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May 14, 2009

フランス革命期に発行された代用通貨

貨幣ぶらり旅(第158回)
マイ・コイン・コレクトョン(第16回)

先日入手した「TOKEN COIN(代用通貨)」2点をご紹介する。どちらも、フランス革命期に不足していた少額貨幣を補うため、「フランス・モネロン商会」により発行された「額面2ソル」の銅貨である。

「モネロン商会」は、フランスの政財界で活躍した「モネロン・ファミリー」によって運営された商社で、1791年に少額コインの製造権を得、その年の末頃から、イギリス・バーミンガムのソーホーで「代用通貨」の製造を始めた。しかし1792年5月の法律でプライベートなコインの発行が禁じられたため、製造は中止されたが、少額貨幣の不足が続いていたため、1793年の終わりまで「代用通貨」は流通していたようだ。

ちなみに、当時の貨幣単位は次の通り。
・1リーブル=20ソル[=240ドルニエ]
・1ソル=12ドルニエ

次に、個別のコインについて観る。少額通貨不足を補うために発行されたことから、活発に流通しており、今回手に入れたコインのように、「未使用状態」のものは希少のようだ。

① 2SOL[KM#Tn25 : Standard Catalog of WORLD COINS(Krause刊)]
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(表面 : 写真上)
デザイン : 座像・碑「DROITE DE L’HOMME ARTIC.Ⅴ.」
周辺「LIBERTE SOUS LA LOI」
エクサージ(下部)「LAN Ⅳ・DE LA LIBERTE」

(裏面 : 写真下)
周辺「MONNERON FRERES NEGOCIANS A PARIS」
中心部「MEDAILLE DE CONFIANCE DE DEUX SOLS A ECHANGER CONTRE DES ASSIGNATS DE 50ET AUDESSUS 1791」

② 2SOL[KM#Tn23 : Standard Catalog of WORLD COINS(Krause刊)]
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(表面 : 写真上)
デザイン : 座像・碑「DROITE DE L’HOMME ARTIC.Ⅴ.」
周辺「LIBERTE SOUS LA LOI」
エクサージ(下部)「LAN Ⅳ・DE LA LIBERTE」

(裏面 : 写真下)
周辺「REVOLUTION FRANCAISE 1792」
地「MEDAILLE QUI SE VEND DEUX-SOLS A PARIS CHEZ MONNERON | PATENTE |」


最後に、以前取り上げたアッシニア紙幣に関する年表に、今回の「代用通貨」を追記した。その位置づけを確認するための参考になるのではないだろうか。

[年表]
A1A2A3A4
------------------------------

(1789年)
5月5日 ヴェルサイユで三部会が開かれるが、議決方法で特権身分と第三身分とが対立
6月 テニスコートの誓い
7月14日 バスティーユ牢獄を襲撃
8月4日 封建的特権の廃止
同月26日 人権宣言
10月 女性を先頭にしたパリの民衆がヴェルサイユで行進し、改革に否定的な王家をパリに移転させる
11月 教会財産を没収し、国有化する
12月19日 革命政府が一般市民から献納金を求めるが、十分に集まらなかったため、革命により没収した教会の土地を担保に、年利5%の「利付国庫債券」(10,000リーブル券)を4億リーブル発行する(当初から紙幣の鋳造硬貨に対する交換比率が95%、すぐに90%になる)
(1790年) 
教会財産を没収、ギルドを廃止して営業の自由を確立
4月 年利3%の利付債券(2百、3百、1千リーブル券の三種類)を4億リーブル発行し、強制通用力を付与(「受け取らなければ死刑に処する」というもの)する
9月 最低額面を小口化(50リーブルへ) した無利子の債券を8億リーブル発行する
10月 既発の利付債券も無利子にする(事実上アッシニア紙幣の登場)
同月 国有地の売却始まる
(1791年)
フランス・モネロン兄弟商会より「額面2SOL(ソル)の代用通貨①」が発行される
6月 ルイ16世は王妃マリ・アントワネットの実家のオーストリアに逃亡を試みるが失敗する(ヴァレンヌ逃亡事件)
同月 アッシニア紙幣を6億リーブル発行する
同月 最低額面の小口化を進める(5リーブルへ)
9月 一院制の立憲君主政を定める
11月紙幣の鋳造硬貨に対する交換比率が82%に低下
(1792年)
フランス・モネロン兄弟商会より「額面2SOL(ソル)の代用通貨②」が発行される
最低額面の小口化を進める(0.5リーブル[=10スー]へ)
4月20日 オーストリアと開戦
7月 プロシアに宣戦
同月30日「アッシニア紙幣」発行(写真左: 5リーブル)
5月 プライベートコインの発行が禁じられる
6月 紙幣の鋳造硬貨に対する交換比率が57%に低下
8月 王権停止
10月24日「アッシニア紙幣」発行(写真中左: 25リーブル)
12月14日「アッシニア紙幣」発行(写真中右: 50リーブル)
12月末 「モネロン商会」発行の「代用通貨」の流通が終わる
(1793年)
1月 ルイ16世が処刑される
5月23日「アッシニア紙幣」発行(写真右: 10スー[=0.5リーブル=120ドルニエ])
6月 封建地代の無償廃止・亡命貴族らから没収した土地(国有財産)の競売・物価統制を目的とした穀物に対する最高価格令の施行
8月 アッシニア紙幣の発行残高が37億リーブルに達し、紙幣の鋳造硬貨に対する交換比率が22%に低下する
9月末 すべての商品に最高価格を設定したおかげで、一時的に紙幣の鋳造硬貨に対する交換比率が50%程度に回復する
10月 マリ・アントワネットが処刑される
(1794年)
7月 ロベスピエールがテルミドールのクーデターで権力を失い処刑され、穏健共和派が有力となる
12月24日 最高価格令廃止・金属貨幣売買の禁令を解く
(1795年)
総裁政府樹立
紙幣と硬貨の交換比率が0.5%にまで低下する(1795年末には月間50億リーブルも発行される)
6月 インフレ率が80%に達する
12月21日 アッシニア紙幣の発行残高が292億リーブルになる
12月22日 紙幣の発行限度を400億リーブルとする
(1796年) 
2月19日 発行上限に達したため、アッシニア紙幣の原版・印刷機械を、バンドーム宮殿で公開にて廃棄処分する。しかし夏場には、名目価値の1,000分の1になる

(参考文献)
・「国債の歴史」(富田俊基著)[東洋経済新報社刊]
・「マネー・その歴史と展開」(ジョン・K・ガルブレイス著)[TBSブリタニカ刊]
・「西洋貨幣史・下」(久光重平著)[国書刊行会刊]
・「お札の文化史」(植村峻著)[NTT出版刊]
・「詳説世界史」(佐藤次高ほか著)[山川出版社刊]
・「Standard Catalog of WORLD PAPER MONEY 2」(1368-1960)[Krause刊]

ウィキペディア・フリー百科事典(アッシニア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%8B%E3%82%A2
平成21年2月15日付当ブログ「貨幣ぶらり旅(第149回)」
http://coinkun.cocolog-nifty.com/coin/2009/02/26-131b.html

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May 09, 2009

パリから関空へ

ロンドン・パリの旅(第26回・最終回)

今日で、ロンドン・パリの旅も終りである。ロンドンでは寒く雨の日もあったが、パリに来てからは天候にも恵まれ、穏やかな気候の中で観光することが出来た。ツアーに組み込まれていた「ストーンヘンジ」や「モン・サン・ミツシェル」には行かず、ロンドン・パリの街を自由に歩き回った今回の旅。自分の行きたい所へ行き、見たいものを見ることが出来たので、これ以上楽しい旅は無かった。唯一難点と言えば、成田経由で帰らなければならず、その成田で4時間ほど待たなければならなかったことだ。JALの不採算路線閉鎖の影響で、「関空―ロンドン」便がなくなったためである。ヨーロッパの空港で待たされるのは、諦められるのだが、日本国内で待たされるのは我慢が出来ない。どこで待っても変わりはないのだろうが、私の気持ちの中では大いに異なる。不思議だ。

第六日目 [3月31日(火)]
・午前7:00 : 起床
・午前7:40 : 朝食
・午前10:00 : ホテル出発
・午前10:30頃 : 「シャルル・ド・ゴール空港(CDG)」に到着
・午前11:00 : チェック・イン手続き終了
・午前11:45 : セキュリティ・チェックを受ける
・午前11:55~12:10 : 空港内のお店を見ながら搭乗口まで歩く
・午後12:15~1:30 : 搭乗口「A37」で待つ
・午後1:30 : 搭乗
・午後1:50~2:55 : パリ→ロンドン飛行
・午後2:00~3:00(ロンドン時間) : バス等で空港内移動、セキュリティ・チェックを受ける
・午後3:00~3:50 : ラウンジで待つ
・午後4:00 : 搭乗口「27」から塔乗
・午後4:35離陸

最終日[4月1日(水)]
・午後12:00過ぎ(日本時間) : 成田空港に到着
・午後12:30~4:00 : ラウンジで待つ
・午後4:35 : 成田を出発
・午後6:00 : 関空に到着


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本日は帰国の日。朝早くから観光するつもりもなかったので、午前7:00頃、ゆっくり目覚める。午前7:40頃、朝食のためレストランに向かう。他のメンバーも朝早くから食事に来ていた。彼らと一緒のテーブルで食事(写真)をしていると、他のテーブルに着いている女性の方から名前を呼ばれた。そのテーブルまで行って彼女達と顔を合わすのだが、どこでお会いしたのか分からない。すると、スペインで一緒のツアーだったとの事。お顔は記憶にあるのだが、どこでお会いしたのかは全く思い出せなかった。食後、部屋に戻る時に色々と考えていると、一緒にモンセラットに昇ったことなど、少しずつ思い出した。せっかく声をかけて頂いたのに、思い出せなくて申し訳ないことをしてしまった。彼女達は私と同じパターンのツアーに参加しており、出発日が一日遅れ。従って、本日の彼女達はフリータイムである。どこを訪れる予定なのだろうか。

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午前10:00、ホテルのロビーに集合し、バスで「シャルル・ド・ゴール空港(CDG)」に向け出発した。途中渋滞もなく、30分ほどで空港に到着。チェック・インの手続きが午前11:00からだったので、チェック・イン機の前に並んで待つ(写真左・中左)。チェック・イン後、セキュリティ・チェックを受け、搭乗口である「A37」まで、途中にあるお店を見ながらブラブラと歩く(写真中右)。この空港ではラウンジは使えないとの事だったので、「A37」のシートに座り(写真右)、ツアーの人達とお話しをして過ごす。その中の一人の女性は、アイススケートのプロであった。金メダルを獲った、荒川静香選手とも友達との事。アイスショーに出演するため、国内各地を回っていることなど、色々とお話を聞かせてもらう。

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午後1:30搭乗。座席はビジネスクラス仕様ではないが、3列ある席のうち真ん中の席には「Elbow room」と表示し(写真左)、人が座れないようにして座席に余裕を持たせ、エコノミークラスと区別していた。1時間ほどのフライトだが、軽食が出る。チキンとサラダの味付けが良く、美味しく頂いた(写真中左)。飛行機は「ドーバー海峡」を渡り、イギリスの上空に出る(写真中右・右・中段)。ロンドン・ヒースロー空港に着陸する前、空からは「タワー・ブリッジ」(写真下段左)や「ウェツトミンスター宮殿」(写真下段中左)、「バッキンガム宮殿」(写真下段中右)、「ケンジントン・パーク」(写真下段右)などが見える。自分の足で歩いて観光した場所なので、どこに何があるのかハッキリと分かる。立体ミニチュアマップを見ているようであった。

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着陸後、成田行きの飛行機が出る「ターミナル5」にバスで移動し、買い物を済ませてからラウンジで休息する(写真左・中左)。搭乗予定時間が近づいたので「ゲート27」に行くと、すぐに塔乗出来た(写真中右)。これから12時間弱のフライトが始まる。機内では、シートベルト着用サインが消えると、飲み物とおつまみ(写真右)が出た。その後しばらくして夕食である。今回は和食を選択。

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メニューは次の通り。

・八つの肴「旬味彩菜」(蟹豆腐春かすみ、すずきの御造り、鮪山かけ、小魚の南蛮漬け、五色素麺、若鶏の若狭焼、六角芋の含め煮、バイ貝の旨煮)(写真左)
・イベリコ豚の鍋仕立て(写真右)
・ご飯、香の物、味噌汁(写真右)
・洋梨のコンポ―ト、チョコレートとクリームのアングレーズソース添え
・緑茶

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朝食は和定食(写真)を頂く。メニューは次の通り。

・白粥
・鯖の塩焼き
・玉子焼き
・金平牛蒡
・フレッシュフルーツ

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食事以外の時間は、ほとんど寝て過ごす。よく遊んだので、疲れが溜まっていたのであろう。日本時間の午後12:00過ぎ、成田空港に到着。東京や九州などから参加した人達は、ここで入国手続きをするのだが、関空に向かう人達の入国は関空で行うため、成田空港に着いたとはいえ、私はまだ日本に入っていないのだ。10年ほど前、成田空港は頻繁に利用していたが、最近全く利用していなかったので、しばらく空港内を見て廻り(写真左・中左)、その後モノレールでラウンジに向かう。ラウンジでは、関空行きに乗るまでの約4時間、雑誌を読んだり、軽食を頂いたりして時間を過ごす(写真中右・右)。

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午後4:00過ぎに塔乗(写真左)。座席はビジネスクラス仕様で、ゆったりしたシートであった(写真中左)。午後4:30過ぎに離陸、1時間半ほどで関空に到着。飛行機を降りると、丁度夕日が沈みかけていた(写真中右)。急いで入国手続きをして、税関を通り、向かった先は関空内にある「とんかつ屋」。日本を離れてわずか1週間のことなのだが、「とんかつ」(写真右)が食べたくて仕方がなかったのだ。「とんかつ」を食べながら、無事に帰国できたことに感謝。

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May 08, 2009

ルーブル美術館

ロンドン・パリの旅(第25回)

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午後3:30、「サント・シヤペル」の見学を終え、「ノートル・ダム大聖堂」から来る時に通った道を引き返した。「警視庁」の前を通ると、行列が出来ていた(写真左)。先を急いでいたので、何の行列かは尋ねなかったが、少々気になるところだ。広場の突き当りを左に曲がると、有名な「シテ島の花市」である。多くの人々が訪れ、鉢植えを探している(写真中左・中右)。部屋の中や窓辺に飾るのであろうか。右岸(北側)に通じる「ノートル・ダム橋」を渡る。ここからは、再び「コンシェルジユリー」の姿を見ることが出来る(写真右)。「シャンジュ橋」の方に向かい西に150mほど歩くと、地下鉄「シャトレ駅」だ。ここから「パレロワイヤル・ミュゼ・デュ・ルーブル駅」まで2駅、約5分で到着した。

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地上に出ると、正面に「パレ・ロワイヤル」(写真左)が建っていた。「ルーブル美術館」は反対側にあるので、道路を渡り通路を進む(写真中左)。100mほど歩くと「ピラミッド」が見えた。お天気が良く、気温も穏やかだったため、「ピラミッド」の周りには多くの人がくつろいでいる(写真中右)。西に目を向けると「ガルーゼル凱旋門」(写真右)だ。「ピラミツト」とその周囲の写真を撮り(写真下段)、館内に入る。

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セキュリティー・チェックを受け(写真左)、エスカレータで地階へ進む(写真中左)。ガラス張りの「ピラミッド」の真下なので、非常に明るい(写真中右)。インフォメーション(写真右)で館内案内地図を貰って、「ミロのビーナス」や「モナ・リザ」、「サモトラケのニケ」などが展示されている「ドゥノン翼」の入り口に向かうが、こちら側からは入れないとの事。仕方ないので、「リシュリュウ翼」側の入り口から展示室に入る。ここでも「ミュージアム・パス」が使えたので、チケットを買うために並ぶ必要はなかった。

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3Fから2F、1Fと下りながら見ることにしたので、最初に3Fまで上る。このフロアには、「フランス絵画」や「ドイツ・フランドル・オランダ」の絵画が展示されていた(写真左・中左・中右 : コローの作品が展示されている部屋)。前回訪れた時と比べ、展示方法が変わっているように思えた。しばらく改修工事をしていたようなので、展示の仕方も変えたのであろうか。とりあえずフェルメールやコロー、アングルの作品が見たかったので、大急ぎで廻る。しかし、有名な作品であるフェルメールの「レースを編む女」や、コローの「モルトフォンテーヌの思い出」、アングルの「トルコの浴場」など、すべて見ることが出来なかった。スタッフに尋ねると、ニコニコしながら「今、日本に貸し出しているので、日本に帰ってから見てください」との言葉が返って来た。私のことが日本人と分かったからであろう。そういえば、現在東京の2つの美術館でルーブル展が開催されていた。6月には大阪と京都に巡回するはずなので、その時、見に行かなければならない。展示室を見ていて面白いと思ったのは、絵画の前で数人の人が模写していたことだ(写真右)。講師らしき女性が指導していたので、当然、美術館の許可をもらってのことだろうが、日本では考えられないシーンではないだろうか。


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次は2F。「ドゥノン翼」に向かう。まず、階段のところで「サモトラケのニケ」(写真左)を見る。続いて「絵画部」に進み、「フランス絵画」と「イタリア絵画」が展示されている通路(写真中左)に挟まれた部屋に入る。広い部屋だが、人で混雑している(写真中右)。非常に人気がある作品が展示されているのだ。レオナルド・ダ・ビンチの「モナ・リザ」(写真右)である。絵画の写真を撮るだけでなく、絵画と一緒に記念撮影しようとする人たちが多いため、混雑しているのだ。自分と作品だけが写った写真を撮ろうとすると、他の人が邪魔になる。みんなが、邪魔になる人のいない場所、瞬間を狙って撮ろうとするため、なかなか動かない。「モナ・リザ」だけを見たい人にとっては迷惑だが、彼らにとってはこのような人も邪魔になるのだろう。悪循環を避けるため、場所を決めて順番に撮らせればよいようにも思うのだが、如何であろう。「モナ・リザ」と同じ部屋では、677×994cmと巨大なバオロ・カリアーネの「カナの婚宴」(写真下左)を、またイタリア絵画が展示されている通路にはラファエロの「聖母子と幼児聖ヨハネ」(写真下右)を見ることが出来た。

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ここまで見たところで、既に午後5:00を過ぎていた。閉館時間が午後6:00なので、午後5:30には追い出されてしまう。まだ「ミロのビーナス」を見ていなかったので、急いで1Fに降りる。しかし午後5:00を過ぎると、出口に最も遠い部屋から順番に閉鎖して行くようで、すでに「ミロのビーナス」を展示している部屋には行くことが出来なくなっていた。仕方がないので、ミケランジェロの「囚われの身瀕死の奴隷」(写真左)やカノーヴァの「エロスの接吻で目覚めるプシュケ」(写真右)などの彫刻を見て、美術館を出た。前回パリを訪れた時は、「ルーブル美術館」でジックリと鑑賞し、「オルセー美術館」がタイム・アウトになったのだが、今回は逆になってしまった。前回見ているとはいえ、「ミロのビーナス」はもう一度見たかったので、少々残念であった。

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「ルーブル美術館」を出た後、「ピラミッド」周辺で再び写真撮影を行い(写真左・中左)、夕食のため、徒歩で昨日訪れたレストラン「ひぐま」(写真中右)に向かった。昨日同様「チャーハン」(写真右)を注文し、美味しく頂く。午後6:20、地下鉄「パレロワイヤル・ミュゼ・デュ・ルーブル駅」から「シャトレ駅」経由で「クール・サンテミリオン駅」へ。午後7:00頃、ホテル「プルマン・パリ・ベルシー」に到着した。本日で観光は終わり。足に疲れが蓄積されてきたので、早めに入浴して疲れを取る。いつものように資料整理を済ませ、午後9:30頃ベッドに入った。

[作品の詳細]
・「サモトラケのニケ」(サモトラケ島、ヘレニズム時代、紀元前190年頃、大理石 : 328cm)
・「リザ・ゲラルディーニ・デル・ジョコンドの肖像(通称「モナ・リザ」)」(レオナルド・ダ・ビンチ作、フィレンツェ、1503~1506年頃、木に油彩 : 77×53cm)
・「カナの婚宴」(バオロ・カリアーネ作、ヴェネツィア、1562~1563年、カンヴァスに油彩 : 677×994cm)
・「聖母子と幼児聖ヨハネ(別名「美しき女庭師」)」(ラファエロ作、フィレンツェ、1507年、木に油彩 : 122×80cm)
・「囚われの身瀕死の奴隷」(ミケランジェロ作、ローマ、1513~1515年、大理石 : 高さ228cm)
・「エロスの接吻で目覚めるプシュケ」(アントニオ・カノーヴァ作、ローマ、1793年、大理石 : 高さ155cm)

ルーブル美術館(日本語)
http://www.louvre.fr/llv/commun/home.jsp?bmLocale=ja_JP
日本で開催されているルーブル展
http://www.louvre2009.jp/index.html
日本で開催されているルーブル展[ルーブル美術館展 17世紀ヨーロッパ絵画](国立西洋美術館→京都市美術館巡回)
http://www.ntv.co.jp/louvre/
日本で開催されているルーブル展[ルーブル美術館展 美の宮殿の子どもたち](国立新美術館→国立国際美術館・大阪巡回)
http://www.asahi.com/louvre09/
平成18年9月3日付・当ブログ「ルーブル美術館、ノートルダム寺院・・・」
http://coinkun.cocolog-nifty.com/coin/2006/09/post_30c6.html
平成18年9月14日付・当ブログ「今回2度目の「ルーブル美術館」」
http://coinkun.cocolog-nifty.com/coin/2006/09/2_d0b6.html

(参考文献)
・「週刊・世界遺産NO4・パリのセーヌ河岸1」(講談社刊)
・「04~05地球の歩き方 フランス」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「ルーブル・ポケツトガイド(日本語版)」(デニス・キリアン監修)[ルーブル美術館]

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May 07, 2009

シテ島観光(その3 : サント・シャペル)

ロンドン・パリの旅(第24回)

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「コンシェルジュリー」を出た後、その外観を見るため、右岸(北側)と繋がる「シャンジュ橋」を渡った。ここからの眺めは、ガイドブックなどにも紹介されるアングルだったので、数枚写真を撮る(写真)。再び橋を通って「シテ島」に渡り、「サント・シャペル」を目指した。先ほど「最高裁判所」に入る時に通ったのと同じ入口に行き、セキュリティ・チェックを受けるため腕時計などの金属製品を外していると、先ほどと同じ係官が、「はずさなくてもいいヨ。通りなさい」と言ってくれたので、今度は簡単に通ることが出来た。先ほどは間違えて裁判所の建物の中には入ってしまったが、今度は案内板が示している通りに進むと、無事に「サント・シャペル」の入り口の前に出た。

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ここは比較的空いており、直ぐに入ることが出来た(写真)。もちろん「ミュージアム・パス」が使えるので、ここでもチケットを買う必要はない。礼拝堂は1Fと2Fの2か所あり、入口は1Fの礼拝堂にある。「サント・シャペル」は、「コンスタンチノープルの皇帝から譲り受けたキリストの荊の冠と磔刑の十字架の断片を安置するため、ルイ9世が造らせたもので、1239年から1248年にかけて建造された。王はこの建設工事に莫大な費用を投じたが、それは聖遺物を手に入れるために支払った金額の三分の一に過ぎなかったと言われている。莫大な金額を費やして手に入れた聖遺物は、現在、ノートル・ダム大聖堂の宝物殿に収められている。礼拝堂は現在裁判所の敷地内に建っているが、この裁判所の建物は、14世紀までは王宮として使われていたものだった。創建当時は、王の居室から礼拝堂へ直接つながる廊下があったと言う」(「週刊・世界遺産NO4・パリのセーヌ河岸1」より)。

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受付を通って1Fの礼拝堂に入ると、窓は小さく、天井も低いが、ステンドガラスは美しく輝き、柱や壁には細密な彫刻が施されていた(写真)。この礼拝堂は廷臣や庶民の祈りの場とされていたようだ。次に左手にある細い階段を上り、2Fの礼拝堂に向かった。「2階にある王家の礼拝堂に足を踏み入れた途端、誰もが息を呑む。そそり立つような細長い柱を挟んで15の窓が連なり、壁面のほとんどが多彩色のステンドグラスで埋め尽くされているのだ。そして、その窓は光の壁となって輝いている。さらにその上部には、満天の星空をイメージした天井が浮かぶ」(「週刊・世界遺産NO4・パリのセーヌ河岸1」より)のである。

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「04~05地球の歩き方 フランス」に「午後に行くと、丁度階段を上った正面から光が差し込んで、ため息が出るほど鮮やかなステンドグラスの透き通る青や赤が目に飛び込んでくる」とあったので午後に訪れたのだが、その内容に偽りはなかった。ただ美くしいの一言である(写真)。「12世紀からフランス各地に建立されたゴシック様式の聖堂の中でも、ステンドグラスの輝きにおいて、この礼拝堂の右に出るものはない。延べ面積が600㎡以上に及ぶガラス窓に描かれている情景は、キリスト受難の物語をはじめ、全部で1134にも上り、その緻密さ、色の豊富さは他の聖堂をはるかに凌いでいる。並はずれて敬虔なキリスト教徒であったルイ9世が、地上に神の国を実現しようとした熱い思いが、見る者の心にも伝わってくるようだ」(「週刊・世界遺産NO4・パリのセーヌ河岸1」より)。

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15分ほどの短い時間であったが、日本語の解説プレートを手に、ステンドグラスの前に並べられた椅子に座ってその美しさを堪能するとともに、いくつかの物語を楽しむことが出来た。まだまだ見ていたかったのだが、「ルーブル美術館」にも行きたかったので、已む無くここを離れることにした。


サント・シャペル
http://sainte-chapelle.monuments-nationaux.fr/en/
ウィキペディア・フリー百科事典(サント・シャペル)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%9A%E3%83%AB


(参考文献)
・「週刊・世界遺産NO4・パリのセーヌ河岸1」(講談社刊)
・「04~05地球の歩き方 フランス」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「ヨーロッパものしり紀行・フランス」(紅山雪夫著)[新潮文庫]
・「ヨーロッパものしり紀行・建築・美術工芸編」(紅山雪夫著)[新潮文庫]
・「サント=シャペル・シテ王宮」(国立モニュメントセンター編刊)

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May 06, 2009

シテ島観光(その2 : 最高裁判所とコンシェルジュリー)

ロンドン・パリの旅(第23回)

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次に向かったのは、「サント・シャペル」と「コンシェルジュリー」だ。「ノートル・ダム大聖堂」から西へ300m程離れているのだが、同じ「シテ島」内なので近く感じる。「警視庁」のある広い通りに出ると、正面に「最高裁判所」が、またその左に「サント・シャペル」、右に「コンシェルジュリー」が見える(写真)。セキュリティ・チェックを受けて建物の中に入る。

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最初に「サント・シャペル」を訪れる予定だったのだが、どこから入るのかが分からない。廊下から窓の外を見ると、「サント・シャペル」(写真左)が見える。また黒い法衣を纏った人が何人も歩いている(写真中左)。どうやら間違えて、「最高裁判所」に入ってしまったようだ。せっかくここまで来たのだからと思い、「裁判所」内を見学することにした(写真中右・右)。少し歩くと、広間に出た(写真下左・下中左・下中右)。所内の案内ブースがあったので、所内案内地図をもらう。この地図は観光用ではなく、裁判に関係する人たちが、自分に関係のある裁判の行われている部屋を知るために作られたものであった。何号法廷を探しているのかと尋ねられたが、地図だけ欲しかったことを伝え、その場を離れた。所内をウロウロしながら、ある部屋の扉を開けると、中では裁判が行われていた。民事なのか刑事なのかは分からなかったが、傍聴人らしき人達が20人ほどいた。約20分、「裁判所」内を見学し、一旦外に出た(写真下右)。

先ほどセキュリティ・チェックを受けたのとは反対側に行列が出来ていたので、そちら側を見ると、「コンシェルジュリー」の入り口だったので、まずこちらを訪れることにした。ここも「ミュージアム・パス」が使えたおかげで、行列を横目に、並ばずに入場することが出来た。前回パリに来た時、ここは訪れなかったので、今回初めての見学になる。

「コンシェルジュリーとは旧王宮の管理者であった「門衛(コンシェルジュ)」がいた場所のこと。14世紀にフィリップ四世(美男王)が建てさせたもので、3つの塔と3つの大広間からなる」(「04~05地球の歩き方 フランス」から)。「しかし、革命の嵐が吹き荒れた時代、その建物は牢獄に転用され、”ギロチンの待合室”として、恐怖政治の象徴となった。収監され、断頭台行きの護送車に載せられた囚人は、1793年1月からわずか1年半で、約2,600人。その中には、フランス王妃マリー・アントワネット、ルイ十五世の愛人デュ・バリー夫人、革命家のダントンやロベスピエールの名も含まれている」(「週刊・世界遺産NO4・パリのセーヌ河岸1」より)との事。

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中に入って最初に通るのが、「衛兵の間」である。華やかな宮廷生活を偲ばせるゴシック様式の建築で、かつては廷臣たちが食事をする場所でもあったようだ(写真左・中左・中右)。奥に進むと「囚人の廊下」がある。その奥には「マリー・アントワネットの独房」(写真右)だ。ベルサイユ宮殿で贅沢三昧の日々を過ごした彼女は、一転、ここで約2ヶ月半幽閉され、最後は普通の囚人と同じように荷車で現在のコンコルド広場に送られ、ギロチンで首をはねられたのである。

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さらに進むと、「ジロンド党の礼拝堂」(写真左)がある。「フランス各地から連行されてきた囚人を留置する場所が不足したため、1793年から1794年にかけて留置房の一部として使われた。ジロンド党の礼拝堂という名は、革命法廷の判決を聞いて自決したデュフィリシュ・ヴァラゼの遺体の横で、仲間のジロンド党員たちが最後の晩餐を行ったことに由来する」(「コンシェルジュリー・シテ王宮」より)。その向かい側には、「聖歌隊壇と女囚用の格子席」(写真中左)だ。これらの部屋に接するように「女囚の庭」(写真中右・右)がある。高額な金品を提供すれば上層にある独房が与えられ、ベッドで眠ることも出来たようだが、貧しい囚人は1Fで家畜のように藁のなかで寝かされていたようだ。1F・2Fを一通り見て廻り、約20分で「コンシェルジュリー」の見学を終えた。

コンシェルジュリー
http://conciergerie.monuments-nationaux.fr/
ウィキペディア・フリー百科事典(コンシェルジュリー)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%BC
ウィキペディア・フリー百科事典(Palais de Justice, Paris)
http://en.wikipedia.org/wiki/Palais_de_Justice,_Paris
ウィキペディア・フリー百科事典(サント・シャペル)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%9A%E3%83%AB


(参考文献)
・「週刊・世界遺産NO4・パリのセーヌ河岸1」(講談社刊)
・「04~05地球の歩き方 フランス」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「ヨーロッパものしり紀行・フランス」(紅山雪夫著)[新潮文庫]
・「ヨーロッパものしり紀行・建築・美術工芸編」(紅山雪夫著)[新潮文庫]
・「コンシェルジュリー・シテ王宮」(国立モニュメントセンター編刊)

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May 05, 2009

シテ島観光(その1 : ノートル・ダム大聖堂)

ロンドン・パリの旅(第22回)

「貨幣博物館」のブティックを出て、次に向かったのは「シテ島」である。ご存知の通り「シテ島」は、パリの中心部に位置するセーヌ川の中州で、パリ発祥の地だ。「紀元前300年頃、ケルト人のパリシイ族が、セーヌに浮かぶ今日のシテ島に定住したのは、そこが川を移動するのに恰好な基点となったからだ。ケルト人はこの地域をルテティアと呼んだ。ルテティアとはケルト語で「水に囲まれた住まい」と言う意味だ。そしてパリシィという言葉から、のちにパリという都市名が生まれるのである」(「週刊・世界遺産NO4・パリのセーヌ河岸1」より)。

その後ローマ人が「シテ島」とセーヌ左岸を支配し、ここに水道をひき、道路や劇場、共同浴場などが造られ、パリは河川交通の要衝として発展した。「シテ島を中心としたパリは、10世紀から14世紀のカペー朝時代に急成長した。王宮は6世紀からシテ島に置かれていたが、カペー朝以前の王は移動生活をし、定住しなかった。だが、フィリップ一世(在位1060~1108)以降、王はパリに定住する。この後、政治と宗教はシテ島、文化や学問はセーヌ左岸(南側)、商工業は右岸(北側)を中心に、目覚ましい発展を遂げていく。なかでも12~13世紀はパリがヨーロッパのキリスト教文化の中心として開花した時代だった。シテ島でノートル・ダム大聖堂が着工され、ステンドグラスを纏ったサント・シャペルが誕生。このゴシック様式の二大傑作は、パリのみならず国民の誇りとなった」(「週刊・世界遺産NO4・パリのセーヌ河岸1」より)との事。

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「貨幣博物館」のブティックから「ポン・ヌフ」の前に出て、「シテ島」には渡らず、左岸を東に向かって歩いた。左手にはセーヌ川越しに「サント・シャペル」や「警視庁」の建物が見える(写真左)。振り返ると「ポン・フヌ」だ(写真中左)。1607年に完成した橋で、これにより初めて右岸と左岸が結ばれたのである。「シテ島」の南側にはアーチが5つ、北側には7つあり、全長238m、幅22m。ちなみに「ポン・ヌフ」とは「新しい橋」を意味する(「ポン(Pont)」=「橋」、「ヌフ(Neuf)」=「新しい」)。しばらくすると、正面に「ノートル・ダムの大聖堂(以下「大聖堂」という)」が見えてきた(写真中右)。「ポン・ヌフ」から「シテ島」につながる3つ目の橋を渡ると、「大聖堂」の前に出た(写真右)。

「大聖堂」は、奥行き128m、幅40m、高さ33mある。「04~05地球の歩き方 フランス」によると、「4世紀頃キリスト教が国教となり、古代ローマ人たちの祭壇があった場所にサンテテイエンヌ聖堂が建てられた。この聖堂が現在の大聖堂の前身になっている。実際にノートル・ダム大聖堂として改築工事が始められたのは、ルイ7世の時代1163年だ。完成をみたのは1330年頃、起工から実に約170年を費やしている。それまでの教会とは違って窓が大きく、ステンドグラスの採用、巨大な内部、そして何よりも空へと伸びる塔の雄々しさは、中世の人々を驚かせた」との事。

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「大聖堂」まえの広場には、大勢の人たちがいる。正面には2つの塔があり、空に向かって垂直に伸びる(写真左・中左)。壁面には数多くの繊細な彫刻だ。正面扉口上部の「西のバラ窓」の前には、キリストを抱くマリア像(写真中右・右 : 聖堂内から見た「西のバラ窓」)が見られる。

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また西側正面には3つの扉口があり(写真左)、左端の扉口(写真中左)には「聖母マリアが死後、天上界に上り、天使から栄光の冠を授かる「聖母マリアの戴冠」の様子」(「週刊・世界遺産NO4・パリのセーヌ河岸1」より)が彫られており、中央の扉口(写真中右)にはキリストの「最後の審判」の彫刻が施されている。写真右は、右端の扉口。

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聖堂内に入ると、お天気が良かったことも幸いし、ステンドグラスの窓から色とりどりの光が差し込み、美しい姿を見せてくれている(写真)。

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中でも「バラ窓」は要注目だ。「北のバラ窓」(写真上)は、「地上21mの高さにあり、直径は13mに及ぶ。中央には聖母子、その周囲には旧約聖書に登場する聖人や王などが描かれ、総勢80人のドラマが展開する」(「週刊・世界遺産NO4・パリのセーヌ河岸1」より)。「南のバラ窓」(写真下)は、「13世紀の窓の一部が現在も残っている。地上からの高さは13m、キリスト像を中心に、聖母マリアや十二使徒が描かれている」(前掲書より)。

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ステンドグラス以外にも、高い天井構造を可能にした「尖塔アーチ」や「リブ・ヴオールト」なども見ものだ。建築に興味のある方であればなおさらである。教会を見上げれば、ロマネスク様式との違いがはっきり分かる(写真)。

15分ほどで「大聖堂」の見学を終え、前回訪れた時に上れなかった「大聖堂」の塔に上ろうと思い、北側の入り口に向かうが、大行列が出来ていたため、今回も塔に上ることを断念した。ところで、かつて私が誤解していたので、ここであえてコメントするが、「ノートル・ダム」とは「聖母マリア」のことで、「聖母マリア」に捧げられた寺院であることから「ノートル・ダム大聖堂」と呼ばれるのである。パリにあるのが「ノートル・ダム大聖堂」だと思っていたのだが、あちらこちらに「ノートル・ダム」と名付けられた聖堂があったため(アミアンやランスなど)、混乱していたことがあったのだ。一般的に「ノートル・ダム大聖堂」と言えば、今回訪ねたパリの「大聖堂」のことを言うようだが、念のため申し添えておく。


ウィキペディア・フリー百科事典(シテ島)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%86%E5%B3%B6
ウィキペディア・フリー百科事典(ポン・ヌフ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%8C%E3%83%95
ノートル・ダム大聖堂
http://www.notredamedeparis.fr/
ウィキペディア・フリー百科事典(ノートル・ダム大聖堂)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%A0%E5%A4%A7%E8%81%96%E5%A0%82_(%E3%83%91%E3%83%AA)
ウィキペディア・フリー百科事典(サント・シャペル)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%9A%E3%83%AB


(参考文献)
・「週刊・世界遺産NO4・パリのセーヌ河岸1」(講談社刊)
・「04~05地球の歩き方 フランス」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「ヨーロッパものしり紀行・フランス」(紅山雪夫著)[新潮文庫]
・「ヨーロッパものしり紀行・建築・美術工芸編」(紅山雪夫著)[新潮文庫]

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May 04, 2009

ポン・ヌフ駅のコインのオブジェ

ロンドン・パリの旅(第21回)
貨幣ぶらり旅(第157回)

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「マクドナルド」で昼食を済ませ、午後1時前、地下鉄「ジョージⅤ駅」から「パレ・ロワイヤル・ミュゼ・デユ・ルーブル駅」経由で「ポン・ヌフ駅」に向かった。平成21年4月23日付の当ブログ「ロンドン・パリの旅(第16回)」でお話ししたように、パリの地下鉄にはユニークな駅がいくつかある。「ポン・ヌフ駅」もその一つで、ホームにコインのオブジェなどがデザインされているのだ。「ポン・ヌフ駅」(写真)に到着すると、すぐに列車を降り、他の乗客がいなくなるのを待ってから、ホームの写真撮影を始めた。

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私が降りた場所の壁には、百科全書による打刻機の機能説明に添えられた図がタイルで描かれ、その前に貨幣を製造する打刻機が置かれている(写真左・中左)。ホームを3~4m「ルーブル・リヴォリ駅」側に行くと、コインのオブジェが並んでいる(写真中右)。どれもが実際に使われたコインのデザインである。そして壁に飾られているだけでなく、ホームの天井から反対側のホームにまでつながっているのだ(写真右)。

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列車を降りたホームの壁に掲げられているオブジェを見ると、「第一共和制・英雄ヘラクレスと女神達5フラン銀貨」や「第三共和制・種を蒔く女2フラン銀貨」、「第三共和制・20フラン銀貨」など(写真上)が、また反対側のホームの壁には、「ケルト人・パリシィ族のスタテル金貨」や「ルイ9世トゥールの大ドゥニエ銀貨」、「シャルルマーニュのモノグラム銀貨」など(写真中)有名なフランスコインのオン・パレードである。しかも天井にも続いている(写真下)のだから、コインコレクターの私としては、見ているだけで楽しくて仕方がない。日本の地下鉄にも、このような駅があっても良いのではないだろうか。

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「ポン・ヌフ駅」のコインオブジェの写真を撮った後、昨日訪れた「貨幣博物館」の「ブティック」に向かった。なぜ2日に分けて訪ねたのかと言うと、「貨幣博物館」は本日、月曜日が休館日で、「ブティック」は昨日、日曜日が休みだったからである。前回訪れた時、荷物になるため買うのを止めた書籍類が欲しかったので、再びここを訪ねたのだが、期待は裏切られた。店内に入ると、スペースは狭くなり、書籍類は並べられておらず、コインもフランスの現行記念コインが販売されているだけであった。特に前回購入できた「モナコ」のユーロコインが欲しかったのだが、現在は置いていないとの事。そしてショーケースに増えていたのは、コインを使ったネックレスやペンダントなどのアクセサリー類だ。また店員の数も減っており、前回親切にしてくれた、少しだけ日本語の話せるフランス人女性の「カティ」もいなかった。売り場面積は減り、人員も削減。そういえば、昨日訪れた「貨幣博物館」では、イヤホンガイドが廃止されていた。採算が悪いため、事業規模を縮小しているのだろうか。欲しいものが無かったので、「モネー・ド・パリ」の記念メダルだけを購入し、出口に展示されていた何点かのコイン(写真上段・下段左・中左)を見て、「ブティック」を出た(写真中右・右)。

モネー・ド・パリのブティック
http://boutique.monnaiedeparis.fr/is-bin/INTERSHOP.enfinity/eCS/Store/fr/-/EUR/BrowseCatalog-Storefront;sid=TdWcmpyVbdipSNVo4pqIoY85CUqdcxk8RDc=?Boutique=B2C

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May 03, 2009

フランス国立ギメ東洋美術館とバカラ・ギャラリー・ミユージアム

ロンドン・パリの旅(第20回)

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オープン5分ほど前に、「フランス国立ギメ東洋美術館(以下「ギメ美術館」という)」に到着(写真左)。入口付近には、十数人の人達が開館を待っている(写真中左)。建物の横に目をやると、大勢の子供達(写真中右)。美術館での学習なのだろうか。彼らも開館待ちのようだ。午前10:00になると、先に団体口から子供達を入館させ、その後正面入り口が開けられた。セキュリティー・チェックを受け、館内に進む(写真右)。受付でミュージアム・パスを見せ、展示室に向かった。

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この「ギメ美術館」は、実業家エミール・ギメがアジア各国から持ち帰った東洋美術のコレクションを収蔵している。0階(日本の1F)にはインドと東南アジア(写真左・中左)、1階(同2F)は古代中国、ネパール、チベット、パキスタンなど(写真中右・右)、2階(同3F)は日本、朝鮮など(写真下段左・中左)、そして3階(同4F)、4階(同5F)には古典中国の美術品が展示されている(写真中右・右)。これらの中から5点ご紹介したい。

① 「千手千眼観音立像」(中国・五代、漆金木彫)

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----------------------------------------「千手観音」には、「坐像、立像ともにあり、実際に千本の手を表現した作例もあるが、十一面四十二臂(※)とするものが一般的」(ウィキペディア・フリー百科事典(千手観音)より)と言われており、これまでに見た中で千本の手を持っていそうなのは「唐招提寺」の「千手観音立像」(※※)だけだったので、本立像を見た時は驚いた。しかも手で触れることが出来るくらい間近から見ることが出来るのだ。実際に何本の手があるのかについては、何も表示されていなかったので分からないが、千本ぐらいありそうな感じである。

(※)「四十二臂の意味については、胸前で合掌する2本の手を除いた40本の手が、それぞれ25の世界を救うものであり、「25×40=1,000」であると説明されている。ここで言う「25の世界」とは、仏教で言う「三界二十五有(う)」のことで、天上界から地獄まで25の世界があるという考えである(欲界に十四有、色界に七有、無色界に四有があるとされる)。ちなみに「有頂天」とは二十五有の頂点にある天上界のことである」(ウィキペディア・フリー百科事典(千手観音)より)。
(※※) 「唐招提寺」の「千手観音立像」は、42本の大手と911本の小手の合計953本を持っている。

ウィキペディア・フリー百科事典(千手観音)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E6%89%8B%E8%A6%B3%E9%9F%B3

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----------------------------------------② 「銅象尊」(湖南長沙出土・商晩期 : 紀元前12~11世紀)(写真左)
③ 「毘沙門天像」(鎌倉時代 : 13世紀初・桧材寄木造・玉眼嵌入)(写真中左)
④ 「Le mahasiddha Saraha」(チベット、16~17世紀、真鍮製金メッキ)(写真中右)
⑤ 「Dakini dansante」(チベット、18世紀初頃、銅製彩色金メッキ)(写真右)


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約1時間、「ギメ美術館」での鑑賞を終え、次は「バカラ・クリスタル・ミュージアム(以下バカラ美術館)という」である。「ギメ美術館」から北へ250mくらいの所に位置する。公園(写真左)の南側にある建物(写真中)、入口に赤い幕が垂れ、白文字で「Baccarat」と書かれていた(写真右)。ここがバカラの本社であり、この建物の中にミュージアムがある。この建物は、ベル・エポックのパリで“社交界の女王”と謳われた画家で詩人のマリー=ロール・ド・ノアイユ子爵夫人(1902-1970)が暮らした邸宅であったとの事。

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赤い扉のある入口から建物に入ると、通路の周りに鏡が張り巡らされている(写真左)。赤い絨毯の敷かれた通路のなだらかな階段(写真中左)を上ると、クリスタル製のイスが展示されているスペースに出る(写真中右)。その右側にはまた階段がある。見上げると、重さが800kgもあるシャンデリアだ(写真右)。

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2Fにはミユージアムの受付がある。「ミュージアム・パス」を見せるが、ここはプライベートミュージアムのため、パスは使えないとの事。仕方ないので、入場料(5ユーロ)を支払う。ミュージアムは3部屋に分かれており、それぞれ《大きさに魅せられて》、《錬金術》、《透明の向こうに》と名付けられている。中でも《透明の向こうに》と名付けられた部屋は、私にとって最も興味をひく展示がなされている(写真)。4つのショーケースに分けて、過去に造られたバカラの名品を見ることが出来るのだ。部屋全体の照明は落とし、バカラ製品にスポットライトを当てているため、ガラスの輝きが見ている者を魅了する。無色透明なガラス製品の中にポツポツと置かれている色ガラスの製品のおかげで、高級感が増す。個別作品の写真撮影が許されていなかったので、バカラ・クリスタル・ミュージアムのHPから12点をご紹介する。

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----------------------------------------・HARCOURT SET(写真上段左)
・EMPIRE SET(写真上段中左)
・TSAR SET(写真上段中右)
・EMPIRE PITCHER(写真上段右)
・CONCORDE PITCHER(写真地中段左)
・VEGA MARTINI GLASS(写真中段中左)
・OENOLOGIE GLASS(写真中段中右)
・POETIC GARDEN TUMBLER(写真中段右)
・MOULIN ROUGE CHAMPAGNE BUCKET(写真下段左)
・ARABESQUE PLATE(写真下段中左)
・ARABESQUE SMALL BOWL(写真下段中右)
・ROSACE TABLE ACCESSORIES(写真下段右)

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ミュージアムの見学を終え、トイレに立ち寄ると、中は一面鏡張り(写真左・中左)。照明用に、バカラのシャンデリアが吊り下げられている。ディスコに来ているような感じがする。豪華なのだが、落ち着かない。1Fにショールームがあったので、こちらも見学させてもらう。展示品を見ていると、日本人の女性スタッフがやって来た。色々な製品について説明してくれるのだが、安いものでも25万円程度必要だった上、自宅には飾るところがないので、今回の購入は見送った(写真中右・右 : 商談ルーム)。
なおここには、すべてバカラ製の食器で食事をさせてくれるレストランがあるとの事だったが、今回はこれもパスした。

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正午頃「バカラ美術館」を出発し、「イエナ大通り」と「マルソー大通り」を横切り、北に6~700m歩くと、「シャンゼリゼ大通り」に出た(写真左)。ここからは「凱旋門」が大きく見える(写真中左・中右)。ご存知の方も多いと思うが、「凱旋門」は1806年初頭にナポレオンの命によって着工され、完成は30年後の1836年。ナポレオンの死から19年後の1940年12月15日に、セント・ヘレナ島から戻ったナポレオンの遺骸はこの門をくぐり、「アンヴァリッド」に運ばれたのである。お昼時でお腹も、減っていたので、「シャンゼリセ大通り」にある「マクドナルド」(写真右)で昼食をとった。


フランス国立ギメ東洋美術館(日本語)
http://www.guimet.fr/-rubrique190-
フランス国立ギメ東洋美術館
http://www.guimet.fr/-Francais-
ウィキペディア・フリー百科事典(ギメ東洋美術館)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%A1%E6%9D%B1%E6%B4%8B%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8
バカラ・ギャラリー・ミュージアム(日本語)
http://www.museesdefrance.org/museum/serialize/mont-back/0607/montalembert.html
バカラ・クリスタル・ミュージアム
http://www.baccarat.com/en/the-world-of-baccarat/musees/museum-opening-hours.htm
バカラ・クリスタルルーム
http://www.baccarat.com/en/the-world-of-baccarat/bars-restaurants/cristal-room.htm

(参考文献)
・「週刊・世界遺産NO.4・パリのセーヌ河岸1」(講談社刊)
・「04~05地球の歩き方 フランス」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「Guimet・Pockt guide」(Guimet musee刊)
・「天平の甍・唐招提寺」(唐招提寺刊)
・「Baccarat Galerie-musee(日本語版)」(Baccarat Galerie-musee刊)

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May 01, 2009

「平櫛田中」展

「平櫛田中」展

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「平櫛田中」展を見るため、岡山県井原市にある「井原市立田中美術館(以下田中美術館という)」(写真)に行って来た。田中美術館開館40周年と田中没後30年の節目の年と言うことで開催された本展。田中美術館所蔵作品だけでなく、協力者からの出品を受けて数多くの作品が展示されているので、田中の素晴らしい作品をまとめて鑑賞することが出来る。

平櫛田中(ひらぐし・でんちゅう : 本名 平櫛 倬太郎[たくたろう])は、岡山県井原市に生まれ、明治から昭和にかけて活躍した彫刻家である。東京美術学校(現東京芸術大学)の教授を努め、文化勲章も受章、昭和54年、107歳で逝去した。数多く制作した作品の中で、代表作として知られる「鏡獅子」は、近代彫刻史に残る名作といわれている。残念ながら本展でこの「鏡獅子」を見ることはできないが、「試作鏡獅子」で十分にその素晴らしさを感じることが出来た。

展示は3フロアに分かれており、1Fと2Fでは主に田中美術館所蔵作品以外の作品を、また3Fでは田中美術館所蔵の作品を見ることが出来る。彫刻約65点、書約35点、刀剣1振の合計約100点。この中から、私が気に入った5点をご紹介する。なお、写真と解説については、参考文献に揚げた本展図録「平櫛田中展―故郷井原―」ならびに「田中美術館HP」より引用した。

① 「試作鏡獅子(しさくかがみじし)」(1939年・木彫彩色・57.8×66.0×49.0 : 田中美術館蔵)

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鏡獅子は歌舞伎舞踊「春興鏡獅子」の略称で、前、後段緩急自在の変化をもった歌舞伎十八番の一つである。九代目市川団十郎によって創案され、六代目尾上菊五郎によって、絢爛たるだし物に完成された。田中は昭和12年に歌舞伎座に鏡獅子がかかった時、25日間通して毎晩通い、たえず場所を変えて観察し、六代目と相談してきめたのが、この後ジテのポーズである。
こうして始まった鏡獅子の制作は、何体もの試作をかさね(※)、約20年後の昭和33年、2メートル余りの大像として完成し、現在、国立劇場正面ロビーにすえられている。

(※)「鏡獅子(未完成)」(1954年・木彫・ヒノキ材: 田中美術館蔵)

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これは、「鏡獅子」の制作過程で放棄された未完成品である。「はじめは高さ一尺七寸の試作を原型とし、これを4倍大にして石膏をとってみたが、どうしても気に入らぬ。コンパスを当ててみると原型の比例にキチンと合っているが、ピンとこない。いっそのこと木彫に刻んだらよかろうと考えて、昭和28年から同29年にかけて、高さ八尺のヒノキの大木に彫り刻んで行ったが、矢張気に入らぬ。昭和29年10月に、思い切ってよしてしまい、翌11月に原型の粘土をかためることから、やり直してみたら、ピンときた。原型のプロポーションより、幅を測ってみると全体で一寸五分ほど縮まり、両手はやや伸ばして、はじめて落ち着いた姿態になった」(展示解説より)

② 「鏡獅子試作裸形(かがみじししさくらぎょう)」(制作年不詳・木彫彩色・106.1×91.0×67.0 : 田中美術館蔵)

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六代目尾上菊五郎は、九代目市川団十郎に踊りを習うのに裸で教わり、自分も弟子に裸で教えたが、常に裸で踊りの練習をして、筋肉、骨格の動きなどについて色々と研究していた。
田中は<鏡獅子>の制作にあたり、こうした基本をしっかり頭にたたみこんでおいて、とりかかったのである。まず粘土で原型をつくり、それから本彫へとすすんだのであるが、大作<鏡獅子>の衣装の中にはこの筋骨が踊っている。

③ 「幼児狗張子(ようじいぬはりこ)」(1911年・木彫・36.6×46.5×41.0 : 田中美術館蔵)

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先ほどまでおとなしく狗張子の人形で遊んでいたのに、他のものが欲しくなってちょうだい、ちょうだいと手を伸ばす幼子の姿。愛児のあどけない様子に可愛くてたまらず作ったものであろう。モデルになったのは田中の長男俊郎である。明治42年12月に生まれているので、制作の頃は1歳と4カ月くらいであつたろうか。
抜群の写実力で、幼子の生き生きとしたしぐさ、表情をとらえ、思わず抱き上げて愛撫したくなるほどの魅力を発散している。

④ 「洽堂満福:こうどうまんぷく(郭汾陽 : かくふんよう)」(制作年不詳・木彫彩色・29.7×18.2×18.0 : シーピー化成株式会社蔵)

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郭子儀は中国唐代の武将で、安史の乱の鎮定に玄宗皇帝を助けて活躍。その大功により汾陽王に封ぜられた。中国史上でも屈指の名将として知られる。長寿であり、多くの子孫に恵まれ、皆栄達したことから、古来中国では長寿繁栄の好画題として親しまれている。
本作は十数人の子や孫に囲まれ、おやおまえはなんという名だったかなと名前を書いた札を見ながら、微笑んでいる場面である。

⑤ 「不動明王(ふどうみょうおう)」(1969年・木彫・58.0×13.5×12.0 : シーピー化成株式会社蔵)

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大聖不動尊は、一般には不動明王と呼ばれ、片手にそれぞれ剣と羂索(けんじゃく : 煩悩に悩む人を救い、悪を捕える縄状のもの)を持ち、火炎を背負い、憤怒の容貌で作られている。密教の隆盛にともない広く信仰されるようになり、彫刻や絵画でその像を多く作られるようになった。
本作は、田中82歳の時に第一作が制作された。知人から譲り受けた平安後期、高さ75センチの<木造矜羯羅童子立像 : もくぞうこんがららどうじりゅうぞう>(現在は井原市田中美術館蔵)に感銘を受け、その本尊をイメージして作られたものである。右手右足をやや前に踏み出し、羂索を握った手をやや引き気味に持ち上げたポーズが、空間を領して形よく、美しい。

ウィキペディア・フリー百科事典(不動明王)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%8B%95%E6%98%8E%E7%8E%8B

これら以外にも素晴らしい作品が多数展示されているので、一度ご覧になることをお薦めしたい。本展は6月21日(日)まで開かれている。


井原市立田中美術館
http://www.city.ibara.okayama.jp/denchu_museum/index.html
ウィキペディア・フリー百科事典(平櫛田中)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%AB%9B%E7%94%B0%E4%B8%AD
独立行政法人日本芸術文化振興会(国立劇場)
http://www.ntj.jac.go.jp/gekijo/kokuritsu/index.html


(参考文献)
「平櫛田中展―故郷井原―」(井原市立田中美術館刊)

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