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November 30, 2009

ヒヴァのイチャンカラ(その1)

ウズベキスタンの旅(第三回)

[第二日目 : 11月21日(土)](曇時々小雨)

4:00 起床
4:40~5:00 朝食
5:30 バスで空港へ
5:47 タシケント空港国内線ターミナルに到着
6:45 「ウズベキスタン航空HY-1051便」に搭乗
7:00 離陸
7:35~7:50 軽食
8:20 ウルゲンチの空港に到着
8:45 バス乗車
9:28 ホテル「アジア・ヒヴァ」に到着
9:20 入室
9:45~11:00 休息時間を利用して、一人でイチャンカラを観光する
タシュ・ダルヴァザー門(南門)→イスラーム・ホジャ・メドレセとミナレット→ジュマ・モスクとミナレット→カルタ・ミナル→キョフナ・アルク→ヒヴァ観光案内所→ムハンマド・アミン・ハーン・メドレセ→オタ・ダルヴァザ門(西門)→パフラヴァン・マフムド廟→タシュ・ダルヴァザー門(南門)→ホテル
11:00~11:40 部屋で休憩
11:40 グループで観光に出発
12:10 「イチャンカラ」入場
① オタ・ダルヴァザ門(西門)
② ムハンマド・アミン・ハーン・メドレセ
③ カルタ・ミナル
12:30~13:30 民家レストラン「ザイナップ」で昼食
13:30~13:50 トイレ
④ キョフナ・アルク
⑤ キョフナ・アルク内にあるアクシェイフ・ババ展望台
⑥ ジュマ・モスクとミナレット
⑦ イスラーム・ホジャ・メドレセとミナレット
⑧ パフラヴァン・マフムド廟
⑨ タシュ・ハウリ宮殿
15:45 グループ観光終了、その後一人で観光を続ける
バザール→バフチャ・ダルヴァザ門(北門)→エミール・トゥラ・メドレセ→ハサン・ムラド・クシベキ・モスク→ムサ・トゥラ・メドレセ→ユースフ・ユスルバシ・メドレセ→ドスト・アリムジャン・メドレセ→アラブ・ハーン・メドレセ→マトバナヴァイ・メドレセ→パルヴァン・ダルヴァザ門(東門)→アラクリ・ハーン・メドレセ→クトゥル・ムラド・イナック・メドレセ→アク・モスク→アブドゥーラ・ハーン・メドレセ→ジュマ・モスクのミナレット→お墓→シェルガジ・ハーン・メドレセ→クバイ・ヒッザ・メドレセ→ユーヌス・ハーン廟→ムハンマド・ラヒム・ハーン・メドレセ→タシュ・ダルヴァザー門(南門)
17:45 ホテルに戻る
18:20 バスで出発
18:30~19:50 レストラン「トザボール・パレス」で夕食
20:00 ホテルに戻る
20:05~20:30 入浴
20:35 就寝


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本日は、タシケントから飛行機でウルゲンチに向かい、そこからバスでヒヴァに行く予定。午前7:00にタシケントを立つ飛行機に乗るため、午前4:00に起きる。朝食はホテルのロビー横にあるバーカウンターのような場所で、軽くパンと紅茶、フルーツなどを頂く。午前5:30にバスでタシケント空港に向かう。外はまだ暗く、昨夜空港からホテルに向かった時と同じで、外の景色はハッキリ見えない。15分ほどで空港に到着。国内線に乗るため、昨夜とは違うターミナルである(写真左)。バスを降りて150~200mほど歩き、ターミナルに入る。チェックイン手続きを行い、すぐに搭乗ゲートに向かう。20~30分ほど雑談していると、搭乗時間になった。ウズベキスタン航空HY-1051便に乗り込む。85人乗りの機体で、ビジネスクラスの席も17席あるのだが、国内線はエコノミー席である。昨日の国際線とは異なり、ほぼ満席であった。タシケントを定時の7:00に出発。離陸後30分程すると軽食(パンとドライ・アプリコット、コーラ : 写真中左)が出された。タシケントを出て約1時間でウルゲンチに到着した。タラップを降りると、そこには何もなく、ターミナルまでの150~200mを歩かなければならない。空港の外でバスが来るのをしばらく待ち(写真中右・右)、午後8:45、本日宿泊するヒヴァのホテル「アジア・ヒヴァ」に向かった。

バスの中では、ガイドからウズベキスタンについて話があった。ウズベキスタンはどのような国で、どのような歴史を持っているのか。ガイドの話も参考に、簡単に整理してみた。

・正式国名 : ウズベキスタン共和国
・首都 : タシケント
・国土面積 : 447,400㎡
・人口 : 2,780万人(2008年:国連人口基金)
人口の40%が16歳未満、また人口の65%が33歳以下。男性48%、女性52%
・平均寿命 : 70歳
・民族構成 : ウズベク人(80%)、ロシア人(5.5%)、タジク人(5.0%)、カザフ人(3.0%)(2009年 CIA The World Factbook)
・宗教 : ウズベク人のほとんどがイスラム教スンニ派、その他ロシア正教など。
・GDP : 279億ドル(2008:IMF)
・一人当たりGDP : 1026.7ドル(2008年:IMF)
・実質GDP成長率 : 9.0%(2008年:IMF)
・物価上昇率 : 12.7%(2008年:IMF)
・主要産業 : 綿花栽培。天然資源にも恵まれ、天然ガス、ウラン、金などが豊富。一次産業が主体の経済
・時差 : 日本時間からマイナス4時間
・通貨単位 : スム(СЎМ)

・歴史 :
紀元前6世紀~紀元前5世紀 : アケメネス朝ペルシャによる支配
紀元前4世紀 : アレクサンドロス大王による制圧
紀元前4世紀 : セレウコス朝シリアによる支配
紀元前3世紀 : バクトリアによる支配
紀元前2世紀~紀元前1世紀 : 大月氏による支配
1~4世紀 : クシャナ朝による支配
4世紀 : 一部(サマルカンド周辺)粟弋(ぞくよく)による支配
5世紀 : エフタルによる支配
6~7世紀 : 西突厥による支配
7世紀 : 唐による支配
7世紀~8世紀 : イスラム帝国による支配(ウマイア朝・アッバース朝)
9世紀~10世紀 : サーマン朝による支配
10世紀 : トルコ系カラ・ハン朝による支配
12世紀 : カラキタイ(西遼)による支配
13世紀 : チンギス・ハンによる制圧。ブハラ、サマルカンド壊滅
13世紀 : チャガタイ・ハンによる支配
14~15世紀 : ティムール帝国による支配。サマルカンドの再建
16世紀から17世紀 : ブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国による支配
17世紀~18世紀 : ブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国、コーカンド・ハン国(ウズベク3ハン国)の支配
19世紀 : 帝政ロシアによる支配
20世紀 : ウズベク・ソビエト社会主義共和国に(首都サマルカンド、後にタシケントへ移る)
1991年 : ウズベキスタン共和国として独立

今回観光したヒヴァ、ブハラ、サマルカンドを中心にした歴史を取り上げたが、ターニングポイントとして覚えておきたいのは、イスラム帝国による支配、チンギス・ハンによる制圧とブハラ、サマルカンドの破壊、ティムール帝国による支配とサマルカンドの再建の3点であろう。

ウィキペディア・フリー百科事典(ウズベキスタン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%BA%E3%83%99%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3
ウズベキスタン
http://www.advantour.com/jp/uzbekistan/index.htm
日本ウズベキスタン協会
http://homepage2.nifty.com/silkroad-uzbek/
外務省・ウズベキスタン
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/uzbekistan/index.html
JETRO[ジェトロ](ウズベキスタン)
http://www.jetro.go.jp/world/russia_cis/uz/
ウズベキスタン観光情報[英語版]
http://www.tourism.uz/


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ホテルには45分ほどで到着(写真左・中左・中右)。ホテルは、ユネスコの世界遺産に登録されている「イチャンカラ」の目の前と好立地である。添乗員がチェックイン手続きをしてくれている間、ホテルの中庭を散歩する。植木の入れ替えであろうか。おじさんやおばさん達が鍬やスコップを持って土を掘り返していた(写真右)。小雨が降ったり止んだりと、天候は少々不安定。添乗員から部屋の鍵を受け取る。私の部屋は38号室。フロントの裏側の部屋だ。出かけるのには便利である。部屋はクリーム色とブラウンでコーディネートされており、リラックスできる雰囲気(写真下左・下中)。田舎のホテルなのでシャワーだけかもしれないとの事だったが、バスタブもありお湯も出る(写真下右)。快適に過ごせそうだ。

アジア・ヒヴァ
http://asiahotels.marcopolo.uz/khiva/


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朝が早かったので、ここで2時間ほど休憩し、午前11:40から観光に出かけることになったが、私はジッとしていられなかったので、早速「イチャンカラ」観光へ出かけることにした。先ほどもお話しした通り、ホテルの目の前、約100mの所に「イチャンカラ」があるので、非常に便利だ。ホテルからは「タシュ・ダルヴァザー門(南門)」(写真上)が最も近かったので、ここから「イチャンカラ」に入った。「イチャンカラ」とは、内城(イチャン =内、カラ=城)のことで、高さ8~10m、厚さ約6m、長さ2250mの城壁に囲まれ、中にはハーンの宮殿やハーレム、モスク、メドレセ、廟などが建てられている。城壁は日干しレンガで造られているという。かつては外側に「ディシャン・カラ」という全長約6kmの城壁があったようだが、現在はその一部しか見ることができない。私が入場した「タシュ・ダルヴァザー門(南門)」は、「イチャンカラ」の城壁にある4つの門のうち最も高くそびえる門で、古来よりカラクム砂漠の玄関口になってきたと言う。タシュとは「石」という意味だが、その名前の通り、城壁は頑丈に造られている。城壁は半円で強化され、壁の上端に沿って尖り型銃眼が見られる(写真下)。難攻不落のように思えるが、18世紀の中頃、イランのナディール王が侵入したと言うから驚きである。

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「タシュ・ダルヴァザー門(南門)」をくぐり、城壁の中に入る。門には木彫りのデザインが施された扉が付けられているが(写真左)、現在でも閉門することはあるのだろうか。城門の天井には、日干しレンガが積み上げられて出来た、見事なドームとアーチが見られる(写真中左)。先に進むと、日干しレンガで造られた民家が並ぶ(写真中右)。レンガで出来た壁の上には、藁を混ぜた泥が塗られている。少し先にミナレットが見えているので、ここが観光ポイントであることは間違いないのだろうが、ただの田舎の村に紛れ込んだような気分である(写真右)。

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2~30mほど先にある小さなアーチをくぐると、そこから少し雰囲気が変わった。青いタイルに飾られたメドレセと、先ほどから見えていたミナレットがそびえている。これらは、「イスラーム・ホジャ・メドレセ」とその「ミナレット」だ(写真左)。ちなみに「メドレセ」とは、イスラム世界の高等教育機関のことである。建物内部の見学は、後ほどガイドに連れられた時に見ることができると思ったので、とりあえず先に進んだ。すると左手にお墓らしきものが見えた(写真右上)。さらに進むと、別の大きなミナレットの前に出た。「ジュマ・モスク」とその「ミナレット」である(写真右中)。そして左に曲がり、「ジュマ・モスク」の前の広い通りを真っ直ぐに行くと、正面に中途半端な高さのミナレットらしき塔が見えた。どうやら「オタ・ダルヴァザ門(西門)」の手前に建つ「カルタ・ミナル」(写真右下)のようである。「オタ・ダルヴァザ門(西門)」の方に歩いて行く。この道は東西を貫く「イチャンカラ」のメイン通りだ。「カズィ・カラーン・メドレセ」の前を通り、現在レストランとして使われている「マトニャズ・ディヴァンベギ・メドレセ」の前で立ち止まる。この辺りには数多くのお店が出ており、また一緒に写真を撮らせるためのラクダが繋がれていた。もちろん有料である。

ウィキペディア・フリー百科事典(マドラサ)[=メドレセ]
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%B5

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ガイドブックによると、そばに「ヒヴァ観光案内所」があるとの事だったので、訪ねて見ることにした。室内は薄暗い。中には若い女性が2名いる。「イチャンカラ」の無料の地図が無いかを尋ねると、パソコンから打ち出してくれた。棚に並べられていたガイドブックを見るが、外国語のものばかりだ。かつてはフランス語版や現地の言葉で書かれた書籍も購入していたが、言語の壁が高くほとんど活用できなかったことから、最近は最悪英語版。出来れば日本語版を購入するようにしている。日本語版がないか探していると、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、そして日本語の5カ国語で書かれた冊子を見つける。値段を尋ねると10,000スムとの事。日本では4~500円程度出売られているような冊子だが、日本語版のものは貴重なので直ぐに購入を決めた。しかし現品限りで在庫が無いとの事だったので値引きを依頼すると、9,000スムで良いことになった。まだ少し高いと思ったが、そのようなことは言っていられない。女性のうちの一人は英語が話せたので、少し雑談をした後、センターを出て北側に向かった。2~30m歩くと、広場に出た。左に見えるのが「キョフナ・アルク」(写真左)、右手に建つのは「ムハンマド・ラヒム・ハーン・メドレセ」(写真右上)である。とりあえず「イチャンカラ」の全体像が掴みたかったので、先を急いだ。「ムハンマド・ラヒム・ハーン・メドレセ」のところで右折し、東に進む。「アラブ・ハーン・メドレセ」(写真右中)の手前の通りを右に曲がり、「マトパナヴァイ・メドレセ」(写真右下)を歩いて東西をつなぐメイン通りに戻った。

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再び西に向かい、「カルタ・ミナル」(写真左)の前に出る。とてつもなく太いミナレットだ。その左には「ムハンマド・アミン・ハーン・メドレセ」(写真右上)がある。現在はホテルとして使用されているので、中には入れないようだ。階段を昇り、「ムハンマド・アミン・ハーン・メドレセ」の前を通って城壁の外に出る。そこには、像が見られる。ティムールの像かと思っていたのだが、実はホラズムで生まれた科学者「ムハンマド・アル・ホレズミ」(写真右中)との事。数枚写真を撮った後、「オタ・ダルヴァザ門(西門)」(写真右下)前の広場に出る。ここが「イチャンカラ」に入る正門と言うだけのことはあり、人で賑わっていた。「オタ・ダルヴァザ門(西門)」を通って再び「イチャンカラ」に入ろうとすると、門の下に立つおばさんに呼び止められた。入場するにはチケットが必要との事。この時、ガイドブックに「西門以外の門からは無料でイチャンカラ内を散策できる」と書かれていたのを思い出した。午後からグループで来る旨説明し、「ムハンマド・アル・ホレズミ」の横から戻り、再び「イチャンカラ」を散策することにした。

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「ムハンマド・アミン・ハーン・メドレセ」(写真上)の裏側を抜け、「パフラヴァン・マフムド廟」(写真下)の前を歩いていると、小雨が降り始めた。雨具を持っていなかったので、まだ時間はあったが、急遽ホテルに戻ることにした。民家の中を通り、「タシュ・ダルヴァザー門(南門)」をくぐり、午前11:00頃ホテルに戻った。

(参考文献)
・「地球の歩き方シルクロードと中央アジアの国々 09~10」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド社刊]
・「文明の十字路=中央アジアの歴史」(岩村忍)[講談社学術文庫]
・「標準 世界史地図」(亀井高孝他編)[吉川弘文館]
・「最新世界史図説タペストリー」(川北稔他監修)[帝国書院]
・「新詳世界史図説」(浜島書店編集部)[浜島書店]

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November 29, 2009

平成22年度後半及び平成23年度前半に発行される地方自治法施行60周年記念貨幣

平成22年度後半及び平成23年度前半に発行される地方自治法施行60周年記念貨幣

今月24日、財務省は地方自治法施行60周年記念貨幣のうち、平成22年度後半及び平成23年度前半に発行する都道府県を、次の6県にすると発表した。県名及びテーマは次の通り。

平成22年度後半
① 青森県(りんごとねぶた(ねぷた)、三内丸山遺跡等)
② 愛知県(生物多様性条約第10回締約国会議(COP10))
③ 佐賀県(佐賀県を代表する人物である大隈重信侯とその功績)

平成23年度前半
① 富山県(「立山・黒部」の自然と人間の関わり ~信仰・砂防・発電・観光~)
② 鳥取県(鳥取砂丘、浦富海岸に代表される山陰海岸の景観)
③ 熊本県(阿蘇)
なお、記念貨幣の図柄、発行枚数、引換開始日等については、後日決定する予定との事。
詳しくは財務省のHPをご参照願いたい。

※ご存知の通り、平成22年度前半に発行されるのは茨城県と奈良県。それぞれ187万枚、180万枚発行される予定で、引き換えは平成22年1月頃が予定されている。

財務省のHP
http://www.mof.go.jp/jouhou/sonota/kokko/kk211124.htm
http://www.mof.go.jp/jouhou/sonota/kokko/joukyou.htm
造幣局のHP
http://www.mint.go.jp/topics/new/page56.html

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November 28, 2009

関空から首都タシケントへ

ウズベキスタンの旅(第二回)

[第一日目 : 11月20日(金)](晴れ)

11:00 関空到着
11:30 出国手続き
11:45~13:15 ビジネスクラスラウンジで休憩
13:30 ウズベキスタン航空HY-528便に搭乗
14:08 離陸
14:45~15:20 昼食
16:00~16:30 アテンダントとお話しする
17:10 北京上空辺りを飛行
18:00 砂漠の上を飛行
19:00~20:10 睡眠
20:30~20:50(現地時間16:50、以下現地時間) 軽食
18:44 ウズベキスタン・タシケントの空港に着陸
19:10 入国審査
19:20 税関
19:35 バスでホテル「タシケント・パレス」へ
20:00 ホテルに到着
20:30~21:30 夕食
21:35~22:30 入浴・資料整理
22:30 就寝


本日から、ウズヘキスタンの旅が始まる。いつも利用しているツアー会社が企画する旅なので、リラックスしているからであろうか。近所に遊びに行く気分である。関空に到着後、すぐに団体受付カウンターに行くと、旅行案内に描かれていた似顔絵と同じ顔の女性が、カウンターの向こうに立っていた。2~3の留意事項を聞いたあと雑談をしていると、どこかでお会いしたことのある女性がやってきた。お尋ねすると、今年1月に行ったチュニジアの旅でご一緒した方だったのだ。お顔は覚えていても、どの旅でご一緒したか、お名前は何だったか、全く覚えていなかったので、少々申し訳なく思った。今回の参加者は12名。うち男性は私を含めてわずか2名だ。4人の女性グループに、女性姉妹、一人参加の女性4名と、女性パワーには驚かされる。

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米ドルとユーロ、日本円の3通貨を持っていたのだが、米ドルだけ追加で購入し、手荷物検査、出国手続きを済ませ、ビジネスクラスのラウンジに向かった。ウズヘキスタン航空は、どのアライアンス(国際航空連合)にも属していないのだが、ビジネスクラスのラウンジは「CLUB ANA」を利用できる(写真左・右)。前回シリア・ヨルダンに行った時と同じラウンジに入り、おにぎりなどを頂きながら読書をし、約1時間半を過ごす。いつもは混雑しているラウンジだが、本日は貸し切り状態であった。搭乗する飛行機も、空席が多いのではないかと感じさせた。

関西国際空港
http://www.kansai-airport.or.jp/


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搭乗時間が近づいたので搭乗口に向かうと、やはり乗客の数は少ない。機内に入ると、思っていたよりも少し機体が小さい。私の座席はいつも指定する真ん中の通路側、1Cであったが、空席が多かったので窓側の3Jに移動した(写真左)。塔乗から30分、ほぼ定刻に飛行機は動き始めた。安定飛行になるが、しばらくシートベルトの着用サインは消えない。いつもの飛行機であれば、ランプが消えても良い頃である。トイレに行くため座席を立つが、特にアテンダントからの指摘はなかった。席に戻って15分程すると、昼食である。メニューのようなものはない。○○レストランのシェフが作った○○料理とか、ワインのリストが掲載されたメニューを配るケースがほとんどなのだが、この航空会社では作成していないようだ。チキンかフィッシュかを尋ねられたので、私はチキンを頂くことにした。前菜のサーモン、海老、イカ、そしてサラダとパン、デザートのケーキが配られた(写真中)。前菜を食べ終えた頃、メインのグリルドチキンが出された(写真右)。30分ほどで食事を終え、食後の歯磨きを済ませ、ウズベキスタンに関する本を読むことにした。

お酒を飲まず、食事にも期待していない私がビジネスクラスに乗るのは、座席の幅が広く、深くリクライニング出来るからなのだが、この時初めて失望が訪れた。幸い隣の席が空席だったので良かったのだが、これまでに載った他の航空会社のビジネスクラスのシートに比べて座席の幅は狭く、しかもリクライニングの角度も浅いのである。150度も行っていないのではないだろうか。しかも、前の席に座っている人が座席を倒すと私の方に迫ってくるので、スペースが狭くなるのである。ヨーロッパ内の移動で使う機体の場合、このようなケースはあったが、関空から飛び立つ飛行機では初めてのことである。またリクライニングやフットレストの操作も電動ではなく、手動なのである。これまでに利用していた飛行機のビジネスクラスのシートを想像していたため、少々窮屈に感じたが仕方がない。ちなみに、各シートにディスプレイは無く、映画などを選択して楽しむこともできない。何箇所かに下げられたディスプレイに流されている映像を楽しむだけだ。しかし、イヤホン(ヘッドホンではない)を使ってミュージックは楽しむことができる。

食後30分ほどして、アテンダントの片付けが一段落した頃を見計らい、彼女達とお話しすることにした。ビジネスクラスのシートは18しかないので、お世話をしてくれるアテンダントもわずか2名であった。彼女達はウズベキスタン人との事。イスラム教徒が人口の80%以上の国だと聞いていたので、カタール航空やエミレーツ航空のように、外国人アテンダントしか乗っていないのかと思っていたので、少々驚いた。実は、ウズベキスタンは政教分離国家なので、イスラム法によってガッシリと固められている国とは違うのである。アテンダントの一人はイスラム教徒であったが、もう一人は無宗教であったし、女性が働くことも許されている。肌の露出(半袖にスカートなど)もOKとの事。イスラム教徒であると言っていたアテンダントの指を見ると、綺麗なネイルアートをしている。ウズベキスタンの首都、タシケントにはネイルアートのお店もたくさんあるらしい。

その他、ウズベキスタンに関することを色々と教えてもらった。その中から一つ、挨拶についてご紹介する。左手を胸に当て、右手で握手をしながら「アッサラーム・アレイクム」と言うのがフォーマルな挨拶。握手をしない場合は、右手を胸に当てる場合もあるそうだが、握手を拒否しているととられる場合もあると言っていた。親しい人との間では、抱き合ってお互いの左右の頬をすり合わせる方法や、片手をあげて「サラーム」とか「ハ~イ」などと声をかけ合うという挨拶もあるという。合わせて、ガイドブックに載っていたウズベキスタン語の発音についても教えてもらった。覚えておくとよい言葉の中からいくつかをご紹介する。最初は先ほどもお話しした「アッサラーム・アレイクム」だ。これは朝昼晩、昼夜を問わず使える挨拶である。アラビア語と同じなので、すぐに覚えられる。これに対してお別れする時は「ハイル」。手を振りながら「ハイル」と使えば良いようだ。次はお礼。英語の「サンキュー」に当たるのがウズベキスタン語の「ラフマット」、より丁寧に言いたい場合は、「サンキューベリーマツチ」の意である「カッタ・ラフマット」。それに対して応える時は、「マルハマット」と言えば良い。地球の歩き方を見ると「アルズィメイディ」と書かれているが、アテンダントの話では、これは英語の「Don’t mention it」に当たるとの事であった。ついでにこの場でご紹介しておくが、お食事を頂いた時に「マザリー」と言えば、相手もニッコリ。「美味しい」と言う意味である。これは現地ガイドが教えてくれた言葉だ。では美味しくないときは? ガイドに言わせると、ウズベキスタンに美味しくないものはないとの事で、教えてもらえなかった。余談になるが、数字は1~10まで順に、「ビル」、「イッキ」、「ウチュ」、「トゥルト」、「ベシュ」、「アルティ」、「イエッティ」、「セッキズ」、「トッキズ」、「オン」と言うのだが、これを聞いて何か思い出さないだろうか。そうです。微妙に発音の異なるところはあるが、トルコ語の数字と同じなのである。どちらが影響し、影響を受けたのかは分からないが、言葉にも文化交流の跡が残されているのだと感じた。

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彼女達と30分ほどお話しした後、席に戻って窓の外の景色を楽しむ。機体が小さいからだろうか。いつもより飛行高度が低いため、地上の景色がハッキリ見えるように思えた。ディスプレイに映されるフライト地図を見ると、中国・北京上空を飛んでいるようだ。下は雪で覆われている。しばらくすると、険しい山々が続く(写真左)。もちろん雪景色だ。そして次は砂漠(写真右)。ここにも雪らしきものが見える。このような所に置き去りにされたらどうなるのだろうと想像してみたり、チンギスカンをはじめ色々な人に支配されてきたこれらの地だが、誰もいない険しい山脈や砂漠を支配すると言うことはどのようなことなのだろうかと、色々考えさせられた。

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景色を楽しんでいるうちに、いつの間にかウトウトとしていた。1時間ほどで目覚め、しばらくすると軽食が配られた。メニューはサンドイッチにケーキ、フルーツ、紅茶である(写真)。軽食を済ませ、2時間弱でウズベキスタン・タシケント空港に到着した。機長の案内では、外気温13度と言っていたので、思っていたほど寒くはない。タラップを降りるとバスが待っている。タシケントで入国する人たちが乗るバスと、トルコ・イスタンブール行き飛行機に乗り継ぐ人たちのバスの2台だ。乗り間違えないように、行き先を確認してバスに乗車。1~2分でターミナルに着き、入国審査を受ける。団体ビザのため、添乗員の後ろに並んでいたが、添乗員がビザのコピーで手続きをして欲しい旨交渉するとOKとの事。2つの窓口に分かれることができたおかげで、スムーズに手続きは進んだ。

ウズベキスタン航空
http://www.uzbekistan-airways.co.jp/
ウィキペディア・フリー百科事典(ウズベキスタン航空)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%BA%E3%83%99%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E8%88%AA%E7%A9%BA

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次は荷物受取。私は手荷物だけなので、他の方達が、荷物が出てくるのを待っている間に、先に一人で税関のチェックを受けて空港の外に出た(写真)。ところで税関では、税関申告書を提出しなければならない。この時に注意すべきことは、出国の際、入国の時に税関申告書に記入した外貨金額以下の通貨しか持ち出すことが出来ない点だ。ウズベキスタンに持ち込む外国通貨の金額は無制限なので、間違いなく記入することが必要である。また入国の際、個人的に使用する高額品については、総価値1,000米ドルまで免税になるので、デジタルカメラや時計など高額と思われるものは税関申告書に記入しておくことをお薦めする。

タシケント空港
http://www.airport-tashkent.uz


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空港の外に出ると、今回の旅のガイドを務めてくれる若い男性が待っていた。彼の名前はシュンコル。演歌歌手の細川たかしに似た、男前である。しばらくすると、予想外に早くツアーメンバー全員が外に出てきた。お客が少なかったからであろう。空港ビルから100mほど離れたところで待っているバスまで移動し、そのバスで本日宿泊する「タシケント・パレス・ホテル」に向かった。バスの運転手はシャミルさんだ。外は暗くなっていたので、景色はハッキリしないが、建物を見ているとソ連時代を思わせる画一的、規格的なイメージの建物が数多く建っている。バスの中では、お水のこと、チップのことなど、ガイドから簡単な説明があった。通貨の単位は「スム」。100スムが日本円で約7円との事。これまでの旅では、空港の両替所やホテルのフロント、街の両替屋で外貨両替を行っていたが、ここではガイドがバスの中で、30米ドルを45,000スムに交換してくれた。いくらでも交換してくれるとの事だったが、何時でも両替してくれるとの事でもあったので、私もとりあえず30米ドルを替えてもらった。ここでは米ドルも通用との事なので、少し値の張るものを購入する時は、米ドルを使えば良いようだ。ところで、30米ドルを両替して手にしたお札は、1,000スム札が35枚、500スム札が20枚である(写真)。急に金持ちになった気分だ。ウズベキスタンで発行されている現在最高の額面の紙幣は1,000スム。この1,000スム札は2001年に発行されたもの。2008年の物価上昇率が12.7%(IMF)だったことを考えると、そろそろ5,000スム札や10,000スム札が必要なのではないだろうか。

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約30分でタシケント・パレス・ホテルに到着(写真左・中左)。このホテルは4つ星だが、各施設が充実しているうえ、街の中心部に位置しており、観光にも便利だという。添乗員がチェックインを済ませ、鍵を渡してくれた。私の部屋は207号室。2Fだが、建物の端に位置する部屋だったので、エレベーターを降りた後、かなり歩かなければならない。部屋は広々としており、落ち着いた雰囲気である(写真中右・右)。

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30分ほどで部屋のチェックと荷物整理をした後、夕食のためホテルのレストランに向かった。時差は4時間とヨーロッパに比べれば楽なのだが、それでも日本時間にすると真夜中の0時頃なので、あまり食欲はない。メニューはカボチャスープ(写真左)、チキングリルにライス(写真中左)、ロールケーキ(写真中右)とチャイである。キツイ臭いの香辛料などが使われていなかったのが幸い。少し残したが、どれも美味しく頂くことができた。約1時間で夕食を終え、レストランを出る。途中、エレベーターホールの窓から見える、ライトアップされた「ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場」(写真右)の写真を撮り、部屋に戻る。お腹が満たされたことに加え、時差ボケのため、いまにも瞼が閉じそうであったが、最後のひと踏ん張り。資料整理と入浴を済ませ、午後10時半頃ベッドに入った。

タシケント・パレス・ホテル
http://www.tashkent-palace.com/


(参考文献)
・「地球の歩き方シルクロードと中央アジアの国々 09~10」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド社刊]

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November 27, 2009

「中央アジアの真珠」ウズベキスタン

ウズベキスタンの旅(第一回)

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本日、ウズベキスタンの旅から戻った。11月20日(金)から27日(金)までの8日間である。これまでヨーロッパを中心に、キリスト教カトリック圏から正教圏を廻り、最近はイスラム圏に興味を持ち各国を訪ねているのだが、世界の歴史を見るとどうしても避けて通れないのがシルクロードである。ご存知の通り、シルクロードは一般に「草原の道」、「オアシスの道」、「海の道」の3つに分類される。その中の「オアシスの道」で栄えた街のひとつが、ウズベキスタンのサマルカンドであり、タシケントであり、ブハラだ。交易の拠点として賑わったのである。
このような交易で栄えて富をもたらしてくれる街は、必ずと言っていいほど奪い合いになり、支配者は次々と代わる。私にとっては、非常に複雑で分かりにくい歴史を持つ地域なのだ。そこで、実際にその地に行ってみることが理解を深める早道だと思い、ウズベキスタンに行くことにしたのである。

※写真はサマルカンドのレギスタン広場

今回の旅のスケジュールは、次の通りである。

[第一日目 : 11月20日(金)]
・ウズベキスタン航空HY-528便
関西空港14:00発→ウズベキスタン・タシケント19:00(現地時間)着
・着後バスで、ホテル「タシケント・パレス」へ

[第二日目 : 11月21日(土)]
・ホテルからタシケント空港へ
・ウズベキスタン航空HY-1051便
タシケント7:00発→ウルゲンチ8:40着
・着後バスでヒヴァのホテル「アジア・ヒヴァ」へ
・ヒヴァ(イチャンカラ : 内城)観光
① アタダルヴァサ門
② クフナアルク
③ カルタミナル
④ ムハンマドアミンハーンメドレセ
⑤ バフラヴアンマフムド廟
⑥ イスラムフッジヤメドレセとミナレツト
⑦ ジユマモスク
⑧ タシュハウリ宮殿など

[第三日目 : 11月22日(日)]
・ヒヴァからバスでキジルクム砂漠を通り、ブハラのホテル「アジア・ブハラ」へ

[第四日目 : 11月23日(月)]
・ブハラ観光
① アルク城
② バロハウズモスク
③ サーマーニ廟
④ オアシスラビハウズ
⑤ バザールタキ市場

[第五日目 : 11月24日(火)]
・ブハラからキジュドゥバン経由でサマルカンドのホテル「プレジデント」へ
・途中、キジュドゥバンで陶器工房見学

[第六日目 : 11月25日(水)]
・サマルカンド観光
① レギスタン広場
② グリアムール廟
③ ヒビハニムモスク
④ ウルグベク天文台
⑤ アフロシャブ博物館
⑥ アフロシャブの丘
⑦ シャーヒジンダー廟群など

[第七日目 : 11月26日(木)]
・特急列車
サマルカンド11:10発→タシケント14:45着
・タシケント観光
① ナヴォイ・バレエ・オペラ劇場
② ティムール広場
③ ウズベキスタン博物館
・夕食後、タシケント空港へ
・ウズベキスタン航空HY-527便
タシケント22:15発→成田空港へ


[第八日目 : 11月27日(金)]
・成田空港翌10:10着
・同便で成田空港11:15発→関西空港12:45着

8日間の旅と言っても移動時間が多いため、実際に観光しているのは正味3日ぐらいしかない。しかし、それでも十分に楽しむことはできた。旅の内容については、次回からお話ししたいと思う。

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November 17, 2009

「睡蓮池のほとりにて」展

「睡蓮池のほとりにて」展

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アサヒビール大山崎山荘美術館で、「睡蓮池のほとりにて―モネと須田悦弘、伊藤存―」展を見てきた。アサヒビール創業120周年を記念した企画展で、同美術館が所蔵するモネの『睡蓮』のすべて、全5点が展示されている(写真 : アサヒビール大山崎山荘美術館のHPより)。

アサヒビール大山崎山荘美術館のHP
http://www.asahibeer-oyamazaki.com/

ご存知の通りクロード・モネは印象派の巨匠で、「光の画家」と呼ばれた。1899年から1926年に亡くなるまでの間に描かれた、パリ郊外ジヴェルニーの自宅の庭に作った睡蓮の池をモチーフとする作品は、200点以上にのぼるという。今回展示されている絵画も、この時期に描かれたものである。モネの作品の中で印象に残っているのは、今年3月に訪ねたフランス・オランジュリー美術館の睡蓮の間で見た、8枚の睡蓮の連作である。部屋いっぱいに並べられた睡蓮の絵は圧巻であった。これに比べると今回展示されているモネの作品のサイズは小さいが、ひとつひとつの作品にはそれぞれモネの良さが溢れている。彼が求めた時間や季節とともに移りゆく光と色彩の変化は、これらの作品からも見て取れる。

2009年4月28日付当ブログ「オランジュリー美術館」
http://coinkun.cocolog-nifty.com/coin/2009/04/post-3821.html
ウィキペディア・フリー百科事典(クロード・モネ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%8D

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ところで今回の展示は、クロード・モネの作品だけではない。企画展のタイトルにもあるように、須田悦弘と伊藤存の作品も展示されている。須田悦弘は、木を彫り、それに彩色して睡蓮を作り出している。自然光の下に展示されている作品を見ると、本物の睡蓮が池で咲いているように見える(写真左 : アサヒビール大山崎山荘美術館のHPより)。伊藤存は、動植物、人などをモチーフに刺繍で作品をつくる。睡蓮の葉の重なりや池に泳ぐ巨大な草魚(そうぎょ)に注目して作品を作ったとの事だが、私には少し難しく感じられた(写真右 : 同前より)。

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最後に、この美術館での楽しみは、企画展だけではない。美術館の建物それ自体をも楽しむことができるのである。この美術館は、本館と新館から成るが、本館は、実業家加賀正太郎が自らの山荘として設計、大正時代に木造で建てられたのち、昭和初期に増築されたものだ。上棟部はイギリスのハーフティンバー工法による建物で、構造は鉄筋コンクリート造、屋根部分には鉄骨組みがなされている(写真左 : ウィキペディア・フリー百科事典(アサヒビール大山崎山荘美術館)より)。素晴らしいのは内部だけではない。テラスからの眺めも抜群である(写真右 : 同前より)。一方、新館は日本を代表する建築家、安藤忠雄氏の設計によるもので、「地中の宝石箱」とも呼ばれる地中に造られたギャラリーだ。本館とは対照的で、現代的な建築物である。

ウィキペディア・フリー百科事典(アサヒビール大山崎山荘美術館)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B5%E3%83%92%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E5%B1%B1%E8%8D%98%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8
ウィキペディア・フリー百科事典(安藤忠雄)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%97%A4%E5%BF%A0%E9%9B%84


現在開催されている「睡蓮池のほとりにて―モネと須田悦弘、伊藤存―」展は、来年の1月31日(日)まで。一度ご覧になることをお薦めする。

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November 13, 2009

天皇陛下御在位20年記念5百円貨幣の棒金をゲット

天皇陛下御在位20年記念5百円貨幣の棒金をゲット

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昨日から引き換えの始まった、天皇陛下御在位20年記念5百円貨幣。本日から1人2枚までという制限がなくなったので、棒金(50枚)で引き換えるため、地元で最も規模の大きい銀行の支店に行ってきた。窓口で尋ねると、シッカリ残っていた。昨日バラで28枚引き換えているので、本日は棒金1本の入手に留めた。

銀行の窓口で引き換えるタイプの記念コインについては、昭和39年に発行されたオリンピツクの1000円銀貨以外まったくプレミアムは付かないので、数多く引き換えてどうするのかと言う方もおられるが、預金していてもほとんど利息の付かない時代。貯金箱に500円玉を貯めている思えばよいのだ。コレクターとしては、手元に100枚ぐらいあっても気にはならない。

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ところで棒金についてだが、かつては銀行の名前が入ったフイルムで、もっと古い時代はペーパーでコインが巻かれていた。しかし今回入手したものは、「金融機関共通巻き」と書かれたフイルムで巻かれていた。これはコスト削減のため、金融機関が共同で作成したものなのであろうか。支店でコインを棒金にするのは、手間ばかりかかって儲けにならないからなのであろうか。それとも今回のように、新しく発行されるコインだけなのであろうか。また記念コインは、各金融機関の支店に、どのような形で送られてくるのだろうか。日銀から各銀行の本店に麻袋に入った状態で送られ、本店で棒金にして各支店に割り当てるのだろうか。コインそのものよりも、その流れの方が気になったのだが、答えは良く分からない。どなたか教えてください。

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November 12, 2009

天皇陛下御在位20年記念5百円貨幣の引換え

天皇陛下御在位20年記念5百円貨幣の引換え

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本日、天皇陛下御在位20年記念5百円貨幣(写真上 : 裏面、写真下 : 表面)の引換えに行ってきた。8つの金融機関を廻り、28枚のコインを手に入れた。「引き換え日初日は一人2枚まで」という財務省通達を守る金融機関が増えたため、いくつも廻らなければならないのだが、普段行かない信金や農協などを訪ねるのも楽しいので、苦にはならない。

昨日、関西のコイン商数社を訪れたのだが、どのコイン商も本日の引き換えには行かないと言っていた。なぜならば、初日は1人2枚なので引き換え効率が悪いからとの事。引き換え日の翌日に金融機関の本店や地方の中核となる支店に行けば、かなりの枚数が残っており、棒金(50枚)で何本も手に入れることができるのである。しかし、私のような個人コレクターの場合は、やはり引き換え日に入手したい。ただ、引き換えたコインをいくら丁寧に扱っても、すでにコレクターではない行員が業務としてコインを扱っているため、指の油によるくもりや、コイン同志のあたりキズなどは避けられない。やはり棒金の方が、もう少しコンディションは良いのかもしれない。

本日入手したコインの中から、比較的状態の良いものの写真を掲載したが、アップにすると細かな傷やくもりなどが目に付く。私もコイン商にならい、棒金で引き換えるため、明日もう一度金融機関を訪ねようかと考えている。

財務省のHP(天皇陛下御在位20年記念5百円貨幣の概要)
http://www.mof.go.jp/jouhou/sonota/kokko/kk211007sankou.htm

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November 09, 2009

シリアの現行紙幣

シリア・ヨルダンの旅(番外編その1)
貨幣ぶらり旅(第173回)

今回の旅でも、現地で流通している紙幣やコインを収集した。ホテルだけでなく、街のみやげ物店など、米ドルやユーロの通用するところが多かったので、観光客はそれほど現地通貨に両替しないようだ。そのためか、外貨両替の店は少なく、比較的状態の良い紙幣を手に入れるのに苦労した。もちろん銀行に行けば、もう少し簡単だったとは思うのだが、行く時間がなかったのだから仕方がない。ちなみに5シリアポンド、10シリアポンド、25シリアポンドについては法律上有効だが、市場ではコインが流通しているため、紙幣は事実上流通していない(我が国の100円や500円と同じ)。このため、5シリアポンドは帰国後「第7回おおさか大収集祭り」でコイン商から購入、また10シリアポンドと25シリアポンドは、現地のコレクターからプレミアムを支払って譲り受けた。なお今回は、残念ながらシリア中央銀行や付属貨幣博物館を訪れることはできなかった。

ウィキペディア・フリー百科事典(シリア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%82%A2#.E7.B5.8C.E6.B8.88
シリア中央銀行
http://www.banquecentrale.gov.sy/index.htm


① 5シリアポンド(1991年発行/1412H) ※Hはヒジュラ暦(イスラム暦)
Dsc09501Dsc09502Dsc095341Dsc01367------------------------------

(表面)右に女性戦士の像、中央にボスラの劇場が描かれている。
(裏面)中央に綿花の収穫作業、左に綿紡績工場がデザインされている。

平成21年10月28日付当ブログ「世界遺産・ボスラ遺跡観光」
http://coinkun.cocolog-nifty.com/coin/2009/10/post-cdd8.html
ウィキペディア・フリー百科事典(ボスラ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%82%B9%E3%83%A9

② 10シリアポンド(1973/1393H)
Dsc09402Dsc09403_2Dsc09768------------------------------

(表面)右に民族衣装で踊る女性、中央にダマスカスのアゼム宮殿が描かれている。
(裏面)水処理施設工場(淡水化プラント)がデザインされている。

平成21年10月17日付当ブログ「アゼム宮殿(民族民芸博物館)」
http://coinkun.cocolog-nifty.com/coin/2009/10/post-bb98.html
ウィキペディア・フリー百科事典(アゼム宮殿 : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Azm_Palace

③ 25シリアポンド(1991/1412H)
Dsc09400Dsc09401Photo_6Dsc00808----------------


(表面)右に民族衣装を着たサラディーンの肖像、中央に堅固な要塞クラック・デ・シュヴァリエが描かれている。
(裏面)中央にシリア中央銀行の建物がデザインされている。

ウィキペディア・フリー百科事典(サラーフッディーン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%83%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3
平成21年10月26日付当ブログ「クラック・デ・シュヴァリエ」
http://coinkun.cocolog-nifty.com/coin/2009/10/post-bff0.html
ウィキペディア・フリー百科事典(クラック・デ・シュバリェ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AA%E3%82%A8

④ 50シリアポンド(1998/1419H)
Dsc09398Dsc09399Photo_7Photo_3--------------------


(表面)右にハマの水車、中央にアレツポの要塞が描かれている。
(裏面)左にアサド図書館、中央上にアビシャンスタジアム、中央下に生徒たちがデザインされている。

ウィキペディア・フリー百科事典(ハマー)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%9E%E3%83%BC_(%E9%83%BD%E5%B8%82)
ウィキペディア・フリー百科事典(アレッポ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%9D


⑤ 100シリアポンド(1998/1419H)
Dsc09396Dsc09397Photo_5Dsc01367_2Photo_2

(表面)右にピリップス・アラブスの胸像、中央にボスラの劇場が描かれている。
(裏面)ヒジャーズ鉄道の列車と、ダマスカスの駅がデザインされている。

ウィキペディア・フリー百科事典(ピリップス・アラブス)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%96%E3%82%B9
平成21年10月28日付当ブログ「世界遺産・ボスラ遺跡観光」
http://coinkun.cocolog-nifty.com/coin/2009/10/post-cdd8.html
ウィキペディア・フリー百科事典(ボスラ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%82%B9%E3%83%A9
ウィキペディア・フリー百科事典(ダマスカス)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%82%B9
ウィキペディア・フリー百科事典(シリア)
http://en.wikipedia.org/wiki/Syria


⑥ 200シリアポンド(1997/1418H)
Dsc09394Dsc09395Dsc09635--------------------


(表面)右に騎馬姿のサラディーンと剣を持った兵士の銅像、中央に古代コインと無名戦士の墓が描かれている。
(裏面)左に綿の花と綿花の収穫作業風景、中央に糸紡ぎ機と織物機械など、繊維産業がデザインされている。

平成21年10月15日付当ブログ「現存する世界最古のウマイヤド・モスク」
http://coinkun.cocolog-nifty.com/coin/2009/10/post-d001.html
ウィキペディア・フリー百科事典(サラーフッディーン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%83%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3


⑦ 500シリアポンド(1998/1419H)
Dsc09392Dsc09393Photo_4Dsc00093------------------------------

(表面)右にパルミラの女王ゼノビアの彫像、中央にパルミラの遺跡が描かれている。
(裏面)ユーフラテスのダム、灌漑地と農作物がデザインされている。

平成21年9月14日付当ブログ「シリア・ヨルダンの旅(準備編その4)」
http://coinkun.cocolog-nifty.com/coin/2009/09/4-63b0.html
ウィキペディア・フリー百科事典(ゼノビア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%8E%E3%83%93%E3%82%A2
平成21年10月20日付当ブログ「世界遺産・パルミラ遺跡(上)」
http://coinkun.cocolog-nifty.com/coin/2009/10/post-0646.html
ウィキペディア・フリー百科事典(パルミラ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%83%A9


⑧ 1000シリアポンド(1997/1418H)
Dsc09390Dsc09391PhotoDsc09685------------------------------

(表面)右にアラブ民族主義者で、1970年のクーデタで政権を掌握したアサド前大統領の肖像、中央にコインやウマイヤド・モスクが描かれている。
(裏面)石油パイプラインと石油産業労働者、コンバインを使った穀物の収穫作業、近海での漁業風景がデザインされている。

ウィキペディア・フリー百科事典(ハーフェズ・アル=アサド)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%82%A2%E3%82%B5%E3%83%89
平成21年10月15日付当ブログ「現存する世界最古のウマイヤド・モスク」
http://coinkun.cocolog-nifty.com/coin/2009/10/post-d001.html
ウィキペディア・フリー百科事典(ウマイヤド・モスク)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%82%B9%E3%82%AF

※サラディン肖像画、ハマの水車、アレッポの要塞、ピリツプス・アラブスの胸像、ダマスカスの駅、ゼノビアの肖像画、アサド前大統領肖像写真は、各ご案内の「ウィキペディア・フリー百科事典」から転載した。

(参考文献)
・「カラー版世界紙幣図鑑」(植村峻編著)[日本専門図書出版刊]
・「Standard Catalog of WORLD PAPER MONEY」(Neil Shafer他編)[Krause刊]

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November 08, 2009

ドーハ―経由で関空へ

シリア・ヨルダンの旅(最終回)

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昼食を終え、あとは日本に帰るだけである。13:45頃、バスでレストランからアンマン「クイーン・アリア国際空港」に向け出発。1~2分ほど走ったところで、この近くにガイドのムハンマドさんの自宅があるとの案内があった。街の中心部、なかなか良いところにお住まいである(写真左)。街中の道路は車で混雑しているが、渋滞と言うほどではない(写真中左・中右)。15分ほど走ると、右手に外務省の建物(写真右)が、左手には変わった形の建物(写真下左)が見えた。外務省は中央から少し離れたところにあるのだが、機能充実のため、空港寄りの場所に移転したとの事。左に見えた変わった形の建物は、リゾートホテルであった。14:27、飛行機が見え始めた(写真下右)。いよいよ空港である。

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14:30、空港に到着(写真左)。30分ほどで搭乗手続きを済ませる。我々の乗るカタール・ドーハ行きの飛行機は、17:20発なので、まだ2時間半ほど待たなければならない。3~40分ほど空港内のお店を見て廻った後(写真中左)、ファーストクラス用のラウンジに入る。ラウンジは広々としており、窓からは空港を見渡す事ができる(写真中右)。飛行機の離発着などをぼんやり眺めているうちに、ついウトウトしてしまった。16:30にラウンジを出て、3番搭乗口に向かう(写真右)。16:48、搭乗。すぐに飲み物のサービスがあり、続けてデイツとコーヒーが出された。お世話してくれるアテンダントは、インド人と中国系フィリピン人の2人の女性だ。

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17:17、離陸。しばらくすると食事が運ばれてきた。メニューは次の通り。

・前菜(七面鳥と野菜のパンケーキ巻き、チリソース添え : 写真左)
・車海老のマリネとアラブ風野菜の付け合わせ(写真中左)
・サラダ
・グリルドチキン、羊肉のコフタ(香辛料入り肉団子)、海老のソテー、千切り野菜とオリエント風ライス(写真中右)
・パン
・デザート(オレンジとデイツのケーキ : 写真右)
・コーラとコーヒー

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1時間ほどで食事を終え、しばらくすると、カタールのドーハ国際空港に到着した。ここからはバスでターミナルに移動するのだが、来た時と同じく、ビジネスクラス利用者は別のラウンジに案内されるため、添乗員をはじめエコノミークラス利用者と別れる。19:45、ターミナルに到着(写真左)。15分ほどで買い物を済ませ、20:05、今度はビジネスクラス用のラウンジに入る(写真中左・中右・右)。次に乗る飛行機は1:05発なので、まだ5時間ほどあったことから、ラウンジで今回の旅についての資料整理を始めることにした。このような事をしていると、時間が経つのは早い。搭乗時間が近づいたので、00:15、バスに乗って飛行機に向かう。

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00:30、座席に着く(写真左)。1:30頃離陸。1:50に軽食(私は「きつねうどん」を頂く)が出された(写真中左)。食後は、疲れていたこともあり、すぐに寝始める。帰りの飛行機では、行きの飛行機のように、アテンダントの皆さんとお話しすることはほとんどない。とにかく眠いので、いつも寝てしまう。8:00(日本時間14:00、以下日本時間)頃に目覚めると、中国・天津上空を飛行していた。14:30、昼食の時間である。あまりお腹が減っていなかったので、軽食を頂くことにした。今度は牛丼を注文(写真中右)。考えていた牛丼とはかなり違っていたが、美味しく頂いた。帰りの飛行機は日本人の乗客が多いため、すでに日本食はなくなっていた。私の隣に座っていた方は、残念そうに別のメニューを頼んでいた。彼はサウジアラビアのジェッダで仕事をしているとの事。海の綺麗な紅海沿いなので、楽しいでしょうと問いかけるが、サウジアラビアはイスラムの戒律が厳しく、酒も賭け事もダメ。娯楽施設もほとんどないため、まったく面白くないと言っていた。そういえば、先ほどからワインやビールを飲み続けている。お酒が好きなのであろう。彼は1週間の休暇を利用して、日本に帰るところであった。子供が1歳なので、奥さんは日本にいるとの事。まだ数年、この生活が続くと言っていた。お話をしていると、アッと言う間に時間は過ぎる。窓の外を見ると、明石大橋の上空を飛んでいた(写真右)。

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16:18、関西国際空港に到着。これで今回の旅も終了。無事、帰ることができたことに感謝。税関を過ぎた後、そのまま関空の3F、飲食店街に向かった。もちろん好物のトンカツを食べるためである(写真)。酒が飲めないのは問題ないが、豚肉が食べられないイスラム圏は、私にとって厳しい場所なのかもしれない。

カタール航空
http://www.qatarairways.com/jp/jp/homepage.html/
クイーン・アリア国際空港
http://www.qaia.gov.jo/
ドーハ国際空港
http://www.dohaairport.com/

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November 07, 2009

アンマン国立考古学博物館

シリア・ヨルダンの旅(第24回)
貨幣ぶらり旅(第172回)

10日目・11日目(最終日) : 10月7日(水)~8日(木)

7:00 起床
7:30~8:15 朝食
8:20~9:30 ビーチを散歩
10:07 バス出発
11:17~12:13 アンマン城砦・国立考古学博物館
12:40~13:42 昼食
14:30 アンマン「クイーン・アリア国際空港」に到着
15:10 チェックイン手続き終了
15:52~16:30 ファーストクラスラウンジで過ごす
16:48 搭乗
17:17 離陸
19:35 カタール・ドーハ国際空港に着陸
19:45 バスでターミナルに到着
19:45~20:05 ターミナルのショツプで買い物
20:05~00:12 ビジネスクラスラウンジで過ごす
00:15 バスで飛行機まで移動
00:30 搭乗
1:30 離陸
1:50 軽食
2:50~8:00(日本時間14:00 : 以下日本時間) 睡眠
14:30~15:00 昼食
16:18 関空に着陸


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本日は、アンマンでこの旅最後の観光をする予定だ。10:00出発なので、朝はノンビリ出来る。7:00に起きて、7:30から朝食を頂く。ツアーメンバー人達が少なかったので、添乗員に尋ねると、すでに食事を済ませ、海に行った人たちがいるとの事。皆さんお元気である。食後、私もビーチに行ってみることにした。もちろん、海には入るつもりはない。同じツアーの人達はすでに上がっていたようで、外国人の方達が数人海に浮かんでいるだけだった(写真左)。海岸の岩は、塩で白くなっている(写真中左・中右)。泥の壺の方を見ると、朝から全身に塗っている御婦人がいた(写真右・下左)。その横を見ると、ライフガードの人が暇そうにしていたので、2つ質問をしてみることに(写真下中左)。第一は、壺に溜められている泥について、どこから持ってくるのかを尋ねた(写真下中右)。すると、死海の北の方にたくさんの泥の取れるところがあり、毎朝トラックで運んでくるとの事。壺に入れられた泥はすぐに無くなるので、壺数配分を持ってくるようだ。それでも足りないときは、電話で連絡して業者に持ってこさせると言っていた。第二は、沖に張られているロープについて。鮫もいないし、沈むこともないのだから、沖にロープを張る必要はないのではないかと尋ねたところ、流れがあるので、ウッカリ沖に出過ぎると、遠くに流されてしまうためだという。後で添乗員から聞いた話だが、死海の中央にある国境線を越えてイスラエル側に入ってしまうと、大変なことになると言うのも理由のようだ(写真下右 : イスラエル側)。

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1時間ほどビーチやホテル内を散策し、9:30頃部屋に戻った。荷物を再度チェックし、10:00にロビーに集合。バスはアンマンに向け走り出した。30分ほどで、海抜ゼロメートルのポイントを通過(写真左)。砂漠の中を走りつづけ、11:00頃、街中に入る。車で混雑する道路(写真中左)。その先には、山の斜面にギッシリと立ち並ぶ家々(写真中右)。そして、アンマンのダウンタウンの中心へ。右手にニンファエウム(写真右)、ローマ劇場(写真下左)と続き、次いで左手に王宮(写真下中左)が見える。アンマン城砦は丘の上にあるのだが、この丘は「ジャバル・エル・カラ」と呼ばれている。坂道を登り、大きなカーブを曲がると王宮の入り口(写真下中右)があり、さらに進むと、箱をギッシリ積み上げたような住宅街が見える(写真下右)。

ウィキペディア・フリー百科事典(アンマン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%B3
ウィキペディア・フリー百科事典(アンマン : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Amman


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11:17、アンマン城砦跡に到着。バスを降りて少し歩く。途中、地元の子供達が、親しく声をかけてきた。自分たちの写真を撮れと言うのだ。みんな良い笑顔だ(写真左)。城砦跡の入り口は新しく、出来たばかりである(写真中左)。現在工事中のため、何か落ち着かない雰囲気。舗装工事中の道を歩く(写真中右)。その先には、ヘラクレス神殿跡が見える(写真右)。もともとこの場所には古代のアクロポリスがあり、ローマ時代に要塞が築かれ、その度幾度となく改築されたのである。城壁はダブルウォール、二重構造だ(写真下左・下右)。

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城砦の南側からは、アンマンの街が一望できる。先ほどバスの中から見えた「ローマ劇場」も、その全体像が分かる(写真)。このローマ劇場は、紀元169~177年に、丘の斜面を自然のまま生かして造られている。階段席は三層からなり、収容人員は約6,000人。保存状態が良いうえ、修復もなされていることから、現在も様々な文化的催しに使用できるようになっているとの事。またステージの両袖には、「ヨルダン伝統文化博物館」と「ヨルダン民族博物館」が併設されている。

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この劇場の北東に、紀元2世紀に建てられた小さな天井付き劇場「オデオン」が見える(写真)。内部のオーケストラ、舞台共に往時の姿をとどめており、500人を収容できる観客席は近年改築され、コンサートなどに用いられているという。

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アンマンの街を眺めた後、城砦の跡を歩き、ヘラクレス神殿跡に立つ円柱のそばにやって来た(写真)。この神殿は、紀元2世紀、マルクス・アウレリウス帝(A.D.161~180年)を記念して建てられたもので、かつては神殿から丘の下の町まで壮大な階段が伸びていたと言われるが、現在はその名残はない。ファサード(建物正面)には4本のコリント式円柱があったが、完全な形で残っているのは三層のアーキトレーブ(横石)を載せた2本の円柱のみである。円柱の高さは約17mとの事。

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ヘラクレス神殿の横を通り100mほど西に進むと、青い屋根の右手にドームが見えた(写真)。この一帯は、近年発見された中世初期の遺跡群「アル・カスル」である。紀元720~750年頃、ウマイヤ朝後期に築かれたもので、為政者の住居、行政府の置かれた場所であったと推測されている。青い屋根のドームは、「謁見の間」と呼ばれる、一辺25mの壁に囲まれた正方形のホールで、4つの角にはさらに方形の部屋が続いている。このギリシャ十字式設計の中央にあたるホールの装飾は見事だという。

さらに西に200mほど進むと、「ヨルダン考古学博物館」がある。階段を昇り館内に入る(写真左)。入口の外、左手にあった指の形をした彫像の断片は印象的だ(写真中)。館内を覗くと、それほど広くないスペースが、展示物でギッシリ詰まっているといった感じである(写真右)。

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ここには、新石器時代からオスマントルコ時代の遺物が集められ、次のような区分で展示されている。

1. The Paleolithic (1,000,000 – 10,000 years ago) (写真上左).
2. The Pre-pottery Neolithic (8300-5500 BC) (写真上中左).
3. The Pottery Neolithic (5500-4300 BC) (写真上中右).
4. The Chalcolithic (4300-3300 BC) (写真上右).
5. The Early Bronze Age (3300-1900 BC) (写真中上左).
6. The Middle Bronze Age (1900-1550 BC) (写真中上中左).
7. The Late Bronze Age (1550-1200 BC) (写真中上中右).
8. The Iron Age (1200-550 BC) (写真中上右)
9. The Persian Period/Iron III (550-350 BC)
10. The Hellenistic Period (332-63 BC) (写真中下左).
11. The Nabataean Period (312 BC-AD 106)
12. The Roman Period (63 BC – AD 324) (写真中下中左・中下中右・中下右).
13. The Byzantine Period (AD 324 – 636) (写真下左).
14. The Islamic Era (AD 636 – the present) (写真下中左・下中右・下右):

ヨルダン国立考古学博物館(英語版)
http://www.visitjordan.com/default.aspx?tabid=113#1
ヨルダン国立考古学博物館(英語版)
http://wiki.blogjordan.com/Jordan_Archaeological_Museum


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なかでも注目されるのは、「死海文書」である(写真)。「死海写本」とも呼ばれ、ヘブライ語聖書の断片を含む約850巻の写本の集まりである。「文書は、ヘブライ語のほかにアラム語・ギリシア語で、紀元前2世紀から紀元後1世紀の間に書かれている。この時代に書かれたものとしては事実上唯一のユダヤ教聖書の文書であり、聖書本文の内容が写本を通して劣化されることなく比較的正確に伝えられてきた歴史を証明するものとして、貴重な資料であるとみなされる」(ウィキペディア・フリー百科事典(死海文書)より)との事。

ウィキペディア・フリー百科事典(死海文書)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E6%B5%B7%E6%96%87%E6%9B%B8
ウィキペディア・フリー百科事典(死海文書 : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Dead_Sea_scrolls


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2番目に注目されるのは、漆喰と瀝石(れいせき)で出来た像である(写真)。紀元前6,500年頃、「The Pre-pottery Neolithic時代」に作られたもので、1985年にアンマンで発見された。高さは1m前後ある。

ヨルダン国立考古学博物館(英語版)
http://www.art-and-archaeology.com/jordan/amman/am01.html


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その他にもジェベル・クスールのテラコッタ製の人型石棺(写真左)やヘレニズム期の大理石によるダイダロス像(写真中)、テラコッタ製のアフロディテの小像群(写真右)など、貴重な品々が展示されており、ジックリ見ているといくら時間があっても足りない。

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このような中、私が最も興味を持って見たものはコインである。ナバテアのコインやローマ支配下デカポリスのコイン、イスラム支配下のコインなど、非常に面白い。ナバテアのコインを見ると、紀元前2世紀、ナバテアがもっとも繁栄した時代に、国王アレタス三世は銀貨と銅貨を発行するのだが、ギリシャコインと同じものが造られていたのである。しかし、アレタス三世を継いだオバダス二世は、コインのスタイルを変え、表面に王または女王の、もしくは両者の像を刻み、裏面には豊穣の角をデザインさせた(写真左)。デカポリスについては以前お話ししたので省略するが、これらの都市では当然のことながらローマコインが流通していた(写真中左・中右)。イスラム時代のコインが展示されているコーナーには、ササン朝ペルシャのディレハムやビザンチンのデナリウスなども一緒に並べられている(写真右・下左・下中・下右)。これらを見ていると、イスラム支配下になっても、コインはペルシャやビザンチンの影響が残っていたことが分かる。特に偶像を嫌うイスラムであるにもかかわらず、初期のころのコインには、キリスト教などに関する像が残されているのだ(写真)。後にアラビア文字が加えられ、その後完全にイスラムスタイルであるアラビア文字だけでコイン面がデザインされていくのである(写真)。

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約1時間で、城砦並びに博物館の見学を終えた。これで今回の旅の観光はすべて終了である。我々は昼食を取るため、バスで移動する。中心街から北西方向に15~20分ほど走ると、昼食会場であるレストラン「Tawaheen Al-Hawa」(タワーヒヌ・アル・ハワー)に到着した。「Hawa」とは「風車」の意味らしい。レストランの入り口に、風車のデザインがあった理由が分かった。中に入ると、中庭にテントを張り、その下にテーブルが並べられていた。我々はそのうちの一つに座る。何となく楽しい雰囲気のレストランである。メニューはアラブ風前菜にミックスグリル、そしてフルーツだ。今回の旅行では、何度も食べたパターンだが、それぞれお店によって味が異なるので、飽きることはない。約1時間、ツアーメンバー全員で囲む最後の食事を終え、13:42、空港に向けバスで出発した。

レストラン「Tawaheen Al-Hawa」
http://www.lonelyplanet.com/jordan/amman/restaurants/418103


・「地球の歩き方ヨルダン・シリア・レバノン 07~08」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド社刊]
・「芸術と歴史の国ヨルダン(日本語版)」(Francesca Casule著)[ BONECHI刊]


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November 06, 2009

死海での浮遊体験

シリア・ヨルダンの旅(第23回)

9日目 : 10月6日(火)

5:30 起床
6:00~7:00 朝食
7:00~7:50 部屋で休息
8:05 バスで出発
10:05~10:35 ペトラ・ツーリスト・コンプレックスで休憩
11:57~12:00 海抜ゼロメートルポイントで写真撮影
12:20 ホテル到着、ウェルカムドリンク
13:00~14:00 昼食
14:10~16:50 死海で浮遊体験後、プールで過ごす
17:00~18:25 入浴、資料整理
18:30~20:00 夕食
20:30 就寝


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本日は、午前中にペトラから死海に移動し、午後は死海のリゾートホテルでノンビリ過ごす予定だ。出発が8:00の予定だったので、5:30に起きて6:00から朝食を取る(写真左)。食後部屋で一休みし、8:00頃、バスで死海に向けて走り出した。ペトラから死海まで、約220km。その内、かなりの部分が砂漠だ。出発して間もなく、「王の道」(キングス・ハイウェイ)を走っているとの案内が、ガイドからあった(写真中左・中右)。1時間ほど走った頃、「砂漠の道」(デザート・ハイウェイ)に入る(写真右)。

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10:05、「DOLMEN」と名のお店で、トイレ休憩を取る(写真左・中左)。ご記憶のある方もおられるだろうが、マダバからペトラに行く時にも利用したお店である。30分ほど休んだ後、再び砂漠の中、バスで死海に向けて走り出した(写真中右)。1時間半ほど走ると、急に耳に違和感を覚え始めた。エレベーターに乗って急降下した時の感じだ。ガイドによると、この辺りから一気に下り道になっているとの事(写真右)。ご存知の通り、死海は海抜マイナス418mにある。ゆえに、この山間から800mほど下るのだ。半分ぐらい下ったであろうか。丁度、海抜ゼロメートルの標識が置かれたポイントがあったので、写真を撮るためバスを一時停止させた(写真下左)。海抜ゼロメートルの碑(写真下中左)と、ここから死海の水面まで、まだ390mの差があることを示す解説パネル(写真下中右)が立てられている。ここから死海まで18kmの表示もある(写真下右)。写真撮影を終え、バスは最後の下りを走りだした。

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12:14、ペトラを出て約4時間。右手に死海が見え始めた(写真左)。12:20、ホテル「モーヴェンピック・リゾート & スパ・デッド・シー」に到着(写真中左)。リゾートホテルと言うに相応しい雰囲気のホテルである(写真中右)。宴会場のように広い部屋に通され(写真右)、ここでウェルカムドリンクを飲みながら、添乗員がチェックインの手続きを終えるのを待つ。12:45、部屋に入る。シンプルで明るい感じだが、茶系統でまとめているため、非常に落ち着いた雰囲気も持つ(写真下段)。

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13:00、ホテルのレストランで昼食を頂く(写真上段)。1時間で食事を終え、いよいよ死海での浮遊体験である。部屋で水着に着替え、ビーチまで歩いて行く。ホテルの庭はかなり広く、なかなかビーチにたどり着かない(写真下左・下中左・下中右)。プールを越え、歩くこと約10分。ようやくビーチに到着(写真下右)。

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子供の頃に体が沈まない海があると知り、是非一度訪れてみたいと思っていたのだが、今回やっと実現した。ビーチサンダルを履いたまま海に入り、いきなり浮かぼうとすると、上手くいかない。それを見かねたのか、浜辺にいたライフガードの方が上手な浮かび方を教えてくれた。まず、中腰になって両手を横に広げる。そしてそのまま仰向けになり、両足を上げる。すると自然に体が浮くのである。一度コツを覚えれば、後は簡単だ。プカプカと浮かびながら、波まかせに流れていく。ポートを漕ぐ要領で、腕で水をかいて岸に戻る。また流される。何度も繰り返して楽しんだ。事前に、「浮かぶのは簡単でもバランスを取るのが難しい」と聞かされていたのだが、そのようなことはない。カナヅチであわて者の方なら分からないが、そうでなければ全く心配はない。また、「海の底はトゲトゲしており危険」とも言われていたが、こちらも違っていた。一般のビーチであれば、事前に聞かされていたような危険もあるのだろうが、宿泊しているリゾートホテルのプライベートビーチだったので、清掃も行きとどいており、またライフガードの方も数人いたので、予想とは異なり、全く安心できる環境で浮遊体験ができた。

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楽しいのは浮遊体験だけではない。ビーチに死海のミネラル分を含んだ泥が壺に入って置かれているので、これらを自由に体に塗ることもできるのだ(写真)。約10分で肌がスベスベになるという。しばらくすると、同じツアーの方達数人がビーチにやって来た。私が泥を塗っていると、ツアーメンバーの一人が、背中に塗るのを手伝ってくれると共に、何やら文字を書いている様子。写真を撮ってもらっていたので、後から分かったのだが、「アホ」と書かれていた。「バカ」と書かれると腹が立つが、「アホ」と書かれると嬉しくなるのは関西人だからであろうか。壺の周りには泥を塗るために集まった男女で大混雑である。面白いと思ったのは、アバヤを着た女性が、空のペットボトルに泥を詰め込んでいた事だ。イスラムの戒律で肌を出せないため、部屋で泥を塗るのだろうか。

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ところでこの死海だが、どのようにして出来たのであろうか。一説によると、死海から流れ出る川がないうえ、比較的高温で乾燥した気候であることから、年間を通じて大量の水が蒸発する一方、周囲の土壌に元来含まれていた塩分が雨によって流され、海抜マイナス418mにある湖で凝縮する形となり、塩湖が形成されるのだと言う。この結果、一般の海水の塩分濃度が3%程度であるのに対し、この死海の塩分は10倍の30%程もあるのだ。この塩分濃度のおかげで浮力が大きくなり、人間の体も浮くのである。事前の注意として、死海の海水を目に入れないように、また飲まないようにと言われていたのだが、浮遊しながらおしゃべりをしていると、少し海水が口に入ってしまった。この時の感触は、塩辛いという感じではなく、苦いという感じでもない。これまでに味わったことがないものだったので、何とも表現できないのだが、とにかく奇妙であまり心地よくないものが残った。死海に入っていた一人の女性が、浮遊に失敗し一回転。顔を海水に浸けてしまい、目に塩水が入った様子。ライフガードの人があわてて飛んできて、彼女の眼をペットボトルに入れた水で洗い流していた(写真)。海水を飲んだのか、目に入ったのか、どちらか分からないが、泣き叫ぶ幼い子供もいた。浮遊体験を楽しめる死海だが、海水にはご用心である。

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1時間半ほど海で浮遊体験を楽しんだ後、ホテルのプールで1時間ほど過ごした(写真)。砂地のプールと段々と深くなるプールの2種類がある。日光欲している人の方が多く、泳いでいる人の数は少ない。しかし一人だけ熱心にプールに潜ったり、泳いだりしている少女がいた。シンクロの練習をしていたのだ。お母さんらしき女性が指導している。少女は黙々と練習に励んでいた。明日のオリンピック選手を目指しているのだろうか。

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17:00前、日が沈み始めたので、部屋に戻り、入浴と資料整理を済ませる。18:30からホテルのレストランで夕食を頂き(写真)、20:00頃、部屋に戻る。久しぶりに、体を動かして良く遊んだからであろうか。睡魔が襲ってきたので、20:30頃ベッドに入った。

ウィキペディア・フリー百科事典(死海)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E6%B5%B7
ウィキペディア・フリー百科事典(死海 : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Dead_Sea
モーベンピック・リゾート&スパ・デッド・シー
http://www.movenpick-deadsea.com

(参考文献)
・「地球の歩き方ヨルダン・シリア・レバノン 07~08」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド社刊]
・「芸術と歴史の国ヨルダン(日本語版)」(Francesca Casule著)[ BONECHI刊]

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November 05, 2009

世界遺産・ペトラ遺跡(その4)

シリア・ヨルダンの旅(第24回)

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昼食を終え、いよいよ「エド・ディル」に向かって出発である。ここまでは平地を歩いてきたが、ここからは昇りの山道(写真)。しかも影が少ないので、強い日差しを直接浴びてしまうため、疲労も激しくなることが予想される。昇りの細い道を、一歩一歩踏みしめながら進む。降りてくる人もいれば、ロバに乗って登る人達もいる。狭い道なので、お互いに譲り合いながら歩く。ツアーの中では、私が一番若かったので、誰よりも早く歩けると思っていたのだが、私よりもはるかに早く上って行く女性がいた。彼女は毎日、大型犬であるシェパードを散歩させているのだという。ナルホド、毎日歩いている人は強い、と感じざるを得なかった。

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足場の悪い急な坂道に暑さが加わり、私は少々疲れはじめていた。途中、「ライオンのトリクリニウム」と呼ばれる墳墓があるはずだったのだが、すっかり見落としてしまった。同じ小道をさらに先に進む。レストランを出てから約40分、ようやく道が広い高台に出る。すると、その右側に巨大なファサードが見えた。これが「エド・ディル」である(写真左)。ディルとは「修道院」の意味で、かつてこの場所に修道士たちが住んでいたことに由来する。ナバテア王国末期、紀元1世紀末頃のラベル二世の時代に、当時神格化され崇拝されていたオボダス王に捧げられた神殿だ。高さ40m、幅47mと、エル・カズネに比べて幅広の比率になっていることから、幾分重苦しく感じられるものの、エル・カズネの様式と構造を簡素に再現している。ファサード下部では、イオニア式柱頭を持つ8本の円柱が少し後ろに下がった中央入口を囲み、両脇の柱間にはアーチ型ペディメントを乗せた空の壁ろうがある(写真右上)。ファサード上部では、トリグリフとメトープを施したフリーズで飾られたトロス(周柱円形堂)を挟んで両側にパビリオンがあり、その上にも同じフリーズと半分に切られたペディメントが乗っている(写真右中)。そしてトロスの上には、エル・カズネ同様、壺が載せられている(写真右下)。

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ここが最終ポイントかと思っていたのだが、この先にまだビューポイントがあるとの事だったので、3名を残し、最後の力を振り絞って坂を登ることにした。振り返ると、エド・ディルが少し小さく見える(写真左)。途中、岩の木陰でノンビリ過ごす山羊たちに出会う(写真右上)。4~500mで到着。下を覗くと、吸い込まれるような絶壁である(写真右中)。他の人達も、恐る恐る覗き込んでいた(写真右下)。

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ビューポイントでしばらく眺めを楽しんだ後、14:00頃、来た道を引き返す事にした。昇り道を行く時、体力的にはキツイものの、エル・ディドを見ると言う楽しみがあったので、元気よく歩くことができたが、帰り道は疲れが溜まっているうえ、同じ所を通るだけだと思うと、何となく気が重かった。しかし下り道から見る遺跡の眺め(写真左・中左・中右)が素晴らしかったので、すっかり元気を取り戻した。レストランの前辺りに戻ってくると、観光用のラクダが数多く待機していた。皆さん利用しないのだろうか。ラクダ引きの男の人達が、しきりに勧誘してくる(写真右)。

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我々はそのまま進み、「カスール・アル・ビント」(写真左)→「凱旋門」(写真中左)→「柱廊の道」(写真中右)→「アーンの墓」(写真右)まで歩いた。私とあと2名は、疲れていたので真っ直ぐホテルに向かった。残りの人達は、「アーンの墓」や「シルクの墓」の前まで行くため、再び岩山を昇るとの事であった。

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我々3人は、「ローマ円形劇場」(写真右上)の向かいにあるカフェで一休みし、その後「エル・カズネ」まで戻った。14:30過ぎぐらいだったのだが、朝方見たエル・カズネに比べて、ローズ色が濃くなっているように思えた(写真右中・右下)。光のあたり方によって、色々な顔を見せてくれると聞いていたが、これがそうなのか。シークに入り振り返ると、ローズ色のエル・カズネが見える(写真左)。朝方、狭いシークの終わりに現れたエル・カズネを見た瞬間の感動は忘れられない。

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再びシークを歩くが、朝方とは異なり、太陽の光が差し込んでおり、結構暑い(写真左)。シークを抜け、「オベリスクの墓」(写真中左)や「ジン・ブロック」(写真中右)の前を通り、ようやくペトラ遺跡の出入り口が見えた(写真右)。ここからホテルまでは近い。ビューポイントを離れて約1時間半、15:45にホテルに到着した。

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夕食は18:30からだったので、昨日に続き、私はホテルのプールでノンビリ過ごす事にした。年配の男女数人が元気に泳いでいる中、私もプールに入る。炎天下を歩いたためであろう。体が熱くなっていたので、熱が奪われてスッキリするように感じられた。泳いだり日光欲をしたりして、プールで1時間半ほど楽しむ。17:20、部屋に戻って入浴を済ませ、18:30、ホテルのレストランに向かう。本日もバイキングだ(写真)。1時間ほどで夕食を終え、いつものように部屋で資料整理を済ませ、21:15頃ベッドに入った。

(参考文献)
・「地球の歩き方ヨルダン・シリア・レバノン 07~08」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド社刊]
・「芸術と歴史ペトラ(日本語版)」(Dominique Tarrier著)[BONECHI刊]
・「ペトラのすべて(日本語版)」(ムフセン・ウラマー著)[アル・ウラマー書店刊]
・「芸術と歴史の国ヨルダン(日本語版)」(Francesca Casule著)[ BONECHI刊]

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November 04, 2009

世界遺産・ペトラ遺跡(その3)

シリア・ヨルダンの旅(第23回)

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9:45、エル・カズネを離れると、再びシークが続く(写真)。2~300mほど歩くと、ファサード通りに出る。このペトラ遺跡の最も奥にあるエド・ディルまで行くとするならば、まだ三分の一の地点に過ぎない。見たいポイントは数多くあるが、体力と時間を勘案すると、メイン通りに面する遺跡に絞る必要があった。以下観光した場所を、順にご紹介する。

① 「17基の墓」
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シークの出口辺りから、数多くの墓が見られる。ギリシャ神殿のファサードを模した1つの入り口、二重のアーキトレーブ、最上部の半狭間が基本的な特徴である。中でも左手の絶壁に並ぶ「17の墓」は特筆に値する(写真上段・下左・下中左)。岩を深く刳り抜いた岩窟墓で、中には14基の床石式の墓と、ホールの後ろ側の壁面に3基の墓がある。続いて墳墓群のある岩塊が現れ、数え切れないほどのアッシリア風の墓が幾重にも重なっている(写真下中右・下右)。

②  「ローマ円形劇場」
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紀元後1世紀頃に造られたもので、6,000人近くの観客を収容できたという33段の階段席が印象的である(写真左・右上)。赤みがかった灰色の特に砕けやすい砂岩を彫って造られているため、周囲の丘から流れ込む雨水によって、常に激しく浸食されてきたという(写真右中)。両脇の通路は今も完全に残っているが(写真右下)、古代のダムが消滅したため辺り一帯に枯れ谷の水が氾濫し、舞台正面の建物は流されて、現在は土台だけとなってしまった。最近修復が行われたが、いくつかの円柱を立て直すだけに留まったため、かつての外観を取り戻すまでには至らなかった。長い間、劇場はエル・カズネと並んでローマ時代の建築とされてきたが、発掘作業が行われた結果、建築年代が見直され、これまで考えられていたよりも古く、紀元後1世紀初期であることが明らかになった。

③ 「アーンの墓(壺の墓)」
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ローマ円形劇場の北東に、紀元後1~2世紀頃に造られた岩窟墓がある(写真右上)。その中の並外れた高さと奥行きを持つ墓、これが「アーンの墓」だ(写真左)。マリコス二世のために、紀元後70年頃に造られた墓で、ファサードはかなり浸食が進んでいるがアッティカ様式の横石を二重に戴いた4本の円柱からなり、その上部の三角形のペデイメントにはまさにアーンのフリーズが見られる。アーンの墓のすぐ左手には、「シルクの墓」がある(写真右中)。風化による浸食のため、ファサードにはかろうじて見分けのつく程度に残った4本の半円柱が見える。砂岩の壁に走る青、白、黄色、赤などの入り混じった天然の縞状の色彩がマーブル模様の絹を思い起こさせるところから、「シルクの墓」の名が付けられたのではないかと言われている。さらにその隣には「コリント風の墓」がある(写真右下)。ファサードの構造はエル・カズネに非常に似ているが、保存状態が悪く、往時の面栄はない。

④ 「柱廊の道」
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道幅は6m、道の左側には円柱が何本か立て直されており(写真左・中左)、柱廊の一部には、ローマ時代に施されたであろう舗装が残されている(写真中右)。両側には、ビザンチン時代に修理された商店や住居が並んでいたようだが(写真右)、紀元551年の大地震によりほとんどの建造物が倒壊したとの事。

⑤ 「南神殿」
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柱廊の道の端に近い左側に、神殿入り口の堂々たる階段の跡が残っている(写真左)。これを上って行くと第一の小広場があり、次いでもう一つの広場の突き当りに大きな神殿がそびえていた。現在発掘中のこの神殿はナバタイ人が建設したもので、南神殿と呼ばれている(写真中左)。外郭の高さは28m、神殿の前には階段があり、奥行き8m、4本の円柱が並ぶプロナオス(神殿前の柱廊)につながっていた(写真中右)。神像安置室の入口は2本の円柱で示され、長さ28m、幅18mの室内は三方に合計22本の円柱が並んでいたという(写真右)。

⑥ 「凱旋門」
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柱廊の終わり、北の端にあるのが凱旋門だ(写真左)。この後見る「カスール・アル・ビント」と並んで保存状態の良
い石積み構造。門には開口部が3つあり、ペトラで最も重要なテメノス(神域)へ通じていた(写真右上)。道路に面したファサードは、4本の円柱で飾られ、その柱頭には動物神の像が施されていた。中央の開口部には植物の渦形装飾を施した柱頭が見えるが、他の2つの開口部はナバテア様式である。門全体の装飾は化粧漆喰の小さなパネルから成り、それぞれのパネルには神々の胸像、幾何学模様、それにヘレニズム様式の影響を受けた様々な要素が彫られている(写真右中・右下)。

⑦ 「翼のあるライオンの神殿」(写真 : 「芸術と歴史ペトラ(日本語版)」より)
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先ほど見た、「南神殿」の向かい側に建っていた。伝説的な獅子の像が柱頭に施されていたことから、「翼のあるライオンの神殿」呼ばれている。地震により倒壊した状態で残されているため、円柱が横たわっているだけだが、「獅子の像」についてはパルミラ博物館に展示されている。翼のあるライオンが翼のあるエロス神を取り囲む構図だが、右側のライオン像は現在残っていない。

⑧ 「カスール・アル・ビント」(写真)
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「カスル・アルフィラウ」または「ファラオの娘の宮殿」とも呼ばれている。ドゥシャラ神に捧げられた神殿、テメノス(神聖なる場所)で、発掘の過程で様々な遺物が発見された。現存する中ではペトラの唯一のナバテア時代の建物で、しかも岩壁に造ったものではなく、唯一の組石による建物である。オボダス三世期に建てられ、アレタス四世の時代に完成されたものと考えられている。円柱の並ぶ柱廊の跡、内部の広い空間に通じるアーチなどが奇跡的に残っており、また厚みのある側面の壁には屋上のテラスに通じる階段の跡があることから、特別の宗教儀式に用いられた場所ではないかと言われている。現在修復工事中のため、金網が張られており、中まで見ることができなかったことは残念である。

ウィキペディア・フリー百科事典(ドゥシャラ : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Dushara


⑨ 「パルミラ博物館」
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レストハウスの横に建つ博物館(写真左)。「翼のあるライオンの神殿」でご紹介した「獅子の像」(写真中左 : 「芸術と歴史ペトラ(日本語版)」より)を始め、スフィンクス像(写真中右 : 「ペトラのすべて(日本語版)」より)やナバテア磁器(写真右 : 前掲書より)など、遺跡から発掘された美術品や日用品などが展示されている。その他、幾種類かのコインも見ることができる。

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以上、主だった観光ポイントをご紹介したが、それ以外に面白いと思った場所を2か所ご紹介する。第一は、ガイド曰く、「世界一美しいトイレ」である(写真上段)。洞穴式のトイレのため、天井や壁に岩の縞模様が現れているのだ。ピンク絵の具の上に、何色もの色を垂らしたような不思議な模様。確かに美しい。第二は、絵壺を造るお店である(写真下段)。パルミラの砂を使い、ガラス瓶の中に絵を描いて行くのである。実に簡単そうに作るのだが、とても真似はできない。行きに注文しておけば、戻って来る時までには出来ている。皆さん、自分の名前入りのものを注文していた。オーダーは、小さいもので1つ5~10米ドルぐらいだ。

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11:30、博物館の隣にあるレストランで昼食を取る(写真左・中左・中右)。こちらもバイキング形式だが、レストランの外で調理しているコロッケ(写真右 : 豆やパセリが入っており、中は緑色)やフライ、グリルなども熱アツで食べ放題だ。約1時間で食事を終え、後は自由時間。ペトラ遺跡の最も奥にある「エド・ディル」に行く人と、ホテルに戻る人に分かれたのだが、13名中10名「エド・ディル」に向かった。

(参考文献)
・「地球の歩き方ヨルダン・シリア・レバノン 07~08」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド社刊]
・「芸術と歴史ペトラ(日本語版)」(Dominique Tarrier著)[BONECHI刊]
・「ペトラのすべて(日本語版)」(ムフセン・ウラマー著)[アル・ウラマー書店刊]
・「芸術と歴史の国ヨルダン(日本語版)」(Francesca Casule著)[ BONECHI刊]


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November 03, 2009

世界遺産・ペトラ遺跡(その2)

シリア・ヨルダンの旅(第22回)

いよいよペトラ遺跡で最も有名な「エル・カズネ」の観光である。エル・カズネについてはご存知の方も多いと思うが、「芸術と歴史ペトラ(日本語版)」を引用しながら詳しくご紹介したいと思う。

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エル・カズネ(写真左)は、「宝物殿」という意味を持つ。このモニュメントの頂上を飾る壺(写真右)に由来する名で、19世紀にこの周辺に定住していた人達の間では、そこに「出エジプト記」のファラオの宝物が隠されていると信じられていた。実際、秘密の宝物殿説は長い間外国人の立ち入りを禁じる良い口実となっていた。この建造物については多くの議論が戦わされてきた。最初に調査した考古学者は、様々な建築様式がミックスされていることを指摘し、ナバタイ人がこのような建造物を作り出す事ができるとは思えなかったらしく、ローマ時代、正確に言うと2世紀の建築であるという結論を出した。最近の研究では、エジプトのアレキサンドリア建築との類似が明らかにされ、ヘレニズム建築の影響を間違いなく受けていることが確認された。朝の光を浴びてバラ色の岩肌が輝くエル・カズネは、巨大な断崖を彫って造られたもので、宝石箱に収めるように岩壁で囲まれている。調和のとれた美しいファサードは高さ40m、幅約28mで2層式に分かれ、コリント式の豪華な装飾が全面に施されている。

ウィキペディア・フリー百科事典(エル・ハズネ : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Al_Khazneh
ウィキペディア・フリー百科事典(ファサード)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%89


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ファサード下層の上部にはアーキトレーブがあり、その上のペディメントとともに、入口より前方に建てられた中央の4本の円柱によって支えられている(写真左)。初めてペトラの探検が行われた頃には、4本の円柱のうち1本は一部しか残っていなかった。1960年に文化省史跡局が実施した修復作業のおかげで、現在見られる調和のとれたファサードが甦った。ファサード両脇の柱間には、馬に連れて立つ人物像が表されているが(写真右)、この2人はギリシャ神話のディオスクロイ、つまりゼウスとレダの間に生まれた双子カストールとポルクスと思われる。

ウィキペディア・フリー百科事典(アーキトレーブ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%96
ウィキペディア・フリー百科事典(ペディメント )
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88
ウィキペディア・フリー百科事典(ディオスクーロイ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%82%A4


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ファサード上層の中央には、トロス(周柱円形堂)と呼ばれる円形の建物が置かれ、三方を列柱で囲まれている(写真左)。その両脇にある二柱式のパビリオンには、角が強調された半分のペディメントが乗っている(写真中左・中右)。列柱の柱間には浅浮彫で「勝利」の像が表され、両脇のパビリオンにはアマゾン族の女性像が刻まれている(写真右・下左)。トロスの中央に見えるのはイシス神で、「幸運の女神」の典型的な持ち物である豊饒の角と杯を左右の手に携えている(写真下右)。この女神は紀元前2世紀のアレキサンドリアの壺に描かれたトトメス3世の妻ベレニス妃に似ているという見解もある。

ウィキペディア・フリー百科事典(イシス)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%82%B9
ウィキペディア・フリー百科事典(トトメス3世)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%88%E3%83%A1%E3%82%B93%E4%B8%96


ペディメント最上部のワシ、下層部アーキトレーブ両端のスフィンクス、フリーズの中で向き合う怪獣グリフォンなど、装飾には数多くの動物像も含まれている。その他の装飾要素は植物模様と思われ、特に下層部フリーズの葉、柱頭の渦巻模様はナバタイ人彫刻家が考案した珍しいもので、アレキサンドリアの秀逸な金細工品からヒントを受けたらしい繊細な仕上がりとなっている。

ウィキペディア・フリー百科事典(グリフォン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3


ティンパムに「ブドウの房を持つ女性像」が表されたペディメントの最上部、つまりイシス女神の像が施されたトロスの真下には、ハトル女神の2本の角と麦穂に挟まれた日輪が見える。この装飾要素と中央パビリオンに堂々と立つイシス像から、エル・カズネはペトラの各所に像が残されているエジプトの最高神を奉った神殿と考えられていた。しかし実際には、このモニュメントを美しく飾っている浅浮彫は、頂上の壺からディオスクロイ像まで、すべての古代伝統によれば死者の魂を導く役割を持ち、明らかに葬祭の象徴体系に属していることから、エル・カズネは神殿ではなく、壮大な墓廟であると考えられるようになった。しかし、誰の墓であるのかを特定するのは難しい。だか、このように壮大な墓に葬られたのはナバタイ人の偉大な王の一人に違いない。モニュメントの様式的な特徴から判断して、おそらくアルタス3世(紀元前84~56年)ではないかと考えられている。


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玄関広間の中央にある10段程の階段を上ると、エル・カズネの内部を見ることができる(写真左)。かつては中に入ることができたようだが、現在は立ち入ることはできない。部屋の壁はシークの断崖と同じく、カラフルな岩肌を見せている(写真中左)。非常に質素な感じの内部だか、かつては化粧漆喰で作られた外部と同じ装飾要素を飾るための場所だったと考えられている。玄関広間の両側には、繊細な装飾が施された2つの入り口があり、どちらの入り口の上にも明り取りの丸窓がある(写真中右)。左側の部屋の方が大きく、正方形に近い形をしているが、何に使われていたのかはハッキリ分かっていないのだが、葬儀の宴会用の部屋だったのではないかと考えられている。その前には、ヨルダンの兵士が立っていた(写真右)。彼らは砂漠のパトロール隊に属するらしい。

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ところで、エル・カズネ全体を見ると、正面に並ぶ円柱は12本あり(写真左)、ファサード上層のアーキトレーブに花の装飾が31個、そしてファサード下層のアーキトレーブにワイングラスの装飾が7つある(写真右)。ガイドの話によると、これは12か月すなわち1年、31日すなわち1カ月、7日すなわち1週間を表しているのだという。各部分に色々な意味が含まれていることを知ると、ますます面白い。

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我々はエル・カズネで4~50分過ごしたのだが、その間次々と観光客が訪れ、かなり混雑し始めた(写真左)。広場では団体客が集合写真を撮ったり(写真中)、新婚さんがラクダに乗っている写真を撮ったりして楽しんでいる。シークを歩いて疲れたのか、休憩所で座り込む人たちもいる(写真右)。そのような中をブラブラしていると、日本人の若者男性と出会った。彼も仕事を辞めての一人旅との事。パルミラで会った若者と同じである。ただ彼の場合とは異なるのは、他の一人旅の若者と旅先で知り合い、今は数人で旅している点だ。昔から一人旅をする人たちの話は聞いていたが、このような人たちと出会ったのは今回が初めてである。このような場所だからなのか、それとも現在の流行りなのか。9:45、我々ツアーグループはエル・カズネを離れ、さらにペトラ遺跡の奥に進み始めた。

(参考文献)
・「地球の歩き方ヨルダン・シリア・レバノン 07~08」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド社刊]
・「芸術と歴史ペトラ(日本語版)」(Dominique Tarrier著)[BONECHI刊]
・「ペトラのすべて(日本語版)」(ムフセン・ウラマー著)[アル・ウラマー書店刊]
・「芸術と歴史の国ヨルダン(日本語版)」(Francesca Casule著)[ BONECHI刊]

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November 02, 2009

世界遺産・ペトラ遺跡(その1)

シリア・ヨルダンの旅(第21回)

8日目 : 10月5日(月)

5:50 起床
6:15~6:25 ホテルの周りで写真撮影
6:25~7:05 朝食
8:15 ホテルから徒歩でペトラ遺跡へ
9:00~9:44 シークを通りエル・カズネ宝物殿へ
10:10~10:32 トイレ休憩
11:05~11:25 博物館
11:30~12:20 昼食
14:00頃 エド・ディルと展望台
14:00頃~15:45 来た道を戻りホテルへ
15:55~17:15 プール
17:20~18:20 入浴、休息
18:30~19:40 夕食
19:45~21:15 資料整理
21:20 就寝


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本日の予定は、丸一日ペトラ遺跡の観光である。出発時間が8:15といつもより早かったので、5:50に目覚め、6:00にレストランに向かった。しかし、レストランが開くのは6:30からだったため、仕方がなく、ホテル内を散策するなどして時間を潰した。まだ夜が明けておらず、月も出ていたので、月を中心に写真を撮る。だんだん夜が明けて行くので、岩山の表情が次々に代わるのが面白い(写真左・中左・中右)。また、我々の部屋があるのはホテルの本館だが、より岩山に近い場所に別棟もあったので、そちらも訪ねて見た(写真右・下左)。6:30にレストランに入る。朝食もバイキング形式。シリアルやパン、野菜サラダやジュースなどを頂く(写真下中左・下中右・下右)。30分ほどで食事を終え、部屋で一休みする。

ところで、ペトラ遺跡観光の話に入る前に、ペトラについて簡単に触れておく。このペトラ遺跡は、1812年、英国系スイス人の探検家ジョン・ルイス・ブルクハルトによって、初めてヨーロッパに伝えられた。元々この地にはエドム人が居住していたのだが、紀元前6世紀頃からナバテア人が住むようになる。彼らはナバテア王国をつくり、アラビア付近の交易の要所として栄えた。紀元前1世紀から紀元後1世紀にかけてローマに属国化されていくと、主要な通商路が変更されるなど色々な困難に直面するが、かろうじて独立は保たれる。この頃、ローマ人の手により、凱旋門や列柱街道などローマ式の街がつくられた。エル・カズネが造られたのもこの頃である。ビザンチン時代には司教座が置かれ、教会も建てられたという。しかし、この時代に度重なる地震に襲われ、街の99%が破壊されてしまい、2度と街が再建されることは無かった。1985年に世界遺産に指定されるまでは、ナバテア人がペトラのほら穴に住んでいたが、世界遺産に指定されたのを機に、彼らは新しいペトラの街に移住させられた。ペトラ遺跡に入ると、観光客相手に馬やラクダを引いている人を見かけるが、彼らはかつてのここの住人で、唯一ここで商売することが許されているのだという。露天商人も同じだ。

ウィキペディア・フリー百科事典(ペトラ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%88%E3%83%A9
ウィキペディア・フリー百科事典(ペトラ : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Petra
ウィキペディア・フリー百科事典(ナバテア王国)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%90%E3%83%86%E3%82%A2%E4%BA%BA


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8:15、ロビーに集合し、ここから歩いてペトラ遺跡に向かう。ホテルは、遺跡の入り口まで2~300mと非常に立地が良い。2~3分で到着。数多くの土産物店が並び、観光客で賑わっている(写真左・中左)。ガイドが入場券を買いに行っている間、ビジターセンター(写真中右)でペトラ遺跡の案内書を貰う。入場料金を見ると、1日券が21JD。2日券、3日券と言うのも売られており、それぞれが26JD、31JDと表示されていた(写真右 : チケットオフィスに出来る行列)。遺跡は広いので、3日かけて見学する観光客もいるのだろう。ちなみに15歳以下は無料だ。

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入場ゲート(写真左)を通ると、観光用の馬がいる。希望者はシークまで馬に乗ることができたのだが(写真中 : ツアー料金に含まれている)、ゆっくり写真を撮りたかったので、私は歩くことにした(写真右)。

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150~200mほど歩くと、右手に3つの巨大な塔型の岩の塊が見えた。これが「ジン・ブロック」(精霊の岩 : 写真)である。この岩の塊が何であったかということについて、貯水槽であるとの説もあったが、塔の墓であることが判明した。紀元前1世紀頃に造られたもので、塔型の岩のひとつには、ピラミッド状の岩の塊が載せられている。墓の内部には埋葬室があるという。このような墓はいくつも見られ、これらは古代オリエント全域に広く普及していた塔墓と繋がりを持つようだ。その中で最も有名なのが、シリアのパルミラで見た塔墓である。

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「ジン・ブロック」の向かい側には、4本のオベリスクを持つ岩窟がある。「オベリスクの墓」だ(写真)。ペトラ独特の岩窟建造物の一つで、マリコス2世(A.D.40~71年)の時代に建てられたと言われている。岩壁を削って作られたファサードは、他の岩窟墓には見られないヘレニズムやオリエント、特にエジプト風の装飾が施されている。全体は2つの部分からなり、実はこの上の部分が「オベリスクの墓」で、下の部分は「トリクリニウムの墓」と呼ばれ、「オベリスクの墓」とは全く関係が無い。「トリクリニウムの墓」の内部には広い部屋があり、ここに岩を掘って作られた長椅子が3脚置かれ、古代ローマの食堂に大変良く似ているという。このため「三方に長椅子がある寝ころんで食べられる食卓」を意味する「トリクリニウム」という名前が付けられたとの事。

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入場ゲートから300~400mほど歩くと、シークの入り口である(写真左)。馬に乗っている人たちも、ここで降りなければならない。シークは、切り立った断崖に挟まれた細く狭い道のことである。もともとは地殻変動により出来た山の裂け目で、全長は2kmに及ぶ。ムーサ川の河床に沿っているのだが、ナバテア人はペトラの町の入り口としていつでも利用できるように、少し北にある長さ88m、高さ6mのトンネル方向に流れを変え、かつそれでも起きる突然の洪水に備え、シークの入り口に堰を設けたのである(写真中左)。我々は階段を下りて、シークに足を踏み入れた(写真中右)。最初に目についたのは、町に水を引き込むためナバテア人によって設けられた水道である(写真右・下左)。我々はさらにシークを進む。道幅は4mぐらい、断崖の高さは60~70mほどあるのだろうか(写真下中左)。不思議な空間を歩く。左手の壁には、ずっと水道の跡が続いている。入口から250~300mほどの所に、石を組み合わせて造られた壁があった。これは古代ローマ時代に造られたダムである(写真下中右)。さらに進むと、道幅は3mぐらいに狭まり、断崖は100m近くの高さになった。見上げると、青空が見える。日差しはかなり強そうだが、ここまで差し込まないので、歩いていても暑さを感じることはない。むしろ心地よい涼しさで、歩くのには丁度良い(写真下右)。

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シークの途中には、石畳で舗装された通路部分(写真左)や、大小の奉納用の壁がん(写真中左)などが見られる。シークの入り口から5~600m辺りに来ると、神殿の形が彫られた岩が置かれている場所に出た。これは「アル・ウザ女神」を表した霊石(写真中右)で、住民はペトラの町を出る時には必ず拝んで通ったという。その左手の断崖を見ると、階段と穴が見える(写真右)。神官の住まいだ。

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この先の道幅はますます狭くなり、3m程しかない。少し歩くと、壁に何かが彫られているのが見えた。シリアから来た祭司が、地元の神を祀るために彫ったものらしい(写真左)。続いて動物の足のような形のものが残されている。ラクダを引く男の像だ(写真中左)。言われて見るとそのような感じだが、ウッカリしていると見過ごしてしまいそうだ。シークはまだまだ続く。しばらくすると道幅は4~5mに広がる。見上げると、断崖の色が先程とは少し違うのに気が付いた。ピンク色が濃くなっているのだ(写真中右)。岩肌は縞模様で、一部にはカラフルなものも見られる。青・赤・黄色に緑。青はコバルト、赤は鉄、黄色は硫黄で、緑は銅との事(写真右)。

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さらに進むと、先ほども見た古代ローマ時代に造られたダムの壁である(写真右上)。ここでは、ダムから水道が引かれている様子が良く分かる(写真右中)。シークに入ってから30分も歩いたであろうか。シークの隙間から、ピンク色の岩肌を持つ建造物が見えた(写真右下)。そう、これが映画「インディー・ジョーンズ/最後の聖戦」の舞台になり、世界の人々に知られている世界遺産「エル・カズネ」(宝物殿 : 写真左)である。巨大な断崖を彫って造られたこの宝物殿、高さ約40m、幅は約28mで、全面にヘレニズム時代の影響を受けた装飾が施されている。暗いシークを抜ける直前、目の前に現れたローズ色の「エル・カズネ」を見た瞬間の感動は忘れられない。

ウィキペディア・フリー百科事典(エル・ハズネ : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Al_Khazneh
ウィキペディア・フリー百科事典(インディ・ジョーンズ/最後の聖戦)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%BA/%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E8%81%96%E6%88%A6
ウィキペディア・フリー百科事典(インディ・ジョーンズ/最後の聖戦 : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Indiana_Jones_and_the_Last_Crusade


・「地球の歩き方ヨルダン・シリア・レバノン 07~08」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド社刊]
・「芸術と歴史ペトラ(日本語版)」(Dominique Tarrier著)[BONECHI刊]
・「ペトラのすべて(日本語版)」(ムフセン・ウラマー著)[アル・ウラマー書店刊]
・「芸術と歴史の国ヨルダン(日本語版)」(Francesca Casule著)[ BONECHI刊]

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November 01, 2009

マダバの聖ジョージ教会

シリア・ヨルダンの旅(第20回)

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昼食会場であった「マダバ・イン・ホテル」から5~60mの所に、「聖ジョージ(ゲオルギウス)教会」がある。街の中心となる道路を右手に見ながら、2~3分で到着(写真)。この教会は、ギリシャ正教の教会で、6世紀、ユステイニアヌス帝の時代に建てられた。「パレスチナの絵図」のモザイク床で知られている。

ウィキペディア・フリー百科事典(マダバ)
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ウィキペディア・フリー百科事典(ゲオルギウス)
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教会内に入り、正面に向かって右側中央辺りに、人だかりが出来ている(写真左)。ここに「パレスチナの絵図」のモザイクがあるのだ(写真右)。朝ホテルで、また先ほど訪れたモザイク工房でレプリカを見たが、今度は本物である。縦6m、横16mの大きさがあり、8世紀の地震により一部失われているが、残存する部分だけでも自由文に楽しめる。少し詳しく見てみよう。

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モザイク画の中心に大きく描かれているのが死海で、船が浮かんでいる(写真右上)。死海から、左手に細長く続いているのがヨルダン川(写真左上)。死海に入った魚が、塩辛かったためあわてて引き返している様子が描かれているという。死海に浮かぶ船の下方に描かれているのはエルサレムの街で(写真左下)、街の中央、左から右に一直線に伸びるのが、メイン通りである列柱道路だ。この道路の左端にあるのは列柱広場で、反対側の右端はゲートである。その周囲には、住宅街や教会等が並び、城壁には17の塔が立っている。エルサレムの街の右手にはベツレヘム(写真右中)が、また左手にはパレスチナの古都エリコ(写真右下)が見える。

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モザイク床周りの混雑から抜け出し、次はイコノスタシスを見ることにした(写真左)。「ブルガリア・ルーマニアの旅」の時にお話ししたが、正教教会のイコノスタシスの中央上には、原則「最後の晩餐」の画が掲げられている。まず、この教会の「最後の晩餐」の画から見ることにした。イコノスタシスの前に行くと、お約束の通り「最後の晩餐」の画が掲げられていた(写真中左)。地域の特色が出た画が描かれていることもあるのだが、この教会のものは、非常にノーマルな感じのものであった。その後、一通り教会内部を見て廻る(写真中右・右)。小さな教会のため、30分ほどで見学を終え、教会の裏を歩いてバスに戻った(写真下左)。途中、オーソドツクススクール(写真下中左)や聖ジョージ幼稚園(写真下中右)などがある。この場所からは、昼食会場であった「マダバ・イン・ホテル」(写真下右)も見える。

ウィキペディア・フリー百科事典(正教会)
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ウィキペディア・フリー百科事典(イコノスタシス)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%8E%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B7%E3%82%B9
平成21年6月8日当ブログ「ソフィア市街観光(その1 : アレクサンドル・ネフスキー大聖堂)」 http://coinkun.cocolog-nifty.com/coin/2009/06/1-ac3f.html


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本日の観光はこれで終了。後は「ペトラ」に向けて走るだけだ。ペトラは、マダバから南に240kmほど離れている。砂漠の中を1時間ほど走って(写真左)、「DOLMEN」という土産物店で30分ほど休憩をとり(写真中左)、ペトラ山の全景を撮るため途中で数分バスを降りたが(写真中右)、それ以外はただ走るだけ。砂砂漠、礫砂漠と、すでに見慣れた単調な景色が続くだけなのだが、それでも窓の外を眺めていると何故か楽しい。16:59、ようやく本日宿泊するホテル、「クラウン・プラザ・リゾート・ペトラ」に到着した(写真右)。

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ホテルは、砂漠と奇怪な形をした岩山(写真左)の中にあるのだが、リゾートホテルに相応しい作りになっている(写真中左)。部屋も少し広めで落ち着いた雰囲気。ワインレッドのベッドカバーが印象的である(写真中右・右・下左)。私は、部屋に入ってから直ぐに水着に着替え、ホテルのプールに向かった。外国人カップルが2組いただけで、ゆったりとくつろぐことができる雰囲気(写真下中左)。プールの水も温かく、長い間入っていても全く問題はない。久しぶりに泳ぎを楽しむことができた。しかしプールから上がると、非常に寒い。風が出てきたので、体が濡れていると、異常に寒いのだ。急いで体についた水滴を拭き取り、プールサイドのベッドに寝転んだ。まだ太陽が照りつけているので、今度は肌が焼けているのを感じる。ここから見えるぺトラの岩山の眺めもなかなか良い(写真下中右・下右)。45分ほどここで過ごし、日が沈み始めたので部屋に戻る。

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19:00から夕食だったので、入浴だけ済ませ、ホテルのレストランに向かった(写真左)。本日の夕食もバイキングスタイルである。肉、野菜に果物、それぞれ非常に種類は豊富だ(写真中左・中右・右)。いろいろなメニューを少しずつ頂いた。1時間半ほどで食事を終え、部屋に戻る。今晩は、いつも行う資料整理の前にしなければならないことがあった。それはズボンの修理である。実は、この日の午前中、ズボンのお尻の部分が裂けてしまったのである。自分には見えないのでそのままにしていたのだが、周りの人には目立つようで、「替えズボンは持ってないの?」とか「何とかならないの?」などとあまりにも頻繁に言われたので、裂け目を繕うことにしたのである。小学校の家庭科で運針の練習をして以来だったが、30分ほどで上手く縫い合わせることができた。当時、家庭科は得意だったのだ。老眼なので針に糸を通す事が少々難儀だったことと、指が太くなっていたので、縫い目が少し粗くなったこと以外は、当時と変わらない。その後1時間ほどかけて資料整理と明日観光するペトラ遺跡に関する予習をして、22:20頃ベッドに入った。

クラウン・プラザ・リゾート・ペトラ
http://wwwcrowneplaza.com

・「地球の歩き方ヨルダン・シリア・レバノン 07~08」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド社刊]
・「芸術と歴史の国ヨルダン(日本語版)」(Francesca Casule著)[ BONECHI刊]

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