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December 31, 2008

チュニジア一周の旅(準備編その2)

チュニジア一周の旅(準備編その2)

話は前後するが、チュニスはチュニジアの首都で、人口約170万人の北アフリカ屈指の近代都市だ。チュニスの中心部は、13世紀にイスラム都市として栄華を極めた旧市街「メディナ」と、1881年のフランス人支配以降に建設され、「メディナ」の周囲に広がる「新市街」からなる。「地球の歩き方 08~09 チュニジア」によると、「アラブの町としてのチュニスは、7世紀に起源をもつ。そのころ、ビザンチンを滅ぼしたアラブ帝国により、イフリキア(当時のチュニジアの呼び名)のアラブ化を目的に、市街地(現在の旧市街)は形作られていった。当時ティネスと呼ばれていた湖畔の小さな町には、やがてグランド・モスクが建ち、13世紀のハシフ朝時代にはイスラムの都として必要な建築物が次々に完成していく。ケロアン、マハディアに代わり首都として君臨し、栄華を極めたのはこの時代から。現在のメディナは、13世紀からの姿を今に残すと言われている」との事。スケジュール表をみると、チュニス観光では「メディナ」と「中央市場」を訪ねることになっている。

②「グランド・モスク(ジャマ・ジトゥーナ)」(写真 : 旅行会社の案内より)
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「メディナ」で見落としてはならないのが、「グランド・モスク(ジャマ・ジトゥーナ)」だ。「ジャマ・ジトゥーナ」とは「オリーブの木のモスク」という意味らしい。チュニスで一番の聖地とされ、古さでもケロアンのグランド・モスクに次いで国内2番目。698年に建設が始まり、9世紀のアグラブ朝時代に完成した。75×60mのモスクのホールに使用されている200本近い柱のほとんどが、カルタゴ遺跡のものを流用していると言う。なお、完成後も何世紀にわたり、ドームやファサード、ミナレット,回廊などが改修され、現在の姿になったのである。モスクの周囲には、マドルサと呼ばれる建物が建つ。コーランなどを教える学校やそこで学ぶ学生たちの宿舎として使用されている。時間があれば、こちらも訪ねてみたいと思う。

③「中央市場」

「メディナ」の東側にある「フランス門」から南に200mほど進むと、中央市場がある。ここでは、魚、野菜、果物、肉、スパイス、乾物、菓子、パン、オリーブなど、ありとあらゆる食品が並ぶチュニスの台所と言っても良い場所。この国の食文化を知るには、是非とも見たい所である。でも、貨幣博物館も見たいし・・・・・。

④「チュニジア中央銀行貨幣博物館」

博物館は、チュニジア中央銀行のヘッド・オフィスと同じ建物にあるようだ。「コングレス・ホテル」から南に2~300m程のところにある。開館時間は、火曜日から日曜日の午前9:30から午後4:30まで。入場は無料だ。ここを見学する時間はないかもしれない。その時は、博物館所蔵のコインを収録したカタログだけでも入手したい。古代、イスラム時代、現代の3分冊になっているようだ。もう少し遅くまで開いていれば良いのだが・・・。

チュニジア中央銀行
http://www.bct.gov.tn/bct/siteprod/francais/index1.jsp
貨幣博物館関連
http://www.tunisiaonlinenews.com/2008/11/29/new-state-of-the-art-%E2%80%9Cmoney-museum%E2%80%9D-retraces-2500-years-of-history/

http://aiiafrica.com/stories/200812050727.html


2.ドゥッガ

チュニスでの観光を終えると、次は「ドゥッガ」である。チュニスから南西へ105km、標高600mの丘の上に位置する。ローマ時代の都市遺跡が有名で、アフリカのローマ遺跡の中では、規模、保存状態とも最も良い遺跡の一つと言われている。1997年に、「アフリカを代表するローマ・ビザンチン複合遺跡」として世界遺産に登録された。「ドゥッガ」は、紀元前2000年頃にヌミディア人が住み始め、紀元前3世紀頃、一時カルタゴの領土になるが、紀元後46年にローマに敗れるまでヌミディア王国として栄えていた。ローマ時代も紀元2~4世紀に繁栄し、特にディオクレティアヌス帝の時代にはその頂点を極めたと言う。しかし、ヴァンダル人に支配された後は、徐々に衰退して行った。「ドゥッガの遺跡」の中でも、是非見たいのは「劇場」と「キャピトリン神殿」、そして「リビコ・プュニック(アテバン)霊廟」である。

① 「劇場」
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遺跡にある駐車場の、すぐそばにある。168年に建てられたこの「劇場」は、丘の斜面を利用して造られており、観客席は19段、収容人員は3,500人との事。現在も使われており、毎年7~8月になると、クラシック音楽のフゥスティバルが開催されていると言う。

② 「キャピトリン神殿」
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「ドゥッガ」の遺跡の中でも保存状態の良いものの一つで、マルクス・アウレリウスとルシウス・ベルスの時代に、地元の石灰岩を使って造られている。この神殿には、ユピテル(ジユピター)、ユノー(ジュノー)、ミネルヴァの3神が祀られていた。神殿を支える6本の円柱はコリント式で、神殿内部には3つの聖室(壁がん)があり、そこに神々の石像が飾られていたと考えられているようだ。

③ 「リビコ・プュニック(アテバン)霊廟」
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遺跡の南にある、北アフリカ様式の三層造りの塔。高さは21m。紀元前200年頃、ハンニバルとスキピオが争ったザマの戦いで、スキピオに加勢したヌミディアの長官、「アテバン」の遺骨を納めた霊廟だ。チュニジアにおけるローマ時代以前の建築物の中で、僅かに残ったものの一つのようだ。ちなみに、碑銘は1842年に英国領事のトーマス・リードが持ち帰ったため、現在はロンドンの大英博物館にあるとの事。

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これら以外にも、「マーケット」(写真左)や「アレクサンドル・セベルスの門」(写真中)、「風の広場」(写真右)など、見たい場所は数多くある。どの程度歩き回れるかが勝負?
 (※ : 「ドゥッガ」の写真はすべて次のHPから引用した)

ドゥッガに関するHP
http://i-cias.com/tunisia/dougga.htm

3.ケロアン

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「ドゥッガ」の観光が終わったら、「ケロアン」に向かう。「ドゥッガ」から南東約150kmにある街。この日はホテル「ラ・カスバ」に宿泊する(写真 : ラ・カスバのHPより)。ケロアン随一の5つ星高級ホテルだ。メディナの中にあるので、朝食前にメディナ観光をすることも出来そうである。ホテル到着は午後6:00を過ぎると予想されるので、到着後の観光は無理か。夕食はホテルのレストランで頂く予定。部屋はイスラム調で、素敵なインテリアの模様。期待したい。

ラ・カスバのHP
http://www.goldenyasmin.com/la-kasbah/fr/index.htm


(参考文献)
・「チュニジア」(チュニジア政府観光局・チュニジア大使館観光文化部)
・「地球の歩き方 08~09 チュニジア」(地球の歩き方編集室編)[ダイヤモンド・ビッグ社]
・「素晴らしい世界の国々 ガイドシリーズ2 チュニジア」(ビッグボーイ編集部編)[楽天舎書房]

チュニジア国
http://www.ministeres.tn/
チュニジア政府観光局
http://www.tourismtunisia.com/
チュニジア大使館
http://www.tunisia.or.jp

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December 30, 2008

100億ディナール紙幣と謎の黄金の紙幣

貨幣ぶらり旅(第146回)

JR大阪駅・大丸梅田店で開催されていた「切手・コインバザール」に行って来た。最終日の午後から訪れたので、お客も少ない。このような時の方が、商品をジックリ見ることができるうえ、店主ともユックリお話しできるので、私にとっては嬉しい。特に欲しいものがあったわけではないのだが、色々と見せてもらっている中から、今回は次の2点を購入した。

一つは「100億ユーゴスラビアディナール紙幣」、もう一つはアンティグア・バーブーダの「30東カリブ・ドル紙幣」である。前者は、以前このブログでご紹介した(平成20年12月18日付「一千億ジンバブエ・ドル紙幣」)ゼロの多い紙幣コレクションに加えるために購入したのだが、後者は黄金の紙幣で、かつ発行国がアンティグア・バーブーダと、これまでに調べたことのない国だったという理由で入手したのである。以下、それぞれの紙幣について、お話しする。

① 「100億ユーゴスラビアディナール紙幣」

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この紙幣については、あまりコメントする必要はないかもしれない。ご存知の通り、1918年に成立したセルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国(セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国)が始まり。1929年にユーゴスラビア王国と改め、1945年にはユーゴスラビア連邦人民共和国に変更された。1991年から始まったユーゴスラビア紛争により解体され、その後も連邦に留まったセルビアとモンテネグロにより1992年ユーゴスラビア連邦共和国が結成されたが、2003年には緩やかな国家連合に移行し、国名をセルビア・モンテネグロに改めた。この時、ユーゴスラビアという名の国家は消滅した。さらに2006年、モンテネグロが独立したため、旧ユーゴスラビア連邦は、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの六つの独立国になった。なおセルビアについては、コソボ問題が残っている。

今回ご紹介する紙幣は、ユーゴスラビア連邦共和国時代の1993年に発行されたもので、表面は電気技師で発明家の「ニコラ・テラス」の肖像が描かれ、裏面には彼が発明した交流電磁誘導の様子がデザインされている。1991年から始まった紛争により解体した後のユーゴスラビア経済は、ハイパーインフレに悩まされ、1993年10月1日に100万分の1の通貨切り下げが行われたが、ハイパーインフレは収まらず、3ヶ月後の1994年1月に10億分の1の通貨切り下げが行われるも、僅か1ヶ月でまたもや通貨切り下げが必要になったのである。本紙幣が発行された時は最高額面であったが、すぐに5,000億ユーゴスラビアディナール紙幣が発行された。ちなみに、これらの紙幣の寿命は1か月にも満たない。同月24日にはデノミが行われ、新紙幣である「ノビ(新)・ディナール紙幣」が発行された。

② アンティグア・バーブーダ「30東カリブ・ドル紙幣」

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この紙幣については、全く予備知識なく手に入れたもの。アンティグア・バーブーダという国名も初耳であった。貨幣商の店主に尋ねても、カリブ海に浮かぶ島国の一つということしか知らず、同国の通貨に関する知識もゼロ。しかしこのような紙幣について調べるのも楽しみの一つである。


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アンティグア・バーブーダは、カリブ海東部の小アンティル諸島に位置するアンティグア島、バーブーダ島、無人のレドンダ島からなる英連邦王国の一つ(写真 : 世界地図・成美堂出版より)。人口は約8万人、国土面積は442平方キロメートルで種子島とほぼ同サイズ。主要産業は観光業。経済構造を見ると、恒常的な貿易赤字を観光収入で埋めていると言っても過言ではない。通貨は東カリブ・ドル(以下「EC$」とする)で、「US$1.00 = EC$2.65」の米ドルペッグ制を採っている。「1EC$ = 100 cents」。紙幣は100、 50、 20、 10、 5 EC$の5種類、コインはEC$1と 25、 10、 5、 2、1 centsの6種類(写真 : 東カリブ中央銀行のHPより)が発行されている。OnedollarQuarterTencentFivecentTwocentOnecent

東カリブ・ドル(East Caribbean dollar・ EC$)紙幣は、「東カリブ中央銀行」の銀行券。この銀行は、東カリブ通貨機関の後継として設立されたため、東カリブ・ドルは西インド連邦諸国で使われていた西インド諸島ドルの後継の通貨と言える。現在、アンティグア・バーブーダ、ドミニカ国、グレナダ、セントクリストファー・ネイビス、セントルシア、セントビンセントおよびグレナディーン諸島、英領アンギラ、英領モントセラトの6独立国、2英領の中央銀行として機能し、セントクリストファー・ネイビスにヘッド・オフィスを置く。

以上で、全く分からなかった紙幣についての概要は掴めてきたが、肝心の本件黄金の紙幣については良く分からないのだ。Krauseの「Standard Catalog of WORLD PAPER MONEY・1961-Date」を見ても、通常紙幣以外の「COLLECTOR SERIES」の項の「GOVERNMENT OF ANTIGUA AND BARBUDA」に、「1983ND ISSUE」と「1985ND ISSUE」とあり、それぞれに「30DOLLARS」とあるだけ。本紙幣のデザインを見ると、「サンゴ礁と熱帯魚」と言った雰囲気。カタログでは、「花・動物」、「動物・植物」のデザインのものが各々10~12種類ほど発行されているようなのだが、詳しくは書かれていない。私の持つ数百冊の貨幣関連の籍の中から、該当しそうなものに当たってみるが、結局分からず。今回はここまででギブアップ。詳しいことをご存知の方がおられましたら、教えてください。

(参考文献)
・「Standard Catalog of WORLD PAPER MONEY・1961-Date」(Krause)

東カリブ中央銀行
http://www.eccb-centralbank.org/
アンティグア・バーブーダ
http://www.antigua-barbuda.org/index.htm

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December 29, 2008

チュニジア一周の旅(準備編その1)

チュニジア一周の旅(準備編その1)

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旅行の楽しみは、人によってそれぞれ違う。食べ物に興味を持つ人や草花や自然に関心のある方、美術や建築に魅力を感じる人など、これまで旅でご一緒した方たちを見ていても、色々なタイプに分かれる。息抜きのため、何となく素敵なところだからと言って出かけてくる方もいる。「綺麗!」、「素敵!」、「大きい!」、「美味しい!」と言った感動を味わうだけでも、十分旅に出た価値はある。しかし、自分の興味のあることを事前に十分下調べをした上で旅に出ると、その楽しみは何倍にも膨らむ。「あれを見てみたい」とか、「ここが分からない」、「そこはどのようになっているのだろうか」など、チェックポイントがあれば、ますます楽しくなる。また、訪れる先に関する基礎知識があれば、ガイドの話を聞いていても理解しやすいうえ、さらなる疑問も提示できる。そこで、次に行く旅の準備を始めることにした。今度の旅を、これまで以上充実したものとするために。

旅行会社から受け取った日程は、次の通り(写真 : 旅行会社のHPより)。
第一日目
関空→パリ→チュニジア・チュニス
第二日目
チュニス→ドゥッガ→ケロアン
第三日目
ケロアン→スベイトラ→タメルザ
第四日目
タメルザ→メトラウイ→観光列車レザー・ルージュ→セルジャ→メトラウイ→4WD・タメルザ峡谷→タメルザ
第五日目
タメルザ→トズール→ショット・エル・ジヨリド→ドゥーズ
第六日目
ドゥーズ→ラクダ・サハラ砂漠→マトマタ→スファックス
第七日目
スファックス→エル・ジェム→スース→ハマメット
第八日目
ハマメット→ナブール→ケルクアン→チュニス
第九日目
チュニス→カルタゴ→シディブ・サイド→チュニス
第十日目・第十一日目
チュニス→パリ→関空


Ⅰ.第一日目「関空→パリ→チュニジア・チュニス」と第十日目・第十一日目「チュニス→パリ→関空」

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飛行機はエールフランス。「関空-パリ」間で使用する機材は「B777-300」(写真左 : エールフランスのHPより)、「パリーチュニス」間で使用する機材は「A321」(写真中 : 前出HPより)だ。今回もビジネスクラスを利用するので、すでに座席は決まっている。シートは、長さ2m、幅50.8~61cm、リクライニング180度(写真右 : 前出HPより)なので、ゆったりとした旅を楽しめそうだ。エールフランスは、2年前スペインに行く時に利用して以来である。前回の記録を見ると、「関空→パリ」間の食事は、「栗と鴨フォアグラのテリーヌ」、「アプリコットといちじくのチャツネ」、「ゴートチーズトマトケーキとルッコラ、バルサミコヴィネグレット」、「ボルドー産の白ワイン」、メインの「牛すき焼き」、デザートは「洋梨のタルト」で、帰りの「パリ→関空」間は、「栗と鴨フォアグラのテリーヌ」、「アプリコットといちじくのチャツネ」、「ゴートチーズトマトケーキとルッコラ、バルサミコヴィネグレット」は行きと同じだが、メインは和風スペシャルの「舌平目の蟹餡かけ」、デザートは「レモンメレンゲケーキ」であった。前回は美味しくいただけたので、今回も大いに期待したいところだ。

エールフランス
http://www.airfrance.co.jp/

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初日はチュニスの「コングレス・ホテル」に泊まる。最近まで「アブワナス・チュニス」という名前だったようである。ショッピングアーケード、プール、フィットネスクラブや4つのレストラン・バーを備える五つ星のホテルだ。到着は真夜中になるので寝るだけだが、風呂とベッドの快適さに期待したい(写真 : コングレス・ホテルのHPより)。

コングレス・ホテル(旧アブ・ナワス・チユニス)
http://www.abounawas.com

Ⅱ.第二日目「チュニス→ドゥッガ→ケロアン」

1.チュニス

朝からチュニス観光の予定だ。訪ねる順番は分からないが、スケジュール表では「バルドー国立博物館」と「メディナ」、「中央市場」に行くことになっている。宿泊しているホテルの近くに「チュニジア貨幣博物館」があるので、ぜひ訪ねたいところだが、チュニスの中心から少し離れたところにある「バルドー美術館」も見逃せない。「メディナ」や「中央市場」を観光する時にうまく時間が使えれば「貨幣博物館」にも行けそうな気がするが、ギリギリか。添乗員と現地ガイドに要相談である。

① 「バルドー国立博物館」(写真左 : ウィキペディアのHPより)
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チュニス市の中心から西へ約5km、3月20日通りに面して建つ。この建物は、オスマン帝国がチュニジアを統治していた時代の地方長官、アラウイ・ベイの元宮殿で、1881年にフランスがチュニジアを保護領にした「バルドー条約」はここで締結された。フランス統治下の1888年、「アラウイ博物館」として公開され、1956年のフランスからの独立を機に「バルドー博物館」と改められた。元宮殿だけに、内装は超豪華(写真中 : tripadvisorのHPより)。博物館では有史以前からの貴重な出土品や美術品の数々が時代別・テーマ別に展示されており、「チュニジアのルーブル」と呼ばれている。なかでも、「バルドー博物館」の名を世界に知らしめているのは、ローマンモザイクのコレクションである(写真右 : 前出HPより)。

北アフリカのモザイクについては、二つの流れがあり、ひとつはアレクサンドリアやトリポリ地方を経てきた中東の流れ、もうひとつはギリシャやイタリアのヘレニズム様式の流れだ。また、展示されているモザイクを見ると、カルタゴ時代、ローマ時代、初期キリスト教時代に分かれ、それぞれに特徴がある。カルタゴ時代のものはシンプル。ローマ時代のものは色彩豊かで、ギリシャ神話や農耕・牧畜などがテーマとなり、初期キリスト教時代には教会堂の床面や洗礼槽、墓碑の装飾などに使われるようになる。有名な作品として、「ヴェルギリウスの肖像」や「ユリウス卿のモザイク」、「ネプチューンの勝利」などがあるので見逃せない。

この博物館の見学に、どの程度の時間を取ってくれるのかは分からないが、モザイクコレクションだけでもしっかり鑑賞したいと思う。

バルドー国立博物館
http://www.informatique-tunisie.com/museebardo/index.htm
http://www.musee-bardo.art.dz/
ウィキペディア(バルドー国立博物館)
http://fr.wikipedia.org/wiki/Mus%C3%A9e_national_du_Bardo_(Tunise)
tripadvisor(バルドー国立博物館)
http://www.tripadvisor.fr/Attraction_Review-g293758-d472648-Reviews-Bardo_Museum_Le_Musee_National_du_Bardo-Tunis.html

(参考文献)
・「チュニジア」(チュニジア政府観光局・チュニジア大使館観光文化部)
・「地球の歩き方 08~09 チュニジア」(地球の歩き方編集室編)[ダイヤモンド・ビッグ社]
・「素晴らしい世界の国々 ガイドシリーズ2 チュニジア」(ビッグボーイ編集部編)[楽天舎書房]

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December 28, 2008

来年は何をしようかな?

来年は何をしようかな?

今年も今日を除くと、残り3日になった。振り返ってみると、忙しく動き回った割には、形にして残せたものはない。少し興味が広がり過ぎたのかもしれない。子供のころからの悪い癖で、一つのことをやり遂げてから次に進めば良いのだが、次から次へと関心のあることに手を広げてしまい、当初考えていた処になかなか行き着けないのだ。しかし当初の目的は忘れていないので、いつの間にか元のテーマに戻っていることもある。時間には限りがあるので、このようなことを続けていると、結局何も完成しないのではないかと思いつつ、「楽しいのだから仕方がない」と自分に言い聞かせている。

今年訪れた先は、次の通り。

1月
京都国立博物館「憧れのヨーロッパ陶磁―マイセン・セーブル・ミントンとの出会いー展」
裏千家茶道会館「新春の遊びカルタ」展
千利休屋敷跡
今井屋敷跡
竹野紹鴎の屋敷跡
南宗寺(竹野紹鴎・千利休ゆかりの寺)
堺市博物館「常設展」
堺市茶室「伸庵」「黄梅庵」
堺市日本庭園
岡山デジタルミュージアム「インカ・マヤ・アステカ展」
京都・細見美術館「芦屋釜の名品展」
第42回非公開文化財特別公開「知恩院」
ニュージーランドの旅10日間

2月
岡山県立美術館「人間国宝・荒川豊蔵展」
愛知県犬山市「国宝茶室・如庵」
犬山城
名古屋松阪屋本店「小堀遠州・美の出会い展」
三菱UFJ貨幣博物館「常設展」

3月
堺市立東文化会館「北大路魯山人と岡本太郎展」
キプロス・マルタの旅10日間
マルタ中央銀行の貨幣博物館
マルタ国立考古学博物館
大阪高島屋グランドホール「NHK・美の壺展」

4月
晴明神社・千利休屋敷跡
楽美術館「春期特別展 : 楽家の系譜・歴代の名品」展
京都御所一般公開
京菓子博物館
大西清右衛門美術館(常設展示)
湯木美術館「平成20年<春季展>・茶碗を愉しむ」

5月
大阪府立狭山池博物館
堺市立東文化会館「おもちゃと模型のワンダーランド展」
久保惣美術館「特別陳列・美との出会いー久保惣コレクションの名品―」展
大阪府立弥生文化博物館「もっと知りたい弥生のくらし」展
池上曽根史跡公園
高松塚古墳
石舞台
大阪府立近つ飛鳥博物館「近つ飛鳥と渡来人―よみがえる一須賀古墳群―」展
大阪市立博物館「聖徳太子ゆかりの名宝展」
藤田美術館「茶―茶人と道具」展

6月
スイス・フランス・ルクセンブルク・ベルギーの旅9日間
ローザンヌ・オリンピック博物館
コルマール・ウンターリンデン美術館
ルクセンブルク国立銀行貨幣博物館
ルクセンブルク国立歴史・美術博物館
ブリュッセル市立博物館
ブリュッセル・ビール博物館
ベルギー国立銀行貨幣博物館
ブリュッセル・オルタ美術館
ブリュッセル・サンカントネール博物館
サントリーミュージアム・天保山「ガレとジャポニズム」展展
神戸市博物館「ルーブル美術館展・フランス宮廷の美」

7月
国立国際美術館「モディリアーニ展」
茶道裏千家第16代家元・千宗室講演会「一期一会」
第6回大阪コインショー

8月
ドイツの旅10日間
ミュンヘン・アルテピナコテーク美術館
ミュンヘン・州立貨幣博物館
ミュンヘン・レジデンツ博物館
レーゲンスブルク・帝国議会博物館
ローテンブルク・中世犯罪博物館
ハイデルベルク・プファルツ選帝侯博物館
ハイデルベルグ・ドイツ薬事博物館

10月
神戸市立博物館「コロー―光と追憶の変奏曲―展」
造幣博物館「常設展」
海遊館
尼崎信用金庫博物館・コインミュージアム
久保惣美術館「香炉―東アジアの香りの文化をたどる―」
大阪高島屋「大黄金展」
堺市立東文化会館「大正ロマン・昭和モダン展-竹久夢二・高畠華宵とその時代―」
和歌山市博物館「知られざる紀州の大和絵師-岩瀬広隆」展
東洋陶磁美術館「酒器に酔う―東アジアの酒文化」展
香雪美術館「茶の湯展 古儀茶道・藪内流」展
表千家北山会館、「千家十職・黒田正玄家の竹工芸展」
野村美術館「野村美術館開館25周年記念・館蔵名品展」
湯木美術館「茶道具と器にみる四季の花展」
北村美術館「平成20年秋季特別展・深秋のころ」
京都国立博物館「蒔絵-宮殿を飾る東洋の燦めき展」

11月
堺市立博物館「薩摩焼―400年の伝統とパリを魅了した美―」展
宮島・厳島神社宝物館「常設展」
宮島・厳島神社収蔵庫「厳島神社・秋の名品展」
鞆の浦・「保命酒資料館」
紅久庵「第三回・世界の”茶”文化セミナー : 古今伝授をめぐって」
方違神社
履中天皇陵
滴翠美術館「秋季 茶碗展 ~国焼を中心に~」
藤田美術館「渡来した陶磁器~茶人たちが愛した器たち~展」
備前焼陶磁会館
備前焼資料館
天保窯
堺歴史文化交流会議2008公開シンポジウム
ニュージーランド料理教室

12月
愛知県陶磁資料館「海のシルクロードの出発点”福建”」
瀬戸蔵ミュージアム
大阪市立美術館「国宝・三井寺展」
国際ふれあいの集い

前回の金融危機のころ、預貯金や証券投資は危ないと思い、金地金や金貨を購入し始めた。しかし、地金型の金貨を購入しているうちに、収集用の金貨にも興味を持ち始めた。子供のころ、切手やコインの収集をしていたので、すぐにのめり込んだ。コイン商を訪ね、コインショーを見に行き、色々な大型金貨を集めた。しかし子供のころと違うのは、ただ集めるだけでは満足できないことだ。この金貨はなにか? なぜその時代にこの金貨が発行されたのか? 他の国はどうだったのか? 金貨はいつ頃から貨幣とされたのか? 銀貨との関係は? 金本位制とは? なぜ中国では長く銀が流通していたのか? など等、色々な疑問がわいてきた。コインに関する書籍類を読み始めるが、歴史についての知識が乏しいため十分に理解できないことが分かり、高校・世界史の教科書を入手して読むが、経済についてはあまり詳しく書かれていない。次に経済史のテキストなどで勉強を始めるが、貨幣との関係については十分に論じられていない。そこで、ヨーロッパ各国にある貨幣博物館を訪ねることにした。ここ数年で25カ国程を廻り、30か所以上の貨幣に関連する博物館を訪れ、資料や書籍を入手した。しかし、ツアー旅行で海外に行っているので、当然、観光もする。大聖堂やモスク、美術館や博物館、遺跡や城などを見ているうちに、美術や建築にも興味が湧いてきた。そして豪華な美術品や建築物を見ていると、その裏には必ずお金が付いて廻っていることに気が付いた。貿易で儲けた富、戦争で略奪した富など、色々な方法で手に入れているが、富=金がなければ、豪華な美術品や建築物は残らない。税金を重くし過ぎて破綻する国、追放されたり首を切られる王なども出てくる。宗教画や写実的な肖像画を描いたのも、生活のため。音楽も同じだ。作曲家のヘンデルもバブルもバブルの被害者。“メサイヤ”が売れたおかげで助かったのである。さらにヨーロッパと石見の銀、伊万里焼、ジャポニズムなどとのつながりを考えると、日本の歴史も振り返らないわけにはいかない。西洋美術について知りたい、日本美術・東洋美術について知りたい、建築について知りたい、やきものについて知りたい、茶の湯について知りたい、茶道具に付いて知りたい、お茶の歴史について知りたいなど等、知りたいことはどんどん増えていく。ヨーロッパの地中海貿易やバルト海貿易、ハンザ同盟はどうだったのか? 大航海時代とはどのような時代だったのか?

今の私には、知りたいことが山のようにある。しかし今年と同じようなことを続けていると、それこそ収拾がつかなくなるのではないだろうかと心配している。これまでに集めた書籍や資料で目を通していないものも数多くあるので、来年はこれらを整理しようかとも考えている。でも、来月早々に海外に出かけることにしているので、こちらの下調べもしなければならない。この調子では、来年も今年と同じパターンになってしまう・・・・・。


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December 23, 2008

年賀状投函

年賀状投函

本日、ようやく年賀状を書き終えた。もう少し早くから書き始めればよいのだが、あまり早く書くと、喪中はがきが来て、せっかく書いた年賀状がボツになることもあるので、いつも12月中旬頃まで待ってから書き始める。毎年100通程度書くのだが、結構時間がかかる。裏面のデザインと住所・氏名は印刷するが、宛名は手書きで、裏面には必ず2~3行のコメントを添えるようにしているからだ。一人ひとりの顔を思い出しながらコメントを考える。年にたった一度の年賀状だが、この交換が続いていると、数十年会っていない人とも、最後に会った時から時間的につながっているように感じられるから面白い。

例えば数か月前、数十年の間、年賀状だけのお付き合いであった学生時代の友人の一人から連絡を頂いた。彼を中心に、年賀状の交換を続けている学生時代の友人で集まろうとの提案であった。全員が即座に彼の呼びかけに賛同し、今年は3回集まりが開かれ、私も2回参加した。最初に参加した時は、卒業した大学とその近辺を歩いて廻るという企画。もう一度はお昼時に鍋を囲んだ。どちらも数十年会っていなかったとは思えない楽しい雰囲気。皆さん、お勤め先では立派な肩書を持った人なのだが、そんな素振りは全くない。みんな20歳前後の若者に戻っていた。彼の呼びかけに全く違和感なく賛同出来たのも、年賀状で繋がっていたおかげか。

ところで、毎年100通程度書いている年賀状だが、少しずつ出す相手は変わっている。新しく年賀状を出すようになるのは、旅先やセミナーなどの行事に参加して知り合った人たちだ。そして出さなくなるのは、3年間返事のなかった人である。どうしているのかと思いながらも、3年間返事がないと無理に連絡はとらず、私も年賀状を出すのを止めてしまう。この時に思うのは、父が亡くなった年のことである。父は非常に整理の良い人だったので、残された名簿を元に喪中はがきを出す事が出来た。だが、それでも新年になると、名簿に載っていない人から、父宛に年賀状が届いた。もちろんすべて御返事をさせて頂いたが、ここで遺族が最後の連絡を出さないと、どうしているのだろうと言うことになってしまう。

最近は年賀状を出す人の数が減っていると聞くが、知人・友人とのつながりを持ち続けることが出来る年賀状は、これからも続けていきたいと思う。そういえば、今使っている名簿は加除訂正が多く、私だけが分かるものになっているので、これを早急に作り直さねばならない・・・。

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December 19, 2008

瀬戸蔵ミユージアム(下)

茶の湯ぶらり旅(第39回)

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次は3Fに上がり、私が最も関心を持っている瀬戸焼の歴史に関する展示を見た(写真)。「愛知県陶磁資料館」の展示も充実していたが、瀬戸焼に絞った展示は少なかったので、ここでの私の期待は大きかった。以下展示解説を中心にご紹介する。

Ⅰ.瀬戸焼の歩み
瀬戸でやきものの生産が開始されたのは、10世紀後半、平安時代中期です。ここでは、瀬戸窯の母体である猿投窯の生産起点とし、発掘資料を中心に、瀬戸焼の生産器種及びその構成が、内外の影響を受け、それぞれの時代にどのように展開そして変化していったのかを辿ります。

1.それは猿投(さなげ)から始まった―瀬戸窯前史―

瀬戸焼の起源は、名古屋市東部の東山丘陵で5世紀後半須恵器生産が開始された猿投山西南麓古窯跡群(猿投窯)に求めることが出来ます。須恵器は、日本の窯業史のなかで本格的な窯炉を用いて高火度で焼成した最初のやきもので、大陸からの技術導入によって大阪の陶邑窯(すえむらよう)や猿投窯等で生産が行われました。 猿投窯では、8世紀中ごろの意図的に自然釉がかかるようにした原始灰釉陶器の段階を経て、9世紀には日本で初めて植物の灰を釉薬とした灰釉陶器の生産が本格化します。これは、同じころに生産の開始された緑釉陶器の施釉技術等の影響があると言われています。灰釉陶器は、白色緻密なこの地域特有の良質な陶土を高火度で焼きあげた硬質陶器で、東海地方の特産物として全国各地にもたらされました。

2.瀬戸窯の産声―灰釉陶器生産瀬戸へ―

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10世紀に猿投窯が南の知多半島、東の三河等の地域に窯場を拡散していく中で、北隣の瀬戸にも10世紀後半から灰釉陶器を生産した窯が築かれます。この時期の灰釉陶器は、それまでのような全国各地へは供給されず、近隣地域向けの生産に変化しています。また、量産化に伴い簡素化・粗雑化が進み、生産機種も碗・皿類主体となります。また、緑釉陶器の素地も瀬戸窯で出土しており、その生産への関与が窺われます(写真 : 灰釉縄手付瓶・なわてつきへい)。

3.山茶碗(やまぢゃわん)―東海中世窯業の基盤―

猿投窯始め東海地方の窯業地では、11世紀終わりころにはほぼ一斉に施釉技法を放棄します。この時生産された無釉の碗は「山茶碗」と呼ばれ、無釉の小碗(後に高台の無い小皿に変化)や片口鉢とともに近隣地域向けの日常食器として量産されました。瀬戸では12世紀後半に施釉陶器(古瀬戸)が登場した後も並行して焼成され、鎌倉・室町時代の窯業の基盤をなしました。山茶碗には、素地のきめが細かく東濃地域を中心とした地域で生産された東濃型(均質手 : きんしつて)と、素地のきめが粗く尾張地域を中心とした地域で生産された尾張型(荒肌手 : あらはだて)などがあります。

4.山茶碗と古瀬戸(古瀬戸前期)―中世唯一の国産施釉陶器のはじまり―

12世紀後半から13世紀初め頃には、瀬戸では山茶碗とともに、四耳壺・瓶子・水柱を中心として、灰釉陶器とは異なった新たな施釉陶器(古瀬戸)の生産が開始されました。鎌倉時代初めのこの時期、都市鎌倉や東海地方の寺院からの瓦・仏具・蔵骨器などの需要が高まりました。古代の猿投窯から分派・成長した中世の瀬戸窯・猿投窯・知多窯・渥美窯・湖西   窯などでは、これらの需要に応じそれぞれ特色ある製品を生産しています。なかでも、瀬戸窯は国産唯一の施釉陶器生産地として歩み始めたのです。

5.東アジア陶磁器等の古瀬戸への影響(1)―中国宋代ほか―

古瀬戸前期製品には北宋・南宋代の龍泉窯青磁碗や汀渓窯(ていけいよう)はじめ福建民窯白磁四耳壺・水柱・景徳鎮窯青白磁梅瓶・合子(ごうす)・水滴・福建磁灶窯盤(じそうようばん)、朝鮮半島の高麗青磁瓶子(へいし)等中国や朝鮮半島の製品に酷似するものが多く見られます。また、火舎香炉(かじゃこうろ)・水瓶(すいびょう)・六器(ろっき)・仏具(ぶぐ)・仏餉鉢(ぶっしょうばち)と言った金属製密教法具類似の製品も古瀬戸前期の中でも初期を中心に見られます。古瀬戸は、輸入陶磁器や金属器の高級調度品を補完する代替品生産から成長の緒に着きました。

6.陶祖藤四郎(とうしろう)伝説

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瀬戸には古くから陶祖藤四郎(加藤四郎左衛門景正)による開窯伝説があります。藤四郎については、僧道元に従って中国に渡航し、陶法を学んで帰国した後の1242(仁治3)年に良土を発見し瀬戸に窯を開いたとする伝承が一般的です。一説には、12世紀末から13世紀初め頃の作陶に関するものもあり、考古学的な古瀬戸成立期と時期的に符合するのは興味深いことです。しかし、中国磁器との技術的系譜は不明で、謎の多い伝説と言えます。
(写真 : 鉄釉四耳壺・藤四郎作)

7. 山茶碗と古瀬戸(古瀬戸中期)―鉄釉の開始と多様な文様―

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13世紀終わり頃になると、灰釉に加え鉄釉を施すものも見られるようになります。開始期の鉄釉製品は、緑色の強いものから赤褐色になるものまでさまざまで、鉄分の調合比や焼成方法について暗中模索していた状況がうかがわれます。また、印花文(いんかもん : スタンプ)・貼花文(ちょうかもん : 貼り付け)・画花文(がっかもん : ヘラ描き)などの文様を多く用いるのも中期の特徴です。前期からの器種に加え、高炉・燭台等の新たな仏具、天目茶碗・茶入れ・茶壺などの喫茶具、内耳鍋(ないじなべ)などの調理具が新たに加わり、碗・小皿・盤類の生産が盛んになります(灰釉瓶子口水注・へいしぐちすいちゅう)。

8. 東アジア陶磁器等の古瀬戸への影響(2)―中国元代ほか

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多様な文様が器面いっぱいに描かれる古瀬戸中期製品には、当時の最高輸入調度品であった元代の景徳鎮窯産青白磁梅瓶や龍泉窯産青磁酒会壺(しゅかいこ)・盤・褐釉陶器仏花瓶(ぶっけびょう)等にみられる牡丹唐草文等の影響がみられます。また、天目茶碗は、中国建  窯の黒釉盞(さん : いわゆる「建盞」(けんさん))を写したものです。禅宗とともに日本にもたらされた喫茶の習慣が、僧侶や武士階級を中心に広まったことにより、天目茶碗を始め茶入れ・茶壺などが瀬戸で生産されるようになりました(写真 : 鉄釉天目茶碗)。

9. 山茶碗と古瀬戸(古瀬戸後期)―生活用具中心の多器種生産―

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14世紀後半以降には山茶碗の生産量は激減する一方、碗・小皿類をはじめとする古瀬戸の器種が多様になります。中期までの輸入陶磁器を写した「見せる」製品主体から、後期には「使う」製品が重視され、供膳具(きょうぜんぐ)・調理具等の生活用具が生産の中心となります。また、明の海禁政策により、一時期中国陶磁器の輸入量が減少しました。こうした状況下で、古瀬戸は多様な日常生活用具の生産を背景に需要層を広げ、全国各地の都市や港湾、領主の居館等に広く流通するようになります。なお、後期の終わり近くには、一時的に瀬戸窯では窯跡が見られず、いわゆる「古瀬戸系施釉陶器窯」が東濃窯や藤岡窯等に見られる時期があります。これは瀬戸窯の施釉陶器技術が周辺領主の誘致によって国境を超え拡散したとする説が一般的ですが、後期末には再び施釉陶器生産がほぼ瀬戸窯のみに集中することから、工人集団が在地領主の非法に対し一時的な抗議行動を起こしたとする説も有力です(写真 : 灰釉平碗)。

10.大窯の時代(大窯前半)―「大窯」という少器種量産体制―

15世紀終わり頃には、窯構造が地上式の「大窯」となり、焼成室の容積が増大しました。それまで多器種であった古瀬戸の生産から、茶道具である天目茶碗、供膳具である小皿類、調理具である擂鉢の3機種を中心とした生産に変わり、特定少器種量産体制に入りました。また、古瀬戸の末期には瀬戸のみであった施釉陶器生産がこの時期には美濃などにも見られるようになります。この頃は、日本各地で城下町建設と領国整備が行われ、日本海や瀬戸内海における海運の隆盛にみられるように、国内外の広域な物流ネットワークが進展しました。このため、輸入陶磁器を含めた陶磁器需要・流通の規模が拡大し、いわゆる六古窯をはじめとする国内の窯業地では、各々独自の「大窯」が築かれ、瀬戸・美濃窯同様少器種量産の傾向が見られます。

11.東南アジア陶器等の大窯への影響―中国元~明ほか―

大窯前半の製品は、擂鉢(すりばち)以外のほとんどの器種に大陸からの影響が認められます。天目茶碗は国内に伝世した元代の建窯産「建盞(けんさん)」や「灰被(はいかつぎ)」天目を、灰釉丸碗は明代の龍泉窯青磁を、灰釉端反皿(はそりざら)・丸皿は景徳鎮窯産の染付(青花)・白磁を、鉄釉祖母懐茶壺(そぼかいちゃつぼ)は褐釉陶器を、鉄釉平碗や徳利は朝鮮王朝陶器を写し、茶陶を中心とした嗜好性の強い陶磁器需要の高まりを示しています。また、焼締建水は中国等で生産された金属器を写しており、備前窯や丹波窯でも同様な焼き締め陶器が生産されました。

12. 大窯の時代(大窯後半)―窯場美濃へ―

16世紀からの大窯後半期は、瀬戸では窯場が不明で、美濃に集中します。丸碗向付(まるわんむこうづけ)等に施される黄瀬戸釉や、筒型茶碗等に用いられる引出黒(ひきだしぐろ)の技法が完成し、17世紀初めには長石釉を用いた志野製品や鼠志野の掻き落とし技法、変わり黄瀬戸の象嵌技法も登場しました。このように成形・施釉技術が一気に進展し、伝統的窯業技術の大半が出揃う桃山時代には、天目茶碗や小皿類などの量産器種に加え、多様なデザイン・装飾性の高い器物が施行された「桃山陶」というスタイルが確立します。

13.桃山陶のトレンド

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大窯後半の志野釉の施された向付(むこうづけ)や皿・大鉢などには筆書きによる鉄絵が多く見られます。絵画を器面に描くことは日本の陶磁史上では画期的な出来事と言えます。これには中国漳州窯産の染付(青花)や同窯付近の窯場で生産された華南三彩(交趾焼)の影響があるものと、筒型椀や水指に見られるような伝統的な大和絵のモチーフが施されるものがあり、外来と伝統とが併存していました。この時期、前代までの中国陶磁器等の模倣中心の傾向に変化が見られます。江戸時代に京焼へと発展する軟質施釉陶器や唐津窯・備前窯製品等と類似する国産独自の器種も多く、複雑な影響関係がうかがわれます。この動向には、当時国内外の陶磁器情報を集め、市場から各窯業地に働き掛けた新たなブランド商品を開発する京都三条他の焼物問屋の強く関与した可能性も指摘されています(写真 : 鉄絵字文鉢)。

14.尾張藩政下の瀬戸窯業(連房(れんぽう)前期)―瀬戸窯の再興―

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17世紀初頭に美濃の元屋敷窯で、唐津窯からの技術導入により連房式登窯が採用されると、短期的に瀬戸や美濃の窯場に広まっていきます。再び窯場がみられる瀬戸では、天目茶碗や志野丸皿ほか前代からの量産器種が中心で、「桃山陶」の系譜を引き継ぎ、銅緑釉・鉄絵を多用する「織部」が生み出される美濃とは異なっています。ただ、赤津村では旧来の大窯による茶入等の生産が17世紀中頃まで見られ、茶陶の優品が生み出されました(写真 : 鳴海織部沓型茶碗)。

15.尾張藩の窯業保護政策

江戸時代の瀬戸窯は、1610(慶長15)年に初代尾張藩主徳川義直が、美濃国郷ノ木村(今の土岐市曾木町)から利右衛門・仁兵衛兄弟を赤津村(あかづむら)に同国水上(今の瑞浪市陶町)から新右衛門・三右衛門兄弟を下品野村(しもしなのむら)によび戻したのがその始まりといわれ、同様な記録の無い瀬戸村の窯業生産もこの頃に再開したと思われます。こうした尾張藩による瀬戸窯屋の召還令は、名古屋城を築き清須から居城を引っ越した「清須越し」に伴う必要物資の確保や、藩内産業の振興政策等の要因があったものと考えられます。

16. 尾張藩政下の瀬戸窯業(連房(れんぽう)中期)―各村特産品の形成―

17世紀終わり頃から大窯以来の伝統的器種は減少し、新たに御室茶碗や腰錆茶碗等がみられるようになります。そして、前期からみられた各村の生産器種分業化がより明確になります。瀬戸村では供膳具・灯火具、赤津村・下品野村では擂鉢・片口他の調理具・貯蔵具、下半田河村では香炉・仏餉具他の神仏具がそれぞれ生産されています。また、赤津村では尾張藩に優遇された「御窯屋」が、藩の特注品を生産し異彩を放っています。中期の製品には、うのふ釉・飴釉を施すものが多く、釉薬のかけ分けや呉須絵などを施したものも見られます。摺絵技法は下半田川村でのみみられ、美濃との類似性が認められます。

17.京焼の影響

中期の碗の内、瀬戸村を中心に生産された御室茶碗、せんじ、腰錆茶碗等は、京焼き写しの製品といわれます。また、赤津村の「御窯屋」で生産された前期から中期にかけての特注品の中にも、古染付や伝世した朝鮮王朝呉器茶碗に由来する京焼を写した製品も見られます。これらがつくられはじめ生産量を増やすのと対照的に、前期まで椀類の主流であった天目茶碗の生産量が衰退することは、茶碗に対する嗜好が大きく変化し、京焼の強い影響下にあったことがうかがわれます

18.尾張藩政下の瀬戸窯業(連房(れんぽう)後期)―大衆陶磁器の形成―

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18世紀の終わり頃には、供膳具・調理具に留まらず、住用具の火鉢や瓶掛、灯火具の秉燭(ひょうそく)・短檠等、様々な生活用具が生産されました。碗類の種類も豊富で、小型の碗・湯呑が量産されるようになります。その中で肥前磁器に類似した文様を呉須で陶器素地に施す「陶器染付」の生産が開始され、19世紀初めからは本格的な磁器生産が開始されました。それまで主流であった陶器生産は「本業(ほんぎょう)焼」、新たに導入された磁器生産は「染付焼」あるいは「新製(しんせい)焼」と呼ばれました(写真 : 御深井釉(おふけゆう)平水指)。

19.京・信楽焼、肥前磁器ほかの影響

後期の前半には、上絵付碗や小杉湯呑、長の(梅文湯呑)、う寿茶碗(梅文皿)に京・信楽焼の影響が強く認められます。その一方で、肥前磁器を写した陶器染付の丸碗・小中(こなか)・皿・広東碗等も生産され始めます。加藤民吉伝承等にあるように、瀬戸村の磁器生産の開始は肥前地方からの技術導入により開始されたと言われていますが、瀬戸村の磁器には、端反(はそり)碗をはじめとして中国清代の染付に近い器形・文様が目立ちます。

20.瀬戸染付と磁祖民吉(じそたみきち)

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瀬戸の窯屋に生まれた加藤民吉は、次男であった為に陶業を継げず、熱田(今の名古屋市熱田区)の新田開発に出稼ぎに行っていましたが、奉行の津金文左衛門の指導を受け、磁器焼成に成功しました。その後瀬戸の庄屋加藤唐左衛門の尽力により瀬戸に窯は写されましたが、技術的に不十分な点が多かったため九州へ渡り、丸窯による焼成法や素地の精製法などを学び、1807(文化4)年瀬戸に帰還し技術を伝えたとされ、瀬戸染付磁器の開祖と呼ばれています。この民吉についての伝承のすべてが、史実として裏付けられているわけではありません。しかし、民吉ら瀬戸の陶工の努力により、磁器生産技術は飛躍的に向上し、一子相伝制の対象外であった磁器生産が陶器生産を瞬く間にしのぐようになった事実はゆるぎないものです(写真 : 染付山水図大花瓶・民吉作)。

Ⅱ.瀬戸焼の歩み―近代編―
明治以降の瀬戸は、従来の生産品に加え、海外向け製品や工業用品など、新分野への対応を迫られました。それに応えるため、様々な技術や思想を吸収、咀嚼しつつ、あらゆる分野のやきもの生産に挑んでいきました。その「陶都瀬戸」の歩みを特徴的な生産品に沿って概観します。

① 飲食器の発展

幕末以降、国内では陶磁器製品が日常の飲食器として次第に一般化します。さらに明治には輸出品としてコーヒーカップなどの洋飲食器の生産も開始され、飲食器の生産高は高まっていきます。また、成形方法もロクロによるものと共に、鋳込成形が発展し、砂糖入れなどの袋物の生産も得意分野となっていきました。

② 家具・装飾。工芸品の揺籃(ようらん)

明治に入ると、万国博覧会など海外との接触を通じて、やきものには輸出品という役割が加わります。この中で、家具・装飾・工芸品というジャンルが確立し、輸出品として瀬戸では花挿具を中心に、精妙な絵付けを施した装飾的な製品や他地域の絵付専門工場へ出荷される半製品が多く作られました。なお、明治年間のこれらの体験を経て美術工芸としてのやきものが明確化していきます。

③ 代用品とその時代

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日中戦争が始まると、国内の金属資源を軍需に集中させるため、家庭用品を中心に金属製品を陶磁器製に代えた代用品の生産が奨励されます。さらに戦争が長期化すると、やきもの生産には厳しい統制が加えられ、太平洋戦争が始まる頃には、生産者ごとに生産品に統制番号を付け、管理されました。街、企業整備令により工場の整理統合が行われ、戦争末期には生産は極端に衰退しました。
ここで私の興味を引いたのは、陶器で作られたお金である(写真左・中)。これも金属の代用として作られたものであるが、流通させる前に終戦となり、発行されなかったことはご承知のとおり。あわせてドイツの陶貨も展示されていたが、こちらは実際に使われていた。もちろんドイツなのでマイセン製だ(写真右)。

④ 瀬戸ノベルティ

焼き物で出来た人形や動物などの置物を瀬戸ではノベルティと呼びます。ノベルティは、第一次世界大戦頃から輸出用製品として生産が本格化し、品質も向上していきます。第二次世界大戦による中断がありましたが、戦後は、飲食器をもしのぐ瀬戸の一大生産品に成長します。

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以上が瀬戸焼の歩みに関する展示である。瀬戸焼の歴史については、別に「瀬戸3万年の歴史」のコーナー(写真左)が設けられ、発掘調査された埋蔵文化財などからの解説を試みていたが、今回はご紹介を省かせて頂いた。しかしこれらも併せて展示をジックリ拝見したおかげで、瀬戸焼の歴史についての大きな流れについてマスターすることが出来た。まだまだ見ていたかったのだが、帰りの時間も迫っていたので、名古屋鉄道の「尾張瀬戸」駅に向かった。途中、陶磁器店(写真中左)や陶磁器で出来たオブジェ(写真中右・右)などが並んでいるのを見ると、あらためて”やきもの”の街に来たことを感じた。今回は日帰りで訪ねたのだが、一泊して、あわせて美濃を訪ねるのも良いかもしれない。皆さんも如何ですか?

(参考文献)
・「瀬戸蔵―施設のご案内」(瀬戸蔵)
・「瀬戸蔵ミュージアム・展示案内」(瀬戸蔵ミュージアム)

瀬戸蔵ミユージアムのHP
http://www.city.seto.aichi.jp/sosiki/setogura/002492.html

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December 18, 2008

一千億ジンバブエ・ドル紙幣

一千億ジンバブエ・ドル紙幣

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ゼロが11個付いた紙幣を入手した(写真左 : 表面・右 : 裏面)。ジンバブエの「一千億ジンバブエ(以下ZWと表記する)ドル紙幣」である。ご存知の通りジンバブエは、今年8月1日に100億分の一のデノミネーション(以下デノミという)を実施し、「一千億ZWドル」は「新10ZWドル」になった。本紙幣は、このデノミが実施される1か月前の7月1日に新規発行された紙幣である。平成20年7月31日付「日本経済新聞」によると、経済混乱が続く同国のインフレは200万%を越え、紙幣の桁数が大き過ぎてコンピーターシステムの運営に支障が出ていることからデノミを実施したとの事。

しかしデノミを実施したからと言って、経済の混乱が収まるわけではない。平成20年12月5日付「日本経済新聞」によると、同国ではコレラがまん延しているうえ、相変わらず超高率のインフレのため、医療などの公共サービスにも重大な影響が出ていることから、政府は国家非常事態を宣言したという。また12月4日には、ジンバブエ中央銀行は貨幣不足に対応するため、「新1億ZWドル札」と「新5000万ZWドル札」、「新1000万ZWドル札」の高額紙幣の発行を発表した。さらに12月12日付CNN・Webによると、「新5億ZWドル札」と「新2億ZWドル札」の発行も決めたようだ。そもそもこのようなインフレが起きる原因となったのは、2000年にムガベ大統領が白人農園を強制収用し、黒人農民に再配分するという政策を採り、農場から白人農場主を追い出した結果、農業技術が失われて食糧生産が激減したためである。政治の失敗は恐ろしいものである。

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ところで今回入手した紙幣は、近年最高額面の紙幣ではあるが、過去を振り返ってみると、もっとゼロの数が多い紙幣が発行されている。第二次大戦後にヨーロッパのハンガリーで発行された「10億兆ペンゴ紙幣」(写真左 : 表面・写真右 : 裏面)である。ゼロの数が21個になるのだが、「0」はまったく書かれておらず、紙幣には”1MILLIARD”と”B”の表示があるだけ。”B”は1兆を表し、”1MILLIARD”は10億の意味で、10億×1兆の紙幣なのでこのように呼ばれているのだ。もっとも「10垓(がい)ペンゴ紙幣」と呼ばれても、ピンとこないが・・・。第二次世界大戦後、ソ連側、いわゆる東側陣営に属するまでの短期間使用されたという。この紙幣は、1946年8月に「4×10の29乗」=新通貨「1フォリント」と交換された。ちなみに、最高額面の紙幣としてギネスブックに登録されているようだ。

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高額額面紙幣として忘れてはならないのが、第一次世界大戦後にドイツで発行された「100兆マルク紙幣」(写真 : 「日本銀行金融研究所貨幣博物館」より)だ。残念ながら、こちらもゼロ14個は書かれていない。歴史を振り返えると、史上空前の規模で戦われた第一次世界大戦の戦後処理はパリ講和会議で決定され、ドイツと連合国との間でヴェルサイユ条約が結ばれた。しかし、それはドイツにとって苛酷な内容で、アルザス・ロレーヌ2州はフランスに割譲、ザール炭田地方は国際連盟の管理になるなど、ドイツは鉄・石炭の主要な産地を失い、さらに海外植民地もすべて手放すことになった。また到底負担し得ないほどの巨額の賠償金(1,320億金マルク : 1マルク=金0.358g)を課せられた。ドイツは賠償金の支払猶予を連合国側に求めたが、フランスはこれを不誠意とし、1923年1月末にベルギーと共同して出兵、ドイツ復興の要となるはずのルール地方を征圧した。これに対してドイツはストライキによって「消極的抵抗」を行ったが、そのため国庫負担が増大し、自国通貨のマルクを乱発したことからハイパーインフレを招いたのである。このような中で発行されたのがこの紙幣だ。

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ハイパーインフレが生じた後には、高額額面の紙幣が発行されたが、ウエストファリア州だけは唯一金属コインを出した。これがいわゆる「ウエストファリア緊急通貨」だ。同州は、ルール地方が制圧された後も同地方が自州の一部であることを内外に誇示するため、金属コインの緊急貨幣を発行し続けたのである。この緊急通貨は発行する都度、一段とインフレが進むため、次々に高額の額面の貨幣が発行され、1923年には1兆マルクのコインまで発行された(写真左 : 表面・右 : 裏面・「ウエストファリア緊急通貨」は、50ペニヒから1兆マルクまで22種類発行されている)。ちなみに、同年10月に設立されたレンテン銀行が全国の土地などを担保とするレンテンマルク紙幣を発行して従来の通貨と交換を行い(1レンテンマルク=1兆マルク)経済を安定させたことから、ドイツのハイパーインフレは奇跡的な収束を迎えた。

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その他、私のコレクションの中からゼロが沢山付く紙幣をご紹介する。最初は「2000万トルコリラ紙幣」(写真左 : 表面・右 : 裏面)である。この紙幣はゼロが7個。ご存知の通り平成17年1月から100万トルコリラを新1リラ(=約0.75ドル)とするデノミが実施された。欧州連合(EU)への加盟実現に向けた経済改革の一環である。トルコでは一九七〇年代からインフレが進行していたが、特に2000~01年の金融危機時には消費者物価が年率70%の上昇率を記録し、対米ドル為替レートが一年で半値以下に下落(1ドル=約600,000リラからMax1ドル=約1,700,000リラへ)したのである。

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次は「500億クライナ・ディナール紙幣」(写真左 : 表面・右 : 裏面)。こちらはゼロが10個。クロアチアの西部クライナ地方を拠点としたセルビア人勢力の自治領(クライナ・セルビア人共和国)の紙幣。ご存知の通りクロアチアとスロベニアは、1991年にユーゴスラビア連邦から独立を宣言した。クロアチアでは、クロアチア内のセルビア人とクロアチア人が争い、またクロアチア領内のクライナでは、ユーゴスラビアの支援を受けたセルビア人がクロアチア人を追い出すなどの紛争が繰り返された。表面的には独立を保つクライナ・セルビア人共和国であったが、実質はセルビアの経済に依存していたため、セルビアで起きたハイパーインフレの影響をもろに受け、その結果ゼロの沢山並んだインフレ紙幣が登場することとなった。その時に発行されたのがこの紙幣である。ちなみにクライナは、1998年に平和的にクロアチアに統合されたため、現在は「クロアチア・クーナ」が流通している。

(参考文献)
・「日本銀行金融研究所貨幣博物館」(日本銀行金融研究所)
・「Standard Catalog of WORLD PAPER MONEY・1961-Date」(Krause)

ジンバブエ中央銀行のHP
http://www.rbz.co.zw/
ジンバブエ・インフレについて[WorldMess.net]
http://humorland.wordmess.net/20081025/what-the-real-crisis-is-like/
12月12日付CNN・Web
http://www.cnn.co.jp/fringe/CNN200812120023.html
トルコ中央銀行のHP
http://www.tcmb.gov.tr/yeni/eng/
クロアチア国立銀行のHP
http://www.hnb.hr/eindex.htm

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December 14, 2008

瀬戸蔵ミユージアム(上)

茶の湯ぶらり旅(第38回)

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「本館」の鑑賞を終えてから、館外にある「復元古窯(ふくげんこよう)」(写真左)を見に行った。江戸時代(19世紀)の登窯(写真中左・中右 : 横から窯の中を覗く)と瀬戸や美濃で使われていた室町時代(16世紀)の大窯(写真右)が復元されている。これらの窯は単なるレプリカではなく、実際のやきもの作りに使われているという。窯の前に掲げられていた解説によると、「この窯は、瀬戸で使われていた古い窯を復元したもので、伝統的な築窯技術の記録保存も兼ねて作りました。大窯は、室町時代の昔田窯(むかしだよう : 瀬戸市穴田町)、妙土窯(岐阜県笠原町)をもとに推定。登窯は、江戸時代の瀬戸の小窯(古窯 : こがま)を復元しました」との事。

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まだ見たいところもあったのだが、午後1:00を過ぎていたので「愛知県陶磁資料館」(写真左)を出て、「瀬戸蔵ミュージアム」(写真右)に行くことにした。資料館とミュージアムの間には公共交通機関がなかったので、ロビーに掲げられていたタクシー会社の電話番号に連絡を取り、本館入り口付近でタクシーが来るのを待った。タクシーは7~8分でやって来た。タクシーに乗ってしばらくは山の中。やがて街中に出るが、地方の街という規模だ。「瀬戸蔵ミュージアム」へは、約30分で到着。料金は2,500円超。もう少し安価で便利な乗り物があれば良いのだが、「愛知県陶磁資料館」のお客の少なさを勘案すると、それを期待するのは無理。地元の人は自家用車で来ているし・・・。

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「瀬戸蔵ミュージアム」は、名鉄瀬戸線・尾張瀬戸駅から南東へ徒歩5分なので、ここだけに来るのであれば、それほど不自由はない。ミュージアムは4F建ての立派な建物。この建物は「瀬戸蔵」(写真左)言うらしい。館内に入ると、ロビーと焼き物などを売るお店が並んでいた。「瀬戸蔵セラミックプラザ」だ。ミュージアムは2Fと3Fにある。2Fの受付でチケット(大人1名・500円)を購入して中に入ると、いきなり駅舎だ。”せともの”の大量輸送を期待された瀬戸電(写真中左)と、その玄関口である尾張瀬戸駅(写真中右)、さらに駅に隣接していた集積所を再現した展示である。また左手には、瀬戸焼の最盛期、昭和30年代を象徴する工場(モロ : 写真右)や石炭窯が再現されている(写真下左)。ここには大勢の小学生が居て、ガイドの説明を聴いていた。社会見学なのだろうか。奥に進むと、紐でくくられた”せともの”が山積みされている。懐かしいせともの屋の店先を再現しているのだ(写真下中左)。その先には、「生産道具展示室」(写真下中右・下右)がある。「土をつくる、形をつくる、焼くというやきものづくりの普遍的な工程の中で、瀬戸で使われた新旧の道具」を紹介している。

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その向かいは、「特別展示室」(写真左)だ。ここでは、企画展「瀬戸の絵皿」(写真右)が催されていた。江戸後期から明治期にかけて庶民向け食器のヒット商品であった、瀬戸の絵皿の様々なバリエーションを紹介している。以下展示解説に従い、展示内容をご紹介する。

1.瀬戸の絵皿が生まれた時代
江戸時代半ばの18世紀になると、肥前磁器が国内市場への転換を図ったことにより、磁器食器の国内への浸透が急速に進み、瀬戸の陶器生産は伸び悩みの状態に陥っていました。また、「寛政の改革(1783年)」により物価の凍結、地方産品価格の引き下げ、瀬戸物問屋の仕入れ値段の切り下げ通告など、窯屋の経営は一層厳しさを増していきました。こうした状況の中で、瀬戸では窯仲間の強化、ロクロー挺制、一子相続制といった生産者の拡大防止と生産制限という消極的な保護策が実施されました。その一方で肥前磁器や京焼などに刺激を受け、瀬戸の回生策として磁器製造技法の確立や付加価値の高い製品づくりを模索していた時期でもあり、その途上において陶胎染付など絵付けを施した製品が生産され、今回展示した絵皿類も生み出されたと考えられます。19世紀になり、瀬戸では磁器の製造に成功し、瀬戸の陶磁器類が国産物として尾張藩の庇護のもと全国展開が進んでいくことになります。

2.瀬戸の絵皿の文様
瀬戸の絵皿の文様は、草木文、吉祥文、風景、役者絵、判じ絵など様々なモチーフが描かれています。こうしたモチーフはどこから取り入れたのでしょうか。絵皿が登場した江戸時代後期の19世紀初めは化政紀とも言われ、寛政の改革の失敗の反動ともいえる現実的で享楽的な庶民文化が花開き、歌舞伎、川柳、狂歌がもてはやされ、浮世絵や滑稽本、読本、人情本などの出版物の一大ブーム、「おかげ参り」に代表される庶民の旅行が活発になり、江戸を中心とした情報が日本中を駆け巡った時期でもありました。また、当時の着物や浴衣、帯、櫛やかんざし、キセル、煙草入れに根付などの身の回りのもののデザインも絵皿のモチーフと通じていることからも瀬戸の陶工達もこうした流行の情報をキャッチし、庶民が好む絵柄を選んでいったのではないかと考えられます。

3.瀬戸の絵皿のバリエーション
①石皿
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皿の縁が鍔(つば)のように突き出た厚手の皿で、この形状は割れにくく、持ち運びが便利という実用を重視したものだと言われています。石皿には見込みに絵が描かれているものがあり、青色の呉須と茶色の鉄系顔料の二色が必ず使用されています。描かれている文様は、柳、菊、桜などの草木文をはじめとして松竹梅、鶴亀、宝珠などの縁起の良いものや言葉遊びの判じ絵など多岐にわたります。

②行燈皿
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行燈の台に置き、その燈火から落ちる油を受けたり、油注ぎを置く台として使用される皿で、別名「油皿」とも呼ばれます。この皿には高台が無く、こぼれた油が外に漏れないように皿の縁が立ち上がった形状になっているのが特徴です。行燈皿には、茶系の鉄系顔料で描かれているものが多く、その絵は行燈の灯でほのかに照らし出されることを考え、落ち着いた雰囲気のものが主流となっています。

③馬の目皿
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皿の内面に茶色の鉄系顔料で渦巻き文様が数個描かれているもので、この渦巻き文様が「馬の目玉」のように見えることから後にこの名前がついたと言われています。馬の目皿は、一見単調に見えますが、渦巻き文様だけでも千差万別で、その数も3個から10個までと様々です。また、他の絵皿と同様に見込みに絵が描かれているものもあります。

④絵高麗
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一般的に言われる絵高麗は中国磁州窯製の白化粧した鉄絵皿などを指しますが、瀬戸ではこの皿のように白化粧した素地に鉄系顔料と瀬戸地方独特の赤楽と呼ばれる顔料を用いて、安南手の獣禽文の絵皿などを真似たものをいいます。高麗手とも呼ばれ、文政5年(1822)に下品野村の加藤定蔵が作りだしたと言われています。

⑤鉄絵皿
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今回の展示では、石皿・馬の目皿・行燈皿・絵高麗に属さないものを鉄絵皿としてまとめました。茶色の鉄系顔料で絵が描かれており、絵柄は行燈皿とほぼ同じ題材が用いられています。また、皿の裏面に描かれる独楽(こま)線も絵高麗と共通の形式のものが見られます。

(参考文献)
・「瀬戸蔵―施設のご案内」(瀬戸蔵)
・「瀬戸蔵ミュージアム・展示案内」(瀬戸蔵ミュージアム)

愛知県陶磁資料館のHP
http://www.pref.aichi.jp/touji
瀬戸蔵ミユージアムのHP
http://www.city.seto.aichi.jp/sosiki/setogura/002492.html


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December 13, 2008

愛知県陶磁資料館(下)

茶の湯ぶらり旅(第37回)

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次は、特別展「海のシルクロードの出発点”福建”」(写真)についてお話しする。ご存知の通り「福建省」は、中国の東南の沿海部という立地から海外交易の拠点として栄えた。「泉州」、「福州」、「漳州」、「厦門」などは、福建省の大貿易都市として知られている。「厦門」については、以前お話しした「堺歴史文化交流会議2008・公開シンポジウム”アジアの海がはぐくむ堺~中近世の港町ネットワークを掘り起こす~”」(平成20年11月30日付当ブログ御参照)でも採りあげられていたので、ご記憶の方も多いであろう。

本展案内解説によると、「福建の海外交流は、9世紀頃から盛んになり、宋・元時代(11~14世紀)には中国を代表する貿易拠点となりました。13世紀末にこの地を旅したマルコ・ポーロは、「東方見聞録」の中で、泉州を世界最大の海港と記し、その繁栄ぶりを称えています。当時、イスラム商人をはじめ世界各地の人々が、この地に移り住んで活発な交易をおこなっていました。17世紀中ごろには「国姓爺(こくせんや)」と呼ばれた鄭成功が福建沿岸を拠点として、清王朝への抵抗活動や貿易を行い、日本とも深いかかわりを持っています。この地で生み出された文化や工芸品は、東アジアの海をわたって世界に広がりました。中でも茶と茶道具、陶磁器などは盛んに海外に輸出され、世界各地に強い影響を与えています」との事。

本展では、福建省の歴史をさかのぼり、閩(びん)越時代からの発掘・出土された陶磁器類などが展示されており、どれも魅力あるものばかりである。しかし今回はこれらの中から、特に茶や茶道具に関連するものをご紹介することにする。

ご存知の通り、茶の湯で古くから崇められてきた「唐物」の多くは、福建省や広東省で生産されたものが多い。例えば茶壺は広東省で生産されたものであるし、茶入れの多くは福建省で作られたものである。また、日本で使われた天目のほとんどは福建省の建窯で生産され、珠光茶碗とよばれる青磁碗も大半は福建省の汀渓窯の製品だと言われている。しかしこれらの「唐物」は、茶道具として生産されたものではなく、別の目的で作られたものが「見立て」によって茶道具になったものが多いという。ただし、天目については当初より抹茶を飲むための器として生産されたものだと考えられているが、建窯で作られた大中小3種類の大きさの盞(さん)のうち、大と小の使用目的は未だに判然としないようだ。

以下展示品の中から、5点ご紹介する。
① 「褐釉小壺」(南宋・12~13世紀・福州城市出土)[高さ9.7cm]
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福州市内で発見された褐釉小壺。日本で「大海茶入(だいかいちゃいれ)」として珍重されたものと同じタイプ。中国では日常生活でも使われていたようである。底部外面以外の全体に光沢のある褐釉が施されているが、所々が乳白濁色になっている。

※大海(だいかい)とは口の広い、平たい形の大型茶入をいう。ちなみに小振りのものは、小大海(こだいかい)あるいは内海(ないかい)と呼び分けられる。

② 「宋大海茶入(そうだいかいちゃいれ)」(南宋・12~13世紀・野村美術館蔵)[高さ7.4cm、重さ162.6g]
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日本伝世の茶入。福州・洪溏(こうとう)窯で焼かれた器壁の薄い褐釉小壺は、日本に運ばれて粉末の茶を入れるのに使われ、唐物茶入と呼ばれ珍重された。この茶入は、胴が強く張り出し、頸はやや長く、底は板起しになっている。釉調は濃淡まだらに発色し、なだれは左へ振れながら一筋現れている。

③ 「灰被(はいかつぎ)天目」(福建・茶洋窯・元・13~14世紀・愛知県美術館蔵)[口径12.3cm]
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日本では灰被天目と呼ぶ喫茶用の茶碗。見込み(内底部)は平坦で、高台下の削りこみは浅い。黒色の釉の薄い部分には、淡い虹彩があらわれている。この手の茶碗は、釉が二重にかけられて灰をかぶったような雰囲気があるため、灰被と呼ばれる(写真右は天目を乗せる漆托[天目台])。    

④ 「建盞(けんさん)」(福建・建窯・南宋・12~13世紀・建陽出土)[口径12.2cm]
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中国で兎亳盞(とごうさん)と呼ばれる南宋時代の建窯で焼かれた喫茶用の茶碗。建盞とも呼ぶ。釉薬に含まれる酸化鉄の結晶が窯の中で溶けて流下して現れる、幾条もの細かい筋状の文様がその特徴である。日本では禾目(のぎめ)天目とも呼ぶ。

⑤ 「建盞(けんさん)」(福建・建窯・南宋・12~13世紀・愛知県陶磁資料館)[口径12.4cm]
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日本伝世の建盞。光沢をもった黒釉の表面に兎亳(ウサギの毛)と呼ばれる細かな筋文様が表れている。口には、覆輪(ふくりん : 金属製の覆い)が施されている。日本では、鎌倉時代から室町時代に唐物の喫茶具として珍重された。

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今回は、茶や茶道具に関連するものをご紹介するとお話ししたのだが、一つだけ別のものを付け加えてご紹介したい。それは「銀貨」だ。当時の交易・貨幣システムを支えたのが、秤量貨幣の「銀」だったからである。「東アジアの海とシルクロードの拠点 福建」によると、「中国では、15世紀以前すでにモンゴル帝国により銀や絹糸に基づく交易システムが形成されていた。その際使用された銀は中国国内産であったが、その中国銀がイスラーム社会へ流出していったことにより、最終的にモンゴル帝国内で銀不足をきたし、そのシステムは瓦解した。しかし、16世紀に石見銀山で、新しい銀の製錬法「灰吹法」が導入され、日本における銀の生産量が急増したことで事態は変わった。それは対外的に銀の産出が無いとする朝鮮に、博多商人などを介して大量の銀が持ち込まれ、その銀を用いて朝鮮の富裕層が唐物購入を行っており、そのほとんどが中国へ流れ込んだのである。さらに、中国、日本、ポルトガル商人などが、海禁策を逆手にとり、利潤を求めて朝鮮を経由せずに福建などの中国沿岸部へ直接銀を持ち込んでいる。その結果、中国国内には大量の銀が流入し、明代には再び銀を基軸とした交易システムの再生、或いは租税を銀に統一する税制改革を可能とした」との事。写真はスペインの銀貨。多角形状で、両面共に紋章・文様が入っているが、磨滅しているため詳細は分からない。この時期アジアの交易で使われた貨幣は、切銀が一般的であったようだ。

(参考文献)
・「東アジアの海とシルクロードの拠点 福建」(海のシルクロードの出発点”福健”展開催実行委員会編集)

愛知県陶磁資料館のHP
http://www.pref.aichi.jp/touji

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December 12, 2008

国宝三井寺展

国宝三井寺展

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「国宝三井寺展」(写真 左: 本展案内チラシ・「国宝三井寺展」案内のHPより)を見るため、大阪市立美術館に行って来た(写真右)。ご存知の通り、平安時代前期、「智証大師円珍(ちしょうだいしえんちん : 814-891)」が天台寺院として中興した「三井寺」は、正式名称を「長等山園城寺(おんじょうじ)」といい、滋賀県大津市、琵琶湖南西の長等山(ながらさん)中腹に壮大な伽藍(がらん)を構えている。円珍は、6年にわたる入唐(にっとう)で、貴重な密教の聖教(しょうぎょう)類や図像、法具類など数多くの名宝を持ち帰り、のちの密教美術に大きな影響を及ぼしたと言われている。 今年は、天台密教の神髄を伝えた円珍が、唐から帰朝して1150年に当たるので、これを記念して本展覧会を開催することになったという。

本展は、美術館の2Fを使い、次の6章に分けて展示している。

第一章 「智証大師円珍」
第二章 「円珍ゆかりの仏たち」
第三章 「不死鳥の寺の歴史と遺宝」
第四章 「信仰の広がり」
第五章 「勧学院(かんがくいん)障壁画と狩野光信(かのうみつのぶ)」
第六章 「フェロノサの愛した三井寺」

そして各章ごとに、それぞれ素晴らしい彫刻や絵画、工芸などが並ぶ。まず、これらの中から5点をご紹介する。なお説明文は、主に展示解説から引用した。

①「護法善神立像(ごほうぜんしんりゅうぞう)(平安時代・12世紀・重要文化財)」(写真 : 「古寺を巡る・三井寺」より )[ 第二章「円珍ゆかりの仏たち」]
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「円珍幼少時の守護尊、訶梨帝母(かりていも)として、護法善神堂に祀られる女神像。子供の健やかな成長を祈って、毎年5月に行われる千団子祭(せんだんごさい)の本尊とされる、穏やかな作風から12世紀頃の制作とみられる」

②不動明王坐像(平安時代・9世紀)」(写真 : 展示案内チラシより)[ 第三章「不死鳥の寺の歴史と遺宝」]
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本展覧会の調査で新たに確認された不動明王像。丸々と肥満した体軀や表面に乾漆を薄く盛る技法などから、制作年代は不動明王としては、現存最古クラスの9世紀に遡る可能性がある。

③ 千手観音菩薩立像」(平安時代・重要文化財) (写真 : 「古寺を巡る・三井寺」より ) [ 第三章「不死鳥の寺の歴史と遺宝」]
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京から三井寺に至る山中にあった三井寺別所、如意寺(にょいじ)の本尊という。頂上面から台座まで、縦一材から掘り出す一木造りで、内刳りはない。彫りの深い顔立ちは、遠く西域やインドの余香を伝える。充実した量感や粘りのある衣文から、9世紀前半の造立と思われる。

④ 吉祥天立像」(鎌倉時代・13世紀・重要文化財) (写真 : 「古寺を巡る・三井寺」より ) [ 第三章「不死鳥の寺の歴史と遺宝」]
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護法善神堂(ごほうぜんしんどう)に安置される吉祥天像。背筋を伸ばして立つ姿には、豊饒と美の女神に相応しい気品が漂う。写実的な顔立ちや流麗な着衣の表現などから、鎌倉時代前期の慶派仏師が製作したとみられる。

⑤ 尊勝曼荼羅図」(鎌倉時代・13~14世紀・重要文化財) (写真 : 「古寺を巡る・三井寺」より ) [ 第三章「不死鳥の寺の歴史と遺宝」]
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尊勝法の本尊となる尊勝曼荼羅は、尊勝仏頂(ぶっちょう)をはじめとする八大仏頂尊を金剛界大日の周囲に巡らせ、下方に不動と降三世(こうさんせい)両明王を配す。本図は、両明王の配置が通常とは反対になる台密系の遺品で、鎌倉後期に製作された。

以上の展示だけでも素晴らしいものばかりなのだが、さらに魅了してくれるのが、美術館の1Fに展示されている「秘仏開扉」のコーナーである。まずこのコーナーの入り口に掲げられていた案内文を紹介すると、「三井寺の信仰の中心は智証大師円珍その人と、秘仏の存在にあると言っても過言ではない。「金色不動明王」(黄不動尊)は、修業中の円珍の前に現れた「金人(きんじん)」を描いたと伝える9世紀の仏画であり、入唐中の円珍が青龍寺の法全阿闍梨(はっせんあじゃり)から伝授された密教の図像「五部心観(ごぶしんかん)」とともに、円珍に直接関係する遺品と言えるであろう。また、唐院の大師堂には「御骨(おこつ)大師」「中尊大師」と呼ばれる二軀の「智証大師坐像」と黄不動尊の彫刻「不動明王立像」が安置されている。いずれも天台寺門宗最高の儀式である伝法灌頂(でんぽうかんじょう)の受者しか拝することができない厳かな秘仏とされる。そして円珍を三井の地に導いたという異国の神新羅明神(しんらみょうじん)の姿を刻んだ「新羅明神坐像」は、わが国神像彫刻の白眉とされ、西国観音霊場の礼所である観音堂の本尊「如意輪観音菩薩坐像」は、この寺の庶民に開かれた信仰を象徴している」との事。

次に、「秘仏開扉」のコーナーに展示されているものの中から、7点をご紹介する。なお説明文は、主に展示解説から引用した。

① 「不動明王立像(黄不動尊)」(鎌倉時代・重要文化財) (写真 : 「古寺を巡る・三井寺」より )
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唐院大師堂に秘仏として安置される黄不動尊の彫像、「不動明王画像」(②でご紹介)を細部まで忠実に再現しており、優れた写実性を見せる。円珍が入唐する際、船中に現れて危機を救った黄不動尊の姿と伝える。

② 「不動明王画像(黄不動尊)」(平安時代・9世紀・国宝)(写真 : NHK・新日曜美術館のHPより)
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岩窟で修業する25歳の円珍の眼前に現れた金色の不動明王で、日本三大不動に数えられる。肥満した上半身に対し、手足は筋骨隆々たる様に表され、力を込めて虚空(こくう)に立つ、平安初期を代表する密教画とするにふさわしい。

③ 「智証大師坐像(御骨大師)」(平安時代・9世紀・国宝) (写真 : 展示案内チラシより)
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智証大師円珍の肖像。御骨大師の名は、円珍の遺骨を納めたと伝えるためで、像底には納入品があるらしい蓋板がある。卵形の頭部は、伝記に記す姿を髣髴(ほうふつ)とさせる充実した体軀や、力強い衣文などの作風から、円珍入滅の寛平3年(891)頃の作と思われる。

④ 「智証大師坐像(中尊大師)」(平安時代・10世紀・国宝) (写真 : 「古寺を巡る・三井寺」より )
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大師堂中央に安置された中尊大師と呼ぶ。円珍の遺命で造立した比叡山の円珍旧房の肖像を、円珍門徒が比叡山を降りる時に三井寺に移したという。胸下に挟む法衣、扇形の袈裟の裾など装飾的な一方、表現に形式化が見られ、御骨大師より後の10世紀の作と思われる。

⑤ 「如意輪観音坐像」(平安時代・10世紀・重要文化財) (写真 : 展示案内チラシより)
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西国三十三観音霊場14番礼所とされる正法寺(しょうほうじ・三井寺観音)の秘仏本尊。6本の手は様々な観音の願いを象徴する。丸みを帯びた穏やかな彫刻表現から10世紀末頃の制作と考えられる。

⑥ 「五部心観(完本のうち巻首)」(唐時代・9世紀・国宝) (写真 : 展示案内チラシより)
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金剛界曼荼羅の諸尊を描いた白描の密教図像で、6種の曼荼羅に描かれる5部の諸尊を表す。円珍が唐から持ち帰った原本は唐時代の制作になるが、本図は日本における現在最古の写本とされる。

⑦ 「新羅明神坐像」(平安時代・11世紀・国宝) (写真 : NHK・新日曜美術館のHPより)
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円珍が唐から帰国する際の船中に現れ、三井寺に導いた異国の神の彫像。

朝から本展示を見ていたのだが、観客は増える一方で、いつもであればお客の数が減るお昼時にも、全くその気配はない。係りの方に尋ねると、会期末に近づいているので午後になるとますます増えるのではないかとの事であった。NHKの「新・日曜美術館」で放送された効果も大きいのか。天台密教や円珍など、私には知らないことばかりだったのだが、解説文を読みながら展示会場を何度も回っているうちに、本展示の良さを味わうことが出来るようになった。会期は12月14日(日)までなので残り少ないが、是非ご覧になることをお薦めしたい。

(参考文献)
・「古寺を巡る・三井寺」(大山邦興編集)[小学館]

大阪市立美術館「国宝三井寺展」のHP
http://osaka-art.info-museum.net/special020/special_mitsui.html
「国宝三井寺展」公式ホームページ
http://miidera.exh.jp/
「国宝三井寺展」案内のHP
http://plaza.harmonix.ne.jp/~artnavi/10publicity/201214-osakasi-miidera/00osakasi-miidera.html
NHK・新日曜美術館(シリーズ仏の美・秘仏公開~三井寺 天台密教の至宝~)のHP
http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekiy/2008/1123/index.html

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December 11, 2008

地方自治法施行60周年記念貨幣・長野県と新潟県の図柄決定

地方自治法施行60周年記念貨幣・長野県と新潟県の図柄決定

平成20年12月5日、財務省は地方自治法施行60周年記念貨幣のうち、長野県及び新潟県分の貨幣(千円プレミアム型銀貨幣及び五百円バイカラー・クラッド貨幣)の図柄を決定したと発表した。

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長野県の千円プレミアム型銀貨幣は、表面が「上高地」(写真左)、裏面は全都道府県共通の「雪月花」(写真下左)。五百円バイカラー・クラッド貨幣は、表面が「善光寺と牛」(写真中左)、裏面は全都道府県共通の「古銭のイメージ」(写真下右)である。また新潟県の千円プレミアム型銀貨幣は、表面が「トキと佐渡島」(写真中右)、裏面は全都道府県共通の「雪月花」(写真下左)。五百円バイカラー・クラッド貨幣は、表面が「トキと棚田」(写真右)、裏面は全都道府県共通の「古銭のイメージ」(写真下右)である。Reverse_1000Reverse_500なお、発行は平成21年の前半の予定。

次は平成21年後半発行予定の、茨城県(テーマ : 科学技術創造立県)と奈良県(テーマ : 平城遷都1300年祭)のデザインが楽しみである。


※写真はすべて財務省のHPから

財務省のHP
http://www.mof.go.jp/jouhou/sonota/kokko/kk201205.htm
造幣局のHP
http://www.mint.go.jp/topics/new/page43.html

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December 10, 2008

地方自治法施行60周年記念五百円硬貨三種引き換え

貨幣ぶらり旅(第145回)

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本日は地方自治法施行60周年記念五百円硬貨(北海道・京都府・島根県分)の引き換え日だったので、朝から金融機関を廻った。A銀行は1人各10枚まで。計30枚引き換え。B銀行は1人各3枚まで。計9枚引き換え。C銀行a支店は1人各2枚まで。計6枚引き換え。午後からC銀行b支店に行く。ここも1人各2枚まで。計6枚引き換える。夕方D郵便局に行くが、既に在庫ゼロ。結局、本日は各17枚、総計51枚、25,500円を引き換えた(写真左から「北海道・洞爺湖と北海道庁旧本庁舎」、「京都府・源氏物語絵巻(宿木二)」、「島根県・銅鐸とその文様・絵画」)。

ところで、今回の引き換えで感じたことだが、「ブラジル移住100周年記念」や「南極地域観測50周年記念」、「愛知万博記念」の時に比べ、引き換えに来ているお客さんが多かったように思えた。貨幣商の方が、銀行の窓口で交換された記念硬貨をプレミアム付きで買い取ってくれるのは、「東京オリンピック1000円銀貨」だけなので、値上がり目当てで交換に来ているとは思えない。では純粋にコレクションしようと思っているのだろうか。そうであれば、貨幣コレクターの私としては、非常に嬉しいことだ。だが、90年代のバブルの後に起きたように、プレミアムの付かないことを知った人達が、大量の記念硬貨を銀行に入金するといったようなことにならないか、少々心配である。いずれにしても、10年ぐらいかけて発行される都道府県別の記念コインなので、飽きずに、ジックリと収集してもらいたいものである。


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December 09, 2008

デュッセルドルフ→ロンドン→日本へ

南ドイツの旅(第39回・最終回)

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本日は、帰国の日である。午前7:15頃目覚め、午前7:30から朝食を取り、午前9:00にホテルを出て、バスで「デュッセルドルフ空港」に向かった。空港へは午前10:15頃に到着(写真左・中)。ブリティッシュ・エアウェイズのカウンターでチェックインし、午前11:00頃セキュリティー・チェックを済ませた。デュッセルドルフ―ロンドン間は、ビジネスクラスではないので、ラウンジの利用はできない。仕方ないので、空港内のお店を見て回った(写真右)。

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午後1:05に搭乗(写真左)し、ほぼ定刻の午後1:40に飛行機は離陸。ライン川を下に見ながら、快適な飛行が始まった(写真中左)。しばらくすると、窓の外は雲の絨毯になった。ロンドン・ヒースロー空港には、午後2:50頃に到着(写真中右)。現地時間は午後1:50である。日本に向かう飛行機が出る3番ターミナルまで移動し(写真右)、午後3:50まで自由時間となった。関西空港行きの飛行機は午後4:35発なので、かなり時間がある。まだ昼食を取っていなかったので、軽く食事をするため、ラウンジに向かった。途中、空港内で案内係を務める女性から声を掛けられた。「スイス・フランス・ルクセンブルク・ベルギーの旅」に出た6月にお会いした女性であった。最近日本人のお客さんが減っていると言っていたが、景気後退の影響が出ているのだろうか。

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ラウンジ(写真左)に行くと、ここでも6月にお会いしたお世話係の方がいた。何人なのか分からないのだが、外見だけ見ていると日本人と変わらない。ラウンジの寿司が好評だからなのだろうか。いつもカウンターには置いていない。お世話係の人に、にぎり寿司といなり寿司をお願いすると、奥の部屋から持って来てくれた。茶瓶にお茶を入れ、寿司と新聞を手に席に着いた。約1時間、のんびり過ごし、午後3:50頃搭乗口に行き、午後4:15頃搭乗(写真右)。ここまでは順調だったが、空港混雑のため、定刻の午後4:35から大幅に遅れ、午後5:35ようやく離陸した。

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飛行機での楽しみは、食べることとアテンダントさんとお話しすることぐらい。その楽しみの一つである、機内食は和食を選んだ(写真左)。メニューは次の通り。

① 前菜(大正海老の酒蒸し・松茸時雨煮・玉子カステラ焼・鶏松風・烏賊しんじょ ろう焼・渋皮栗甘露煮 : 写真中左)
② 向付(鮭焼き霜造り : 写真中右)
③ 小鉢(季節の茸のポン酢和え : 写真右)
④ 台の物(牛しゃぶしゃぶ仕立て 胡麻だれ : 写真下左)
⑤ 御飯・香の物・味噌汁(写真下左)
⑥ ブラツクフオレストケーキ(写真下右)
⑦ コーヒー(写真下右)

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ちなみに、旅の始まりである「関西空港→ロンドン・ヒースロー空港」間では洋食を選択した。メニューは次の通りである。

① 地鶏とフォアグラのパイ ハーブ風味・シーフードの冷製グリーンペッパーソース添え(写真左)
② オニオンスープ(写真左)
③ メインディッシュ(国産牛フィレステーキ香草風味ガーリックソース添え : 写真中)
④ フレッシュサラダ
⑤ パン
⑥ カシスとホワイトチョコレートのムース(写真右)
⑦ コーヒー(写真右)

6月に「スイス・フランス・ルクセンブルク・ベルギーの旅」へ出かけた時も日本航空を利用したのだが、「関西空港→ロンドン・ヒースロー空港」間は、メインディッシュが「国産牛フィレステーキ」のものを選んだ。非常に美味しかったので、帰りの「ロンドン・ヒースロー空港→関西空港」間もメインディッシュが「牛フィレステーキ」のものを選んだのだが、しかしこちらは肉質が私に合わず、少々残念な結果に終わった。そこで今回は、行きは洋食「フィレステーキ」、帰りは和食を選んだのである。結果は大成功。どちらも大変美味しく頂くことが出来た。

関空へは、予定到着時刻である午後12:45から約30分遅れ、午後1:20に着いた。これで今回の旅も終わりである。

帰国してから約3か月。この「南ドイツの旅」を書くのに長い時間を要してしまった。今回は歴史的な内容を充実させるつもりで書き始めたのだが、時間が経つに連れ、当初の目論見とは違う方向に行ってしまったように思う。さらに記憶もどんどん薄れていくので、内容も粗いものになってしまった。数千枚の写真と詳細なメモ、現地で収集した案内書や書籍類が私の記憶をよみがえらせてくれたおかげで、なんとか最後まで書くことは出来た。次回からは、事前学習に一段と力を入れ、充実した内容のものを書きたいと思っている。

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December 08, 2008

アーヘンの大聖堂

南ドイツの旅(第38回)

午後のツアーで最初に訪れたのは、「大聖堂」である。前回少し触れたが、「アーヘンの大聖堂は、フランク王国カロリング朝のカール大帝が785年頃に建築を命じた宮廷礼拝堂を起源とする」(「週刊世界遺産・NO.75・ケルンの大聖堂」より)。「カール大帝は、現在の独仏伊にまたがる大領土を統一し、800年にはローマ皇帝として戴冠。ビザンティン文化の影響のもと、古代ローマ帝国の文化や芸術の復興に力を注ぎ、その成果は後にカロリング・ルネツサンスと呼ばれる。805年に完成した宮廷礼拝堂は、カロリング・ルネツサンスの白眉と言われる。八角形の中心部と、十六角形の周廊から成る集中式と呼ばれる空間は、イタリアのラヴェンナにあるサン・ヴィターレ聖堂などを範としている。中心部のドームの高さは32mで、周廊平面の直径と一致する。「新約聖書・ヨハネの黙示録」に「長さと幅と高さとが同じ」と記された、天上の聖都エルサレムを思わせる均整美を持つ空間である。大帝の死後、礼拝堂は神聖ローマ帝国歴代皇帝の戴冠式場となり、アーヘンの名は西欧世界に轟いた。大帝の遺骨は13世紀、「カール大帝の聖遺物箱」に移し替えられ、街は巡礼地としても栄えた。15世紀初頭、礼拝堂の東側にゴシック様式の内陣が加わり、17世紀半ばには礼拝堂にバロック様式のドーム天井が架けられた。増改築は繰り返されたが、礼拝堂の構造体はカロリング朝期の貴重な遺構として今日までその形を保っている」(前掲書より)との事。

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大聖堂へは、西側の扉から入る。入口に向かって右手にある、大聖堂のミニュチュア(写真左)は必見だ。全体の構造が良く分かる。これを頭に入れておくと、ガイドの説明を聞いた時に分かりやすい。聖堂内に入ると、巨大なシャンデリアが目に飛び込んできた(写真中左)。これは12世紀、大帝の列聖を記念してフリードリヒ一世が奉献したものである。直径4.2mの青銅製で、16の小塔と48の燭台を持つ。見上げると、モザイク装飾の八角形の天井ドームだ(写真中右)。この装飾は、19世紀に施されたようだ。その下にある2階部分に目をやると、美しい柱が並んでいる(写真右)。「ようこそアーヘン大聖堂へ案内書」によると、「その柱は、786年にイタリアのローマとラヴェナから来たと信じられています。興味深いのは、これらの柱が主に装飾のために用いられているという点です。1794年にナポレオンの軍隊がアーヘンへ来て、柱をパリのルーブル美術館へ持ち去っていきました。19世紀の中ごろに東ドイツのプロイセン政府がアーヘンを奪還したため、プロイセン政府は、柱の返還をフランスに要求しました。フランスは、柱の返還に消極的でしたが、全16本のうちの10本が返還されました。パリから持ち帰る彩2本が崩れ、現在大聖堂で見られる当時の柱は8本です。その他の柱は19世紀に取り付けられました」との事。また、入口の上、西側には、10世紀中ごろに作られた大理石製のカール大帝の玉座がある。「皇帝の戴冠式では、新皇帝が玉座に着いた瞬間、即位したと看做された」(「週刊世界遺産・NO.75・ケルンの大聖堂」より)という。

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八角型のドームの向こうに、「内陣」がある。9世紀に建てられたロマネスク様式の「八角」に対し、「内陣」は15世紀にゴシック様式で造られている(写真左)。「内陣」で最初に目につくのが、「金色の棺」だ(写真中左)。カール大帝の、遺骨の一部が納められているという。その奥の上部には、「聖母マリアの浮き彫り」が見える(写真中右)。これを含め「内陣」にある装飾物は、すべて11世紀から伝わる金箔が使用されているようだ(写真右)。

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次にステンドガラスを見ると、これも非常に美しい(写真)。高さが25mある、世界で一番高い中世のステンドグラスで、総面積は1,000万㎡もあるという。ステンドグラスと内陣は1414年に完成した。第二次世界大戦時の爆撃により破壊された前方のステンドグラスは、1951年に修復されたものだが、後方のステンドグラスは昔のままの姿で残っており、中世の宗教観を見ることが出来る。

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大聖堂内の見学を終えてから、もう一度「大聖堂」の周囲を見て回った。増改築により、ロマネスク様式とゴシック様式が混在する複雑な外観となっていることを、あらためて認識させられる(写真左・中左)。続いて「大聖堂」の南側、「ミュンスター広場」を通り、噴水の前に出た。この噴水には、「金は天下の回りもの」というタイトルが付いているとの事(写真中右)。さらに南東に向かって歩くと、先ほど休みを確認した「インフォメーションセンター」である。その時は気がつかなかったのだが、「インフォメーションセンター」の北側にはギリシャ・ローマ風神殿のような建物が建っていた(写真右)。そして驚くことに、そこでは温泉が湧き出ているのだ(写真下左)。ガイドの勧めもあり、彼女の持ってきたコップで温泉を汲み、飲んでみることにした。手で触ると熱く感じるが、飲んでみるとそれほどでもない。掲示板を見ると、温度は52.8℃、PHは6.5であった。それほど美味しいものでもない。その後、「フリードリヒ・ヴィルヘルム広場」(写真下中左)を通り、北側に向かう。100~200mほど歩くと、お店屋さんの並ぶ通りに出た(写真下中右)。カフェ・レストランやケーキ店(写真下右)などがある。

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次に「大聖堂」のある西側に進むと、「ローマ人劇場跡」だ(写真左)。周囲にはテーブルが並べられ、多くの人たちが飲食とおしゃべりを楽しんでいた(写真中左)。そこから数十メートル歩くと、「おもちゃの噴水」がある。「フリンケンおばさん」や「大司教」、「マネケン」、「大学の先生」などの人形(写真中右)と、面白いお面で飾られた(写真右)噴水だ。さらに西に進むと、広場に出た。左手に「大聖堂」(写真下左)、右手に「市庁舎」(写真下中左)、正面には「大聖堂宝物館」(写真下中右)がある。広場で写真撮影などを楽しんだ後、「市庁舎」の北側(写真下右)にまわり、「Grobkoln通り」を歩いて、バスの待っている場所に向かった。
以上で、アーヘンの観光は終わり。今回の旅の観光の終わりでもある。午後4:40、バスは宿泊先である、「シュタイゲンベルガー・グランドホテル・ペータースベルク」に向けて出発した。

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昨日は暗闇の中を走っていたので良く分からなかったが、緑に囲まれた山の頂に建つ豪華なホテルである(写真左・中左)。午後6:15頃、バスはホテルに到着。午後7:00からレストランで夕食だ。テーブルはバルコニーに用意されていた。夕陽に照らされるライン川が美しい(写真中右・右)。時々吹くそよ風も心地良い。メニューは、前菜(写真下左)、野菜スープ(写真下中左)、子牛のステーキ(写真下中右)にデザート(写真下右)。約2時間、皆さんと今回の旅の思い出などを話しながら、楽しいひと時を過ごした。午後9:10頃に解散。明日は午前9:00に出発との事だったので、午後10:00過ぎにはベッドに入った。

(参考文献)
・「週刊世界遺産・NO.75・ケルンの大聖堂」(伊藤裕編集)[講談社]
・「ようこそアーヘン大聖堂へ案内書」(カンパーノ・エリック著)[アーヘン]
・「Der DOM zu Aachen」(DOMKAPITEL AACHEN)
・「CONCISE GUIDE TO AACHEN CATHEDRAL」(DOM SCHATZ KAMMER)
・「06~07地球の歩き方 ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]

アーヘンの観光案内のHP
http://www.aachen-tourist.de
アーヘンの大聖堂のHP
http://www.aachendom.de
アーヘンの大聖堂「宝物館」のHP
http://www.aachendom.de/index214-0.aspx

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December 07, 2008

ブリュールからアーヘンヘ

南ドイツの旅(第37回)

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「アグスブルク宮殿」附属の「セントマリア教会」へは、宮殿南側を通り(写真左)、西に向かって2~3分歩く。左手には美しい庭園が見える(写真中左・中右)。前回もお話しした通り、この壮麗なバロック式庭園は、造園家ドミニク・ジラールによって造られた。「Cuckoo Gate」を潜り、宮殿の西側に出ると、こちらも緑の芝生に綾・白・紫の花が咲く美しい庭が広がる(写真右)。そこから50m程の所に教会がある。

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教会の外観は、白と黒で美しい(写真左)。内部は白を基調に、ブルーと金で飾られている(写真中左)。1493年に造られた教会だが、第二次世界大戦で破壊されたため(写真中右)、現在の建物はその後再建されたもの。最近リニューアルしたからであろうか。非常に明るい雰囲気だ。ガイドの話によると、プロテスタントの教会なので聖水盤や跪く場所がないとの事。聖壇の向かい側には、パイプオルガンが見える(写真右)。

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教会の次は、庭園である。実際に歩いたのは広大な庭園の一部なのだが、ここが最も美しい場所と言っても過言ではない。宮殿を背景に、赤・黄・ピンクなどの色の花が咲いている景色は、私の心を和ませてくれる(写真左・中左・中右・右)。午後11:50頃、宮殿を出て駐車場まで歩き、午後12:10、バスで次の目的地であるアーヘンに向かった。

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アーヘンは、ケルンから西に60~70kmぐらい離れており、ドイツで最も西に位置する。ベルギーやオランダとの国境は、目と鼻の先だ。ここで有名なのが大聖堂である。9世紀の西ヨーロッパを統一したカール大帝が愛した街で、彼の建てた宮廷礼拝堂が何度も増築され、現在の姿になったという。アーヘンは、先日訪れた「ケルン」、イタリアの「バチカン」、そしてスペインの「サンチアゴ・デ・コンポステーラ」と並ぶ、4大巡礼地の一つと言われている。午後1:30頃、アーヘンの街に到着。バスを降りて街中を歩き、レストランに向かった。インフオメーションセンターがお休みで、現地の詳しい地図を入手できなかったため、どの道を歩いたのかハッキリしないのだが、おそらく「Sandkaul通り」と「Grobkoln通り」の交差する辺りでバスを降り(写真左)、「Grobkoln通り」を南西方向に進み、「教会」(写真中左・中右 : 教会内部)や「市庁舎」(写真右)の前を通り、さらに3~400mほど西に向かったのであろう。

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午後1:45頃、レストラン「Zum Wehrhaften Schmied」に到着(写真左)。落ち着いた雰囲気のお店で(写真中左)、メニューは「サラダ」(写真中右)に「ミートローフ」(写真右)、「ポテト」(写真下左)、「ティラミス」(写真下右)だ。食事が出てくるまでの10分ほどの時間を利用して、大聖堂の周囲を見に行くことにした。

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最初に訪れたのは、「大聖堂の宝物館」である。館内を見て回るだけの時間はなかったので、中庭だけ拝見させてもらった(写真左 : 宝物館入口・写真中左 : 中庭)。続いて「大聖堂」である(写真中右)。これについては、昼食後にツアーメンバーと一緒に訪れたので、後でまとめてお話ししたいと思う。一旦レストランに戻り、昼食を頂いた後、出発までの10分ほどの時間を利用し、インフォメーションセンターまで行ってみることにした。日曜日は休みということを知っていたのだが、もしかしたら今日だけは開いているのではないかと、僅かな望みを持って訪ねたのである。結果は、やはり閉まっていた(写真右)。大急ぎでレストランに戻り、他のメンバーと一緒に街の観光に出かけた。

(参考文献)
・「週刊世界遺産・NO.75・ケルンの大聖堂」(伊藤裕編集)[講談社]
・「06~07地球の歩き方 ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「ようこそアーヘン大聖堂へ案内書」(カンパーノ・エリック著)[アーヘン]

「アグスブルク宮殿」のHP
http://www.die-sehenswerten-drei.de/index.cfm?m=august&s=e
http://www.schlossbruehl.de
レストラン「Zum Wehrhaften Schmied」のHP
http://www.aachen-markt.de/jakobstrasse/wehrschmied/wschmied.htm
アーヘンの観光案内のHP
http://www.aachen-tourist.de
アーヘンの大聖堂のHP
http://www.aachendom.de
アーヘンの大聖堂「宝物館」のHP
http://www.aachendom.de/index214-0.aspx
「シュタイゲンベルガー・グランドホテル・ペータースベルク」のHP
http://www.grandhotel-petersberg.steigenberger.de


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December 06, 2008

第三回「国際ふれあいの集い・堺」

第三回「国際ふれあいの集い・堺」

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昨日、第三回「国際ふれあいの集い・堺」に参加した。茶道や千利休について学び始めたのを機に、堺市の主催する行事に参加することが多くなった。今回の集いは、「堺・バークレー協会」、「堺日中友好協会」、「堺ウェリントン教会」で構成される「堺姉妹友好都市協議会」の主催で、会場はリーガロイヤルホテル堺だ(写真)。先日参加した「堺歴史文化交流会議2008・シンポジウム」(11月30日付当ブログ御参照)が行われた場所と同じである。

受付が始まる午後6:00前から、参加者は集まり始めている。受付の横に、先日参加した「ニュージーランド料理教室」(11月29日付当ブログ御参照)のお世話役だった市の職員の方がおられた。外国の方とお話ししていたので、挨拶だけするつもりだったのだが、その外国人の方がフィンランドから来られた方で、私がフィンランドに行った時の話をすると大いに盛り上がり、開場の午後6:30まで話し込んでしまった。「キートス」以外にフィンランド語を知らないので、英語での会話となったのだが、ノンネイティブの話す英語は分かりやすいことをあらためて実感した。彼女はフィンランドの大学で社会学を専攻しており、3ヶ月間交換留学生として日本に来て、現在堺市の外郭団体で研修しているとの事。

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午後6:30になったので急いで会場に入ると、人で一杯であった(写真左)。年配の方から子供まで、その年齢層は広い。しかし、外国人の方がどこにいるのかよく分からない。先ほどお話ししたフィンランドの方以外は、背の高い欧米系の男性が3人と、イスラム教徒のような頭にスカーフを巻いた女性ぐらいでああろうか。私がこの集いに参加する目的は、色々な外国の方とお話しすることだったので、少々心配になった。立食形式で、テーブルは割り振られている。該当のテーブルに着き、皆さんに挨拶する。すると間もなく会が始まった。最初は堺市長の挨拶(写真右)。次いで市議会副議長など、来賓の方々の挨拶が続く。挨拶が終わったところで、ゲームが始まった。箱に入っている「もの」と「数」を当てるのである。テーブル対抗で、我々のテーブルは「リンゴ2個」と回答したのだが、正解は「テニスボール6個」との事。回答するに当たり、同じテーブルの人たちとお話しするので、親密度を増すには良いメニューである。最初は気が付かなかったのだが、同じテーブルにも外国人の方がいたのである。若いマレーシア人女性で、堺市内の会社で事務の仕事をしている研修生との事。外見は日本人と変わらなかったので、全く気がつかなかった。彼女もほとんど日本語が話せなかったので、英語で色々とお話ししたのだが、こちらも綺麗な分かりやすい発音だった。

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続いて食事タイムだ。皆さん一斉に、部屋の中央テーブルへ料理を取りに集まる(写真左)。メニューは和・洋・中と色々。食事開始後しばらくして、舞台では抽選会が始まった(写真右)。各自事前に番号の書かれた紙が渡されているので、該当する番号が出れば賞品が貰えるのである。商品は、堺市に住所を持つ協賛企業からのもので、「アイ・ポツド」や「釣り道具」、「爪切り」、「塩」など多岐にわたる。私は食事を簡単に済ませ、外国人とお話をするため、他のテーブルを廻った。最初にお話ししたのは、カナダ人の男性。大阪市内中心部で、外国に留学する学生のために、英語で授業を行う専門学校の講師をしているとの事。観光、ホテル、エアラインなどなど。日本語も上手に話す。3年以上日本に住んでおり、奥さんはニュージーランド人。以前、私の参加した「ニュージーランド料理教室」の先生をした方であった。

次に、頭にスカーフを巻いた女性のいるテーブルを訪ねた。このテーブルには、2人の外国人の方がいた。一人はインドネシア人で、もう一人は中国人だ。二人とも若い女性で、大学院で日本語教育の研究をしているとの事。もっぱらインドネシア人の方とお話ししていたのだが、彼女は、先にお話しした「堺歴史文化交流会議2008・シンポジウム」で、通訳を務めていたという。現在修士課程だが、博士課程も修了したいと言っていた。もちろん日本語は流暢に話せ、専門書も読みこなせる。私よりも彼女の方が、綺麗な日本語を話すのではないだろうか。インドネシアについては、かつてスキューバ・ダイビングをしていた頃、バリ島に行ったことはあるのだが、それ以外は全く知らない。大航海時代の交易について知るには、インドネシアは欠かせないポイントなので、再び訪ねたいと思っていたところである。彼女からいろいろアドバイスを受けたいと考えている。

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皆さんとお話ししているうちに、時間は瞬く間に過ぎ去り、終了時間の午後8:30を迎えた。最後に全員で輪になって、両手を取り、「今日の日はさようなら」を歌って閉会となった(写真)。数人の外国の方としかお話しできなかったが、有意義なひとときを過ごす事が出来た。是非来年も参加したいと考えている。

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December 05, 2008

ブリュールの「アグスブルク宮殿」

南ドイツの旅(第36回)

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午前6:30頃に目覚め、午前7:00~8:30頃まで朝食を取り(写真左 : 朝食会場・写真中左 : 朝食会場バルコニー・写真中右 : 出来たてのオムレツ)、その後出発時間である午前9:30まで、ホテルの庭などをブラブラと散歩した。街から遠く離れているので、これぐらいしか出来ることはなかったのだが、見晴らしも良く、十分に楽しむことが出来た(写真右 : 中庭・写真下左 : 庭から見たホテル・写真下右 : レストランから見たライン川)。

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午前9:30、我々はバスでホテルから出発した。本日のスケジュールは、午前中にブリュールを訪ね、午後はアーヘンで昼食を取ってから観光をして、今朝宿泊していた「シュタイゲンベルガー・グランドホテル・ペータースベルク」に戻ってくる予定だ。ブリュールは、ケルンの南約12kmに位置し、18世紀に建造されたケルン大司教の離宮、「アウグスブルク宮殿」がある。午前10:15頃、ブリュールに到着。「宮殿」の駐車場でバスを降りた。ここから数百メートル歩くと、宮殿の入り口だ(写真左・写真右)。

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「アグスブルク宮殿」は、ケルン大司教兼選帝侯クレメンス・アウグストが建築を命じた別荘宮殿である。建物はドイツ・ロココ様式(写真左)で、庭園はバロック様式(写真右)だ。建築家フランソワ・ド・キュヴィエの手によるもの。「キュヴィエは、フランスを発祥とするロココ様式を、ドイツ人の趣味に合わせることで独自の様式を生み出す。アウグスブルク宮殿こそ、より多様で複雑な装飾を特徴とするドイツ・ロココ様式の先駆けとなるものであった。宮殿との見事な調和を見せる、壮麗なバロック式庭園を造ったのは、造園家ドミニク・ジラール」との事(「週刊世界遺産・NO.75・ケルンの大聖堂」より)。

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宮殿内の見学は、「冬の部屋」から始まった。そして「プライベートの部屋」→「冬の間」→「宮殿階段室」→「騎士の間」→「食堂兼音楽室」→「第一の待合室」→「第二の待合室」→「キャビネット・サロン」→「図書室」→「使用人の間」と続く。特に印象に残ったのは、「宮殿階段室」だ(写真 : 前掲書より)。玄関には外から直接馬車が入れるようになっており、人造大理石で出来た柱が並ぶ。西ドイツ時代には、迎賓館として使われていたというだけのことはあり、手入れも十分行き届いている。玄関口から続く階段がある「宮殿階段室」は、宮殿が建築された当時、「天才と謳われたバルタザール・ノイマンが手掛け、天井にはイタリアの画家カルロ・カルローネのフレスコ画が描かれた」(前掲書より)。ちなみに、床材は自然大理石で、ヒールを履いた女性が上り下りしやすいように、階段は低く造られている。中央には、吊り下げ式のロウソクのシャンデリアが見られる。


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次は「夏の離宮」で、「第一の待合室」の観光から始まる。続いて「第二の待合室」→「夏の謁見室」→「寝室」→「風呂の間」を回った。ガイドの話で面白いと思ったのは、当時、毛穴が開くと病気になると考えられていたので、僅か年に4回程度バスタブを置いて、風呂に入っただけだという。そのため香水が発達したというのは、良く知られているところであろう。ちなみに「風呂の間」は、オランダ・ロッテルダムに特注したタイルを使っており、青と白を基調とした、さわやかな印象の内装である(写真 : 前掲書より)。

ところで、「17世紀から18世紀のドイツでは、有力貴族が大司教や市況、地方領主も兼ねて、その地位を独占。財を蓄えた大司教は、聖職者でありながら壮大な司教館に住み、豪奢な宮廷生活を営んだ。しかし商業都市ケルンでは、街の実権は富裕な商人達が握っていたため、大司教は代々、街の外に住んだ」(前掲書より)。しかしこれも、当初から住み分けられていたわけではないようだ。「ドイツものしり紀行」によると、「ケルンでは商業や手工業が非常に盛んになって、市民が大きな実力を持つようになり、都市領主としての大司教との対立が激しくなった。市民と大司教の手下が武器を取って殺し合いの乱闘に及ぶようなことも、11世紀末ごろから時々起った。市民と大司教との構想は次第にエスカレートし、ついには熱い戦争になって、1288年のヴォリンゲンの戦いで市民側が決定的な勝利をおさめ、都市領主としての大司教はケルンから追い出されるに至った。やむを得ず大司教は領内のボンに移り、そこに城を築いて宮廷を構えたのが、選帝侯宮殿(現ボン大学)の元になった」との事。ケルンを中心にこの地域は、経済史的にも面白い話が多い。

以上で宮殿内の見学を終え、次は宮殿の外にある付属教会に向かった。

(参考文献)
・「週刊世界遺産・NO.75・ケルンの大聖堂」(伊藤裕編集)[講談社]
・「ドイツものしり紀行」(紅山雪夫著)[新潮社刊]
・「07~08地球の歩き方 南ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「06~07地球の歩き方 ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]


「アグスブルク宮殿」のHP
http://www.die-sehenswerten-drei.de/index.cfm?m=august&s=e
http://www.schlossbruehl.de
「シュタイゲンベルガー・グランドホテル・ペータースベルク」のHP
http://www.grandhotel-petersberg.steigenberger.de

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December 04, 2008

「ケルン大聖堂」とケルンの街

南ドイツの旅(第35回)

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大聖堂の1Fで内部を拝観しようと思っていたのだが、身廊の途中に柵が置かれて祭壇のある場所まで行けないようになっていた(写真左)。柵の横に立っている修道士に尋ねたところ、これからミサが始まるので、観光客が入らないようにしているとの事。5分で良いから中には入らせてほしいとお願いするが、もうすぐミサが始まるのでダメとの返事。仕方がないので、柵の手前から大聖堂内部を見ることにした(写真右)。

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前回も少し触れたが、大聖堂は最大幅86m、奥行き144m、総面積6,166㎡で、尖塔の高さは、聖堂建築としては「ウルムの大聖堂」(ドイツ・バーデン=ヴュルテンブルク州 : 161.53m)に次いで世界第二位の157m。大聖堂の入り口中心に立って上を見ると、高さが43mを超える身廊の天井がある。交差リブ・ヴォールトが見事だ(写真左)。身廊の左手、束柱の上には、1998年に設けられた新しいパイプオルガンが見える(写真中左)。南側の聖堂内陣周歩廊を見ると、礼拝堂輪に続いているのが分かる(写真中右)。側廊の窓に目をやると、色鮮やかなステンドグラスが並ぶ。北側側廊の5枚のステンドグラスは、1507年と1509年の間に寄進されたもので、「キリスト受難の図」や「三賢王の礼拝」、「聖母戴冠」などが表されている(写真右)。南側側廊には「バイエルン・ステンドグラス」がある。ノイシュヴァンシュタイン城の建設でも知られるバイエルン王ルートヴィヒ二世が、1842年に寄進し、1848年にここに挿入された5枚の連作。こちらは「洗礼者ヨハネ」や「十字架から降ろされるキリスト」、「四人の福音書著者」などが並ぶ(写真下左)。正面、祭壇奥にもステンドグラスがある。中央より左手が「三賢王ステンドグラス」、右手は「ペテロ、マルテス・ステンドグラス」だ(写真下右)。

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ミサがなければ柵の向こうまで行けるので、「中央祭壇」(写真左 : 「週刊世界遺産・NO.75・ケルンの大聖堂」)、「聖母マリアの祭壇」(写真中左 : 前掲書より)、「東方三博士の祭壇」(写真中右 : 前掲書より)、「聖クララの祭壇」(写真右 : 「ケルン大聖堂(日本語版)」より)などの各祭壇や、「聖三賢者の柩」(写真下左 : 「ケルン(日本語版)」より)なども見ることが出来たのであろうが、仕方がない。入口近くにある「キリスト埋葬の像」(写真下右)を見て、大聖堂の外に出た。

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次は、大聖堂の外観を見ることにした。ゴシック期の彫刻がなかなか素晴らしいのだ。まずは西正面扉口中央から。ここの扉口上部には、「旧約聖書」の一場面を描いた浮き彫りがあり、アーチ部分は天使と太陽、月、地球を表す彫刻で装飾されている(写真左)。また入口抱きには、聖書の人物が並ぶ(写真中左・中右)。これらは有名な芸術一家であるパーラー家や、その他の著名な彫刻家による作品である。西正面扉口の右側は「ペテロとパウロの門」と呼ばれ、左に聖ペテロ、右に聖パウロの像が立つ(写真右・下左・下中左)。また扉口上部には、6人の預言者と二人の生涯を描いた浮き彫りがある(写真下中右・下右 : 西正面扉口の左側)。こちらはケルンの彫刻家であるペーター・フックスの作品だ。フックスは、19世紀に自分の工房で、大聖堂のために700以上の彫刻品を作成したという。

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正面扉口に向かって右方向にまわり、南正面扉口の前まで進んだ(写真左)。この扉口は1855年に完成。「ネオゴシック期の彫刻で、装飾された扉口は、大聖堂外部の装飾の中で、最も華麗な雰囲気」(「週刊世界遺産・NO.75・ケルンの大聖堂」より)と言われている(写真中左 : 中央扉口・中右 : 中央扉口上部・右 : 左扉口・下左 : 右扉口・下右 : 右扉口上部)。

大聖堂外部の見学はこれぐらいにして、次はケルンの街の散策である。「ケルンの都市としての歴史はローマ時代にまで遡り、十二世紀から十五世紀に一つのピーク時期を迎えた。その象徴的建造物が大聖堂である。教会、修道院、教会参事会などの宗教施設が次々と建てられ、その数は最盛期には百五十を超え、「北のローマ」ともいわれた」(「北ドイツ―中世ハンザ都市物語」より)という。では何故このように数多くの建築物を建築出来たのだろうか。それはケルン商人の力であった。「十三、十四世紀をピークとするケルンの、商業都市としての発展は目覚ましいものがあった。ケルンはリューベックとともにハンザ同盟の一方の雄としての地位を得ていた。背景にはハンザの一員としてイングランドとの交易など、積極的な商圏の拡大策がある。しかし、ケルンの経済を支えたものは何よりも西方ドイツに君臨する経済力による点が大きかった。大聖堂建設には他の都市にはない大伽藍をケルンの地に建立し、その経済基盤の確かさを周辺都市に知らしめるという、ケルン章に形の、したたかな狙いがあった。ケルンがライバルのリューベックに対抗できたのは、古くから、ライン川での経済権益を独占していたことも大きい」、「ケルンは当時の物流大動脈であるライン川交易の重要拠点となっていた。地勢的有利さを巧みに利用して、ケルンは商業都市として発達する。加えてオットー二世皇帝の時代の1259年5月7日には、ケルンにとって最大の経済権益と言うべき「集積権」が発令されることも大きい。「集積権」とは、ケルンを通過する外来の商人は最低三日間、ケルン市内に展示しなければならないという法律があった。しかも展示された商品の買い取り優先権はケルン商人に与えられ、ケルン商人は地元に居ながらにして欲しいものをたやすく仕入れることが出来るという、実に美味しい特権であった」(前掲書より)との事。

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大聖堂から南方向に200mほど進むと「市庁舎」(写真左)があり、さらに50mほど行くと「旧市庁舎」(写真中左)が建っている。さらに南に進み、「ヴァルラーフ・リヒャルツ博物館」(写真中右)の前を通って、「ドイツァー橋」の中央辺りまで歩いた。振り返ると「大聖堂」と「聖マルティン教会」が見える(写真右)。川の北側を見ると「ホーエンツォレルン橋」が青空の中に映えている(写真下左)。集合までの時間が残り少なくなっていたので、橋を渡ることは断念し、川辺を北に歩くことにした。橋を降りて川辺を進むと、「KDライン川観光船」の船着場だ(写真下中左)。西側に続く公園の芝生の上では、多くの人達がくつろいでいる(写真下中右・下右)。夕暮れ時の、のんびりした雰囲気。時間の無い私だったが、その雰囲気に釣られて歩くスピードが少し落ちていた。

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しばらく歩くと、左手に「聖マルティン教会」が見えてきた(写真左)。その東側には、縦長で特徴のあるドイツ風の建物が並んでいる。13世紀頃の商人の家である(写真中左)。第二次世界大戦でかなりの爆撃を受けて破壊を受けたケルンだが、この建物は戦災を免れたのだろうか。これらの建物の前は広場になっている(写真中右)。ここは昔、市場だった場所だ。先に見たとおり、ケルンを通過する外来商人達は、ここで商品の展示をしたのであろう。広場の北側には、「騎馬将官ヤン・フォン・ヴェールトの記念碑」が立っている(写真右)。

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まだまだ見たい処はたくさんあるのだが、夕食の時間である午後7:00が近づいたので、観光を終えて夕食会場であるレストランに向かった。先ほど前を通った「市役所」の近くにあるはずなのだが、なかなか見つからない。店の名前は「BRAUHAUS-SION」。仕方がないので、近くを歩いていた人に地図を見せながらレストランの場所を尋ねると、すぐ左に曲がったところにあるとの事。確かに、すぐそばにあった。店の看板を見落としていたようだ。(写真左)。店内に入ると、予想以上に広い(写真中左)。ツアーメンバーの方々は、既に席に着いていた。夕食のメニューは、サラダ(写真中右)、チキンカツ(写真右)、ケルンの地ビールとデザートのベリー(写真下)だ。よく歩いてお腹が減っていたこともあるが、非常に美味しく頂くことが出来た。特にカツが大好きな私には、最高のメニューであった。約1時間で食事を終え、30分ほど皆と一緒に大聖堂の周りを散歩した。食事の前、私が大急ぎで廻ったところを再度歩くことになったが、先ほど見落としていたこともあったので、私にとっては有意義な散歩となった。

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大聖堂前の広場まで戻ってくると、色々なパフォーマンスが行われていた。中には、床にペインティングする人もいた(写真左)。落書き扱いにならないのだろうか。空が薄暗くなって来たので、大聖堂がライトアップされた(写真中左・中右)。先ほどとは違う顔を見せてくれる。何となく良い雰囲気だ。ケルン市内に宿泊するのであれば、まだまだ楽しむこともできるのだが、本日宿泊するホテルはケルンから35kmも離れた場所にあるので、これからバスで移動しなければならない。ホテルはケーニヒスヴィンターにある「シュタイゲンベルガー・グランドホテル・ペータースベルク」だ。このホテルは、5つ星プラスの最高級で(写真右)、西ドイツ時代の迎賓館だったようだ。我が国の天皇皇后をはじめ、イギリスのエリザベス二世やアメリカのビル・クリントンなど、世界のVIPが泊まったとの事。

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ケルン大聖堂の西側からバスに乗り約30分、山の中の暗闇を走り、ホテルに到着した。豪華な門構え(写真左)。中に入ると、白で統一された明るく清潔な雰囲気である(写真中)。午後9:30前に部屋に入る。室内も落ち着いた雰囲気(写真右)。グッスリ眠れたことは、言うまでもない?

(参考文献)
・「ケルン(日本語版)」(Ziethen Verlag)
・「ケルン大聖堂(日本語版)」(B.ショック・ヴェルナー著)[ツィーテン出版社)
・「週刊世界遺産・NO.75・ケルンの大聖堂」(伊藤裕編集)[講談社]
・「カラー写真ガイド・ライン川(日本語版)」(rahmelverlag)
・「北ドイツ―中世ハンザ都市物語」(旅名人編集室)[日経BP企画]
・「ドイツものしり紀行」(紅山雪夫著)[新潮社刊]
・「07~08地球の歩き方 南ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「06~07地球の歩き方 ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]

ケルンの観光案内
http://www.stadt-koeln.de/koelntourismus
http://www.koelntourismus.de
「BRAUHAUS-SION」のHP
http://www.brauhaus-sion.de
姉妹店「Café Reichard」のHP
http://www.cafe-reichard.de
「シュタイゲンベルガー・グランドホテル・ペータースベルク」のHP
http://www.grandhotel-petersberg.steigenberger.de


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December 03, 2008

「ケルン大聖堂」の尖塔から見た眺め

南ドイツの旅(第34回)

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昼食会場である古城ホテル「アウフ・シェーンブルク」には、午後1:30頃に到着。30分以上かかった。クルーズ船から見ていると、もっと近いように感じたのだが、予想外に遠かった。バスを降りて少し歩くと、正面に「シェーンブルク城」が現れた(写真左)。前回お話しした、「ライン川クルーズ船」から見えていたお城だ。ホテルとレストランは、この中にある(写真中左)。橋を渡り(写真中右)、塔門をくぐると(写真右)、城壁がそびえる(写真中段左)。城の外を覗くと、ライン川と競技場がある(写真中段中左)。ホテルの入り口を通り過ぎ(写真中段中右)、少し進んだところがレストランだ(写真中段右)。我々の席は「SQUIRES’ROOM」に用意されていた(写真下左)。メニューはトマト風スープ(写真下中左)にローストポーク(写真下中右)、そしてアイスクリームのデザート(写真下右)である。美味しく食事を頂き、午後2:45頃レストランを出た。

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レストランの隣には、書斎(写真左)や図書室(写真中左)が残されていた。建物を出て、城内を見学しながら、のんびり歩いていると、大砲の弾で作ったオブジェなど(写真中右)、面白いものが置かれている。出入り口の塔門まで進むと、マルタ十字のマントを着た男が立っていた(写真右)。城の外にも仮装した女性達がいる。何かイベントでもあるのだろうか。

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午後3:00にバスは出発し、午後5:30頃、ケルンの街に到着した。渋滞に巻き込まれたこともあり、予想以上に時間がかかってしまった。ケルンでは、日本人ガイドの「オオシオさん」と合流し、早速観光に向かった。まず「ケルン大聖堂」である。バスを降りてすぐに「大聖堂」の頭が見えた(写真左)。さらに2~3分歩くと、「大聖堂」の前に出た(写真中左・中右・右)。驚くべき大きさだ。これまでにも数多くの「大聖堂」を見てきたが、これが一番大きいのではないだろうか。青空でかつ雲ひとつないことから、「大聖堂」は一段と映えている。写真に撮ろうと思うのだが、大き過ぎて全体像を収めることが出来ない。奥行き144m、幅86m、高さが157mもある巨大な大聖堂なのだから、仕方がないのか。

ところでこの「ケルン大聖堂」は、1880年10月15日に完成した。「週刊世界遺産・NO.75・ケルンの大聖堂」によると、「1248年に始まった建設工事が16世紀半ばに中断されてから、ケルンの大聖堂は300年近く未完の姿をさらしていた。工事が再開されたのは1842年のこと。その契機となったのは、プロイセン国王が建設資金の援助を申し出たことである。当時のドイツにとって何よりの悲願は、統一国家の建設だった。17世紀の30年戦争以来、ドイツの人々は常に多くの国家が林立する分裂状態を生じてきた。1814年、プロイセンをはじめとする対仏同盟軍がナポレオン一世に勝利し、その支配体制を打倒すると、統一国家を打ち立てようとするナショナリズムが一気に高まったのである。かつて神聖ローマ帝国の名のもと、ドイツが君臨した中世に、ドイツ人が構想した崇高な大聖堂る多くの文化人がそう喧伝したケルンの大聖堂の完成事業は、やがて実現されるべき国家統一のシンボルとなったのだ。そして1871年、統一国家ドイツ帝国が成立。ケルンの大聖堂はその9年後に完成、ドイツ皇帝ヴイルヘルム一世臨席のもと、盛大な献堂式が挙行された。19世紀に甦った中世ゴシックの精華、ケルンの大聖堂は、ドイツ帝国の誕生を高らかに宣言するモニュメントであった」との事である。

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数枚写真撮影したところで、大聖堂の塔に上れるのは、午後6:00までであることを思い出した。残り20分ほどだったので、夕食会場のレストランで合流することを添乗員に告げ、ツアーから離れた。「大聖堂」に入り、右手の受付でチケットを購入する。大人一名2.5ユーロだ。特大の「大聖堂」だけのことはあり、塔の階段の数も500段を超えている。螺旋状の石の階段だ(写真)。今回の旅でかなり歩いていたため、少し疲れていたが、気合いを入れて一気に上った。私が数えたところでは509段あったが、果たして正しかったのであろうか。

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階段を上り漸く広い場所に出たので、ここが展望フロアかと思ったのだが、中央にもう一つ階段がある。まだ上があるのだ。これまでは石の階段だったが、ここからはスチール製の階段だ(写真左)。最後の気力を振り絞り、なんとか展望フロアまでたどり着いた。景色を眺めるため外に出ると、小塔が多く、また安全のため金網が貼ってあったことから、眺めが遮られてしまう場所が多い。しかし、ゴシック様式のデザインを、手が届きそうな距離で見ることも出来たので、悪いことばかりではない(写真中左・中右・右)。

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「大聖堂」周辺に目をやると、北西側に高層の「メディアパーク」ビルと「テレビ塔」が建つ(写真左)。南側には「ローマ・ゲルマン博物館」(写真中左)が、また南東側には、ライン川とそれに掛る「ドイツァー橋」、そして「聖マルティン教会」、「旧市庁舎」が見える(写真中右)。東側を眺めると「ホーエンツォレルン橋」、さらにライン川の対岸に「ケルン・ドイツ駅」や「メッセ会場」が並ぶ(写真右)。北側には、「中央駅」と「聖アンドレアス教会」が見える(写真下左)。西側から下を見ると、先ほどツアーの皆さんと一緒にいた、「大聖堂」の正面入り口前の広場だ(写真下右)。先ほどに比べ、ずいぶん人が減ったように思ったのは錯覚であろうか。

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展望フロアの回廊を歩きながら金網の隙間から写真を撮ったり、地図と照らし合わせて景色を見るなど、10~15分ほどであったが楽しい時を過ごした。階段を下り、先ほど展望フロアと間違えた場所まで戻る。ここには事務室兼売店があり、老人が座っていた。ガイドブックを購入し、少しだけ彼とお話をしたのだが、驚いたことに彼は、毎日ここまで上り下りしているとの事であった。70歳代ぐらいの老人が、毎日このフロアまで上るというのは、慣れがあるとはいうものの凄いことだ。彼の仕事は午後6:00まで。丁度帰り支度をするところであった。私はここで一休み。ここからは、塔の最も高い部分を内側から見ることが出来るのだ(写真左)。お天気が良く、光も上手く入ってくるので、上を見ながらクルクル回ると、まるで万華鏡を眺めているような気分になる(写真右)。5~6分休憩した後、大聖堂の内部を見るため1Fに急いだ。すでに午後6:20分。拝観できるのは午後7:00までなのである。

(参考文献)
・「ケルン(日本語版)」(Ziethen Verlag)
・「ケルン大聖堂(日本語版)」(B.ショック・ヴェルナー著)[ツィーテン出版社)
・「週刊世界遺産・NO.75・ケルンの大聖堂」(伊藤裕編集)[講談社]
・「カラー写真ガイド・ライン川(日本語版)」(rahmelverlag)
・「ライン川(日本語版)」(rahmelverlag)
・「ドイツものしり紀行」(紅山雪夫著)[新潮社刊]
・「07~08地球の歩き方 南ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「06~07地球の歩き方 ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]

古城ホテル「アウフ・シェーンブルク」のHP
http://www.hotel-schoenburg.com
ケルンの観光案内
http://www.stadt-koeln.de/koelntourismus
http://www.koelntourismus.de

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December 02, 2008

愛知県陶磁資料館(上)

茶の湯ぶらり旅(第36回)

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先日の備前焼に続き、瀬戸焼について知るため、「愛知県陶磁資料館」に行って来た。東海道新幹線・名古屋駅で下車。地下鉄・東山線に乗り換え、終点「藤が丘」で更に「リニモ」に乗り換える。「リニモ」は、「愛・地球博」が開かれた時に設置された乗り物で、沿線には「名都美術館」や「トヨタ博物館」などの施設の他、「愛知県立芸術大学」や「愛知学院大学」、「名古屋学芸大学」などの学校がある。また、「愛・地球博」会場跡地には、「愛・地球博記念公園」が残されており、窓の外には大観覧車などが見える(写真左)。リニモの「陶磁資料館南」で下車(写真中左)。そこから徒歩10分ほどで「陶磁資料館」だ。開館時間である午前9:30より10分ほどまえに到着。新幹線・名古屋駅から約1時間半かかった。ちなみに、「陶磁資料館南」駅から「陶磁資料館」のゲートまで、何もないところを歩く(写真中右)。「陶磁資料館→」の案内板だけが頼りだ。ゲートをくぐった後も、所々に陶磁器のディスプレイが所々に建てられているだけで、自然の中をしばらく歩くことになるのだ(写真右)。

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資料館は、広大な敷地に「本館」、「西館」、「南館」、「陶芸館」、「古窯館」などが建てられている。「西館」では瀬戸や美濃で作られた陶磁の狛犬を展示しており、「南館」では陶磁産業の現在と未来を、我々の生活と関連付けて説明・展示している(写真左・左側が南館)。また「陶芸館」(写真中)では作陶や絵付けの体験が出来るとの事だが、まずは「本館」に向かった(写真右)。開館時間前であったが、扉は開いており、受付の女性も既に席についていた。特別展用のチケット(800円)を購入し、午前9:30になるまで、数分その場で待った。まだ監視員が配置に付いていないためか。開館時刻になるとチャイムが知らせてくれたので、その音に合わせて館内に進んだ。

まず特別展、「海のシルクロードの出発点”福建”」を鑑賞し、続いて午前11:00から始まるボランティアによる日本の陶磁の歴史に関するガイドツアーに参加、その後世界の陶磁器の展示を楽しみ、本館1Fにあるレストラン「とうじ」で昼食を取って、午後1:30頃、この資料館を出た。以下、展示内容についてお話しする。

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最初は、日本の陶磁器の歴史。陶磁器の歴史について詳しい方には退屈かもしれないが、私のような初心者にとってはこちらから聞いた方が分かりやすいので、まずボランティアに案内してもらった「日本の陶磁―原始・古代から近代まで」についてお話しする。日本の陶磁の歴史について展示している、本館2階の第三展示室に集合(写真)。と言ってもお客は私一人。自由に質問させてもらえたので、約1時間半の楽しい時間を過ごせた。展示内容については、次の通り。なお解説文は、展示室で頂戴したペーパー「「日本の陶磁―原始・古代から近代まで」名品ガイド」と「愛知県陶磁資料館のHP」から引用した。

「日本の陶磁―原始・古代から近代まで」

Ⅰ.原始のやきもの
日本のやきものはおよそ1万3000年前にまでさかのぼる縄文土器の誕生から始まります。縄文土器の名称は、縄目による文様が器形に施されていることに由来します。土器の誕生によって、煮炊きや貯蔵が可能になるなど、人々の生活様式に大きな変化が起こります。弥生時代になると、土器の装飾は簡素化されますが、反対に形そのものの美しさが特徴的になります。弥生土器の名称は明治17年(1884)に東京市本郷区向ケ丘弥生町(現東京都文京区)で発見された壺に由来します。縄文土器と弥生土器における装飾や造形上の違いは、当時の社会や文化的な変化を物語ってくれます。

Ⅱ.古代のやきもの
陶磁史における古代は、大和朝廷が国家を統一して以降の時代を指します。古代は日本の焼き物が様々な展開を見せる時期です。種類としては、土師器(はじき)・埴輪(はにわ)・須恵器(すえき)・彩釉陶器(さいゆうとうき)・灰釉陶器(かいゆうとうき)があります。土師器・埴輪は、土器の流れを汲む焼き物ですが、須恵器・彩釉陶器・灰釉陶器は朝鮮半島や中国の影響を受けて作られた新しい焼き物です。古代は、土器質だけでなく、陶器質の焼き物が焼かれ、或いは釉薬の技術が発達するなど、次代に続く焼き物を作る基礎が確立する時期だと言えます。

① 「琴を弾く男子(ことをひくだんし)」(埴輪)[古墳時代後期]
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埴輪は、古墳の墳頂や周辺に並べ、古墳を装飾するものである。最初は、葬送儀礼の土器を墳頂に埋めたものであったと思われるが、次第に大型化し、人や動物、器物を象ったものが作られるようになった。西アジア的な鍔のある帽子をかぶり、台座に腰掛けて琴を弾くこの男子像は、被葬者と大陸との繋がりを強く感じさせる。髪型や腰の刀は日本的であるところから、渡来人とは考えらないが、当時としては、非常にモダンないでたちであったに違いない。

② 「灰釉短頸壺(かいゆうたんけいこ)」(猿投 : さなげ)[平安時代]
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この種の壺は、東大寺正倉院の薬を納めた壺と似ていることから、薬壺と呼ばれることがある。しかし短頸壺は、奈良三彩の蓋付壺のように、骨壺に利用されることが多い器形である。これも骨壺として、岐阜県高山市で出土したものである。非常に薄く仕上げられた白い器体に、鮮やかな黄緑色の灰釉が美しく映えた、猿投窯の技術が最高潮に達した傑作であり、加藤唐九郎氏をして、「自分でも轆轤でこれだけ薄く挽くことはできない」といわしめたものである。

Ⅲ.中世のやきもの
中世は平安地建て末期から室町時代までを指します。この時期に瀬戸・常滑・信楽・丹波・備前の六代窯業地に集約されていきます。これらの窯は、現在でも続いており、いわゆる六古窯(ろっこよう)としてよく知られています。他にも日本全国に70以上の窯業地が起こっています。その中でも瀬戸は、主に中国陶磁の影響を受けながら釉薬をかけた陶器を焼いた窯として知られています。又、室町時代以降に茶道が流行するにつれて、天目茶碗や茶入れを制作するなど、その存在を高めていきます。瀬戸と並んで中世を代表する窯は常滑です。常滑は大型の壺や甕を焼いており、海運によって日本各地に運ばれていたことが出土状況から分かっています。高級で釉薬をかけた陶器の生産を行う瀬戸に対して、他の諸窯では壺、甕(かめ)、擂鉢(すりばち)といった日常容器の生産を主に行っていました

① 「甕」(常滑)[平安時代末期]
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猿投窯や渥美窯が専用の経筒外容器を発達させたのに対して、常滑窯では日常用器の甕で代用させたため、常滑窯の甕は、経筒外容器に利用されることが多く、経甕と呼ばれることがあるが、それ以外にも、骨壺や銭甕など多様な用途で利用されている。この甕は、飯田市の中村経塚から出土したと伝えられている。中国宋代の黄釉洗が蓋として使われていたという。肩から腰にかけての引き締まった形と、灰黄緑色の釉が美しい、典型的な常滑の甕である。

② 「檜垣文壺(ひがきもんつぼ)」(信楽)[室町時代]
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信楽窯は滋賀県甲賀郡信楽町内に成立した中世の窯跡群でその成立の経緯については定かでなく、鎌倉時代初期の状況が未詳である。信楽窯製品は白色の精良な粘土が焼きし締められたもので、白い長石粒の吹き出しと肌割れした赤褐色の地肌に黄緑色の自然釉と釉際の焦げたような黒斑の織りなす色合いが特徴である。また、二重口縁と称する鍔口と肩に刻まれた檜垣状の線刻文様は信楽窯の独特のものであり、大小の壺が存在する。

③ 「櫛目波状文壺(くしめはじょうもんつぼ)」(備前)[室町時代]
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備前窯は岡山県備前市伊部地内に成立した中世の窯跡群で平安時代までの須恵器の生産技術の系譜をひく窯業地である。燃焼室の奥に分焔柱を持たない窖窯(あながま)を用い、平安末期までは叩き締め痕を残していたが、鎌倉後期には赤焼きに転じている。赤焼きは赤黒い地肌の色調を称し、黒褐色とが混じり合った独特の色合いを見せている。16世紀の作品は、肩部の轆轤目状の横撫で痕の上に櫛目波状文を巡らし、暗黄緑色の自然釉が薄く掛かっている。

Ⅲ.桃山時代のやきもの
桃山時代(16世紀後半から17世紀初頭)にはわび茶の流行を受けて、茶の湯に使う焼き物の本格的な生産が始まりました。美濃では黄瀬戸・瀬戸黒・志野・織部、京都では千利休の指導下にあった長次郎の楽焼、また信楽、伊賀、備前などもそれぞれ独創的な茶陶を焼いています。これらの力強い非対称の形や豊かな装飾、或いは長次郎の茶碗に見られるような作為を一切削ぎ落とした端正な造形は、これまでの日本陶磁には見られない強烈な個性と呼べるものです。また九州や中国地方では文禄・慶長の役(1592年・1597年)を機に諸大名たちが朝鮮半島から連れ帰った陶工たちに新たな窯業地を開かせています。こうした唐津・上野(あがの)・高取・薩摩・萩などの窯では、朝鮮半島陶磁の模倣などの中から個性豊かな焼き物を生み出しています。日本各地の窯は、僅かな期間にこの時代独自の様式を確立していきました。

① 「黄瀬戸茶碗」(美濃)[桃山時代]
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この茶碗はいわゆる「半筒形(はんづつなり)」である。高台の作りなどから、はじめは向付(むこうづけ)などの食器として作られたのを茶碗に転用したと思われる。筒茶碗の先例は高麗(こうらい)茶碗にあるが、半筒形の流行は千利休(せんのりきゅう)晩年の天正14年(1586)頃から。美濃では16世紀中頃にはこの様式の瀬戸黒(せとぐろ)茶碗を作りはじめている。本品は正面に愛らしい花を印刻し、「胴紐(どうひも)」をめぐらせ、高台は大きく低い正円に、見込は平らに作っている。

② 「志野たんぽぽ文向付(もんむこうづけ)」(美濃)[桃山時代]
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志野は日本で最初に焼かれた白い焼き物です。白い釉薬がたっぷりとかけられ、釉薬の下には鉄による文様が描かれています。文様は見込み、胴、口縁の三段階に分けられており、それぞれたんぽぽ、草花、花・車文が描かれています。変化に富んだ形と大胆な文様が特徴的な作品です。

③ 「織部松竹梅文手鉢」(美濃)[桃山時代]
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手鉢とは把手のある鉢のこと。織部にはその作例が多く、手の立ち上がり部分を二股にしたり、鋲(びょう)のような丸い土を張り付けたもの、また把手に段を付けたり、線刻などで装飾したものなどがある。美濃では金工品や漆工品の手付薬缶(やかん)や水注を模倣しており、手鉢はそれを応用した意匠かもしれない。この鉢は入角(いりずみ)の撫四方に作り、見込中央に丸く赤土を塗って松竹梅を描き、緑釉で縁取っている。底に脚が四足付く。

Ⅳ.江戸時代のやきもの
桃山時代に画期的な発展を遂げた日本のやきものは、江戸時代には入ると産業的な基盤を固め、窯業としての形を徐々に整えていきました。まず、江戸時代初期には朝鮮からの陶工李参平(りさんぺい)によって、九州の肥前有田(ひぜんありた)において初めての磁器産業が開始されました。そして酒井田柿右衛門らによる色絵磁器の創始や、鍋島藩御用品などの登場によって焼き物に色彩豊かな世界が展開されるようになりました。さらに京都の野々村仁清、尾形乾山(おがたけんざん)などの作品に盛んな創作意欲を認めることが出来ます。しかしその後は伊万里染錦出(いまりそめにしきで)など、輸出を意識した華美な作調のものが増加したり、規格化された作品が多く生産されました。
江戸時代中期から末期にかけては、全国各地に数多くの窯が新しく起こっていきます。これらの諸窯では、人々の生活が豊かになるにつれて高まって来た需要に応えて多種多様な用途の製品が作られました。

① 「色絵金銀菱繋文茶碗(いろえきんぎんひしつなぎもんちゃわん)」(京都・野々村仁清)[江戸時代]
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色絵技法の始まりによって陶磁器でも色鮮やかな色彩の世界が始まります。仁清は肥前有田で色絵磁器が焼かれるのとほぼ同時期、京都で色絵陶器の技法を完成させた人物です。この茶碗は、黒地に金銀で菱文様を描いており、仁清の作品らしく雅(みやび)な雰囲気を漂わせています。

② 「色絵獅子置物」(有田・酒井田柿右衛門)[江戸時代]
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柿右衛門様式は朱色を効果的に用い、余白を活かした文様構成の作品でよく知られるものです。本作品は、器類では認められない文様構成である青や黄などの上絵具で広い範囲を塗りつぶしているように、一般的な柿右衛門のイメージとは異なるかもしれません。しかし型で形成された獅子の姿、そこに施された青や黄、赤などの色彩によってユーモアと風格を兼ね備えた作品となっています。

③ 「色絵龍虎文高卓(いろえりゅうこもんたかじょく)」(九谷・粟生屋源右衛門 : あおやげんえもん)[江戸時代後期]
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卓(じょく)と呼ばれる器種は、本来は木工で制作されるものです。それを焼き物で制作した粟生屋は、江戸時代後期に始まる「再興九谷」を担う名工の一人です。器形全体に青、緑、黄、紫の多彩な釉薬で、龍や虎、蝶、菊、唐草文様などが描かれています。器形や文様など随所に粟生屋の高度な技術を窺うことが出来ます。

Ⅴ.近代のやきもの
幕末以降の、特に明治期の焼き物は、伝統的意匠や技術に加え、諸外国の新しい意匠や技術も積極的に取り入れることで、様々な万国博覧会などで高い評価を得てきました。やきものの輸出量は、明治期に飛躍的に高まり、明治中頃まで日本の輸出産業の中心的な位置を占めていました。輸出による殖産工業的な位置づけを与えられた明治期のやきものは、色彩、造形ともに華やかなもので、日本人の感覚に合わない点もありますが、装飾性や技術力などはある意味で頂点に達した時代です。その後、海外における嗜好の変化などにより、装飾性豊かで陶工の持つ技術の粋を集めたやきものが次第に影を潜めていく一方で、個人作家の台頭が認められるようになります。

① 「陽刻上絵金彩花鳥図花瓶(ようこくうわえきんさいかちょうずかびん)」(瀬戸・横浜・川本半助(六代)・田代商店)[明治時代前期]
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この作品は素地を瀬戸の川本半助(六代)が、絵付けを横浜の田代商店が担当して製作されたものです。川本は内外の数々の博覧会で受賞歴を持つ陶工で細工の名手でしたる精緻な菊花の貼り付け文様にその技術力の高さが窺えます。また、上絵付けの花鳥文も写実的で手が込んでおり、全体として優美な作品に仕上がっています。

② 「磁胎七宝花蝶文長頸瓶(じたいしっぽうかちょうもんちょうけいへい)」(名古屋・竹内忠兵衛)[明治時代前期]
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七宝は通常、銅製の素地に釉薬を差し分けて装飾を施していきますが、この作品は銅製ではなく磁器が素地として使用されています。輸出用として製作されたもので、様々な装飾様式で器形全体から飾られています。作者の武内忠兵衛は、明治期に七宝製品を中心に製作・販売していた七宝会社の代表的な工人の一人です。

愛知県陶磁資料館のHP
http://www.pref.aichi.jp/touji
リニモのHP
http://www.linimo.jp/

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December 01, 2008

ライン川クルーズ(下)

南ドイツの旅(第33回)

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「バッハーラッハ」の港を出て間もなく、川中島に「プファルツ城」が見えてきた(写真左)。「正しくはプファルツグラーフェンシュタインという。「宮廷伯の石」という意味。城の名には石とか岩が付くことが多い。ライン川を通る関銭徴収を確実にするため、プファルツ伯が1325年頃から築き始めた城である。最初は真ん中の五角形の塔だけだったが、後に船のような形をした堅固な外郭が付け加えられ、「石の船」という異名を取るに至った」(「ドイツものしり紀行」より)との事。「プファルツ城」の後には、風光明媚な市壁と物見の塔が美しい「カウプ」の街(写真中左)、さらに背後の山上には、1200年ごろに建てられた「グーテンフェルス城」がそびえている。現在はホテルとして利用されているようだ(写真中右)。「かなりの速さでライン川を下って行く船の上から、分秒刻みで変化するこの城の姿をカメラに収めるのは大変楽しい」(前掲書より)とあったが、実にその通りである(写真右と下段すべて「プファルツ城」)。

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続いて対岸、左手に見えたのは、「オーバーヴェーゼル」の街だ(写真左)。高台に、「シェェーンブルク城」が建つ(写真中左)。1166年にバルバロッサ皇帝がある忠実な部下に授けた城で、その美しい姿に因んで「シェーンブルク(美しい城)」と命名されたという。現在はホテルとレストランになっており、本日我々はここで昼食を頂く予定だ。この街には、中部ライン地方で最も多い18もの塔が残っており、「塔とワインの街」と言っても過言ではないようだ。ここも風光明媚な景観で、ゴシック様式の赤い「リ・プラウエン教会」(写真中右左)が目を引く。また、白い「聖マーティン教会」(写真右)や城壁の一角で望楼でもある西側の塔(写真下)も目立つ。

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「オーバーヴェーゼル」を離れて暫く進むと、右手に大きな岸壁が見えてきた(写真左・中・右)。これが有名な「ローレライの岩」である。ご存知の通り、ローレライには伝説がある。「カラー写真ガイド・ライン川(日本語版)」によると、「ライン渓谷はその真ん中あたりではほとんど垂直に立ちはだかる高さ130m余りのローレライの岸壁が突き出て、川幅の四分の一ほど狭くなっている。川底には岩礁が横たわり、流れも急になるこの谷間へは日光も日にほんの二・三時間しかささない。また雷鳴があるとそのエコーと共にまるで解き放たれたかのような、すさまじい自然の景も忘れ難いものである。機動力の無かった時代の航行にとって、ここは恐怖の難所であった。そういった自然のさからいというのは昔から伝説や童話で擬人化され語り伝えられるのが常で、ローレライもまた然りである。船乗りはここに来ると、岸壁の頂上に立つ金髪の水の精達の美しい姿とあやしい歌声に魅せられ、急流であることも忘れ、ついローレライに気を取られたとたん、その岩礁に突き当り、水奥に消えてしまった。ハインリッヒ・ハイネの民謡風な詩とフリードリッヒ・ジルヒァーのメロディでこのローレライは世界でもっともよく歌われる岩となった」との事。

※ ローレライの歌「♪なじかは知らねど、心わびて・昔の伝えは、そぞろ身にしみぬ・わびしく暮れゆく、ラインの流れ・入り日に山々、あかくはゆる♪」
※※ 岩山の高さ : 132m・河幅: 113m・川の深さ : 25m

また、「ライン川(日本語版)」によると、「低水位の日には、危険な「七人の乙女」と呼ばれる岩が見える。伝説によると、石のような心の持ち主であった七人の乙女が、岩に姿を変えた。ローレライの岩のふもとで七重のエコーが聞こえる」という。ちなみに、現在はこれらの岩礁は爆破され、取り除かれているので安心だが、エコーはあるので、魅せられて(?)川に落ちないように注意しなければならない。

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続いて「ザンクトゴア・ハウゼン」である。1324年に都市権を取得。ローレライの岩に登るための出発点とされている。山上には「ネコ城」が建つ(写真)。1371年に侯爵ヨハン三世によって建てられた関税城。川幅が広かったため、対岸に建つ「ラインフェルス城」だけでは右岸側を通る船からの通行税を取り漏らした。この取り漏れを防ぐために設けられた城なのである。現在の城は、「1896~98年にかけてヘッセン州の建築士ディリッヒによる1608年の城跡のつぶさな測定をもとにして再建された」(「カラー写真ガイド・ライン川(日本語版)」より)もので、連邦大蔵省職員のための休暇の家として使われているという。

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そして間もなく、目的地である「ザンクト・ゴア」に到着である。「ゴアというのはケルト族の名の一つで、AD550年頃ゲルマン人を改宗させるために南フランスからやって来た伝道者であった。ゴアがなぜライン渓谷でもこの地を選んだのかは容易に想像がつく。この急流を無事に抜け出ることの出来た船乗りたちは、神々に感謝の献げ物をするのが常で、その対象をキリスト教の守護神にすり替え得たわけである。そのケルト人はこの地で聖ゴアになり、650年頃には彼の墓のために巡礼地となった」(「カラー写真ガイド・ライン川(日本語版)」より)という。この地には、「ラインフェルス城」が建つ(写真)。「ライン川流域で最大規模の城で、13世紀半ばまで歴史をさかのぼる。18世紀にフランス軍により破壊されたが、その廃墟は19世紀のイギリスの画家ターナーによって描かれ有名になった」(「07~08地球の歩き方 南ドイツ」より)との事。

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午後12:50、「ザンクト・ゴア」に到着。船内及び桟橋は、下船する客で混雑している(写真左・中左)。船を降りると、対岸には先ほど見た「ネコ城」と「ローレライの岩」が見える(写真中右・右)。我々はここから迎えに来てくれていたバスに乗り、昼食会場である古城ホテル「アウフ・シェーンブルク」に向かった。

(参考文献)
・「カラー写真ガイド・ライン川(日本語版)」(rahmelverlag)
・「ライン川(日本語版)」(rahmelverlag)
・「ドイツものしり紀行」(紅山雪夫著)[新潮社刊]
・「07~08地球の歩き方 南ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「06~07地球の歩き方 ドイツ」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]

BINGEN-RUDESHEIMER(ラインクルーズ船観光)
http://www.bingen-ruedesheimer.com
ザンクト・ゴアの観光案内
http://www.st-goar.de
ラインフェルス城
http://www.st-goar.de/17-1-rheinfels-castle.html


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