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October 31, 2011

クラクフ散策(その1)

ポーランドの旅(第9回)

第4日目(10月7日[金] : 曇りのち雨)

4:30 起床
6:15~6:30 ホテル周辺で写真撮影
6:30~7:00 朝食
7:45~12:00 クラクフ散策
12:00~13:00 「C.K.DEZERTER」で昼食
13:00~16:20 クラクフ散策
16:20~19:00 ホテルで休憩、入浴、資料整理
19:00~20:30 レストラン「MIESZCZANSKA ZAPRASZA」で夕食(ホテルから徒歩で)
20:40 ホテル到着
21:10 就寝


本日のツアーは、午前中クラクフの街を観光し、午後からアウシュヴィッツに行くという予定だが、私はツアーを離れて一日中クラクフを散策することにした。

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まだ時差ボケが残っているのだろう。午前4:30に目覚める。部屋で本日のプランを練り、6:15頃ホテルの外に出た。まだ日の出前なのか、それとも雨が降りそうだからなのか。まだ暗い。川辺まで行くと、犬を散歩させていたり、ランニングしている人たちに出会う。そこから見えるライトアップされた「ヴァヴェル城」の姿もなかなか良い(写真)。写真を撮りながら時間を過ごし、朝食会場の開く午前6:30にレストランに向かった。

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朝食はいわゆるバイキングスタイルで、野菜サラダをはじめ、ハム、卵料理、乳製品、パン類など、品数は豊富だ(写真左・中)。私はポテトサラダやゆで卵などを頂いた(写真右)。30分ほどで食事を終え、部屋に戻って外出の準備をする。午前7:45、ホテルを出てクラクフ旧市街に向かう。

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「ヴァヴェル城」(写真)を右手に見ながら左に曲がり、旧市街に入る。以下、見て廻った順に建物などをご紹介する。


・大司教区博物館
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・聖ペテロ聖パウロ教会
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16世紀の末、ジグムント三世によってイエズス会に寄贈された教会で、初期のローマ・バロック様式の建物。ジョバンニ・トレバーノの設計で、内陣も彼のデザインによるものと言われている。外のフェンスには12人の像が見られるが、カツペル・ボジャンカという建築家によって設けられたもの。

・聖アンデレ教会
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11世紀の終わり頃、パラティン伯ヴォイヴォデ・シェチェフにより建てられた教会で、ロマネスク様式の建物。12世紀末から13世紀初頭、巨大な塔やバロック様式のドーム、殿堂などが付け加えられた。また14世紀には、ゴシック様式の小礼拝堂が教会の横に建設された。

・地質学博物館
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・市庁舎
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・ドミニコ広場
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・フランシスコ修道院、聖フランシスコ教会
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1269年、プラハから来たフランシスコ修道会の修道士達によって建てられた、初期ゴシック様式の教会。14世紀に修道院が建設され、15世紀には教会の母屋が増設された。19世紀の火災により、インテリアのほとんどが焼失したが、スタニスワフ・ビスピアインスキによってデザインされたステンドグラスや、ヨゼフ・メホファーによる十字架は素晴らしいとの事。

・大学公園
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・大司教宮殿
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・ヤギェウォ大学
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1364年、カジミエシュ3世により、ポーランドで最初に設立された大学で、中央ヨーロッパでは、プラハのカレル大学に次ぐ歴史を持つ。コレギウムマイウスという大学の建物は、14世紀から15世紀にかけて建てられたもので、ゴシック様式を今に伝える。

・聖アン教会
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大学所有の教会で、ヤン3世ソビエスキの援助とクラクフの大学の教授達からの寄付で、1709年に建てられた。後期のローマ教会のデザインを模倣したもので、チケマン・ヴァン・ガメレンにより建てられた。

・芸術宮殿
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19世紀、スチェパインスキ広場の中世の教会跡地に建設された。1854年、フランチシェク・モンチンスキによってデザインされたもので、現在は「美術芸術友好会」が所有している。建物を囲む浅浮彫りの帯状のフレームは、ヤツェク・マルチェフスキの作品で、芸術家の創造に関する骨折りと苦労を表しているという。

・シュチェパンスキ広場
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・聖カジミエーシュ教会
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・フロリアンスカ公園
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・フロリアンスカ門とバルバカン
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19世紀に取り崩されるまで、旧市街は、外敵から守るために造られた城壁に囲まれていた。城壁には8つの門があったが、現在まで残っているのは、北に位置するこの「フロリアンスカ門」だけである。1300年頃に造られたもので、高い塔はフロリアンスカ通りに面しており、北側はヤン・マテイコ作「ホワイトイーグル」の彫刻で、また南側はバロック様式の聖フロリアンをかたどった浅浮彫の美しい彫刻で飾られている。
1498年、この門を防御するためレンガで造られた円形状の砦が「バルバカン」だ。壁の厚さは3mもある。現在バルバカンはヨーロッパに3か所しか残っておらず、そのうちクラクフのものが最大との事。

・マテイキ広場
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・聖フロリアンナ教会
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・クラクフショツピングセンター(ガレリア・クラコフスカ)
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http://www.facebook.com/galeria.krakowska

・クラクフ本駅
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旧市街の北東に位置し、国際列車の発着場でもある。

・クラクフ本駅前広場
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クラクフ駅前の広場では、イベントが行われていた。広場の南東の隅に、数千、いや万を超えているかもしれない数のリンゴが置かれていた。黄緑のジャケットを着た若者が、リンゴを紙に包んで籠に入れ、道行く人に配っている。私も一つリンゴを頂いた。後でガイドに訪ねると、飲料会社のキャンペーンとの事。それにしても派手なパフォーマンスだ。

TYMBARKのHP
http://www.tymbark.com/

・ユリウシュ・スウォヴァツキ劇場
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1891年から1893年にかけて、ヤンザビエイスキにより、中世の修道院が取り崩された跡地に建てられた。この時代における最も優れたポーランド建築作品の一つで、パリのオペラ座がモデルだという。劇場の正面には、チプリアン・ゴデボスキによって制作された、ポーランドの有名な喜劇作家アレクサンダー・フレドロの銅像が立っている。

・聖十字架教会
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14世紀に建設された、レンガ造りの教会。自然の石で出来た内陣、通路、塔、天井を支える一つの支柱などが特徴的だという。

・インフォメーションセンター
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・子豚の看板のレストラン
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・聖ドゥハ広場
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・聖トーマス教会
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・小市場広場
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・中央市場広場
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クラクフ旧市街の中心にある広場で、総面積は4万㎡。中世からそのまま残っている広場としてはヨーロッパ最大級である。

・織物会館
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織物の商取引をする施設として、14世紀にカジミエシュ3世の指揮により建設された建物。1555年に火災にあうが修復され、19世紀後半には、建物を囲む形で出来ているアーケードを造り、中央の渡り廊下の部分にも手が加えられた。現在、1Fにはみやげ物店などが並び、2Fはクラクフ国立美術館の展示室になっている。

・アダム・ミツキエヴィッチ像
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ポーランドの偉大な詩人で、テオドール・リギエールの作。1898年に建てられた。

・聖アダルベルト教会
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11~12世紀に建てられた、ロマネスク様式の教会。このあたりでは最も古い建築物で、壁は石灰石で造られている。14世紀に壁が塗り替えられ、17世紀にはリフォームされた。

・旧市庁舎の塔
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中央市場広場にある、最も重要な国家的建造物。旧市庁舎は、13~14世紀に街の権力者の本拠地とされていた場所だが、1820年、塔だけを残し、あとはすべて取り崩された。現在この塔は、クラクフ歴史博物館の一部となっている。塔の上に昇ると、広場を見渡す事が出来る。


・織物会館の商店街
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・聖マリア教会
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1222年に建てられたゴシック様式の建物で、中世のクラクフで最も重要とされた教会である。この教会で必ず見たいのが「ヴィオット・ストウオシ祭壇」だ。後期ゴシック様式を代表する木製彫刻で、クラクフ市議会の依頼により、ドイツのヴィオット・ストウオシが、1477年から1489年までの12年の歳月をかけて製作したもの。「この彫刻の中央下には、マリアの姿がキリストと共に彫刻されていますがここで意味しているのは、マリアのドーミション(眠りに落ちること)です。そして、その上部、浅浮彫の彫刻技術によって、奥に見える4つの羽を背景にしてキリストとマリアの人生が浮き上がるようなイメージに描かれています。この中央に描かれているイメージは、マリアの被昇天です。この聖壇は、類いまれなる表現力と、最高の技術を用いてリアリズムと神秘主義の融合をはかった世界最高傑作といえるでしょう」(「KRAKOW(日本語版)」より)との事。

ところで、この教会の塔の窓から、毎時ラッパが吹き鳴らされている。これは、かつてモンゴル軍がクラクフを襲った際、その襲撃を告げるラッパが鳴らされたのだが、モンゴル軍の放った矢がラッパ手の喉を貫いたことを悼んで今でも行われているのだ。

聖マリア教会の公式HP(ポーランド語)
http://www.mariacki.com

・聖バルバラ教会
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1362年に、ゴシック様式建てられた葬儀用の教会で、何度もリフォームされているが、当時の姿は留めている。

・レストラン「C.K.DEZERTER」 (写真左・中左)

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昨日添乗員から、12:00からこのお店で昼食ということを聞いていたので、時間に合わせてこのお店を訪ねた。ツアーの皆さんは既に席についており、添乗員が飲み物の注文を聞いていた。メニューは次の通り。

・パスタ入り香草クリームスープ(写真中右)
・ゴウォニビキ(ロールキャベツ : 写真右)
・クラクフ風ケーキ

「C.K.DEZERTER」
http://www.ckdezerter.pl

ウィキペディア・フリー百科事典(クラクフ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%95

(参考文献)
・「地球の歩き方 ‘11~’12 チェコ・ポーランド・スロヴァキア」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビック゛社刊]
・「KRAKOW(英語版)」(Grzegorz Rudzinski)[BONECHI-GALAKTYKA刊]
・「KRAKOW(日本語版)」(カジミエーシュ・クチマン著)[Wydawnictwo刊]
・「free city map Krakow」
・「Mini Tour Guide Wawel(英語版)」[Tessa]
・「WAWEL CASTEL AND CATHEDRAL(英語版)」(JAN K.OSTROWSKI)[KARPATY]



October 29, 2011

サンドミェシュ観光

ポーランドの旅(第8回)

9:30、サンドミェシュに向けバスで出発する。早朝から歩き廻り少々疲れて来たので、バスの一番後ろの席で横になって休息する。いつの間にか眠っていたようで、添乗員のトイレ休憩を取りますとの声で目覚めた。

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11:10、「ニスコ(NISKO)」のGS(写真)でバスを降りる。約25分休憩し、11:35、再びバスで走り出す。また横になっていくつもりで席に戻ると、ツアー客の一人の女性が何も言わずに座っていた。空いている座席に坐るのは勝手だが、誰かが座っている席の横に坐る場合、一声かけるのがマナーだと思うのだが・・・。

12:20 サンドミェシュに到着。日本で購入したポーランドのガイドブックに載っておらず、手元に地図も無かったので、ここでは大人しくツアーと一緒に回ることにした。いつもであれば、グーグルマップなどで事前に下調べをするのだが、このブログの「クロアチア・スロベニアの旅」を一応書き終えたかったので、それに時間をとられ過ぎ、事前調査が不十分になってしまったのだ。

ウィキペディア・フリー百科事典(サンドミェシュ[Sandomierz : 英語版])
http://en.wikipedia.org/wiki/Sandomierz

サンドミェシュは、ポーランド南東部シフィェンティクシシュ県に属する。ザモシチとクラクフとの中間辺りに位置し、ポーランドで最も古い街の一つとして知られている。中世初期に、交易の拠点として栄えたが、その後何度も侵略や暴動により街は破壊されたが、その都度修復され現在に至っている。中世からの歴史的街並みがそのまま保存されているのは、近代工業化が行われなかったこと、また第二次世界大戦による破壊を免れたことによるところが大きい。

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バスを降りてから、現地ガイドの案内で、石畳のなだらかな坂道を歩いて街の中心へ向かう(写真左)。旧市街広場に着く少し手前で、現地テレビ局によるTVドラマ番組の撮影準備が始まっていた(写真中)。ここから50~60m進むと、旧市街広場だ。広場の中央には、シティーホールが建っている(写真右)。我々は昼食を取るため、広場の南東の角に建つレストラン「Hotel Restaurant Pod Cizemka」(写真下左)に入った。少し暗いが、豪華な雰囲気だ(写真下中)。席に着いてから料理が出てくるまでの時間を利用して、近くにあったインフオメーションセンターに行き、無料の地図をもらい、ガイドブックを購入した(写真下右)。レストランに戻ると、丁度最初の料理が出されるところであった。メニューは次の通り。

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・鴨肉入りサラダ(写真左)
・ピエロギ(ポーランド風餃子 : 写真中)
・ラズベリームース(写真右)

ピエロギについては、皿に7個盛られていたが、それぞれ中に入っているものは異なっている。焼き餃子でもなく水餃子でもない。肉餃子とも違うので、ポーランド風餃子というと誤解を招くかもしれない。

Hotel Restaurant Pod CizemkaのHP
http://www.hotelcizemka.pl
ウィキペディア・フリー百科事典(ピエロギ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%AD%E3%82%AE


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約40分で食事を終え、13:15、サンドミェシュ観光に出かける。最初に訪れたのは、目の前に広がる「旧市街広場」と「旧市庁舎」(写真)だ。旧市庁舎は、14世紀に建てられたレンガ造りの建築物。当時は現在よりもスリムな塔が付属していたという。15世紀に拡張され、屋上部分に豪華な装飾が施された。1623年から1757年までの間に、何度も火災にあったが、その都度修復されている。現在見られる白く漆喰で塗られた塔は、この頃に建てられた。中に入ることはできなかったが、ネオルネッサンス様式やネオバロック様式の家具で飾られているようだ。

以下、廻った順にご案内する。

・中流家庭の家
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・聖霊病院
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・オレスニック家の住居
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・旧シナゴーグ
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・展望台から見た西側の景色
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・オパトフスカ門
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14世紀から16世紀にかけて建てられた門で、ポーランドで最も良く保存されたゲートの一つのようだ。旧市街は分厚い城壁に囲まれており、これを合わせて4つの門があったという。「オパトフスカ門」は、16世紀、屋上部分にルネッサンス様式の装飾が施され、高さ30mと4つの中で最も高い塔になった。ここからは旧市街が一望できるだけでなく、周囲の様子も把握できたとの事。


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14:20、約1時間でサンドミェシュ観光を終え、バスでクラクフに向かった。途中、TVドラマの撮影は本番になっていたため、静かに通り過ぎなければならなかった(写真左)。15:45~16:10、ノベコルジェンのGS(写真中)でトイレ休憩を取り、 17:45 クラクフのホテル「シェラトン・クラクフ」(写真右)に到着した。

シェラトン・クラクフ(日本語版)
http://www.starwoodhotels.com/sheraton/property/overview/index.html?propertyID=1477&language=ja_JP&ES=LPS_1477_JP_SI_LANGDD_ECE_EAME

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18:10 入室。内装も新しく、設備も整っており、十分満足のいく部屋だ。特に資料整理する時に役立つ、スタンド付きデスクが嬉しい。

18:15~19:20の間に、入浴、資料整理、荷物整理を済ませ、19:30からホテルのレストランで夕食を頂く。メニューは次の通り。

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・トマトクリームスープ(写真左)
・豚ローストプラム詰め(写真中左)
・チョコケーキ(写真中右)
・紅茶(写真右)

食後、添乗員と色々なお話しをしていると遅くなる。22:45頃部屋に戻り、引き続き資料整理をする。23:30頃ベッドに入った。


ウィキペディア・フリー百科事典(シフィェンティクシシュ県)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%82%B7%E3%83%A5%E7%9C%8C
サンドミェシュの公式HP(英語版)
http://www.sandomierz.pl/index.php/en/

(参考文献)
・「Sandomierz Royal City Tourist Guide」(Sandomierz Municipal Administration)


October 27, 2011

ザモシチ観光(その2)

ポーランドの旅(第7回)

・ウォドゥニィ市場広場
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・聖クレイル修道院
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・水門
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・(北西側から見た)聖ニコラス教会
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・大聖堂
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残念ながら改修工事中のため、大聖堂の大部分は見ることはできなかった。ちなみに、ここにはザモイスキ家の遺体が安置されている。


・旧ザモイスキ宮殿
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大聖堂に西隣に位置するこの宮殿は、ザモイスキの居城であった。


ザモシチ観光の後、すぐにツアーはバスで「サンドメシュ」へ移動するため、先にチェックアウトを済ませ、荷物をフロントに預けることになったので、私も一緒に荷物を預けるため、一旦ホテルに戻った。
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ところでこのホテル、良く見ると16世紀のルネッサンス様式の建物をそのまま利用していることに気がついた。記念すべきホテルに泊っていたのだ(写真)。部屋でトイレなどを済ませ、荷物をフロントに預け、ツアーメンバーと一緒に観光へ出かける。

・旧市庁舎と大市場広場
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お天気に恵まれていたこともあり、旧市庁舎と大市場広場の写真は何枚撮っても満足できない。また時間ごとに違った写真が撮れるのも魅力だ。このあとガイドの話を聞き、再びツアーをて離れ単独行動する。(写真下左 : モランドの館、写真下中 : リンクの館、写真下右 : アーケード)

・新ルブリン門
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・聖カタリナ教会
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本日2度目の聖カタリナ教会。私の部屋の窓から見えていた教会だ。今度は中に入る。


・大聖堂
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こちらも本日2度目の大聖堂。兵器庫博物館に行くため前を通ったので、別角度から写真を撮る。

・旧シチュブジェシン門
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・兵器庫博物館
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以前の兵器庫を利用した博物館。現在改装工事中のため、中に入ることはできなかった。周囲も工事されており、ザモシチ駅に通じる道も封鎖されていた。


9:30にバスで出発するため、9:15頃ホテルに戻る。しばらくするとツアーメンバーもホテルに戻って来たので、9:30、サンドミェシュに向けバスで出発した。


ウィキペディア・フリー百科事典(ザモシチ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%A2%E3%82%B7%E3%83%81
ウィキペディア・フリー百科事典(ザモシチ[Zamosc : 英語版])
http://en.wikipedia.org/wiki/Zamo%C5%9B%C4%87


(参考文献)
・「地球の歩き方 ‘11~’12 チェコ・ポーランド・スロヴァキア」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビック゛社刊]
・「ひとたび世界遺産 Let’s meet in Poland」(いしかわようこ編)[ポーランド政府観光局刊]
・「Zamosc an Ideal Town(英語版)」(Wieslaw Lipiec)[Wydawnictow Lipiec]



October 25, 2011

ザモシチ観光(その1)

ポーランドの旅(第6回)

第3日目(10月6日[木] : 晴れのち曇り)

4:30 起床
5:00~5:35 ライトアップの写真撮影に出かける
5:35~6:00 部屋で休憩
6:00~6:30 朝食
6:30~6:50 外出準備
6:50~8:15 ザモシチ観光
8:15~8:30 ホテルに戻り荷物整理
8:30~9:15 ザモシチ観光
9:30 サンドミェシュに向けバスで出発
11:10~11:35 「ニスコ(NISKO)」のGSでトイレ休憩
12:20 サンドミェシュに到着
12:35~13:15
13:15~14:20 サンドミェシュ観光
14:20 バスでクラクフへ
15:45~16:10 ノベコルジェンのGSでトイレ休憩
17:45 クラクフのホテル「シェラトン・クラクフ」に到着
18:10 入室
18:15~19:20 入浴、資料整理、荷物整理
19:30~22:45 ホテルのレストランで夕食
22:45~23:30 資料整理
23:30 就寝


本日は、朝1時間ほどでザモシチを観光し、その後サンドミェシュに立ち寄り、クラクフに向かう予定だ。ザモシチは小さな街だが、僅か1時間で一通り見ることはできないので、ツアーとは別に早朝から行動することにした。

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4:30 に目覚める。ライトアップの写真を撮るため、5:00頃ホテルを出かけた。まだ外は真っ暗だが、街の中心にある「大市場広場」に出ると、塔の高さが52mある「旧市庁舎」がライトアップされていた(写真)。この広場は一辺約100mの正方形で、周囲にはアーケードのある建物が並んでいる。

十数枚のライトアップされた旧市庁舎の写真をとった後、街の西に建つ「旧ザモイスキ宮殿」に向かった。300~400mしか離れておらず、またそこに続く道路も予想外明るかったので、迷うことなく行くことができた。

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宮殿に行く途中、左手にライトアップされた「大聖堂」(写真左)が建っており、また宮殿(写真中)の前には、「ヤン・ザモイスキの騎馬像」(写真右)がライトに照らされていた。ここでノンビリ写真を撮っていたら、突然真っ暗になった。「もしかして停電?」と一瞬思ったが、時計を見ると5:30だったので、ライトアップが終わったのだろうと想像できた。先ほどまでとは異なり、遠くに道路の街灯がちらほら見えるだけ。足元に細心の注意を払いながら広場の方に向かった。

広場まで来ると、先ほど照らされていた旧市庁舎のライトも消えていたので、やはり5:30でライトアップが終わったのだと確信した。ホテルに戻ってフロントのスタッフに確認すると、やはり5:30で終わりとの事。外の明るさに反応して作動するのではなく、時間で決めているのだ。

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朝食は6:00からなので、まだ30分ほど早い。仕方がないので、部屋に戻って食後の観光コースを検討する。6:00にレストランに行くが、まだ誰もいない。いわるバイキング方式なので、気に入った食材を自由に食べることができる。野菜サラダ、ハム・ソーセージ、卵類、フルーツなど豊富だ。いつもと同じようなメニューだったが、本日はゆで卵を少し多い目に頂いた(写真)。30分ほどで食事を終え、レストランを出ようと思ったら、添乗員がやって来て、驚いたような表情をしている。彼はレストランの外で待っていたとの事。レストランは6:30オープンなので、入口には鍵がかかっていたのだという。私がレストランの開く時間を間違えていたため、スタッフが出入りしている間に入り込み、食事を済ませてしまったようなのだ。本日はホットミルクを頂いたのだが、どうりでコーヒーが無かったわけである。

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朝食を早めに終えることができたので、6:50にホテルを出た。先ほどとは異なり外は明るくなっていた。窓の外を見ると、正面に「聖カタリナ教会」、左手に「旧ザモイスキーアカデミー」が見える。

6:50、本日の観光開始だ。再び「大市場広場」に向かう。今度は広場の周囲の様子も良く分かる。ザモシチは、中欧最初のルネッサンス都市で、「ルネッサンスの真珠」とも呼ばれる美しい街だ。ポーランドの貴族「ヤン・ザモイスキ」(1542~1605)が、若いころに留学したイタリアの景観が忘れられず、40歳の時にパドヴァからイタリア人建築家「ベルナルド・モランド」(1540~1600)を招き、この街を造らせたのである。「幾重にもめぐらされた堡塁や門や堀などの当時最先端の堅牢な防御システムで外側を守り、その中に広場、貴族や市民の住居、商業地区などが整然と区画され、その上町全体に文化の香りが漂うような都市がトータルデザインされました。9年後、「北のパドヴァ」としてザモシチは中央ヨーロッパ初のルネサンス様式の都市として姿を現した」(「ひとたび世界遺産 Let’s meet in Poland」)のである。
ちなみに、第二次世界大戦の影響は受けなかったのかというと、ナチスの親衛隊長官ヒムラーがこの街を訪れ、その美しさに感銘したため攻撃を免れたのだという。

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先ほども少し触れたが、この広場は一辺約100mの正方形で、街はこの広場を中心に碁盤の目のように整備されている。広場を見下ろす旧市庁舎は街のシンボルで、ルネッサンス様式の建物にバロック様式の塔が融合する。旧市庁舎に向かって右手に見えるカラフルな建物群は、商業地区にあるアルメニア商人の家で、現在はザモシチ郷土博物館として使用されている。

広場の中央には花壇があり、赤やオレンジ、黄色やブルーの花が咲いている。広場の周囲には、アーケードのあるカラフルな建物が並んでおり、その前にはカフェが店を出す。どこを見ても美しく、また可愛らしい街だ。どの部分を切り取っても画になるので、つい写真の枚数も増えてしまう。

以下、私が見て廻った順にご案内する。

・フランシスコ修道士教会
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・聖ニコラス教会
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・新ルヴォフ門
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・旧ルヴォフ門
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・バスチオン稜堡
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・北東の城壁沿いを歩く
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・シナゴーグ
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・ステファニデサ広場と市場
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・塁壁と新ルブリン門
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・聖カタリナ教会
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・市民公園へのゲート
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・旧ザモイスキーアカデミーとソルニー市場広場
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・旧市庁舎と大市場広場
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ウィキペディア・フリー百科事典(ザモシチ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%A2%E3%82%B7%E3%83%81

(参考文献)
・「地球の歩き方 ‘11~’12 チェコ・ポーランド・スロヴァキア」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビック゛社刊]
・「ひとたび世界遺産 Let’s meet in Poland」(いしかわようこ編)[ポーランド政府観光局刊]
・「Zamosc an Ideal Town(英語版)」(Wieslaw Lipiec)[Wydawnictow Lipiec]


October 22, 2011

ルブリン観光

ポーランドの旅(第5回)

「カジミェーシュ・ドルニィ」の観光を終え、我々はバスで「ルブリン」に向かう。カジミェーシュ・ドルニィから東へ55~60kmに位置し、バスで1時間くらいの距離だ。「ルブリン」は、バルト海と黒海を結ぶ交易路状にあったことから、10~11世紀頃には繁栄を享受していたが、このことが逆に外敵の侵入を招き、災いをもたらす事にもなった。1569年、ヨーロッパ最大の「ポーランド・リトアニア連合王国」が誕生したが、いわゆる「ルブリン合同」はこの地で調印されたのだ。

ウィキペディア・フリー百科事典(ルブリン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%B3
ウィキペディア・フリー百科事典(ルブリン県)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%B3%E7%9C%8C
ウィキペディア・フリー百科事典(ルブリン合同)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%B3%E5%90%88%E5%90%8C

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15:35、ルブリンの旧市街に到着。駐車場でバスを降りると、目の前に「ルブリン城」(写真左)が建っていた。階段を上り、ルブリン城の前から振り返ると、16~17世紀の頃に建てられた雰囲気の建物が並んでいる(写真右)。

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「ルブリン城」(写真左)は、6~9世紀頃に建てられた城をベースにしており、その後何度か増改築を繰り返したが、北方戦争の際、スウェーデンの攻撃により破壊されたため、1824~1826年にかけてネオゴシック様式で再建された。現在見られるのは、この時代のものだ。第二次世界大戦中は、ナチスに反抗した政治犯たちを収容する牢獄として使用されたこともあったが、現在は博物館になっている(写真中)。中に入る時間はなかったので、入口から中庭の様子をチラッと覗いてみた(写真右)。レンガ造りの塔があるとの事だが、残念ながら見ることはできなかった。

ウィキペディア・フリー百科事典(ルブリン城[Lublin Castle : 英語版])
http://en.wikipedia.org/wiki/Lublin_Castle

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我々は博物館の前を通り、橋を渡って西南方向にある旧市街に向かった(写真左)。旧市街の入り口に高くそびえるゲートがある。「グローッカ門」(写真右)だ。14世紀に、旧市街を囲む城壁と一緒に造られたもので、現在の姿になったのは、1785年のこと。イタリアの建築家、ドメニコ・メルリーニの設計である。

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門をくぐって100mほど南西に進むと、左手に基礎だけが残された広場に出た(写真左)。ここには、地元教区の「聖ミカエル」教会が建っていたとの事。13~14世紀に建設され、19世紀頃に老朽化のため取り壊されたようだ。ここからの見晴らしは良く、多くの観光客が景色を楽しんでいた。広場の南東の隅には、当時の教会のミニモデルが残されている(写真右)。これをバックに女の子達が写真を撮っていたので、了解を得て、私も彼女達の写真を撮らせてもらった(写真下)。

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周りを見ると、ツアーメンバーは誰もいない。すでに次の場所に移動していたのだ。彼らは「旧市街市場広場」に来ていた。この広場は少し変形だが、おおよそ62m×72mの広さだ。中央には、裁判所が建っている(写真)。1408~1419年に、レンガ造りの市民ホールが造られたが、1578年、裁判所として使われるようになった。その後何度か増改築が行われ、1781~1787年、イタリアの建築家、ドメニコ・メルリーニの設計で現在のネオクラシック様式の建物に造りかえられたのである。

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広場の東側にある通路の奥には、「ドミニコ会の教会と修道院」(写真左)が見える。また南側には、「コノプニツカのアパート」(写真中・右)や「三位一体教会の塔」(写真下左)が、さらに西側には「クロノヴィカのアパート」(写真下右)が建つ。ドミニコ会の教会と修道院は、1342年にゴシック様式で建てられ、1575年の火事の後、ルネッサンス様式に改められた。「コノプニツカのアパート」は、1610年に建てられたもので、ルネッサンス様式で飾られたファサードや窓が見ものである。「三位一体教会の塔」は、旧市街で最も高い建物で、街のどこからでも見えるのが特徴だ。「クロノヴィカのアパート」は、16世紀に建てられたもので、その所有者はルブリンの市長であったとの事。18世紀に拡張され、ネオクラシックスタイルに改められたという。壁に描かれたメダリオンには、ルブリンと関係の深い有名作家の肖像を見ることができる。

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16:00過ぎ、この近くにあるインフォメーションセンター(写真)で、トイレ休憩を取ることになったのだが、男女兼用でたった1つしか部屋が無かったので、30分ほど時間がかかった。その間、ただ待っているだけでは時間がもったいないので、「クラクフ門」や「洗礼者聖・ジョン&伝道者・聖ジョン大聖堂」などを見て廻った。

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広場から南西方向に進むと「クラクフ門」(写真)がある。これはクラクフで最も知られているモニュメントで、14世紀半ばに旧市街を囲む城壁と共に建てられた。ゴシック様式の建造物だが、何度か改築されており、時計の部分は16世紀に、またバロック様式の屋根は18世紀に付け加えられた。

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「クラクフ門」を出て、城壁が取り除かれた跡にできた道路を東に行くと、「洗礼者聖・ジョン&伝道者・聖ジョン大聖堂」(写真)が現れた。この大聖堂は、1586年から1625年にかけてイエズス会によって建てられたもので、ポーランド初のバロック様式の建造物である。ファサード部分に見られるネオクラシック様式の装飾は、1805年に付け加えられた。また第二次世界大戦の時に破壊されたため、修復されている部分もある。

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大聖堂の中(写真左)に入ると、厳粛な感じだ。祭壇の横にはイエスを抱くブラックマリアの絵(写真中)が掲げられている。また天井部分を見ると、多彩色の絵で装飾されていた(写真右)。

トイレ休憩が始まって20分ほど経ったのでインフォメーションセンターに戻ると、まだ3~4人並んでいた。センターのショップでガイドブックを購入し、最後にトイレを借りてツアーに合流した。

ツアーガイドの予定では、トイレ休憩の間に私が見てて廻ったところを訪れる予定だったので、その間を利用して別のところに行くつもりであった。しかしその場所が分からなかったのでガイドに訊ねると、全員で行くことになってしまった。一人で行くと数分で済むところなのだが、全員で行くと20分は必要になるので、ガイドに訊ねなければ良かったと、少々反省した。

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「クラクフ門」を通り抜け、道路を渡って東側にある下町に入った。右手に建つ「市庁舎」(写真左)の前を通り過ぎ、「聖霊教会」(写真中)の前まで来たので、少し中を覗いてみた(写真右)。祭壇は工事中なのだが、ミサが行われていたため、出入り口付近から写真撮影するにとどめた。15世紀頃に建てられた教会で、その後何度も修復されている。現在の姿は17世紀のもので、同時期に教会内部も後期バロック様式でまとめられたようだ。

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ここから20~30m東に進むと、私が見たかったポーランドヤギの像が建つ水飲み場に到着した(写真左)。この動物は、クラクフ市の旗や市章のデザインに使われており、ガイドが付けていたバッジ(写真中)や「グローッカ門」の上(写真右)にもデザインされている。

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この後「クラクフ門」の方に戻り(写真)、大聖堂を見てから「ルブリン城」前の駐車場に戻った。約1時間45分、予定を大幅にオーバーしてルブリンでの観光を終える。バスの運転手からは、渋滞に巻き込まれホテルに着くのが遅くなっても知らないとの一言。

17:15 バスはルブリンの街を離れ、ザモシチに向かう。外は暗くなったが、幸い渋滞にも巻き込まれず、19:00 本日宿泊するザモシチのホテル「ザモスキー・オルビス」に到着した。

ザモスキー・オルビス(英語版)
http://www.accorhotels.com/ja/hotel-3431-orbis-zamojski/index.shtml

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19:15 入室。最新式ではないが、落ち着いた雰囲気の部屋である(写真)。地方の一流ホテルといった感じだ。夕食は19:45からだったので、急いで風呂に入って汗を流す。

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19:45、ホテルのレストランで夕食を頂く(写真左)。メニューは次の通り。

・バルシチ(写真中左)
・タラのフライ(写真中右)
・フルーツサラダ(写真右)

21:00頃夕食を終え、部屋に戻る。今度はゆっくり風呂に入り、その後資料を整理し、
22:30頃ベッドに入った。

(参考文献)
・「地球の歩き方 ’11~’12 チェコ・ポーランド・スロヴァキア」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「Lublin」(Stanislaw Turski)[PRO-INFO]
・「LUBLIN ・ KAZIMIERZ DOLNY ・ PULAWY」(Stanislaw Turski)[PRO-INFO]
・「Lublin」(Stanislaw Turski)[LUBLIN TOURIST INFORMATION CENTRE]
・「LUBLIN The Monument of History」(Krzysztof Walkosz)[City of Lublin]



October 20, 2011

カタンガクロス

マイ・コイン・コレクション(第88回)

今回ご紹介するのは、「カタンガクロス」である(写真左 : 表面、写真右 : 裏面)。中央アフリカのカタンガ(現在のコンゴ民主共和国とザンビア共和国)で採掘された銅から作られた十字型のインゴットで、13世紀ごろから製造されていたという。このような形がとられたのは、持ち運ぶときに縄が掛けやすいからとの事。19世紀、ベルギー領コンゴのカタンガ地方で広く支払いに使われていたとの事だが、棹銅のようにただの地金として用いられたに過ぎないという説もあるようだ。

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十字の長さ : 24cm
厚さ : 5~6mm
重さ : 1kg


ウィキペディア・フリー百科事典(カタンガクロス[Katanga Cross : 英語版])
http://en.wikipedia.org/wiki/Katanga_Cross
ウィキペディア・フリー百科事典(カタンガ州)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%AC%E5%B7%9E

(参考文献)
・「図説 お金の歴史全書」(ジョナサン・ウィリアムズ編)[東洋書林刊]
・「貨幣博物館」(日本銀行金融研究所編・刊)



October 18, 2011

カジミエーシュ・ドルニィ散策(その2)

ポーランドの旅(第4回)

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「市場広場」を見学した後、この広場から南東50mほどに位置する「小さな市場広場」(写真左)を訪れた。かつてこの周囲には多数のユダヤ人が住んでおり、この広場では彼らの市が開かれていた。北東に建つ木造の建物は、19世紀に建てられたもので、当時はユダヤ教のルールに従って処理される馬の屠殺場(写真中)であった。現在は土産物店になっている。また広場の南東にはシナゴーグ(ユダヤ教の教会)が建ち、その向こうには、白い建物が見える(写真右)。シナゴーグは1677年に建てられたが、第二次世界大戦の間に破壊され、戦後再築されたもの。しばらくの間、映画館として使用されていたが、現在はホロコースト(ナチスによるユダヤ人大虐殺)の記念館としてオープンしている。白い建物は「聖アンナ教会」で、1649年から1671年にかけて建設された。

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「小さな市場広場」の次に訪れたのは、「聖フランシスコ教会と修道院」(写真左)である。市場広場から150mほど南西に位置し、なだらかな丘の上に建つ。屋根付きの階段を40~50段上ると(写真中)、教会の入り口(写真右)だ。教会は16世紀(1589~1591)に建てられ、修道院は17世紀(1638~1688)に増築されたとの事。なお、教会は2度の火災に遭ったことから、17世紀(1680~1690)と19世紀(1829~1845)に再築されている。

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教会内部(写真左)を見ると、高い祭壇には17世紀に描かれた「受胎告知」の画(写真中)が掲げられていた。教会の北東にある庭からは、市場広場の周囲に建つ建物が見える(写真右)。また教会の南西側に廻ると回廊があり(写真下左)、小さな中庭を見ることができる(写真下中)。また、回廊を出た教会の外にも小さな庭があった(写真下右)。

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教会の見学を終えた後、我々は昼食を取るため、教会の登り口近くにあるレストラン「POD WIETRZNA GORA」に向かった(写真左)。こじんまりした感じの良いレストラン(写真中)で、メニューは次の通り。

・キャベツサラダ(写真右)
・ジュレック(ポーランドの伝統的なスープ : 写真下左)
・ビーフステーキ(写真下中)
・アップルパイ(写真下右)

「POD WIETRZNA GORA」
http://www.wietrznagora.pl/en/stronaglowna/

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約45分で昼食を終え、13:45、再び市場広場に向かった。広場では30分ほどの自由時間になったので、色々な角度から広場の写真撮影を楽しんだ(写真上)。14:10、全員集合し、バスの待つ駐車場に向かう。ここに来る時はヴィスワ川沿いを通ったが、今度はカジミエーシュ城の下、北西側の路を歩いた。今考えると、カジミエーシュ城(写真下左)や石塔(写真下中)、十字架の丘(写真下右)が非常に近かったにもかかわらず、なぜ傍まで行かなかったのかと少々後悔している。
14:22我々はバスに乗り、次の目的地であるルブリンに向かって出発した。


ウィキペディア・フリー百科事典(カジミェーシュ・ドルニィ[Kazimierz Dolny : 英語版])
http://en.wikipedia.org/wiki/Kazimierz_Dolny

(参考文献)
・「地球の歩き方 ’11~’12 チェコ・ポーランド・スロヴァキア」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「KAZIMIERZ DOLNY(英語版)」(Artur Stolarski)



October 17, 2011

カジミエーシュ・ドルニィ散策(その1)

ポーランドの旅(第3回)

第2日目(10月5日[水] : 晴れ時々曇り)

6:00 起床
6:30~8:30 朝食
9:00 バスで出発
10:20~10:40 「GONCZYCE」でトイレ休憩
11:45~13:00 「カジミェーシュ・ドルニィ」観光
13:00~13:45 「POD WIETRZNA GORA」で昼食
13:45~14:10 自由行動
14:10~14:22 徒歩でバスまで移動
14:22 バス乗車
15:35~17:15 「ルブリン」観光
17:15 バス乗車
19:00 「ザモシチ」のホテルに到着
19:15 入室
19:45~21:00 夕食
21:00~22:30 入浴、資料整理
22:30 就寝

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本日はワルシャワを出た後、「カジミェーシュ・ドルニィ」と「ルブリン」で観光し、「ザモシチ」に向かう予定だ。ワルシャワには再び戻ってくる予定だったので、本日は早朝の観光をせず、ノンビリ過ごした。6:00 に目覚め、レストランの開く6:30から朝食を頂く(写真左)。いわゆるバイキング方式で、ハム、ソーセージ、スクランブルエッグや果物など、メニューは定番のものがほとんどだ。私はベーコンエッグにシリアル、ヨーグルトにシリアルなどを頂戴した(写真右)。いつもであれば、朝食後散歩をするのだが、今回は添乗員に今後のスケジュールについて相談する。旅に出る前に要望を伝えておいたのだが、その確認の打ち合わせだ。8:30 にレストランを出て、9:00にバスで最初の目的地である「カジミェーシュ・ドルニィ」に向け出発した。

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曇り空だが、気温は18℃と思っていたほど寒くはない。15分ほど走ると、周囲は社会主義時代に建てられたと思われる画一的なデザインのアパートが続く(写真左)。その後、小麦やトウモロコシ畑(写真右)を見ながら走り、10:20、「GONCZYCE」でトイレ休憩を取る(写真下段)。20分ほど休んだ後、再びバスで走り、1時間ほどで目的地の「カジミェーシュ・ドルニィ」に到着した。

「カジミェーシュ・ドルニィ」は、ヴィスワ川沿いにあるポーランドのなかで最も美しい街の一つで、11~12世紀頃から800年以上の歴史を持つ。町の名前は、この地にカジミェーシュ大王の居城があったことに由来するという。16~17世紀、穀物貿易の拠点として繁栄したが、その後貿易量の減少と共に経済は衰退した。しかしその当時に建てられたルネッサンス様式の建物を保存・維持し、現在では観光の名所となっている。

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我々はバスを降り、ヴィスワ川沿いの堤防の上に続く道を歩いていると、ほぼ同時に着いたバスから、現地の子供達が集団でやってきた(写真左)。現地語で「ジェーン・ドブリ(こんにちは)」と話しかけるが、ほとんどの子供は反応してくれない。これまでにもヨーロッパの色々な国の子供達と出会ったが、この国の子供達は恥ずかしがり屋に属するのだろうか。私の記憶では、北欧の子供達も同じような反応だったが、南のスペインやイタリア、先日訪ねたクロアチア・スロベニアなどの子供達はむしろ逆で、彼らの方から私に愛想を振りまいていたように思う。偶然なのか、国民性なのか、それとも地域性なのか。彼らはやがて土手を降りて、川沿いに停泊していた船に乗り込んで行った(写真右)。

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堤防の上から南東にある丘の方を見ると、「カジミェーシュ大王の居城」(写真左)や「石塔」(写真右)、「3本の十字架」(写真下)が見える。城は14世紀に建てられたのだが、17世紀、スウェーデンに占領された際破壊されてしまった。現在、城壁の一部と窓枠が残るだけの廃墟になっている。現在修復中のようで、一分にネットが掛けられている。石塔は幅10m、高さが20mあり、塔台の跡もあるようだ。ヴィスワ川を通る交易船から、税の徴収も行っていたという。3本の十字架は、この町にペストが流行した際、神に救済を祈るために建てられたもの。ここからの眺めは抜群に良いというが、残念ながらここまでは行かなかった。是非行くべきであったと、少々後悔している。

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我々は川と反対側に下り、町の中心部に向かう。途中、電柱などに何枚ものポスターが張られていた(写真左)。次の日曜日(10月9日)に、国政選挙があるのだ。候補者を見ていると、若い女性も多い。皆さん美人である。300mほど歩くと「市場広場」に出た(写真右)。ここが町の中心である。周囲には教会やルネッサンス様式の建物が並び、小さいながらも美しい。

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広場の北東方向には、「聖ジョン&聖ヴァーソロミュー・パリッシュ教会」(写真)が建つ。1325年に建てられた教会で、1561年と1581年の大火により、二度建て直されているという。教会の南西側には、1625~1629年にかけて建てられたチャペルが見られる。現在修復中で、どちらにも入ることはできなかったが、祭壇に掲げられたマリアの画は一見の価値がありそうだ。

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続いて広場の南東には、「Przybyla家」(写真)の家が見られる。1615年に、ニコラス兄弟によって建てられた建物で、正面左側の「聖ニコラスハウス」と右側の「聖クリストファーハウス」からなる。ここでの見どころは、壁の装飾だ。「聖ニコラスハウス」では、アーケードの柱に施された花の彫刻や動物のレリーフ、聖ニコラスの像など、またファーサードには「聖トーマス」や「聖ジェームス」、「聖カトリーヌ」などの像が並ぶ。「聖クリストファーハウス」では、屋根の最上部に櫛状の装飾がみられる。

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ツアーの皆さんがガイドの説明を聞いている間に、私はポーランドの紙幣とコインを手に入れるため、近くにあった地元の銀行を訪ねた。銀行名は「BANK SPOLDZIELCZY」(写真)だ。店内に入ると、左手の窓口に2人の女性がいたので、すでにポーランドのお金はもっているが、色々な種類の紙幣やコインが欲しいので替えてほしい旨伝えると、奥のカウンターに行くように指示された。窓口に行って用件を伝えると、すぐに手続きしてくれた。ただ、私の伝え方がまずかったのか、1ズウォティコインを1グロッシェコイン100枚にして渡してくれた時には驚いた。もう一度説明し、50グロッシェ、20グロッシェ、10グロッシェ、5グロッシェ、2グロッシェ、1グロッシェ各コインを取り交ぜて交換してもらったことは言うまでもない。ところで、ヨーロッパでも田舎の銀行に行くと、英語の話せない人ばかりということがしばしばあったが、この銀行で私の応対をしてくれた行員は皆、流暢な英語を話していた。

BANK SPOLDZIELCZY
http://www.kbsbank.com.pl/

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銀行で両替してもらってから広場に戻ると、皆さんはまだガイドの説明を聞いていた。そこで私は、広場の南西にあるインフォメーションセンター(写真)を訪ねた。地元のパンフレットをもらうつもりだったのだが、無料のものはナシ。仕方がないので、有料の地図やガイドブックなどを見せてもらい、「KAZIMIERZ DOLNY」という英語版の案内書を一冊購入した。無料の地図を置いていないインフォメーションセンターも珍しい。町が地図もいらないほどシンプルだからであろうか。

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ところで、このインフォメーションセンターが入っている建物は、非常に面白い形をしている(写真)。屋根の部分が大きく出っ張っているのだ。この地方独特の建築物で、屋根は藁で葺かれている。日本の茅葺屋根と同じで、葺き替えする必要があるのだが、非常に高くつくとの事。

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広場の北西に目をやると、ルネッサンス様式の赤い屋根の建物が可愛く並ぶ。この広場を上手く写真にとらえることができないかと思い、色々な場所から眺めてみる。その結果、私が最も気に入ったアングルから撮ったものが次の2枚である(写真左 : 広場中央から北東方向を撮影、写真右 : 広場の東から南西方向を撮影)。


ウィキペディア・フリー百科事典(カジミェーシュ・ドルニィ[Kazimierz Dolny : 英語版])
http://en.wikipedia.org/wiki/Kazimierz_Dolny

(参考文献)
・「地球の歩き方 ’11~’12 チェコ・ポーランド・スロヴァキア」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「KAZIMIERZ DOLNY(英語版)」(Artur Stolarski)


October 16, 2011

再び「第31回おおさか大収集まつり」へ

貨幣ぶらり旅(第195回)

本日、再び「第31回おおさか大収集まつり」に行って来た。前回は初日だったこともあり、非常に混雑していたため、ゆっくり見ることもできなかったが、今回は午後4:00頃に訪れたので、各コイン商のブースも空いていた。当初、「享保一分金」や「元文一分金」などを探していたのだが、前回お話ししたとおり、VOCのコインも気になったので、再び当該コインを展示しているコイン商を訪ねた。

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最初に考えていたコインはすでに売り切れていたのだが、もう一つ魅かれるコインがあったので見せてもらった。スラブに入っており、レーティングは「MS63」。この種のコインとしては最高の状態ではないだろうか。また、トーンが何とも言えない味を出している。何度も見ているうちに、ついに購入することにした。そのコインは、
「オランダ東インド領・ウエストフリースランド」(Ducaton 銀貨、1728年銘、左向き騎馬像、UNC)である(写真左 : 表面、写真右 : 裏面)。なおこのコインについては、「マイ・コイン・コレクション」でお話ししたいと思う。

このコインで予算をオーバーしてしまったので、あとは馴染みのコイン商の店主から色々なお話を聞かせて頂き、楽しい時を過ごさせてもらった。

明日10月17日(月) まで催されているので、まだ行かれていない方は如何だろうか。なお、開催時間は10:00~16:00(入場は15:00まで)。

日本貨幣商組合(第31回おおさか大収集まつり)のHP
http://www.jnda.or.jp/index_jp.html



October 14, 2011

第31回おおさか大収集まつり

貨幣ぶらり旅(第194回)

「第31回おおさか大収集まつり」に行って来た。会場はいつものとおり、大阪心斎橋にある御堂筋ビルの9F。参加している業者の数は37社だ。
初日の開始時刻は12:00。会場には15分ほど前に到着し、エレベータで9Fに向かう。扉が開くと、結構混雑している。開場の7~8分前になるとますます人が増え、エレベータと会場の間にある狭いフロアは危険なくらいに混みあった。前回も同じような状態だったので、定刻よりも2~3分早くオープンしたが、今回も5~6分早く会場の扉が開いた。

今回は特に探しているコインも無かったので、最初にオークションで落札した品を受け取るため、A社のブースに向かった。ご存知の通り、先月7日、ロングビーチで「HERITAGE」のオークションが行われたが、その代行入札を依頼していたうちの1件が落札できたのである。商品は「万延二分判金(安政型)」で、落札価格は431.25米ドルだ。この価格に「HERITAGE」への手数料と、代行入札を依頼した日本の業者への手数料を上乗せした価格を、円ベースで支払うことになる。それでも5万円以下で入手できたので、状態が「美品」以上クラスであることを考えると、かなり安く手に入れることができた。珍しいコインについてはとんでもない様な高値が付いていたが、平凡な商品には興味が示されなかったのであろう。落札価格リストを見ると、他の商品でも国内の業者から買うよりは、はるかに安く手に入れることができたようだ。もう少し高く入札すれば良かったと、少々後悔している。

「HERITAGE」のHP
http://coins.ha.com/c/index.zx?ic=Tab-Home-041408

次にB社のブースを訪ねる。通信販売のリストに掲載されていた商品を、会場で受け渡しする約束だったからだ。しかし店主は、私の顔を見ると直ぐ、「忘れた!」の一言。間違って販売してはいけないと思い、別の場所に置いておいたのだが、持ってくるのを忘れたとの事。この催事が終わってから送ってくれることになった。商品はローマのカラカラ帝、アントニヌウスコインだ。以前、カラカラ帝のデナリウスコインを手に入れた際、同時に欲しかったコインで、ようやく手にできることになったのだが、またしばらくお預けである。

続いてC社のブースを訪れる。ここでは、先日送られてきた販売カタログに掲載されている「VOC」のコインを見たかったからだ。しかし目当てのコインはすでに売り切れ。やはり、コインの状態と値段の程良い商品はすぐに売れてしまうようだ。他の商品も見せてもらっていたのだが、お客で混雑しており落ち着かなかったので、他のブースを廻ることにした。

他のお店では、「分金」見比べてみた。どこのお店でも展示されているが、状態、金額はバラバラ。一品ものと違い、選択肢が多いとなかなか決まらない。結局、何も買わずに終わってしまった。

本催事は17日(月)まで開かれているので、コインコレクターの方はお見逃しなく。
<開催日時>
10月15日(土) : 10:00~18:00
10月16日(日) : 10:00~18:00
10月17日(月) : 10:00~16:00(入場は15:00まで)

日本貨幣商組合(第31回おおさか大収集まつり)のHP
http://www.jnda.or.jp/index_jp.html


October 13, 2011

関空からポーランドヘ

ポーランドの旅(第2回)

初日(10月4日[火] : 曇り時々晴れ)

7:45 関空到着
8:05 ツアーデスクで手続きする
8:10 チェックインを済ませる
8:15 手荷物検査
8:25出国手続き
8:25~9:30 空港内のお店を廻る
9:30~9:45 ビジネスクラスのラウンジで過ごす
10:00 搭乗
10:42 離陸
12:00~13:25 昼食
13:25~20:55 睡眠、読書、アテンダントと雑談
20:55~21:30 軽食
22:32(現地時間15:32、以下現地時間)アムステルダム空港に到着
ワルシャワ行き、乗り継ぎ待ち(約4時間)
15:50~17:30 空港内のお店やアムステルダム国立美術館分館などを廻る
17:30~17:40 ビジネスクラス・ラウンジ
18:00~18:30 EU入国手続き・手荷物検査
18:40~19:45ビジネスクラスのラウンジで過ごす
20:10 搭乗
20:33 離陸
22:05 ワルシャワ空港に到着
22:40 観光バスに乗車
23:10 ホテルに到着
23:30 入室
00:30就寝


本日からポーランドの旅が始まる。まる一日以上かけての移動だ。乗り継ぎ事情が悪いので、アムステルダムで4時間ほど待たなければならないのがネック。ただ、先日訪れたクロアチア・スロベニアの旅の時は、ローマで7時間の乗り継ぎ待ちがあったので、それと比べれば短い方である。

関空到着後、外貨両替店でポーランドのお金である「ズウォティ」を入手し、空港4Fにある団体受付窓口に行く。そこでは添乗員が、今回のツアーでご一緒するお客さんの受付をしていた。彼とは「シリア・ヨルダンの旅」で添乗してもらって以来、今回で2回目になる。簡単な説明を受け、出国手続きを済ませる。いつもであれば、そのままビジネスクラスのラウンジに向かうのだが、今回はパターンを変えるため、空港内のお店、特に化粧品を販売しているお店を重点的に廻った。

店頭に並ぶ商品の説明を聴きながら、オーデコロンなどは香も試してみた。女性用化粧品の数の多さ、ブランドの多様さに驚くとともに、女性が化粧品を選択する時の判断基準、オーデコロンの平均的な保有数や使い分けなど、普段なかなか訊ねることができないお話しを聴くことができたことは有益であった。また店舗に占める割合は少ないが、男性用の化粧品も予想以上にあったことにも驚いた。

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このように待ち時間を過ごしたので、ビジネスクラスのラウンジ「KIX AIR SIDE LOUNGE」(写真左・中)に居たのは15分ほどであった。10:00頃、35番から搭乗(写真右)。今回利用するのは「KLMオランダ航空」だ。「オランダ・ベルギーの旅」など何度か利用しているが、私には良い印象の航空会社である。

オランダ航空公式HP
http://www.klm.com/travel/jp_ja/index.htm

離陸後1時間半ほどで食事が出された。私は日本食を選択。メニューは次の通り。

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・前菜(豆腐たたきオクラとろろ、ずわい蟹の身、帆立貝柱、鮭・鱒の刺身、さば柚庵焼き、香の物)(写真左)
・主菜(花南瓜蒸し煮、銀餡、海老笠椎茸、紅葉人参、さやえんどう、ご飯) (写真中)
・デザート(ストロベリー・ホワイトチョコレートムース、あずきムース)と紅茶(写真右)

食後しばらくウトウトし、その後雑誌や新聞を読んだり、アテンダントと雑談して過ごす。今回お話ししたのは、日本人アテンダント。美人なのに可愛らしい魅力的な方であった。かつてKLMでアテンダントをしていたが、結婚を機に退職。しかし落ち着いたので、再びアテンダントに応募し、最近復活したところだという。一度辞めたアテンダントが、同じ会社に戻るというのは珍しいとの事。彼女の場合は大阪在住で、関空発の飛行機にだけ乗るとの事。今回この飛行機に乗る前にお話ししたエールフランスのアテンダントの場合は、フランスに住所を持つ必要があり、そのため当然、成田に飛ぶ便にも乗るとの事。そういえば給与がユーロ建てなので、最近のユーロ安のため、円ベースでみると目減りしていると言っていた。KLMの彼女の場合は円建てなので、為替の影響を受けないとの事。その他にも色々とお話を聞かせて頂く。おかげで退屈せず、むしろ楽しいひと時を過ごす事ができた。

20:55頃、軽食が出される。メニューは次の通り。

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・前菜(ジビエのテリーヌ、マッシュルームのマリネ、ビーンズ、ミックスピーマン、黒オリーブ、粒マスタード)(写真左)
・温かいお料理(鮭の塩焼き、牛肉の煮物、蒲鉾、里芋、椎茸、さやえんどう、ご飯)(写真中)
・デザート(新鮮なフルーツ)(写真右)
・コーヒー

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22:32(現地時間15:32、以下現地時間)、アムステルダムの空港に到着。その後フリータイムになる。アムステルダムの空港は久しぶりだったが、空港内を歩いていると少しずつ思い出してきた。オランダの空港らしく、チューリップのお店(写真左)やチーズを売るお店(写真中)、ミッフィーの展示されたお店(写真右)などが並ぶ。

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面白いのは、アムステルダム国立美術館分館(写真左)があることだ。1Fがミュージアムショップ(写真中)で、2Fは展示スペースになっている。今回のテーマは「Dutch Girls」と「The Golden Age」で、16点の絵画が展示されていた(写真右)。

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ここでの展示を見てからビジネスクラスのラウンジ(写真)に向かう予定であったが、展示場に置かれている長椅子に腰かけ雑談していたツアーメンバーに声をかけられたので、やむを得ず応じているうちに時間が過ぎてしまう。18:00に添乗員と一緒にEU入国手続きと手荷物検査を受けることにしていたので、ラウンジで過ごせたのは、わずか10分ほどであった。

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手荷物検査が、これまでに受けた中で最も厳しく、カバンを開けて何度もチェックされた。どうやら、可変式コンセントを得体の知れないものとしてマークしていたようだ。10分ほどかかって、ようやく通過。安全のためとはいえ、面倒である。手続きを終えた後、今度はそのままビジネスクラスのラウンジ(写真)に向かい、ここで1時間ほど過ごす。

ウィキペディア・フリー百科事典(スキポール空港)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E7%A9%BA%E6%B8%AF

スキポール空港の公式HP(英語版)
http://www.schiphol.nl/index_en.html

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20:10に搭乗(写真左)し、20:33に離陸。途中、軽食(ソーセージとポテト、チーズサラダ他 : 写真中)を頂き、22:05 ワルシャワ空港に到着。空港の雰囲気は、関空に似ているように思えた(写真右)。

ウィキペディア・フリー百科事典(ワルシャワ・フレデリック・ショパン空港)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AF%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%91%E3%83%B3%E7%A9%BA%E6%B8%AF

ワルシャワ・フレデリック・ショパン空港の公式HP(英語版)
http://www.lotnisko-chopina.pl/en/passenger?cl=en&set_language=en


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空港を出ると、現地ガイドが迎えに来ていた。待たせていたバス(写真左)に乗り、20分ほどでワルシャワの中心街にあるホテル「ホリディ・イン・ワルシャワ」(写真中)に到着した。近くには、ライトアップされた「文化科学宮殿」(写真右)がそびえている。

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23:30頃入室。明るい茶色系でまとめた落ち着いた雰囲気の部屋で、清潔感もある(写真)。入浴、荷物の整理を行い、00:30頃ベッドに入る。


ホリディ・イン・ワルシャワ(英語版)
http://www.holidayinn.com/hotels/us/en/warsaw/wrspl/hoteldetail



October 12, 2011

「クロアチア・スロベニアの旅」お気に入り写真

クロアチア・スロベニアの旅(最終回)

今回はこのシリーズの最終回として、私のお気に入りシーンの写真を10枚ご紹介する。すでにこのブログのどこかで使用したものばかりだが、「ハンガリー、スロバキア、オーストリア、チェコの旅」の時と同じ様に、絵日記のつもりでご覧頂ければ幸いである。

① リュブリャーナの「龍の橋」(スロベニア)

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② ブレッド湖とブレッド島(スロベニア)

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③ 対岸から見たトロギールの街(クロアチア)

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④ トロギールの聖ロヴロ大聖堂(クロアチア)

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⑤ スターリー・モスト(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)

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⑥ 「クルカ国立公園」の「スクラディンスキ・ブク湖」に架かる橋(クロアチア)

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⑦ 「プリトヴィッツェ湖群国立公園」にある「ガヴァノヴァツ湖」の小さな滝(クロアチア)

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⑧ アドリア海の日没(クロアチア)

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⑨ スルジ山から見たドブロヴニク旧市街(クロアチア)

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⑩ コトルのシュクルダ川沿い城壁(モンテネグロ)

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October 11, 2011

ポーランドの旅から戻る

ポーランドの旅(第一回)

本日、ポーランドから戻った。10月4日(火)から10月11日(火)までの8日間の旅だ。ワルシャワからスタートし、カジミェーシュ・ドルニィ、ザモシチ、サンドミェシュ、クラクフと廻り、再びワルシャワに戻るというコースである。

ツアーのスケジュールでは、クラクフ滞在中にアウシュヴィッツを、またワルシャワに宿泊している時にはショパンの生家のあるジェラゾヴァ・ヴォラに行く予定であったが、私はどちらにも参加せず、クラクフやワルシャワの街を一人で散策していた。

アウシュヴィッツについては、あまりにも残酷かつ悲しい場所のため、生理的に受け付けないことから不参加とし、ジエラゾヴァ・ヴォラに関しては、ショパンに興味が無いという理由で行かなかったのである。

その間、街を歩いて色々な建物を見ることができたので、私にとっては非常に楽しい時間であった。残念だったのは、ワルシャワで観光した日が日曜日だったことである。平日であればポーランドの国立銀行を訪ねるところなのだが、休みでは仕方がない。

今回の旅については、明日以降詳しくお話しするつもりである。時差ボケのため本日はここまで。

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※ 写真左 : ワルシャワ「ヴィラヌフ宮殿」、写真右 : ヴィエリチカ岩塩採掘場



地方自治法施行60周年記念貨幣(沖縄県、神奈川県、宮崎県)の図柄が決定される

地方自治法施行60周年記念貨幣(沖縄県、神奈川県、宮崎県)の図柄が決定される

10月7日、財務省から、平成24年度前半に発行される予定の「地方自治法施行60周年記念貨幣(沖縄県、神奈川県、宮崎県)の図柄」を決定したとの発表があった。図柄については次の通り。

1. 千円プレミアム型銀貨幣

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(1) 沖縄県
デザイン : 首里城と組踊(写真 : 左)

(2) 神奈川県
デザイン : 鶴岡八幡宮と流鏑馬[やぶさめ](写真 : 中)

(3) 宮崎県
デザイン : 宮崎県庁本館と高千穂の夜神楽(写真 : 右)


2. 五百円バイカラー・クラッド貨幣

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(1) 沖縄県
デザイン : 那覇大綱挽とエイサー(写真 : 左)

(2) 神奈川県
デザイン : 鎌倉大仏(写真 : 中)

(3) 宮崎県
デザイン : 宮崎県庁本館(写真 : 右)

※各コインの画像は財務省のHPより転載した。

以上の発表とあわせて、平成23年度後半に発行される予定の「地方自治法施行60周年記念貨幣(滋賀県、岩手県及び秋田県)の5百円貨幣の発行枚数も案内された。

滋賀県 : 177万枚
岩手県 : 179万枚
秋田県 : 174万枚

なお、これらの記念貨幣の引換時期は、平成24年1月頃の予定で、引換要領については、本年12月頃財務省から発表される見込みだ。詳しくは、次に揚げる財務省のHPをご覧頂きたい。


・「地方自治法施行60周年記念貨幣(沖縄県、神奈川県、宮崎県)の図柄」について(財務省のHP)
http://www.mof.go.jp/currency/coin/commemorative_coin/47_pref_coin_program/kk231007.htm



October 10, 2011

アルバニア・ティラナから関空へ

クロアチア・スロベニアの旅(第19回)

第8日目~9日目(9月3日[日]~4日[月]) : 晴れ、ローマは小雨、関空は曇り)

3:00 起床
3:45 部屋を出る
4:05 ホテルを出発
4:30 ティラナの空港に到着
5:00 チェックイン
5:30 出国手続き
5:50~6:00 バスで移動
6:00 搭乗
6:30 離陸
7:35 ローマの空港に到着
7:45~7:53 バスでターミナルヘ移動
8:00~8:21 出国手続き、手荷物検査
8:30~10:00 第一ラウンジで過ごす
10:00~10:30 塔乗ターミナルへ移動、ショッピング
10:30~14:05 第二ラウンジで過ごす
14:30~14:45 バス乗車するが、しばらく待たされる
14:45~14:50 バスで移動
14:50 塔乗
15:00 離陸
16:30~18:15 夕食
19:00~翌日 寝る

第9日目(9月4日[月]) :曇り)
(日本時間)
8:30頃目覚める(朝食は頂かず)
9:15 着陸態勢に入る
9:40 着陸
9:48~9:51モノレールで移動
9:51~9:55 入国手続き・税関手続き
9:55~10:00 宅配便で手荷物を送付する
10:00~10:40 関空の「KYK」で黒豚ひれトンカツを頂く


本日は最終日。ティラナから、ローマ乗り継ぎで関空に向かう予定だ。ティラナからローマへは、午前6:15発の飛行機に乗るため、ホテルを午前4:00に出る。午前3:00にモーニングコールが鳴り、目覚める。昨日配られたランチボツクスの中から、ハムサンド、ヨーグルト、バナナなどを頂き、午前3:45に部屋を出てロビーに向かう。

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午前4:05、バスはティラナ空港へ出発。道路は空いており、午前4:30に空港へ到着した。田舎の空港をイメージしていたのだが、新しくて綺麗な感じの空港であった(写真)。チェックインの後、そのまま出国手続きを済ませ、午前6:00に搭乗した。

Tirana International Airport(英語版)
http://www.tirana-airport.com.al/
ウィキペディア・フリー百科事典(ティラナ・リナ空港)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%A9%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%8A%E7%A9%BA%E6%B8%AF

飛行機は予定より約10分遅れで動き出す。飛行機の中で、アルバニア人の母・息子と一緒になった。カナダに住んでおり、里帰りしていたようだ。息子は14歳でハイスクールの1年生。あどけない顔だが、体は相撲取りのようにガッチリしていた。将来何になりたいのかと訊ねると、「サッカー選手」との応えが返ってきた。

約1時間15分のフライトでローマの空港に到着。小雨の中、バスでターミナルまで移動し、今度はEUの出国手続きをする。手荷物検査の後、第一ラウンジに入る。乗り継ぎまで8時間ほどの待ち時間があったので、ローマの街まで出掛けることもできたのだが、特に行きたいところも無かったので、そのまま空港で過ごした。

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第一ラウンジ(写真左)で1時間半ほどのんびり休み、ウインドショッピングをしながら、搭乗口のある第二ラウンジに向かう。午前10:30から午後2:05まで第二ラウンジ(写真右)で過ごす。約3時間半あったが、旅の疲れからであろう。ほとんどの時間をソファで寝ていた。

午後2:30、搭乗口からバスに乗り、飛行機まで移動する。バスの中で待たされたため、飛行機に乗ったのは午後2:50であった。午後3:00頃離陸。離陸後1時間半ほどして昼食が出される。私の選んだメニューは次の通り。

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[アンティパスト]
・アーティチョークとサルデーニャ産ペコリーノチーズ(羊乳)のオムレツ(写真左)
[ランチ]
(プリモ)
・野生のフェンネル(ういきょう)で香りづけした滑らかな食感のマカロニ(写真中)
()(セコンド)
・はちみつとフェンネル(ういきょう)を塗ったヒルデーニャ風子豚の丸焼き(写真右)
(ベジタブル)
・なすのロースト、ドライトマトと刻みアーモンド添え(写真右)
・ミントとサルデーニャ産ペコリーノチーズで蒸し煮にしたアーティチョーク(写真右)
・焼きポテトのローズマリー風味(写真右)
・季節のサラダ(写真下左)
(デザート)
・リコッタチーズを使った焼き菓子”パルドゥラス”(写真下中)
・イチジクのタルト(写真下中)
・伝統的なナッツのビスケット”クツチュレツディ”(写真下中)
・コーヒー(写真下右)

食後は1~2度トイレに起きる以外、朝食も食べずに関空まで寝続け、日本時間の午前8:30頃目覚める。午前9:40、関空に着陸。

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飛行機を降りてからモノレールでターミナルに移動し、入国手続きと税関手続きを済ませ外に出る。書籍で重くなった鞄を宅配便で送付する。そして、帰国後いつも楽しみにしているトンカツを食べるため、関空の「KYK」に向かう。今回は「黒豚ひれトンカツ」を頂く(写真)。天候、メンバーにも恵まれ、今回も非常に楽しい旅行であった。無事に帰国できたことを感謝。

(参考文献)
・「地球の歩き方 クロアチア・スロヴェニア ‘08~’09」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社]
・「地球の歩き方 中欧 ‘11~’12」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社]



October 09, 2011

アルバニアの首都ティラナ

クロアチア・スロベニアの旅(第18回)

午後12:50、コトルでの観光を終え、バスでアルバニアの「ティラナ」に向かった。コトルからティラナまで約260kmある。アルバニアの道路事情が悪いうえ、本日は土曜日なので混雑も予想されることから、ホテルに到着するのは5時間後の午後7:30頃の予定だ。道路事情が悪いというのは、舗装されていない場所があったり、二台の車がすれ違えないほどの細い道があるということらしい。また、牛の行列に出会うと追い越す事ができず、牛の後をユックリついて行かなければならないこともあるという。なるほど、時間がかかりそうである。運が良いことを願うだけである。1時間ほどバスの窓から海の景色を楽しんでいたのだが、だんだん眠くなったので、しばらくひと眠りすることにした。

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午後2:55 「VLADIMIR」のGSでトイレ休憩を取る(写真左)。約30分休んだ後、再びアルバニアに向けてバスは走り出した。午後3:35、アルバニアの国境で入国手続きを取る。しばらく走ると、周囲は牧草地が続く。すると道路の先に牛がいた。幸い数頭の群れだったので、追い越す事ができた。その後牛に出会うことも無く、また渋滞にもはまらず、バスはスムーズに走り続けた。午後5:00頃になると、周りの景色は一変し、急に都会になった。街中に入ってからも渋滞はなく、ティラナの中心部も順調に走り、予定よりも1時間半ほど早い午後6:00に本日宿泊する「シェラトン・ティラナ・ホテル&タワーズ」(写真右)に到着した。

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添乗員がチェックインの手続きをしている間に、フロントでアルバニアの紙幣とコインの両替を試みたが、コインは全く無く、紙幣も全種類揃わなかった。午後6:30入室(写真)。部屋は広く、重厚な雰囲気である。机に照明スタンドもあるので、資料整理するのには都合が良い。窓の外には「サッカー競技場」が見える。スタンドに誰の姿も見えないので、本日、試合は無いのであろう。

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夕食はホテルのレストランで午後7:00から。あまり時間はなかったが、午後6:40、コレクション用の紙幣とコインを手に入れるため、ホテル近くにある外貨両替店へ出かけた。最初に「マザー・テレサ広場」(写真左)に出る。東側には「考古学博物館」(写真右)が建ち、南側と西側には「ティラナ大学」(写真中段左)の校舎が並ぶ。ホテルスタッフの話では、すぐに分かると言っていたが、どこに両替所があるのか見当もつかない。もう少しお店のありそうなところを探した方が良いと思い、「考古学博物館」の横を通り、「サッカー競技場」(写真中段右)の前に出てから北に向かった。少し歩くと、右手に銀行(写真下段左)の看板が見えた。「これだ!」と思い、急いで銀行の前まで行くが、ATMコーナーが開いているだけであった。銀行の向い、西側に「COIN」という看板の出たお洒落なビルが建っていたので、中に入ってみることにした(写真下段右)。後に添乗員に聞いて知ったのだが、イタリア系の百貨店らしい。私は「COIN」だから、当然両替所もあるだろうと単純に考えていた。

そして天は私の味方をしてくれた。ビルの中に入っていくと、奥に外貨両替所があったのである。コレクションのため、アルバニアの現行紙幣とコインすべてが欲しい旨伝えると、彼もコレクターなのだろうか。コンディションの良い物を選んで、すべての種類の紙幣とコインを揃えてくれた。

COINの公式HP
http://www.coin.it/jsp/it/index/index.jsp

時計を見ると、午後6:55である。集合時間にあと5分しかない。しかし、夕食会場のレストランはホテルの中だ。他のメンバーを待たせることもないので、落ち着いてホテルに戻る。レストランに着いたのは午後7:05であったが、他のメンバーは既にレストランの席に着いていたのでひと安心だ。

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夕食のメニューは次の通り。
・ミート入りフライ(写真左)
・シーフードライスと白身魚のクリームソース掛け(写真右)
・ナッツ類の入ったアイスクリーム(写真下左)
・ティラナビール(ノンアルコールではない : 写真下右)

約1時間で夕食を終え、ランチボックスを受け取り、午後8:20頃部屋に戻る。その後入浴、資料整理、荷物整理を済ませた。明日の朝は午前4:00出発なので、午前3:00に起きて、部屋で朝食のランチボックスを食べることになる。最終日なので、帰国した際に困らないよう、荷物整理は慎重に行なう。午後10:00、ベッドに入る。

シェラトン・ティラナ・ホテル
http://www.starwoodhotels.com/sheraton/property/overview/index.html?propertyID=1439

(参考文献)
・「地球の歩き方 中欧 ‘11~’12」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社]


October 08, 2011

モンテネグロの要塞都市「コトル」

クロアチア・スロベニアの旅(第17回)

第7日目(9月3日[土]) : 晴れ)

5:50 起床
6:00~6:45 朝食
8:00 ホテルを出発
8:35~8:50 クロアチア国境(出国)
8:55~8:59 モンテネグロ国境(入国)
9:05~9:20 「ヘルツェグ・ノヴィ(Herceg Novi)」のGSでトイレ休憩
10:20 「コトル」到着
10:25~11:45 旧市街観光
11:50~12:45 レストラン「Mediteran」で昼食
12:50 バスでアルバニアの「ティラナ」に向かう
14:55~15:20 「VLADIMIR」のGSでトイレ休憩
15:35~15:50 アルバニア国境(入国)
18:00 「シェラトン・ティラナ・ホテル&タワーズ」に到着
18:30 入室
18:40~19:05 コレクション用外貨両替のため外出
19:05~20:15 ホテルのレストランで夕食
20:20~22:00 入浴、資料整理、荷物整理
22:00 就寝


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昨日、ドブロヴニク旧市街の観光を十分にしたので、本日はゆっくり起きることにした。午前5:50に目覚め、午前6:00からホテルのレストランで朝食を頂く。本日もフルーツが中心の軽めの食事である(写真)。もちろん、好物のスイカはタップリ頂いた。ノンビリ食事を済ませた後、部屋に戻って荷造りを済ませ、ベッドでゴロゴロしていた。午前7:50、出発時間が近づいたので、部屋を出てロビーに向かう。

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午前8:00、最初の目的地であるモンテネグロの「コトル」へ向け、バスで出発した。旧市街の城壁(写真左)の前を通り、その後東南方向に走る。右手には、「ロクルム島」(写真右)が見える。島の前にはクルーズ船だ。しばらく、アドリア海の景色を楽しみながら進む。30分ほど走ると、糸杉が多く見られるようになった。するとすぐにクロアチアの国境である。やや混雑していたので、15分ほど時間がかかる。出国の手続きを済ませ、数百メートル走ると、次はモンテネグロの国境だ。こちらはスムーズで、5分ほどで通過した。

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入国手続きを済ませ、バスで5分ほど走った「ヘルツェグ・ノヴィ」にあるGSでトイレ休憩を取る(写真左)。約15分休憩時間があったので、トイレを済ませた後、道路の向かい側にスーパーがあったので、どのような様子かを見るために訪ねてみた。予想以上に大きなスーパーで、店の奥には精肉やソーセージ、チーズなどを売るコーナーもあった。ショーケースを覗くと、色々な種類のソーセージやチーズが並んでいるのだが、面白いし思ったのは、壁にかけて並べられた燻製類である。何の燻製なのか訊ねてみたが、言葉が通じず分からなかったのは残念であった(写真右・下段)。

「VOLI hipermarket」の公式HP(Herceg Novi店)
http://www.volivasvoli.com/index_en.php?lng=en&page=03018

休憩を終え、午前9:20、我々は再びバスで走りはじめた。今休憩をとった「ヘルツェグ・ノヴィ」は、アドリア海沿岸部の最西端に位置し、クロアチアの「ドブロヴニク」とモンテネグロの「コトル」という二つの世界遺産に挟まれている。

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再び右手にアドリア海を見ながら走っていると、「サリナの城壁」(写真左)の横を通り過ぎる。しばらく走ると、右手に潜水艦の基地であった穴が見えた(写真右)。かつてはここから潜水艦が出入りしていたとの事。残念ながら上手く写真に撮ることが出来なかった。その後「カナメリ」の街を通り過ぎ、コトル湾の喉と呼ばれている場所に出た(写真下左)。湾の一番狭くなった場所で、船が自由に出入りできないように、海中に鎖が張られていたという。ちなみにこの鎖、牛が引っ張って張っていたようだ。続いて「リサの町」、「ベラストの町」を通り、午前10:08、「コトル」の街が見えて来た。海岸近くでは、浮きのようなものが秩序正しく並んでいる。牡蠣やムール貝の養殖が行われているらしい(写真下右)。

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午前10:20、ようやく「コトル」の旧市街に到着した。バスを降りて、シュクルダ川に架かる橋を渡る(写真左)。川沿いには城壁が続く(写真右)。橋を渡って20~30mで、城壁内の旧市街への出入り口である「正門」が見えた。ツアーの予定では、旧市街観光の後、近くのレストランで昼食の予定であったが、私は昼食を食べずに観光するつもりだったので、バスに午後1:50に戻る約束でツアーを離れた。

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「コトル」は、「古代ローマの植民都市として発展しビザンチン、セルビア、ハンガリー、ボスニア、ヴェネチア、オーストリアなど何度も支配を替えながら天然の良港として海上交易や造船で栄えてきた」(「旅名人ブックス クロアチア」より)。複雑な海岸線を持ち、背後には険しい山々がそびえていることから、天然の要塞としての要件を備えている上、山に沿って城壁が張り巡らされているなど、要塞都市でもあった。「町を囲む城壁は9世紀にすでに造られていた。近隣の国々をことごとく占領したオスマントルコから町を防衛するために、ヴェネチア時代の1420年以降に城壁は山頂まで延長され18世紀まで補強と修復が続けられた」(前掲書より)。城壁の長さは4.5kmで、厚さは2~15m、高さは最大20mにも及ぶという。山の中腹を見ると、小さな教会が見える。「救世聖女教会」だ(写真)。ペストの蔓延が止まることを願い、15世紀に建てられた教会である。

城壁に囲まれた町には、「12世紀に建てられたロマネスク様式の大聖堂や、中世の面影を残す宮殿や広場など、往時の繁栄を伝える歴史的建造物が数多く残る。スラブ諸国で最初の航海士学校が創立されたのもコトルであり、この地で世界初のアドリア海の海図が作成されている」(「週刊世界遺産 ドゥブロヴニクの旧市街」より)との事。

ウィキペディア・フリー百科事典(コトル)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%88%E3%83%AB
ウィキペディア・フリー百科事典(コトル [Kotor : 英語版])
http://en.wikipedia.org/wiki/Kotor

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ツアーを離れ、最初に向かったのは「武器の広場」である。「正門」を入ってすぐの広場だ。この「正門」(写真左)はルネッサンス仕様で、1555年に造られた。「正門」をくぐる途中、右の壁には15世紀に造られた「聖母マリアとイエス」のレリーフがある(写真右)。ゴシック調で、マリアとイエスを囲むように、右手に「聖トリプン(コトルの守護神)」、左手に「聖ベルナール」が彫られている。

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「正門」を通り抜けると、「武器の広場」(「10月革命広場」とも呼ばれている : 写真上)に出た。ここには、カフェテラスが軒を連ねる。東側には17世紀に造られた時計塔が建つ。「武器の広場」という物騒な名称は、かつてここに武器庫が置かれていたことに由来する。旧市街には、コトルの貴族の館がいくつも残っているのだが、この広場にも「ベスクツァの館」(写真下左)や「ビザンティエの館」(写真下右)が建っている。

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この2つの館の間にある通りを南に10mほど歩くと、「オスロボジェニェ広場」(写真左)に出る。かつてこの場所に「小麦粉」を管理する軍の倉庫があったことから、「ブラシュノ(小麦粉)広場」とも呼ばれている。この広場にも、貴族の邸宅である「ブツァの館」や「ピマの館」(写真右)がある。

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「ピマの館」の南側の通路を東に向かうと、「大聖堂広場」(写真上)だ。もちろんここでのメインは「聖トリプン大聖堂」だが、この広場にも貴族の館である「ドラゴの館」(写真下左)が残されている。また、大聖堂の西側、向かい合う建物は「歴史文書館」(写真下右)だ。

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「聖トリプン大聖堂」(写真)は、聖トリプンの命で1166年に建てられたローマ・カトリックの教会である。ロマネスク様式の建物だが、2つの鐘楼の形が異なっている(33mと35m)。これは、1667年の大地震で被害を受けた際、十分な資金がなかったため、元の形に戻せなかったからだという。地震による倒壊は1979年にも経験しているが、この時は無事に復元された。

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教会内部を見ると、東側奥に天蓋付きの主祭壇(写真左)が置かれている。「コトル(日本語版)」によると、「大聖堂が有する芸術的価値の最たるものは祭壇上部にロマネスク・ゴチック様式で装飾が施された石製の天蓋である。この天蓋には1362年にヴェリゲのジュリチという村で採れた石が用いられており、最高傑作の一つである。天蓋は三段の柱で支えられており、フリーズには大聖堂の守護神でもある聖トリプンの営みが彫られている。祭壇上部の覆いに施された装飾は精緻に彫られた聖人のレリーフに金メッキがされており、コトルの金細工職人による作品の中でもその芸術的価値の高さには驚くべきものがある」との事。その他に祭壇の覆いも目を引く。銀メッキで華やかな装飾が施されているのだ。15世紀に作られたもので、こちらもコトルの金細工職人の手によるもの(写真右)。

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大聖堂の2Fには、コトルの守護聖人「トリプン」の遺骨が祀られているほか、「宝物庫」がある。「宝物庫」には、国内外の画家、彫刻家、金細工職人などの素晴らしい作品が数多く保管展示されている(写真)。

ウィキペディア・フリー百科事典(聖トリプン大聖堂 [Kotor Cathedral : 英語版])
http://en.wikipedia.org/wiki/Cathedral_of_Saint_Tryphon
ウィキペディア・フリー百科事典(聖トリプン [Tryphon,Respicius,and Nympha : 英語版])
http://en.wikipedia.org/wiki/Tryphon,_Respicius,_and_Nympha

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大聖堂の見学を終え、通常であれば「グレゴリナ広場」から「スヴェタ・ニコラ広場」に向かうところだろうが、私は「南門」に行ってみることにした。大聖堂の南側の通路を抜け、「シュカリヤルスカ広場」(写真左)に出る。広場の西側、ここにも貴族の邸宅である「ヴラキイェンの館」(写真右)が建っている。

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この広場から続く通りを更に20~30m南に進むと、西側に「文化センター」(写真)があった。ここには、この場所から出土した古代ローマ時代の石棺や碑文が彫られている石板が展示されているという。この通りの東側には、「聖フランチェスコ修道院と教会」がある。13世紀に建てられた同じ名前の教会跡に、1668年、南門に隣接する形で再建されたものだ。

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そして最後に「南門」(写真)である。三重の扉が閉められる構造で、その上方には見張り塔が設けられている。内側の門は16世紀のもので、中央の門は12~13世紀のもの、そして一番外側の門は「グルディチ川」に架かる木製の跳ね橋(18世紀のもの)に接している。門の外に出ると、子供たちが魚釣りをしていた。

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「南門」を見た後、再び来た道を引き返す。今度は「シュカリヤルスカ広場」の東側の道を歩く。「聖トリプン大聖堂」の東側を通り、50mほど歩いて左折すると、「聖アンナ教会」(写真)の前に出た。この教会は12世紀に造られたもので、コトルで最も美しく、かつ最もコトルらしいと言われている。中には入ることができなかったが、フレスコ画が素晴らしいという。鍵穴から覗いてみたが、良く分からなかった。

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続いて西に向かって20mほど歩くと、「スヴェタ・ニコラ広場」だ。この広場には、大小2つの教会が建っている。北側に建つ大きい方が「聖ニコラ教会」(写真)で、漁師の守護聖人を祀っている。1909年に建てられた東方正教教会だ。

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もう一方の、東側に建つ小さい教会は「聖ルカ教会」(写真)である。1195年にカトリック教会として建てられ、その後正教会としても使われるようになった。「19世紀まではカトリックと正教の二つの祭壇が置かれていたとても珍しい教会」(「旅名人ブックス クロアチア」より)である。残念ながら、この教会も中に入ることができなかった。

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ここで偶然、ツアーメンバーと一緒になった。私も一通り見て廻ったので、ここでツアーに合流し、予定を変更して昼食を頂くことにした。「スヴェタ・ニコラ広場」から「聖母マリア教会」(写真左)の前を通り、城壁北部の門(写真右)をくぐって、シュクルダ川架かる跳ね橋(写真下左)を渡ると、正面にレストランがある。ここが本日の昼食会場である「Restoran Mediteran」だ(写真下右)。

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昼食のメニューは次の通り。
・野菜サラダ(写真左)
・シーフードリゾット(写真中)
・ケーキ(写真右)

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約50分で食事を終え、他のメンバーより少し早目にレストランを出る。ガイドブックを購入したかったからだ。シュクルダ川沿いの城壁(写真)を見ながら、旧市街の西側にある「正門」に向かった。このそばにある土産物店でガイドブックを購入し、近くのインフォメーションセンターで地図をもらい、バスの待つ場所へと急いだ。
午後1:50、 バスでアルバニアの「ティラナ」に向かう。


ウィキペディア・フリー百科事典(モンテネグロ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%8D%E3%82%B0%E3%83%AD
ウィキペディア・フリー百科事典(モンテネグロの歴史)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%8D%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2


(参考文献)
・「地球の歩き方 中欧 ‘11~’12」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社]
・「旅名人ブックス クロアチア」(旅名人編集室編)[日経BP社]
・「週刊世界遺産 ドゥブロヴニクの旧市街」(菅家洋也編)[講談社]
・「コトル(日本語版)」(アナ・イヴェリャ・ダルマティン他編)[Tursticka naklada d.o.o.刊]



October 07, 2011

ドブロヴニク散策(その2)

クロアチア・スロベニアの旅(第16回)

午前11:30、ホテルに戻り、最初にシャワーを浴びる。とにかく暑いのだ。シャワーの後は、冷えた炭酸入りの水を数杯飲む。ようやく落ち着いたので、昼食用に準備していたパンなどを頂く。この後ベッドで横になっていると、いつの間にかグッスリ眠っていた。

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午後1:05、再び「旧市街」へ出かける。途中にあるビーチを見ると、人で一杯だ(写真)。私も観光ではなく、ビーチでゴロゴロしようかとも考えたが、まだ見たいところがあったので、誘惑に負けず「旧市街」に向かった。朝と同じルートでルジャ広場まで行く。
ここからはまた、訪れた場所、見たものを順にご紹介する。


・「総督邸(文化歴史博物館)」
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午前中に訪れた時にご案内した部分は省略するが、内部は現在「文化歴史博物館」になっている。ゲートをくぐると中庭があり、そこには青銅の像が置かれている。共和国の功労者「M.プラツァト」の像だ。彼はロプドの裕福な船主で、自分の遺産を共和国に寄贈したことから、1638年に元老院はこの像を建てたとの事。共和国一千年の歴史で、彼だけが像を献じられた市民のようだ。
館内には、いろいろな様式の家具や絵画、武器などが展示されている。中でも私の興味を引いたのは、貨幣だ。ラグーサ共和国時代のものだけでなく、オーストリア・ハンガリー帝国時代の貨幣も並べられていた。

旧総督邸(英語版)
http://www.mdc.hr/dubrovnik/eng/kulturnopovijesni/index.html
ドブロヴニクの博物館(英語版)
http://www.mdc.hr/dubrovnik/eng/index.html

・「セルビア正教会」
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この教会が建てられたのは、オーストリア・ハンガリー帝国時代の1877年である。スプリットの建築家「エミール・ヴェキエッティ」の設計によるもの。ラグーサ共和国時代には、旧市街に正教の教会を建てることが禁じられていたため、共和国が消滅してようやく建設することができたのである。「イコン博物館」が併設されており、15世紀から19世紀に、ダルマチアをはじめ、ギリシャ、ロシアモンテネグロで作られた貴重なイコンも展示されているという。閉館時間が午後2時だったので、今回は見ることができなかった。

・「マリン・ドルジッチの家」
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マリン・ドルジッチは、ドブロヴニク出身の劇作家で、かつてこの建物に住んでいたことから、1989年に彼の記念館としてオープンした。ここには、「クロアチア国内外で上演されたドルジッチ作品のポスター、プログラム、写真など劇場関係のコレクションが展示されており、ドブロヴニクのサマーフゥスティバルやその他のクロアチアで披露されてきた、20世紀の演劇の世界を紹介して」(「ドブロブニクより愛をこめて(日本語版)」より)いる。

ウィキペディア・フリー百科事典(マリン・ドルジッチ[Marin Drzic : 英語版])
http://en.wikipedia.org/wiki/Marin_Dr%C5%BEi%C4%87
マリン・ドルジッチの家の公式HP(英語版)
http://www.mdc.hr/dubrovnik/eng/marindrzic/index.html

・フランシスコ会修道院の回廊
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午前中、回廊と薬局を見ることができなかったので、再びここにやって来た。先ほど教会は見たので、今回は直接「回廊のある中庭」に向かった。「ドゥブロヴニクー歴史・文化・芸術遺産―(日本語版)」によると、「この回廊はバルのM.ブライコヴが1360年に建てたもので、アドリア海東岸でも有数の貴重な後期ロマネスク様式の回廊です。全体がよく調和とれており、庭を囲む回廊は日本の細い六角柱が一組になり天井を支え、それぞれが異なった柱頭をもっています」との事。中庭の中央には、15世紀に造られた井戸がある。また回廊の壁には、イタリアのアッシジ出身で、フランシスコ修道会の開祖として知られる「聖フランシスコ」の生涯が描かれている。

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この修道院内には、1391年に開業したヨーロッパでも3番目に古い薬局がある。博物館には、当時の薬局で使われた薬壺や器具類が展示されている(写真左)。なお、薬局はいまでも営業を続けていた(写真右)。

・「ピレ門」
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「旧市街の」西に位置するこの門が、一番出入りする人の多い門ではないだろうか。広場にはバス停があり、多くのお店が並んでいる。この門は1537年に建造された。門の上にはドブロヴニクの守護聖人「聖ヴラホ」の像が立っている。これはクロアチアを代表する彫刻家「イヴァン・メシュトロヴィチ」により、1922年に作られたものだ。

ウィキペディア・フリー百科事典(イヴァン・メシュトロヴィチ[Ivan Mestrovic : 英語版])
http://en.wikipedia.org/wiki/Ivan_Me%C5%A1trovi%C4%87

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ピレ門の見学を終え、時計を見ると午後3時過ぎであった。疲れも出て来たので、ぼちぼち歩きながらホテルに戻ることにした。プラツァ通りはクルーズ船の団体客で混雑が続いている(写真左)。日差しが強くて暑いので影を歩きたいのだが、すべての影を団体客が占拠していた。仕方がないので日が差す下を歩くが、ますます体力を消耗していく。ルジャ広場まで来て、ようやく木陰に入ることができた。多くの人が、「オノフリオの小噴水」から冷たい新鮮な水をペットボトルに汲んでいる(写真右)。頭からかけている男性もいた。少し休んでから、プロチェ門に向かって歩き始める。朝も立ち寄ったが、再び旧港を覗いてみた。大勢の観光客を乗せたボートが何隻も行き来している。壁の出っ張りに腰掛けて海を見ていると、ノンビリした気(写真下)分になってきた。ここでもしばらく「ボ~」として過ごし、再びホテルに向かった。

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プロチェ門を出て、海沿いの道を歩く。本日は夕食のない日だったので、途中のお店でピザを購入した。しばらく歩くと、ビーチが見えた。相変わらず、人で一杯だ(写真)。これほど暑いのであれば、私も水着を持ってくるべきであった。ホテルのプールでも泳げるのだから・・・。

午後3:50 ホテルに到着。部屋で洗濯、風呂、夕食を済ませ、資料整理をする。本日は疲れたので、午後8:30頃ベッドに入った。


ウィキペディア・フリー百科事典(ドゥブロヴニク)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%B4%E3%83%8B%E3%82%AF

(参考文献)
・「地球の歩き方 クロアチア・スロヴェニア ‘08~’09」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社]
・「旅名人ブックス クロアチア」(旅名人編集室編)[日経BP社]
・「週刊世界遺産 ドゥブロヴニクの旧市街」(菅家洋也編)[講談社]
・「ドゥブロヴニクー歴史・文化・芸術遺産―(日本語版)」(DURDICA SOKOTA他編)[FORUM d.o.o.刊]
・「ドゥブロヴニク (日本語版)」(山本寧雄編)[観光出版社刊]
・「ドブロブニクより愛をこめて(日本語版)」(Roberto Palliska編)[Dotisak d.o.o.刊]
・「THE MONASTERY OF THE MINOR BROTHERS」(Mato Njavro他編)[観光出版社刊]



October 05, 2011

ドブロヴニク散策(その1)

クロアチア・スロベニアの旅(第15回)

第5日目(9月2日[金] : 晴れ)

5:30 起床
6:00~6:45 朝食
7:00 出発
7:00~9:00 ドブロヴニク「旧市街」散策(ツアーを離れて自由行動)
9:00~9:50 ツアーと合流、ロープウェイで「スルジ山」の展望台で観光
9:50~11:30 ドブロヴニク「旧市街」散策(ツアーを離れて自由行動)
11:30 ホテルに戻る
11:30~13:05 部屋でシャワー、昼食、休息
13:05 外出
13:05~15:50 ドブロヴニク「旧市街」散策(ツアーを離れて自由行動)
15:50 ホテルに戻る
15:50~20:30 洗濯・風呂・夕食
20:30 就寝


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本日は、ドブロヴニクの観光である。暑くなりそうだったので、早朝から出掛けるつもりで、午前5:30頃起きる。レストランの開く午前6:00から朝食を頂く。広いレストランで、バルコニーに並ぶテーブルも使用できる。野菜や果物、ハムやポテト、卵料理など、メニューも豊富だ。私はハム・エッグに焼き野菜、そしてスイカを頂戴した(写真左)。明るくなり始めたので、食後バルコニーに出ると、「旧市街」が見えた(写真右)。思ったほど遠くはないようだ。10分もあれば行けるのではないだろうか。

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部屋に戻って身支度を済ませ、午前7:00にホテルを出た。今日もお天気が良さそうである。日中はかなり暑くなるのではないだろうか。海を眺めながら、「旧市街」まで歩く。十分に、異国の雰囲気を味わうことができる。5~6分歩いたところに、ビーチがあった。ビーチチェアがビッシリ並んでいる。まだ午前7:00過ぎだというのに、早くも水着に着替えて海に入っている人たちがいた(写真)。一日中、ビーチで過ごすのであろうか。

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さらに7~8分歩くと、「旧市街」の東の出入り口である「プロチェ門」(写真)の前に着いた。これをくぐると、いよいよ「旧市街」だ。この「プロチェ門」は、15世紀に作られたもので、外門と内門の二重になっている。その右手に見えるのは「レヴェリン要塞」で、門の上の「アシモン塔」(プロチェ塔)から敵の攻撃を見張っていたのであろう。

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橋を渡り、二重の門をくぐると、また城壁と二重の門が現れた。ドブロヴニクが城壁に囲まれたのは8世紀頃のことだが、現在の姿になったのは、15~16世紀に行われた大工事の後との事。奥に見える「ドミニコ会修道院」(写真)が修道院とは思えないような堅固な構造になっているのは、15世紀に城壁が延長されて「レヴェリン要塞」ができるまでは、この修道院が街の北東を守る要塞としての役割も果たしていたからだ。

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階段を上り、「ドミニコ会修道院」に入ってみた(写真左)。内部はシンプルな造りで、朝日を浴びてステンドグラスが輝いていた(写真右)。この修道院は、ゴシック様式の柱廊が残る中庭が美しいらしいのだが、見落としてしまった。祭壇に向かって右側に扉があったので、そこを出れば見ることができたのであろう。残念である。

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修道院を出て、壁の谷間のような石畳の路を歩いていると、左手に港が見えたので行ってみた。ここは「旧港」(写真)で、かつては世界の海に向かう船がここから出航したという。また、修理と造船の場でもあったようだ。現在は「ロクルム島」行きの観光ボートなどの乗り場になっている。

「旧港」を離れ、先ほどの路に戻り、10mほど歩くと「ルジャ広場」に出た。ここからは、訪れた場所、見たものを順にご紹介する。

・「ルジャ広場」
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ブラツァ通りの東端にある広場で、「スポンザ宮殿」や「聖ヴラホ教会」などに囲まれ、中央には「オルランド(ローランド)の柱」が立っている。またここから西の「ピレ門」まで、ブラツァ通りが一直線に続く。早朝、観光客はほとんどいなかったが、午後になるとカフェも出て、人で賑わっていた。

・「スポンザ宮殿」
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貿易都市ドブロヴニクを出入りする物資や財の管理所として、1516年に建てられた。ゴシック・ルネツサンス様式の建築で、3F部分には、ドブロヴニクの守護聖人「聖ヴラホ」の像が立っている。この建物は、倉庫としてのほか、税関や貨幣鋳造所でもあったようだ。ここで聖ヴラホの描かれた銅貨や銀のペルペル硬貨が鋳造されていたとの事。17世紀になると学者や知識人の集まる文化サロンとして使われたという。現在は、ドブロヴニクの歴史文書や裁判記録などの貴重な古文書を保管する古文書館となっている。

・「オルランド(ローランド)の柱」
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ルジャ広場のスポンザ宮殿前に、剣を持って立つ騎士オルランドの像が彫られた柱が立っている。オルランドはね8世紀にカール大帝に仕えた騎士で、1418年に自由の象徴として建てられた。この柱が有名なのは、オルランド像の右腕半分の長さが「ドブロヴニクの肘」と呼ばれ、当時の商取引に使う長さの基準になったからだ。この長さは51.2cmである。

・「オノフリオの小噴水」
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スポンザ宮殿の向かいにある鐘楼の下に造られた噴水。後で見る「オノフリオの大噴水」に比べてかなり小ぶりだが、ルネッサンス初期の人物や動物の姿をあらわした彫刻は良くできている。イタリアの彫刻家でメダル製造者のピエトロ・ディ・マルティーノ・ダ・ミラノの作品で、1440年から1442年までの2年間で制作されたという。

・「聖ヴラホ教会」
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ドブロヴニクの守護聖人、「聖ヴラホ」を祀った教会である。聖ヴラホが現れた972年の翌春に、教会の建設が始まったという。1667年の大地震で崩壊したと書かれている文献もあれば、大地震では崩壊しなかったのだが1706年の火災で焼失したという文献もあるので、どちらが正しいのかは分からないが、現在の建物は、1715年にヴェネチア人の建築家「マリン・グロッペ」によって、バロック様式で建てられたとの事。ファサードには、金の司教帽と杖を携えた「聖ヴラホ」の像が輝いている。
教会の中に入ると、正面には両脇を天使で飾った大理石の祭壇と、銀製の聖ヴラホ像が置かれている。この聖像は15世紀にドブロヴニクの職人によって作られたという。

ウィキペディア・フリー百科事典(聖ヴラホ教会[Crkva sv. Vlaha u Dubrovniku : クロアチア語版])
http://hr.wikipedia.org/wiki/Crkva_sv._Vlaha_u_Dubrovniku
ウィキペディア・フリー百科事典(ブラシウス)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%82%A6%E3%82%B9

・「総督邸」
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「ラグーサ共和国の総督の住居であると同時に、大評議会、小評議会、元老院など共和国の行政を司るすべての機関が集まったドブロヴニクの心臓部」(「地球の歩き方 クロアチア・スロヴェニア ‘08~’09」より)である。1435年、先に訪れたオノフリオの小噴水や、後に訪ねるオノフリオの大噴水で実績のあった、「オノフリオ・デッラ・カヴァ」によって建てられたゴシック様式の邸宅であったが、1463年に邸宅内の武器庫で火薬の大爆発が起こり大きく損傷したことから、ルネッサンス様式により補修された。さらに1667年の大地震により、南面が二連窓とも崩れ落ちたことから、この棟はバロック様式で再建され、同時にロココ様式で鐘の台が造られた。この結果ゴシック、ルネツサンス、バロックにロココまでが融合した建物になっている。ここは現在、「文化歴史博物館」として使われているが、開館が午前9:00だったので、後に訪ねることにした。
なお、隣に「市役所」や「劇場」などの入る建物が見られるが、当時はここに「大評議会」が置かれていたとの事。

・「大聖堂」
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ビザンチン時代にバシリカ教会が建っていたこの場所に、1192年、イギリス国王「リチャード一世」の資金援助の下、ロマネスク様式の教会に建て替えられた。しかしこの教会は、1667年の大地震で崩壊したため、現在見られるのは1713年に建てられたバロック様式の教会だ。教会内部はモダンな感じで、主祭壇には16世紀に活躍したヴェネチア派の巨匠「ティッツィアーノ」作、「聖母被昇天」が掲げられている。
ところで、なぜイギリスのリチャード一世が資金援助したのであろうか。言い伝えによると、彼は1192年、第三次十字軍遠征からの帰路、アドリア海で嵐に襲われ、ドブロヴニク沖のロクルム島に漂着して助かったからだという。実は嵐の最中、沈没寸前の船中で、彼は「もし命が助かったなら、その地と祖国に教会を建てる」と聖母マリアに誓っていたのだ。

・「グンドリッチ広場」
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広場の北側中央に、地元の誇る国民的詩人「イヴァン・グンドリッチ」の像が立っている。この像は1892年に建てられたもので、作者は現代クロアチア彫刻の先駆者「I.レンディチ」だ。この広場、午前中は賑やかな青空市場の屋台(写真上段)が、また午後にはレストランやカフェのテーブルが並ぶ(写真下段)。

・「聖イグナチオ教会」
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グンドリッチ広場から南に50~60m進むと、広い大きな階段がある。この階段の上に建つのが「聖イグナチオ教会」だ。教会の前には「R.ボシュコヴィチ広場」がある。1699年~1725年にローマの「聖イグナシオ教会」をモデルにバロック様式で建てられた。設計は、イエズス会の有名な建築家で画家でもある「I.ポッツォ」によるもの。「内陣はG.ガルシアの夢想風バロック・フレスコで飾られており、イエズス会創設者のイギナティウスの生涯が描かれ」(「ドゥブロヴニクー歴史・文化・芸術遺産―(日本語版)」より)ている。

・「オノフリオの大噴水」
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この町には十分な飲料水がなかったため、ドブロヴニクのジュパにある源泉から特別船で水を運んでいたのだが、それでも十分に需要を賄うことができなかった。そこで元老院は、イタリア・ナポリの「オノフリオ・デッラ・カヴァ」を招き、水道設備を造らせたのである。彼は12km離れたドゥブロヴァチュカ川のシュメトという源泉から水を引くため用水路を整備し、1438年に完成した。この噴水は16面あり、それぞれにマスケロンと呼ばれる頭像がデザインされ、その口から水を噴き出している。この水は現在も飲むことができるので、ペットボトルに汲んでいる観光客もいた。
ちなみに、先ほど見た「オノフリオの小噴水」は、大噴水ができた後に引かれたものだ。

ウィキペディア・フリー百科事典(オノフリオの大噴水[Velika Onofrijeva cesma : クロアチア語版])
http://hr.wikipedia.org/wiki/Velika_Onofrijeva_%C4%8Desma


・「フランシスコ会修道院」
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「14~15世紀にかけて建てられたこの修道院は、もともと城壁外部にあったが、外敵から守るために14世紀にピレ門の入り口近くという現在の場所に移されたという」(「地球の歩き方 クロアチア・スロヴェニア ‘08~’09」より)。プラツァ通りに面し、城壁のようなドッシリとした高い壁に、小さな入口がある。「扉の両脇の柱上には聖イエロニムと洗礼者聖ヨハネが立ち、その間のゴシックの壁龕には浮き彫りのピエタが置かれて、その上には父なる創造主が立っている」(「ドゥブロヴニクー歴史・文化・芸術遺産―(日本語版)」より)。現在の建物は1667年の大地震の後再建されたものだが、このピエタ像と後に見る中庭は14世紀のままだ。教会内部は新しく、シンプルな感じである。バロック様式の祭壇とキリストの生涯を描いた絵が並ぶ。ケーブルに乗る時間が迫っていたので、中庭や薬局は後に見ることにした。

・「プラツァ通り」
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先ほども少し触れたが、ルジャ広場から西側のピレ門までの約200m、一直線に続く通りだ。旧市街のメイン通りで、その両脇には土産物店や銀行、カフェやレストランなどお洒落なお店も並ぶ。

・「スルジ山」
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時計を見ると、午前8:47だ。ツアーグループは午前9:00にホテルを出て、最初にロープウェイでスルジ山へ上る予定だったので、私もこれに加わるため、ケーブル乗り場に向かった。ロープウェイの乗車料を節約するためである。北の城壁のほぼ中央にある「ブジャ門」から出るのが最も近いので、プラツァ通りから北に向かって路地を歩いた。かなりの高低差があるようで、急な階段を上らなければならない(写真左)。日ごろの運動不足のためか、足が重い。しかし5分ほどで「ブジャ門」に到着した(写真右)。時間に余裕があったので、数枚城壁の写真を撮り、その後3~4分歩くと、右手にロープウェイ乗り場が見えた。ちょうど午前9:00。まだ誰も来ていなかったので、乗り場のベンチに腰をかけて待つ(写真下段)。午前9:07、ツアーメンバーがバスに乗ってやって来た。午前9:10のロープウェイでスルジ山に昇る。

スルジ山は標高412mで、頂上からは「旧市街」だけでなく、ドブロヴニクの街全体を見渡す事が出来る。1991年のクロアチア独立戦争により、このロープウェイも破壊されたが、今年になって運転が再開された。10分もかからず頂上まで行けるのだ。

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ロープウェイを降りて、展望台に向かう。ここからの眺めは素晴らしい。ここに来るまでに少し「旧市街」を観光していたので、どの辺りを歩いていたのか確認することができた。アドリア海の碧さと赤い屋根の街並み。その中に見える緑の山々や島もアクセントになる。

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展望台の裏手に行くと、十字架の乗った碑が建っている(写真左)。ドブロヴニクを征服し、共和国を崩壊に追い込んだナポレオンが建てたもののようだ。ここからも眺めを楽しんだ後(写真右)、午前9:45、ロープウェイに乗り、下山した。「ブジャ門」まで来たところで、ツアーメンバーは城壁沿いに東側に向かうとの事だったので、私は皆さんとここで別れた。ブジャ門から再び旧市街へ入り、今度は急な階段を下る。プラツァ通りに出てそのまま西へと歩き、ピレ門側の城壁の遊歩道入口に向かった。

・「城壁の遊歩道」
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ピレ門側の出入口から城壁の遊歩道に入る(写真)。北西部の最も高い位置に築かれた「ミンチェタ要塞」だけを見て帰ろうと思っていたのだが、遊歩道は左回り。要塞は右にあるので行くことができない。仕方がないので、城壁を反時計回りに歩く。一周するのにどれぐらいの時間がかかるのだろうか。
ところで、城壁の長さは1,940mで、高さは最高で25m。旧市街が城壁に囲まれたのは8世紀頃で、現在見られるような姿になったのは15~16世紀にかけてのこと。1667年の大地震でもほとんど被害がなかったというのだから、その頑丈さには驚かされる。以下は、城壁の遊歩道で訪れた観光ポイント。

・「ボカール要塞」
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西の陸と海の両側からの攻撃に備えて造られたこの要塞は、後で訪れる「ミンチェタ要塞」をより強力に建て替えた、フイレンツェの建築家「M.バルトロメオ」の手によるもの。ちなみに、この要塞の外見が、柔らかな美しさ、丸み、そして花器らような上品さを持っていたことから、「ボカール」(水差し)と呼ばれるようになったとの事(写真左 : 手前が「ボカール要塞」、その向こうに見えるのは「ロヴリイェナツ要塞」、写真右 : 右下が「ボカール要塞」)。

・「聖イヴァン要塞」
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旧市街の南東部に位置した港を守るために造られた要塞である。最初に建てられたのは14世紀半ばで、その後何度か改修され、現在見られる姿は16世紀のものだ。主に地元の建築家「P.ミリチェヴィチ」が手がけたもので、海に面した壁は円形で、下の部分は傾斜しているが、港側の壁は垂直で平面になっている。

・「海洋博物館」
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聖イヴァン要塞の2F~3Fを利用しており、市の歴史にとり重要な絵画や模型、文書などが展示されている。1Fは水族館になっているようだが、ここは訪れなかった。

・「レヴェリン要塞」
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朝、ホテルから旧市街に入る時にくぐったプロチェ門の側に見られた要塞だ。オスマントルコの脅威が東から迫っていた、1462年に造られた。「ドブロヴニク市民はこの場所が防衛の弱点と予見し、1539年にベルガモの軍事建築家アントニオ・フェラモリーノのプロジェクトに沿って、要塞の建築に着手した」(「ドブロブニクより愛をこめて(日本語版)」より)という。この要塞は、プロチェ門への接近を防ぐためその外側に位置しており、打ち抜くことが不可能と思えるほどの厚い石の壁で囲まれている。

・「ミンチェタ要塞」
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旧市街の北西部、最も高い位置に築かれた要塞である。ここを所領としていた「メンチェティチ家」が呼び名の由来だ。この要塞は当初は四面体で、地元の建築家「N.ラニイナ」により1319年に建てられた。1463年にボスニアがオスマントルコの手に落ちたことから、フイレンツェの建築家「M.バルトロメオ」を招き、より強力な要塞に再建した。この時、壁の厚みは6mにもなったのである。

ツアーの添乗員が、ここの塔だけは絶対に上った方が良いと言っていたので、何とかやって来たが、先ほどもお話しした通り、ピレ門側の出入口から入ると半時計回りにしか歩けないので、結局城壁を一周することになってしまった。遊歩道に入ったのが午前10:00。出たのは午前11:12だったので、私の早足でも1時間以上かかった。
昼の暑い盛りで、かつクルーズ船の観光客が押し寄せていた時間帯だったので遊歩道も混雑しており、思うように進めず非常に疲れた。夏のお天気の良い時期に城壁の遊歩道を歩くのであれば、まだ涼しくて、クルーズ船の観光客も少なくなった朝一番か夕方をお薦めする。遊歩道への入口は、「ピレ門」と「聖イヴァン要塞」、「レヴェリン要塞」の3か所あるので、「ミンチェタ要塞」だけに上りたい方は、「レヴェリン要塞」から入って「ピレ門」から出るのが良い。

午前11:12、ピレ門側の出入口から城壁の遊歩道を降り、プラツァ通を東に向かい、プロチェ門から旧市街を出てホテルに戻る。全身を、汗が滝のように流れていた。


ウィキペディア・フリー百科事典(城壁 [Walls of Dubrovnik : 英語版])
http://en.wikipedia.org/wiki/Walls_of_Dubrovnik
ウィキペディア・フリー百科事典(ドゥブロヴニク)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%B4%E3%83%8B%E3%82%AF

(参考文献)
・「地球の歩き方 クロアチア・スロヴェニア ‘08~’09」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社]
・「旅名人ブックス クロアチア」(旅名人編集室編)[日経BP社]
・「週刊世界遺産 ドゥブロヴニクの旧市街」(菅家洋也編)[講談社]
・「ドゥブロヴニクー歴史・文化・芸術遺産―(日本語版)」(DURDICA SOKOTA他編)[FORUM d.o.o.刊]
・「ドゥブロヴニク (日本語版)」(山本寧雄編)[観光出版社刊]
・「ドブロブニクより愛をこめて(日本語版)」(Roberto Palliska編)[Dotisak d.o.o.刊]
・「THE MONASTERY OF THE MINOR BROTHERS」(Mato Njavro他編)[観光出版社刊]


October 04, 2011

橋の守り人「モスタル」

クロアチア・スロベニアの旅(第14回)

第5日目(9月1日[木] : 晴れ)

6:20 起床
6:30~7:05 朝食
7:00~7:15 ホテル内散歩
7:15~7:45 部屋で出発の準備
8:00 出発
9:16~9:34 「グルービネ(GRUBINE)」でトイレ休憩
9:46~9:50 クロアチア税関
9:50~9:52 出国手続き
9:52~10:00 ボスニア・ヘルツェゴヴイナ入国手続き
10:55モスタルの街見える
11:04~14:50 「モスタル」観光(ツアーを離れて自由行動)
14:58 出発
15:25 オスマントルコ時代の遺跡見える
15:40~15:49 ボスニア・ヘルツェゴヴイナ出国手続き、クロアチア入国手続き
16:20~16:21 ボスニア・ヘルツェゴヴイナ入国、クロアチア出国(ネウム)
16:26~17:10 ネウムのスーパーマーケットでトイレ休憩
17:20 ボスニア・ヘルツェゴヴイナ出国、クロアチア入国(ネウム)
17:30~18:35 レストラン「VILA KORUNA(ヴィラ・コルナ)」で夕食
19:30 ホテル「グランド・ヴィラ・アルジェンティーナ」到着
20:00 入室
0:00 入室
20:00~23:00 入浴、荷物・資料整理
23:00 就寝


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本日も、特に出かけたい場所は無かったので、レストランが開くのに合わせて目覚める。午前6:30にレストランに行くと、これからオープンするところであった。本日は一番乗りである。部屋同様、少しお洒落な今風のレストランだ。メニューも豊富で、色々と選ぶことができる(写真左)。本日はパンケーキにベーコン、スクランブルエッグなどを頂く。もちろんスイカは忘れていない(写真右)。

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30分ほどで食事を終え、ホテル内を散歩することにした。階段で1Fに降り、外に出て20~30m歩くとプールがある。その先には海も見える。今回ぐらい日差しが強く、気温も高いのであれば、水着を持ってくるべきであった。プールは海と一体に見えるように作られており、なかなか感じが良い(写真左)。海の向こうに見えるのは、「ブラチ島」であろうか。古くから良質の大理石を産することで知られてきた島だ。建物が密集しているので、島の最大都市「スペルタ」であろう(写真右)。街全体が朝日に照らされ、美しく浮かび上がっている。プールの脇にある階段を下りて、海岸に出る。日中に見る海の色はコバルトブルーで、サンゴ礁の海と変わらないぐらいの美しさだが、海岸の砂は荒目で、サンゴ礁の島の海岸で見られるようなパウダーサンドではない。

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しばらく海岸を散歩した後、ゆっくり部屋に戻る。荷物の再チェックを済ませ、ほんのひと時、部屋のバルコニーで海を眺めてノンビリ過ごす(写真)。午前7:45になったので、ロビーに向かう。午前8:00、予定通りにバスは出発、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの「モスタル」に向け走り出した。

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バスは海岸沿いを走る。右手には、先ほどホテルの海岸から見えた「ブラチ島」が続く(写真)。先ほども少し触れたが、この島は良質の大理石の産地で、昨日訪れた「デイオクレテイアヌス宮殿」は、ここの石を使って造られている。その他にも、トルコの「アヤソフィア」やUSAの「国会議事堂」に「ペンタゴン」、ハンガリーの「国会議事堂」やイタリアの「ドゥカーレ宮殿」などもここの石を切り出して使っているのだ。

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バスは海岸沿いの道路を走り、「オミシュ」や「マカルスカ」の街を通り過ぎる。「オミシュ」(写真左)は、今でこそアウトドア派に人気のリゾート地だが、中世の時代にはアドリア海で暴れた海賊の根拠地であった。16~17世紀には、ヴェネチアがこの地を支配したが、その時に使われていた要塞が絶壁の上に残っている。厳しい地形を利用して造られた要塞なのだ。「マカルスカ」(写真右)は、ビオコヴォ山を背景にした美しいビーチリゾートである。しかし、冬になると強い北東風「ブラ」が吹くので、このあたりの道路はしばしば閉鎖されるという。

ウィキペディア・フリー百科事典(オミシュ[Omis : 英語版])
http://en.wikipedia.org/wiki/Omi%C5%A1
ウィキペディア・フリー百科事典(マカルスカ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%AB

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海岸沿いの道路から、美しい海の景色を眺めながら約1時間15分、トイレ休憩のため「グルービネ(GRUBINE)」のGSでバスは停まる(写真左)。約15分休憩し、再びバスは「モスタル」へと走り出した。ところでツアーメンバーの一人が、このGSで「green tea」を購入した。名前もそうだし、色も緑なので、誰もが「お茶(緑茶)」だと思っていたのだが、彼がそれを飲むと、変な顔つきになった。彼曰く、「フルーツの香りがする」と。ペットボトルのラベルを見ると、「green tea」と書かれた下に、イチゴの絵が描かれているではないか。正体不明だが、日本人が思う「green tea」とは全く別物ということだけは分かった(写真右)。

バスで10分ほど走ると、クロアチアの「税関」、「出国審査」と続く。そして次はボスニア・ヘルツェゴヴイナの「入国審査」だ。その間約15分かかった。

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バスは海岸沿いを離れ、今度はブドウやトウモロコシ畑を見ながら走る。このあたりには、糸杉も多いようだ。約1時間走った午前10:55、モスタルの街が見えた(写真)。街に近づくと、壁に銃弾の跡の残る建物が数多く見られた。このあたりはボスニア内戦(地元の人は独立戦争という)の激戦地だったのだ。これから観光する地域も、どこから手をつければ良いのか分からないほど破壊されていたという。

ウィキペディア・フリー百科事典(モスタル)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%AB

午前11:00「モスタル」の街に到着。ここでも自由に歩き回りたかったので、午後2:50までにここに戻る約束でツアーを離れることにした。ここからメインの観光ポイントまで300mほど離れている。

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駐車場から東に向かう。現在建設中の教会(写真左)がある一方、多数の弾痕が残る廃墟(写真右)も点在している。「Bulevar」通りを渡ると、「チャルシャ」(旧市街)に入る。ここではユーロが使えるのだが、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの紙幣とコインが欲しかったので、旧市街に入ってすぐのところに建っている郵便局を訪ねた。ここで外貨両替をしてもらうが、すべての種類を手に入れることはできず、かつ紙幣のコンディションは良くなかった。しかしとりあえず確保したかったので、ここにある種類のものだけ換えてもらった。

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郵便局を出て50mほど東に進むと、急に雰囲気が変わった。石畳の狭い道の両側に、みやげもの店やカフェが並ぶ。ここからが観光のメインストリートなのである(写真左)。20~30mほど歩くと、インフォメーションセンターの案内板を見つけた。左折して路地に入った奥にある(写真右)。地図などを手に入れるため、ここも訪れた。店内には可愛い女性が一人いる(写真下)。無料の地図などをもらい、モスタルに関する2冊のガイドブックを購入する。残念ながら日本語のものはない。ついでにボスニア・ヘルツェゴヴィナのコインを揃えることができないか尋ねると、彼女は現金箱の中を見て、各種類のコインを探し、机に並べはじめた。全種類あったので、両替してもらう。

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インフオメーションセンターを出て、メイン通りに戻ると、急に人通りが多くなっていた(写真左)。団体客が来ていたのだ。混雑する路を歩いていると、日本語版のガイドブックを売るお店を見つけた(写真右)。クロアチア・スロベニアへの観光は、近年日本人に人気なので、やはりここモスタルのガイドブックも日本語版が作られていたのだ。早速店に入り、ガイドブックを購入する。1冊50マルカである。先ほど郵便局で両替した100マルカ紙幣を出すと、お釣りがないという。このあたりは観光地なので、ほとんどユーロで決済されているのだ。ユーロも持っていたので、これで支払うこともできたのだが、郵便局で手に入れることのできなかった少額の紙幣も欲しかったので迷っていると、ユーロとマルカの2つの通貨で支払うとの提案があった。10マルカ紙幣が手に入れば良いと思ったので、これに応じることにした。1ユーロが2マルカで計算されていたので、お釣りは20ユーロ+10マルカである。

ちなみに、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの通貨単位は「コンベルティビルナ・マルカ」で、補助通貨は「フェニンガ」だ。単位名が長いので、通常は「マルカ」と呼んでいるが、「KM」と表記されるのは「Konvertibilna Marka(コンベルティビルナ・マルカ)」の頭文字をとっているためである。
このモスタルでは、最初に訪ねた郵便局のほか、銀行など3か所で外貨両替したが、概ね1ユーロ=1.9マルカだったので、1ユーロ=2マルカということを考えるとユーロで支払った方が得だったのだろうが、誤差の範囲として割り切った。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ中央銀行の公式HP(英語版)
http://cbbh.ba/?id=1a?c=en&lang=en

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お店を出て更に東へ10~20m進むと、いよいよこの街を象徴する橋、「スターリ・モスト」(写真)だ。この街の名前「モスタル」は、ボスニア語で「橋の守り人」という意味。スラブ語の「モスト(橋)」が起源だと言われている。1566年、オスマントルコ時代に架けられた橋で、橋台を使わないアーチ状の姿は、当時の建築技術の高さを窺わせる。現在美しい姿を見せる「スターリ・モスト」だが、ボスニア内戦時の1993年、橋は砲撃を受けて破壊され、無残な姿をさらしていた。しかし、ユネスコや世界銀行の援助、民間の寄付などを受け、2004年7月に元の姿に復元されたのである。

ウィキペディア・フリー百科事典(スタリ・モスト)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%82%B9%E3%83%88

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橋の両端には塔が建っている。西側の塔(写真左)では、内戦時の写真が展示されており、橋を渡った東側の塔(写真右)は、「スターリ・モスト博物館」として使われている。橋を上った中央、頂点からの眺めもなかなか良い。南北に流れる「ネレトバ川」に架かる「スターリ・モスト」(写真中段)。北側には、「コスキ・メフメット・パシナ・ジャーミーヤ」が見える。川はコバルトブルーで、太陽の光を反射して眩しく輝いている(写真下段)。

ウィキペディア・フリー百科事典(ネレトバ川)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%AC%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A1%E5%B7%9D

橋を渡って「スターリ・モスト博物館」を訪ねるが、本日は休館日との事。後で知ったのだが、今年は8月31日から9月1日までがラマダン明けのお祭りで休日なのだ(シェケル・バイラム[砂糖祭])。残念だが仕方がない。諦めてその先に進む。50~60m歩いたところで振り返ると、「スターリ・モスト」の全体像を見ることができた。なかなか美しいシーンだったので、皆さんここから写真を撮っていた。

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さらに少し歩くと、みやげ物店兼外貨両替所(写真左)があったので、まだ手に入れていない種類の紙幣を入手するため立ち寄った。しかし、ここでも全てを揃えることはできなかった。さらに角を間がって数メートル進むと、銀行(写真右)があった。壁に「Vakufska Banka」と書かれている。地元の銀行であろう。急いで中に入る。ここに銀行があるのを知っていたら、何箇所も廻る必要はなかったのだが、いろいろなお店に立ち寄るのも楽しみだと思えば大したことではない。また、見つけた時に即行動しないと、チャンスを逃すことも何度か経験しているので、無駄も仕方がないのだ。

ここは普通の銀行なので、外貨両替するのにもパスポートの提示を求められた。もちろん外貨両替の計算書も発行してくれる。新札があることを期待していたのだが、日本のようにどこの銀行でも新札を持っているわけではない。仕方がないので、出来るだけ良いコンディションの紙幣を選んでもらった。これで全種類を手に入れひと安心である。しかしこの時、10マルカ紙幣から100マルカ紙幣まで、それぞれ「共和国」発行のものと「連邦」発行のものがあることを知らなかったため、連邦発行の100マルカ紙幣が足りないことに気が付かなかった。結局、この紙幣だけ私のコレクションから抜けている。

Vakufska Bankaの公式HP(英語版)
http://www.vakuba.ba/indexeng.htm

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この時は一通りの紙幣を手に入れと思っていたので満足し、次は先ほど「スターリ・モスト」から北に見えていた、「コスキ・メフメット・パシナ・ジャーミーヤ」(写真左)を訪ねることにした。「コスキ・メフメット・パシナ・ジャーミーヤ」は、1618年に建てられたイスラム寺院で、通りに面した入口から中に入ると、正面には六本の柱で囲まれた清めの泉、「シャドルヴァン」(写真右)が置かれていた。左手にはモスクが建っている。12m四方の四角い形をしており、屋根は丸型のドームだ(写真下左)。中に入ると、明るい雰囲気で、南側に「ミフラーブ」があった。こちらの方角が「メッカ」になる(写真下右)。

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このモスクの西側、ネレトバ川沿いにテラスがある。ここからは、真正面に「スターリ・モスト」を見ることができるのだ(写真)。多くの人で賑わっていたのは、絶好の写真を撮影ポイントだったからである。

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モスクを出て、次は「カラジョズ・ベゴヴァ・ジャーミー」(写真左)を訪ねた。このモスクは、1557年、トルコの建築家「コッジャ・ミマラ・シナン」の設計で建てられたもので、ヘルツェゴヴィナ全域で最も重要なイスラム寺院建築だと言われている。一辺13.4mの建物の上に、丸屋根が乗っている。外回廊の下の部分は鍾乳石で装飾が施されており(写真右)、モスクの奥には「シャドルヴァン」(写真下)が置かれている。この日はお休みだったのだろうか。誰もおらず、ヒッソリとしていた。

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続いて訪れたのは、「トルコの家」だ。「ビシチェヴィチの家」、別名「トルコの家」は、18世紀に建てられた二階建ての民家で、オスマントルコ時代の伝統的な生活様式に触れることができる(写真上左・上中)。二階には大きな居間があり、内装はオリエント風だ。どの部屋にも絨毯が敷かれており、トルコを感じさせてくれる。テーブルに置かれたチャイのセットも雰囲気を作り出している(写真上右・中段)。この部屋は幾つかの支柱に支えられ、「ネレトバ川」の方にせり出している(写真下左)。また庭には、別棟の台所がある(写真下中)。その近くにはカメが数匹歩いていた(写真下右)。ここで飼っているのだろう。

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「トルコの家」の見学を終え、次は「ヘルツェゴヴィナ博物館」(写真)に向かった。しかしこの博物館も本日は休館である。これらの博物館を見るのに必要な時間を確保するため、昼食もとらずに歩き廻っていたのだが、時間が余ってしまった。こんなことなら、皆と一緒に食事をすれば良かったと、少々反省した。

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集合時間まで1時間ほどあったので、ブラブラとお店を見ながら来た道を戻ることにした。日差しが強く、喉が渇いていたこともあり、大型スーパーを見つけたので、ここでコーラの大ボトルを購入する。棚に並んでいる商品は日本のスーパーとあまり変わりはないが、店の奥に精肉コーナーがあり、お客と対面販売している点が面白い。特にハムの種類が豊富なのには驚いた(写真)。

スーパーを出た後、しばらくすると、紙幣を売っているお店があったので訪ねてみた。ユーゴスラビア時代の色々な古い紙幣が置かれていたのだが、その中に「5,000,000,000」額面の紙幣があった。1993年に発行されたインフレ紙幣である。面白いので記念に1枚購入した。

ウィキペディア・フリー百科事典(ユーゴスラビア・ディナール)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%B4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%93%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%AB

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ぶらぶら歩いていると、ツアーの添乗員に出会った。観光を終え、自由時間になったとの事。「スターリ・モスト」に集合してからバスに向かう予定のようだ。しばらく観光ガイドの駐在所で休憩し、集合場所に向かった(写真左)。まだメンバー全員が揃っていなかったので、橋の上から川を眺めていると、ジャンプ台から飛び込みをしている子供たちがいた(写真右)。かなりの高さから飛び込んでいたので、川もそれなりの深さがあるのだろう。そういえば、今見ていた飛び込み台よりも数倍高いこの橋から飛び込む「ジャンプ大会」が行われているというのだから、川の深さも10m以上あるのではないだろうか。暫くして、全員揃ったところでバスに戻り、午後2:58に 出発した。

ウィキペディア・フリー百科事典(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%82%B9%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%84%E3%82%A7%E3%82%B4%E3%83%93%E3%83%8A

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バスは「ネレトバ川」沿いを走る。窓の外には、ブドウ畑が続く(写真左)。午後3:25 オスマントルコ時代の遺跡見える(写真右)。

午後3:40ボスニア・ヘルツェゴヴイナ出国、クロアチア入国の手続きを済ませ、今度は海沿いの道を走る。5~6kmほど東に進んだ午後4:20、再びボスニア・ヘルツェゴヴイナ入国、クロアチア出国の手続きをする。地図を見ると分かるのだが、クロアチアの領土を海側に突き出るように一部だけボスニア・ヘルツェゴヴイナの領土があるのだ。ボスニア・ヘルツェゴヴイナで唯一の海岸に面した街「ネウム」である。何故このような事になったのかというと、「1718年に結ばれたパッサロヴィッツ条約(ポジャレヴァツ条約)の結果ダルマチアのほぼ全域はヴェネツィア共和国領と定められたが、ヴェネツィアとオスマン帝国の保護国であったラグーザ(ドゥブロヴニク、都市国家状態)との紛争を防ぐため、ネウムは両者の緩衝地帯としてオスマン帝国領となった。この時引かれた国境線が、主体となる国家が変遷しつつも現在まで引き継がれている」(「ウィキペディア・フリー百科事典(ネウム)」より)との事。

ウィキペディア・フリー百科事典(ネウム)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%A6%E3%83%A0

午後4:26、ネウムのスーパーマーケットでトイレ休憩を取る(写真Dsc00855Dsc00851Dsc00839Dsc00845

)。ここのスーパーもモスタルで買い物をしたスーパーと同じ様な構造で、店の奥にはショーケースが置かれ、中には肉やチーズが並べられている。ここも対面販売方式で、自分の希望する量を計り売りしてくれるのだ。面白いと思ったのは、ここが観光客の休憩所として良く利用されているということもあり、アドリア海の塩など色々な種類のお土産物が置かれていることだ。そういえばスーパーの入り口で、おみやげ用のチョコレートを試食用に配っていた。我々のグループのオバちゃんたちが、我先にと手を出していたので、すぐに一箱が空になっていた。恐るべし、オバちゃんパワー。

Supermarket Jadranpromet
http://www.jadranpromet.com/index.php?option=com_content&view=article&id=92&Itemid=161&lang=en

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40分ほど休憩してから、バスに戻る。10分ほど走ると再び国境である。午後5:20、 ボスニア・ヘルツェゴヴイナ出国、クロアチア入国の手続きを済ませ、午後5:30 、「ペリェシャツ半島」の「マリ・ストン(Mali Ston)」の街にあるレストラン「VILA KORUNA(ヴィラ・コルナ)」で夕食を頂く(写真左・右)。このレストランは海に面して建っており、窓からの眺めもなかなか良い(写真下左)。地元で捕れた新鮮な魚介類を提供する人気店のようだ。活け簀があるというのでレストランの裏に見に行ったが、魚はおらず、貝が置かれていただけであった(写真下右)。

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メニューは次の通り。
・ムール貝の白ワイン蒸し(写真左)
・レッドフィッシュのグリル(写真右)
・プリン(写真中左)
・ノンアルコールビール(写真中右)

ちなみに、ムール貝は非常に大きいのだが、中身は非常に小さく、全部取り出してもほんの僅かにしかならなかった(写真下)。

レストラン「VILA KORUNA(ヴィラ・コルナ)」
http://www.vila-koruna.hr

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約1時間で食事を終え、レストランの外に出ると、傍には城壁が続いていた(写真)。この城壁は、ここ「マリ・ストン」から隣町「ストン(Ston)」まで続く長大なもので、イギリスにある「ハドリアヌスの城壁」に次ぎ、ヨーロッパ第二の長さを誇るという。「ストンを囲む城壁が造られたのは、14世紀から16世紀にかけてのこと。当時この地を所有していたラグーサ共和国(ドブロヴニク)にとって、本土とペリシャツ半島とをつなぐ要衝であったのに加え、この町にある塩田産の塩が貴重な輸出品だったため」(「地球の歩き方 クロアチア・スロヴェニア ‘08~’09」より)との事。

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午後6:35、本日宿泊するホテルに向かってバスで出発した。ここからは海沿いを走る。ちょうど夕日が沈む時(写真)だったので、バスの中では日の入りの写真を撮るため、ずっとカメラを構えていた。そのような事をしていると、時間が経つのは早い。午後7:30、ホテル「グランド・ヴィラ・アルジェンティーナ」に到着した。

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午後8:00 、部屋に入る。海に面したリゾートホテルにしては、少し狭い感じがする。しかし全体的に落ち着いた雰囲気で、2日間滞在するのには丁度良い(写真)。早速、風呂に入り、その後いつものように荷物と資料の整理を行い、午後11:00 頃ベッドに入った。

グランド・ヴィラ・アルジェンティーナ[Grand Villa Argentina(英語版)]
http://www.gva.hr/

(参考文献)
・「地球の歩き方 クロアチア・スロヴェニア ‘08~’09」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社]
・「旅名人ブックス クロアチア」(旅名人編集室編)[日経BP社]
・「週刊世界遺産 ドゥブロヴニクの旧市街」(菅家洋也編)[講談社]
・「モスタル(日本語版)」(Mato Njavro他編)[Turisticka naklada d.o.o.刊]
・「モスタルー観光ガイド・地域紹介―(日本語版)」(Mato Njavro他編)[Turisticka naklada d.o.o.刊]
・「Mostar Old town(英語版)」
・「OLD BRIDGE MOSTAR(英語版)」


October 02, 2011

スプリットのディオクレティアヌス宮殿

クロアチア・スロベニアの旅(第13回)

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午後3:00 バスで「トロギール」の街を出る。4~5分走ったところで、バスの運転手が左手に見える山で火事が起きていると教えてくれた。上空を見ると、黄色の小型飛行機やヘリコプターが忙しく往来している。上空から消火剤や水を撒いて、消火活動をしているのだ。何度も消火剤を撒いているのだが、一向に鎮火する様子はない。焼け石に水とはこれのことか(写真)。

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オリーブやブドウが栽培されている中を10分ほど走ると、右手に島のように見える山が見えた。そこには「マリアンヌ公園」があるという(写真左)。さらに5~6分進むと、「サロナ遺跡」(写真右)の前を通り過ぎた。「ソリンの街」に入ったのである。「スプリット」の街から北へ5kmほどに位置し、かつては「サロナ」と呼ばれた。ローマ帝国ダルマチア州の州都として栄えた町で、ディオクレティアヌス帝は、この近郊の生まれだと言われている。

ウィキペディア・フリー百科事典(ソリン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%AA%E3%83%B3
ウィキペディア・フリー百科事典(サロナ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AD%E3%83%8A
ウィキペディア・フリー百科事典(スプリト)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%88

午後3:35、「スプリット」の街に到着する。ここでも自由行動するため、バスを降りてツアーを離れた。
「スプリット」は、人口20万人を抱えるアドリア海沿岸で最大の港町である。そして「スプリット」のメインになるのが、「旧市街」にある「ディオクレティアヌス宮殿」だ。「ディオクレティアヌス帝」は、解放奴隷の家に生まれ、一兵卒から皇帝になった人物である。彼が皇帝になった頃はローマ帝国が弱体化していた時代だったので、彼は広大な領土を一人の皇帝が統治するのは難しいと考えて「四分割統治」を始めた。これについては世界史の教科書にも出てくるので、記憶に残っている方も多いであろう。また彼は、キリスト教を迫害した最後の皇帝としても知られている。ご存知の通り、その後ローマ帝国はキリスト教を公認し、国教とした。そのため、キリスト教を迫害したディオクレティアヌス帝の霊廟は大聖堂に造りかえられ、遺体を納めた石棺は行方不明だという。さらに彼は、皇帝の神格化を図るため、自らの父であるとした「ユピテル神」(ギリシャ神話の最高神ゼウス)を祀る「ユピテル神殿」を宮殿内に設けたが、後にキリスト教の洗礼堂に改築されてしまう。

ウィキペディア・フリー百科事典(ディオクレティアヌス宮殿)
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ウィキペディア・フリー百科事典(ディオクレティアヌス)
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私は海辺のプロムナードを城壁沿いに歩き(写真左)、「南門」(「銅の門」とも呼ばれている)から宮殿に入った(写真右)。この門は、船で訪れた人々が利用した出入口で、当時は船を直接横づけできたようだ。「南門」をくぐり階段を降りると、みやげ物店の並ぶ地下道が続いていた(写真下左)。お店の商品を見ながら地下通路を20mほど歩き、階段を上ると広場に出た。「列柱広場」である(写真下右)。ここはかつての宮殿の中庭で、宮殿の中心だ。右手にコリント式の列柱が並び、その向こうには「大聖堂」が建っている。左手にも列柱が並んでいるのだが、その間に壁を設けて建物として使用されていたので、最初は気が付かなかった。

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広場に降りる前に、南側にある通路を進んでみると、そこはかつての「玄関広間」であった(写真左)。皇帝謁見に向かう控えの間でもあったようだ。天井には丸い吹き抜け穴が見られるが、16世紀頃までは円屋根が残っていたという(写真右)。私が訪れた時は、5人の男性歌唱グループが歌を披露していた。

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「列柱広場」の方に戻り、次は大聖堂を訪ねることにした。最初に大聖堂の「鐘楼」(写真左)に上るため、先ほど右手に見えた列柱の間から入口に向かう。階段を上り、チケットを購入(2クーナ)。細くて急な石の階段を上る(写真右)。途中、窓から下の様子を見ることができる。まだ半分ぐらいであろうか。この鐘楼は13~14世紀にかけて造られたもので、60mの高さがある。20mぐらいのところから鉄の階段になるのだが、幅が狭いうえ、下が丸見えなので、少し足がすくむ(写真下左)。6つの鐘が並ぶ横を通り過ぎ(写真下右)、最後の階段を上り切ると、そこには素晴らしい眺めが待っていた。

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赤い屋根の家々、ブルーのアドリア海、そして青い空。今回の旅は天候に恵まれているおかげで、どこから見る景色も美しい。おかげで、ここでも大パノラマを楽しむことができた(写真)。

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約15分の短い時間ではあったが、鐘楼からのパノラマを展望した後、大聖堂の中に入った。入口は左手に続く通路を進んだところ、丁度「鐘楼」の北側にある。正面には主祭壇(写真左)が置かれている。1685年~1689年にかけて造られたもので、その上を覆う湾曲天井には、新約聖書の聖餐場面を描いた十の小さな絵が嵌め込まれている。写真撮影が禁止されていたので、注意を受けるまでに撮ったものしかお見せ出来ないが、その他に正面左奥にある「聖アナスタシウスの祭壇」や左手の窪みに造られた「聖ドムニウスの祭壇」、「六角形の大理石製の説教壇」や14世紀に作られたゴシック様式の「十字架像」(写真右)など、貴重な宗教美術品で埋め尽くされていた。

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大聖堂の内部を見た後、階段を下りて「鐘楼」の北側に行くと、ここには「霊廟地下の聖堂」(写真左)への入り口があった。中に入ると、暗く、また少し湿気を感じる空間である。「スプリト(日本語版)」によると、「長い間、それがミトラを祭るものだと誤解されていました。地元史家たちの考えでは、皇帝がキリスト教徒たちを放り込む牢獄でした。しかしながら、それは単なる建築構造上の空間であり、上の床を支える支持層だったことが後でわかります。宮殿の中で最も暗いこの場所は、中世になって視力の守護聖人ルツィアの礼拝所になります」との事。

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「霊廟地下の聖堂」の次は、「東の門」(「銀の門」とも呼ばれている : 写真左)を出て、「北の門」(「金の門」とも呼ばれている)に向かった。宮殿の外を城壁沿いに北に歩く。通りにはお土産物店などが並び、人で賑わっていた(写真右)。

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城壁の角を左折すると、「ストロスマエロフ公園」(写真上左)の前に出た。緑豊かな公園で、中央にある噴水の水しぶきは、涼をもたらしてくれる。公園を西に進むと、大きな銅像が立っていた。10世紀の初めに活躍した「グルグール・ニンスキ司教」の像だ(写真上右)。クロアチアでは10世紀に開かれたスプリットの宗教会議で教会でのスラブ語の使用を禁止したが、彼はその撤回を求めたことで知られている。この像は、1929年に彫刻家「イヴァン・メシュトロヴィチ」によって作られたもので、当初は「列柱広場」置かれていたのだが、大き過ぎて場所にそぐわないということで、1954年に現在の場所に移されたという。ところで、この像の左足の親指に触れると幸運が訪れると言われているのだが、皆さん良くご存知のようで、何組かの人たちが像の親指に触れていた(写真下)。

ウィキペディア・フリー百科事典(グルグール・ニンスキ[Gregory of Nin : 英語版])
http://en.wikipedia.org/wiki/Gregory_of_Nin
ウィキペディア・フリー百科事典(イヴァン・メシュトロヴィチ[Ivan Mestrovic : 英語版])
http://en.wikipedia.org/wiki/Ivan_Me%C5%A1trovi%C4%87

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像の西側には、細身の高い鐘楼が建っている。「聖アルニル教会」の鐘楼だ(写真上左)。元ベネディクト会の施設で、18世紀に建てられたものだという。「グルグール・ニンスキ司教」の像の前に「北の門」がある(写真上右)。ここをくぐり、再び宮殿内に入る。門から南に50~60mほど進むと、「列柱広場」(写真下)に出た。このように歩いてみると、広場が宮殿の中心にあるということを実感できる。

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次は宮殿の西側にある「西の門」(「鉄の門」とも呼ばれている : 写真左)に向かった。幅が2mほどの石畳の路を40~50mほど歩くと「西の門」に到着。この門を出ると、「ナロドニィ広場」がある(写真右・下左)。この広場は、14世紀以降、スプリットの行政や商業、また市民生活の中心地となった。「広場に面して三つのアーチがあるゴシック様式の建物が建っている。かつてのヴェネチア共和国庁舎である(写真下右)。ヴェネチアで見かける宮殿とほぼ同じ建築様式の建物で、内部に市庁舎、劇場、牢獄なども置かれた」(「旅名人ブックス クロアチア」より)ようだ。

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続いて「ナロドニィ広場」から南の路地を歩き、「ブラチ・ラディッチ広場」に向かう。途中、書店があったので立ち寄る。店内は明るく綺麗な感じで、書籍だけでなく、文房具や一部土産物も取り扱っていた(写真)。ここで「スプリット」に関するガイドブックを購入する。

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このお店から10mほど南に進むと、「ブラチ・ラディッチ広場」(写真左)に出た。広場には、オープンカフェが広がっており、多くの人々がお茶を飲んでいた。このあたりは城壁の陰になっていたので、今日の強い日差しを避けるには丁度良い。広場の中央には、クロアチア文学の父と称されている「マルコ・マルリチ」の像が立っている(写真右)。この像も「グルグール・ニンスキ司教」の像と同じく、彫刻家「イヴァン・メシュロヴィチ」の作品だ。

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広場を横切り、さらに南に進むと、海辺の「プロムナード」(写真上段)に出た。青空の下、太陽に照らされて白く輝く城壁の前、カフェのパラソルが並ぶ。その前を歩いていると、急に足の疲れを感じたので、ベンチに座って一休みすることにした。プロムナードに沿って植えられているパームツリーは、南国の雰囲気を盛り上げる。宮殿の壁を見ると、何本もの列柱が見られる。柱と柱の間に壁を造り、窓を設けているので、ウッカリすると見逃してしまう(写真下左)。目の前を、ソフトクリームを食べながら歩く若い女性二人が通り過ぎて行った(写真下右)。このように天候に恵まれ、かつ暑い時は、観光などせずにボ~と過ごすのが良いのかもしれない。ヨーロッパもほとんどの国を訪れたので、来年からは行き先をマリンリゾートに変更するのも良いかもしれない・・・・なんてことを考えていた。

しかしここまで来たのだから、あと少し見たいところを廻ろうと、再び立ち上がった。非常に不効率な廻り方をしているのだが、次は「洗礼室」である。最初にくぐった「南門」から宮殿に入り、地下道を通って「列柱広場」に出る。すぐに左折し、15mほど路地を歩くと、「洗礼室」があった。入場料は5クーナ。ツアーと一緒に回れば、これらの料金は込なので支払わなくても良いのだが、ツアーを離れて廻ると二重払いになる。今回も数か所でこのような事になっているのだが、それでも一人で歩く方が楽しいのだから仕方がない。

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先にも少し触れたが、「洗礼室」(写真左)は、「ディオクレティアヌス帝」によって建てられた「ユピテル神殿」を後に改築したものである。室内に入ると、中央に大きな「洗礼盤」が置かれている(写真右)。十字架の形をしており、深さも1m近くあるので、現在の洗礼盤に比べると非常に大きい。かつては、体全てを水に浸す全身洗礼であったからであろう。

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洗礼盤の横を見ると、中世クロアチアの王(クルシェミル4世もしくはズヴォニミル)の姿が彫られている(写真左)。「旅名人ブックス クロアチア」によると、「描かれた王の姿は児童画のように稚拙で素朴なもの。とは言っても、このレリーフはアドリア海に残されている数少ない11世紀のプレロマネスク様式の作品であり、歴史的にも貴重なものとされている」との事。洗礼盤の後ろには、「洗礼者ヨハネ」の像が立っている(写真右)。これも、彫刻家「イヴァン・メシュトロヴィチ」の作品である。

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「洗礼者ヨハネ」の像の両端、「洗礼室」の両隅には、二人の大司教の石棺が置かれている。左手に見える、ユリの模様の浮彫でかざられている石棺は、スプリット教区を作り、初代大司教を務めた「イヴァン・ラヴェニャニン」のもの(写真左)で、右隅に置かれているのは、クロアチア王国時代の11世紀にスプリット教会の大司教であった「ロヴロ」の石棺(写真右)である。

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その他、美しい文様の彫刻が施された天井も見逃せない。

「洗礼室」の見学を終え、時計を見ると、午後5:15を過ぎていた。集合時間の午後5:50まで残りわずかだ。そこで最後に、ディオクレティアヌス帝時代のコインが展示されているという「民俗学博物館」に向かうことにした。実はこの時、大変な勘違いをしていたのだ。コインが展示されているのは「民俗学博物館」ではなく、「市立博物館」だったのである。

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午後5:25頃、「民俗学博物館」に入場する(写真 : 10クーナ)。コインの展示を求めて、大急ぎで各フロアを廻る。しかしどのフロアを見ても、工芸品や民族衣装ばかりで、コインの展示らしきものはない。この時、コインの展示があるのはこの博物館ではないことに気が付いた。しかし時すでに遅し。これから「市立博物館」に行くだけの時間は無かったので、ここでゆっくりと展示を見ることにした。

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当時の街の様子を描いた絵と一緒に展示されている民族衣装を見ると、なかなか興味深い(写真)。特に、展示されている民族衣装を、ラフな格好で見ている女性観光客と比べると、その対照が面白い。コルセットで締め上げてウエストを細く見せる民族衣装に対し、ビヤ樽のようなウエストの観光客。また、レースなどで飾った民族衣装に対し、非常にシンプルなタンクトップの観光客など・・・。

午後5:40、集合時間が近づいたので、博物館を出る。午後5:45過ぎ、集合場所に到着したのだが、ツアーのメンバーは誰もいない。場所を間違えたのではないかと少々不安になるが、近くに数名のメンバーを見つけひと安心。残りのメンバーも少し離れたところにいた。バスが遅れて来たため、午後5:55頃、夕食会場であるレストランに向け出発した。

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会場は近く、5分ほどで到着した。午後6:00から、レストラン「KONOBA Nevera」(写真)で夕食を頂く。

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メニューは次の通り。
・シーフードパスタ(写真左)
・イカのグリル、ポテト添え(写真右)
・パンナコッタ(写真下左)
・ノンアルコールビール(写真下右 : 20クーナ)

レストラン「KONOBA Nevera」
http://www.konoba-nevera.com/

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1時間半ほどで夕食を終え、午後7:25頃レストランを出る。バスで約10分走った、午後7:35、本日宿泊するホテル「ル・メリディアン」に到着した。午後8:00頃、部屋に入る。清潔感あふれる、お洒落な感じの部屋だ(写真)。テーブルにスタンドライトもあるので、資料整理するのには好都合だ。いつものように入浴、荷物・資料整理を済ませ、午後10:30 頃ベッドに入った。

ル・メリディアン・ラブ,スプリット(日本語版)
http://www.starwoodhotels.com/lemeridien/property/overview/index.html?propertyID=1956
ウィキペディア・フリー百科事典(ダルマチア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%81%E3%82%A2
ウィキペディア・フリー百科事典(クロアチア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%A2%E3%83%81%E3%82%A2

(参考文献)
・「地球の歩き方 クロアチア・スロヴェニア ‘08~’09」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社]
・「旅名人ブックス クロアチア」(旅名人編集室編)[日経BP社]
・「週刊世界遺産 ドゥブロヴニクの旧市街」(菅家洋也編)[講談社]
・「スプリト(日本語版)」(Ana Ivelja-Dalmatin他編)[TURISTICKA NAKLADA刊]
・「スプリト(日本語版)―黄金シリーズー」(DURDICA SOKOTA 編)[FORUM d.o.o.刊]


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