茶の湯ぶらり旅(第39回)



次は3Fに上がり、私が最も関心を持っている瀬戸焼の歴史に関する展示を見た(写真)。「愛知県陶磁資料館」の展示も充実していたが、瀬戸焼に絞った展示は少なかったので、ここでの私の期待は大きかった。以下展示解説を中心にご紹介する。
Ⅰ.瀬戸焼の歩み
瀬戸でやきものの生産が開始されたのは、10世紀後半、平安時代中期です。ここでは、瀬戸窯の母体である猿投窯の生産起点とし、発掘資料を中心に、瀬戸焼の生産器種及びその構成が、内外の影響を受け、それぞれの時代にどのように展開そして変化していったのかを辿ります。
1.それは猿投(さなげ)から始まった―瀬戸窯前史―
瀬戸焼の起源は、名古屋市東部の東山丘陵で5世紀後半須恵器生産が開始された猿投山西南麓古窯跡群(猿投窯)に求めることが出来ます。須恵器は、日本の窯業史のなかで本格的な窯炉を用いて高火度で焼成した最初のやきもので、大陸からの技術導入によって大阪の陶邑窯(すえむらよう)や猿投窯等で生産が行われました。 猿投窯では、8世紀中ごろの意図的に自然釉がかかるようにした原始灰釉陶器の段階を経て、9世紀には日本で初めて植物の灰を釉薬とした灰釉陶器の生産が本格化します。これは、同じころに生産の開始された緑釉陶器の施釉技術等の影響があると言われています。灰釉陶器は、白色緻密なこの地域特有の良質な陶土を高火度で焼きあげた硬質陶器で、東海地方の特産物として全国各地にもたらされました。
2.瀬戸窯の産声―灰釉陶器生産瀬戸へ―

10世紀に猿投窯が南の知多半島、東の三河等の地域に窯場を拡散していく中で、北隣の瀬戸にも10世紀後半から灰釉陶器を生産した窯が築かれます。この時期の灰釉陶器は、それまでのような全国各地へは供給されず、近隣地域向けの生産に変化しています。また、量産化に伴い簡素化・粗雑化が進み、生産機種も碗・皿類主体となります。また、緑釉陶器の素地も瀬戸窯で出土しており、その生産への関与が窺われます(写真 : 灰釉縄手付瓶・なわてつきへい)。
3.山茶碗(やまぢゃわん)―東海中世窯業の基盤―
猿投窯始め東海地方の窯業地では、11世紀終わりころにはほぼ一斉に施釉技法を放棄します。この時生産された無釉の碗は「山茶碗」と呼ばれ、無釉の小碗(後に高台の無い小皿に変化)や片口鉢とともに近隣地域向けの日常食器として量産されました。瀬戸では12世紀後半に施釉陶器(古瀬戸)が登場した後も並行して焼成され、鎌倉・室町時代の窯業の基盤をなしました。山茶碗には、素地のきめが細かく東濃地域を中心とした地域で生産された東濃型(均質手 : きんしつて)と、素地のきめが粗く尾張地域を中心とした地域で生産された尾張型(荒肌手 : あらはだて)などがあります。
4.山茶碗と古瀬戸(古瀬戸前期)―中世唯一の国産施釉陶器のはじまり―
12世紀後半から13世紀初め頃には、瀬戸では山茶碗とともに、四耳壺・瓶子・水柱を中心として、灰釉陶器とは異なった新たな施釉陶器(古瀬戸)の生産が開始されました。鎌倉時代初めのこの時期、都市鎌倉や東海地方の寺院からの瓦・仏具・蔵骨器などの需要が高まりました。古代の猿投窯から分派・成長した中世の瀬戸窯・猿投窯・知多窯・渥美窯・湖西 窯などでは、これらの需要に応じそれぞれ特色ある製品を生産しています。なかでも、瀬戸窯は国産唯一の施釉陶器生産地として歩み始めたのです。
5.東アジア陶磁器等の古瀬戸への影響(1)―中国宋代ほか―
古瀬戸前期製品には北宋・南宋代の龍泉窯青磁碗や汀渓窯(ていけいよう)はじめ福建民窯白磁四耳壺・水柱・景徳鎮窯青白磁梅瓶・合子(ごうす)・水滴・福建磁灶窯盤(じそうようばん)、朝鮮半島の高麗青磁瓶子(へいし)等中国や朝鮮半島の製品に酷似するものが多く見られます。また、火舎香炉(かじゃこうろ)・水瓶(すいびょう)・六器(ろっき)・仏具(ぶぐ)・仏餉鉢(ぶっしょうばち)と言った金属製密教法具類似の製品も古瀬戸前期の中でも初期を中心に見られます。古瀬戸は、輸入陶磁器や金属器の高級調度品を補完する代替品生産から成長の緒に着きました。
6.陶祖藤四郎(とうしろう)伝説

瀬戸には古くから陶祖藤四郎(加藤四郎左衛門景正)による開窯伝説があります。藤四郎については、僧道元に従って中国に渡航し、陶法を学んで帰国した後の1242(仁治3)年に良土を発見し瀬戸に窯を開いたとする伝承が一般的です。一説には、12世紀末から13世紀初め頃の作陶に関するものもあり、考古学的な古瀬戸成立期と時期的に符合するのは興味深いことです。しかし、中国磁器との技術的系譜は不明で、謎の多い伝説と言えます。
(写真 : 鉄釉四耳壺・藤四郎作)
7. 山茶碗と古瀬戸(古瀬戸中期)―鉄釉の開始と多様な文様―

13世紀終わり頃になると、灰釉に加え鉄釉を施すものも見られるようになります。開始期の鉄釉製品は、緑色の強いものから赤褐色になるものまでさまざまで、鉄分の調合比や焼成方法について暗中模索していた状況がうかがわれます。また、印花文(いんかもん : スタンプ)・貼花文(ちょうかもん : 貼り付け)・画花文(がっかもん : ヘラ描き)などの文様を多く用いるのも中期の特徴です。前期からの器種に加え、高炉・燭台等の新たな仏具、天目茶碗・茶入れ・茶壺などの喫茶具、内耳鍋(ないじなべ)などの調理具が新たに加わり、碗・小皿・盤類の生産が盛んになります(灰釉瓶子口水注・へいしぐちすいちゅう)。
8. 東アジア陶磁器等の古瀬戸への影響(2)―中国元代ほか

多様な文様が器面いっぱいに描かれる古瀬戸中期製品には、当時の最高輸入調度品であった元代の景徳鎮窯産青白磁梅瓶や龍泉窯産青磁酒会壺(しゅかいこ)・盤・褐釉陶器仏花瓶(ぶっけびょう)等にみられる牡丹唐草文等の影響がみられます。また、天目茶碗は、中国建 窯の黒釉盞(さん : いわゆる「建盞」(けんさん))を写したものです。禅宗とともに日本にもたらされた喫茶の習慣が、僧侶や武士階級を中心に広まったことにより、天目茶碗を始め茶入れ・茶壺などが瀬戸で生産されるようになりました(写真 : 鉄釉天目茶碗)。
9. 山茶碗と古瀬戸(古瀬戸後期)―生活用具中心の多器種生産―

14世紀後半以降には山茶碗の生産量は激減する一方、碗・小皿類をはじめとする古瀬戸の器種が多様になります。中期までの輸入陶磁器を写した「見せる」製品主体から、後期には「使う」製品が重視され、供膳具(きょうぜんぐ)・調理具等の生活用具が生産の中心となります。また、明の海禁政策により、一時期中国陶磁器の輸入量が減少しました。こうした状況下で、古瀬戸は多様な日常生活用具の生産を背景に需要層を広げ、全国各地の都市や港湾、領主の居館等に広く流通するようになります。なお、後期の終わり近くには、一時的に瀬戸窯では窯跡が見られず、いわゆる「古瀬戸系施釉陶器窯」が東濃窯や藤岡窯等に見られる時期があります。これは瀬戸窯の施釉陶器技術が周辺領主の誘致によって国境を超え拡散したとする説が一般的ですが、後期末には再び施釉陶器生産がほぼ瀬戸窯のみに集中することから、工人集団が在地領主の非法に対し一時的な抗議行動を起こしたとする説も有力です(写真 : 灰釉平碗)。
10.大窯の時代(大窯前半)―「大窯」という少器種量産体制―
15世紀終わり頃には、窯構造が地上式の「大窯」となり、焼成室の容積が増大しました。それまで多器種であった古瀬戸の生産から、茶道具である天目茶碗、供膳具である小皿類、調理具である擂鉢の3機種を中心とした生産に変わり、特定少器種量産体制に入りました。また、古瀬戸の末期には瀬戸のみであった施釉陶器生産がこの時期には美濃などにも見られるようになります。この頃は、日本各地で城下町建設と領国整備が行われ、日本海や瀬戸内海における海運の隆盛にみられるように、国内外の広域な物流ネットワークが進展しました。このため、輸入陶磁器を含めた陶磁器需要・流通の規模が拡大し、いわゆる六古窯をはじめとする国内の窯業地では、各々独自の「大窯」が築かれ、瀬戸・美濃窯同様少器種量産の傾向が見られます。
11.東南アジア陶器等の大窯への影響―中国元~明ほか―
大窯前半の製品は、擂鉢(すりばち)以外のほとんどの器種に大陸からの影響が認められます。天目茶碗は国内に伝世した元代の建窯産「建盞(けんさん)」や「灰被(はいかつぎ)」天目を、灰釉丸碗は明代の龍泉窯青磁を、灰釉端反皿(はそりざら)・丸皿は景徳鎮窯産の染付(青花)・白磁を、鉄釉祖母懐茶壺(そぼかいちゃつぼ)は褐釉陶器を、鉄釉平碗や徳利は朝鮮王朝陶器を写し、茶陶を中心とした嗜好性の強い陶磁器需要の高まりを示しています。また、焼締建水は中国等で生産された金属器を写しており、備前窯や丹波窯でも同様な焼き締め陶器が生産されました。
12. 大窯の時代(大窯後半)―窯場美濃へ―
16世紀からの大窯後半期は、瀬戸では窯場が不明で、美濃に集中します。丸碗向付(まるわんむこうづけ)等に施される黄瀬戸釉や、筒型茶碗等に用いられる引出黒(ひきだしぐろ)の技法が完成し、17世紀初めには長石釉を用いた志野製品や鼠志野の掻き落とし技法、変わり黄瀬戸の象嵌技法も登場しました。このように成形・施釉技術が一気に進展し、伝統的窯業技術の大半が出揃う桃山時代には、天目茶碗や小皿類などの量産器種に加え、多様なデザイン・装飾性の高い器物が施行された「桃山陶」というスタイルが確立します。
13.桃山陶のトレンド

大窯後半の志野釉の施された向付(むこうづけ)や皿・大鉢などには筆書きによる鉄絵が多く見られます。絵画を器面に描くことは日本の陶磁史上では画期的な出来事と言えます。これには中国漳州窯産の染付(青花)や同窯付近の窯場で生産された華南三彩(交趾焼)の影響があるものと、筒型椀や水指に見られるような伝統的な大和絵のモチーフが施されるものがあり、外来と伝統とが併存していました。この時期、前代までの中国陶磁器等の模倣中心の傾向に変化が見られます。江戸時代に京焼へと発展する軟質施釉陶器や唐津窯・備前窯製品等と類似する国産独自の器種も多く、複雑な影響関係がうかがわれます。この動向には、当時国内外の陶磁器情報を集め、市場から各窯業地に働き掛けた新たなブランド商品を開発する京都三条他の焼物問屋の強く関与した可能性も指摘されています(写真 : 鉄絵字文鉢)。
14.尾張藩政下の瀬戸窯業(連房(れんぽう)前期)―瀬戸窯の再興―

17世紀初頭に美濃の元屋敷窯で、唐津窯からの技術導入により連房式登窯が採用されると、短期的に瀬戸や美濃の窯場に広まっていきます。再び窯場がみられる瀬戸では、天目茶碗や志野丸皿ほか前代からの量産器種が中心で、「桃山陶」の系譜を引き継ぎ、銅緑釉・鉄絵を多用する「織部」が生み出される美濃とは異なっています。ただ、赤津村では旧来の大窯による茶入等の生産が17世紀中頃まで見られ、茶陶の優品が生み出されました(写真 : 鳴海織部沓型茶碗)。
15.尾張藩の窯業保護政策
江戸時代の瀬戸窯は、1610(慶長15)年に初代尾張藩主徳川義直が、美濃国郷ノ木村(今の土岐市曾木町)から利右衛門・仁兵衛兄弟を赤津村(あかづむら)に同国水上(今の瑞浪市陶町)から新右衛門・三右衛門兄弟を下品野村(しもしなのむら)によび戻したのがその始まりといわれ、同様な記録の無い瀬戸村の窯業生産もこの頃に再開したと思われます。こうした尾張藩による瀬戸窯屋の召還令は、名古屋城を築き清須から居城を引っ越した「清須越し」に伴う必要物資の確保や、藩内産業の振興政策等の要因があったものと考えられます。
16. 尾張藩政下の瀬戸窯業(連房(れんぽう)中期)―各村特産品の形成―
17世紀終わり頃から大窯以来の伝統的器種は減少し、新たに御室茶碗や腰錆茶碗等がみられるようになります。そして、前期からみられた各村の生産器種分業化がより明確になります。瀬戸村では供膳具・灯火具、赤津村・下品野村では擂鉢・片口他の調理具・貯蔵具、下半田河村では香炉・仏餉具他の神仏具がそれぞれ生産されています。また、赤津村では尾張藩に優遇された「御窯屋」が、藩の特注品を生産し異彩を放っています。中期の製品には、うのふ釉・飴釉を施すものが多く、釉薬のかけ分けや呉須絵などを施したものも見られます。摺絵技法は下半田川村でのみみられ、美濃との類似性が認められます。
17.京焼の影響
中期の碗の内、瀬戸村を中心に生産された御室茶碗、せんじ、腰錆茶碗等は、京焼き写しの製品といわれます。また、赤津村の「御窯屋」で生産された前期から中期にかけての特注品の中にも、古染付や伝世した朝鮮王朝呉器茶碗に由来する京焼を写した製品も見られます。これらがつくられはじめ生産量を増やすのと対照的に、前期まで椀類の主流であった天目茶碗の生産量が衰退することは、茶碗に対する嗜好が大きく変化し、京焼の強い影響下にあったことがうかがわれます
18.尾張藩政下の瀬戸窯業(連房(れんぽう)後期)―大衆陶磁器の形成―

18世紀の終わり頃には、供膳具・調理具に留まらず、住用具の火鉢や瓶掛、灯火具の秉燭(ひょうそく)・短檠等、様々な生活用具が生産されました。碗類の種類も豊富で、小型の碗・湯呑が量産されるようになります。その中で肥前磁器に類似した文様を呉須で陶器素地に施す「陶器染付」の生産が開始され、19世紀初めからは本格的な磁器生産が開始されました。それまで主流であった陶器生産は「本業(ほんぎょう)焼」、新たに導入された磁器生産は「染付焼」あるいは「新製(しんせい)焼」と呼ばれました(写真 : 御深井釉(おふけゆう)平水指)。
19.京・信楽焼、肥前磁器ほかの影響
後期の前半には、上絵付碗や小杉湯呑、長の(梅文湯呑)、う寿茶碗(梅文皿)に京・信楽焼の影響が強く認められます。その一方で、肥前磁器を写した陶器染付の丸碗・小中(こなか)・皿・広東碗等も生産され始めます。加藤民吉伝承等にあるように、瀬戸村の磁器生産の開始は肥前地方からの技術導入により開始されたと言われていますが、瀬戸村の磁器には、端反(はそり)碗をはじめとして中国清代の染付に近い器形・文様が目立ちます。
20.瀬戸染付と磁祖民吉(じそたみきち)

瀬戸の窯屋に生まれた加藤民吉は、次男であった為に陶業を継げず、熱田(今の名古屋市熱田区)の新田開発に出稼ぎに行っていましたが、奉行の津金文左衛門の指導を受け、磁器焼成に成功しました。その後瀬戸の庄屋加藤唐左衛門の尽力により瀬戸に窯は写されましたが、技術的に不十分な点が多かったため九州へ渡り、丸窯による焼成法や素地の精製法などを学び、1807(文化4)年瀬戸に帰還し技術を伝えたとされ、瀬戸染付磁器の開祖と呼ばれています。この民吉についての伝承のすべてが、史実として裏付けられているわけではありません。しかし、民吉ら瀬戸の陶工の努力により、磁器生産技術は飛躍的に向上し、一子相伝制の対象外であった磁器生産が陶器生産を瞬く間にしのぐようになった事実はゆるぎないものです(写真 : 染付山水図大花瓶・民吉作)。
Ⅱ.瀬戸焼の歩み―近代編―
明治以降の瀬戸は、従来の生産品に加え、海外向け製品や工業用品など、新分野への対応を迫られました。それに応えるため、様々な技術や思想を吸収、咀嚼しつつ、あらゆる分野のやきもの生産に挑んでいきました。その「陶都瀬戸」の歩みを特徴的な生産品に沿って概観します。
① 飲食器の発展
幕末以降、国内では陶磁器製品が日常の飲食器として次第に一般化します。さらに明治には輸出品としてコーヒーカップなどの洋飲食器の生産も開始され、飲食器の生産高は高まっていきます。また、成形方法もロクロによるものと共に、鋳込成形が発展し、砂糖入れなどの袋物の生産も得意分野となっていきました。
② 家具・装飾。工芸品の揺籃(ようらん)
明治に入ると、万国博覧会など海外との接触を通じて、やきものには輸出品という役割が加わります。この中で、家具・装飾・工芸品というジャンルが確立し、輸出品として瀬戸では花挿具を中心に、精妙な絵付けを施した装飾的な製品や他地域の絵付専門工場へ出荷される半製品が多く作られました。なお、明治年間のこれらの体験を経て美術工芸としてのやきものが明確化していきます。
③ 代用品とその時代



日中戦争が始まると、国内の金属資源を軍需に集中させるため、家庭用品を中心に金属製品を陶磁器製に代えた代用品の生産が奨励されます。さらに戦争が長期化すると、やきもの生産には厳しい統制が加えられ、太平洋戦争が始まる頃には、生産者ごとに生産品に統制番号を付け、管理されました。街、企業整備令により工場の整理統合が行われ、戦争末期には生産は極端に衰退しました。
ここで私の興味を引いたのは、陶器で作られたお金である(写真左・中)。これも金属の代用として作られたものであるが、流通させる前に終戦となり、発行されなかったことはご承知のとおり。あわせてドイツの陶貨も展示されていたが、こちらは実際に使われていた。もちろんドイツなのでマイセン製だ(写真右)。
④ 瀬戸ノベルティ
焼き物で出来た人形や動物などの置物を瀬戸ではノベルティと呼びます。ノベルティは、第一次世界大戦頃から輸出用製品として生産が本格化し、品質も向上していきます。第二次世界大戦による中断がありましたが、戦後は、飲食器をもしのぐ瀬戸の一大生産品に成長します。




以上が瀬戸焼の歩みに関する展示である。瀬戸焼の歴史については、別に「瀬戸3万年の歴史」のコーナー(写真左)が設けられ、発掘調査された埋蔵文化財などからの解説を試みていたが、今回はご紹介を省かせて頂いた。しかしこれらも併せて展示をジックリ拝見したおかげで、瀬戸焼の歴史についての大きな流れについてマスターすることが出来た。まだまだ見ていたかったのだが、帰りの時間も迫っていたので、名古屋鉄道の「尾張瀬戸」駅に向かった。途中、陶磁器店(写真中左)や陶磁器で出来たオブジェ(写真中右・右)などが並んでいるのを見ると、あらためて”やきもの”の街に来たことを感じた。今回は日帰りで訪ねたのだが、一泊して、あわせて美濃を訪ねるのも良いかもしれない。皆さんも如何ですか?
(参考文献)
・「瀬戸蔵―施設のご案内」(瀬戸蔵)
・「瀬戸蔵ミュージアム・展示案内」(瀬戸蔵ミュージアム)
瀬戸蔵ミユージアムのHP
http://www.city.seto.aichi.jp/sosiki/setogura/002492.html