅力的な立地の小都市。市壁の16か所に物見の塔がある。木骨建築、ワイン醸造の専門学校。町の上にはゴシック様式の「聖ヴェルナーの礼拝堂」がある」(「ライン川(日本語版)」より・写真中右)。また山上には、「シュタールエック城」が見える(写真右)。この城については、すでに1095年の記録に見られるという。「1689年にフランス軍がラインの城々を攻めた時、ここには莫大な量の爆薬が蓄えられていたため、爆破された時には廃墟さえ残らなかった。今日ある青少年の家は、その城の礎石の上に、1925年から27年にかけて、新しく建てられたもの」(「カラー写真ガイド・ライン川(日本語版)」より)との事。「バッハーラッハ」では、多くの人々が乗船して来たので、デッキは満席になっていた(写真下)。

(参考文献)
・「カラー写真ガイド・ライン川(日本語版)」(rahmelverlag)
・「ライン川(日本語版)」(rahmelverlag)
・「ドイツものしり紀行」(紅山雪夫著)[新潮社刊]
・「07~08地球の歩き方 南ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「06~07地球の歩き方 ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]

BINGEN-RUDESHEIMER(ラインクルーズ船観光)
http://www.bingen-ruedesheimer.com


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November 27, 2008

野村美術館開館25周年記念「館蔵名品展」

茶の湯ぶらり旅(第35回)

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少し前になるが、野村美術館開館25周年記念「館蔵名品展」を見に行って来た(写真左・中)。ご存じのとおり「野村美術館」は、野村證券などの金融財閥を一代で築き上げた2代目野村徳七(号・得庵)のコレクションをベースにしている。京都・地下鉄東西線「蹴上駅」で下車。「南禅寺」(写真右)を通り、徒歩約10分で美術館に到着した。

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正面入り口から入り、左手に受付がある。入館料は大人700円だ。受付から真っ直ぐ進むと、展示室がある(写真左)。10月28日からは後期展示となっており、茶道具、能面、能装束など約50点が展示されていた。茶道と能に傾倒したと言うだけのことはあり、これらのコレクションは素晴らしいものばかりである(写真中左 : 坂本井戸茶碗・中右 : 鼠志野茶碗 銘横雲・右 : 交趾大亀香合 若狭盆)。その他、得庵直筆の道具帳や茶会記などの資料類もある。中でも茶会記は見事で、得庵の出席した茶会の様子が、ありありと書かれているのだ。また、茶会で使われた茶道具の画も、まるでその場で写生したかのように細かく描かれていた。かなりの観察眼と記憶力を持っていたことを窺わせる。

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展示室の奥には、「席飾り」が為されていた(写真)。「青磁珠算玉の花入」や「芦屋松竹梅蓮池地紋真形の風炉釜」、「伊賀瓢形耳付の水指」、「高台寺蒔絵棗」、「仁清金筋茶碗」などが並ぶ。一服頂きたい雰囲気だ。

ところで、地下の展示室で開かれていた個展「吉岡仙暁・萩茶碗展」も、作者と直接お話が出来、私にとっては有意義なものであった。一楽二萩と言われるように、萩焼が茶陶を中心に発展したこと、また文禄・慶長の役で日本に連れてこられた陶工、李芍光(りしゃくこう)・敬(けい)の兄弟により、萩焼の窯が開かれたこと、さらに藩窯として技術が他国に流出しないよう厳しく統制されたこと、そしてそれが萩焼の商品としての全国普及を遅らせたことなど、萩焼に関する色々なお話を聞かせて頂くことが出来た。出品は30点を越え、「萩大井戸手茶碗」や「萩片身替り割高台茶碗」、「萩黒金彩小服茶碗」など、素晴らしい作品が展示されていた。詳しくは、「吉岡仙暁」氏のHPをご覧いただきたい。受付におられた着物姿の女性は仙暁氏の奥様で、ニコニコとやさしそうな方であった。横に数冊積んであった書籍が目に入ったので一冊購入。厚かましくも、著者である仙暁氏のサインを頂いた。

2時間ほどの短い時間であったが、非常に楽しく、かつ有意義な時を過ごす事が出来た。個展「吉岡仙暁・萩茶碗展」は既に終了しているが、野村美術館開館25周年記念「館蔵名品展」は12月14日(日)まで開催されているので、ご覧になることをお薦めする。特に、野村得庵筆の茶会記は必見?

※作品の写真は野村美術館のHPから

(参考文献)
・「李芍光萩焼開窯秘話―佐々木源十郎「覚書」より」(吉岡暁蔵著)[里文出版]

野村美術館のHP
http://www.nomura-museum.or.jp/
「吉岡仙暁」氏のHP
http://sengyo-kamadayori.com/index.php?blogid=10

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November 26, 2008

備前焼の町を訪ねて(その3・最終回)

茶の湯ぶらり旅(第34回)

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「岡山県備前陶芸美術館」でゆっくりし過ぎたため、あまり時間が無かったのだが、「伊部駅」近くの町中を歩いてみた。駅から北に続く道を少し進むと、やきものの町らしい煙突が見えた。「桃螇堂」と書かれている(写真左)。煙突の傍に行くと、「のぼり窯」について解説されていた。それによると、「備前焼は伊部焼とも言われ、この伊部の地から良質の田土が出るところから、伊部を中心に生産された。文化の流れに沿って山頂から山麓に移り、室町末期には南、北、西に長さ50m以上、幅45mの三大窯が築かれ、割木200トン、焼成日数30日から50日を要していた。現在は、今までの共同窯から個人窯となり、大きさも6mから10m、幅5mと小さくなっている」との事。こちらの窯も、個人窯なのだろうか。ここでは「土ひねり」の体験が出来るようだが、先に進んだ。通りの突き当り左手に、陶芸のお店がある。歩道の部分は、備前焼で敷き詰められていた(写真中左)。右手に進むと、陶芸の町らしい雰囲気が続く(写真中右・右)。

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少し歩くと、お店の壁に「史跡天保窯・この先100m」(写真左)との案内板が掛っていたので、そちらの方向に向かう。途中、数件の窯があった。レンガ造りの煙突、のぼり窯、積み上げた薪などが見える(写真中左)。さらに進むと、「天保窯」だ(写真中右)。保存のため、屋根と金網で覆われている。中を覗いてみると、窯の焚き口の並んでいるのが見える(写真右・下左 / 下中左・下中右 : 窯の横から)。また横から見ると、窯の昇って行く様子が良く分かる(写真下右)。この「天保窯」は、昭和46年10月6日に備前市指定文化財となった。備前市教育委員会の解説によると、「江戸後期まで、南・北・西の三大窯で大量生産していた備前焼も、藩の保護のげんしょうや燃料の関係で、大窯の融通窯として、規模を縮小した三基の小窯が造られ、古備前写しの壺、茶器、花器、角徳利など小形の品が生産された。天保窯は、そのうちの一つで、天保三年(1832)ごろに築窯され、初め5室であったものが、補修、回収されながら、昭和15年頃まで焼き継がれた。備前焼の古窯で、原姿をとどめているのは、この窯だけである。構造は、それまでの窖窯形式のものより燃焼効率がよく、大窯の1/4の十数日で焼きあげられ、経費の節減、品物の回転を早めることのできる備前焼としては画期的なものだった。昭和53年に、岡山県備前焼陶友会が中心となり、備前市観光協会の協力によって保護屋根を設置したが、乾燥し崩壊が進むので、60年に再び陶友会が中心となり、岡山県郷土文化財団の助成を受け、窯体を樹脂加工で強化保存工事を行った」との事。ちなみに、平成20年11月9日付当ブログ「入江豊三郎・保命酒資料館」でお話しした、保命酒を入れる「備前焼の角徳利」の多くが生産された「天保窯」とは、この窯のことである。

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「天保窯」を見た後、来た道を戻り、「伊部駅」と同じ建物に入っている「備前焼伝統産業会館」(写真左)へ行くことにした。この建物の左手は駅に通じる通路で、直進すると無人改札口に出る。右手1Fは観光センター兼お土産物店で(写真中左)、喫茶レストランもある。階段を上った2Fが備前焼展示室で、「備前焼陶友会」の方々が製作した作品が多数展示販売されていた(写真中右・右)。また、3Fでは「土ひねり」の体験が出来る。私が訪ねたときは、2名の観光客の方が、一生懸命に茶碗を作っていた。本日は来店客が多かったとのことで、棚には十点以上の品が並べられていた。以上で、今回の観光は終了。備前焼について知りたかっただけに、短い時間であったが、非常に有意義に過ごす事が出来た。

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時計を見ると、次の電車が来る10分ほど前になったので、再び「岡山県備前陶芸美術館」に行って、書籍「窯別ガイド・日本のやきもの・備前」を購入し、駅のホームに向かった。岡山行きに乗るには、陸橋を渡らなければならない。階段を上ると、「岡山県備前陶芸美術館」(写真左)と「備前焼伝統産業会館」(写真中)が、先程とは違った角度で見える。間もなく2両編成の各駅停車がやって来た(写真右)。ワンマンカーである。35分ほどで岡山駅に到着した。

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ところで、新大阪―岡山間は新幹線を利用したのだが、もうすぐ廃車になる「0系こだま」にお目にかかることはできなかった。新幹線・岡山駅のホームの端には、カメラを構えた人たちが沢山いた(写真左)。「0系」を撮影するためなのだろうか。ちなみに列車を待っている間、私が撮影できたのは、「100系こだま」(写真中左)と「700系ひかりレールスター」(写真中右)、「N700系のぞみ」(写真右)の3種類だ。

備前焼伝統産業会館のHP
http://www.bizenyaki.bizen.okayama.jp/mamet_inbeeki.html
天保窯のHP
http://www.bizenyaki.bizen.okayama.jp/mamet_tenpokama.html

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November 25, 2008

備前焼の町を訪ねて(その2)

茶の湯ぶらり旅(第33回)

1Fでは、備前焼の歴史に関するパネルの他、備前焼の多彩な窯変についても解説、展示していた。この備前焼の窯変の種類について知っていると、備前焼を鑑賞する上でも役に立つので、簡単にご紹介する。

ご存知の通り備前焼は、「良質の陶土で成形し、乾燥させた後、絵付けもせず釉薬も使わずそのまま焼いたもので、土味が良く表れている焼き物です。焼き味の景色は、胡麻(ごま)、桟切り(さんぎり)、緋襷(ひだすき)、牡丹餅(ぼたもち)など変化に富んでいますが、それらは作品の詰め方や燃料である松割木の焚き方などの工夫と、千数百度の炎の力によって完成されたものです」(「岡山県備前陶芸美術館」案内書より)。この焼き味の景色、窯変の主なものは次の通り(写真は岡山県備前陶芸美術館のHPより)。

① 胡麻(ごま)
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松割木の灰が焼成中に作品に付着し、胡麻をふりかけたような状態になったものをいいます。作品の多くは、かぶる灰の量が多い棚の上に置かれ、降りかかった灰が熱で溶けて流れた状態のものを”玉だれ”と言います。今日では、自然胡麻の他に人為的に胡麻を出すため灰を焼成前に作品につけて焼くこともできるようになりました。

② かせ胡麻
作品にかかった灰が溶けきらず、黒や暗灰色のブツブツした状態に焼け残ったものをいう。

③ 自然桟切り(さんぎり)
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窯床に置いてある作品が灰に埋もれ、火が直接当たらないものと空気の流れが悪いのが相まって、いぶし焼(還元焼成)になったために生じる窯変で、ネズミ色、暗灰色、青色等がある。

④ 人工桟切り(さんぎり)
自然桟切りを人工的に作っているもので、火を止める直前に大量の木炭を投げ入れ、その木炭の化学作用により色の変化をさせたもの。

⑤ 牡丹餅(ぼたもち)
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皿・鉢の上に別の作品を置いて焼成し、その部分だけが火が当たらず赤く焼けたものをいいます。現在では、上に置くものを自分の好きな形にしたり、組み合わせて模様を作る場合もあります。

⑥ 緋襷(ひだすき)
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本来は大きな作品や「サヤ」の中に入れられた作品がくっつくのを防ぐため、ワラを間にはさんだり巻いたりして焼いたものであり、ワラの成分と粘土の鉄分が化学反応をおこし、緋色の線が表れたものをいいます。今日では電気窯で焼成することも多くなりました。

⑦ 青備前(青焼・あおやき)
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サヤ等に入れられ、特定の場所で強い火によって蒸し焼きにしたため、青灰色になったものをいう。これを食塩青と区別するため、自然青とか天然青という。

⑧ 青備前(食塩青)
青備前を、人工的に食塩を使用することによって作ったものをいう。これは焼き上げる直前に食塩を投げ入れ、窯を密閉して焼くことにより青灰色になる。

⑨ 伏せ焼(ふせやき)
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蕪徳利(かぶらとっくり)・壺等に多く見られるもので、作品の上に別の作品をかぶせて焼くことにより、上下の焼けが異なった色に分かれているものを言います。作品の中には伏せた部分が緋襷(ひだすき)になっているものもあります。

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備前焼の歴史や窯変の種類についてはこれぐらいにして、他のフロアの展示についてご紹介する。まず2Fは、古備前の名品だ(写真左)。入口正面には「狛犬壱対」(木谷神社蔵・貞享三年銘(1686)・岡山県指定重要文化財)が展示されている(写真中左)。部屋に入ると、「かぶせ焼葉茶壺」(桃山時代 : 写真中右・前出案内書より)や「海揚が緋襷鶴首(うみあがりひだすきつるくび)花入」(桃山時代 : 写真右・同)、「彩色備前・岩に鴫(しぎ)」(江戸中期 : 写真下・同)などが並ぶ。どれも素晴らしい作品ばかりだ。

3Fには、人間国宝の代表作品が展示されている。前回お話しした通り、備前焼の人間国宝は5人。以下簡単にご紹介する。

① 金重陶陽(かねしげとうよう・1896~1967)
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桃山備前の研究に取り組み、陶土・窯の構造・窯詰め、焼成法等の創意工夫に努め、1956年備前焼の世界で初めての人間国宝(重要無形文化財保持者)に認定され「備前焼中興の祖」と称せられる。写真右は「緋襷諫鼓鳥(ひだすきかんこどり)香炉」(「ええじゃねえ・備前おかやま」より)。

② 藤原啓(ふじわらけい・1899~1983)
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正宗白鳥の弟、敦夫の薦めで40歳で陶芸の道に入るという遅咲きの人。作品は陶陽の麗純な桃山調に対し、素朴で実直な鎌倉・室町期の古備前を範とした温もりに満ち「啓備前」と人々から親しまれた。写真右は「備前窯変旅枕花入」(前掲書より)。

③ 山本陶秀(やまもととうしゅう・1906~1994)
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備前の伝統技法を踏まえながら、京都修行などで見識を広げ、特に茶陶の世界では独自の境地を開く。最高峰を極めたと評される轆轤形成技術により、普遍の真実を体現した「技の陶秀」である。写真右は「肩衝茶入」(前掲書より)。

④ 藤原雄(ふじわらゆう・1932~2001)
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豪放な壺を多く制作し、「壺の雄」の愛称もある。強度の弱視で、ほとんど感覚での造形にもかかわらず、北大路魯山人から直に「粋」を学ぶなど、多彩な芸術交流で美学を深め、国外にも備前の美を伝える。写真右は「備前大壺」(前掲書より)。

⑤ 伊勢崎淳(いせざきじゅん・1936~)
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桃山の古陶再現など伝統的な技法に秀でながら、陶壁やオブジェ風の現代陶製作などにも取り組み、新旧両面での高い評価を受ける。また兄の満氏とともに備前焼の原点である半地下式窖窯(あながま)を復活。写真右は「香炉」(前掲書より)。

続いて4Fだが、このフロアでは物故作家の代表作品が展示されていた。壺や甕、人形、茶碗、皿など、100点以上が並ぶ。個別の作家についての知識はないが、ひとつひとつ作品を見ていると、興味は尽きない。

以上、約3時間で鑑賞を終え、次に町の散策に出かけた。


(参考文献)
・「ええじゃねえ・備前おかやま」(岡山・東備前観光推進会議)
・「窯別ガイド・日本のやきもの・備前」(上西節雄著)[淡交社]
・「産地別・すぐわかるやきものの見分け方」(佐々木秀憲監修)[東京美術]


岡山県備前陶芸美術館のHP
http://www.touyuukai.jp/bijyutu.html


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November 24, 2008

備前焼の町を訪ねて(その1)

茶の湯ぶらり旅(第32回)

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備前焼について知るため、「岡山県備前陶芸美術館」に行って来た(写真左)。山陽新幹線「岡山駅」で「赤穂線」に乗り換え、各駅停車で約30分、「伊部(いんべ)駅」で下車(写真中)。駅前に、「岡山県備前陶芸美術館」がある。正面入り口を入ると、右手が受付だ(写真左)。入場料は大人500円。4フロアーにわたり展示されており、1Fでは備前焼の歴史や製作工程、窯変などに関するパネル展示とともに、現代陶芸作家の作品が並べられている。2Fでは「古備前名品展」、3Fは「人間国宝代表作品展」、4Fは「物故作家代表作品展」が催されていた。

まず展示パネルの解説に基づき、備前焼の歴史についてお話しする。

① 須恵器から六古窯へ ~備前焼のルーツの時代~
縄文・弥生土器の時代を経て、5世紀頃の日本には、器の新時代が訪れます。轆轤、窯、一層の高温焼成という新技術を携えた「須惠器」の渡来です。瞬く間に日本各地に須恵器の窯が広がり、この備前の地でも盛んに焼かれました。続く奈良時代には、東海の猿投(さなげ)とともに備前の須恵器などが、より白く、固く、緑色自然釉を美しくまとったものを生み、日本の二大勢力をなしました。これが備前焼のルーツです。
その後、律令制の崩壊とともに、器は祭器や一部の貴族だけのものでなく、庶民の暮らしの道具として需要が拡大していきます。そうなると、全国各地の窯は、一般向けの商品として焼くことができるように窯が大きくなり、全国に幾つかの産地というものが誕生しました。今、古代・中世の窯で、現代にまで続いている6か所の産地は、「六古窯」と呼ばれています。瀬戸・常滑・信楽・越前・丹波そして備前です。この中で、備前だけが実は異色です。

② 備前窯、唯一無二 ~無釉・焼き締めの一千年~
他の六古窯と備前窯はどのように違うのか?
それは、備前焼だけが須恵器の技術を純粋に発展させ、あくまでも無釉で、窯の構造も、焼成技法も大きく異なり、独特の焼き物となったということなのです。そして驚くべきは、一千年を経た今も、日本全国唯一無二の歴史を連綿と重ね、庶民の生活と絶え間なく係わり続けていることです。
他の産地が釉薬を使った時代も、備前は「無釉、焼き締め」一筋に、丈夫さや使いやすさなどを追求しました。その精進の結果、備前の焼き物は、各地各層から絶対的な信頼を獲得してゆきました。やがて三つの大きな共同窯が築かれ、松割木で50~60日も焼成に時間をかける、現代備前焼の基礎が確立されています。

③ 諸国で大備前焼時代 ~水甕(みずがめ)・擂鉢(すりばち)・福岡の市は花盛り~
南北朝時代から室町時代にかけて、備前焼は全国シェア拡大に向けて大進撃を開始しました。そのころの都市に住む人の台所では、備前焼なしでは成り立たなかったのです。それはまず水甕。「備前の水甕、水かくさらん」と言われました。無釉で厚みがあるため、外気温の影響を受けず、また浸透性があるのも水が腐らない理由だと言います。
次の擂鉢、「備前の擂鉢、投げても割れぬ」という言葉の通り、強く、固いために、使い込んでも目が減らない極上品であったようです。多量生産に向くよう、重ね焼きしても溶着しない口縁部の工夫も、備前が完成しました。備前焼が日本中で使われたことは、各地の出土品や絵巻などでも知ることが出来ます。当時西国筋で最大の都市であった備前・福岡(九州の福岡の地名のルーツです)のマーケットにも、備前焼が商品として、また他の商品を入れる器として登場しています。昭和52年に、小豆島沖の海底から引き揚げられた300点以上にのぼる多数の備前焼は、船荷として遠方へ輸送されたことを物語っています。ところが備前焼に新風が・・・・。

④ 茶陶備前 ~桃山の美意識が見出した枯淡の美~
室町末期から桃山時代。この時代は日本の歴史の中では、不思議で何かの始まりを告げる新しい時代でした。新しい世界との交流の中で、新しい世界観や美意識が確立された、魅力的な時代です。茶の湯の中で、備前が第一に取り上げられた時代でもあります。「わび・さび」という茶道の感性の中で、ひたすら実用品に徹した備前焼が、一躍茶道具として認められています。特に利休や秀吉は、こよなく備前焼を愛しました。使うことに徹した姿勢が、心象芸術としての洗練も自然に高めていったのです。
中国遠征途中の秀吉は、籠城に役立つ備前焼の恐ろしさを知っていたこともあって、手中に収めるべく、この地に立ち寄り、備前焼の保護を図り、燃料・原土の無料政策を打ち出しています。また名高い北野茶会では、自分自身が亭主となった茶室に、備前焼の水指しと花入れを使っています。

⑤ 江戸、新感覚 ~多才に、カラフルに、江戸時代の備前焼~
江戸時代になると、日本陶芸史がまた大きく塗り替えられます。磁器の登場です。茶人たちの好みも、より端正で、工芸的なものへと移ってゆきます。美濃や伊賀など、桃山時代をリードしてきた個性的な窯は衰退しますが、備前はここでも必死に持ちこたえるべく精進します。暮らしの中の器という自負と、新時代に適応した新しい造形美の追求で生き抜いてゆきます。
備前焼の新時代に適応した新しい造形美は、「伊部手」、「細工もの」、「白備前」などです。「伊部手」は工芸美を意識したシャープな様式、「細工もの」は福の神や人物、鳥獣などで、置物や香炉として造られました。白備前や青備前は、焼成技術で改革を加え、また岩絵具を施した色絵備前などもありました。新感覚をものにした備前焼は、山陽道を旅する人にも大人気。池田藩は大いに奨励し、窯元六姓(かまもとろくせい : 木村・森・頓宮(とんぐう)・寺見・大饗(おおあえ)・金重)を定め、備前焼の保護育成を行いました。

⑥ そして今、備前は ~五人の人間国宝とそれに続く大きな可能性~
藩の保護のなくなった近代になって、備前の地に個人窯が出現し始めました。現代備前のスタートです。窯元六姓の家に生まれ、桃山期の備前を復興し、現代備前の基礎を築き、「備前焼中興の祖」と称される金重陶陽、文学を志して上京した後、この地に帰り、豊かな感性が生かされた作品を制作した藤原啓。巧みな轆轤技術で、繊細な作品を作り続けた山本陶秀。そして、親子二代の人間国宝の認定を受けた藤原雄。現在精力的な製作活動を続けている伊勢崎淳。備前焼はこの5人の人間国宝に続く多くの作家の活躍によって、今なお唯一「無釉、焼き締め陶」として、国際的にも高い評価を得ています。日本の焼き物の中で、ただ一つだけ日本の歴史の黎明期から今日までを共に歩み続けてきたのが備前焼である。

岡山県備前陶芸美術館のHP
http://www.touyuukai.jp/bijyutu.html


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November 23, 2008

古今伝授をめぐって

茶の湯ぶらり旅(第31回)

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先日、「世界の”茶”文化セミナー」に参加した。会場は「江久庵」(写真左)。高級カステラで有名な”お菓子屋さん”で、お店の2Fが多目的ホールになっている。大阪・堺市にある「履中天皇陵」の北側に位置する。南海電鉄・高野線「難波駅」から急行で約12~13分、「堺東駅」で下車し、東へ10分ほど歩くと会場に到着だ。地方都市にこのように立派なお店があったとは、と思わせるような店構え。店舗に足を踏み入れると、ショーケースが並ぶ。高級カステラや、茶道用の和菓子類などが陳列されていた。会場の2Fに行く通路には、各種マスコミから受けた取材の様子を表す写真パネルや、「南蛮人渡来図屏風」(写真中左)、「南蛮船の模型」(写真中右)、「北前船を描いた大皿」(写真右)などが展示されている。反対側には、菓子作りが見学できる工房が続く。少し進むと、明るく、清潔感あふれる感じのお茶処「利休」がある。ここで窓の外に広がる庭園を見ながら、抹茶や和菓子などを楽しむことが出来るのだ。

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庭園の右手を見ると、茶室が建っている。「朝雲庵」だ(写真左・中左 : 待合・中右 : 御庭・右 : 広間)。これは千利休が作った大阪屋敷の”御成の茶室”を復元したもので、「複元は、茶室研究の第一人者である中村昌生先生の監修により、利休の弟子・山上宗二が書き残した「利休大坂三畳台目茶室」の間取り図や当時の茶会記などの資料をもとに忠実に行われました」(「江久庵」案内書より)との事。庭園に出て、外からは茶室を自由に見ることが出来たので、拝見させて頂いた。茶室の特徴として、次のように書かれていたのでご紹介する。

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千利休(1522~91年)は、大阪城(1583年築城開始)の邸宅にあった大阪屋敷のほか、堺市にも茶室を作ったと伝えられていますが、現存するのは「待庵(たいあん)」(伝利休作)のみです。大阪屋敷の茶室は利休切腹後に取り崩されたと言われていますが、利休の弟子の山上宗二(やまのうえ そうじ)が間取りなどを文章で残しており、今日の茶室の原型にもなっています。「朝雲庵」は、この間取り図や当時の資料をもとに、忠実に再現しています。

~無駄を省き、緊張感を創り出す空間~
・深三畳台目(ふかさんじょうだいめ)の茶室(写真左・中)
 4畳ほどの空間に3畳の客室と1畳に満たない点前座、床の間
・亭主と客を隔てる「台目構え」と呼ばれる袖壁
・杉や木や土壁を使った「草庵風」と呼ばれるつくり
・明る過ぎず、ほのかな暗さを実現した窓の位置・大きさ
・「にじり口」と言われる、客が潜り入る出入口(写真中右)
なお、「朝雲庵」(写真右)という名は、当時のオリジナル名ではなく、「「朝」は日が昇り輝くという意。新しい施設が誕生したという喜びを表現しています。また、「雲」は利休にゆかりのある堺「集雲庵」からとり、音読みで「運」にも通じることで命名した」との事。

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会場が素晴らしかったので、本題からかなり離れてしまったが、今回催された「世界の”茶”文化セミナー」は第三回目である。これまで出席できなかった私は、初参加である。第一回目は6月14日(土)、大阪府立大学で角山栄・和歌山大学名誉教授の「茶(CHA)の心と文化」、第二回目は10月4日(土)、大阪府立大学で趙方任・首都大学東京非常勤講師の「日本と中国・茶文化の比較」が講演されたようだ。今回は、西田正宏・大阪府立大学人間社会学部准教授の「古今伝授をめぐって」である(写真)。何か茶の湯に関係があるのだろうと、「古今伝授」とは何なのかということを全く知らずに参加したので、興味津々であった。

今回の講演内容について、配られた資料の項目を挙げると次の通りである。

Ⅰ.なぜ世界のお茶セミナーで古今伝授の講演なのか
①牡丹花肖柏
②肖柏と茶の湯の関係について
③お茶(茶の湯)と伝受(伝授)は関係あるのか
Ⅱ.いわゆる堺伝授をめぐって
① 「古今伝授」とは何か
・広義の「古今伝授」
・狭義の「古今伝授」
② 堺伝授とは
③ 地下歌人から堺の住人への伝授(伝授の実際)
④ 二つの伝授(箱伝授と長雅からのさまざまな伝授)はどのような関係か?

まったく予備知識のないことを聴いたため、内容については消化不良状態であるが、私が理解したレベルでお話しすると、次の通りである。

「古今伝授」とは、「古今集」の講義(解釈の仕方)全般を指し、狭義には「東常縁(とうのつねより)」より「宗祇(そうぎ)」が受けた講義(特に秘伝の伝授)を始まりとし、以降、その説を宗祇が門弟に伝授したことを指す。そして宗祇から三条西実隆(さんじょうにしさねたか)・宗二に伝授されたものを「奈良伝授」、宗祇から牡丹花肖柏(ぼたんかしょうはく)に伝授されたものを「堺伝授」、実隆から細川幽斎を経て天皇家に伝授されたものを「御所伝授」と呼ぶ。「御所伝授」以外は、その実態が明らかでないという。

牡丹花肖柏(1443~1527年)は、室町時代中期の連歌師で、京の生まれ。北摂の地(池田)が戦乱の地となったため堺に移り、豪商紅屋喜平の世話になる。現在の三国が丘に庵(紅谷庵)を構え、和歌や連歌の指導を始めた。当時、裕福で経済力のあった自治都市・堺の商人達は、教養が豊かで文芸に親しむ者が多かったことから、彼らが弟子になり、また後援者となって、肖柏の文芸活動を支えたという。肖柏は、宗祇から「古今和歌集」などの講義(秘伝)を伝授された。先にお話しした通り、これが「堺伝授」である。

では、「古今伝授」と「茶の湯」との関係は、どのようなものなのであろうか。利休の弟子である山上宗二の「山上宗二記」には、この「肖柏」のことが書かれており、また「茶器名物集」など茶道伝書を見ると、その形態は、和歌の伝書を基にしで書かれた様子が窺われる。この点に両者の関係を見出す事が出来るのである。ちなみに、華道の伝書についても同様のことが言える。

「古今伝授」は、本来、口伝や切紙によって弟子に伝授されるのだが、やがて切紙などをまとめ、箱に入れ、封印をして伝授するという「箱伝授」が行われ、更には中身についての「伝授」を受けない、「箱」だけの「伝授」も行われるようになったという。箱を所有するだけの「古今伝授」は、江戸時代ぐらいまで続いたようだ。

以上が、私なりに理解した今回の講演の内容だが、何故「古今和歌集」などの解釈が「古今伝授」のように秘伝として扱われたのかなど、自宅に帰ってから考えてみると、分からないことばかりである。もう少し勉強してから、講師の方に質問したいと考えている。
なお、講師の方が、「近世古今伝授史の研究―地下篇―(新典社研究叢書116)[日下幸男著]」を参考文献として挙げておられたので、ご紹介しておく。

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続いて10分ほど、角山栄・和歌山大学名誉教授のお話があった(写真)。郡上八幡の大和町に「古今伝授の里フィールドミュージアム」という施設があり、「古今伝授」を観光資源にしているという。牡丹花肖柏に伝授された「堺伝授」のある堺市も、「古今伝授」の町として力を入れ、郡上八幡と提携するぐらいのことをしても良いのではないかとのご意見、なかなか説得力があったように思う。これでまた、訪ねたい場所が一つ増えてしまった。

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最後に、トルコ・チャイと「江久庵」のカステラが全員に配られ、演台ではトルコ・チャイの入れ方が実演された(写真左)。今回の講演会。定員は150名だったが、空席が見つからないぐらいの盛況ぶり(写真右)。大多数が60歳代以上の方ではないだろうか。皆さん勉強熱心であることに、あらためて驚かされた。

※理解不十分な状態で書いたため、誤りも多いと思うが、お許しいただきたい。

「江久庵」(EH製菓株式会社)のHP
http://www.kokyuan.jp
http://www.EH.com
西田正宏・大阪府立大学准教授のHP
http://www.human.osakafu-u.ac.jp/staff/blue/b_nishida_masahiro/index.html
角山栄・和歌山大学名誉教授に関するHP
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E5%B1%B1%E6%A0%84
古今伝授の里フィールドミュージアムのHP
http://www.gujo-tv.ne.jp/~kokin/

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November 22, 2008

秋季 茶碗展 ~国焼を中心に~

茶の湯ぶらり旅(第30回)

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「秋季 茶碗展 ~国焼を中心に~展」を見るため、「滴翠美術館」に行って来た(写真左 : 入口・写真中左 : 入口通路・写真中右 : 美術館)。ご存知のとおり「滴翠美術館」は、旧三和銀行(現三菱東京UFJ銀行)の前身である山口銀行の頭取であった故山口吉郎兵衛氏の蒐集品の寄贈を受け創設された。陶磁器・人形・かるた・羽子板類等、約1,500点が収蔵にのぼる。現在美術館として使用している建物は、山口吉郎兵衛氏の自宅を改装したもので(写真右 : 庭側からみた建物・写真下 : 庭)、近年の関西モダニズム建築20にも選ばれている。この美術館の名前になっている「滴翠」は、山口吉郎兵衛氏の雅号であり、また「背後に六甲山の翠巒を負うている」(「滴翠美術館」案内書より)という位置環境も考慮して付けられたようだ。

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大阪・梅田から、阪急電車「阪急芦屋川駅」で下車。北西、徒歩10分ぐらい、大きな家の並ぶ住宅街の中にある。多くの車が入って来たので、美術館の混雑を予想したのだが、美術館を訪ねる人は一人もいない。皆さん、併設されている「陶芸研究所・滴翠窯」に向かっていた(写真)。焼き物作りを楽しんでいるのだ。

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作品については、茶碗を中心に、軸、巻物、硯箱、筆架、水滴の他、御所人形や宮廷調度絵合わせなど、約40点が展示されている(写真)。展示図録や館臓品図録などが販売されていなかったので、作品の写真をほとんど示す事が出来ないのだが、展示作品の中から、私が気になった5点をご紹介する。なお、説明については、かなりの部分を展示解説から引用した。

① 茶碗・「志野焼・無地志野(むじしの)」(桃山時代)
桃山時代に、美濃で焼かれた文様の無い志野焼。茶碗を中心に花入、ぐい呑みなども製作された。

② 茶碗・「赤織部・沓形」(桃山時代)[写真 : 滴翠美術館発行絵葉書より ]
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桃山時代に、美濃で焼かれた織部焼の一種。鉄絵と白泥で、幾何学的な文様が描かれたものが多い。

③ 茶碗・「南紀男山焼・染付雲龍手写(吸江斎箱)」(江戸時代)
1827年、和歌山県広川町にて崎山利兵衛が、紀州藩の保護の下に開窯。藩の御用窯として、欽古堂亀祐や伊万里焼の陶工を招いて指導を仰ぎ、染付や色絵の日用雑器などを多く焼成した。偕楽園焼、瑞芝焼(ずいしやき)と並んで、「紀州の三大窯」と呼ばれている。

④ 茶碗・「虫明焼・伊賀写(瓢の画)」(三猿候作・「むしあけ」印)
備前国、岡山県邑久郡邑久町虫明の焼き物。寛政年間(1789~1801)に、藩主池田候の家老、伊木家の御庭焼きとして開窯。その後文政二年(1819)に仁阿弥道八も招かれ、池奥窯が築窯されるが、天保13年(1842)に廃窯。また五年後の弘化4年(1847)、伊木三猿斎が清風与平を招いて新しく間口窯を開き、現在に至る。

⑤ 茶碗「相馬駒焼・色絵鷹羽文(初代田代清治右衛門作・在印) 」
相馬藩主の命により、田代源吾右衛門(後に清治右衛門と改名)が京都にて野々村仁清に陶法を学び、相馬郡中村(福島県)で開いた御用窯。初期は京焼風の色絵で焼成されていたが、二代目になると走馬絵を下絵で描き、それが駒焼と言われるようになった。

以上5点をご紹介したが、これ以外にも「出雲焼」や「比良焼」、「高原焼」、「赤膚焼」、「尾戸焼」の茶碗など、興味を魅かれる作品が多数展示されているので、ご覧になることをお薦めする。会期は11月30日(日)まで。

余談になるが、美術館の帰りに、陶芸教室が開かれている「陶芸研究所・滴翠窯」を見学させてもらった。20名以上の生徒さん達が作品作りに熱中し、粘土をこねたり、轆轤を回したりしている。別の部屋では初心者コースが開かれているというので、そちらも案内して頂く。3カ月で7回のコース。ひも状にした粘土からの成形を学ぶ方、釉薬のかけ方を習う方など、数名がいた。皆さん集中しているので、私に気がつかない様子だ。数多くの作品を見て、どのようにして作るのかと言った解説を読んでいても、何か腑に落ちないのは、自分で作ったことが無いからかもしれない。一度体験してみようかと思い始めたのだが・・・。

滴翠美術館のHP
http://tekisui-museum.biz-web.jp/

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November 21, 2008

渡来した陶磁器~茶人たちが愛した器たち~

茶の湯ぶらり旅(第29回)

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「渡来した陶磁器~茶人たちが愛した器たち~展」(写真)を見るため、藤田美術館に行って来た。ご存知のように藤田美術館は、春(3月中旬~6月上旬)と秋(9月中旬~12月上旬)の年2回だけ開館しており、今回は122回目の秋季展になる。本展覧会の概要については、「日本に伝わる陶磁器の中には、古くから海を渡って来たものがあります。これらは色や形など、異国情緒あふれる作品が多く見られます。茶人達は、こうした陶磁器を愛用し、またある時は趣向に合うものを作ることで茶を楽しみました。本展覧会では、中国・朝鮮・東南アジア・ヨーロッパの陶磁器を通して、茶人達の美意識を紹介いたします」(同展示解説より)との事。

今回展示されているのは、全部で51品目。以下、これらの中から、私が注目した5点をご紹介する。なお説明文は展示解説もしくは展示図録から、また作品の写真は展示図録から用いた。

① 「曜変天目(ようへんてんもく)茶碗」(国宝・大名物)[中国・南宋時代・12~13世紀]
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漆黒の碗の内側に、瑠璃や青の曜変と呼ばれる斑紋の現れた茶碗です。土見せて小振りの削り高台から漏斗状に開く器形やスッポン口は天目形独特のものです。また腰付近には厚い釉溜まりも見られます。このような虹彩を持つ天目は世界で三椀しか現存しておらず、室町時代から茶碗の内で最も評価の高い貴重なものとした大切に扱われてきました。この茶碗は青系統の曜変が銀河のように浮き出て、華やかさの中にも落ち着きがあり、上品な美しさを放っています。また口縁の覆輪も特徴のひとつです。徳川家康から水戸徳川家に譲られ、大正7年(1918)に藤田家に入りました。他の二椀は、静嘉堂文庫美術館と大徳寺龍光院に所蔵されています。

② 「白縁油滴天目鉢(しろぶちゆてきてんもくはち)」(重要文化財)[中国・金時代・12~13世紀]
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油滴天目には福建省建窯製のものと、それに倣って華北の磁州窯一体で作られたものがあり、この鉢は後者と考えられます。抹茶に用いる茶碗よりも一回り大きい椀形で、露胎のように見える高台から腰にかけては胎土の灰白色が見えないよう鉄化粧が施されています。黒釉を二重にかけた部分に油滴が現れ、口縁部の白化粧は、この黒釉を剥いだ上に施されています。白縁の碗や鉢はいくつか伝世していますが、細かい油滴が全面に出たものは類例がありません。

③ 「交趾大亀香合(こうちおおがめこうごう)」(大名物)[中国・明~清時代・17世紀]
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中国・福建省で焼かれましたが、長い間ベトナム北部で焼かれたと考えられていたため、その地名から交趾焼と呼ばれます。この香合は、大きさや類品の少なさから、形物香合番付では筆頭の東の大関に座り、江戸時代から著名であったことが分かります。明治45年(1912)に、当館コレクションの基礎を築いた藤田傅三郎(1841~1912)が記録的な価格で落札した事でも有名です。

④ 「御所丸黒刷毛(ごしょまるくろはけ)茶碗・銘 緋袴(ひばかま)」[朝鮮半島・朝鮮(李朝)時代・17世紀]
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白釉を地に黒釉を大胆にかけた、歪みの強い茶碗です。胴には轆轤目があり、高台は土見せで多角形に削られています。銘の「緋袴」は、白地部分に現れた赤味から名付けられたと云われています。日本からの注文によって朝鮮半島で作られました。

⑤ 「阿蘭陀色絵莨葉文水指(おらんだいろえたばこのはもんみずさし)」[オランダ・17世紀]
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17世紀後半頃、小振りだった薬壺をもとに、水指として日本から注文したと考えられています。白地に鮮やかな黄や青が映える唐草文様で埋め尽くされています。特に大きく描かれた葉を煙草の葉に見立てています。オランダのデルフトで焼かれ、オランダ東インド会社によって請来された陶胎の焼き物です。

以上5点をご紹介したが、その他にも数多くの素晴らしい展示品を見ることが出来る。是非、実物をご覧になることをお薦めしたい。なお本展は、12月14日(日)まで開催されている。

(関連)
当ブログ・平成20年3月23日付「茶―茶人と道具展(茶の湯ぶらり旅・第17回)」

(参考文献)
・「第122回目の秋季展・渡来した陶磁器~茶人たちが愛した器たち~」(財団法人藤田美術館)

藤田美術館のHP
http://www.city.okayama.okayama.jp/museum/fujita/tenji122.htm

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November 20, 2008

ラインの真珠「リューデスハイム」

南ドイツの旅(第31回)

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午前6:30頃目覚め、午前7:30頃に朝食を取り、午前8:35にホテルからバスでリューデスハイムに向かった。今日のバスの運転手は、フランツさんだ。本日は、リューデスハイムから船でライン川を下りザンクト・ゴアール行き、そして昼食を頂いた後、バスでケルンへ。大聖堂などを見学して、ボン近郊のケーニヒスヴインターのホテルで宿泊する予定である。ホテルからハイデルベルク中央駅の前を通り(写真左)、北西に向かう。途中、ワイン用のブドウ畑(写真右)などを見ながら約1時間半、午前10:10にリューデスハイムに到着した。

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出航時間が午前11:00だったので、乗船場に午前10:40集合との事。短い時間だが、それまでは自由時間となったので、町を一回りとするにした。一回りと言っても、縦200m、横5~600mほどのかわいらしい小さな町だ。「ラインの真珠」と呼ばれているようだ。バスを降りたのが、ライン通りにある「ブレムザー城」(写真左・中左)の前だったので、ここから観光を始める。この城は12世紀に建てられたもので、マインツの選帝侯が酒ききを楽しんだところでもあるという。現在はワインの博物館になっており、ワイン作りの道具や各時代の貴重なグラス、ボトルなど、ワインにかかわる品々が展示されている。ここからライン通りを東に200mほど行くと、「つぐみ横丁」がある。ワイン酒場やワイン・レストラン、お土産物店などが軒を連ねる、リューデスハイムで最も賑やかなスポットだ(写真中右・右)。

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添乗員の案内で、「つぐみ横丁」を北に上った角にあるお店、「NICOLAS」(写真左・中左)に入ることにした。店内入口には、ワイン樽やブドウの絞り機などが展示されていたが(写真中右・右)、ここは資料館ではなく、ワイン・レストランだ。日本人スタッフもいる。残りの時間、何を見るべきかアドバイスを受け、ツアーメンバーと別れ、お店を出た。

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次は、「NICOLAS」からオペル通りを西へ約100m行ったところにある、「ブレムザー館」である(写真左)。ここには、ジークフリートによって収集された自動演奏楽器のコレクション、約250点が展示されている(写真中左)。展示されている楽器は、1930年以前の150年間に作られたものだが、「この種の機械仕掛けはすでに1500年も前にビザンチンで作られて、ヨーロッパでは18~19世紀に流行した。ある意味でレコードやラジオ・テープレコーダーの前身といえるだろう。この収集品の多くは、ほとんど完全な状態で保存されていて、現代のものと比較するだけでも面白い」(「カラー写真ガイド・ライン川(日本語版)」より)との事。建物に入り、声を掛けるが、誰もいない。受付周辺の展示物を写真に撮っていると(写真中右・右)、奥の事務室から女性が出てきた。時間が無いので見学は出来ないのだが、案内書などがあれば欲しい旨伝えると、「ドイツ語・英語・フランス語」で書かれたパンフレットを一部くれた。私が日本人であることを伝えると、パンフレットの裏側、最後の行を指差したので、その部分を見ると、「18世紀から20世紀に至る自動式楽器のドイツ最大のコレクションに数えられます。この楽器コレクションをご見学ご観賞ください」と日本語で書かれていた。少しお話しした後、「ブレムザー館」を出ることにした。人の気配を感じたので出口の方を振り返ると、彼女は私を見送ってくれていた(写真下)。

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再び「つぐみ横丁」の前を通り(写真左)、オペル通りを東に向かった。この通りにも、土産物店やワイン・レストランが並んでいる(写真中左・中右)。100mほど進むと、左手に「ゴンドラリフト乗り場」が見えた(写真右)。乗り口は、多くの人で混雑している。このリフトで、「ニーダーヴァルト」に行くことが出来るのだ。森の中には、1871年のドイツ統一を記念して、1883年に建てられた「ゲルマニアの女神像」がそびえている。

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リフト乗り場から南東に250mほど行くと、教会がある(写真左・右 : 教会内部)。「カラー写真ガイド・ライン川(日本語版)」によると、「第二次大戦で爆撃を受けた由緒あるカトリックの教区教会も一見の価値がある。今日ではすっかり修復されている。屋根についた風見の星と半月の文様はトルコとの戦いを想起させる」との事。

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集合時間の午前10:40に近づいたので、乗船場に向かう。川沿いのライン通りに出ると、丁度添乗員に連れられたツアーメンバーと出会ったので、彼らと一緒に乗船場へと歩いた。乗船場の前辺りに、白い塔が見え始めた(写真左)。これは15世紀後半、ゴシック期に作られた城塞南東の一部で、「アードラー・トゥルム(鷲の塔)」(写真中左)と呼ばれている塔だ。乗船場は、この塔の正面にある(写真中右)。鉄道の踏切を渡り、午前11:45頃、我々は船に乗り込んだ(写真右)。

(参考文献)
・「カラー写真ガイド・ライン川(日本語版)」(rahmelverlag)
・「ライン川(日本語版)」(rahmelverlag)
・「ドイツものしり紀行」(紅山雪夫著)[新潮社刊]
・「07~08地球の歩き方 南ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「06~07地球の歩き方 ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]

リューデスハイムの観光案内
http://www.ruedesheim.de
ブレムザー城(ワイン博物館)
http://www.rheingauer-weinmuseum.de
ニーダーヴァルトへのゴンドラリフト
http://www.seilbahn-ruedesheim.de
BINGEN-RUDESHEIMER(ラインクルーズ船観光)
http://www.bingen-ruedesheimer.com

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November 19, 2008

川辺の散歩道から見る「ハイデルベルク城」

南ドイツの旅(第30回)

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堤防を渡り、ネッカー川の北側に出る。ここから川沿いを西に歩き、「カール・テオドール橋」へと進んだ。川を挟んでみる「ハイデルベルク城」はとても美しい(写真左)。青い空を背景に、手前には川、そして夕日に照らされているのがなお良い(写真中左)。時々立ち止まり、ボ~と景色を眺めていた。夕陽の照らす頃は、寂しさをもたらす事もあるが、一日の終わり、心の安らぎも与えてくれるように思える。西に向かって川沿いを進むと、「聖霊教会」と「カール・テオドール橋」が見えてきた(写真中右)。川の南側から見たときは良く分からなかった「橋門」も、こちら側からだと良く分かる(写真右)。橋の景観が、こちらから見る方が格段に良いのは、「聖霊教会」や「イエズス教会」の塔などが、景観全体のバランスを良くしているからであろうか。ただ、工事中なのが残念である。また南側の「橋門」からは見えなかった「女神アテネ」の像も、橋脚の上に立っているのが分かる(写真下)。

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当初「カール・テオドール橋」から、「シュランゲン小道」を上り、「哲学の道」を歩くつもりだったが、川辺から見る景観が良かったこと、また坂道を上るだけの余力が残っていなかったことから、「ネッカー川」の川岸に造られた散歩道を歩くことにした。土手を降り、少し低くなった散歩道から見る眺めも良い(写真左)。石畳で出来た散歩道は、西へと真っ直ぐ続く(写真中左)。家族連れ、若いカップル、子供達、そして老人と、色々な人達が散歩している。いつも早足で歩く私だが、このときはベンチで休みながら、景色を楽しみ、ゆっくり、のんびりと歩いた。「カール・テオドール橋」の向こうに「ハイデルベルク城」の見える景色(写真中右)、本日の業務を終えて乗船場に並ぶ白い遊覧船(写真右)、そして「市公会堂」(写真下左)などを見ながら、ゆったりと時間が流れる。1kmほど歩くと、緑に覆われた広場に出る(写真下右)。ここでは、子供達がボール遊びを楽しんだり、若いカップルや家族連れが緑の上に足を投げ出し、何かを語り合っている。ここで散歩道も終わりだ。土手の坂道を上り、「テオドール・ホイス橋」に出た。

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日も沈み始めたので、本日の観光はこれで終了。ホテルに向かうことにした。「テオドール・ホイス橋」を渡る(写真左)。橋の途中で見る眺めも良い(写真中左・中右 )。ハイデルベルク旧市街の景観は、「ハイデルベルク城」と「カール・テオドール橋」、「ネッカー川」の3つから出来ていると言っても良いのではないだろうか。どれ一つ欠けても、物足りないのだ。「テオドール・ホイス橋」を渡ってから、さらに南に4~500m進むと、「ビスマルク広場」に出る(写真右)。ここは旧市街とは異なり、街中である(写真下左)。本日宿泊する「レオナルド・ホテル」は、ここから西に6~700mほど離れている。およその場所しか分かっていなかったので、ウロウロしているうちに暗くなり始めた。少し不安になったので、道行く人に尋ねることにした。最初は、自転車に乗って信号待ちしていた20歳前後の女性だ。ホテルの名前と住所を言うが、分からないとの事。いつもであれば、ここで別の人にあたるのだが、ドイツ人は親切な人が多い。交通信号が何度も変わっているにもかかわらず、私の持っている地図を見て、一生懸命に場所の見当を付けてくれるのである。結局、おおよその方向しか分からなかったのだが、それだけの時間を割いてくれたことに感謝である。以前、北ドイツに行った時も、何人か親切な女性に出会ったのを思い出す。教えてもらった方向に歩いて行くのだが、ホテルは見つからない。仕方ないので、近くにあったスポーツクラブに入り、受付の女性にホテルの場所を尋ねると、2軒隣にあるとの事。午後8:00頃、ようやくホテルに到着(写真下右)。フロントでツアー会社と私の名前を告げると、すぐに分かってくれた。本日も良く歩いたので少々疲れたが、思っていた所を一通り回ることが出来たので、十分満足できる一日であった。

(参考文献)
・「ハイデルベルク(日本語版)」(ショーニング出版社)
・「ドイツものしり紀行」(紅山雪夫著)[新潮社刊]
・「07~08地球の歩き方 南ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「06~07地球の歩き方 ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]

ハイデルベルクの観光案内
http://www.heidelberg-tourismus.de
レオナルド・ホテル(旧レガ)
http://www.rega.bestwestern.de

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November 18, 2008

マルクト広場で食べるディナー

南ドイツの旅(第29回)

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少々歩き疲れていたため、ネッカー川を巡る観光船に乗ろうと思って「乗船場」に向かったのだが、最終の船は午後3:30発。すでに午後5:00を過ぎており、乗船は断念せざるを得なかった(写真左)。仕方ないので、ネッカー川の北側にある「哲学の道」に行くつもりで、ネッカー川沿いを東に歩いた。道を挟んだ南側には城壁と塔が続く(写真中左)。「カール・テオドール橋」の近くに来ると、本日最後の観光船が船着場に戻って来ていた(写真中右)。さらに東に歩くと、「カール・テオドール橋」の「橋門」に出た。この橋は、「古い橋」を意味する「アルテ・ブリュッケ」と呼んで親しまれている。現在修復中で足場が組まれていたため、景観はあまり良くない(写真右)。橋の両側には門塔が建てられており、これにより旧市街への通行を取り締まっていたという。橋門からひとつめの橋脚の上には、選帝侯カール・テオドールの像があり(写真下)、北岸近くの彫像では、カール・テオドールを知恵の女神アテネに例えている。この橋を渡り、「シュランゲン小道」を上ると「哲学の道」に続くのだが、どこかで休憩したかったので、夕食も兼ね「マクドナルド」に行くことにした。

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添乗員が配布してくれた地図によると、先ほど訪れたマルクト広場の南側に位置していたので、急ぎ足で向かった。しかしその場所には、「マクドナルド」は無かった。かつては街に調和するような店舗を建てて営業していたとの事だったが、客のマナーが悪く、周囲にゴミが散らかったことから、この場所から追い出されてしまったようだ。先日訪れた「ローテンブルク」も同じで、地図には載っているが、すでに店舗は閉鎖されていたことを思い出した。仕方ないので中華料理店を探すが、これも見当たらない。いつも夕食が無い時はハンバーガーを、そしてハンバーガーが無い時はチャーハンを食べていたからである。ちなみにローテンブルクではチャーハンをテイクアウトした。どちらのお店もないので、何を食べようかと迷っていた時、マルクト広場の屋外席で、美味しそうにチキン料理を食べている人がいた。人の食べているものは美味しく見えるのだろうが、私も同じものが食べたくなったので、近くのテーブル席に着いた(写真左)。しばらくすると、店員がメニューを持って来てくれた。ドイツ語のメニューだったので良く分からなかったが、写真を指差し、これはどれかと尋ねながら、ようやくオーダーすることが出来た(写真中左)。ちなみに注文したのは、グリルしたチキン、ベーコン、ハンバーグとトマトにフライドポテトを添えた料理「Gefiugel-Grillpfanne」(写真中右 : 10.9ユーロ)とビール「Welde Pils No.1」(写真右 : 2.4ユーロ)である。広場に並んだテーブルには、広場の北側に建つレストランごとのエリアが決められていた。しかし適当に座った私は、どのお店にオーダーしたのか分からなかったのだが、店員の戻る店舗を見て、はじめて「Hahn im Korb」というお店に注文したということを認識した(写真下左)。お天気が良く、まわりの雰囲気も良かったので、食も進んだ。南向きに座っていたので、右手には「聖霊教会」(写真下中左)、左手には「市役所」(写真下中右)が建つ。また正面左手には「ハイデルベルク城」(写真下右)が見える。「Gefiugel-Grillpfanne」は 10.9ユーロ、「Welde Pils No.1」が2.4ユーロと、私にしては少々高くついたが、気分よく食事出来たことを考えれば、お釣りがくるのかもしれない。午後5:45から午後6:50までの約1時間、ゆっくりと食事を済ませ、再び観光に出かけた。

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次は、旧市街の東の端にある「カール門」だ。右手に「ハンブルク城」を見ながら(写真左)、石畳の道を500mほど歩くと(写真中左)、「カール門」が見えた(写真中右)。この門は、選帝侯カール・テオドールを称えるために建てられたのだが、建築費用が見積もりの何倍にも達したため、市民は不平不満を漏らしたという。「擬古典主義様式による、重厚ながら調和のとれた門で、上部の各階には牢屋が3つずつ、1階には守衛詰所が2つ設けられていました」(「ハイデルベルク(日本語版)」より)との事(写真右・下左「門の天井」・下右「門の外、東側から」)。

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「カール門」からネッカー川に架かる橋を渡るため、地下道を潜った。目の前の道路を横断することは出来ない。地下道の階段入口は、落書きだらけである(写真左)。治安の悪さを警戒しながら、階段を下りて行く。地下道内も壁いっぱいに落書きされていた。地下道を抜けて出口階段を上ると、数人の少年たちがペンキの調合をしていた。私が見ても何の反応も示さず、落書きの準備をしていた。橋側から道路を挟んでみる「カール門」は、厚みがあり、ドッシリした感じである(写真中左)。橋を渡り始めると、普通の橋ではないことに気がついた。堤防の上に設けられた小道である(写真中右)。右手を見ると、川の水位を調整し、船が通れるようにするための堰がある。丁度、運搬船がやって来た(写真右)。堤防を歩き、中央に差し掛かった辺りで振り返ると、夕日に照らされる「ハイデルベルク城」が美しい(写真下)。

(参考文献)
・「ハイデルベルク(日本語版)」(ショーニング出版社)
・「ドイツものしり紀行」(紅山雪夫著)[新潮社刊]
・「07~08地球の歩き方 南ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「06~07地球の歩き方 ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]

ハイデルベルクの観光案内
http://www.heidelberg-tourismus.de

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November 17, 2008

「学生牢」と「プファルツ選帝侯博物館」

南ドイツの旅(第28回)

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次は、「聖霊教会」である。この教会は、プファルツ選帝侯領内最大のゴシック教会で、1544年に完成した。「この教会のファサードは、一般のゴシック教会とは異なり、一体的な造りになっているため、どこまでが身廊でどこからが側廊なのか外側からはわかりません」(「ハイデルベルク(日本語版)」より : 写真左)との事。また「教会は全長60mで、長堂の列柱は内陣より狭く見えますが、ほぼ全域で20mの幅があります。また、長堂は内陣より遥かに暗く感じられますが、これは2階席を増築したことが主な原因になっています」(前掲書より : 写真中左)。塔に上るには1.0ユーロを支払わなくてはならない。教会の受付で手続きを済ませ、狭い石の螺旋階段を上る(写真中右)。高さ82mの塔の階段を206上ると、展望フロアに出た。非常に見晴らしが良い。南東には、先ほど訪ねた「ハイデルベルク城」がハッキリと見える(写真右)。また、南側に「ケーブルカーの路線」(写真下左)、西側には「イエズス教会」が(写真下中左)、そして東側には「カールス門」の前にかかる橋と「ネッカー川」が見える(写真下中右)。目を下に遣ると、「マルクト広場」と「騎士の家」だ(写真下右)。しばらく眺めを楽しみ、再び螺旋階段を降りた。

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続いて「イエズス教会」を訪れた(写真左)。教会北側のファサードには、イエズス会の創立者イグナティウス・デ・ロヨラの彫像が飾られている(写真中)。外から見た印象とは異なり、内部は白色でまとめられた非常に明るいものであった(写真右)。

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次に訪れたのは、「学生牢」だ。「ハイデルベルク(日本語版)」によると、「1712年から1914年まで学生用の牢獄として使われていました。学生への裁判権は、大学当局が持っていたからです。公序良俗に反する行為―大抵は飲酒や粗暴行為、騒音、あるいはこれらの組み合わせ―は2週間以下の拘禁となり、官権への公務執行妨害に対してはしばしば4週間の刑が言い渡されました。そのような違反行為は、多くの学生にとって”不名誉でもなんでもない微罪”であり、試験同様に学生生活の一部と考えられていました。しかも、パンと水だけでひもじい思いをするのは、最初のわずか2~3日にすぎず、以降は差し入れや授業出席、他の収容房への訪問が許されていました。「グランドホテル」や「サンスーシー」などと命名された収容房の天井や壁には、何世代もの大学生がロウソクの煤や水彩で描いた自画像や落書きが残っています」との事。「学生牢」への入り口が分からなかったので、近くを歩いていた大学生に尋ねると、すぐ傍にあることを教えてくれた(写真左)。大学生協のお店と入口を兼ねているのだ(写真中左)。受付でチケット(3.0ユーロ)を購入し、奥に入ると、階段がある(写真中右)。階段を上ると、壁は落書きだらけ(写真右)。踊り場も扉もである(写真下左)。部屋はもちろん落書きだらけ(写真下中左)。部屋には鉄製のベッドやストーブが置かれていた(写真下中右・下右)。なんだか臭ってきそうな感じである。

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「学生牢」を出てから、「大学校舎」(写真左)、「大学広場」(写真中左)前を通って西に向かう。北側には「大学図書館」(写真中右)が見える。「ハウプト通り」を西に進むと、次の目的地である、「プファルツ選帝侯博物館」だ(写真右)。

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ハウプト通りに面して建つ「プファルツ選帝侯博物館」は、ハイデルベルク城と同じ赤い色の建物(写真左)で、トンネルのようになった通路をくぐると、その先には庭が広がっていた(写真中左)。博物館へは、左手にある建物から入るようになっている(写真中右)。受付で入場料(3ユーロ)を支払、2Fに上がった。階段を上った最初の部屋には、G・フォン・ホントホルスト作「"冬の王”フリードリッヒ五世」が展示されていた(写真右)。写真を撮影していると、大声で館内放送があった。ドイツ語だったので、何を話していたのか分からなかった。しばらくすると、女性の係員がやって来て、英語で写真撮影は禁止ですとの事。私が写真撮影しているところを、モニターでチェックし、館内放送でその旨述べていたのだろう。にもかかわらず、私が写真撮影を止めなかったので、係員がやって来たのだ。「撮影禁止」の掲示を見落としてしまったようだ。反省・・・。

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ところでこの博物館では、先史時代から現代に至る、プファルツ地方の歴史が紹介されており、古代の発掘品や、ケルト、ローマ、メロヴィング朝時代の工芸品、ハイデルベルクの城や町の地図など、多数展示されている。中でも、ティルメン・リーメンシュナイダーが1509年に作った「ヴィンズハイムの十二使徒祭壇」は見逃せない(写真左 : 「ハイデルベルク(日本語版)」より)。イエス・キリストを中央に、大きな鍵を手にしたペトロ、巡礼姿の大ヤコブなど十二使徒が彫られているのである。博物館の見学を終え、建物の外に出ると、そこは入館の時に見た庭であった(写真中左)。ここでは、屋外に置かれたテーブル席に着いて、お茶を楽しむことが出来る(写真中右)。しかし先を急いでいた私は、次に「ネッカー川」沿いにある「船着場」に向かった(写真右)。

(参考文献)
・「ハイデルベルク(日本語版)」(ショーニング出版社)
・「ドイツものしり紀行」(紅山雪夫著)[新潮社刊]
・「07~08地球の歩き方 南ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「06~07地球の歩き方 ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]

ハイデルベルクの観光案内
http://www.heidelberg-tourismus.de
学生牢
http://www.uni-heidelberg.de/univ/museen
プファルツ選帝侯博物館
http://www.museum-heidelberg.de/servlet/PB/menu/-1/index.html


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November 16, 2008

世界最大の「木製ワイン樽」と充実したコレクションの「ドイツ薬事博物館」

南ドイツの旅(第27回)

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ツアーグループから離れ、「フリードリッヒ館」のトンネルのような通路を抜け、ハイデルベルクの旧市街が一望できるテラスに向かった(写真左)。ここからの眺めは、先ほど「エリザベート門」のある庭園から見た景色よりも、一段と良い。「聖霊教会」や「イエズス教会」(写真中左)、また「カール・テオドール橋(アルテ橋)」や「市庁舎」(写真中右)なども良く見える。さらに、反対側から見た「フリードリッヒ館」も面白い。彫像が無いため、非常にシンプルに見えるのである(写真右)。

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少しの間旧市街を眺めた後、再びトンネルのような通路を通り、左手にあるレンガ張りの坂を下って、「樽館」に入った。ここには世界最大の木製ワイン樽があり、ハイデルベルク城で必見の場所である。最も大きなワイン樽は、1751年にカール・テオドールによって造られた。130本のオークが用いられ、全長8.5m、高さ7mあり、221,726リットルも入る(写真左)。大樽の前面には、制作者のイニシャル(CとT)が描かれ、バロック様式の盾が掲げられている(写真中)。また、樽の上には踊り場が設けられており、横の階段を使ってここに上がることが出来る。階段の横には、小人「ペルオケ」の像が立つ(写真右)。彼は、宮廷道化師かつ樽番人としてカール・フィリップに仕えていた、ワイン好きのチロル人だ。「その名前は、「もう一杯ワインはどうだ?」という問いに対する、お決まりの返答「もちろん(イタリア語でPerche no?)」から来ています。言い伝えによるとペルオケは、ワインの代わりに勧められた、一杯の水を飲んだのが原因で死んでしまったとされています」(「ハイデルベルク(日本語版)」より)との事。像の横にあるのは、彼が発明した「時計(実はびっくり箱)」で、下の鉄の輪を引っ張ると、音が出るとともに扉が開く仕掛けになっているらしい。その他に樽製造用のコンパスや、大樽から城内酒場にワインを汲みあげるポンプ装置の一部であった導管なども見られる。

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「樽館」を出て、次に向かったのは「ドイツ薬事博物館」だ。入口は「オットー・ハインリッヒ館」にある(写真左)。ここには入るには、別料金(大人2ユーロ)を支払わなければならない。館内では、最初に薬局の様子が展示されていた(写真中左)。この博物館には、中世から19世紀に至る、医学・薬学に関する家具(写真中右)や実験道具(写真右・下左)、薬用の草根木皮・鉱物・動物(写真下中左・下中右・右)、論文・書籍などが、興味深く紹介されている。ここのコレクションは、この手のものとしては世界有数と言われているだけのことはあり、見る価値は十分にある。20分ほどで見学を終えたが、時間があれば1~2時間は見たい場所だ。

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以上で「ハイデルベルク城」の見学を終え、午後3:30頃、私は旧市街に向かった。ツアーグループと別れたためバスは使えないので、城の北側に続く、長い急な階段を下りて行った(写真左)。20分ほど歩くと、「コルンマルクト」に出た(写真中)。広場の中央には、「コルンマルクトのマドンナ」と呼ばれるバロック様式の聖母子像が建っている(写真右)。

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「コルンマルクト」から市庁舎の前を通って西側に進むと、「マルクト広場」に出た。広場は西側に「聖霊教会」(写真左)、東側は「市庁舎」、北側と南側にはドイツらしい雰囲気のお店が建つ(写真中左)。広場には各種レストランの屋外テーブルとイスが並んでいる(写真中右)。そして中央には、「ヘラクレス像」の噴水がある(写真下右)。面白いのは、「聖霊教会」の外壁に寄り添うようにして小さな店が並んでいたことだ(写真下)。これまで幾つかの聖堂を見てきたが、このようなケースは初めてである。「ドイツものしり紀行」によると、「中世にはどこの教会でも、このように外壁に小さな店がくっついていたのだが、よそではみな取り除かれてしまい、ここハイデルベルクの聖霊教会だけが昔の姿を残しているのだそうだ」との事。

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「聖霊教会」の塔に上るため、教会の南側を進むと、教会正面入り口の向かい側に、「騎士の家」が建っていた(写真)。この建物のファザードに、悪竜を退治した聖ゲオルクの甲冑姿の胸像があることから、このように呼ばれている。「美しいルネッサンス様式の建物で、市民の住宅としては、17世紀の諸戦争でほとんど被害を被っていない、唯一のものです。ユグノー教徒であることを理由にフランスからハイデルベルクに亡命してきた、呉服商のシャルル・ペリエが1592年に建てました。ヴォールト天井による1階の雨戸を倒して売り場とする仕組みになっていました。細やかな装飾が施されたファサード、ハイデルベルク城のオットー・ハインリッヒ館やフリードリッヒ館を連想させる造りになっています」(「ハイデルベルク(日本語版)」より)との事。現在は、ホテル・レストラン「ツム・リッター・ザンクト・ゲオルク」として使用されている。

(参考文献)
・「ハイデルベルク城の大樽」(Stefan Wiltschko)
・「ハイデルベルク城内・ドイツ薬事博物館」(VERLAG SCHNELL &STEINER GMBH REGENSBURG)
・「ハイデルベルク(日本語版)」(ショーニング出版社)
・「ドイツものしり紀行」(紅山雪夫著)[新潮社刊]
・「07~08地球の歩き方 南ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「06~07地球の歩き方 ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]

ハイデルベルク城のHP
http://www.schloss-heidelberg.de
ハイデルベルクの観光案内
http://www.heidelberg-tourismus.de
ホテル・レストラン「ツム・リッター・ザンクト・ゲオルク」(騎士の家)
http://www.ritter-Heidelberg.de

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November 15, 2008

黒田家伝来・古式の柄杓

茶の湯ぶらり旅(第28回)

先日、「千家十職・黒田正玄家の竹工芸展」についてお話ししたが(10月29日付当ブログ・茶の湯ぶらり旅(第23回))、その際、地下に展示されていた各種竹や柄杓については全く触れず、別の機会に譲るとした。そして前回(11月3日付当ブログ・茶の湯ぶらり旅(第27回))、竹の素材について取り上げた。今回は、展示解説をもとに、「柄杓」についてお話しする。

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ご存知の通り、茶道で用いられる「柄杓」は、湯や水をすくうための道具で、竹で出来ている(写真 : 柄杓の各部名称)。柄杓は元来、釜の口の大きさに合わせて作られてきたことから、残された実作や資料によると、風炉用・炉用併せて約120種類ほどあるとの事。現在は、三千家共通の正弦形による、風炉の柄杓・炉の柄杓・差通し(さしとおし)の三種類が使用されており、差通しは、献茶などの特別な点前にしか用いられない。今回は、数多く黒田家に伝わる古式の柄杓の中から、特徴のある柄杓が選ばれて展示されている。以下、これらの柄杓をご紹介する。

① 「珠光形と紹鴎形」(写真 : 左端が珠光形、その隣が紹鴎形)
Dsc09950村田珠光好みの柄杓で、合が太鼓胴になっており、合の底に節の皮目を残すのが約束になっている。武野紹鴎好みも同様。珠光形の方がやや小振りである。
② 「利休判の形」(写真 : 左から3本目が大、そして右に中・小と続く)
利休の花押のある柄杓を写したもので、大・中・小の三種があり、合の内径が、大は二寸、中が一寸九分、小が一寸八分である。また、いずれの切止もまっすぐで、風炉・炉兼用になっている。

③ 「遠州形」(写真 : 左2本)
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小堀遠州好みの柄杓は、現在の正玄形とは異なり、風炉・炉の区別と切止の削り方が逆になっている。(通常は、風炉用の切止は竹の身の方が削られ、炉用の切止は竹の皮の方が削られる)
④ 「正圓形(しょうえんがた)」(写真 : 右端・ここでは「大」のみ展示)
初代正玄の二男正圓のデザインによるもので、大・小二通りあり、合は太鼓胴で、柄はやや太めになっている。

⑤ 「一阿弥形(いちあみがた)と織部形」(写真 : 左端が一阿弥形、となりが織部形)
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合の形に特徴のある柄杓で、豊臣秀吉から天下一の御朱印を賜った名工、一阿弥が作った一阿弥形の合は丸みをおびた三角形、織部形は古田織部が好んだもので、楕円形になっている。
⑥ 「宗和形(そうわがた)」(写真 : 真中が宗和車軸面取形、右隣りに大・中が続く)
金森宗和好みの柄杓で、大・中・小の三種があり、柄の裏側を銀杏の実のように左右対称に丸みを取り、三角形になるように仕上げるのが特徴である。又、「宗和車軸面取形(そうわしゃじくめんとりがた)」では、合の底を二分程度、面取りしている。

⑦ 「豊公形(ほうこうがた)」(写真 : 左端)
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豊臣秀吉の好みの柄杓で、柄に煤竹を使い、その裏側には黒漆が施されている。独創的で、現存する古式の柄杓の中でも異彩を放つ柄杓である。
⑧ 「元伯太柄形(げんぱくふとえがた)と石州細柄形(せきしゅうほそえがた)」(写真 : 真中が元伯太柄形、右端が石州細柄形)
元伯宗旦(げんぱくそうたん)の好んだ柄杓と、片桐石州の好んだ柄杓を比べてみると、柄の太さが極端に違い、茶人の好みの面白さが伺える。

⑨ 「真合形(まごうがた)」(写真 : 左端)
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合の取り付けが通常は竹の根の方を上にするが、これだけは逆で竹の生えている状態のままである。神事に使用される柄杓であろう。
⑩ 「雲州太鼓形(うんしゅうたいこがた)」(写真 : 真中)
松平不昧好みの柄杓で、合の形が太鼓を立てたような形になっており、合の中は差通しで、切止はまっすぐに削られ、風炉・炉兼用である。
⑪ 「蓮形指形(れんげさしがた)」(写真 : 右端)
千利休好みの柄杓で、風炉・炉兼用とされ、月形と差通しの柄が合体した形をしている。

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これら以外にも、柄杓の作り方(写真左)や釜に合わせて作られた柄杓(写真中左)、竹の箸や楊枝(写真中右)、竹細工をする際に用いられる道具、黒田家の由緒書(写真右)などが展示されている。非常に参考になるので、是非、実物をご覧になることをお薦めする。会期は11月30日(日)まで。

(参考文献)
・「千家十職黒田正玄家の竹工芸-茶の湯工芸の伝統と創造―」(表千家北山会館)

表千家北山会館のHP
http://www.kitayamakaikan.jp/special/index.html


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November 14, 2008

古城街道とハイデルベルク城

南ドイツの旅(第26回)

楽しかったローテンブルク。前日の午後4:30頃から本日の午前10:00までの、僅か6~7時間の観光であったが、数日分の充実感を味わうことが出来た。中世の城壁都市の姿を残す町。まだ見たいところもあったが、一通り見て回ることが出来たので、大満足である。午前10:05、バスでローテンブルクを出発し、次の目的地であるハイデルベルクに向かった。

ハイデルベルクはローテンブルクの西、約200kmのところに位置する。その間、「古城街道」を走るので、道の左右には古城を見ることが出来るのだ。ご存知の通り「古城街道」は、マンハイム~ハイデルベルク~ネッカー渓谷~ローテンブルク~ニュルンベルク~チェコのプラハまでの約975kmの街道のことを言い、中世の頃から旅人で賑わっていたようだ。街道沿いには、ネッカー川を通行する船から通行税を取る城、中世騎士の城、軍事目的の城塞など、多くの城が残っている。ドイツでは、12~13世紀頃、築城ブームが起ったが、神聖ローマ帝国を支配したシュタウフェン家がここシュバーベン地方出身であったことから、特にこの辺りには多くの城が建てられたという。

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バスで1時間ほど走り、「Hohenlohe」でトイレ休憩をとる(写真左)。ここは有料で、0.5ユーロ必要。用を済ませ、部屋の外でブラブラしていると、緑色のトラックが給油のため入って来た(写真中左)。荷台から鳴き声が聞こえるので覗いて見ると、羊で一杯であった(写真中右)。10分ほどで休憩を終え、我々は再び「古城街道」を走り始めた。分岐点を右に入り、しばらく進むと、左手に自動車の「アウディ」の工場が見えてきた(写真右)。そして「ネッカー川」を渡ると、塩の工場が現れた(写真下)。中世の時代も、この地で精製された塩が、古城街道を経由してランツベルクに運ばれ、取引されていたようだ。

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しばらく走ると、いよいよ古城が見え始めた。最初に現れたのは、「バート・ヴイムブフェン城」である(写真左)。以下、「グッテンベルク城」(写真中左)、「ツヴィンゲンベルク城」(写真中右)と続く。そして「ヒルッシュホルン城」の見える場所でバスを降り、写真撮影をする(写真右)。その後「ネツカーシュタイナッハ」の町に入る。ここには4つの古城があるのだ。「フォルデルブルク城」(写真下左)、「ミッテルブルク城」、「ヒンターブルク城」(写真下中)、「シャデック城」(写真下右)である。これらを通り過ぎ、午後1:00頃「ハイデルベルク」に入った。

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午後1:10から午後2:15まで昼食を取り、食後、バスで「ハイデルベルク城」に向かった。ハイデルベルクでのガイドは、ドイツ在住日本人の「フミコ」さんである。ガイドの話によると、「ハイデルベルク城」は10~11世紀頃に建てられ、当初はヴォルムスの司教の持ち城であったが、1225年にプファルツ伯ルートヴィヒ一世が譲り受けたとの事。その後、増改築を繰り返したため、ゴシック、ルネツサンス、初期バロックなどの様式が混ざる、複雑な構造になったようだ。全体に赤っぽいのは、ハイデルベルクで主に採掘される赤砂岩が使われているからである。バスの駐車場からしばらく歩くと、「エリザベート門」が見えてきた(写真左)。チョットした「凱旋門」という雰囲気だ。この門は、1615年に選帝侯フリードリッヒ五世が、妃エリザベス・スチュワート(英国王ジェームス一世の娘)の19歳のプレゼントとして、一夜で建てさせたものなのである。城門の上には、二匹のライオンが帝国のリンゴを挟んだデザインが彫られている(写真中左)。一方、門の裏側には、何のデザインも施されていない(写真中右)。一夜で建てたからなのだろうか。門をくぐると庭園になっている。東側からは、「カールテオドール橋(アルテ橋)」や「聖霊教会」など、ハイデルベルクの旧市街を見渡す事が出来る(写真右)。反対の西側には堀があり、その向こうはハイデルベルク城の西翼だ(写真下)。かなり破壊された状態なのは、プファルツ継承戦争の際、ルイ14世率いるフランス軍の攻撃のためだという。修復・再現されたのは一部だけのようだ。

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次はいよいよ城内である。しかし場内に入るには、「城門塔」(写真左)を通らなければならない。この「城門塔」は、ルートヴィヒ五世が建造して以来、正門の守りであると同時に、見張り台でもあったという。城塞で最も高く、堀の下から52mもの高さがあり、塔の上部には、大時計番を兼ねた見張り番が住み込んでいたようだ(写真中左)。現在は石橋がかかっているが、当時は内外二重の空堀の両方が木製の跳ね橋で、橋を跳ね上げると、それがそのまま城門の扉になっていたとの事。また内庭への入り口部分は、4つの門とひとつの「落とし鉄格子」で守られていたという。太い鉄格子の落とし戸で、先端が鋭く尖っており、いつもは垂直に塔門の中に引き上げられていたようだ(写真中右)。面白いのは、門の扉に取り付けられた亀裂のある大きな鉄の輪だ(写真右)。「ハイデルベルク(日本語版)」によると、「”魔女の噛み痕”とされるものです。ある城主のきまぐれから、「この鉄輪を噛み切った者に城を与える」と約束したところ、多くの者が試み、失敗しました。一人の魔女は、自らの術の全てを尽くしましたが、亀裂を入れただけで切断するには至らず、それが現在に至るまで残っている」との事。

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「城門塔」をくぐり中に入ると、正面に「フリードリッヒ館」、そして右手には「オットー・ハインリッヒ館」が並んでいた(写真左)。また左手には廃墟のような状態の、「ルプレヒト館」が建っている。「フリードリッヒ館」(写真中左)は、16世紀の終わりから17世紀の初め頃に、選帝侯フリードリッヒ四世によって作られた、ドイツ・ルネツサンス様式の傑作である。この建物で印象に残るのは、「諸侯の彫像」だ。カール大帝や、フリードリッヒ一世~四世などの人物が彫られている。隣接する「オットー・ハインリッヒ館」(写真中右)は、フリードリッヒ二世の後を継いだ選帝侯、オットー・ハインリッヒが建てた館で、これもドイツ・ルネツサンス様式の傑作との評価だ。「ルプレヒト館」(写真右)は、選帝侯ルプレヒト三世が建てた館で、側壁は石を積み重ねた上に、漆喰が塗られている。かつては色鮮やかな絵が描かれていたという。左に見える石盾は、建造当時のもので、ルプレヒトの王位の象徴として「鷲」の紋章が刻まれている(写真下)。

ここまではガイドと一緒に城内を廻っていたのだが、他にも行きたいところがあったので、ツアーから離れ、単独行動することにした。また、本日宿泊するホテルにはまだチェックインしていなかったので、私の荷物をフロントで預かってもらうように添乗員にお願いした。本日の夕食がフリーだったこともあり、これで時間を気にすることなく観光出来るのである。

(参考文献)
・「ハイデルベルク(日本語版)」(ショーニング出版社)
・「ドイツものしり紀行」(紅山雪夫著)[新潮社刊]
・「07~08地球の歩き方 南ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「06~07地球の歩き方 ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]

ハイデルベルク城のHP
http://www.schloss-heidelberg.de
ハイデルベルクの観光案内
http://www.heidelberg-tourismus.de

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November 13, 2008

楽しかった「宮島」と「鞆の浦」の旅

日本ぶらり旅(第9回)[宮島・鞆の浦(最終回)]

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最後に訪れたのは、「鞆の浦歴史民俗資料館」である(写真左)。この資料館は、福島正則が造った「鞆城」跡に建っており(写真中左)、鞆の港を一望することが出来る(写真中右)。ここでは、鞆の歴史や産業、お祭りなどを、わかりやすく紹介している。例えば「鞆の港」が栄えたのは、鞆が瀬戸内の中央、内海の潮の干満の分岐点に当たっており、この潮に乗って航行する航法をとる当時の船の多くが、この鞆で「潮待ち」を行ったからなどである。
また現在、開館20周年記念「坂本龍馬といろは丸事件展」も開催されていた。しかし、送迎バスの出発時間が迫っていたので、展示を見ることは諦め、朝鮮通信使や北前船、保命酒に関する過去の展示図録だけを入手し、急ぎ足でホテルに戻った(写真右)。

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ホテルのフロントで預けていた荷物を受け取り、しばらくロビーの喫茶で腰かけて待っていると、フロントのスタッフが、バス出発の案内をしてくれた。「福山駅」に向かう客は私一人であったが、迎えの客は10数名いるとの事。これ以外にも観光バスでの団体客も受け入れているのだから、平日でも結構な数のお客が訪れているのだろう。サービス、施設、雰囲気も良かったので、人気が高いのかもしれない。そういえば、昨日、ブライダルコーナーの女性と話していた時、このホテルで結婚式を挙げるカップルも多いと言っていた。福山だけでなく、三原、尾道などに住む方も多いらしい。宴会場は、200名ほど入れる大宴会場と、70名ほどで利用できる宴会場の2種類あるそうだが、後者は窓一面「鞆の海」が見えることから、非常に人気があるとの事。しかも最近は身内だけで式を挙げるケースが増えてきたため、70名程度のこの部屋のサイズが手ごろでもあるようだ。バスは貸し切り状態だったので、地元の話を運転手さんから聞かせてもらっていると、「福山城」が見え始めた(写真 : 新幹線ホームから見た福山城)。30分ぐらいはすぐに経ってしまうものだ。天候にも恵まれ、また人にも恵まれ、短い期間であったが、非常に有意義かつ楽しい時を過ごす事が出来た。ところで、埋め立てと架橋の問題はどのようになるのだろうか・・・・。引き続きウォッチしたいと思う。

福山市 鞆の浦・仙酔島のHP
http://www.tomonoura.co.jp/
福山観光情報のHP
http://www.fukuyama-kanko.com/course/course007.html

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November 12, 2008

重要文化財「太田家住宅」・広島県史跡「鞆七卿落遺跡」

日本ぶらり旅(第8回)[宮島・鞆の浦(8)]

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昔から受け継がれた格子戸のある古い街並みが続く路(写真左)。ここに「太田家住宅」がある。ここは、重要文化財であるとともに、広島県史跡「鞆七卿落(ともしちきょうおち)遺跡」でもある(写真右)。この建物は、江戸時代初期に「保命酒」の醸造を始め、特産品として全国にその名を知られて財をなした中村家が所有していたが、明治維新後中村家が衰退すると、太田家の所有となった。また、明治維新前夜、尊王攘夷派を主張する三条実美ら七公卿は、会津や薩摩などの公武合体派に追われ、長州を頼って都落ちするが、このときに立ち寄ったのがここ「太田家住宅」なのである。その際三条実美は、「保命酒」(竹の葉と表現)をたたえる次のような和歌を残している。「世にならす 鞆の港の竹の葉を 斯くて嘗むるも 珍しの世や」と。

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入場料は大人400円。女性のガイド付きで、邸内観光だ。「店の間」(写真左)、「玄関の間」(写真中左)、「主屋」(写真中右)と続く。「店の間」には、各種薬草が並んでいる。これらが調合され、「保命酒」が造られていたのだ。向かい側には、酒の入っていた甕と酒を図るための升が置かれている(写真右)。奥の部屋に進むと、台所だ。ここで注目すべきは四連の釜戸である(写真下左)。釜戸の口が海側に向いているのだ。かつては壁が無く、海風が直接入ってきたので、火を起こすために息を吹き込む必要がなかったという。次は、住宅を出た向かいにある、「保命酒蔵」である(写真下中)。日本酒の醸造と異なり、甕に漬け置くため、酒樽ではなく、甕の並んでいるところが面白い(写真下右)。

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酒蔵の次は、先ほど表から見た「主屋」に庭側から入り(写真左)、室内の見学である。最初は「茶室」だ(写真中左)。「この茶室は、最も小さい企画の一畳台目(いちじょうだいめ)の茶室です。一畳台目というのは一畳と四分の三畳の畳で構成される部屋の広さをいい、四分の三畳の畳を台目といいます。この極小空間に茶室の美学のすべてが凝縮されているのです。客座(一畳の畳)の上は網代天井であり、点前座(台目畳)の上は簾張りで、一段低く落天井となっています(写真中右)。壁は草庵の気分を醸し出すため上塗りをしないで中塗のままであるが、衣服を汚すのを嫌って紙の腰張りを施してあります。点前座の天井や腰張りが低くなっているのは、客座から見て遠近法による錯覚を利用した広がりを見せるためと考えられます。客座と点前座との間に幅26cmの中板を挟んでいるのも、客と亭主の距離にゆとりを持たせるためです(写真右)。余人を交えず語り合うための狭い空間を目指しながら、ゆったりとした空間をも併せ持つと言う二律背反を具現しています」(掲示解説より)との事。

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続いて「大広間」などを見た後、再び部屋を出た。次に見たのは、垣根の外にある「衣装蔵跡」である(写真左)。元々ここには蔵が建っており、蔵の床下に石で囲まれた地下収納庫が造られていたのだ(写真中左)。ここには藩札や証文など、燃えてはならない重要なものが保管されていたようだ。これらのものを入れ、その上に不燃物を置いていたらしい。その隣には、明治時代に作られた風呂があった。タイル張りの、洋風の五衛門風呂である(写真中右)。タイルは瀬戸焼との事。そして「主屋」の表に戻り、茶碗や菓子器などの展示を見る。「有田焼」や「古伊万里・染付」などが並ぶ中、私が最も面白いと思ったのは「白薩摩」だ(写真右)。異人を描いた非常に変わったデザインだったからである。一通り見学を終え、最後にガイドしてくれたのは、屋敷の出入り口だ。陸揚げした荷物を、荷台ごと蔵まで運べるように、扉全体が上に持ち上がるようになっているのである(写真下)。以上で、「太田家住宅」の見学は終了。時間が残り少なくなって来たので、最後に「鞆の浦歴史民俗資料館」を訪ねることにした。

福山市 鞆の浦・仙酔島のHP
http://www.tomonoura.co.jp/
福山観光情報のHP
http://www.fukuyama-kanko.com/course/course007.html

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November 11, 2008

「日東第一形勝」と賞賛された「対潮楼」からの海の眺め

日本ぶらり旅(第7回)[宮島・鞆の浦(7)]

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「沼名前神社」は、古くから「鞆の祇園さん」とも呼ばれ親しまれている。京都・八坂神社の元社である歴史と格式を誇る神社で、平安時代につくられた法令「延喜式」にも記載されているという。鳥居(写真左)と山門(写真中)をくぐると、右手に「能生舞台」がある(写真右)。「この能舞台は豊臣秀吉が愛用し、伏見城内にあったものです。初代福山藩主水野勝成が、二代将軍徳川秀忠より譲り受けたと伝えられます。三代水野勝貞がこの社を寄進し、1738年(元文3)年この場所に設置されました。この能舞台は、それぞれの材料や番号や符号をつけた組み立て式で、戦場にも持ち運べるようになっています。正面の鏡板には松と竹を描き、桃山時代の能舞台の特徴をもつ貴重なものです。構造は一重切妻造り、桁行5.45m、梁間5.33m、屋根こけらぶき」(掲示解説文より)との事。

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「能舞台」から参道に戻り、階段を上ると「沼名前神社」本殿があり(写真左)、右手奥にはお社が建っている(写真中左)。神社は少し高いところにあるので、ここから見る景色もなかなか良い(写真中右)。参拝を済ませ、再び町中に降りて行くと、朝一番に訪れた「小烏神社」の前に出た。これで鞆の浦のメイン観光ポイントを一回りしたことになる。しかし、まだ行きたいところが何箇所か漏れていたので、もう一度回り始めた。今度は海沿いの幹線道路を歩き、「鞆の浦観光情報センター」を訪れた。ここには「鞆鉄道ミニ資料館」がある(写真右)。鞆鉄道は明治43年11月創業の会社なので、古いバス乗り場の案内板やバスに関連するグッズなどが展示されていた。あわせて、アニメ映画「崖の上のポニョ」に関する写真や新聞記事も並べられていた。これは、鞆の浦が「崖の上のポニョ」の舞台になったからだという。実際、宮崎駿監督がこの地に滞在し、町を歩きながら「崖の上のポニョ」の構想を練ったようだ。しかし監督は、この地が舞台であるとは明言していないらしい。観光客を誘致する意味では、「崖の上のポニョ」の舞台というのは絶好の話であろうが、埋め立て・架橋を推進しようとする側にとっては、全国から注目されるのも迷惑になるということなのだろうか。監督がはっきり言わないのには、複雑な背景があるのかもしれない。

次に向かったのは、「対潮楼(たいちょうろう)・福禅寺」である。「鞆の浦観光情報センター」から海沿いの道を南に2~300m歩いた所にある。しかし、その途中に「福山市役所・鞆支所」があったので、埋め立て・架橋に関する資料をもらうため立ち寄った。カウンターや案内書置場には、いろいろな種類の観光案内が置かれていた。「手づくり鞆の浦マップ」などもあり、観光に力を入れている様子が見て取れた。所内をウロウロしていると、女子職員が声をかけてきたので、埋め立て・架橋に関する資料がほしい旨伝えると、奥の席に座っていた50歳代ぐらいの男性職員が、資料を片手に私の方にやって来た。この資料をどうぞと言って、内容を説明し始めた。資料は二種類。ひとつは「鞆地区道路港湾整備事業の概要」、もうひとつは「備後圏都市計画伝統的建造物群保存地区の決定(案)及び道路の廃止(案)について」だ。環境・景観に配慮した妥当な計画であることを熱心に説いていた。行政のトップである市長は、埋め立て・架橋推進派なのだから、その職員も当然推進しなければならないだろうから、反対派との間に挟まれて苦しいところか。そういえば、反対派住民の一人が、福山市は宮沢喜一元首相の地元で、その関連企業のために道路を造るのだと言っていたが、真実なのだろうか。いろいろな意見、噂が飛び交う中、推進か反対かを客観的に決めるのは難しいものである。よそ者である観光客の私が、うかつに反対の署名をするのは良くないと感じた。

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ついでに訪れた「福山市役所・鞆支所」から、南に100mほど歩き、右手の小道を上ると、「対潮楼(たいちょうろう)・福禅寺」(写真左)に到着だ。岩の上に石垣わ積み、その上にそそり立つ。江戸時代の元禄年間(1690年頃)に創建された客殿で、国の史跡に指定されている。お寺の入り口に掲げられた案内によると、「海岸山千手院福禅寺(かいがんざんせんじゅふくぜんじ)は、平安時代の天暦年間(950年頃)の創建と伝えられる真言宗の寺院です。本堂やそれに隣接する対潮楼は、江戸時代元禄年間(1690年代)に建立されました。客殿からの海の眺めはすばらしく、特に正徳元年(1711年)朝鮮通信使は、この景観を「日東第一形勝」と賞賛し、従事官李邦彦(イパンオン)はその書を残しました。また延享5年(1748年)には正使洪啓禧(ホンケヒ)は客殿を「対潮楼」と命名し、洪景海(ホンキョンヘ)がその書を残しています。ここが文化交流の場になっていました」との事。「対潮楼」の構造は、単層入母屋造で、桁行約11.8m、梁間約10.9m、屋根は本瓦葺である。「対潮楼」へは、観音堂正面右手から入る。入場料は大人200円。90歳近い住職と、70歳代後半ぐらいの老人が2人で受付している。中に入ると、窓に並行して敷かれている、赤い毛氈(もうせん)の上に座るように言われた。ここから座って見る景色が一番良いとの事。正面には「弁天島」が見える。本日は天候にも恵まれ、その眺めは本当に美しい(写真中左)。朝鮮通信使が、「日東第一形勝」と賞賛したのも分かる。その場を立ち、窓の傍からそとを眺める。ここからの景観も素晴らしい。室内に目を移すと、「日東第一形勝」と彫られた板が掲げられていた(写真中右)。これは、朝鮮通信使が書いたものの写しであるとの事。窓の上に掲げられている「対潮楼」と彫られた板も同じである(写真右)。約30分、景色を楽しんだ後、再び「常夜燈」と「雁木」の見える港に出た。朝方と同じコースを歩き、「常夜燈」に向かう途中、先ほど通り過ぎた「太田家住宅」を訪ねることにした。

福山市 鞆の浦・仙酔島のHP
http://www.tomonoura.co.jp/
福山観光情報のHP
http://www.fukuyama-kanko.com/course/course007.html
鞆鉄道株式会社(トモテツバス)のHP
http://www.tomotetsu.co.jp/tomotetsu/index.html

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November 10, 2008

鞆の浦のシンボル「常夜燈」と「雁木」

日本ぶらり旅(第6回)[宮島・鞆の浦(6)]

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「保命酒資料館」を出て、南西方向に少し歩くと、右手に「鞆の浦歴史民俗資料館」が、そして左手には「鞆の津の商家」(写真左)があった。前者は、鞆の港を一望できる古城跡に建てられた資料館で、古代から潮待ちの港として栄えた鞆の歴史、産業などを紹介している。また後者は、江戸時代に繁栄した典型的な商家の建物で、土蔵も全部和釘を使用し、幕末ごろに流行した登り梁造りになっているという。どのくらい時間がかかるのか分からなかったので、余裕があれば再び訪ねることとし、先を急いだ。100mほど歩くと、海である。鞆のシンボル「常夜燈」と「雁木(がんぎ)」が見える(写真右)。昔ながらの景色を残す、のどかな雰囲気である。そもそも、「鞆の浦」を訪れることにしたのは、この素晴らしい景観が、埋め立てと架橋で失われてしまうというTV報道を見たからだ。現在の様子と、CGで橋がかかった後の様子が映し出され、いかに景観が破壊される懸念があるかを示すとともに、埋め立てと架橋の裏に、議員に対する献金と、砂利業者などの利権が絡んでいるという内容だったと記憶している。ドロドロした部分は別にしても、少なくとも景観は失われそうだったので、その前に是非この景色を見ておきたいと思ったのである。TVが取り上げたアングルは、別の場所からのように思えたので、さらに進むことにした。

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この通りの反対側には、小さなお社があった(写真左)。ここには「力石(ちからいし)」と呼ばれる、大きな石が奉納されている。北前船で栄えた鞆の港で、荷物の積み下ろしをする仲仕たちが力比べをして、奉納したものだという。少し港から離れた通りを歩き、右手に「太田家住宅」を見ながらさらに進んで、「常夜燈」の前に出た(写真中左)。「常夜燈」は、灯籠燈(とうろうとう)と呼ばれる江戸時代の灯台で、先にも話しした通り、鞆のシンボルである。海中の基礎の上から宝珠まで11mの高さがある。港の常夜燈としては日本一との事。そしてその前には「雁木」が広がる。「雁木」は、江戸時代に築かれた船着場の石段のことで、潮の満ち引きに関係なく、荷物の積み下ろしが出来るのである。200mにもわたって残されているのは、日本でもここだけのようだ。「雁木」に沿う道には、白壁の建物が建っている。「いろは丸展示館」だ(写真中右)。宿屋もしていた商家の建物で、坂本龍馬と紀州藩の間で、いろは丸事件の賠償交渉が行われた場所である。日本初の海難審判と言われているとの事。「いろは丸展示館」の受付の方に、どの辺りに橋がかかるのかを訪ねてみると、表に掲示されているパネル(写真右)を紹介してくれると共に、工事反対の署名をしてほしいと頼まれた。是非については何とも云えなかったので、署名はお断りし、その場を離れた。しかし、パネルを見る限りでは、かなり景観が変わりそうな雰囲気である。そこで港全体を見渡せる場所に行きたかったので、地元の人に尋ねると、「医王寺(いおうじ)」に行くと良いと勧められた。後山の中腹にあるため、少し坂道を上らなければならないが、寺の境内からは港町ならではの素晴らしい風景を見下ろす事が出来るとの事。早速、「医王寺」に行くことにした。

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西方向に2~300m歩くと、「医王寺」まで100mの案内板があり、そこから坂道が始まった(写真左)。普段の運動不足からか、たった100mの坂道なのに結構キツイ。少々汗ばんだ頃、お寺の入り口が見え、階段を登り切ると、ようやく境内だ。「医王寺」(写真中左)は、正式名称を「桃林山慈眼院(とうりんざんじげんいん)医王寺」といい、平安時代の弘法大師の開基と伝えられる真言宗の寺院で、鞆で二番目に古い寺である。ここからさらに15分ほど上った所にある「太子殿」からは鞆を一望できるとの事だったが、時間と体力を考え断念した。しかし、ここから眺める景色も十分に美しく、また鞆の港も一望できることから、十分に満足することが出来る(写真中右・右)。景色を眺めていると、丁度お墓参りに来ていた6~70歳ぐらいの女性がいたので、埋め立てと架橋について尋ねてみた。すると、彼女は賛成派で、その理由は、町の道路は狭く、車の通れる道が限られているので、何か行事があるとすぐに渋滞し、緊急時に対応できなくなるからとの事であった。また、反対しているのは観光に従事している人が大半で、集めている署名も他府県から来た観光客ばかりで、地元住民の意見は反映されていないとも言っていた。しばらくお話を伺った後、その女性と別れ、私は「岡本家長屋門」に向かった。

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「医王寺」の坂道を下り、ひとつ通りを過ごし、右に曲がると「岡本家長屋門」(写真左)がある。この建物はかつて福山城内にあった「長屋門」なのだ。掲示されていた解説によると、「明治の初め、当岡本家の建物は火災により焼失した。復旧のため、明治六年(1873)廃城となり民間に払い下げを行っていた福山城内の建物の一部を譲り受け、海路を船により運び、ここに移築したといわれている。もともと門の左右には、対の番所が付随していたが、現在右側は取り払われて残っていない。しかし、門扉や門構えは城内の長屋門としての形式を善く残しており、材質(欅 : けやき)・規模より考察して、江戸時代初期の福山城郭内の遺構として貴重な建物である」との事。また、軒丸瓦には、大名家(水野氏)の家紋が付いている。現在この建物では、ミツボシ保命酒醸造元「岡本亀太郎本店」が営業している(写真右)。

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次に向かったのは、「沼名前(ぬなくま)神社」である。北に続く道を真っ直ぐ歩くと、お寺が並び(写真左)、突き当りには、「山中鹿之助の首塚」がある(写真中左)。ご存知の通り、戦国時代の終わり、毛利氏に滅ぼされた尼子氏の家臣山中鹿之助は、主家の再興を願い兵を挙げたが、1578(天正6)年、岡山県の高梁川阿井の渡で討たれ、毛利輝元や足利義昭に首実検をされたのである。ちなみに、岡山県の高梁川阿井の渡には、胴塚があるとの事。ここを右に曲がると、「ささやき橋」だ(写真中右)。この橋には伝説がある。「応神天皇の頃、百済よりの使節の接待役・武内臣和多利(たけのうちのおみわたり)と官妓・江の浦(かんぎ・えのうら)は、役目を忘れ毎夜この橋で恋を語り合っていました。それが噂になり二人は海に沈められました。それから密語(ささやき)の橋と語り継がれています」(掲示解説文より)との事である。この橋を渡り、さらに150mほど北に進むと「沼名前神社」(写真右)に到着である。

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November 09, 2008

入江豊三郎本店「保命酒資料館」

日本ぶらり旅(第5回)[宮島・鞆の浦(5)]

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午前6:00前に目覚める。部屋の窓から外を見ると、まだ薄暗い。日の出にはまだ早い。しばらく眺めていると、少しずつ空が赤く染まり始めた(写真左)。午前6:30頃、朝風呂に行くと、脱衣場の下駄箱には、スリッパが一杯入っていた。混雑しているのかと思いながら「男湯」の暖簾をくぐって中に入ると、2~3人しかいない。女性の方が混雑していたのであろう。露天風呂でノンビリ湯に浸かり、その後一旦部屋に戻る。朝食の予約を午前7:00にしていたので、会場のお食事処「海浬」に向かった。昨日夕食を頂いた場所と同じである。洋食もオーダー出来たのだが、せっかく和式のホテルに泊まったのだからと思い、和食をお願いした。ご飯に味噌汁、海苔、出汁巻き卵、焼き魚、お浸し、サラダ、梅干しなど漬物と言った定番の朝食である(写真中)。食事の前の飲み物として、「人参ジュース」か「青汁のリンゴジュース割」のどちらかを選べたので、青汁の方を頂く。臭みもなく、非常に美味しいものであった。私の胃袋が目覚めたのか、夕食同様、朝食も一つ残らず美味しく頂くことが出来た。ご飯のおかわりに頂いたお粥もグッド(写真右)。

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朝食後部屋に戻り、しばらく横になった。外の景色を眺めていたのだが、いつの間にか一眠りしていた。チェックアウトタイムである午前10:00が近づいたので、部屋を出て、ロビーに向かった。午後2:15頃に、ホテルから「福山」駅行きのバスが出るとの事だったので、フロントに荷物を預け、それまでの間、「鞆の浦」観光に出かけることにした。ホテルでもらった地図を片手に、最初に訪れたのは”ふいごの神”を祀る「小烏(こがらす)神社」だ(写真)。鞆の鍛冶屋さんの氏神さんである。神社に掲げられていた解説によると、「西暦1570年頃現在の鞆鉄工業の草分けとも云われる御用鍛冶の人々によって社が建てられて現在に至る。御用鍛冶とは、福山藩より藩札を受け主として錨船釘又は鍬農具等を作り他藩と交易したものを言い、備後の特産品でもあった。江戸時代には室津、下津井と並んで内海の主要な実などとして北前船の寄港等によって鍛冶の製品を他藩に出していた」との事。12月には「ふいご祭り」が開催されるという。

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その後商店街を南に進み(写真左)、突き当りを右手に入った。この通りには、福山藩を代表する特産品であった「保命酒」を売る店が並んでいる。保命酒は、もち米、麹(こうじ)、アルコール度40%の焼酎から出来た甘口の原酒のなかに、和漢の薬味を漬け込んで熟成させて造られる薬用酒だ。最初にあったお店に入り、そこで「保命酒」を試飲させてもらう(写真中左)。甘くて飲みやすい。「養命酒」と良く似た感じだ。そこはただの販売店だったが、数件先に本店があり、そこには「資料館」もあるとの事だったので、そちらを訪ねることにした(写真中右)。本店入口に掲げられていた説明によると、「保命酒のおこりは江戸時代初期(1695年)にさかのぼります。漢方医の子息、中村吉兵衛が家伝の薬味を使い、保命酒を考案しました。福山藩は代々保命酒を御用酒として幕府の要職、諸国の大名、京都の公家の方々に献上しています。日本外史の頼山陽も保命酒を愛飲し、また朝鮮通信使三条実美ら七卿落ちの一行もこのお酒を愛でて詩文をのこしています」との事。建物の中に入り、作業場の横にある階段を上った2Fが「資料館」だ。量り売りをしていた時代に用いていた「計量枡」(写真右)、醸造道具の「かい」や「仕込み桶」、「漬け桶」(写真下左)、「仕込み甕」や保命酒を入れる陶磁器の徳利などが展示されている(写真下右)。

展示解説から保命酒の歴史を見ると、次の通り。

1.保命酒の創醸から江戸期の隆盛まで
保命酒の起源は大坂(大阪)生玉神社(天王寺区)の近くで漢方医の子息であった中村吉兵衛(なかむらきちべえ)が焼酎製薬酒の醸造を家業としていたことに始まります。ところが1653年、大阪に大洪水がおこり、道具類の損傷が激しく家業の再開が難しくなりました。吉兵衛は上阪中に知り合った鞆の酒造業者、万古屋(ばんこや)、津田六右衛門を頼って、1655年より鞆に寄宿をはじめました。
その後、大阪時代のレシピをもとに鞆の名産として「十六味地黄保命酒」を売り出しました。十六味とは16種類という意味で16種の和漢薬が入っていることを示し、また地黄は中国原産の薬草の名前です。高価でまた薬効の高い薬草で有名なものでした。このお酒は後に諸侯や高貴な方々に献上されるようになり、また旅行者の喧伝によつて、全国に名を広めていくのです。
昔は船が交通の主要手段であり、瀬戸内海の中央で潮の流れのぶつかりあう鞆は北前船の寄港地として航路にとりくまれていました。海運業者や、旅行者など船で移動する人々は潮が悪いときは鞆の入り江に船を停泊させ、船の修理をしたり宿をとったりして時を過ごしました。様々な階級の人々が憩い、遊興にひたり、鞆に様々な文化や産業をもたらしました。保命酒が生まれ、発展したのもこの鞆という港町の地の利にほかなりません。
吉兵衛はこの保命酒屋の屋号を出身にちなんで生玉堂(いくたまどう)としました。
保命酒は福山藩の御用達となり、幕府や高貴な方々への献上品となりました。文化年間(1804年~)には類似品の製造販売をするものがあらわれました。京都、岡山、奈良、加賀、尾張大野など様々な地方にわたりました。それらは血縁者や使用人らが始めたものですが、中村家は藩当局に願い出、専売制を推進しました。これ以降保命酒の製法は門外不出、一子相伝として、類似品の再発を防いだのです。

2.明治以降の保命酒業界
江戸期が終わり、廃藩置県によって中村家は藩の保護を失い、また同時に藩に貸し付けたお金を損失しました。また1871年(明治4年)百姓一揆に際し、中村家は大損害を受けました。専売制が廃止となり、保命酒を造る業者が次々に現れはじめたため、中村家は郵船会社と契約して大阪―尾道航路をひらいたり、豚の飼育や清酒の醸造、また香川県に支店を配するなど多角経営に努めましたが、財力が弱り、明治36年には、完全廃業となってしまいました。
中村家の衰退と同時に、何軒かの保命酒屋が誕生しました。当店も入江豊三郎(香川県観音寺で海運業、清酒の醸造などを営んでいた。鞆、大坂屋の血族)の移住により明治19年から保命酒の醸造をはじめました。入江家は香川県塩飽(しあく)諸島の広島出身(かつての塩飽水軍の人名(じんみょう)であった)であることから屋号を廣島屋としました。
それぞれの保命酒屋がもつとも販売にしのぎを削っていた時期は昭和初めごろであったと思われます。一店が客引き人を雇い鞆の観光案内、入浴サービスや商品の安売りなどお客の囲い込みを始めると、他店も同様のことをはじめました。客引き競争ともいえる状況に、ついに鞆商工会は商工省に調停依頼をしました。調停により和解、価格調整がなされ翌年には解決しました。
戦後は観光客や祇園宮(沼名前(ぬなくま)神社)参拝者も年々減少し、戦前より続いた輸出(ハワイ、フィリピン、台湾、ブラジルなど)も昭和40年中頃にはなくなりました。何軒も競い合っていた保命酒屋店も現在では4軒となりました。原酒から造っている店はもっと少なくなっています。全国的にも薬酒の観光土産は珍しく、また、由緒ある保命酒の歴史を守るためにも、現在、各保命酒店の発展が期待されるところです。

以下、展示品の中で、面白いと思ったもの5点をご紹介する。

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第一番目は、大きさが日本一という「備前焼の人形徳利」である(写真左)。高さ80cm、胴廻り170cmもの大きさだ。天保時代に作られたもので、三面に「恵比寿」「大黒」「布袋」が描かれている。
第二番目は、「古備前の仕込み甕(狸々甕 : しょうじょうがめ)・三石入り」だ(写真右)。高さ104cm、胴廻り252cm、直径78cmある。安土桃山時代に作られたという。

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第三番目は、「備前焼の角徳利」である(写真)。資料館の解説によると、「天明時代(1781年~)以降多く用いられた。備前窯元の森庄八が天明元年(1781年)に初めて製作し、天保窯といわれる窯で多く生産されたといわれる。角型の徳利の4面に松竹梅や蘭などの絵や俳句などが彫りこんであって、なかには、六角のものや遍壺(へんこ : 厚みが平らな形)になったものがある。番傘に見立てた傘徳利といわれるものもある。備前焼らしからぬ幾何学模様が当時珍しい意匠で、人気をよんだ」との事。

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第四番目は、「丹波焼の丸徳利」だ(写真)。備前焼徳利が保命酒の需要に応じられなくなったため、備前焼によく似た丹波焼(兵庫県篠山市今田町)も使われたとの事。(文化文政年間1804~)、立杭焼(たちくいやき)とも呼ばれ、鎌倉時代開窯といわれている。入江豊三郎本店で売られている徳利製品には、現在も丹波焼が使われているという。

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第五番目は、「砥部焼の徳利」である(写真)。移入品を保命酒徳利にそのまま使ったのか、無地の磁器に鞆で色絵付けしたのかは不明であるが、色彩豊かで、形も独特なものがある。天保時代に保命酒徳利として取り寄せたが、数は少ないようだ。ちなみに砥部(愛媛県伊予郡砥部)は、四国一の窯業地である。

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最後に、明治以降の徳利について書かれていたので、参考までにご紹介すると、「観光土産として徳利の形や絵柄は多彩化し、より一般受けするものが増えた。江戸時代の徳利の写しも多い。新しく、美濃焼(多治見焼)なども用いられている。ガラス製品もあり、時代の変遷が覗える」との事。写真は明治以降に造られた備前焼の徳利。

以上、約45分にわたり見学させてもらった。保命酒とそれに関連する焼き物などについて、ジックリ勉強させてもらえた。これで入館料は無料なのだから、嬉しい限りである。資料館を出て、次はテレビなどで紹介された、「常夜燈」のある「雁木(がんぎ)」である。

福山市 鞆の浦・仙酔島のHP
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入江豊三郎本店のHP
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November 08, 2008

日本式ホテルの夕食と露天風呂

日本ぶらり旅(第4回)[宮島・鞆の浦(4)]

連絡船を桟橋で待っていると、「宮島口」から船がやって来た。下船する乗客を見ていると、結構たくさんの外国人が含まれていた。私が来た時に外国人が少なかったのは、朝早かったからだ。これまでに新幹線で出会った宮島に行くという外国人は、京都や大阪に宿泊しているケースが多かった。朝方一緒になったフランス人カップルは、岡山に泊っていたから、あの時間帯にいたのであろう。

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船は午後12:10に出発、約10分で対岸の「宮島口」に到着した。JR「宮島口」駅の近くに、あなご弁当のお店「うえの」がある(写真左 : 同店HPより)。このお店については全く知らなかったのだが、特別展が開催されていた「宝物収蔵庫」で出会った新人の学芸員に教えてもらったのである。「宮島」に渡る前にここで弁当を買い、「西松原」などの海岸縁のベンチで食べるのが定番だという。私は逆コースだが、「宮島口」→「広島」間の電車で食べるつもりであった。お店の前に来ると、大勢の人が並んで待っている。どうやらお弁当ではなく、店舗で食べようという人たちのようだ。弁当販売の窓口に行くと、店で食べるか、弁当にするかを迷っている客が居たため、こちらも待たされることになった。しかし、時間がなかったので、あなご弁当の購入は諦め、JR「宮島口」駅に急いだ(写真右)。駅に到着し、売店に目を向けると、何と「うえの」の「あなご弁当」を売っているではないか。駅弁なのだから売っていても不思議ではないのだが、残りはわずか3つ。すぐに一つ購入し、ホームに向かった。

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「広島」行きの列車がやってきたので乗車すると、考えていたのとは違うタイプの列車であった。4人が向かい合って座るタイプの列車を想定していたのだが、通勤タイプの列車だったので、車内で弁当を食べるのは諦めた。再びお預けである。午後1:30頃「広島」駅に到着。予定の新幹線が来るまでに30分ほどあったので、待合室でお弁当を食べることにした(写真左・右)。お腹が減っていたこともあるだろうが、非常に美味しく頂くことが出来た。お店で暖かい「あなごめし」を食べたら、これ以上に美味しいのであろう。次に機会があれば、是非お店で食べたいと思う。でも、”あなご”で一折1,470円は少々高いようにも思うのだが、いかがであろうか。

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次の目的地である「福山」駅へは、新幹線「のぞみ」に乗り、約20分で到着した。ホームからは福山城が見える(写真左)。本日宿泊するホテル「鷗風亭」の送迎バスに乗る時間まで、15~20分あったので、駅の観光案内所で地図などを貰い、福山城の写真を撮るなどして過ごす。午後2:50頃、送迎バスに乗車。老人男性5名の団体と、年配のご夫婦3組が乗っていた。バスは福山市街を抜け、30分ほどでホテルに到着。評判の良いホテルというだけのことはあり、出迎えもなかなか良い。和服を着たホテルのおねえさんが、部屋まで案内してくれた。私の部屋は7Fである。久しぶりの和式ホテルだったので、いつもとは違った気分になれる。部屋に入ると、正面に大きな窓。そこには青い空と海が一面に広がっていた。見晴らしも抜群である(写真中左・中右)。ホテルのおねえさんの注意・説明を一通り聞いた後、すぐにお風呂に向かった。お風呂は3F。男子風呂は、私の部屋の真下辺りになるのだろうか。窓から見える景色は、部屋から見る景色と良く似ていた(写真右 : 「ホテル鷗風亭」案内書より)。まず露天風呂に入る。11月だというのに、風に当たっても心地良い。こちらの温泉は冷鉱泉なので沸かし湯だが、本当の温泉に間違いない。何度も湯船を出入りし、お湯を楽しんだ。

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夕食の予約は、午後6:00。湯上り後、しばらく部屋でゴロゴロし、午後5:55頃、食事を頂くため、1Fにあるお食事処「海浬」に向かった(写真左)。案内された席は個室である(写真中 : 「ホテル鷗風亭」案内書より)。すべての席がプライベート空間を持てるように、個室になっているのだ。自分の部屋に食事を運ばれるよりは、こちらの方式の方がずっと気楽で良い。テーブルには前菜などが並んでいた(写真右)。久しぶりの和式ホテルの料理なので、楽しみである。

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まず食前酒は、巨砲酒だ(写真左)。ブドウの巨砲から作られている。続いて前菜(写真右)。席に用意された献立表によると、次の通りだ。
・しまなみレモン割山椒に白和え
大徳寺麩、占地、神石蒟蒻、柿、柿ソース、枝豆、振り柚子
・手長海老化粧揚げ、栗茶巾、畳鰯、銀杏芋、小鯛笹漬小袖寿し
・手毬の器に
叩きオクラ、くこの実

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次に出されたのは、「御造り」(写真左)である。
鯛松皮造り、太刀魚、車海老、子ヤリ烏賊、縞鯵、木の葉胡瓜に三種ダレ。三種ダレは、左から塩、オリーブオイル、さしみ醤油(写真中左)。太刀魚はオリーブオイルで食べると、イタリア料理のカルパッチョのような味になり、美味しい。
「御造り」を食べている時に、焜炉に火が点けられた。「ぷりぷり鯛しゃぶ」(写真中右)用である。最初に、お出汁になるコラーゲンゼリーを入れ、次に「えのきだけ」と「水菜」を入れる(写真右)。沸騰したら、鯛をしゃぶしゃぶして、薬味を入れた割りポン酢で頂く。

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続いてチョイス。オージー・フィレ・ビーフステーキや鯛の兜煮などの中から、好きな一品をチョイスできるのである。私は地元で獲れた、「鰈の煮付け」(写真)を選んだ。甘過ぎず、辛過ぎず、臭味もなく、美味しい一品である。

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次は「合肴」と「揚物」、「酢の物」である。「合肴」は、「甘鯛海老芋湯葉懸珍」(写真左)で、黄ニラ、椎茸、餅銀杏、紅葉人参、蟹餡掛け、木の芽が入っている。「揚物」は「牡蠣のフェロー」と「松茸海老真丈挟み」(写真中)で、トゥインクルソースと酢立で頂く。「酢の物」は、「渡り蟹の共味噌和え」(写真右)で、とんぶり、若布、より独活、生姜酢・レモンだ。

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そしてようやく「ご飯」である。私はお酒を飲まないので、最初から御飯が食べたいのだが、そのようにすると、早く満腹になり、後半に出される品々が食べられなくなるので、我慢していたのである。白いご飯もあるとの事だったが、「本日の釜飯」を選んだ。今日は「鯛飯」であった。鯛の切り身の入った「潮汁」、三種盛りになった「香の物」と一緒に運ばれてきた(写真左)。そして再び焜炉に火が点される。急須に入った「お出汁」を温める為だ(写真右)。「鯛飯」にかけ、お茶づけにすると美味しいのである。

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最後はデザートで、「ヨーグルトムースとブドウのジュレ」(写真)。どれもすべて美味しく頂くことが出来た。いつも腹八分で止めておくのだが、今日はすべて頂いたので満腹。部屋に戻って1時間ほど休憩し、再び露天風呂に入りに行った。海外旅行では味わえない、国内旅行ならではの楽しみである。

宮島観光協会のHP
http://www.miyajima.or.jp/
駅弁あなごめし・”うえの”のHP
http://www.anagomeshi.com/
ホテル鷗風亭のHP
http://www.ofutei.com/

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November 07, 2008

「千畳閣」と「五重塔」

日本ぶらり旅(第3回)[宮島・鞆の浦(3)]

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「厳島神社・秋の名品展」を見た後、「紅葉谷公園」に向かった。古い街並み、石畳の道路を北へ約10分歩くと、公園に出た(写真左)。今年は暖かいので、あまり期待はしていなかったが、やはりまだ紅葉はほとんど紅くなっていなかった(写真中左)。「もみじ橋」を渡り(写真中右)、公園内をブラブラしていると、鹿と出会った。暖かい日差しの下、ノンビリ何かを見つめていた(写真右)。

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公園を出て次に向かった先は、「千畳閣」(写真左)である。「厳島神社」本殿の西側、傍には「五重塔」(写真中左)が建っている。拝観料100円を支払、中に入る。「千畳閣」は「豊国神社」の本殿で、1587年、豊臣秀吉が戦没兵士の慰霊のために寄贈した大経堂だ。畳857枚分の広さがあることから、「千畳閣」と呼ばれるようになったという。秀吉の急死により工事が中断し、現在も未完成のため、御神座(写真中右)の上以外は天井が張られておらず(写真右)、板壁もない(写真下左)。天井の梁部分には、数多くの絵馬が飾られている(写真下中左)。また、「千畳閣」は高台に建つため、ここから「厳島神社」を見下ろす事が出来る(写真下中右)。千畳閣の隣に建つ五重塔は、応永14年(1407年)に建立された。高さは27.6m。和様と禅宗様(ぜんしゅうよう)を巧みに調和させた建築様式で、桧皮葺の屋根と朱塗りの柱や垂木のコントラストが美しい(写真下右)。なお、塔の中に入ることはできない。

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次に、「厳島神社」本殿と大鳥居との間、潮の引いていた海を歩き、本殿の東側にある「清盛神社」に行こうと思つたのだが、すでに潮が満ち、もはや歩くことはできなかった。仕方なく、本殿の北側を廻り、目的地に向かった。潮は本殿の北側にまでは達していなかったので、「鏡池」はまだ見ることが出来る(写真左)。先ほど訪れた「特別展」の会場である「宝物収蔵庫」を通り過ぎ、「御手洗川」にかかる橋の手前に来ると、「宝蔵(ほうぞう)」がある(写真中)。室町時代中期に建立された、校倉(あぜくら)造りの建物(写真右)。五角形に工作した材(校子 : あぜこ)をせいろう組(木を横に組み合わす)にした構造である。現在は建物だけが残り、蔵としては使われていない。ちなみに、現在、宝物等はすべて先程の「宝物収蔵庫」に保管されている。

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川沿いを歩き、「宝物館」の前を真っ直ぐに進むと、右手に「歴史民俗資料館」(写真左)が見えた。資料館入口の案内板によると、「宮島歴史民俗資料館は、江戸時代末期から明治にかけて豪商といわれた江上家の母屋と土蔵の一部を保存し、新たに展示室などを加えて昭和49年4月に開館。建物全体が宮島の町並み景観に調和するよう配慮されています。展示資料は約2,000点。宮島に関わる幅広い資料を収集しており、宮島を題材とした詩歌・絵画や宮島案内記、宮島歌舞伎番付・古文書などの歴史資料、杓子づくりなどの木工生産や古くより伝えられた行事・習俗に関する民俗資料などが主体となっています。宮島の歴史や文化を理解する上で好個の施設といえます」(写真右)との事。しかし、残念ながら本日は休館日のため、見学することは出来なかった。

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ここから南に向かい西松原に出ると、朱色に輝く「大鳥居」が見えた。ここから東に2~30m進むと、「清盛神社」(写真左)だ。清盛の没後770年を記念し、昭和29年(1954年)に創建されたとの事。少し歩き疲れたので、木陰に入り、しばらく海を眺めることにした。「宮島口」に向かう定期船(写真中左)、海側から見る「厳島神社」本殿(写真中右)と「大鳥居」(写真右)など、好天に恵まれたこともあり、見る物すべてが美しい。

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約10分休憩し、再び本殿の方に向かい、西松原を歩き始めた。途中、鹿がノンビリと海を眺めていた(写真左)。今回は、不思議と凶暴な鹿には出会わない。食べ物らしき物を持っていないからだろうか。神殿の東側に来ると、先ほど訪れた「千畳閣」と「五重塔」が青空を背景に浮かび上がっていた(写真中左)。そして、振り向くと「大願寺(だいがんじ)」(写真中右・右)が建っている。「大願寺」は、「真言宗に属し、室町時代末期に厳島神社の修理造営権を握り、道本(どうほん)・尊海(そんかい)・円海(えんかい)と相次いで傑出した住職が出て、厳島神社諸建築や復旧に当たった。また鍛冶・番匠(大工)・檜皮師(ひがわし)などの職人団を率い、筑前莒崎八幡宮・豊前宇佐八幡宮の修理造営にも当たった。当時厳島は内海の要港で、ここに集まる京・堺などの貿易商人らとの接触も深い」(案内板より)との事。

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次は本日2度目、「宝物館」を訪れた。「大願寺」の目の前にある(写真左)。この「宝物館」は、昭和9年(1934年)に開館した。厳島神社は、これまでに奉納された平家納経をはじめ、刀剣類、鎧兜、能・舞楽の装束や面、絵扇、絵馬、絵画等約4500点(うち130点余りが国宝・重要文化財に指定)を所蔵しているが、その一部をここで展示している(写真中・右)。しかし、レプリカも多いようだ。ちなみに、入館料は大人300円である。

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「宝物館」の見学を終えると、もうすぐ正午である。お天気も良く、見晴らしも良いため、まだまだ宮島観光を続けたかったのだが、これから「鞆の浦」に行く予定だったので、ここを最後に乗船場に向かうことにした。古文書が保管されている「御文庫」(写真左)の前を通り、「大鳥居」の前に出る(写真中)。潮はさらに満ち、「大鳥居」の周辺だけでなく、「神殿」の下にも潮が満ちていた。「表参道商店街」(写真右)を通り乗船場に向かう途中で、宮島に来る時に一緒になったフランス人カップルと再び出会った。彼らは商店街のてんぷら屋で売られている串揚げを歩きながら美味しそうに食べていた。お昼ご飯の代わりだとか。非常に美味しいと言っていた。私もお腹が減っていたので、同じものを購入しようかと迷ったが、「宮島口」にある「上野」というお店の「穴子弁当」を食べることに決めていたので、グッと我慢し、真っ直ぐ乗船場に向かった。

宮島観光協会のHP
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November 06, 2008

国宝・平家納経

日本ぶらり旅(第2回)[宮島・鞆の浦(2)]

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「厳島神社」の本殿を出て、「宝物館」を訪ねた(写真左)。受付で展示内容について尋ねると、本殿の北にある「宝物収蔵庫」で、「厳島神社・秋の名品展」が開催されていることを教えてくれた。ここでの滞在時間のことも考え、最初にそちらを見ることにした。「宝物館」から徒歩で4~5分。「厳島神社・秋の名品展」の案内板が目に入った(写真右)。建物に入り、受付でチケットを求めると、「展示物はほんの少ししかないですが、良いですか?」との問いかけ。入場料は1,000円とチョット高め。しかし折角の機会なので、見ることにした。

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館内に入ると、狭い展示スペースに、僅か10品程の展示がなされているだけ(写真)。受付の人がコメントした理由が分かった。コメントしないと、入館者が失望するからであろう。ここは「宝物収蔵庫」で、その一部を展示場に改造したため、展示スペースが狭いのである。

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このため展示品の数は少ないが、その大半は国宝と、見ごたえはある。展示品は次の通り。

① 国宝・「平家納経・法華経序品(じょほん)第一」 (平安時代) (写真左)
② 国宝・「平家納経・譬喩品(ひゆほん)第三」(平安時代)
③ 国宝・「平家納経・寿量品(じゅりょうほん)第十六」 (平安時代) (写真中左)
④ 国宝・「平家納経・分別功徳品(ぶんべつくどくほん)第十七」(平安時代)
⑤ 国宝・「平家納経・神力品(じんりきほん)第二十一」(平安時代)
⑥ 国宝・「紺紙金字(こんしきんじ)法華経(巻第一・巻第二)」 (平安時代) (写真中右)
⑦ 国宝・「段替り網目に蒲公英(たんぽぽ)と菫(すみれ)文様唐織」 (江戸時代) (写真右)
⑧ 国宝・「青海波(せいがいは)に団扇(だんせん)朝顔文様唐織」(江戸時代)
⑨ 国宝・「段替り丸龍と雲文様厚板」(江戸時代)

展示解説によると、「平家納経とは、法華経28巻に開経の無量義経(むりょうぎきょう)と結経(けちきょう)の観普賢経(かんのんふげんきょう)、他にも阿弥陀経、般若心経と平家納経を納める目的を記した平清盛の願文(がんもん)の計33巻で構成されている。法華経は「正しい教えの白蓮」と日本訳され、仏の教えを例え話と共に説かれている。願文によると、長寛2(1164)年の厳島参詣の機会に一門の繁栄を祈り、一族郎党32人の結縁によって書写された装飾経で、平安時代に流行った装飾経の最高傑作であるとも言える。装飾には金銀の切箔(きりはく)や砂子(すなご)、野毛(のげ)などが贅沢に使われており、写経部も、黒墨はもちろん、金泥や銀泥、群青(ぐんじょう)、緑青(ろくしょう)などで書かれたものもある」との事。

色々な美術館や博物館を訪ねる機会の多い私だが、お経をジックリ見ることが少なかったので、良い勉強になった。見学後、受付に先程とは別の方が居たので話しかけてみると、今年入った新人の学芸員との事。ただ受付を任されているオバちゃんとは異なり、私の投げかける色々な質問にも答えてくれた。おかげで、私の興味はまた広がり始めたようだ。ちなみに、この名品展は、11月24日(月・振り替え休日)まで開催されている。

※展示品の写真は、「厳島神社国宝展」より引用した。

(参考文献)
・「厳島神社国宝展」(奈良国立博物館編)[読売新聞大阪本社発行]

宮島観光協会のHP
http://www.miyajima.or.jp/

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November 05, 2008

世界文化遺産・厳島神社

日本ぶらり旅(第1回)[宮島・鞆の浦(1)]

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広島県・宮島にある世界文化遺産「厳島神社」と、最近埋め立てと架橋で話題になっている「鞆の浦」に行って来た。午前8:34、新幹線・広島駅で下車。山陽本線の各駅停車に乗り、「宮島口」(写真左)で船に乗り換え、午前9:15頃「宮島」(写真右)に到着した。天候に恵まれ、抜群の見晴らしである。

新幹線に乗っていると、「宮島」に行くという外国人によく出会うので、もっと多くの外国人観光客がいるのかと思ったのだが、意外に少ない。山陽本線の各駅停車に外国人カップルが一組乗っていたので話しかけてみると、フランス・パリから来た観光客であった。年齢は20代後半から30代前半ぐらい。21日間の日本観光で、東京や栃木県・日光、宮城県・松島、茨城県・水戸などを廻り、昨日は岡山県・後楽園に行って来たとの事。岡山で二泊し、後は大阪、京都、奈良などを巡る予定だという。男性はフランス語しか話せなかったので、主に英語も話せる女性との会話となったのだが、男性は、「ミヤジマ」、「マツシマ」、「サンケイ」、「カイラクエン」、「ケンロクエン」、「コウラクエン」、「テイエン」などの日本語を覚え、地図を見せながら熱心に話しかけてきた。「日本三景」や「日本三庭園」に興味があったようなので、「天橋立」について教えてあげると、非常に喜んでいた。

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牡蠣の養殖場が見えたので説明してあげると、フランスでも同じようにして養殖しているとの事(写真左)。しばらくすると、厳島神社の鳥居周辺の潮が引いていることが分かったの、鳥居に触れることが出来るかも知れない旨説明してあげると、潮が満ちているときもボートが出て触れることが出来るのかという質問を受けた(写真右)。遊園地ではないのだから、ボートが出るということすら考えたこともなかった私だったので、この質問は意外であると共に、神社や鳥居に対する日本人的感覚を持たない外国人にとっては当然の疑問だったのかとも思った。

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「宮島口」から「宮島」へは、約10分で到着。船を降りて桟橋を渡り、乗船所前の広場で彼らと別れた(写真左)。厳島神社に向かって歩き始めると、大勢の修学旅行生たちがやって来た。混雑するのではないかと思ったのだが、見学を終えて帰るところだったので、ホッとする。ご存知の通り、宮島には多くの鹿が居る。約10年前にこの地を訪れた際、手に持っていた地図を凶暴な鹿に盗られたのを思いだしたので警戒するが、今回は皆おとなしい(写真中左)。お腹が減っていないのか、日向ぼっこを楽しんでいるからなのか。乗船場前の広場には、「日本三景の碑」(写真中右)と「世界文化遺産記念碑」(写真右)が建っている。日本三景の一つであり、世界遺産でもあるのだ。またこの島は、毛利元就が中国地方統一の第一歩を踏み出した、「厳島合戦」の行われた場所でもある。

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海側の「有之浦」沿いに歩くこと7~8分。大鳥居が姿を現わした(写真左)。船から見た時とは異なり、潮は満ち始めており、鳥居の周辺には近寄れない状態である。しかし写真に撮るにはなかなか良い感じである。青空と青い海に浮かぶ朱色の大鳥居。何とも美しい(写真右)。ところでこの大鳥居、現在のものは1875年に建てられた8代目で、素材はクスノキ。高さ16m、幅24m、柱の根回りは10mという大きさ。そして、土に埋もれた部分はなく、自らの重みだけで建っているというから驚きである。鳥居の額は海側から見ると「厳島神社」、本殿側から見ると「伊都岐島神社」と書かれている。

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さらに20mほど進むと、厳島神社の入り口である(写真左)。拝観料は大人300円。チケットを購入し、中に入る。朱塗りの柱と梁、白壁と白い天井が続く。何とも言えない朱色。修復工事をしていた左官に、どのような塗料を使用しているのか尋ねるが、「塗料の成分はわかりません。私たちは与えられた塗料を塗っているだけです」との素っ気ない返事。するともう一人の人が、「絵の具のような感じですネ」との事。床板を見ると、少し隙間があるのが分かる。これは、台風時の高潮で、床板に圧力がかかるのを避けるためである。少し進んで左手を見ると、「鏡の池」が見えた(写真中左)。潮が満ちているときは見ることが出来ない場所だが、まだ神殿の下まで潮が来ていなかったので、幸いハッキリ確認することが出来た。周囲では潮が満ちてくるまでの時間を利用して、海藻などの清掃が行われていた(写真中右)。大鳥居の手前、潮との境あたりには、子どもたちの歩いている様子が見える(写真右)。

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神殿の中央に行くと、大鳥居を正面に国宝・「高舞台」が設けられている(写真左・中左)。平安朝の昔から今に伝えられる舞楽を行うところ。黒漆塗の基壇に朱色の高欄で、前後に階段がある。「平清盛公が厳島神社に伝えた優雅な舞楽がこの舞台で舞われ」(現地解説文より)るとの事。その先には「平舞台」が続く。東側の回廊を進むと、右手に「能舞台」が見える(写真中右)。永禄年間、毛利氏によって寄贈されたもので、重要文化財に指定。毎年4月16日から3日間、桃花祭神能が奉納される。潮の満ち引きで足拍子の音色が変わるという。さらに進むと、左手に「反橋(そりばし)」がある(写真右)。かつては重要な祭事の際、勅使がこの橋を渡って本社内に入ったことから別名・勅使橋(ちょくしばし)とも呼ばれたとの事。

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ここで本殿は終了。後戻りは出来ないので、一方通行の通り抜けである(写真)。本殿を出て、次は「宝物館」に向かった。

宮島観光協会のHP
http://www.miyajima.or.jp/

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November 04, 2008

地方自治法施行60周年記念5百円貨幣引き換え予定日発表

地方自治法施行60周年記念5百円貨幣引き換え予定日発表

本日、財務省から、地方自治法施行60周年記念5百円貨幣(北海道、京都府、島根県)の引換えについて発表があった。引換開始日は平成20年12月10日(水)。引換は従来同様、銀行なと゜の窓口で行われる予定である。

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ちなみに、今回発行される記念貨幣の表面のデザインは、次の通り。
・北海道(洞爺湖と北海道庁旧本庁舎 : 写真左・発行枚数210万枚)
・京都府(国宝「源氏物語絵巻」宿木二(部分) : 写真中左・発行枚数205万枚)
・島根県(銅鐸とその文様・絵画 : 写真中右・発行枚数197万枚)

なお、裏面は各種共通である(写真右)。

※写真は財務省のHPより

財務省のHP
http://www.mof.go.jp/jouhou/sonota/kokko/kk201104.htm
造幣局のHP
http://www.mint.go.jp/topics/new/page43.html

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November 03, 2008

不思議な形の亀甲竹

茶の湯ぶらり旅(第27回)

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先日、「千家十職・黒田正玄家の竹工芸展」についてお話ししたが(10月29日付当ブログ・茶の湯ぶらり旅(第23回))、その際、地下に展示されていた各種竹や柄杓については全く触れず、別の機会に譲るとした。今回はその中から、竹の素材について取り上げる(写真 : 地下展示の様子)。

竹は非常に身近な植物のため、竹を知らない日本人はいないと思う。しかし、竹の種類や性質、用途などについて尋ねられると、実は竹について何も知らなかったのだということを自覚することになる。今回は「千家十職・黒田正玄家の竹工芸展」での展示品の中から、竹の素材に関するものを取り上げる。
なお、解説文は展示解説から引用、また「千家十職黒田正玄家の竹工芸-茶の湯工芸の伝統と創造―」を参考にした。

① キッコウチク(亀甲竹)[写真 : 左]
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竹竿の節間が交互に大きく膨張し、その形が亀の甲を想像させることから漢字で亀甲竹と書く。この亀甲状の形はモウソウチクが突然変異を起こして出現したもので、まさに変竹である。しかし、枝下あたりから上方は普通のモウソウチクと同様に正常な節間になるのも不思議である。この特異な形状から本種は京銘竹に指定されている。この不思議な形が珍重され、花入や住居用柱、また茶席の結界などに使われたりする。
② ハチク(淡竹) [写真 : 中]
ハチクは漢字で淡竹と書かれるように、表面は淡い緑色あるいは緑灰色を呈する。中国原産とも言われるが定かでない。高さ15m以上に達し、直径10cmにもなる大型で、マダケ、モウソウチクと並んで三大有用竹類に位置づけられている。節はマダケに似て二輪状になる。筍は食用になり、材は細く縦に割ることができ、茶筅の原料にもなっている。
③ モウソウチク(孟宗竹) ゴマ竹[写真 : 右]
モウソウチクの表面に黒い斑点が出現した竹で、その点々がゴマのように見えることからゴマ竹と呼ばれる。このゴマ状斑点は、竹が枯れた時に付着するバクテリアの一種であるが、これを人工的に出現させたものが多い。太いモウソウチクのゴマ竹は京都府指定伝統工芸品の京銘竹の一つである。マダケにもゴマ竹がある。建築材や竹工芸用材料として珍重されている。

④ モウソウチク(孟宗竹) 白竹[写真 : 左]
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中国江南地方の原産で、江戸時代に九州に移植され、全国に分布した。漢字で孟宗竹と書く。食用として一般に親しまれている。直径20cm以上に成長する日本最大の竹である。節が一輪状になるのが特徴である。白竹は”火あぶり”によって油抜きして仕上げた表面が白い光沢のある竹で、京都府指定の伝統工芸品「京銘竹」の一つである。
⑤ シボ竹[写真 : 中]
これはマダケの一種で、細かい縦皺(たてじわ)の表れた竹で、そのため皺竹(しわたけ)という漢字が当てられる。これもマダケの突然変異体であるが、大変貴重な品種で、当代正玄は、自宅の庭に移植され、近年、その風合いを活かした茶器、香合、花入をつくっておられる。これは一度油抜きされたシボ竹である。なお、その縦皺が節間交互に発現したものをカタボシといい、兵庫県龍野市で天然記念物に指定されている。
⑥ マダケ(苦竹) すす竹[写真 : 右]
すす竹は、何百年も経つ古い茅葺きあるいは藁葺きの家屋の天井に使われていたマダケが、囲炉裏やおくどさんからでる薪やわらの煙によって長年いぶされて出来た竹で、漢字で煤竹(すす竹)と書く。縄目の跡が褐色の濃淡をつくり、その景色をうまく取り込んだ竹の道具は多い。表千家の茶筅にはこのすす竹が使われる。しかし近年、古い家屋が激減していることからすす竹の供給が著しく限定されてきた。

⑦ マダケ(真竹・苦竹) しゅみ竹[写真 : 左]
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マダケの表皮に茶褐色で不規則な模様が出現した竹で、「しゅみ竹」あるいは「しみ竹」などと呼ばれる。これは表皮に一種のバクテリアが付着したものなどと見られている。まさに自然のなせる技で、花入、茶灼などにその風情を巧みに取り込んでつくられる。
⑧ マダケ(真竹・苦竹) 白竹[写真 : 中]
収穫したマダケの青竹を”火あぶり”で油抜き処理し、表面を光沢のある白い竹に仕上げたものがマダケの白竹である。この白竹も京銘竹の一つとして建築、竹工芸、編組等、広く利活用され、もっとも利用範囲の広い竹である。白竹は竹稈(ちくかん)内部までしっかり熱しられたことにより、虫害の被害が少なく、また割れたりする危険性も低減される。
⑨ マダケ(真竹・苦竹) [写真 : 右]
東北以南の各地に自生している最も一般的な竹の一種がマダケである。漢字で真竹・苦竹と書く。高さ20m、最大直径13cmに成長する。竹細工をはじめ建築材・庭園材料等、用途は広範囲である。花入、茶器、茶灼、蓋置、柄杓、茶筅、箸など茶の湯にかかわる竹はほとんど全て本種といってもよい。節は二輪状を呈する。深い青緑の稈を有し、まさに竹の緑の典型を示す。

(参考文献)
・「千家十職黒田正玄家の竹工芸-茶の湯工芸の伝統と創造―」(表千家北山会館)

表千家北山会館のHP
http://www.kitayamakaikan.jp/special/index.html

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November 02, 2008

薩摩焼―400年の伝統とパリを魅了した美―展

茶の湯ぶらり旅(第26回)

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「薩摩焼―400年の伝統とパリを魅了した美―」展を見るため、堺市立博物館に行って来た(写真)。本展は、日仏国交開始150周年を記念して開催されている。日本を代表し、諸外国でも評価の高い薩摩焼の発祥には、堺衆で茶道の大成者である千利休の影響が大きかったと言われていることから、千利休の誕生の地である堺で本展が開催されたことには大いに意味がある。本展で展示されている作品は、薩摩焼が世界に知られるキッカケとなった第二回パリ万国博覧会から140年を記念し、昨年パリ・フランス国立陶磁器美術館で開催された特別展「薩摩焼」に出品されたものがベースになっている。

ご存知の通り「薩摩焼は、朝鮮から連れて来られた陶工の技術によって始まったために陶工たちの出身地や陶歴の違い、各窯が藩主用であったか、庶民のための民需用であったかの性格の相違」(「薩摩焼―400年の伝統とパリを魅了した美」より[学芸員 : 山下廣幸筆])などによって、多くの種類の焼き物が生産されたという。本展では、このように多様な薩摩焼約160点を、次の6章に分けて展示している。

第一章「プロローグ」
第二章「豪華絢爛な薩摩焼」
―世界に雄飛・金襴手作品を中心に―
第三章「茶道の薩摩焼」
―重厚な味の茶道具・薩摩焼初期の茶道具を中心に―
第四章「白薩摩と黒薩摩」
―殿様と庶民のやきもの・民芸品としての薩摩焼を中心に―
第五章「磁器の薩摩焼」
―青白磁を見るような磁器。薩摩焼のうち磁器を中心に―
第六章「エピローグ」

今回はこの中から、第三章「茶道の薩摩焼」をご案内し、私が興味を持った茶道具5点をご紹介する。なお、写真と解説は、本展公式図録「薩摩焼―400年の伝統とパリを魅了した美」から引用した。

第三章の展示解説によると、「薩摩焼は慶長6年(1606)に開窯するが、九州の諸窯と同様に茶道界の新しい茶道具を求めてやまない時流に乗ったといえる。渡来した朝鮮陶工たちは、日本人好みを学ぶために陶業の先進地に出向き修行した。しかし、初期の薩摩焼茶道具は生産技術が未熟であったために生産量は極めて少なく、現存する作品は少ない。薩摩焼茶陶で残っているものは、肩衝、文琳、茄子、丸壺などの茶入で、これに次ぐのが茶碗である。薩摩焼茶道具の魅力は、その姿・形と釉薬をたっぷりと厚く掛けた重厚さである」との事。

① 「黒釉文琳茶入」(17世紀後半・銘 「望月」・高さ7.6cm、直径2.8cm)[東京国立博物館蔵]
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この茶入は、口縁部の捻り返しが浅く、上半分に十分に膨らみを持たせ、形姿を球形に仕立てた文琳(林檎)形である。黒釉が胴部半分で止まり、厚みのある釉たまりを作る。その釉の下からかすかにと刻線が見える。

② 「褐釉袴腰片身替茶碗」(17世紀・高さ8.0cm、直径10.2cm)[個人蔵]
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袴腰と呼ばれる茶碗は、腰を大きく張り、角を取って口辺に向かって絞られた碗の形と、高さのある高台が特徴となっている。このような茶碗の形は、現在4点ほど知られているが、薩摩焼以外にはあまり類例を見ない形である。朝鮮王朝(李朝)の祭器風の器や萩焼の茶碗に同様の形があると指摘されるが定かではない。

③ 「白釉蓮葉文茶碗」(17世紀後半・高さ8.9cm、直径11.9cm)[東京国立博物館蔵]
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この茶碗は白薩摩焼の茶碗の代表格として必ず紹介される。蓮の葉一枚で包むように形作られた茶碗は、轆轤成形した後、型で作ったものと考えられる。蓮の葉を具体的にやきものに写す技は、先に肥前の皿などの作品に見られる。

④ 「白蛇蝎(だかつ)釉」(17世紀後半・高さ8.0cm、直径12.4cm)[東京国立博物館蔵]
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この茶碗は、杉型(さんがた)の形で、口辺は厚く胴部は緩やかに三段のふくらみを持つ。釘彫りのある高台内は褐釉が塗られている。黒蛇蝎釉とは反対の釉掛けで、先に褐釉が掛けられた後に白濁釉を掛けて釉の伸縮率の差でうろこ状の表面が出来た。うろこ状の亀裂と、ガラス釉の亀裂である「貫入」が入り、色調の濃淡が生まれ、茶の湯の茶碗としての趣を持った。伝世品で他に二点同じ器形の茶碗が知られ、丸碗など異なる器形の白蛇蝎釉茶碗も何点か伝世している。

⑤ 「どんこ釉茶碗」(18世紀・高さ8.3cm、直径13.5cm)[個人蔵]
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蛇蝎釉やどんこ釉は、素地のうえに珪藻土などを釉薬に用いることによって、白釉や黒釉が厚く重ねられた作品が生まれる。ちなみに「どんこ」という名は、鹿児島の方言で蝦蟇(がま)のことであり、器の表面が蝦蟇の皮膚に似ているところから付けられたものである。

以上、第三章「茶道の薩摩焼」についてご紹介したが、「薩摩焼」の歴史やその魅力について知りたい方は、是非、本展覧会を訪ねて頂きたいと思う。なお、本展は11月9日(日)まで開催されている。ちなみに、この後「鹿児島県立歴史資料センター・黎明館」、そして「江戸東京博物館」を巡回する予定だ。

(参考文献)
・本展公式図録「薩摩焼―400年の伝統とパリを魅了した美」(薩摩焼パリ伝統美術実行委員会編集・発行)
・「茶の湯の名品茶碗」(矢部良明著)[東京美術刊]

堺市立博物館のHP
http://www.city.sakai.osaka.jp/hakubutu/150tokubetu.html

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November 01, 2008

蒔絵-宮殿を飾る東洋の燦めき展

蒔絵-宮殿を飾る東洋の燦めき展

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「蒔絵-宮殿を飾る東洋の燦めき展」を見るため、「京都国立博物館」に行って来た(写真)。ご存知のように、蒔絵は漆器の表面に漆で絵や文様を描き、その上に金粉などを蒔いて図柄を定着させる装飾技法で、漆の表面に金粉などを蒔くだけの「平蒔絵」や、文様部分の漆を盛り上げて浮き彫り状にする「高蒔絵」など、いろいろな種類がある。

このような蒔絵は、日本で独自に発展したもので、「16世紀までは一部の特権階級の調度を飾るものでした。その後、新興の武士たちによって日用品や建築物にも用いられるようになり、またちょうどその頃、日本にはじめてやって来た西洋人を魅了します。彼らはキリスト教の祭礼具や、それまでに日本になかった西洋式の家具を蒔絵するよう注文し、本国へ持ち帰ったり、他国へ輸出したりしました。17世紀初頭、禁教令によってスペイン・ポルトガル人が国外追放となり、海外に住む日本人も帰国を禁じられ、オランダと中国以外の船は公式には日本に寄港できなくなります。「鎖国」は幕末まで続きますが、その間も蒔絵は世界の王侯貴族に愛されました。しかし、この事実はまだあまり知られていません」(「NO.160 京都国立博物館だより」[永島明子筆]より)との事。また、遠く東洋からもたらされた贅沢な蒔絵は、富と権力の象徴であったことから、フランス王妃マリー・アントワネツトら王侯貴族は競って蒔絵を求め、宮殿を飾ったという。

本展では、輸出漆器の誕生と変遷について、またどのように愛好され伝えられたかについて、次の7つの章に分けて展示している。
第一章「中世までの蒔絵」
第二章「西洋人が出会った蒔絵―高台寺(こうだいじ)蒔絵―」
第三章「大航海時代が生み出した蒔絵-南蛮漆器」
第四章「絶対王政の宮殿を飾った蒔絵―紅毛漆器―」
第五章「蒔絵の流行と東洋趣味」
第六章「王公コレクションと京の店先」
第七章「そして万国博覧会」

本展では、国宝や重要文化財を含む約280点が展示されているが、今回はこの中から厳選、5点をご紹介する。なお解説と写真は、本展示解説と「NO.160 京都国立博物館だより」から引用した。

① 「浮線綾蒔絵螺鈿手箱(ふせんりょうまきえらでんてばこ)」[国宝](鎌倉時代・13世紀・東京サントリーDsc00028
美術館所蔵)[ 第一章「中世までの蒔絵」より]
鎌倉期には、手箱の優品が数多く制作されたが、これもその一つ。表面には有職文(ゆうそくもん)の一種である浮線綾が螺鈿と蒔絵の技法を用いて規則的に表されている。金粉を密に蒔き付ける「沃懸地(いかけじ)」の手法で飾られた、豪華な作品である。

② 「楼閣山水蒔絵コモド(ろうかくさんすいまきえコモド)・ベルナール・ヴァン・リザンブ2世作」(蒔絵パネル : 江戸時代・17世紀末、コモド : フランス・1755~58年頃・イギリス ヴィクトリア&アルバート美術館所蔵) [「絶対王政の宮殿を飾った蒔絵―紅毛漆器―」より]
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腰の高さの引き出し箪笥、18世紀のフランス宮廷では、紅毛漆器の箪笥や櫃を台に載せるだけの家具は時代遅れとなる。表面の蒔絵を厚さ数ミリだけ剥ぎ取り、ロココ様式の最新の家具に貼り付け、金銅製のマウントで飾り立てる方法が開発され、流行した。本品はルイ15世様式の典型例。

③ 「楼閣山水蒔絵ポプリ入れ」(蒔絵 : 江戸時代・17世紀末、マウント : フランス・18世紀・イギリス ロスチャイルド・ファミリー・トラスト ワデスドン・マナー所蔵) [「絶対王政の宮殿を飾った蒔絵―紅毛漆器―より]
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ロココの室内装飾では、磁器、貝、象牙、クリスタル、大理石などとともに、漆器も西洋の彫金細工を加えられ、華麗な飾り物に変身した。本品では、輸出用に作られた蒔絵の皿と壺を組み合わせ、芳香剤を入れる置物に仕立てている。

④ 「マザラン公爵家の櫃」(江戸時代・1640年頃・イギリス ヴィクトリア&アルバート美術館所蔵) [「絶対王政の宮殿を飾った蒔絵―紅毛漆器―より]
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マザラン公爵家は、ルイ14世の宰相マザラン枢機卿の姪の夫のために創設された。姪がこの櫃を枢機卿から相続したとされる。多妻かつ極めて緻密な蒔絵による木目、紗綾形(さやがた)、唐花唐草、石畳など何重もの縁取りの中に、風景や風俗をびっしりと描く。よくみると源氏物語の野分(のわけ)、蓬生(よもぎう)、胡蝶(こちょう)など、物語絵の断片がちりばめられている。左側面は賢木(さかき)をあらわす留守文様、右側面は曽我物語の藤の巻狩、背面は狩野派風の竹虎図である。技術的には、日本の国宝にも匹敵する輸出漆器のなかの最高級品。4年かがりの修復を終え、本展が初披露。

⑤ 「唐子ジャパニング書き物机」(フランス・1749~50年・フランス パリ装飾美術館所蔵) [第五章「蒔絵の流行と東洋趣味」より]
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ルイ5世の寵妃ポンパドール公爵夫人旧蔵の机である。東洋の漆では表現できない目の覚めるような青地に、梨地風の額縁をつくり、犬と戯れる唐子を描いている。日本の蒔絵をかなり忠実に再現するが、パリにも存在した犬だけは洋犬に変化しているのが面白い。

※「ジャパニング(ヴェルニ・マルタン)」について
17世紀末頃から蒔絵の流通量が激減し、もともと稀少で高価な蒔絵が、なお一層入手し難くなった。そこで登場するのが、西洋ニスによる模造品である。フランス語では「ヴェルニ・マルタン」という。「ヴェルニ」はニス、「マルタン」は18世紀のパリで活躍したニス職人一族の名。石膏に膠(にかわ)を混ぜて文様を盛り上げ、黒・赤の塗料を順に塗り、さらに金や青金風の彩色を施し、高蒔絵に似たものを作り出すのである。

これら以外にも、素晴らしい作品が多数展示されているので、蒔絵について色々と知るチャンスでもある。蒔絵や日本の美術に興味をお持ちの方は、是非ご覧になって頂きたい。本展は12月7日(日)まで開催されている。

「蒔絵-宮殿を飾る東洋の燦めき展」案内のHP
http://plaza.harmonix.ne.jp/~artnavi/10publicity/201207-kyohaku-makie/00kyohaku-makie.html
京都国立博物館のHP
http://www.kyohaku.go.jp/jp/index_top.html

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