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June 30, 2009

ブカレスト市街散策(1)

ブルガリア・ルーマニアの旅(第17回)

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午後5:30、 「大主教教会」の見学を終えた後、ツアーを離れ、一人でブカレスト市街観光へ出かける。最初に向かったのは「旧王宮跡」(写真)だ。「大主教教会」から坂道を下り「統一広場」の前に出る。そこから北へ150mの所に「旧王宮跡」がある。ここは、ドラキュラ伯爵のモデルと言われているヴラド・ツェペシュが、15世紀に築いた砦の跡である。この辺りは、ブカレストで最も古いエリア。戦乱や地震のため、遺跡の発掘現場のようになっているが、その前には露店が並び、買い物客で賑わっている。旧王宮の地下も見ることが出来たが、特筆すべきものはない。遺跡の中央に立っている、ヴラド・ツェペシュの胸像が印象に残る。

ウィキペディア・フリー百科事典(クルテア・ヴェゲ : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Curtea_Veche


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続いて、隣に建つ「クルテア・ヴェゲ教会」(写真左)だ。1559年に建てられた、ブカレスト最古の教会である。教会内は観光客で一杯だった。正面には黄金に輝くイコノスタシスがある。ルーマニア正教教会で、王門の左右には「キリスト」と「聖母マリア」のイコン、そして王門の上には「最後の晩餐」のイコンが掲げられている(写真中左・中右・右)。そのほか壁に描かれたフレスコ画も美しい(写真下段)。

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教会を出た後、「N.balcescu通り」を歩き、「Lipscani通り」を抜け、「ルーマニア中央銀行」に向かった。美しい「ルーマニア・国立図書館」(写真左・中左・中右)の建物の前を通ると、コリント式の柱が並ぶ、機能的な建物が現れる。これが「ルーマニア中央銀行」(写真右・下段)だ。貨幣博物館はこの中にあるのか。本日は日曜日なので、正面入り口は閉まっている。裏手に回るが入口は無い。柵の内側に、数人の警備員らしき人達がいたので、貨幣博物館に行きたいのでどこにあるのかと尋ねると、一人の男性から「閉まっている」との返事。事前にネットで調べたところ、午後7:00まで開いているはずだったので、時間が変更になったのかと尋ねると、そうではなかった。何カ月も前から、一般公開を止めていたのだ。半信半疑だったが、仕方がないので諦め、そのまま市街観光を続けることにした。

ルーマニア中央銀行(英語版)
http://www.bnro.ro/Home.aspx
ルーマニア中央銀行貨幣博物館(英語版)
http://www.bnro.ro/Museum-2727.aspx


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西に進んで、「Calea Victoriei通り」に出る。この通りには、いくつもの美しい建物が並ぶ。最初は「ルーマニア貯蓄銀行」だ(写真左・中左)。1900年に造られた建物。ここは、16世紀に建設され修道院の跡地との事。道路を挟んで、その斜め向かいには「ルーマニア国立歴史博物館」がある(写真中右・右)。1894~1900年にかけて建築されたネオ・クラシックの建物で、元の郵便局。「故チャウシェスク大統領夫人がしばしばダンスパーティーを催していたという、―(省略)―展示物は、古代ダキア人の宝飾品や武器など、遺跡からの発掘品が多い」(「’09~’10地球の歩き方 ブルガリア・ルーマニア」より)との事。

ウィキペディア・フリー百科事典(Calea Victoriei通り: 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Calea_Victoriei
ウィキペディア・フリー百科事典(ルーマニア国立歴史博物館: 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/National_Museum_of_History_of_Romania

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「Calea Victoriei通り」を北に進み、「Zlatari正教教会」(写真左・中左)の前を通り、「レジーナ・エリザベータ通り」がクロスする交差点を渡ると、左手に「軍人クラブ」(写真中右・右)がある。1911年に造られた建物だ。さらに50mほど歩くと、右手に「オデオン劇場」(写真下左)が見える。「地元のおしゃれな若者に人気の劇場」(「’09~’10地球の歩き方 ブルガリア・ルーマニア」より)のようだ。「NOVOTEL」(写真下中左)の前を通って100mほど北に進むと、「クレツレスク教会」(写真中右・右)だ。18世紀に建てられた、典型的なルーマニア正教の教会である。入口ポーチの天井には、善と悪を裁く神の姿が描かれた、18世紀当時のフレスコ画を見ることが出来る。そして教会の北側には、「国立美術館(共和国宮殿)」、その向かいには「旧共産党本部」と「大学図書館」、その先には「革命広場」がある。

軍人クラブ(英語版)
http://www.cmn.ro/
ウィキペディア・フリー百科事典(軍人クラブ: 英語版)
http://ro.wikipedia.org/wiki/Cercul_Militar_Na%C5%A3ional
ウィキペディア・フリー百科事典(オデオン劇場: 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Odeon_Theatre
ウィキペディア・フリー百科事典(クレツレスク教会 : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Kretzulescu_Church


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「革命広場(写真左)は1989年の民主革命時の銃撃戦の舞台となった。南東端に建つ旧共産党本部」(写真中左)は、そのテラスで故チャウシェスク大統領が、大群衆を前にして最後の演説をした場所としてあまりにも有名になった。民衆の大ブーイングで演説が遮られると、彼は屋上からヘリコプターで逃亡した。トゥルグヴィシュテへと落ち延びた大統領は、その近郊にあるデアル僧院の兵営内で妻と共に処刑された」(「旅名人ブックス ルーマニア」より)。「旧共産党本部」の建物の前には、革命犠牲者のために建てられた慰霊碑(写真中右)がある。「国立美術館」(写真右)は、「共和国宮殿」の一部が使われており、「1989年、革命広場での銃撃戦の戦火を受け、多くの絵画が焼失してしまったものの、量・質ともにルーマニア最大級の規模を誇る」(「’09~’10地球の歩き方 ブルガリア・ルーマニア」より)との事。

ウィキペディア・フリー百科事典(国立美術館: 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/National_Museum_of_Art_of_Romania
ウィキペディア・フリー百科事典(1989年ルーマニア革命: 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Romanian_Revolution_of_1989
ウィキペディア・フリー百科事典(革命広場: 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Revolution_Square,_Bucharest

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「ヴィクトリア通り」をさらに北に進みたかったのだが、そろそろ疲れが出てきたので、ホテルに向かうことにした。途中、「革命広場」の東側にある「アテネ音楽堂」(写真)の前を通る。クリーム・イエローのイオニア式の列柱が目立つ。柱の後ろには、かつてルーマニアを統治した5人の支配者のモザイク画が飾られている。この音楽堂は、1888年にオープン。600のシートと52のボックスがあり、主にクラシックコンサートが催されているとの事。本日も入口が混雑していたので、何かのコンサートがあるのであろう。

アテネ音楽堂(英語版)
http://fge.org.ro/ateneul-roman/lang-pref/en/
ウィキペディア・フリー百科事典(アテネ音楽堂: 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Romanian_Athenaeum


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音楽堂から東に進み、「バルチェスク通り」に出る。ブカレストで最も賑わいのある通りのひとつであろう。ここから、本日宿泊するホテル「インターコンチネンタル」が見えている(写真左)。300mほど歩くとホテルに到着した。午後7:10、他のツアーメンバーは夕食に行っているので、私だけが先にチェックインすることになったが、この旨、添乗員がホテルに連絡してくれていたおかげで、パスポートを見せるだけでスムースに手続きを終えることが出来た。部屋は9階で、見晴らしは良い。それほど広くはないが、ブルーを基調に落ち着いた雰囲気の部屋である。ベッドは私好みのダブル。落ちる心配をすることなく、ゆったりと眠れる(写真中左・中右・右)。

インターコンチネンタル・ブカレスト
http://www.ichotelsgroup.com/intercontinental/ja/jp/locations/overview/bucharest


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午後7:20、夕食用のハンバーガーを買うため、すぐに出かける。しかし、まだルーマニア・レウを全く持っていなかったので、ホテル近くの外貨両替所で20ユーロ分(82レイ)両替する。ちなみに、ホテルでは外貨両替をしてくれなかった。「大学広場」(写真左・中左)の前を通り、「レジーナ・エリザベータ通り」を西に進む。「大学広場」の前では、通路に露天商が本を並べて販売していた(写真中右・右)。雰囲気の違いはあるが、この光景は私に、フランス・パリ、シテ島南側、セーヌ川沿いに並んでいた露店の本屋を思い出させた。

ブルガリアではすぐに見つかったマクドナルドが、なかなか見つからない。仕方がないので、先ほど歩いた「軍人クラブ」の南側にあるケンタッキー・フライドチキンで、チキンバーガーやフライドチキンを買ってホテルに戻る。ロビーに入ると、ちょうどツアーの人達が到着していた。預けていた荷物を添乗員から受け取り、明日の予定をチェックした後、部屋に戻った。午後8:05頃、部屋で夕食のハンバーガーを食べ、入浴、資料整理を済ませて、午後10:00頃、ベッドに入った。

(参考HP)
ウィキペディア・フリー百科事典(ブカレスト)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%88
ウィキペディア・フリー百科事典(ブカレスト : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Bucharest
ウィキペディア・フリー百科事典(ルーマニア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%82%A2

(参考文献)
・「’09~’10地球の歩き方 ブルガリア・ルーマニア」(地球の歩き方編集室編)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「旅名人ブックス ルーマニア」(旅名人編集室編)[日経BP企画刊]
・「図説バルカンの歴史(ふくろうの本)」(柴宣弘著)[河出書房新社刊]

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June 29, 2009

「国民の館」と「大主教教会」

ブルガリア・ルーマニアの旅(第16回)

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ギュルギュウの街で昼食を取り、ドナウ平原を走って一気にブカレストまで移動する。午後3:10、「国民の館」の駐車場に到着(写真左)。余裕を持って間に合った。午後3:25、館内入口でセキュリティ・チェック受け(写真右)、午後3:30、いよいよ入館である。

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「国民の館」(写真)は、「故チャウシェスク大統領が、日本円にして約1,500億円を投じて造らせたと言う巨大な宮殿」、「世界中の官庁、宮殿などの建物の中では、ワシントンD.C.にあるアメリカの国防総省ペンタゴンに次ぐ規模だという」(「’09~’10地球の歩き方 ブルガリア・ルーマニア」より)。「十二のフロアーに五千もの部屋を配し、その中には幅十八メートル、長さ百五十メートルの回廊や、高さ十八メートル、総面積二千二百平方メートルの大ホールも含まれる。シャンデリアの数だけでも二千八百を数え、その最大のものは五トンにも達する」(「旅名人ブックス ルーマニア」より)との事。現在は各政党のオフィスが入居するほか、国際会議やコンサートなどにも使われているようだ。

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正面階段で2階に上がると、幅18m、長さ150mにも及ぶ回廊だ(写真左)。胸像や肖像画、タペストリーなどが飾られている(写真中左)。ここから館内の観光が始まる。訪れた部屋数が非常に多かったので、正直言って、かなりの解説を聴き洩らしてしまったので、十分にコメントできないのだが、分かっている範囲でお話しする。回廊の突き当り手前を左手に進むと、「劇場」がある。しかし、劇場として使われたことは無いらしい。重さ2.5トンのシャンデリアが虚しく輝いている(写真中右・右)。

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次は、階段で3Fに上がる。そこは広いホールのようだが、ほとんどの照明が消されていたため、薄暗い(写真)。開館しているあいだ照明をしていると、電気代が払えなくなるからという理由との事。コスト削減だろうが、観光客に失礼ではないか?

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その後もホールが続く(写真左・中左)。2つめのホールの柱は、ピンクと黒の混じる大理石で出来ている。ピンクの大理石はルーマニアでも珍しく、非常に貴重なものらしい(写真中右・右)。

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続くホールは、外国来賓の記者会見場として使われたという。豪華シャンデリアの重さは560kgあるとの事(写真)。

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次は、モントリオール・オリンピックの体操選手であったコマネチが結婚式を挙げたホール(写真)。部屋の広さは2,200㎡、天上の高さ16m、床は総大理石で、1,600㎡の絨毯が敷かれている。すべてルーマニア製のようだ。

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4階に上がるため、階段の前に出る(写真)。ここの階段は、段差が低くて昇りやすい。実はこの階段の段差を、故チャウシェスク大統領の歩幅に合わすため、5回も造り直したそうだ。低くて昇りやすいと感じたのは、チャウシェスクの歩幅と似ているからなのか。

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歩幅の合った階段を上り、入った部屋は「コンサートホール」だ(写真左・中左)。ルーマニアで最大のものらしい。このホールのバルコニーに出ると、目の前に「統一大通り」が一直線に伸び、その両脇には豪華マンションが立ち並ぶ。素晴らしい眺めだ(写真中右・右)。フランス・パリの「シャンゼリゼ通り」を真似て造らせたもので、幅・長さとも寸分違わないものを作ろうとしたらしいが、パリに比べてこちらの方が4m広く、40m長くなってしまったとの事。

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午後4:32、館内の見学を終え、バスで移動し、「統一大通り」側の広場から写真を撮ることになった(写真)。本日はコンサートがあるようで、マイクやスピーカーなどが準備されていたため、どうしてもこれらの機材が写ってしまう。残念。

ウィキペデイア・フリー百科事典(国民の館)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E3%81%AE%E9%A4%A8
ウィキペデイア・フリー百科事典(国民の館 : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Palace_of_the_Parliament
ウィキペデイア・フリー百科事典(統一広場 : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Pia%C5%A3a_Unirii


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「国民の館」の次は、「大主教教会」である(写真左)。4~500m程しか離れていないので、歩いても行ける距離なのだが、バスで移動する。「大主教教会」は、ルーマニア正教のヴァチカンと呼ばれていることから分かるように、ルーマニア正教の総本山である。聖コンスタンティンとヘレンに献堂するため、1654年~1658年にかけて、ワラキア公シェルバンによって建てられた教会である。その後まもなく司教座聖堂となり、1925年には大司教座が置かれた。18世紀~20世紀にかけて、数回にわたり修復されたため、現在見られる姿は、建てられた当時のものとは異なるようだ。建物を正面から見ると、ファサードに見られるキリストと12使徒のイコン、さらに3つのドームが美しい(写真中左)。堂内に入ると、正面には金色に輝くイコノスタシスがある(写真中右)。王門の右手にはキリスト、左手には聖母マリア、そして上には「最後の晩餐」(写真右)のイコンが置かれている。壁や天井にはフレスコ画が描かれており、これも素晴らしい(写真下段)。

ウィキペディア・フリー百科事典(大主教教会 : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Romanian_Patriarchal_Cathedral


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教会の南側にある巨大な建物は「大主教宮殿」である(写真左)。大司教の居所として、また修道士たちの住まいとして使われている。建物正面を見ると、イオニア式の柱が6本並ぶ。ネオ・クラシック様式の建物で、破風の長さは約80m。半円形ドームの屋根(写真右)は、この後訪ねる予定の、「革命広場」の東にある「アテネ音楽堂」に似た雰囲気である。

ウィキペディア・フリー百科事典(大主教宮殿 : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Palace_of_the_Chamber_of_Deputies


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ところで、教会の南側に、ろうそくを備える場所(写真)があるが、ルーマニア正教では、お参りに来た人のローソクと、亡くなった人のローソクをここでお供えしてから教会に入るとの事。ここで「大主教教会」の観光は終わり。この後ツアーではバスに乗って市街観光する予定だが、私はここでツアーを離れ、一人で歩いて観光することにした。


(参考HP)
ウィキペディア・フリー百科事典(大主教本山の丘 : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Dealul_Mitropoliei
ウィキペディア・フリー百科事典(ルーマニア正教教会)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%82%A2%E6%AD%A3%E6%95%99%E4%BC%9A
ウィキペディア・フリー百科事典(ルーマニア正教教会 : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Romanian_Orthodox_Church
ルーマニア正教教会(英語版)
http://www.patriarhia.ro/ro/scurta_prezentare_en.html
ウィキペディア・フリー百科事典(ブカレスト)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%88
ウィキペディア・フリー百科事典(ブカレスト : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Bucharest
ウィキペディア・フリー百科事典(ルーマニア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%82%A2

(参考文献)
・「’09~’10地球の歩き方 ブルガリア・ルーマニア」(地球の歩き方編集室編)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「旅名人ブックス ルーマニア」(旅名人編集室編)[日経BP企画刊]
・「図説バルカンの歴史(ふくろうの本)」(柴宣弘著)[河出書房新社刊]

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June 26, 2009

アルバナシのキリスト生誕教会とコンスタンツァリエフ・ハウス

ブルガリア・ルーマニアの旅(第15回)

午前8:23、ブルガリア最後の観光予定地である「アルバナシ」に出発。今日からバスはルーマニアのもので、ガイドはこれまで案内してくれたブルガリアの方と、午後に向かうルーマニアを案内してくれるガイドの方の二人が乗車していた。アルバナシは、ヴエリコ・タルノヴォから北に4kmと、非常に近い。午前8:42 、約 20分でアルバナシに到着した。「’09~’10地球の歩き方 ブルガリア・ルーマニア」によると、「アルバナシには古くからの屋敷が80あまり現存しているが、そのうち36の家が国の文化財に指定されている。この村に美しい家が多いのには理由がある。1838年にオスマン朝のスルタンであるスレイマン2世は、義理の息子にアルバナシを贈り、その所有者は代々の後継者たちに受け継がれていった。オスマン朝の統治下にあってアルバナシは税制上の特権を授けられ、村人は有利な条件で商売ができた。職人や商人たちが美しい屋敷を建てられたのも、蓄財ができたから」との事。

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バスを降りた駐車場から、2~300m「聖誕教会」に向かって歩く。石を積み上げて造った家や壁が続く(写真左)。よく見ると、石組の間に木を入れてバランスを保つなどの工夫がなされている(写真中左)。快晴で、抜けるような青空の下だからかもしれないが、村全体の雰囲気は沖縄県の竹富島に似ているように思えた。住民は300名ぐらいとの事。「聖誕教会」は午前9:00からなので、その周囲をブラブラする(写真中右 : 塀の外から見た「聖誕教会」・右 : 高台から見るヴェリコ・タルノヴォの街)。しかし、時間になってもオープンしなかったので、予定を変更して、200mほど北に建つ「コンスタンツァリエフ・ハウス」に行くことになった。

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午前9:10、 「コンスタンツァリエフ・ハウス」に入場する(写真左)。ここは「アルバナシで最も美しいと言われる、オスマン朝ヴェリコ・タルノヴォ総督の親戚にあたる女性の旧家」(「’09~’10地球の歩き方 ブルガリア・ルーマニア」より)である。2階建てで、1階部分は石造り、2階部分は木造である(写真中左)。狭い入口から階段を昇って2階に行くと、「リビングルーム」がある(写真中右)。トルコ風のソファの上には、ブルガリア伝統の織物がかけられ、真中にはコーヒーセットが置かれている。また部屋の隅には、銀貨などの入った「トレジャリーボックス」がある(写真右)。隣の部屋も「リビングルーム」で、こちらもコーヒーセットの置かれたトルコ風のソファ、壁には銃が立てかけられていた(写真下左)。格子状の木の天井は、なかなか面白い(写真下右)。

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次の部屋はダイニングルームだ(写真左)。周囲には食器が並べられ、テーブルには皿にのったイースターエッグやクルミ、パンが置かれている。窓ガラスで仕切られた隣の部屋はキッチン(写真中左)。こん炉と色々な調理器具がみられる。そしてトルコ式のトイレ(写真中右)、ベッドルーム(写真右)と続く。最後は裁縫部屋(写真下左)であろうか。トルコ式のソファの上には、ミシンや裁縫バサミなどが並べられている。1階に降りると、広い庭に出る(写真下中左)。数人の足の長いお姉さんたちがいたので近寄って見ると、みやげ物店であった。民芸品などを販売しているのだ(写真下中右)。お姉さんたちにお願いし、写真を撮らせてもらった(写真下右)。年齢不詳だが、みなさん背が高くてスタイルも良く、カッコいい。約40分で見学を終え、再び「聖誕教会」に向かう。

Arbanassi[コンスタンツァリエフ・ハウス(英語版)]
http://www.arbanassibg.com/page.php?lang=en&dir=1&id=7


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午前10:00、 「聖誕教会」(写真左・中左・中右)の敷地に入るが、教会内は先客であるドイツ人で一杯のため、しばらく外で待たされる。ここはアルバナシで最も古い教会。半ドーム状の内部は、絢爛たるイコンや壁画で埋め尽くされている(写真右・中段・下段左・下段中左)。2,500のシーンと3,000人の聖人らが描かれており、男性が祈る 部屋と、女性・子供の祈る部屋とに分かれている。数多くのイコンや壁画は、特に文字の読めない女性・子供達がキリストの教えを学ぶのに役立ったという。イコンや壁画の中では、16~17世紀にかけての宗教画、「運命の車輪」(写真下段中右 : 正面手前左手の壁に描かれている)と「イエスの木」(写真下段右 : 男性が祈る部屋の入り口右手の壁に描かれている)が見事である。

※教会内部の写真は、すべて「Arbanassi[キリスト聖誕教会(英語版)]」から転載した。

Arbanassi[キリスト聖誕教会(英語版)]
http://www.arbanassibg.com/page.php?lang=en&dir=1&id=13


約20分で「聖誕教会」の観光を終え、バスに戻る。ここで、ブルガリアのガイドさんとはお別れである。午前10:28、バスはルーマニアに向けて走り出した。

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正午過ぎ、ブルガリア側の国境の街「ルセ」のガソリンスタンドでトイレ休憩をとる。午後12:30にガソリンスタンドを出発。午後12:45、ブルガリア側国境の検問所を通過。ドナウ川にかかる橋を渡ると、ちょうど川の真ん中辺りに、ルーマニアの国境であることを知らせる表示が掲げられていたのを見る(写真)。午後12:50、ルーマニア側の国境検問所で、パスポート・コントロールを受ける。バスの中で全員のパスポートが個別に集められ、検問所で入国のスタンプを押した後、まとめてガイド宛てにパスポートが返却された。この間、約15分。いよいよ、ここからルーマニアの観光が始まる。

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ルーマニアで最初に訪れたのは、「ギュルギュウ」の街。この街にある「MOTEL PRIETENIA」(写真左・中左)のレストランで昼食をとるためだ。こじんまりしているが、明るい雰囲気のレストランである。我々が通されたのは屋外のテーブル席だったのだが、屋根に赤いシートが張ってあったので、太陽の光が通って部屋全体がピンク色になっていた。メニューは次の通り。
・スープ(写真中右)
・ムサカ(写真右)
・チョコレートケーキ(写真を撮るのを忘れる)

最初の観光予定地である、「国民の館」の入館予約時間が午後3:30だったので、早めに昼食を終え、ルーマニアの首都「ブカレスト」に向かった。


(参考HP)
ウィキペディア・フリー百科事典(アルバナシ : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Arbanassi
Arbanassi[アルバナシ観光(英語版)]
http://www.arbanassibg.com/index.php?lang=en

(参考文献)
・「’09~’10地球の歩き方 ブルガリア・ルーマニア」(地球の歩き方編集室編)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「ブルガリア ヴェリコ・タルノヴォ」(EXTRA TOURS編刊)
・「ブルガリア・名所と穴場(日本語版)」(ヴァラ・カンジェヴァ/アントニー・ハンジースキー著)[BORINA刊]
・「図説バルカンの歴史(ふくろうの本)」(柴宣弘著)[河出書房新社刊]

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June 25, 2009

ヴェリコ・タルノヴォ中心街散策

ブルガリア・ルーマニアの旅(第14回)

第5日目[5月31日(日)](快晴)

本日は、「薔薇の収穫祭」の最終日。ここから出かける客がいるからであろう。朝食は、午前5:00から取ることが出来る。昨日、ヴェリコ・タルノヴォの旧市街観光が十分にできなかったので、朝早く食事を済ませ、外が明るくなる頃、一人中心街散策に出掛けた。

(ブルガリア)
午前5:00 起床
午前5:10~5:45 朝食
午前6:15~8:00 ヴェリコ・タルノヴォ中心街散策
(ホテル→公園モニュメント→ヴェリコ・タルノヴォ美術館、アッセン王モニュメントを眺める→聖ニコラ教会前→旧市街全景を眺める→COMFORT HOTEL前→サモヴォドスカタ・チャルシャ→トラペジッツァの丘・ツァレヴェッツの丘の「大主教区教会」、「生神女誕生大聖堂」を眺める→日本語を話す大学生に会う→民族復興期博物館前→ヴェリコ・タルノヴォ美術館、アッセン王モニュメント、インター・ホテルを眺める→ステファン・スタンボロフ通りを戻る→ホテル)
午前8:23 ロビーに集合(予定は午前8:30)、バスで出発
午前8:42 アルバナシに到着
午前9:10~9:50 「コンスタンツァリエフ・ハウス」見学
午前10:00~10:20 「聖誕教会」見学
午前10:28 バスでルーマニアに向かう。
午後12:06~12:30 ガソリンスタンドでトイレ休憩
(ルーマニア)
午後12:45 ブルガリア・ルーマニアの国境を超える
午後12:50~1:05 ルーマニア国境でパスポート・コントロールを受ける
午後1:10~2:00 昼食
午後2:45 ブカレストの街に入る
午後3:10 「国民の館」到着
午後3:25~4:32 「国民の館」見学
午後4:40~4:50 「国民の館」前広場で写真撮影
午後5:05~5:30 「大主教教会」見学
午後5:30~7:10 ツアーを離れ、一人でブカレスト市街観光へ
(大主教教会→統一広場→旧王宮跡→クルテア・ヴェケ教会→ルーマニア中央銀行→ルーマニア貯蓄銀行前→ルーマニア国立歴史博物館前→軍人クラブ前→オデオン劇場前→NOVOTEL前→クレツレスク教会前→国立美術館(共和国宮殿前)→旧共産党本部前→大学図書館前→革命広場→ラディソンホテル前→アテネ音楽堂前→ホテル)
午後7:10~7:20 ホテルにチェックイン
午後7:20~8:05 夕食を買いに出かける
午後8:05~10:00 部屋で夕食を食べ、入浴、資料整理をする
午後10:00 就寝


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昨日、ヴェリコ・タルノヴォの中心街観光が十分にできなかったので、朝、中心街散策に出掛けるため、午前5:00に起き、ホテルのレストランで朝食をとった(写真左・中左)。早朝からレストランは大混雑(写真中右)。「薔薇の収穫祭」に参加するため、カザンラクに向かうツアーの人達なのだろうか。午前6:00過ぎ、外が明るくなってきたので、外出することにした(写真右 : ホテルの外観)。天候は快晴。昨日の雨が嘘のように良い天気だ。日本で購入したガイドブックの地図だけでは不十分に思えたので、昨晩、別途ヴェリコ・タルノヴォの地図を購入していたのだが、それでももう一つ良く分からない。事前にグーグルアースも見たのだが、アップに出来ず、こちらでも詳しい道は分からなかった。しかし、今朝は太陽が出ていたので方角を間違えることはないだろうと思い、自分の勘を信じて歩きはじめた。

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最初に「ネザヴィシモスト通り」へ出る。公園や商店の並ぶ広い通りだ。公園に寄り(写真左・中左)、商店のショーウインド(写真中右・右・下左・下中左)を見ながら通りを東へ進む。教会は北側の丘にあるので、途中、上り階段のある路地に入った(写真下中右・下右)。細い道が入り組んでいるので、地図を見てもどこを歩いているのかよく分からなかったが、「聖キリル・メトディー教会」と「聖ニコラ教会」を目指して歩き続けた。

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しばらくすると鐘楼が見えたので、きっとどちらかの教会に違いないと思い、そちらを目指して進んだ。傍まで来てガイドブックの写真と照らし合わせると、「聖ニコラ教会」であった(写真左・中左)。民族復興期の1836年に完成した教会で、イコノスタシスが素晴らしいとの事。午前7:30からのため、内部を見ることができなかったのは残念である。しかし、自分の位置が分かり、ひと安心。「聖キリル・メトディー教会」に行くには少し戻らなければならなかったので、パスして先に進んだ。すると、見晴らしの良い丘の上に出た。民家の前に延びる道沿いだが、ここからヴェリコ・タルノヴォの中心街を一望できる(写真中右・右)。私の宿泊しているホテル「インター・ホテル」(写真下左)や、「ヴェリコ・タルノヴォ美術館」(写真下中)、「アッセン王モニユメント」だけでなく、昨日訪ねた「ツァレヴェッツの丘」や「大主教区教会」(写真下右)も見える。昨日の雨の影響で、街には少し靄がかかっているが、快晴の青空の下、素晴らしい眺めだ。これこそ「早起は三文の徳」である。

景色を楽しんでいると、3人の若い男性と美人の若い女性1人が家から出てきたので、
「ドブロ・ウートロ(おはようございます)」
「アス・サム・ヤポーネッツ(私は日本人です)」
「カーズヴァムセ・○○(私の名前は○○です)」
「ブリヤートノ・ミ・エ(はじめまして)」
と、ようやく覚えたブルガリア語で挨拶すると、彼らは嬉しそうに「ヤポーネッツ」と叫び始めた。すると、若い女性が私に近寄ってきて、耳元で囁いた。一瞬ドッキリしたが、彼女は忠告しに来てくれたのであった。「彼らは酔っているから、早く行った方がいいわよ」と。もちろんブルガリア語ではなく、英語で。それを聞いた私は、「ドゥ・ビジュダネ(さようなら)」と言って、その場を立ち去った。

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石畳の路地(写真左)を東に進み、坂道(写真中左)を下ると広場(写真中右)に出た。またどこにいるのかが分からなくなったのだが、少し歩くと「HOTEL COMFORT」の看板を見つけた(写真右)。ガイドブックにも載っているホテルだったので、再び自分の位置を確認することが出来、ひと安心。ここから南に下って行くと、「サモヴォドスカタ・チャルシャ」に出た(写真下左・下中・下右)。「’09~’10地球の歩き方 ブルガリア・ルーマニア」によると、「チャルシャは市場の意味で、ここでは古くから営業を続ける金銀細工、陶器、織物、革製品、木彫り、絵画などの小さな店が軒を連ねている。どの店も工房を兼ねており、職人たちが作ったものをその場で売っている。彼らの仕事ぶりを見ているだけでも楽しい。伝統的な建物が並ぶ石畳の街並みは雰囲気があり、散策にもおすすめ」との事。早朝のため、店は一軒も開いていなかったが、その雰囲気だけは感じることが出来た。スケッチなどが趣味の方には、お薦めのポイントかもしれない。

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さらに100m程南に向かい、下った所から別の道(オパルッチェンスカ通り)を北に歩いた。この通りは丘沿いなので、ここからの眺めも良い。「ツァレヴェッツの丘」(写真左)や「大主教区教会」(写真中)、「生神女誕生大聖堂」(写真右)などが見える。少し眺めを楽しんだ後、再び南に向かって、来た道を引き返した。

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不動産屋や外貨両替店の並ぶ通り(写真左・中左・中右)を歩いていると、「おはようございます」との声が聞こえてきた。振り向くと、数人の若者たちがいる。その中の一人の男性が声をかけてきたのだ。ヴェリコ・タルノヴォ大学の日本語学科で勉強しているとの事。一緒に写真を撮り、メールアドレスを訊いて別れた。そこから150~200m歩くと、立派な建物が見えてきた。「民族復興期博物館」(写真右)である。かつて、オスマントルコのヴェリコ・タルノヴォ総督邸であった屋敷だ。1872年、コリュ・フィチェトによって設計された、2階建ての木造建築。「ブルガリア独立運動を中心とする19世紀の社会情勢に関連した資料を展示する博物館として公開されている」(「’09~’10地球の歩き方 ブルガリア・ルーマニア」より)。ところで、この裏側に「考古学博物館」がある。ここには、ヴェリコ・タルノヴォ周辺で発掘されたシラキア時代の土器や、中世のフレスコ画や装飾品などが展示されているようだが、トラキア古墳から出土した金銀貨幣も見ることが出来るらしい。貨幣コレクターのために申し添えておく。

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ここから3~400mほどで、昨日訪ねた「ツァレヴェッツの丘」の入り口まで行けるのだが、ホテルに戻る道も良く分からず、どれくらいの時間がかかるのかもわからなかったので、心に焦りが生じないよう、時間に余裕があるうちに引き返すことにした。「民族復興期博物館」の前にいた警備員らしき人にホテルへ戻る道を尋ね、教えてもらった道(ヴェルチョ・ジャムジヤタ通り)を歩きはじめる。この通りに並ぶお店や民家の間に、展望スペース(写真左)が何箇所かあった。ここからの眺めも素晴らしい。西側には、宿泊している「インター・ホテル」(写真中左)が、またその手前には「ヴェリコ・タルノヴォ美術館」(写真中右)や「アッセン王モニュメント」(写真右)が、はっきり見える。先ほど丘の上から見た時は、少し靄がかかっていたが、現在はスッキリ晴れ渡っているからだ。何カ所かの展望スペースから眺めを楽しみながら歩いて行くと、「ステファン・スタンボロフ通り」に出た。「ネザヴィシモスト通り」に続く道で、今朝歩いた道である。この時私の頭の中に、ヴェリコ・タルノヴォ中心街の全体像が浮かび上がって来たので、ホテルへ戻るのに必要な時間も計算できた。少し早く引き上げ過ぎたようだが、仕方がない。再びお店のショーウインドを見ながら、今度は西へ進む。

午後8:00頃ホテルに到着。少し時間があったので、部屋で一休みし、出発時間より早目だったが、午後8:20頃ロビーに向かう。すると、ツアーメンバーのほぼ全員が揃っていた。予定より数分早く、午前8:23にバスで本日の観光に出かけた。


(参考HP)
ウィキペディア・フリー百科事典(ヴェリコ・タルノヴオ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%B4%E3%82%A9
ウィキペディア・フリー百科事典(ヴェリコ・タルノヴオ : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Veliko_Tarnovo
ウィキペディア・フリー百科事典(生神女誕生大聖堂)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E7%A5%9E%E5%A5%B3%E8%AA%95%E7%94%9F%E5%A4%A7%E8%81%96%E5%A0%82

(参考文献)
・「’09~’10地球の歩き方 ブルガリア・ルーマニア」(地球の歩き方編集室編)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「ブルガリア ヴェリコ・タルノヴォ」(EXTRA TOURS編刊)
・「ブルガリア・名所と穴場(日本語版)」(ヴァラ・カンジェヴァ/アントニー・ハンジースキー著)[BORINA刊]
・「図説バルカンの歴史(ふくろうの本)」(柴宣弘著)[河出書房新社刊]


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June 24, 2009

シプカの僧院とツァレヴェッツの丘

ブルガリア・ルーマニアの旅(第13回)

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昼食後、カザンラクから北へ約10kmに位置する小さな村、「シプカ」に立ち寄った。ここには「シプカの僧院」がある(写真左・中左)。1877~1878年に、シプカ峠は露土戦争の舞台となり、多くのロシア、ウクライナ、ブルガリアの戦士達がなくなった。かれらを祀るため、18,491人の寄付で建てられたのがこの僧院である。1902年に完成したが、この年はシプカ峠の戦いから、ちょうど25周年記念の年でもあった。玉ネギ型の金色屋根からも分かるように、17世紀モスクワ様式の建物。ブルガリア正教の僧院で、内部正面には金色のイコノスタシスがある。王門の両脇には、キリストとマリアのイコンが並び、王門の上には「最後の晩餐」が見られる(写真中右・右 : ウィキペディア・フリー百科事典(シプカ : 英語版)より)。地下には、17の大理石の墓標がある。

ウィキペディア・フリー百科事典(シプカ : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Shipka_(town)
ウィキペディア・フリー百科事典(ロシア建築 : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Russian_architecture


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約20分、「シプカの僧院」を見学し、本日宿泊するホテルのある「ヴェリコ・タルノヴォ」の街に向け、バスで出発した。カザンラクから北東へ約100km、午後3:30頃、ヴェリコ・タルノヴォの街に入った(写真 : ヴェリコ・タルノヴォの市役所)。途中、ガソリンスタンドでトイレ休憩を取り、ヴェリコ・タルノヴォの有名な観光地のひとつである、「ツァレヴェッツの丘」に向かう。午後4:30頃に到着。トイレ休憩に時間がかかったので、かなり着くのが遅くなってしまった。バスを降りると雨が降り始め、だんだん強くなる。徒歩での観光には、最悪のタイミングだ。

ところで、この「ツァレヴェッツの丘」は、5世紀頃、ビザンチン帝国の要塞として使われ、12~14世紀の第二次ブルガリア帝国時代には、政治と宗教の権力の中心地になったとの事。話は前後するが、ここで「ヴェリコ・タルノヴォ」について簡単にまとめておく。「国土の東西に横たわるブルガリア最大の山脈、バルカン山脈の東部にある、人口約7万の地方都市」、「かつては「タルノヴォ」と呼ばれ、1187~1393年に第二次ブルガリア帝国の首都として栄えた。イヴァン・アッセン王治下の最盛期にはビザンツ帝国(東ローマ帝国)をも圧倒し、バルカン半島のほぼ全域を支配したこともあった」、「しかし、その帝国もアッセン王死後に衰退を始め、やがて宿敵ビザンツ帝国に屈服、1398年にはオスマン朝との3カ月にわたる首都攻防戦の後、遂に滅亡」(「’09~’10地球の歩き方 ブルガリア・ルーマニア」より)したのである。ちなみにこの街は、大相撲の大関「琴欧州」の出身地である。

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話を元に戻そう。バスを降りて小雨の中、石畳の路を上って行く(写真左・中左)。我々が進んでいる西側の路は、メインゲートにつながっている。ゲートは三重になっており、周辺の厚い石の城壁とともに、丘を守っている(写真中右・右)。ゲートをくぐると、石造りの城塞の跡が続く(写真下段)。

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見上げると、丘の上に教会が建っている。「大主教区教会」だ(写真左・中左)。我々はこの教会を目指し、階段を昇って行った。「大主教区教会」は、かつてキリスト教教会の建っていた場所で、1981年に再建され、3,000㎡の広さを持つ。教会内の壁画は1985年に描かれており、伝統的な正教のフレスコ画と言うよりは、現代風のものである(写真中右・右・中段・下段)。「’09~’10地球の歩き方 ブルガリア・ルーマニア」は、「硬直した筆遣いで、社会主義があらゆるところに影響力をもっていたことが分かる」としている。1時間程の観光を終え、バスに戻る。ガイドさんは、この後「ヴェリコ・タルノヴォ」の旧市街の散策を予定していたのだが、雨脚が強くなったこと、また年配者に疲労がみられたことから、ホテルに向かうことになった。

ウィキペディア・フリー百科事典(ツァレヴェッツの丘 : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Tsarevets

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ホテルには、10分ほどで到着。本日宿泊するのは「インターホテル・ベリコ・タルノボ」である(写真左)。ロビーは非常に広く、みやげ物店が6~7店並ぶ(写真中左)。部屋は小振りだが、クリーム色と木目調でまとめ、落ち着いた雰囲気だ(写真中右・右)。

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午後7:10から夕食のため、ホテルのレストランに向かう。広々とした空間を利用していたので、ゆったりと食事を楽しむことが出来る(写真左)。メニューは次の通り。

・サラダ(写真中左)
・鯖のトマトソース煮(写真中右)
・シトゥーヂル(パイのような感じのものに砂糖がかかっている : 写真右)

約1時間、夕食を楽しみ、午後8:30頃部屋に戻る。いつものように入浴と資料整理を済ませ、明日の計画を立て、午後9:30頃ベッドに入った。

インターホテル・ベリコ・タルノボ
http://www.interhotelvt.bg/index_en.php


(その他参考HP)
ウィキペディア・フリー百科事典(ヴェリコ・タルノヴオ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%B4%E3%82%A9
ウィキペディア・フリー百科事典(ヴェリコ・タルノヴオ : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Veliko_Tarnovo
ヴエリコ・タルノヴォ観光案内(英語版)
http://veliko.tarnovo-bg.info/
ブルガリア観光案内(ヴエリコ・タルノヴォ: 英語版)
http://www.travel-bulgaria.com/content/veliko_turnovo.shtml
大関・琴欧州
http://sumo.goo.ne.jp/ozumo_meikan/rikishi_joho/rikishi_2510.html

(参考文献)
・「’09~’10地球の歩き方 ブルガリア・ルーマニア」(地球の歩き方編集室編)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「ブルガリア・名所と穴場(日本語版)」(ヴァラ・カンジェヴァ/アントニー・ハンジースキー著)[BORINA刊]
・「図説バルカンの歴史(ふくろうの本)」(柴宣弘著)[河出書房新社刊]

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June 23, 2009

世界遺産・トラキア人の墓

ブルガリア・ルーマニアの旅(第12回)

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「薔薇の収穫祭」を楽しんだ後、ユネスコの世界文化遺産である「トラキア人の墓」に向かった。墓は、「トュルベト公園」内にある。1944年、防空壕建設中に発見されたという。公園の階段を上りきったところを南に進むと、「トラキア人の墓」を囲う建物がある(写真左・中左)。残念ながら、中を見ることが出来ない。我々が見学するのは、忠実に再現されたレプリカである。墓を囲う建物の前を通り、さらに南に進むと、レプリカの墓だ(写真中右)。中は狭く、一度に沢山の人は入れないので、入口付近には大勢の人が並んでいた。受付を通って奥に進むと、展示室があり、その先に狭い回廊と丸天井の埋葬室がある。展示室には、1944年の発見時から1979年の世界遺産登録までの過程が写真を使って説明されている(写真右)。

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展示室奥の埋葬室は、丸天井型の墳墓(カタコンベ)だ。回廊、埋葬室ともに壁画で飾られている(写真)。

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これらは、「紀元前4世紀後半から紀元前3世紀頃のものとされるトラキア人のフレスコ画で、戦闘場面や葬送儀礼の様子が数種類の色を使って描かれている」(「’09~’10地球の歩き方 ブルガリア・ルーマニア」より : 写真上)。なかでも、慣例的な葬儀の宴におけるトラキア人夫婦の画のうち、「座っている夫婦が互いの手首をつかみ、告別の身振りをしている」(「ウィキペディア・フリー百科事典(カザンラクのトラキア人の墳墓)」より)シーンは印象的である(写真下)。これらの壁画は、ヘレニズム時代のブルガリアの美術の中で、最も保存状態が良いものであるとの事。

(参考HP)
ウィキペディア・フリー百科事典(カザンラクのトラキア人の墳墓)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%81%AE%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%AD%E3%82%A2%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%A2%B3%E5%A2%93
トラキア人の墓
http://www.digsys.bg/books/cultural_heritage/thracian/thracian-intro.html
ウィキペディア・フリー百科事典(カザンラクのトラキア人の墳墓 : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Thracian_Tomb_of_Kazanlak


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次は「TRAVEL AGENCY “ROSE TRAVEL” Ltd」で、ローズジャムなどの試食だ。お墓の近くにあるお店だったが、年配者がいることも考慮し、バスで移動。大回りしたので、位置関係が良く分からなくなってしまった。地図を見ながら歩くのが、街を覚えるのには最も良いのだが、残念。お店の案内書を求めるが、2週間前にオープンしたばかりなので、まだ出来ていないとの事。代わりにくれたのが、「TRAVEL AGENCY “ROSE TRAVEL” Ltd」の住所やHPアドレスの書かれた紙一枚である。テーブルに着き、用意されていた軽食を頂く。チーズケーキにブルガリアヨーグルト、ローズジャム、バラのリキュールだ(写真)。お酒の飲めない私にとって、リキュールはアルコールが強すぎたので、一口だけに終わったが、香、味、甘さなどは非常に良いものであった。ローズジャムもヨーグルトに混ぜて頂くと美味しい。味覚を楽しんでいる間、他のテーブルでは薔薇の香水についての説明会が行われていたが、食べるのに忙しく、まったく話を聞いていなかった。今になって、説明を聞かなかったことを少々後悔している。お店を出る前に、ローズオイルのプレゼントをもらう。

カザンラクの旅行代理店「TRAVEL AGENCY “ROSE TRAVEL” Ltd」(※)
http://www.rose-travel.com
http://rose.iscona.com/?act=show_razdel&id=2&change_lang_to=en


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40分程ここで過ごし、その後徒歩で観光に出かけた。坂道を上ると、「シティリア教会」がある(写真上段)。ここで約10分、写真を撮る。教会に関する説明書きが見当たらなかったので、1865年に建てられたと言うこと以外、詳しいことは分からない。中に入ると、正面にはイコノスタシス。金がほとんど使われていなかったので、質素に見える。王門の両脇には、お約束通り、キリストと聖母マリアのイコンがあったが、「最後の晩餐」のイコンは掲げられていなかった(写真下段)。

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教会を出てから3~4分歩き、次は「カザンラク・クラタ民族博物館」(写真左)に入った。ここに来て初めて「トラキア人の墓」のすぐ近くにいたことが分かった。中に入ると、緑と花に囲まれた庭があり(写真中左)、その先には平屋建ての家屋が建つ(写真中右)。19世紀の初め頃に建てられたもので、建物の中を見ると、19世紀終わり頃の、カザンラク地方の伝統的な中流クラスの農家の暮らしが再現されている。「キッチン」(写真右)に「ベッドルーム兼ゲストルーム」(写真下)がある。

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ここから庭を横切り、井戸(写真左)や農具置場(写真中左)の前を通り過ぎると、2階建ての家屋の建つ庭に出た(写真中右・右)。この建物は民族復興様式の建築物で、19世紀の中ごろに建てられたもの。こちらは19世紀終わり頃の、中流クラスの農家の暮らしから、都会の暮らしへの変遷を見ることが出来る。「ベッドルーム」(写真下左)に「出っ張り構造のベランダ」(写真下中左)、「食料保管庫付きのキッチン」(写真下中右)、「ゲストルーム」(写真下右)など、少しお洒落な感じだ。こちらの庭では、外国人のグループがパーティーを催している。「’09~’10地球の歩き方 ブルガリア・ルーマニア」によると、「ここのメインはバラ祭りのときの蒸留祭だ。来訪した人々に香水を惜しげもなく振りかけ、周囲はバラの香りに満たされる」との事であったが、我々が訪問した時はこのようなことはなかった。「蒸留祭」とは、何時行われるのであろうか。

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博物館の出口近くに、昔の蒸留釜が置かれていた(写真)。どのように使うのか説明を受けたのだが、バラの油がどこに溜まるのか、もう一つ良く分からない。どうやら、解説してくれたカザンラクのガイド自身も良く分かっていなかったようだ。現役高校生で、今日が初めてのガイドなのだから仕方がないと思っていたら、このことを知らない他のツアーの人達は、「ガイドなんだから、もっと勉強してもらわないと困る」といって怒っていた。可愛いだけでは済まされないようである。結論は、次に訪ねる「バラ博物館」で出す事になった。

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カザンラク観光の最後は、「バラ博物館」である(写真左)。民族博物館の北西、バスで数分のところにある。ここには、「薔薇の芳香と薬効の研究所」(写真中左)があり、広場では色々な種類のバラが育てられていた(写真中右)。館内では、バラの香油の製造過程の写真(写真右)や蒸留釜(写真下左・下中)、バラの女王の写真(写真下右)などが展示されている。先ほどの疑問点についてだが、次のような工程で出来るとの事。
「釜の中にバラの花と蒸留水を入れる→釜を熱する→最初に水、次に香油が蒸発する→水を張った桶の中を通る管を通過する間に冷やされ、液体になる→バケツに水と香油が溜まる→分離した香油だけを採取する」。結局、バラの油はバケツに溜まるのである。

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ところで、香油を採取するためのバラは、何でも良いわけではない。香油用には、「薔薇の収穫祭」の会場で見たような、通常よりひと回り小さい薄いピンク色のバラを使う(写真)。観賞用ではない、この香油用のバラのことを「ギュル・トレンダフィル」と呼ぶ。博物館と同じ敷地に「薔薇の芳香と薬効の研究所」があることからも分かるように、バラの香油には治療作用もあると言う。ところで、ローズオイルの塊は、「ブルガリアの金」と呼ばれているとの事。1gで6,000円程になることを考えると頷ける。本当に貴重なものなのだ。

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約30分で「バラ博物館」の見学を終え、昼食のためバスでレストランに向かう。10分程で到着。レストランの名前は「KANCHE」(写真左)。ここでは子供達のフォークダンスを見ながら、バーべキューを楽しむことが出来るという。我々の到着と同時に、別のバスがやって来た。バスからは、民族衣装を着た可愛い子供達が降りてきた。彼らがフォークダンスを踊り、我々に見せてくれるのだ(写真中左・中右・右)。

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中庭の屋根の下にあるテーブルに着き、皿を持ってバーベキューを採りに行く。庭の周りでは、炭火で肉や野菜を焼いているが、まだ生焼け状態(写真左)。しかし、そのようなことはお構いなしで、皿に盛り付けてくれる。少し離れたところでは、鶏や羊、ウサギが丸焼きにされていた(写真中左・中右)。こちらはまだ出来上がるまでに時間がかかる様子。飲み物は飲み放題。アルコールの飲めない私は、コーラとファンタを貰い席に戻る。しばらくすると、子供達のフォークダンスが始まった(写真右・下段)。みんな元気よく、きれいに揃って踊っている。毎日学校で練習しているのだろうか。踊りと食事を楽しみ、午後2:00に昼食を終えた。


(参考文献)
・「’09~’10地球の歩き方 ブルガリア・ルーマニア」(地球の歩き方編集室編)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「ブルガリア・名所と穴場(日本語版)」(ヴァラ・カンジェヴァ/アントニー・ハンジースキー著)[BORINA刊]
・「図説バルカンの歴史(ふくろうの本)」(柴宣弘著)[河出書房新社刊]

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June 22, 2009

カザンラク・薔薇の収穫祭

ブルガリア・ルーマニアの旅(第11回)

第4日目[5月30日(土)](曇り時々雨)

本日は、プロブティフから北東へ100km以上離れたカザンラクで、「薔薇の収穫祭」を見る予定。そのため、早朝の午前6:00にバスでホテルを出発する。昨日の旧市街観光では、見たい所が残ってしまったので、いつもであれば早朝から一人で出掛けるのだが、本日は出発時間が早過ぎたため、断念せざるを得なかった。

午前4:30 起床
午前5:00~5:30 朝食
午前5:58 バスでホテルを出発
午前7:00~7:15 トイレ休憩
午前7:55~8:15 ホテル「カザンラク」で休憩・時間調整
午前8:30~9:20 薔薇の収穫祭
午前9:35~10:10 「トラキア人の墓」観光  
午前10:30~11:10 「ビストロ・クラタ」で軽食、並びに薔薇の香水実演
午前11:15~11:25 シティリア教会
午前11:35~11:55 カザンラク・クラタ民族博物館
午前12:00~12:25 バラ博物館
午後12:35~2:00 レストラン「KANCHE」で昼食
午後2:10~2:35 シプカの「セントニコライ教会」観光
午後3:35~3:55 ガソリンスタンドでトイレ休憩
午後4:30~5:35 ヴェリコ・タルノヴォの「ツァレヴェッツの丘」観光
午後5:45 ホテルに到着
午後6:20 ホテルの部屋へ
午後7:10~8:20 ホテルのレストランで夕食
午後9:30 入浴、資料整理を済ませ、就寝。


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午前4:30に、モーニングコールが鳴る。本日は、今回の旅のメインである「薔薇の収穫祭」の日だ。プロブティフから北東へ100km以上離れたカザンラクの会場に、午前8:00頃までに到着しないといけないため、早朝のモーニングコールになったのである。食事はホテルのレストランで、午前5:00から。このシーズン、「薔薇の収穫祭」参加のために宿泊する客が多いのであろう。ホテルも慣れたものである。ヴァイキング形式の朝食(写真)を、30分ほどで頂き、部屋に戻って出発の準備をする。

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午前5:50頃ロビーに行き、ホテルの写真を数枚撮る。まだ暗いので、ネオンサインが付いている。ホテルの真向かいの、「CASINO」と書かれた蛍光文字が目立つ(写真)。他のツアーメンバーの方達も早めに集まったので、午前5:58、予定時刻より2分早く、バスでカザンラクに向かった。

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30分ほど走ると、ローマ軍が進行してきた際に造られた、「ローマ軍の要塞の壁跡」があった(写真)。この辺りが温泉地だったため、ローマ軍の駐屯地に選ばれたとの事。この地区にはトラキア人の集落があったが、ローマ人が捕虜としてローマに連れ帰り、奴隷として売り払ったという。また1018年、第一次ブルガリア王国がビザンチン帝国に敗れて占領された時、ビザンチンの兵士たちはブルガリア人を捕え、100人単位に分け、99人の両目を潰し、残り1人の片目を潰してブルガリアに帰したという残酷な話が残っているとの事。

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バスで走り出して丁度1時間。午前7:00に、ガソリンスタンドでトイレ休憩をとる(写真左)。朝早く出たこともあり、順調に進んでいるようだ。午前7:15、ガソリンスタンドを出て、40分程でカザンラクのホテルに到着した。「グランド・ホテル・カザンラク」だ(写真右)。カザンラクを代表する大型ホテルで、3つ星。ここに宿泊していれば、「薔薇の収穫祭」に参加するのも楽であろうが、この時期は常に満室となるため、相当早くから予約しないとダメのようだ。祭りの会場にはトイレが無いため、ここで用を済ませ、再びバスで祭りの会場に向けて出発した。ここでブルガリアのガイドさんに加え、カザンラクのガイドとも一緒になった。180cm近くある背の高いスリムな女の子。色々お話しをしていると、現役の高校生で本日が初めてのガイドとの事。愛称は「ヴィッキー」だ。

ウィキペディア・フリー百科事典(カザンラク : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Kazanlak
グランド・ホテル・カザンラク
http://www.hotelkazanlak-bg.com
カザンラクの旅行代理店「TRAVEL AGENCY “ROSE TRAVEL” Ltd」(※)
http://www.rose-travel.com
http://rose.iscona.com/?act=show_razdel&id=2&change_lang_to=en

※同HPに書かれている「ROSE FESTIVAL 2009」のスケジュール
08.30 a. m. - Rose picking in Rozovo (Rose’s) village (meeting with bread and salt – old Bulgarian stile; rose picking in the rose fields; treat to homemade rose honey; authentic rose distillery.
10.30 a. m. - Testing of rose and other ethereal oils; degustation of Bulgarian yogurt, cheese cake, rose jam and rose liquor. For guests – rose oil gift.
11.30 a. m. - Visiting the Kazanlak Thracian Tomb, Rose museum, Archeological museum, Thracian tombs, called “Golyama kosmatka”, “Ostrusha” etc.
12.30 a. m. - Lunch. Folklore program on request.
我々のスケジュールは、これと同じである。

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15分ほどで、会場に到着。薔薇畑に向かうと、ブルガリアの民族衣装を着た人達が、音楽に合わせて踊りはじめた。数人の男性が楽器で演奏し、数十人の女性は、淡いピンク色の薔薇の花で一杯のかごを片手に、我々を歌で歓迎してくれた。若くて綺麗な女性ばかりだと思っていたのだが、結構年配の方もいた。英語の通じない人が多く、言葉は分からなかったが、バラの花の摘み方を教えてくれたり、一緒に踊ったりと、楽しく過ごす事が出来た。私の好みのタイプの女性と手をつないで踊っている時は、久しぶりにときめいた。10歳は若返ったかもしれない。小さな女の子が一人だけ参加していた。可愛いのだが、詰らなさそうにしている。無理やり連れてこられたようだ。キャンディーを数個あげるが、ご機嫌は直らなかった。1年に一度のお祭り、「薔薇の収穫祭」といわれると、相当大きなフェスティバルを想像してしまうのだが、実際は小さな村のお祭りと言った感じだ。来年、この祭りに参加しようと考えている方は、くれぐれも期待し過ぎてガッカリしないようにご留意を。みんなと一緒に楽しむ気持ちがあれば、期待に反しないと思うのだが。

バラ祭り
http://www.rose-festival.com/


(参考文献)
・「’09~’10地球の歩き方 ブルガリア・ルーマニア」(地球の歩き方編集室編)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「図説バルカンの歴史(ふくろうの本)」(柴宣弘著)[河出書房新社刊]

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June 21, 2009

プロブディフ旧市街観光

ブルガリア・ルーマニアの旅(第10回)

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世界遺産である「リラの僧院」を観光し、昼食でブルガリア名物「タラトール」を頂いた後、バスで「プロブディフ」の街に向かう。山の中を走るため、ガソリンスタンドやみやげもの店などは見られない。途中、馬が道路を横切ったため、バスが停められるハプニングもあった。1時間半ほど走ったところで、トイレ休憩である。スキー客向けのリゾートホテルで、トイレを借りることになった。ホテルの名前は「RILA」(写真左)。中はヒッソリしている。フロントも軽食レストランにも、我々以外、誰もいない(写真中左)。オフシーズンだからであろうか。正面入り口から外に出ると、向にはスキーのゲレンデが見える(写真中右)。当然、雪は無い。ゲレンデ、ホテルとも、なかなか素晴らしいので、シーズンには人で混雑しそうである。ゲレンデの隣には、飲食店やみやげもの店が並ぶ(写真右)。お客がいないので、店員も暇なのであろう。私に話しかけてきたので、このホテルの客ではなく、休憩のために立ち寄っただけであることを伝えると、ガッカリしていた。ホテルの壁に付けられている温度計を見ると、8℃が表示されている。体が冷えるので、ホテルのロビーに戻った。

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休憩をとったホテルから約2時間。ようやくプロブディフの街に到着した。プロブディフは、ソフィアから南東約125kmに位置し、人口は38万人で、ソフィアに次ぐブルガリア第二の都市。毎年国際見本市が開催される、商業の町だ。午後6:15、「聖マリーナ教会」(写真左)の近くでバスを降り、徒歩で旧市街の観光に出かけた。「聖マリーナ教会」の横を西に向かい、「アレクサンダル・バテンベルグ通り」に出る。ここでトイレ休憩のため、近くの喫茶店に入る。ツアーの女性の人数が多く、なかなか出発できなかったので、添乗員の了解を取り、私一人ツアーを離れることにした。ここから300~400m南にある、「中央広場」の「インフォメーション・センター」に行きたかったからだ。「アレクサンダル・バテンベルグ通り」にはお店が並び、人で賑わっている(写真中左・中右)。3~4分で「インフォメーション・センター」に到着したのだが、すでに閉められていた(写真右)。ガイドブックによると、午後7:00まで開いているはずだったのだが、現在は午後6:00に閉まるようだ。残念だが仕方がない。「ジュマヤ広場」にある「ローマの競技場跡」を見るため、先ほど来た道を引き返すと、まだツアーの人達が、先ほどと同じ場所いた。最後の一人を待っているとの事。私の行き先も同じだったので、再びツアーと合流することにした。

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北に300~400mほど歩くと、「ジュマヤ広場」(写真左)だ。広場中央の地下に、1~2世紀に造られた「ローマの競技場跡」が残されている(写真中左)。推定だが、直径177m、通路は200mあり、約3,000名収容できたという。「競技場跡」の北側には、「ローマ皇帝の銅像」が立つ(写真中右)。東側には、「14世紀にオスマン朝のスルタン(皇帝)だったムラト二世の治世下に建てられた「ジュマヤ・ジャーミヤ」がある(写真右)。ダイヤモンド模様が美しいミナレット(尖塔)をもつこのイスラム寺院は、内部に泉がある。これはオスマン朝初期に見られる極めて珍しい建築様式」(「’09~’10地球の歩き方 ブルガリア・ルーマニア」より)であるとの事。

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次は「ローマの円形競技場」に向かう。坂を上る途中、鐘楼が見え始めた。「聖処女教会」である(写真左)。さらに曲がりくねる細い道を上り、「ミュージック・ダンス・ファインアートアカデミー」の横を抜けると、「ローマの円形競技場」だ(写真中左・中右)。旧市街の断崖にある、ローマ時代の半円形の劇場跡。三段構造の建築になっており、イオニア式の柱と彫刻で飾られている(写真右)。保存状態が良いので、夏になると、現在でも野外劇が催されていると言う。収容人員は、こちらも約3,000名。

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石畳の道を少し下ると、数多くの出窓の付いた、非常に変わった形の建築物がある。「ラマルティンの家」である(写真)。1838年に、わずか3日間だが、フランス詩人の「アルフォンス・デ・ラマルティン」がここで過ごしたことが由来だ。1829~1830年に建てられた、プロブディフのシンメトリーハウスを代表的する建物で、かつてはプロブディフの商人「ゲオルギ・マブリディ」が所有していた。

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さらに石畳の道を下ると、「ボヤジエフ・ハウス」だ(写真)。19世紀の屋敷で、かつては医者が住んでいたと言う。現在は、ブルガリアを代表する画家、「ズラトュ・ボヤジエフ」の作品を集めたギャラリーになっている。

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「ボヤジエフ・ハウス」の前を通り、さらに石畳の道を北に進むと、「聖コンスタンティン・エレナ教会」が建つ(写真)。この教会は、1832年、古代キリスト教会跡地に建設された。幾つかの教会の建物と、装飾された高い石壁、その後ろには鐘楼や僧侶の部屋、寺男の建物、大理石の噴水、学校等が建つ。午後6:00を過ぎていたので、入ることはできなかったが、中には、民族復興期の巨匠ザハリ・ゾクラフによって壁に描かれたフレスコ画があるとの事。残念だが、外からは薄緑色の鐘楼しか見えない。

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教会の北側には「ヒサル・カピヤ(要塞門)」が見える(写真)。「紀元前4世紀にマケドニアのフィリップ二世によって建てられたもの。ネベット・テペの要塞を中心とした旧市街を防衛するための要となる門で、ローマ、オスマン朝と支配者が変わるごとに破壊と修復が繰り返された」(「’09~’10地球の歩き方 ブルガリア・ルーマニア」)との事。

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「ヒサル・カピヤ」の北側には、「民族博物館」が続く(写真)。この建物は、1847年、イスタンブール出身のハジ・ゲオルギによって建てられた。入口の扉が開いていたので、建物の外観と庭を見ることが出来た。バロック様式と民族復興様式がミックスされた建築様式で、黒地の壁に金で描かれた模様が目立つ。高い壁に囲まれた大きな庭には、大理石の噴水と井戸がある。館内には、建築当時の家具・調度、民族衣装やブルガリアのバグパイプ等が展示されていると言う。「聖コンスタンティン・エレナ教会」の鐘楼を、間近に見ることが出来る。

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旧市街の観光は、ここで終了。バスの待つ場所まで、戻ることになった。まだまだ見たい場所はあったのだが、午後7:30近くになっていたことから、やむなくホテルに向かうこととなった。先ほど見た「ジュマヤ広場」を通り、午後7:40頃バスに乗る。ホテルには10分程で到着した。夕食の予約時間が過ぎていたため、添乗員がチェックインの手続きをしている間、我々は先に食事を頂くこととなった。レストランは明るくて清潔な雰囲気(写真左)。メニューは次の通り。

・キュウリとトマトのサラダ(写真中左)
・マスのグリル(写真中右)
・フルーツとアイスクリーム(写真右)

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約1時間で食事を終え、午後8:50 部屋に入る。ブルーのベッドカバーにブルーのソファ。非常にシンプルな雰囲気だ(写真)。入浴を済ませ、資料整理をしていた時、シンフォメーションセンターが閉まっており、プロブディフの地図などを入手できなかったことを思い出したので、午後10:00頃、 ホテルのフロントに行き、プロブディフの地図をもらう。部屋に戻ってから直ぐ、午後10:10 にベッドに入った。


(参考HP)
ノボテル・プロブディフ
http://www.novotel.com/gb/hotel-0463-novotel-plovdiv/index.shtml
ウィキペディア・フリー百科事典(プロブティフ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%B4%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%95
ウィキペディア・フリー百科事典(プロブティフ : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Plovdiv
プロブディフ観光案内(英語版)
http://www.plovdiv.org/home/index.html
プロブディフの観光インフォメーション(英語版)
http://www.tourismplovdiv.org/index.php


(参考文献)
・「’09~’10地球の歩き方 ブルガリア・ルーマニア」(地球の歩き方編集室編)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「図説バルカンの歴史(ふくろうの本)」(柴宣弘著)[河出書房新社刊]

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June 18, 2009

「ドル」の起源となった大型銀貨(後期型)

貨幣ぶらり旅(第160回)
マイ・コイン・コレクション(第17回)

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「ドル」の起源となった「ヨアヒムス・ターレル銀貨」の後期型(写真上 : 表面 ・ 写真下 : 裏面)を入手したので、ご紹介する。コイン業者の案内によると、「オーストリア・シュリック(Austria Schlick)Guldener」(1527年)。「ドルの起源となった大型銀貨の後期型、初期型に比べ聖ヨアヒム像は小さくなりましたが紋章、兜とのバランスは良くなっています。このコインとしては非常に良好な状態(VF+)」との事。初期型は状態の良いものが出てこないため、先に後期型のものを入手した。ところで、なぜ「ヨアヒムス・ターレル銀貨」が「ドル」の起源と言われているのだろうか。ご存知の方も多いと思うが、以下、簡単に整理してみた。

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5世紀も終わりの頃、当時「神聖ローマ帝国」の一部であったエルツ山脈のふもと、「聖ヨアヒムス・タール(現在のヤーヒモフ)」(写真上 : 16世紀中頃の地図 ・ 写真下 : 現在の地図 ・ どちらも「赤点」のところ)で大銀山が発見された。この谷(タール)の所有者である「シュテファン・シュリック伯爵」の命により、1517年以降、同銀山から産出する銀で銀貨が造られるようになった。このことから「ヨアヒムス・タール産の銀貨」、または「タール」を意味する「ターラー」と呼ばれるようになった。この「ターラー銀貨」は、重さが約30gあり、品位も95%程度と、金貨と等価で通用する大型のものであったことから、当時のヨーロッパの国際通貨であるイタリアの「フローレンス金貨(3.5g)」に代わるものとして広く用いられ、またヨーロッパ各国銀貨の原型をなすものとして評価されたのである。

※地図の写真は、文末(参考文献)に挙げた「標準世界史地図」(亀井高孝ほか編)[吉川弘文堂刊]と「今が分かる時代が分かる 世界地図」(正井泰夫監修)[成美堂出版刊]から転載した。

では、なぜ新しく造られた銀貨が、すぐに国際通貨として流通するようになったのであろうか。15世紀後半のヨーロッパは戦争が絶えず、戦費調達のため銀貨に含まれる銀の量が落ち、品位が低下していた。また中国や中東などの東方から、香辛料や絹・陶磁器ほか高価な品々を購入し、金・銀で支払って流出を続けたことも品位低下に輪をかけたようだ。このような環境下、当時のヨーロッパ各地では商取引の基準として新たな通貨が求められていので、これら初期のターラーから造られた「新ターラー」がその基準通貨となり、同様の大きさおよび銀の重さの通貨が欧州各地で造られたのである。例えば、ダラー(Daler : スカンジナビア),ダールダー(daalder : オランダ),タレーロ(taller : イタリア)などを挙げることが出来る。なお、この「ターラー」が、イギリスで訛って「ダラー」になったと言われている。

次に、なぜイギリスで訛って呼ばれるようになった「ダラー」が、米国で使われるようになったのか。米国はイギリスの植民地だったので、本国の「ポンド」が使われるのが自然のように思えるのだが、これは当時本国であるイギリスが採っていた「重商主義政策」に原因があるという。「経済学事始」(三上隆三著)[東洋経済新報社刊]によると、「アメリカはイギリスの植民地として出発したため、本来、商品などの価格は本国と同様のポンド、シリング、ペンス建てであった。本国の重商主義政策、それにもとづくイギリス本国よりの正貨輸出の禁止、及び貨幣大権によるアメリカ植民地での造幣禁止等によって、アメリカ植民地は通貨の不足になやまされた。そのためにタバコ・トウモロコシ・毛皮等の代用商品通貨が出現する一方、他方ではスペイン領西インド諸島との貿易を通じてスペイン・ドル、メキシコ・ドルとよばれる銀貨が大量に流入し、アメリカの一般的通貨となった。(省略)しかし、メキシコ・ドルがアメリカ植民地通貨の主要部分を占めるにつれて、それのポンド建てへの読みかえ・換算が不便・面倒ということもあって次第に読みかえ・換算は行われなくなり、ドルはドルとしてそのまま通用するようになった。通貨面におけるアメリカ植民地のイギリス本国からの離脱であり、1776年のアメリカ独立への一石であった」との事。

ここまで来ると、さらに疑問が出てくる。スペインやその領地であったメキシコの通貨単位は、「ドル」ではなく「ペソ」であったのに、なぜ「ドル」と呼ばれていたのかという点だ。これについては先にお話しした通り、「ターラー銀貨」がヨーロッパ各国銀貨の原型をなすものとして評価されていたことから、スペインでも自国の銀貨を「ターラー銀貨」を基準に鋳造し、スペイン領のメキシコでも本国の銀貨を手本にしたことから、「ターラー銀貨」を基準にした銀貨が製造されたのである。このため、イギリスではスペイン銀貨やメキシコ銀貨を「スペイン・ダラー」、「メキシコ・ダラー」と呼んだのである。すなわち、これらは正式な通貨単位名ではなく、前掲書によれば、「ニックネーム」のようなものなのである。

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「ドルの起源」に関する話が続いたが、ここでコインに目を向けることにする。直径は4.0cm、重さは30g。表面には聖ヨアヒムの像(写真左)と兜(写真中)、紋章(写真右)が、また裏面にはライオン(写真 : 前掲)が彫られている。

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今回入手したコインは、すでにお話しした通り「後期型」だが、どのように変化したのかを知るため、インターネット各サイトなどから写真を集めて比較してみた。写真左が1520年に発行されたもの(大英博物館のHPより)。写真中左は1525年発行の銀貨(ウィキペディア・フリー百科事典(ターラー(通貨)のHPより)。写真中右が1526年のもの(「日本銀行金融研究所 貨幣博物館」より)。写真右は今回入手した1527年に発行された「ターレル銀貨」だ。なお、その他詳しいことは、手元資料だけでは調べきれないので、今後の課題としたい。


大英博物館(Silver Joachimsthaler of Stephen,count of Schlik)
http://www.britishmuseum.org/explore/highlights/highlight_objects/cm/s/silver_joachimsthaler_of_steph.aspx
ウィキペディア・フリー百科事典(ターラー(通貨))
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC_(%E9%80%9A%E8%B2%A8)
ウィキペディア・フリー百科事典(ドル)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%AB
ウィキペディア・フリー百科事典(ザンクト・ヨアヒムスタール : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/J%C3%A1chymov
ウィキペディア・フリー百科事典(ヨアヒムスタール)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%A2%E3%83%92%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB
ウィキペディア・フリー百科事典(ヤーヒモフ : Jáchymov・旧「聖ヨアヒムス谷」 : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/J%C3%A1chymov
ウィキペディア・フリー百科事典(ヨアキム[聖ヨアヒム])
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%A2%E3%82%AD%E3%83%A0

(参考文献)
・「円の誕生」(三上隆三著)[東洋経済新報社刊]
・「経済学事始」(三上隆三著)[東洋経済新報社刊]
・「貨幣から見た世界史・文明の血液」(湯浅赳男著)[新評論刊]
・「図説お金の歴史全書」(ジョナサン・ウィリアムズ編)[東洋書林刊]
・「MONEY A HISTORY(英語版)」(Catherine Eagleton and Jonathan williams著)[A Firefly Book刊]
・「日本銀行金融研究所 貨幣博物館」(日本銀行金融研究所編・刊)
・「標準世界史地図」(亀井高孝ほか編)[吉川弘文堂刊]
・「今が分かる時代が分かる 世界地図」(正井泰夫監修)[成美堂出版刊]
・「西洋紋章パヴィリオン」(印南博之著)[東京美術刊]
・「歴史読本 特集・お金の百科事典」[新人物往来社刊]
・「NEW PURCHASES No.211(2009年6月号即売誌)」[ダルマ刊]

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June 17, 2009

世界遺産・リラの僧院

ブルガリア・ルーマニアの旅(第9回)

第3日目[5月29日(金)](雨時々曇り)

午前6:40 起床
午前7:00~7:50 朝食
午前8:40 バスで出発
午前9:55~10:25 トイレ休憩
午前10:40~10:50 警察に呼び止められバスのチェックを受ける
午前11:35 「リラの僧院」に到着・見学
午後1:05 バスに集合
午後1:07 バス出発
午後1:20~2:30 レストラン「DAVID」で昼食を取る
午後2:30 バスでプロブディフへ
午後3:50 ホテル「RILA」でトイレ休憩
午後6:15~7:39 プロブディフ旧市街を徒歩で観光
バス下車→トイレ休憩→中央広場→ジュマヤ広場(ローマの競技場跡、ジュマヤ・ジャーミヤ)→聖マリー教会→ミュージック・ダンス・ファインアートアカデミー→ローマの円形劇場前→ボヤジエフ・ハウス→聖コンスタンティン・エレナ教会→民族博物館→ヒサル・カピア→イコン・ギャラリー→ジュマヤ広場→バス乗車
午後7:50 宿泊するホテル「ノボテル・プロブディフ」に到着
午後8:00 ホテルのレストランで夕食(その間、添乗員がチェックインの手続きをする)
午後8:50 部屋に入り、資料整理・入浴
午後10:00 プロブディフの地図をもらうためホテルのフロントに行く
午後10:10 ベッドに入る


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午前6:40起床。午前7:00、朝食をとるため、ホテルのレストランに向かう。昨日は観光のため朝食をとらなかったので、このホテルで朝食を頂くのは初めてである。ヴァイキング方式で、メニューは豊富だ(写真左・中)。チーズが載せられたトマトやポテト、マッシュルームや豆などを選ぶ。もちろんブルガリアなのでヨーグルトも忘れなかった(写真右)。食事を初めて20分ぐらいで、まわりのテーブルが一杯になったため、一人の女性が相席を申し出てきたので了解する。彼女は50歳代ぐらいの小柄な方で、出身はフィリピン。現在、国連関係の仕事をしており、今回は視察で来ているという。しかし、本日は休みなので、観光にでかけるとの事。私と同じ「リラの僧院」に行く予定だったので、ますます話が盛り上がった。しばらくすると、日本人の男性がやって来た。彼も国連関連の仕事をしている、彼女の同僚との事。30歳代ぐらいのガッシリした体型の人物。女性の方はキリスト教徒で、御祈りがあるからと言って先に席を立ったが、男性とは国連に関して色々とお話を聞かせてもらった。お話しをしていたので長い朝食となったが、午前8:00前に部屋に戻り、出発の準備を整えた。

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午前8:40、ホテルからバスで「リラの僧院」に向かった(写真)。「リラの僧院」は、ブルガリアの首都ソフィアから南へ約100kmに位置する。ブルガリア正教の総本山とも言うべき僧院だ。10世紀、イヴァン・リルスキという僧により建築され、12~14世紀の第二次ブルガリア帝国の時代に僧院は大きくなり、14世紀に現在の形になった。1389年、ブルガリアはオスマン朝トルコの支配下に入り、キリスト教の信仰などが禁じられたが、この僧院だけは黙認され、東方正教の信仰と民族独自の文化を守りつづけた。現在の建物は、1833年の火災により焼失した後に再建されたもの。「教会」や「住居部」、「フレリョの塔」などからなる複合建築物であり、「民族復興様式」と呼ばれる建築様式によって建てられている。ブルガリア・ルネツサンス期の代表建築でもある。1983年にはユネスコの世界遺産に登録された。

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ホテルから1度の休憩をはさみ、山の中を走る。雨のため、バスは予定よりも遅れていたのだが、さらに遅くなるような出来事が起こった。走行中、警察に呼び止められたのである。ガイドの話によると、最近、「もぐり」の観光バスが事故を起こしたため、厳しいチェックをしているとの事。チェック項目は、認可を受けた観光バスであるのかなど十数項目に及ぶようで、運転手は色々な書類を取りに何度もバスとパトカーの間を往復していた。10~15分かかったが、無事に解放され、再びバスは「リラの僧院」に向けて走り出した。30分ほど走ると、両並木の一本道になった(写真左)。もうすぐリラ村である(写真右)。

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午後11:35、ようやく「リラの僧院」に到着。バスを降りると、目の前に入り口ゲートがある(写真左)。カラフルなフレスコ画が描かれた門(写真中左・中右)をくぐると、正面に「聖母誕生教会」の建物だ(写真右)。4階建の外陣に囲まれ、その中央に建っている。生憎の雨だが、観光客の数は多い。遠足なのだろうか。何組もの子供達がいる(写真中段左)。我々は、最初に「聖母誕生教会」に入ることにした。教会には、全部で5つのドーム(丸屋根)と3つの祭壇、2つのチャペルがある。「白と黒の横縞模様が印象的な教会正面のアーチをくぐると、外壁の壁面いっぱいに、そして天井にも、フレスコ画。そこには、36の聖書の場面やこの地方のそれぞれの時代の様子が、色彩豊かに描かれている。これらは民族復興期最高のイコン画家といわれるザハリ・ゾグラフを含む当時を代表する画家たちが無償で描いたと言う」(「’09~’10地球の歩き方 ブルガリア・ルーマニア」より : 写真中段中左・中段中右・中段右・下段 : 個々のフレスコ画について、資料がないためコメントできないので、画像だけをお楽しみいただきたい)。

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教会内に入ると、正面奥には「イコノスタシス(イコノスタス)」が見える。ソフィアの正教教会でも見てきたとおり、「イコノスタシス」は、「聖障(せいしょう)」とも言われ、聖所(せいじょ・内陣)と至聖所(しせいじょ)を区切るイコンで覆われた壁のことで、正教会と東方諸教会の聖堂で用いられている。「聖母誕生教会のイコノスタスは、幅が10mもある立派なもの。精緻な彫刻が施され、表面には金箔が施されている。ブルガリア木彫芸術の最高傑作とも言われているもので、その制作には5年の歳月を要した」との事(「’09~’10地球の歩き方 ブルガリア・ルーマニア」より : 写真 : 写真右は「ウィキペディア・フリー百科事典(リラ修道院)」より)。ちなみにこの教会では、「王門」の上に「最後の晩餐」のイコンは掲示されていない。イコノスタシスの上、十字架の下に目を移すと、キリストのイコンが見える。このイエスの前を横に歩くと、どこに居てもこちらを睨んでいるのだと言う。蟹歩きしてみると、確かにいつも私の方を見ている。キリストの目が追いかけてくるのだ。また、イコノスタシスの中央すぐ前には、この僧院の創設者であるイヴァン・リルスキの左手を始め、多くの聖人の聖遺物が置かれている。これらの聖遺物は、オスマン・トルコのスルタンの許可を得て取り戻したとの事。

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教会を出て、次に訪ねたのは「フレリョの塔」である(写真左・中左)。高さ約50mあり、教会のすぐ西側に建つ。僧院の建物は、1833年の火災により焼失した後に再建されたものであることをお話ししたが、唯一火災を免れたのがこの塔である。14世紀に建てられた当時の状態で残っており、「外壁の壁画はほとんど退色しておらず、充分に鑑賞に堪えうる見事なもの」(「’09~’10地球の歩き方 ブルガリア・ルーマニア」より)との事。なお鐘楼部分は、1844年に後から取り付けられたものである(写真中右・右・下段)。また現在、一階にはみやげもの店が入っている。

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続いて、教会を取り囲む4F建ての住居部分だ(写真左・中左)。現在、2F以上に上がることは出来ない(写真中右)。この住居部分には300以上の部屋があるが、往時には全国からすべての部屋が埋まるほどの僧が集い、寝起きしていたとの事。また住居部分の一部には、巨大な器の置かれたキッチンも見られる(写真右)。

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雨を避けるため回廊(写真左)を歩いて「歴史博物館」に行く途中、朝、ホテルのレストランで朝食を共にした国連関連で仕事をする女性と出会った。お互い予定通りの行動だったとはいえ、また会えたことで何故か嬉しくなっていた。「歴史博物館」(写真中左)は通路の突き当り、東の端にあたる場所にある。受付を通り、階段を降りた地下が博物館で、ここにはイコンや古い聖書、聖職器などが展示されている(写真中右)。「必見なのは、19世紀初頭に制作されたラファエロの十字架。高さ50cmほどの木製の十字架には、140の聖書の場面が彫り込まれ、登場する人間の数はなんと1,500人。12年の歳月をかけて完成した時には、僧ラファエロの視力はすっかり失われていたと言う」(「’09~’10地球の歩き方 ブルガリア・ルーマニア」より : 写真右 「images from bulgaria」より)。

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「歴史博物館」から出口に向かう途中、「ネオフィト・リルスキ」の墓があった(写真)。彼はブルガリア語初の文法書を著わすなど、ブルガリア語教育に多大な貢献をし、また「リラの僧院」の院長も務めた人物である。

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約1時間半。「リラの僧院」の見学を終え、午後1:07、バスで昼食会場であるレストランに向かった。約15分で到着。お店の名前は「DAVID」(写真上段)。緑に囲まれた田舎の中にあり、ブルガリアの伝統料理を食べさせてくれるレストランだ。店内には60席程あるが、外にも120程の席が用意されている。

本日のメニューは、次の通り。
・名物「タラトール」(ヨーグルトの冷製スープ : 写真下段左)
・ポーク(写真下段中)
・蜂蜜のパンケーキ(写真下段右)

約1時間で昼食を終え、その後バスで「プロブディフ」の町に向かった。


(参考HP)
リラの僧院(英語版)
http://www.bulgarianmonastery.com/rila_monastery.html
ウィキペディア・フリー百科事典(リラ修道院)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%A9%E4%BF%AE%E9%81%93%E9%99%A2
ウィキペディア・フリー百科事典(リラの僧院 : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Rila_Monastery
ウィキペディア・フリー百科事典(内陣)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%99%A3
ウィキペディア・フリー百科事典(ラファエロの十字架: 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Rafail%27s_Cross
images from bulgaria(「ラファエロの十字架」の写真)
http://imagesfrombulgaria.com/v/Monasteries_in_Bulgaria/Rila_Monastery/DSC00775.JPG.html
THE 世界遺産(第211回 : リラ修道院)[TBS]
http://www.tbs.co.jp/heritage/1st/archive/20000723/onair.html
ユネスコ世界遺産(リラの僧院 : 英語版)
http://whc.unesco.org/en/list/216

(参考文献)
・「’09~’10地球の歩き方 ブルガリア・ルーマニア」(地球の歩き方編集室編)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「ブルガリア・名所と穴場(日本語版)」(ヴァラ・カンジェヴァ/アントニー・ハンジースキー著)[BORINA刊]
・「図説バルカンの歴史(ふくろうの本)」(柴宣弘著)[河出書房新社刊]

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June 14, 2009

地方自治法施行60周年記念貨幣・茨城県と奈良県の図柄決定

地方自治法施行60周年記念貨幣・茨城県と奈良県の図柄決定

平成21年6月5日、財務省は地方自治法施行60周年記念貨幣のうち、茨城県及び奈良県分の貨幣(千円プレミアム型銀貨幣及び五百円バイカラー・クラッド貨幣)の図柄を決定したと発表した。
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茨城県の千円プレミアム型銀貨幣は、表面が「H-2ロケットと筑波山」(写真左)、裏面は全都道府県共通の「雪月花」(写真下左)。五百円バイカラー・クラッド貨幣は、表面が「偕楽園と梅」(写真中左)、裏面は全都道府県共通の「古銭のイメージ」(写真下右)である。また奈良県の千円プレミアム型銀貨幣は、表面が「大極殿正殿と桜と蹴鞠」(写真中右)、裏面は全都道府県共通の「雪月花」(写真下左)。五百円バイカラー・クラッド貨幣は、表面が「遣唐使船」(写真右)、裏面は全都道府県共通の「古銭のイメージ」(写真下右)である。
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なお、発行は平成21年後半の予定だ。
※写真はすべて財務省のHPから
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財務省のHP
http://www.mof.go.jp/jouhou/sonota/kokko/kk210605.htm
造幣局のHP
http://www.mint.go.jp/topics/new/page48.html

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June 13, 2009

ブルガリアの民族舞踏

ブルガリア・ルーマニアの旅(第8回)

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「ボヤナ教会」の見学を終え、午後3:30頃、バスでホテルに向かう。渋滞になる前の時間帯だったので、午後4:00頃にはホテルに到着した。ホテル部屋の窓から外を見ると、朝方訪れた「聖ペトカ地下教会」(写真左)や「旧共産党本部」(写真右)の建物が見える。4階から見る様子は、全体の雰囲気が掴め、これもまた面白い。本日の夕食は、ホテルとは別のレストランで、民族舞踏を楽しみながらブルガリア料理を楽しむと言うもの。午後7:15にロビー集合だったので、まだ時間があったことから、簡単に資料整理を行い、午後4:45、再び外出した。

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最初に向かったのは「考古学博物館」だ。朝から何度も建物の前を通っていたので、地図を見る必要もなかった。2~3分で到着。丁度午後5:00だったからであろう。博物館の向かい側に建つ「大統領官邸」の前で、衛兵の交代式が行われていた(写真左・中左)。時間を合わせてわざわざ来ないと見れないものを、偶然にも見ることが出来たことはラッキーであった。交代式を見終えた後、博物館に入る(写真中右・右)。入館料は10レヴァ。受付で支払い、館内に入る。そこは体育館のように広いスペースで、仕切りもなくローマ時代の石像や石柱、モザイクや衣装などの発掘品が展示されていた(写真下左)。この建物は元モスクだったので、このような広い空間が存在するのだ。1494年に建てられ、大寺院を意味する「ビュユック・ジャーミヤ」と呼ばれていたが、19世紀からは現在のように「考古学博物館」として使用されている。2Fにもいくつかの部屋があり、トラキアやギリシャ、ローマ、ブルガリア中世のイコンや工芸品などが展示されている(写真下中)。中でも、紀元前4世紀、トラキア人が支配した時代の埋葬者にかぶせられた黄金のマスクは見逃せない展示物のひとつである(写真下右 : 「SOFIA GUIDE(英語版)」より)。その他、発掘された金貨や銀貨なども、私にとっては興味を引く品であった。

ウィキペディア・フリー百科事典(考古学博物館 : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/National_Archaeological_Museum_(Bulgaria)


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約40分で博物館での鑑賞を終え、次に訪ねたのは「Economic & Investment Bank」(写真左)である。目的は、先ほど手に入れることのできなかったブルガリアの少額貨幣20ストティンキコインの入手だ。ついでに、既に手にしていたコインよりも更に状態の良いものが欲しかったので、ここでも全7種類の両替を行った。コレクション用として出来るだけ未使用のコインが良い旨伝えると、何十枚もあるコインの中から選んでくれた(写真中・右)。

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すべてのコインを入手して満足しながらホテルに戻る途中、午前中ミサを行っていた「聖ネディリャ教会」の前に出たので、まだ時間もあったことから、再び教会の中に入ることにした。ミサの最中とは異なり、今度はユックリ内部を拝見させて頂く。イコノスタシスやイコン、フレスコ画やシャンデリアなどを見て厳かな雰囲気に浸るとともに、芸術的な楽しみも味わうことが出来た(写真)。


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午後6:00頃ホテルに戻り、入浴して身支度を整え、午後7:15、集合場所のロビーに。すると昨日同様、本日も高校生たちの卒業パーティーが始まろうとしていた。華やかな衣装を身にまとった高校生たち。彼らの承諾をとり、写真を撮らせてもらう(写真)。衣装と雰囲気のためであろうか。みんなが美男・美女に見える。ふと気が付くと、ツアーメンバーの男の人達も熱心に写真を撮っていた。

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高校生たちがホテルの前に集まっていたため、バスが入れないとの事で、ホテルの裏口から出てバスに乗車。少し遅れて午後7:25、レストランに向かって出発した。夕食会場は、ボヤナにあるレストラン「BOYANSKO HANCHE」(ボヤナ・ハンチェ(「ボヤナの旅籠」の意味) : 写真左・中左)だ。20~30分で到着。店内は、広いスペースを囲むようにテーブルが用意されている。席に着いてしばらくすると音楽が流れ、そしてショーが始まった。最初は、民族楽器を持った男性3人と歌手の女性一人。歌と音楽を楽しませてくれた(写真中右・右)。続いて「ショッピダンス」など、ソフィア地区の民族舞踏だ(写真下段)。数人の男女が登場し、踊りを見せてくれる。早い動きのダンスだが、誰一人遅れることなくリズミカルに踊る。私であれば、30秒も続けていられない激しい動きだ。このような踊りを何種類も見せてくれた後、観客参加の時間になった。いつもであれば積極的に参加する私だが、この日はとてもついていけないと思ったので、外野から皆の踊り見て楽しむことにした。

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民族舞踏を見ながら頂いた夕食は、ブルガリア料理である。メニューは次の通り。
・「ポタージュ・スープ」(写真左)
・「カヴァルマ」(「ブルガリア風すき焼き」と聞いたが、ビーフ・シチューのような感じである : 写真中)
・「ミルク・パイ」(写真右)

約2時間、歌と音楽と踊りと料理を楽しみ、午後10:00にレストランを後にした。午後10:30、ホテルに到着。本日は早朝から歩き廻り少々疲れていたので、洗面を済ませ、午後10:45にベッドに入った。

(参考文献)
・「’09~’10地球の歩き方 ブルガリア・ルーマニア」(地球の歩き方編集室編)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「SOFIA GUIDE(英語版)」(ソフィアのインフォメーションセンター配布冊子)
・「SOFIA in your pocket」(ソフィアのインフォメーションセンター配布冊子)
・「図説バルカンの歴史(ふくろうの本)」(柴宣弘著)[河出書房新社刊]


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June 12, 2009

世界遺産・ボヤナ教会

ブルガリア・ルーマニアの旅(第7回)

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ガイドさんに連れられたツアーが終わったので、ホテルの西側、道路を隔てて建つ「UniCredit Bulbank」を訪ね、ブルガリアの少額貨幣(単位 : ストティンキ)7種類のうち6種類を入手し(20ストティンキコインはなし)、一旦ホテルに戻った。午後12:00にホテルのロビーに集まってから昼食のレストランに行くとの事だったので、丁度12:00にロビーに行くが、既に誰もいない。仕方ないので、地図を見ながら一人レストランに向かう。「聖ネデリャ教会」の前を通り、「ヴィトシャ通り」を南に100m程進むと「裁判所」(写真左)が見えた。「アラビン通り」を横切り、「テンコグル通り」に出たところで一本東側の道に入る。さらに南に50m程の所にレストランはあるはずだった。しかし、昼食会場である「IZBITE」と言う名のレストランの看板が出ていなかったので(写真中左・中右 : レストランの入り口・右・下左 : レストラン内部)、少々迷う。1Fにいた人に尋ね、地下にそのレストランがある事がわかり、無事に到着したが、他のメンバーはまだ来ていなかった。後からメンバーの一人に訊くと、「聖ゲオルギ教会」やローマ時代の浴場跡などを見ながら来たとの事。年配者が多いうえ、寄り道していたのだから、遅くなるのも尤もである。午後12:40頃から1時間ほどで昼食を頂く。メニューは、次の通り。

・トマトとキュウリのサラダ(写真下中左)
・白身魚のムニエルと野菜(写真下中右)
・アイスクリーム(ブルーベリーソース : 写真下右)


午後1:50、昼食を終えてホテルに戻る。午後2:07、ホテルの前からバスに乗り、ユネスコの世界遺産に登録されている「ボヤナ教会」に向かった。教会は、ソフィア中心部から南西へ約8km、ヴィトシャ山の麓に建つ。ヴィトシャ山は、標高2,000m級の山々が連なる連峰で、最も高いチェルニ・ヴラウ(「黒い山」の意)は2,290mある。現在、山の麓はブルガリアの高級住宅街が並ぶ。20世紀の中頃から、社会主義時代の迎賓館や共産党のエリート等が立派な邸宅を建てたことが始まりのようだ。

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ホテルを出てから30~40分で到着。入り口の門をくぐり(写真左)、100m程歩くと受付がある(写真中左)。ここでチケットや絵葉書、案内書などが販売されている。ガイドさんが手続きを済ませ、ここからさらに150~200m程進むと、教会が見えてきた(写真中右)。「ボヤナ教会」は、ブルガリア正教会の教会堂である。10世紀後半から11世紀初頭に建てられ、13世紀、第二次ブルガリア帝国時代に中央棟を増築、19世紀半ばに二度目の増築がなされて現在の形になった。1979年には世界遺産に登録されている(写真右)。

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最も古いのは東側の部分(教会の第一部 : 写真)で、10世紀の後半から11世紀初め頃にレンガだけで建てられている。後陣を一つ持つ交差ヴォールト式の教会で、2つの狭くて小さな窓から外の光を取り込む。

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次に建てられたのは西に続く部分(教会の第二部 : 写真)で、1259年、スレデツ市の長官に任命された「カロヤン」の寄付により建設された。この建物は2階建てで、墓所と教会が一体になっている。1階が家族の墓所、2階が家族の礼拝堂だ。

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最後に建てられたのは西側の部分(教会の第三部 : 写真)で、1845年、地元の人たちが祈るために、地元の人たちの手で造られたと言う。

この教会が世界遺産に登録されたのは、建築様式ではなく、1259年に描かれたフレスコ画によるもので、これらは世界的に知られている。「聖ニコラと聖パンテレイモンのボヤナ教会(日本語版)」によると、「ボヤナ教会の壁画には三層あります。それぞれの層は11世紀、13世紀と14世紀に描かれています。最古の第一層は11世紀~12世紀で、教会の東側全体の表面を覆うように描かれています。1259年の創設者の碑銘によると最古の壁画に化粧漆喰が塗られた上に新層の壁画は描かれたのであります。ボヤナ教会は世界的に有名になったのはなによりも1259年の壁画のためであります。その壁画は中世のブルガリア文化の開花を反映すると言えるでしょう。787年ニケアで行われた第七回全キリスト教会の公会議の決定で定められた宗教の画法はキリスト教会の描き方の全体的な技法で、ボヤナ教会でも守られています。その技法は11世紀から具体化された方式として適用されるようになります。当時のボヤナ教会の240点の絵像は個性や生命力にあふれています」との事。

教会内は狭いので、10名程度のグループに分かれて入場することになった。私は第二のグループだ。中に入ると、思ったほど暗くない。フレスコ画もそれなりによく見える。ガイドさんの解説を聴きながら、内部見学を進める。教会の第二部は二階建てであったが、現在2階の床は無く、横に張られていた柱を切り落とした跡が残っていた。第一部と第二部には数多くのフレスコ画が残されており、ジックリ鑑賞するには時間がいくらあっても足りないくらいだ。以下これらの中から、私が気に入った5点をご紹介する。なお、フレスコ画の写真すべてと解説の一部を、前掲書から引用していることをお断りしておく。

① 「伯爵カロヤンとデシスラヴァ夫妻」(教会の中部の北壁[教会の第二部]、1259年の壁画 : 写真左)
② 「コンスタンチン・アセン・テイフ国王とイリナ夫妻」(教会の中部の南璧[教会の第二部]、1259年の壁画 : 写真右)
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創設者のカロヤン長官とデシスラヴァ夫妻、また、ブルガリアのコンスタンチン王とその后イリナの全身の肖像画は最も関心を集める画像である。②は、カロヤン長官は手に教会の模型を持ち、それを聖ニコラに捧げる場面だ。デシスバラ婦人の表情に富む顔つきの洗練された描写が見事。4人の表現力豊かな肖像画は、残された歴史上の人物の偶像の中で最古のものと考えられている。

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③ 「最後の晩餐」(教会の前面の北壁[教会の第一部]、1259年の壁画 : 写真左)
イエスや十二使徒の表情が生き生きと描かれた傑作。テーブルに並んでいる「大根」や「にんにく」、「ねぎ」に「三角のパン」などがユニークである。
④ 「全能であるキリスト」(教会の前面のドーム[教会の第一部]、1259年の壁画 : 写真中)
教会の前部のドームには全能であるキリストの堂々たる画像が、またその下に天使と4人の福音者であるマタイ、マルコ、ルカとヨハネが描かれている。
⑤ 「王座に聖母マリアとキリスト」(祭壇の上の東壁、1259年の壁画 : 写真右)

ウィキペディア・フリー百科事典(ボヤナ教会)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%A4%E3%83%8A%E6%95%99%E4%BC%9A
ウィキペディア・フリー百科事典(ボヤナ教会 : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Boyana_Church
ボヤナ教会(英語版)
http://www.boyanachurch.org/indexen.htm
ユネスコ世界遺産(ボヤナ教会 : 英語版)
http://whc.unesco.org/en/list/42

(参考文献)
・「聖ニコラと聖パンテレイモンのボヤナ教会(日本語版)」(ボジタル・ディミトロフ著)[UNICART社刊]
・「’09~’10地球の歩き方 ブルガリア・ルーマニア」(地球の歩き方編集室編)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「図説バルカンの歴史(ふくろうの本)」(柴宣弘著)[河出書房新社刊]

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June 11, 2009

ソフィア市街観光(その4 : 聖ゲオルギ教会・聖ペトカ地下教会)

ブルガリア・ルーマニアの旅(第6回)

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次に訪ねたのは、朝から何度も前を通った「聖ゲオルギ教会」である(写真上段)。以前お話しした通り、私の宿泊している「シェラトン・ホテル」の裏手、東側に建ち、周りをビルに囲まれている。4世紀末、コンスタンディヌス帝の治世下に建立されたた建物の一翼だが、その目的はハッキリしていない。キリスト教の礼拝堂として10世紀に再建され、赤レンガで造られた「ロトンダ」(丸屋根の円形教会を意味する)として知られており、ソフィアで最古の建物との事。建物に入ると、壁や天井に10~16世紀に描かれたフレスコ画が見られる(写真下左・下中左 : 「ブルガリア・名所と穴場(日本語版)」より)。壁の部分は5層に塗られ、天井には22人の預言者が描かれている。これらフレスコ画の美術的価値は非常に高く評価されていと言う。教会の東側には、ローマ時代の浴場跡が残されている(写真下中右・下右)。

ウィキペディア・フリー百科事典(聖ゲオルギ教会 : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Church_of_St._George,_Sofia


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「聖ゲオルギ教会」を出た後、「マリア・ルイザ通り」を北に約200m歩き、「セントラル・ハリ」に入った。この建物は1911年に造られたかつての中央市場で、1989年の政変以来営業が途絶えていたが、2000年5月にショッピングセンターとして再オープンした。建物は石造りで、「ネオ・ルネツサンス様式」、「ネオ・バロック様式」、「ネオ・ビザンチン様式」の3様式が随所に見られる(写真左・中左)。地上2階、地下1階の構造で、延べ面積は約7,200㎡。食料品店や飲食店など130店余りが並び、朝から賑わいを見せ始めていた(写真中右・右・下段)。地下には、ローマ時代の城壁や浴場跡があるとの事だが、見落としてしまった。

セントラル・ハリ(英語版)
http://www.sofiabulgariatravel.com/central-hali-sofia/


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「セントラル・ハリ」の西側ゲートを出ると「シナゴーグ」が建っていた(写真)。1909年9月に完成し、ユダヤ人の礼拝堂として使われている。建物は「ビザンチン様式」と「ムーリッシュ・リバイバル様式」がベースになっているが、ファサードなどには「ヴエネチア建築」や「ウィーン分離派建築」の要素も見られる。中には入らなかったが、クーポラ(小丸屋根)から吊り下げられた重さ2,250kgのシャンデリアは見応えがあると言う。

ウィキペディア・フリー百科事典(ソフィア・シナゴーグ : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Sofia_Synagogue
ウィキペディア・フリー百科事典(ウィーン分離派)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E5%88%86%E9%9B%A2%E6%B4%BE

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続いて、「セントラル・ハリ」から道路を隔てた東側に建つ「バーニャ・バシ・ジャーミヤ」(写真)だ。1576年のオスマン・トルコ時代に建てられたヨーロッパで最も古いモスクの一つで、現在ソフィアで唯一のモスクとして使われており、大きなドームと立派な尖塔が目立つ。「バーニャ・バシ」(「数多くの温泉」の意味)の名前は、モスクのすぐ東に大きな温泉施設がある事に由来するという。設計は、オスマン朝最高の建築家と呼ばれる「ミマール・スィナン」の手による。

ウィキペディア・フリー百科事典(バーニャ・バシ・ジャーミヤ : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Banya_Bashi_Mosque

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「バーニャ・バシ・ジャーミヤ」も中には入らず、東側の広場に進むと、その正面には「セントラル・バス」(写真)だ。1911年に完成したこの建物は、外壁をカラフルなモザイクで装飾され、ソフィア中心部のランドマーク的存在である。現在改装中で、フィツトネスセンターを併設するスパになる予定との事。

セントラル・バス
http://www.travelsignposts.com/wordpress/bulgaria/things-to-see-in-sofia/the-central-baths-tsentralnata-banya-sofia-bulgaria


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「セントラル・バス」から、その南に建つ「ツム・デパート」の通路(写真左)を通って着いたのは、「聖ペトカ地下教会」(写真中左・中右・右・下左・下中)である。宿泊しているホテルの、私の部屋の窓から見えていた(写真下右)。正式には、「馬具工の聖ペトカ教会」と言い、教会が馬具を作る馬具工の守護者となったことからこの名前が付けられたとの事。屋根だけを地表に突き出している半地下式の教会だ。オスマン・トルコ全盛時代の14世紀に建てられた聖堂だが、当時はトルコ人が馬に乗って下に見える教会だけが建てることを許されたため、このような半地下式のものになったと言う。ここも教会内の見学をしなかったのだが、内部装飾が素晴らしいとの事だったので、少々後悔している。

ウィキペディア・フリー百科事典(聖ペトカ地下教会)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E3%83%9A%E3%83%88%E3%82%AB%E6%95%99%E4%BC%9A
ウィキペディア・フリー百科事典(聖ペトカ地下教会 : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Church_of_St_Petka_of_the_Saddlers


ソフィアの街の見学を一通り終えたところで時計を見ると、午前9:45であった。ホテルのレストランで朝食をとった後博物館巡りをするか、午前10:00出発のツアーに参加してガイドの解説を聞くか、少々迷ったが、ガイドブックでは知ることのできない情報を得ることが出来るのではないかと思い、ツアーに参加することにした。一旦ホテルの部屋に戻り、身支度を整え、午前10:00にホテルのロビーに集合。全員バスに乗って「アレクサンドル・ネフスキー寺院」に向かった。解放者記念像前で下車し、「国会議事堂前→アレクサンドル・ネフスキー寺院のまわりを一周して入場→聖ソフィア教会前→(南側の公園を通る)→聖ニコライ・ロシア教会入場→国立自然史博物館前→国立美術館前→ブルガリア中央銀行前→考古学博物館前→大統領官邸前→セルディカの遺跡→聖ペトカ地下教会前」と、ほぼ私が歩いたのと同じコースを再び歩いた。個々については既にお話ししたので省略するが、この時に案内してくれたガイドさんは素敵な方で、質問にも熱心に回答してくれた。60代後半の日本人男性の方で、ブルガリア人女性と結婚し、現地で30年以上暮らしているとの事。これまでにご案内したことの中には、かなりガイドさんから聞いたお話しが含まれている。なお、間違いがあった場合は、私の聞き違いの可能性が高いので、ご容赦願いたい。


(参考文献)
・「’09~’10地球の歩き方 ブルガリア・ルーマニア」(地球の歩き方編集室編)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「ブルガリア・名所と穴場(日本語版)」(ヴァラ・カンジェヴァ/アントニー・ハンジースキー著)[BORINA刊]
・「SOFIA GUIDE(英語版)」(ソフィアのインフォメーションセンター配布冊子)
・「SOFIA in your pocket」(ソフィアのインフォメーションセンター配布冊子)
・「図説バルカンの歴史(ふくろうの本)」(柴宣弘著)[河出書房新社刊]

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June 10, 2009

ソフィア市街観光(その3 : ブルガリア中央銀行・聖ネデリャ教会)

ブルガリア・ルーマニアの旅(第5回)
貨幣ぶらり旅(第159回)

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「セルディカの遺跡」の次に訪ねたのは、今回最も楽しみにしていた場所のひとつである「ブルガリア中央銀行貨幣博物館」(写真左・中左・中右は中央銀行の建物)である。建物は、社会主義時代に造られたものであろう。「旧共産党本部」の建物などにも共通して言えることだが、飾り気のない非常にシンプルな外観、良く言えば全く無駄のない感じの建物である(写真左・中左・中右)。建物の前の広場と道路はすべて石畳。実はすべて煉瓦で出来ているのだ。フェルディナンドの時代に、ハプスブルグ家のフランツ・ヨーゼフから贈られたものとの事(写真右)。

階段を上り入口近くに進むと、警備員らしき男性が話しかけてきた。貨幣博物館に行きたい旨を伝えると、本日は無理との回答。事前の調査では、フリーで見学できるのは火曜日の午後1:00~3:30だけ。グループは月曜日から金曜日までの午前中8:30~11:30と午後1:30~3:30だったので、断られることは承知していた。しかし、グループ見学に参加できるのではないかと言う僅かな可能性にかけていたのである。グループ見学について尋ねると、2~3日前に書面で申し込む必要があるとの事。色々と方法を考えるが、結局は見学することはできなかった。仕方がないので、博物館で販売されている資料や、パンフレットなどが欲しいことを伝えると、行内にいるスタツフに聞くと良いとのアドバイスをもらう。

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建物に入り、セキュリティチェックを受け、事情を話すと、中に連れて行ってくれた。高い天井と広々とした空間、周囲にはセキュリティーガードされた受付窓口が20近く並ぶ。日銀大阪支店よりも広い感じだ。案内されたのは、数ある窓口のうちの一つ。ここではニュミスマティックコインの販売は行われていたが、私の求めるものは置かれていなかった。そこでもう一度欲しいものを説明すると、窓口の一人の女性が別の窓口に行き、2種類のパンフレットを入手して持って来てくれた(写真)。博物館見学が出来ないことの残念さと、銀行は土曜日が休み(ブルガリアでは銀行により異なるようだ)という先入観から、その時はすっかり忘れていたのだが、この窓口であれば未使用の現行紙幣・コインを入手することが出来たのではないだろうか。外貨両替は行っていなかったので、再訪問する必要はあったのだが、今考えると失敗であった。

ブルガリア中央銀行(英語版)
http://www.bnb.bg/bnb/home.nsf/fsWebIndex?OpenFrameset
ブルガリア中央銀行貨幣博物館(英語版)
http://www.bnb.bg/Flash/en/adres.htm


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「ブルガリア中央銀行」を出た後、朝方通った「聖ゲオルギ教会」の前を再び歩くが、まだオープンされていなかったので、ホテルのすぐ南側にある「聖ネデリャ教会」(Holly Sunday Church : 写真)に向かった。この教会は、ブルガリア正教会ソフィア主教職の聖堂で、長さ30m、幅15.5m、中央丸屋根のドーム部分の高さが31mある。10世紀頃、石造の基礎に木造で建てられたようだが、はっきりしたことは分かっていない模様。地震や爆破などにより、何時も崩壊したが、1927~1933年にわたり修復され、現在の姿となった。また1970年代の初めに壁面装飾が施され、1990年代前半には床が改装されるなど、何度にもわたり手が加えられている。2002年には11個の鐘が自動的になる装置が付けられたと言う。なおこの教会は、ブルガリアがオスマン・トルコから解放された後、周辺に幾つかあった私有の教会や神学校が集められたと言う過去を持つ。

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教会内に入ると、正面には黄金に輝くイコノスタシスがある(写真左)。窓はほとんど見られず、天井から吊るされたシャンデリアの光で、イコンが照らされている。王門の上を確認すると、お約束の通り「最後の晩餐」が掲げられていた(写真中左)。また、王門の右側には「キリスト」、左側には「聖母マリア」のイコンもある(写真中右)。左右の壁には、聖人達がフレスコ画で描かれている(写真右・下左)。聖堂自体がそれほど古くなく、また近年かなり手を加えられていることもあり、うす暗い室内にもかかわらず、全体的に美しい感じだ(写真下右)。これまで正教教会を見る機会が少なかったので、細部にわたり観察させてもらった。

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しばらくすると白い祭服を着た聖職者が王門を開き、中に入ってお祈りを始めた(写真左)。気が付くと、教会内には祈りをささげる人たちが増えている。どうやらミサが始まるのだ。時計を見ると午前8:00であった。先ほどの聖職者は、祈りを終えると王門を出て、教会の入り口に向かう(写真中左)。教会内にいた人々は通路に敷かれた赤い絨毯の脇に並び、教会の入り口に注目した。すると緑の祭服をまとった年配の男性聖職者が入って来た(写真中右・右)。後ろには、白い祭服の聖職者が数人続く(写真下左・中)。そして彼らは、王門から後陣へ吸い込まれるように消えて行った(写真下右)。緑の祭服をまとった方が主教で、彼に続いた白い祭服を着た聖職者たちは司祭や輔祭だったのであろう。ウィキペディア・フリー百科事典(正教会)によると、「正教会の聖職者は神品(しんぴん)と呼ばれ、主教、司祭、輔祭から構成される。主教が神品の中心であり、司祭はその権能を主教から分与される存在であり、輔祭は主教・司祭を輔佐する存在で(省略)、主教と司祭は、聖体機密(※)を中心とする各種機密を執行する。輔祭はこの機密の執行を輔佐する。輔祭には機密執行の権能は無いが、宝座上の動作の輔佐や連祷の朗誦など輔祭以上の神品にのみ許された役割も多く、その役割は決して小さく無い」との事。
(※)「聖体機密」については「ウィキペディア・フリー百科事典(聖体礼儀)」を御参照願いたい。

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数分後、主教以外の聖職者たちが後陣から出てきて祭壇を取り囲んだ(写真)。祈りの時はまだまだ続いていたが、観光目的を終えた私は、教会を後にした。キリスト教徒ではないのだが、出口で十字を切らせてもらった。ちなみに、この十字の切り方も「正教」と「カトリック」では異なるとの事。「正教」は上下右左、「カトリック」は上下左右と聞いたのだが、正しいであろうか。

ウィキペディア・フリー百科事典(聖ネデリャ教会)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E3%83%8D%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%A3%E6%95%99%E4%BC%9A
ウィキペディア・フリー百科事典(聖ネデリャ教会 : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/St_Nedelya_Church
ウィキペディア・フリー百科事典(正教会)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%95%99%E4%BC%9A
「ウィキペディア・フリー百科事典(聖体礼儀)」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E4%BD%93%E7%A4%BC%E5%84%80


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「聖ゲオルギ教会」を出て、西側にある「マリア・ルイザ通り」を渡り、「ソフィアのインフォメーションセンター」(写真左・中)に向かった。ここで、地図などの資料を入手するためである。賑わう通りから、少し奥に入ったビルの1Fにある。薔薇の花が描かれ、グリーンでまとめられた看板がさわやかな感じだ。中に入ると、若い男性と中年の女性がいた。ソフィアの地図や案内書が欲しい旨伝えると、英語版の地図と2冊のガイドブックを手渡してくれた(写真右)。私が日本から来たことを話すと、すぐに日本人だと分かったとの事。以前にもお話ししたことがあったと思うのだが、他の東洋人とは異なり、お辞儀をしたことが決め手となったようだ。ガイドブックは「SOFIA GUIDE(英語版)」と「SOFIA in your pocket」で、観光スポットだけでなく、各種のお店やアクティビティ、行事なども紹介されており、非常に便利だ。この「ブルガリア・ルーマニアの旅」を書くのにも役立っている。ただし日本語版がないので、英語の苦手な人には厳しいかもしれない。

ソフィアのシンフォメーションセンター(英語版)
http://www.bulgariatravel.org


(参考文献)
・「’09~’10地球の歩き方 ブルガリア・ルーマニア」(地球の歩き方編集室編)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「ブルガリア・名所と穴場(日本語版)」(ヴァラ・カンジェヴァ/アントニー・ハンジースキー著)[BORINA刊]
・「SOFIA GUIDE(英語版)」(ソフィアのインフォメーションセンター配布冊子)
・「SOFIA in your pocket」(ソフィアのインフォメーションセンター配布冊子)
・「図説バルカンの歴史(ふくろうの本)」(柴宣弘著)[河出書房新社刊]


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June 09, 2009

ソフィア市街観光(その2 : 聖ソフィア教会・聖ニコライ・ロシア教会・セルディカの遺跡)

ブルガリア・ルーマニアの旅(第4回)

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「アレクサンドル・ネフスキー寺院」の見学を終え、次に向かった先は「聖ソフィア教会」(写真)である。「アレクサンドル・ネフスキー寺院」から西へ50m程の所にある。この場所は、「ソフィア」の町が「セルディカ」と呼ばれていた時代、共同墓地や礼拝場であった。また、後に古代ローマ劇場が建設された場所でもある。この教会は、古い教会をベースに4世紀から建築が始まり、ビザンチン帝国・ユスチニアヌス帝の時代に完成したもので、その建築は初期ビザンツ様式とロマネスク様式など、幾つかの異なった面を併せ持つ。第二次ブルガリア帝国時代(12~14世紀)には、街の大聖堂として使われ、この時代に教会の名前を採り、この町は「ソフィア」と名付けられたのである。しかし、14世紀以降オスマン・トルコに支配されていた時代には、イスラム寺院としてモスクに改装されてしまう。この時、12世紀に描かれたオリジナルのフレスコ画は取り壊され、ミナレットが建てられた。その後1818年と1858年に起きた2度の地震で寺院が崩壊したため、しばらくはそのまま放置されたが、1935年、1982年、1998年~2001年の3回にわたり修復され、現在は正教教会として使われている。

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教会内(写真)に入ると、正面にイコノスタシスが立てられている。この教会のイコノスタシスは一段だけの低いものなので、後陣の窓から光が入り、教会内部が明るい。イコノスタシスは4枚で、王門の右側に「キリスト」、左側には「聖母マリア」のイコンが見られる。建物はレンガ造りで、後陣部分の壁には漆喰が塗られているが、フレスコ画は描かれていない。代わりに壁にイコンが掛けられているが、数は多くなく、全体的にシンプルなものとなっている。質素さが、むしろ厳かさを生み出しているように思える。

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教会の南側には、教会の壁を背景に無名兵士の石碑が建てられている(写真)。ブルガリアのために戦死した兵士を慰霊するために造られたもので、「石棺や5つの石像の壺には、戦没者の遺骨やブルガリア全土から収集された土が安置されている。花崗岩の石碑が記念の台となり、その上には手すりに囲まれた低い墓碑が据えられている。4本の剣に支えられている、聖なる丸い青銅製の祭壇には、永遠の炎が燃えている。その左側に横たわるライオンの彫刻は、約80年前にアンドレイ・ニコロフ教授によって彫刻されたものである。2つの青銅製の月桂冠で装飾された厚い石板には、傑出したブルガリアの詩人であったイヴァン・ヴァゾフが詩作した詩節が刻まれている」(「ブルガリア・名所と穴場(日本語版)」より)。

ウィキペディア・フリー百科事典(聖ソフィア教会 : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Church_of_St_Sophia,_Sofia
ウィキペディア・フリー百科事典(ソフィア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A2_(%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%82%A2)
ソフィア観光(英語版)
http://www.geology.bas.bg/sofia.html


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次に訪れたのは、「聖ニコライ・ロシア教会」である(写真)。「聖ソフィア教会」の南側にある公園を横切り、「ツァール・オスヴォボディテル通り」に出て、西に70~80mの所に位置する。教会の横に掲示されていた解説によると、「聖ニコライ・ロシア教会」は、「聖ニコライ」を祀るため、1914年に建立された。この場所は、ロシアからの支援を受けてブルガリアが独立した後の、1882年に壊された「サレイ・モスク」の跡地との事。建立者は当時のロシア外交官「セモントフスキ・クリロ」で、同じ正教であっても、自らが信仰するロシア正教はブルガリア正教と異なることから、この教会を建てさせたと言う。教会の外観はロシア正教の教会らしく、中心の大きなドームと周囲の4つの小さなドーム、計5つの金色に輝く玉ねぎ型のドームを持つ。エメラルドグリーンの尖塔や屋根、白い壁と調和し、美しい姿を見せてくれている。これらは、17世紀頃のロシア正教教会の典型的なスタイルで、「アレクサンドル・ネフスキー寺院」を手掛けた建築家の「アレクサンドル・スミルノフ」の手によるもの。

ウィキペディア・フリー百科事典(聖ニコライ・ロシア教会 : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Russian_Church,_Sofia

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「聖ニコライ・ロシア教会」の後、「ツァール・オスヴォボディテル通り」を横切り、南に向かった。「サルザ・イ・スミヤ劇場」(写真左)や「ブルガリア・ホール」(写真中左)、「イヴァン・ヴァゾフ国立劇場」(写真中右)を見て、市民庭園を通り、「シティ・アート・ギャラリー」(写真右)から「大統領官邸」前の広場に出た。

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ここには「セルディカの遺跡」に通じる地下道の入り口がある。「旧共産党本部前」にある2か所の地下道出入口と通じており、遺跡があるのはその真ん中辺りだ。私は「大統領官邸」前にある入口から地下道に入った。左手には遺跡に関する写真パネルが展示(写真)されており、右手にはローズ製品などを販売するお店が並んでいる。朝早いため、まだお店は閉まっていた。ここから数メートル進むと、遺跡が見えた。

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この遺跡は、古代城塞都市「セルディカの遺跡」(写真左・中左)で、地下鉄工事の際に偶然発見されたと言う。ご存知の通り、ソフィアはかつてトラキア人の集落であり、「セルディカ」と呼ばれていた。その後(紀元前29年)、セルディカは古代ローマにより征服されたが、町は拡大を続け、政治・経済の中心地となった。東ローマ帝国・ユスチニアヌス1世(在位527年~565年)の時代のセルディカは、巨大な城壁に囲まれ、繁栄を謳歌していたと言う。ここに残る遺跡は、2世紀頃に造られたもので、街の中心部を取り囲むように約500m四方にわたって、高さ12m、厚さ2mの壁に守られた城塞都市の城壁や門の一部である(写真中右 : 東門の遺跡・右)。街の中心部には東西南北に、幅6mの道路が走り、中央には神殿が設けられていたようだ(写真下左)。地下道の角には、当時の「石碑」(写真下中左)や「壺」(写真下中右)、「石柱」(写真下右)などが展示されている。

(参考文献)
・「’09~’10地球の歩き方 ブルガリア・ルーマニア」(地球の歩き方編集室編)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「ブルガリア・名所と穴場(日本語版)」(ヴァラ・カンジェヴァ/アントニー・ハンジースキー著)[BORINA刊]
・「SOFIA GUIDE(英語版)」(ソフィアのインフォメーションセンター配布冊子)
・「図説バルカンの歴史(ふくろうの本)」(柴宣弘著)[河出書房新社刊]

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June 08, 2009

ソフィア市街観光(その1 : アレクサンドル・ネフスキー大聖堂)

ブルガリア・ルーマニアの旅(第3回)

今日から観光が始まる。午前中はブルガリアの首都「ソフィア市街観光」の予定だ。昨日の到着が遅かったため、ツアーは午前9:30からスタートと遅い時間からだったので、私は午前6:30にホテルを出発。地図を片手に、一人で観光に出かけた。日の出は午前6:00頃だったので、すでに外は明るくなっており、人の往来も増え、メイン道路は渋滞一歩手前と言った感じであった。

第2日目[5月28日(木)](晴れ)

午前5:50 起床
午前6:00 昨日ラウンジと飛行機でもらった”おにぎり”2個を、朝食として食べる
午前6:30 外出・一人でソフィア市街観光に出かける
ホテル→聖ゲオルギ教会前→(ツァール・オスヴォボディテル通りを歩く)→旧共産党本部前→考古学博物館前→ブルガリア中央銀行前→国立美術館前→国立自然史博物館前→聖ニコライ・ロシア教会前→解放者記念像前→国会議事堂前→アレクサンドル・ネフスキー寺院のまわりを一周して入場→聖ソフィア教会入場→(南側の公園を通る)→聖ニコライ・ロシア教会入場→サルザ・イ・スミヤ劇場前→ブルガリア・ホール前→イヴァン・ヴァゾフ国立劇場前→(市民庭園を通る)→シティ・アート・ギャラリー→大統領官邸前→セルディカの遺跡→ブルガリア中央銀行入場→聖ゲオルギ教会前→聖ネデリャ教会入場→ソフィアのインフォメーションセンターで地図などを入手→聖ゲオルギ教会入場→セントラル・ハリ入場→シナゴーグ前→バーニャ・バシ・ジャーミヤ前→聖ペトカ地下教会前

午前9:45 ホテルに戻る
午前10:00 ツアーのソフィア市街観光に参加する(バスでツァール・オスヴォボディテル通り、解放者記念像前で下車)
解放者記念像前→国会議事堂前→アレクサンドル・ネフスキー寺院のまわりを一周して入場→聖ソフィア教会前→(南側の公園を通る)→聖ニコライ・ロシア教会入場→国立自然史博物館前→国立美術館前→ブルガリア中央銀行前→考古学博物館前→大統領官邸前→セルディカの遺跡→聖ペトカ地下教会前

午前11:45 「UniCredit Bulbank」でブルガリアの少額貨幣(コイン)を入手
午前11:50 ホテルに戻る
午後12:00 昼食会場に向かうためホテルを出る
午後12:20 (ヴィトシャ通りを歩いて裁判所の前を歩き)レストラン「IZBITE」へ
午後1:50 レストランを出る
午後2:07 ホテルからバスでボヤナに向かう。
午後2:40 ボヤナ教会に到着
午後3:05~3:10 ボヤナ教会内に入場
午後3:30 ボヤナ教会からバスでソフィアに向かう
午後4:00 ホテルに到着
午後4:45 ホテルを出る
午後4:50 「Economic & Investment Bank」でブルガリアの少額貨幣(コイン)を入手
午後5:00 大統領官邸前で衛兵の交代式を見る
午後5:05~5:35 考古学博物館入場
午後6:00 ホテルに戻り、入浴・資料整理などを済ませる
午後7:15 ホテルロビーに集まりバスで夕食会場のレストランに向かう
午後8:00~10:00 ボヤナにあるレストラン「BOYANSKO HANCHE」で夕食、「ショッピダンス」などソフィア地区の民族舞踏を楽しむ
午後10:30 ホテルに戻る
午後10:45 ベツドに入る

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午前5:50頃、窓から差し込む陽の光で目覚める。朝食会場であるホテルのレストランは午前7:00からだったので、昨日ラウンジと飛行機内でもらった”おにぎり”2個を朝食とし、洗面、トイレなどを済ませ、午前6:30にホテルを出た。最初に地図を見ながら自分の位置を確認し、行く方向を決めて歩きはじめた。ホテルの正面西側は「スヴェタ・ネデリャ広場」になっており、南側には「聖ネデリャ教会」(写真左)が建つ。道路を隔てた西側に立つのは「ソフィアのシンボル像」(写真中左・中右)だ。1994年に造られ、高さが16mある。社会主義時代には、この場所に「レーニン像」が立っていたと言う。振り返ると、ホテルの全景が見える。ソフィアで最も高級なホテル(五つ星)だけのことはあり、建物もルネッサンス様式の雰囲気を持つ立派な姿をしている(写真右)。

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私はホテルの北側を通り、最初に「聖ギオルギ教会」の前に出た。周囲をビルに囲まれており、何か不思議な感じの場所に位置する。よく見ると、私の宿泊しているシェラトンホテルの東側出入り口(裏口)があった。丁度ホテルの裏側に当たるのだ。教会は午前8:00からなので、今は中には入ることはできないが、ビルに囲まれた、誰もいないヒッソリとした空間を独り占めにしながら、教会の写真撮影を楽しんだ(写真左・中左・中右)。そのまま東に進むと、鉄製のゲートがある。それをくぐると広場に出た。北側には「大統領官邸」(写真右)、さらにその向こうには「旧共産党本部」の建物が、そして東側には「考古学博物館」と「ブルガリア中央銀行」がある。また、この広場には「セルディカの遺跡」に通じる地下道の入り口もある。

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色々と見どころが多いのだが、最初にソフィアの中心街、東の端にある「アレクサンドル・ネフスキー寺院」に行き、そこからホテルのある西側に戻る計画としたため、そのまま「ツァール・オスヴォボディテル通り」を真っ直ぐ東に進んだ。「ブルガリア中央銀行」(写真左)の前を通り、道路を渡って「国立美術館」(写真中左)の前に出る。さらに東に向かうと「国立自然史博物館」、「聖ニコライ・ロシア教会」(写真中右)が続く。「退役軍人クラブ」の前を通り100m程で「国会議事堂広場」(写真右)に出た。ここには、「解放者記念像」が立つ。

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「解放者記念像」(写真)は、露土戦争の勝利によりブルガリアをオスマン・トルコから解放した英雄「ロシア皇帝アレクサンダル2世」の騎馬像で、解放戦争を称えるために建てられたモニュメントである。ラディソン・サス・ホテルを背景に、国会議事堂に向かって建てられ、高さは14m。正面の台座には、「我が兄弟、解放者のために」の碑文が刻まれている。

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国会議事堂の西側の道路を100mほど北に歩くと、計画していた最初の訪問予定地である「アレクサンドル・ネフスキー寺院」(写真)だ。ブルガリア正教会の大聖堂で、ブルガリア総主教の本拠地として機能している。また、世界最大級の正教会の聖堂であり、多くの観光客が訪れるソフィアのシンボルともなっている。この寺院も、ブルガリアをオスマン・トルコから解放した露土戦争のロシア人戦死者、約20万人を慰霊するために建てられた。1802年に礎石が置かれ、1905年に建設着工、1924年、約40年かけてようやく完成した。その間、ロシアとの関係がまずくなり、「アレクサンドル・ネフスキー」と名付けることに賛否議論が巻き起こったこともあったようだ。

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寺院の長さは73.5m、幅55m、ドームの高さは45mあり、鐘楼の部分を含めると50.52mあると言う(写真)。収容人員は約5,000名で、建築様式は十字状に交差する丸屋根の「ネオ・ビザンチン様式」。ドームの数は12個あり、それぞれに鐘が備え付けられている。鐘の総重量は23トン。その中で最も重いものは11.7トン(高さ2m、直径3m)、最軽量のものはわずか10kg(高さ不明)との事。ここで鳴らされた鐘の音は、30km先まで聞こえたと言う。ドームに使われている「金」の総重量は約8トンで、すべてブルガリアで産出した「金」を使用している。

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西側入り口正面前に立って見上げると、小塔のすぐ下に「アレクサンドル・ネフスキーの聖像のモザイク画」が嵌め込まれている(写真左・中左)。聖像の下絵は、ブルガリア人の画家「アントン・ミトフ」によって描かれた。正面入り口の扉はスロベニアの樫の木製で、17年もの間乾燥させたものが用いられている(写真中右)。扉はオーストリアのマイスターの手で作られ、扉に施された彫刻はブルガリアのマイスターによるもの。扉は11個あり、1枚1トンの重さがあると言う。扉の上や、その左右にはフレスコ画でイコンが描かれている。正面にキリスト(写真右)、右手に7人の聖人(写真下左)、そして左手には「希望」、「信用」「愛」と名付けられた娘たちのイコンだ(写真下右)。

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教会の中に入ると、2枚合わせて5トンもあると言うブロンズ製の扉だ(写真左)。これを通ると「外陣」に出る。正面には「イコノスタシス」がある(写真右)。久しぶりに見た「正教の教会」だったので、しばらく「カトリック」や「プロテスタント」の教会と比較しながら眺めていた。「ゴシック様式建築」のカトリックの教会と比べると、内部は明らかに暗い。陽の光を通した華やかな色で美しく輝くステンドグラスはない。その代りに、柱も壁もモザイクやフレスコのイコンで一杯である。モザイクには、メノウやブラジル、ギリシャ、エジプト、イタリアなどから運ばれてきた大理石が使われている。イコンは、チェコの画家「ムルクビッチ」によって描かれたもの。

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そして「正教教会」で最も特徴的なのが先程も少し触れた「イコノスタシス」だ。カトリックの教会では見ることが出来る「後陣」は「イコノスタシス」によって隠され、そこには「主教」だけが入れることになっている。ブルガリアのイコノスタシスは、4枚で出来ている場合が多いらしく、王門の右側に「イエス」、左側には「聖母マリア」が(写真)、その他「アレクサンドル・ネフスキー」と「聖ニコライ」のイコンも見られる。

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ところで、今回の旅でチェックしたい項目の一つとして、「正教会では”最後の晩餐”のイコンをイコノスタシスの王門(イコノスタシスの中央の門)の上に置く規則がある」ということがあった。「正教」では「最後の晩餐」とは呼ばずに、「機密制定の晩餐」と呼ぶようなのだが、これが本当にイコノスタシスの王門の上に置かれているのかを、まずこの寺院で確認することにした。すると、思ったほど大きくは無かったのだが、「最後の晩餐」のイコンが掲げられていたので、思わず納得してしまった。今後訪れる寺院でも同じように取り扱われているのか、見るのが楽しみである。

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シコノスタシスに向かって右側には、「大僧正」(祭壇に近い側)と「王」の座る屋根付きのエリアが別々に設けられている(写真左・中左)。見上げると円形のドーム。直径約4.6mあると言う(写真中右)。高さ27mの天井からはシャンデリアが吊り下げられており、一つの重さは約2.7トンとの事(写真右)。

では、以上のような素晴らしい「大聖堂」を建てるのに、どれぐらいの資金が費やされたのであろうか。答えは337万5千レヴァ。うち190万レヴァは寄付で集められたようだが、どのくらいの価値になるのかチョット想像できない金額である。

この大聖堂には地下室があり、現在は国立美術館付属の美術室になっている。室内には、4~19世紀からある壁掛けの画・イコン・切手・古文書・祭器や宗教的な儀礼用の皿など、中世ブルガリア、または復興期のブルガリアの、趣がある独特の芸術品が展示されている。


ウィキペディア・フリー百科事典(アレクサンドル・ネフスキー大聖堂)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8D%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E5%A4%A7%E8%81%96%E5%A0%82_(%E3%82%BD%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A2)
ウィキペディア・フリー百科事典(アレクサンドル・ネフスキー大聖堂 : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Alexander_Nevsky_Cathedral,_Sofia
ウィキペディア・フリー百科事典(ブルガリア正教)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%AD%A3%E6%95%99%E4%BC%9A
ウィキペディア・フリー百科事典(正教会)
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ウィキペディア・フリー百科事典(イコノスタシス)
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ウィキペディア・フリー百科事典(イコン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%B3

(参考文献)
・「’09~’10地球の歩き方 ブルガリア・ルーマニア」(地球の歩き方編集室編)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「ブルガリア・名所と穴場(日本語版)」(ヴァラ・カンジェヴァ/アントニー・ハンジースキー著)[BORINA刊]
・「SOFIA GUIDE(英語版)」(ソフィアのインフォメーションセンター配布冊子)
・「図説バルカンの歴史(ふくろうの本)」(柴宣弘著)[河出書房新社刊]

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June 07, 2009

関空からブルガリア・ソフィアへ

ブルガリア・ルーマニアの旅(第2回)

第一日目[5月27日(月)](晴れ・曇り)

午前7:30 関空到着
午前7:45 添乗員と挨拶
午前8:00 航空会社の窓口でチェックインの手続きを済ませる
午前8:15 空港で外貨両替(円→ユーロ)
午前8:30 出国手続きをする
午前9:00~9:30 ビジネスクラスラウンジ「錦」で休憩
午前9:40 搭乗ゲート11番前で待つ
午前9:50 搭乗
午前10;27 離陸
午前11:30~12:50 昼食
午後1:50~2:30頃まで昼寝
午後6:00 コーヒーブレイク
午後7:30 モスクワ近くを飛行
午後8:30~9:30(ドイツ時間 : 午後1:30~2:30・以下ドイツ時間) 昼食
午後3:30 フランクフルト空港に到着
午後3:50~6:30 ビジネスクラスラウンジで休憩
午後7:00 搭乗ゲートB33前で待つ
午後7:15 搭乗ゲートからバスで飛行機へ
午後7:25 搭乗
午後7:45 離陸(飛行中、軽食が出る)
午後9:45 (ブルガリア時間 : 午後10:45・以下ブルガリア時間) ブルガリア・ソフィアの空港に到着
午後11:00 空港で外貨両替(円→ブルガリア・レヴァ)
午後11:20 迎えに来ていたバスに乗車
午後11:50 ホテルに到着
午後12:00 部屋に入る
午前1:15 ベツドに入る


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午前8:20分に関西国際空港国際線4F出発ロビー、中央団体受付6番カウンターへ集合することになっていたのだが、子供の遠足のように朝から早く目が覚めたため、自宅も早く出たことから、関空には午前7:30に到着した。まだ添乗員は来ていないだろうと思いながら受付カウンターに行くと、すでに窓口に立っていた。挨拶を済ませ、一通りの注意事項を聞き、チェックインのため航空会社の窓口で手続きをする。午前10:20発のルフトハンザ・ドイツ航空(LH-741便)に乗る予定だ。午前8:30に出国し、少しブラブラした後ビジネスクラスのラウンジである「錦」に入る(写真)。このラウンジには窓がなく、暗く感じるためあまり好きではないが仕方がない。新聞・雑誌などを読みながら、飲み物と軽食を頂く。ついでに夜食用のおにぎり2つを貰い、カバンに忍ばせた。

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午前9:30、ラウンジを出て 、搭乗ゲート11番前で待つ。午前9:50、搭乗開始。今回はビジネスクラスの座席が混んでいたのであろうか。いつも指定している一番前の真ん中通路側の座席は確保できず、今回は最初の部屋の一番後、真中の通路側の席であった。席に着くとすぐにオレンジジュースやシャンパンのサービスがあった。午前10;27に離陸。午前11:30頃、 昼食が配られた。私はいつものように和食を選択した。メニューは次の通り。

・前菜(かんぴょう巻き・はも寿司・きす寿司・車海老・穴子巻き・さつま芋・蓮根 : 写真左・中左)
・つきだし(玉子豆腐 : 写真左)
・おしのぎ(和蕎麦 : 写真左)
・台の物(むつ味噌焼き・椎茸・オクラ・人参・南瓜・和風ソース・御飯 : 写真中右・右)
・香の物(写真中右)
・留め椀(お吸い物 : 写真中右)
・デザート(和菓子・緑茶・フルーツ・コーヒー : 写真下)
・日本酒、ウーロン茶

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昼食後、室内の照明が落とされたのに合わせて、私も昼寝を始める。30~40分程寝た後、おやつタイムに洋菓子とコーヒーを頂く(写真左)。おやつタイムを終えて1時間ほど飛行すると、モスクワ上空近くを飛行していることに気が付いた(写真中・右)。一時間ほど新聞・雑誌を読んでいると、午後8:30(ドイツ時間 : 午後1:30以下ドイツ時間でお話しする)、昼食タイムになった。日本時間では夕食になるのだが、現地時間によれば、本日2度目の昼食になる。

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ご存知のように、機内食は前の座席から順に配られていく。メニューの中から和食・洋食の選択が出来るのだが、最後の座席になると、どちらかがなくなることもある。これはエコノミー席だけのことだと思っていたのだが、ビジネスクラスの席でも起こり得る事だったのだ。丁度私のところで和食が無くなってしまったのである。しかしエコノミー席とは違い、和食が食べたい旨を主張すると、ファーストクラスから和食を持って来てくれた。メニューに書かれていた「台の物」の「牛すき焼き」を食べることは出来なかったが、和食を頂くことは可能となった。
メニューは次の通り。

・焼き物(海老寿司・鰻寿司・厚焼き玉子・サーモントラウトの焼き物・煮蓮根・鱈子昆布巻き・蒲鉾 : 写真左・中左)
・おしのぎ(茶蕎麦 : 写真左)
・台の物(ぶりと大根の煮物・御飯・野菜 : 写真中右・右)
・香の物、止め椀(味噌汁 : 写真左)
・デザート(和菓子・緑茶)

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昼食後30分程で着陸態勢に入るアナウンスがあり、午後3:30、フランクフルト・インターナショナル・エアポートに到着。乗り継ぎの手続きを行い、ビジネスクラスのラウンジで休息を取る(写真左・中左)。国際線と国内線が同じ航空会社の場合、国内線もビジネスクラス席の場合が多いのだが、今回は異なっていたため、ラウンジの使用が可能か否か尋ねる必要があった。添乗員が話をつけてくれたおかげで、ゆっくり休むことが出来た。午後7:00に搭乗口であるB33に向かい(写真中右)、バスで飛行機に移動、午後7:25、ルフトハンザ・ドイツ航空(LH-3488便)に搭乗した(写真右)。

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飛行機は、定刻の午後7:45にフランクフルトを出発。途中、サンドイッチが出された。これが本日の夕食である(写真)。機内では少々退屈だったので、隣に座っていた外国人男性とお話しをして過ごした。彼は40歳ぐらいのブルガリア人で、ドイツの大学で情報工学を教えているとの事。12歳の男の子と14歳の女の子の父親で、子供達の写真と共に奥さんの写真も見せてくれた。ヨーロッパを旅行している時、現地の方と家族の話をすると、必ず写真を見せながらファミリーメンバーを紹介してくれるのにはいつも驚く。日本人の場合、初対面でこのような事をする人は少ないのではないだろうか。午後9:45 (ブルガリア時間 : 午後10:45・以下ブルガリア時間)に、ソフィア・ヴラジデブナ・インターナショナル・エアポートに到着。彼の名刺を頂戴し、別れる。

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空港内の外貨両替所(写真)で現地通貨であるブルガリア・レヴァを入手し、空港を出たところに迎えに来ていたバスに乗って、本日宿泊するホテル「シェラトン・ソフィア・バルカン」に向かった。迎えに来てくれた現地ガイドは、ソフィア大学・日本語学科の4年生。日本語を流暢に話す美人女子大生だ。日本に1年留学した経験があるとの事。バスは30分程でホテルに到着。ホテルの入り口近辺は、非常に賑やか。タキシードに身を包む男性や、豪華なドレスを身に纏う女性達。高校生の卒業記念パーティーとの事。このパーティーは社会主義政権時代から続く行事で、未成年である高校生が酒やタバコを飲んでも大目に見られている様子。日本では、成人式であればこのような光景も見られるかもしれないが、高校を卒業しただけでは考えられない。社会主義時代から続く行事とはいえ、当時はもう少し質素なものであったようだが、年々エスカレートし、最近はドレス代など親の経済的負担もバカにならないようだ。

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午後12:00、ホテルの部屋に入る。自由化されてから20年以上経っているので、ホテルも想像していた以上に豪華。他のヨーロッパの国々の「5つ星ホテル」と変わらない。壁や家具はクリーム色や木目調で統一され、ベッドカバーはブルー系。全体的に落ち着いた雰囲気である(写真左・中左・中右)。バス・トイレはスタンダードなタイプ(写真右)。早速バスタブにお湯を張り、ゆっくり疲れを癒す。午前1:15頃、漸くベッドに入ることが出来た。

ルフトハンザ航空
http://www.lufthansa.co.jp
関西国際空港
http://www.kansai-airport.or.jp/
ソフィア・ヴラジデブナ・インターナショナル・エアポート
http://www.sofia-airport.bg/
シェラトン・ソフィア・ホテル・バルカン
http://www.starwoodhotels.com/luxury/property/overview/index.html?propertyID=186&EM=VTY_LC_sofia_186_overview

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June 06, 2009

ブルガリア・ルーマニアの旅のスケジュール

ブルガリア・ルーマニアの旅(第1回)

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5月27日(水)から6月5日(金)までの10日間で、ブルガリア・ルーマニアの旅に出かけた。新型インフルエンザが流行り、海外旅行するのも躊躇するような雰囲気ではあったが、少し落ち着きも見せ始めていたので、あまり気にすることなく旅に出た。ツアーの参加者は26名と大所帯。ブルガリアの「薔薇の収穫祭」に合わせた企画と言うこともあり、ツアー会社のマックスの人数。ほとんどが私より年配の方達だ。色々な方がおられたが、旅慣れた方たちばかりだったので、楽しく過ごす事が出来た。

今回の旅のスケジュールは、次の通り。

第一日目
関西空港→(飛行機)→ドイツ・フランクフルト→(飛行機)→ブルガリア・ソフィア→(バス)→ホテル(シェラトン・ソフィア・バルカン)

第二日目
(午前)
徒歩でソフィア観光(アレクサンダー・ネフスキー教会・聖ペトカ地下教会・セルディカ遺跡など)
(午後)
ホテル→(バス)→バス世界遺産のボヤナ教会→(バス)→ホテル

第三日目
ホテル→(バス)→世界遺産のリラの僧院(聖母誕生教会・ヒレロの塔)→(バス)→徒歩でプロブディフの旧市街を観光(ローマの円形競技場・スタンボリスキ広場など)→(バス)→ホテル(ノボテル・プロブディフ)

第四日目
ホテル→(バス)→カザンルク(バラの収穫祭)→(バス)→世界遺産のトラキア人の墓→(徒歩)→カザンラク・クラタ民族博物館→(バス)→バラ博物館→(バス)→ヴェリコ・タルノヴォのツァレヴェッツの丘(大主教教会など)→ホテル(インターホテル)

第五日目
ホテル→(バス)→アルバナシ(キリスト生誕教会・コンスタンツァリエフ・ハウス)→(バス)[ルーマニア国境超]→ブカレスト(国民の館・大主教教会・凱旋門・革命広場)→(バス)→ホテル(インターコンチネンタル)

第六日目
ホテル→(バス)→ブラショフ市街観光(黒の教会・聖ニコラエ教会他)→(バス)→ホテル(アローパレス)

第七日目
ホテル→(バス)→世界遺産のシギショアラ(ワラキア公ヴラドの生家・旧市街の散策)→(バス)→ビエルタン(世界遺産の要塞教会)→(バス)→ブラショフのホテル

第八日目
ホテル→(バス)→ブラン(ブラン城)→(バス)→シナイア(ペレシュ城・シナイア僧院)→(バス)→ブカレストのホテル(インターコンチネンタル)

第九日目・第十日目(最終日)
ブカレスト→(バス)→ドイツ・ミュンヘン→(飛行機)→ドイツ・フランクフルト→(飛行機)→関西空港

いつものように、今回の旅でも僅かな時間を利用して街を歩きまわったので、スケジュール以上に多くの場所を見て廻ることが出来た。私にとって、地図を持って街を歩き回ることは、最大の楽しみのひとつである。詳しくは明日以降にお話しする。


「地球の歩き方(ブルガリア・ルーマニア)」更新情報
http://support.arukikata.co.jp/thread.php/id/7689/-/parent_contribution_id/7689/

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June 05, 2009

本日ブルガリア・ルーマニアの旅から戻る

本日ブルガリア・ルーマニアの旅から戻る

本日、ブルガリア・ルーマニアの旅から戻った。定員一杯の26名のツアーに参加し、10日間の日程で、ブルガリアの首都ソフィアから「リラの僧院」、プロブディフを周り、カザンルクで「バラの収穫祭」を見学、ヴェリコ・タルノヴォからアルバナシを経由し、ルーマニアの首都ブカレストに入る。ブラショフ、ビエルタン、ブラン城、シナイアを観光して再びブカレストに戻るコース。

雨の日もあり、天候に恵まれたとは言えなかったが、それを割り引いても十二分楽しく過ごす事が出来た。また無事に戻れたことに感謝。時差ボケがあって少々眠いので、本日はこれまで。明日からまた、旅のお話しを始めたいと思う。

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