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January 27, 2012

「インドの旅」写真ダイジェスト

インドの旅(第17回 : 最終回)

今回はこのシリーズの最終回として、写真ダイジェストを作製した。すでにこのブログのどこかで使用したものばかりだが、絵日記のつもりでご覧頂ければ幸いである。

① ダメーク・ストゥーパ(サールナート)
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② ラクシュマナ寺院(カジュラホ)
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③ 月夜のタージ・マハル(アグラ)
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④ タージ・マハル(アグラ)
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⑤ アグラ城(アグラ)
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⑥ ファテープル・シークリーのパンチ・マハル(アグラ)
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⑦ アンベール城(ジャイプール)
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⑧ ハワー・マハル[風の宮殿](ジャイプール)
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⑨ クトゥブミナール(デリー)
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⑩ フマユーン廟(デリー)
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January 26, 2012

デリー観光(クトゥブ・ミナール、フマユーン廟など)

インドの旅(第16回)

第7日目 (12月13日[火] : 晴れ)

6:00 起床

6:30~7:00 朝食
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ホテルのレストランで、ビュッフェ式の朝食。ノンスパイシーなオムレツを焼いてもらい、甘いドーナツ、コーヒーと一緒に頂く(写真)。

7:32 バスで「デリー」へ
途中、旧市街、ピンクシティにある「風の宮殿」に立ち寄る。この宮殿は、昨日訪れた「ジヤンタル・マンタル(天文台)」の隣に位置するのだが、現在道路工事中のため、昼間はバスが止められないとの事で、本日の朝訪れることになったのである。

7:45~7:55 「風の宮殿(ハワー・マハル)」(写真)の写真撮影
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1799年、この街を治めていたラージプートの王サワーイー・プラテープ・スィンによって建てられたもので、シティー・パレスの一部である。ピンク色をした5階建てで、953の小窓が通りに面している。石の格子スクリーンのついた出窓になっているので、宮廷の女性たちは、自らの姿を外から見られることなく、街の様子を見たり、祭を見て楽しむことができるのだ。
また、暑いときでも涼しい状態に保つことができるように、この小窓を通して風(ハワー)が循環するような構造をとっている。これが「風の宮殿」の由来だ。
数多くの観光バスが止まり、道路を挟んだ宮殿と反対側の歩道は、カメラを持った観光客であふれている。お天気が良く、青空を背景にピンク色の宮殿が映える。絶好の写真日和だ。約10分ほどだが、写真撮影を楽しんだ。ちなみに、この宮殿の裏には階段があり、上に上ることもできるようだ。

ウィキペディア・フリー百科事典(ハワー・マハル)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%AB

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写真撮影を終え、ピンク・シティを東に抜けて、昨日訪れた「アンベール城」(写真)を左に見ながらデリーに向かった。

10:40~10:55 「GANGAUR MIDWAY」でトイレ休憩
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12:00頃 周囲に近代的なビルが立ち並ぶ(写真)。デリー市街に入る
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13:50~14:55 レストラン「THE ASIA KITCHEN」で昼食
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デリー市街に入ってから、やや渋滞で時間がかかった。バスを降りてからレストランまで少し歩いたのだが、こんな街中なのに「野良牛」が歩いている(写真)。田舎で見るほどの数はいないが、それでもインド、ヒンドゥー教の国だということを感じてしまう。

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レストランは中華風料理の店(写真左)。スパイシーなものや、カレー味に飽きる頃であろうということから、中華風料理が選ばれたようだ。メニューは次の通り。

・野菜スープ(写真中左)
・鶏肉の餃子(写真中右)
・焼きそば(写真右)
・鶏肉&黒豆ソース(写真下左)
・フリスビー・フライド・ベジェタブル・フリッター(写真下中左)
・スパイシーフレンチフライと野菜の揚げもの(写真下中右)
・チリチキン(写真下右)

メインディッシュが終わりかけた頃、私は少し早目にレストランを出て、近くの銀行に走った。もちろん目的は、まだ手に入れていない紙幣を入手するためである。このような場所にある銀行へ、日本人が訪ねてくることはないのだろうか。私が店内に入ると、皆さん一斉に私に注目した。近くにいた女性に用件を伝えると、親切に案内してくれた。窓口で応対してくれた男性職員も、私の目的を察し、出来るだけきれいなお札を探して交換してくれた。デリーではこの銀行を訪れただけなので、確かな事ではないが、田舎に比べて新札の出回り具合が良いのではないかと感じた。この時に替えてもらった10ルピー札がすべて新券だったことも、このような印象を持った理由かもしれないが・・・。

両替を済ませてからレストランに戻り、トイレを借りてから、皆さんと一緒に再び外に出る。バスに乗って、デリーで最初の観光予定地である「クトゥブ・ミナール」に向かった。

15:25~16:00 「クトゥブ・ミナール」(写真左・中)観光
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デリーから南へ約15km、高さ72.5m、基底部の直径15mの巨大な塔が建つ。石で造られた建造物としては、インドで最も高い構造物である。塔は5階層になっており、上に昇るに連れて細くなり、頂上部の直径は2.5mだ。下の三層は赤砂岩、その上は大理石と砂岩で築かれている。いずれの層にも、外部に突き出したバルコニーがあり、壁面にはコーランの文句を図案化して刻まれているのが分かる。

「ミナール」とは「ミナレット」のことで、本来はモスクに付属して礼拝の呼びかけをする塔だが、奴隷王朝のスルタン、「クトゥブウッディーン・アイバク」がヒンドゥー教徒との戦いに勝利した記念(※)に建てられたものなので、戦勝記念塔の意味が強いといえる。残念ながら、現在この塔に上ることはできない。過去に、見学中の学童が殺到し、死亡事故が発生したためだという。

近くには、「クトゥブ・モナール」よりも高い塔を建てようとしたが、財政難のため挫折した、「アラーイーの塔」の基部が残されている(写真右)。直径は25mあり、完成していたならば、100mを超えていたであろうとの事。

(※)クトゥブ・ミナールの隣には、「イスラムの力」を意味するインド最古のクッワト・アルイスラム・モスクがある。この地区には、もともとヒンドゥー教やジャイナ教の寺院が多くあったが、熱心なイスラム教徒だったアイバクは、それらを27の寺院を像で破壊し、偶像彫刻を削り取った。そして、跡地に転がる石材を用いてモスクを建立したのだ。建設にはヒンドゥー教徒の建築家や労働者が多く携わったため、イスラム以前のインドの建築技術が各所に見られる(「週刊世界遺産27(インド)」より)。

ウィキペディア・フリー百科事典(クトゥブ・ミナール)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%AB


16:47~17:15 「フマユーン廟」観光
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「フマユーン廟」(写真)は、デリーの中心部、「ニューデリー駅」から南東約6kmに位置する。これは、第三代皇帝、アクバルの時代に建てられた、前皇帝フマユーンの霊廟だ。墓を作る習慣のなかったインドに初めて作られた本格的なイスラムの霊廟建築で、9年の歳月をかけて、1570年ごろ完成した。10万㎡以上もある敷地の中央に、90m角の基壇が設けられ、その上に霊廟が建つ。高さ38mで二重構造のドーム屋根を持ち、ペルシアの影響を大きく受けながらも、インド産の赤い砂岩が巧みに取り入れられ、白い大理石を組み合わせて、洗練された装飾が造り出されている。霊廟の四方には、正方形に区切られた庭園があり、水路が通る。「タージ・マハル」のところでもお話ししたが、水が流れる緑の庭園は、天国を表わしているのだ。以後この形が、ムガル朝霊廟建築の基本になった。

この形式が確立された後、ムガル朝霊廟建築の頂点を迎えたと言われる「タージ・マハル」との大きな違いは、「フマユーン廟」では霊廟が四分された庭園の中央に置かれているのに対し、「タージ・マハル」はヤムナー川を背後にして、広大な四分庭園を前面に置いている点にある。しかし、川の対岸にもう一つ黒い霊廟を建て、橋で繋ごうとしたのだから、この違いは当然なのかもしれない。

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霊廟の四方の部屋には、「シャー・ジャハーン」の王子「ダーラー・シコー」など一族の棺が置かれ、中央の広間には白大理石で出来た「フマユーン」の棺が置かれている(写真)。この棺も、「タージ・マハル」に置かれていた棺と同じく仮の棺(模棺 : セノターフ)で、遺体はこの真下に安置されている。

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午後5:00、見学を終える頃、日が沈み始めた。夕陽に照らされる「フマユーン廟」は、砂岩がさらに赤くなり、なかなか美しい(写真)。そういえば、「タージ・マハル」が夕日に照らされ、真紅になるところも見てみたいものだ。

ウィキペディア・フリー百科事典(フマーユーン廟)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%B3%E5%BB%9F


約30分、大急ぎで見学を済ませ、次の目的地である「インド門」に向かった。「フマユーン廟」の北西、約3kmに位置する。バスに乗り、10分ほどで到着。

17:28~17:34 「インド門」写真撮影
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バスを降りて、写真撮影をする。この門は、第一次世界大戦で戦死したインド兵士の慰霊碑だ。1931年に完成、高さが42mもある。「インドは戦後の独立を条件にイギリスに協力して参戦したが、大きな犠牲と引き換えの独立は実現しなかった。壁面には戦没者1万3,500人の名前が刻まれている」(「地球の歩き方 ‘11~’12 インド」)。

ウィキペディア・フリー百科事典(インド門)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E9%96%80

「インド門」の写真撮影を終えた後は、「ラージガート」である。「インド門」から北東へ約3.5kmに位置する。やや渋滞しており、30分ほどかかる。

18:00~18:05 「ラージガート」写真撮影
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すっかり暗くなっているうえ、ゲートの外から撮影したので、何が何だかよく分からない状況での撮影になってしまった。ところでこの場所は、「マハトマ・ガンジー」が1948年に暗殺され、埋葬された場所なのである。黒色大理石の壇の見える場所がそれだ。現在は公園になっており、近くにガンジー記念館が建てられている。

ウィキペディア・フリー百科事典(ラージガート[Raj Ghat and associated memorials : 英語版])
http://en.wikipedia.org/wiki/Raj_Ghat_and_associated_memorials

以上で、インド観光はすべて終了した。これから空港方向に向かう。途中、土産物店に寄って残ったお金を使い切り、その後レストランで食事をした。

18:55~19:30 お土産物店「S.L.CRAFT EXPORTERS PVT.LTD」でショッピング
民芸品や菓子などのほか、絨毯やサリーなども販売している。私はすぐにミニアチュール売り場に向かい、色々な作品を見せてもらった。ジックリ見ながら選んでいると、他のツアーメンバーが私の方にやってきた。皆さんミニアチュールについて知らなかったようで、色々説明してあげると、興味を示し始めた。しかし、1枚で1万円以上すると言うと、ほとんどの人は離れて行った。再びジックリ見ようと思っていたら、一人の女性が「これが欲しい」と言いだした。私が気にいったので、横に取り置きしていたものだった。しかしその女性は非常に気に入っていたようだったので、彼女に譲ることにした。マハラジャの乗った像が行進しているデザインで、色合いもなかなか良いものであったと思う。結局、私は何も買わずに店を出ることにした。

土産物店からは、歩いてレストランに向かう。バスを止めるだけのスペースがないためとの事。

19:40~20:10 レストランで夕食
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都会のレストランという雰囲気である(写真左)。メニューは次の通り。
・タンドリーチキン(写真右)
・チーズロースト(写真右)
・ミックス野菜(写真右)
・蒸しごはん(写真右)
・コーヒー

デザートにアイスクリームが付いていたのだが、氷を使っているということで、ガイドの指示により、注文から外してもらうことになった。

WAVES
http://www.bchgroup.org

20:45 デリーに空港に到着
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21:20 出国手続、手荷物検査
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搭乗までの時間、ショッピングしていたら、ジャンシーの駅で話し込んだ、日系三世のハワイ人夫婦とみたび出会う。ここでも話し込んでしまい、ビジネスクラスのラウンジ(写真)に入る時間が亡くなった。

22:30 搭乗
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23:40 離陸


第8日目 (12月14日[水] : 晴れ)

00:00~3:50 睡眠

4:04 香港の空港に到着

5:50 離陸

6:00~7:55(日本時間9:30~11:25 以下日本時間) 睡眠
機内で出る朝食をパスし、ひたすら眠っていた。


11:35 関空に到着

11:50~12:30 関空ターミナル内のKYKで、「厚切り琉香とんかつ膳」を頂く
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以上で「インドの旅」も終りである。この3~4か月、頻繁に海外に出かけ、旅についてのブログを書き終える前に次の旅に出かけていたので、その都度資料整理をしていたにもかかわらず、記憶が薄れ、色々と思いだせないこともあった。しかし、とりあえず書き終えることができたので、少しホッとした気持ちだ。いずれにしても、無事に旅から戻れたことに感謝である。

(参考文献)
・「地球の歩き方 ‘11~’12 インド」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「図説インド歴史散歩」(岩瀬一郎他編)[河出書房新社刊]
・「インド建築案内」(神谷武夫著)[TOTO出版刊]
・「インド古寺案内」(神谷武夫著)[小学館]
・「週刊世界遺産27(インド)」(菅家洋也編)[講談社刊]
・「週刊世界遺産83(インド)」(伊藤裕編)[講談社刊]
・「イスラーム建築の見かた」(深見奈緒子著)[東京堂出版刊]
・「デリー・アグラ・ジャイプール」(ラジャラマパンダ著)[ミッタルパブリケション刊]
・「デリー・アグラ・ジャイプル」(ダンラジ・アスワニ著)[シュリナート・ニューススタンド刊]



January 24, 2012

ジャイプル観光(その2 : ジャンタル・マンタル、シティ・パレス、ビルラー寺院)

インドの旅(第15回)

昼食を終え、我々は次の目的地である「ジャンタル・マンタル」に向かった。旧市街の中にあるので、「アンベール城」から朝来た道を戻り、「ゾラワル門」から街中に入る。旧市街の中心より東側に位置する。

13:45~14:10 「ジャンタル・マンタル」見学
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「ジャンタル・マンタル」とは天文台のことで、「ジャンタル」は「機械装置」を、「マントラ」は「魔法の手法」を意味する。この天文台は、1728年、ジャイプルの街を築いた「ジャイ・スィン二世」によって造られた。彼はここだけでなく、1724年にデリーで、また1734年ウッジャイン、1737年バナーラス、1738年マトゥーラにも天文台を造っている。これらの中でもジャイプルのものが最大で、最重要視されており、1901年の修復作業を経て、保存状態も良好だ。

「ジャイ・スィン二世」は、生涯を通じて天文学に取り組んでおり、インド最後の古典天文学者だと言われている。ペルシャやヨーロッパの文献を読み解き、ウルグ・ベクの天文台(現ウズベキスタン・サマルカンド)も参考にしながら、天文観測をより正確に行うべく、日時計や照準儀、子午線儀などの観測儀を巨大な寸法に拡大して屋外に造ったのである。

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全部で20種類以上の巨大な観測儀が置かれていたが、見学する時間があまりなかったので、数種類を見るだけで終わった。最も印象に残ったのは、「サムラット・ヤントラ(大きな日時計)」(写真左)だ。世界最大の日時計で、最も高い部分は27.4mもある。2秒単位の時間計測ができるという。その他には、「ラグ・サムラット・ヤントラ(小さな太陽)」や「ジャイ・プラカッシュ・ヤントラ」、「ラーシ・ヴァラヤ・ヤントラ(黄道12宮儀)」や「ナリ・ヴァラヤ・ヤントラ」なども面白い。「ラグ・サムラット・ヤントラ」(写真右)は、「サムラット・ヤントラ」の小型版で、20秒単位で時間を計ることができる日時計である。


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「ジャイ・プラカッシュ・ヤントラ」(写真左)は、半円球の形をしており、太陽の位置、日の出、その他天体の位置観測に使用され、観測所内の他の観測機器すべてのダブルチェックとして機能するのだ。「ラーシ・ヴァラヤ・ヤントラ(黄道12宮儀)」(写真右)という12体からなる観測儀もある。それぞれが12の各星座の方向に向かっており、占星術師が利用したとの事。皆さん、それぞれ自分の星座の前で、記念写真を撮っていた。当然私も一枚、シャッターを押してもらった。ちなみに、私は蠍座である。

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「ナリ・ヴァラヤ・ヤントラ」には、二つの円が付いており、一方が北半球、もう一方が南半球での太陽の位置を観測するのに使われたという。


ウィキペディア・フリー百科事典(ジャンタル・マンタル)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%AB
ウィキペディア・フリー百科事典(ウルグ・ベク)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%99%E3%82%AF

「ジャンタル・マンタル」での見学を終え、その後我々は、隣接する「シティ・パレス」に向かった。

14:15~14:48 「シティ・パレス」見学
「シティ・パレス」は、1726年、「ジャイ・スィン二世」によって造られた宮殿だ。旧市街の中心に位置し、街の七分の一の面積を占めている。「シティ・パレス」と呼ばれるのは、旧アンベール宮殿や新近代のラムバーグ宮殿と区別するためのようだ。宮殿には「サワイ・ジャン・シング」がアンベールから移り住み、今も王族が暮らしているとの事。

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「ビレンドラ・ポル」(写真左)と呼ばれる装飾門をくぐり敷地内に入ると、中庭が広がる。その中央にあるのが「ムバラク・マハル(迎賓館)」(写真右)だ。1899年、賓客を迎える目的で、「サワイ・マドー・シン二世」により建てられた。設計は、英国の建築家「サミュエル・ジェイコブ」である。現在は、歴代の王が使っていた衣類などを展示する、「テキスタイル博物館」になっている。最初に我々は、博物館の見学から始めた。なお、内部の写真撮影は、固く禁じられている。

博物館には、「9kgの金糸を使ったマハーラーニーのサリーやマハーラージャが寺参りに行く時に着たサンガネール染めのローブなどがある。展示品の中で特に目を引くのが、シタールの後ろに展示されている真紅のガウン。バナーラスで特別に作らせたシルクのガウンは、サワーイー・マド・スィン一世(在1750~68)のもの。その巨大さから想像できるように、KONISHIKI並みの体の持ち主だったそうだ」(「地球の歩き方 ‘11~’12 インド」より)。

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博物館を出て後、「ラージェーンドラ門」(写真左)を通り抜けて次の広場に向かう。そこにあるのは「ディーワン・イ・カース(貴賓謁見の間)」(写真右)だ。

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「1730年の竣工で、大理石舗装の美麗なギャラリーがあり、現在は折に触れ式典などに使用されています。ホールの外にはガンガリジャスと呼ばれる巨大な銀製の壺が2個置かれています」(「デリー・アグラ・ジャイプル」より : 写真)。「1902年、エドワード七世の戴冠式に出席するためにマハーラージャがイギリス旅行に行く際、持って行ったといわれるもの。大変敬虔なヒンドゥー教徒だったマハーラージャは、この壺にガンガーの水を入れて、旅の途中でも常に体を清められるようにはるばるイギリスまで船で運ばせて、毎日沐浴をしていたそうだ。この銀の壺は人間の背丈ほどの高さがあり、ギネスブックにも登録されている世界で一番大きな銀製品」(「地球の歩き方 ‘11~’12 インド」より)との事。

約30分で見学を終え、トイレ休憩を兼ね、カーペットとテキスタイルのお店に行く。後で気が付いたのだが、「シティ・パレス」で有名な「月の宮殿」は訪ねていない。博物館ではなく、この宮殿を見に行けば良かったと、少々後悔している。

14:58~15:44 カーペットとテキスタイルのお店でショッピング
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ここでは最初に染色の工程を見せてくれ(写真上段)、その後店に案内された。一通り見て廻るが、特に欲しいものはない。しかし、奥の一角にミニアチュールが見えたので行ってみた。カジュラホで手に入れたような書籍ではなく、こちらは一枚ものである。十数枚見せてもらっている中に、街と庶民の生活(写真下段左)を描いたものがあり、なかなか良い作品だったのでこれを購入することにした。これはライスペーパー上に描かれたものだが、絹の上に描かれた像の作品(写真下段右)もあったので、これも追加した。こちらは、「Mazanu」という作家が描いた最近のものだ。時計を見ると少し時間オーバーである。しかし、他の皆さんも買い物に忙しく、予定の時間を大きく超えてしまった。

Shree Carpet & Textile Mahal
http://www.sarrafgroup.com

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旧市街から西へ約2km。バスで「ビルラー寺院」に向かう。途中、「中央博物館(アルバート・ホール)」(写真)の前を通る(写真)。この博物館は、1863年、イギリスのアルバート王子により建てられたもので、インド・サラセン様式の秀逸な建築物と言われている。設計はサー・スィントン・ジェイコブの手によるもので、建築様式は英国に現存する建物がモデルになっているにもかかわらず、アーチ付ベランダやドーム型のパビリオンなど、ムガル様式の影響を受けているのが分かる。博物館は1887年に開館され、考古学に関する品々や、手芸工芸品などを所蔵する、ラジャスタン州最古の博物館だ。

16:14~16:40 「ビルラー寺院」(写真)見学
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1988年、ビルラー家によって建てられたヒンドゥー教の寺院。「ラクシュミ・ナラヤン・マンディル」とも呼ばれる。この寺院が建てられている敷地は、ビルラー財団が、わずか1ルピーというお印(しるし)だけの金額でマハラジャから購入したものだ。真っ白な外観のノーマルなヒンドゥー教寺院だが、「その内部が非常にユニーク。キリスト教教会のような色鮮やかなステンドグラスがあるのだ。もちろんそのモチーフはヒンドゥーの神話の神々」(前掲書より)である。なおここでは、門をくぐる前に靴を脱がなければならない。雨の日も同じ?

ウィキペディア・フリー百科事典(ビルラー寺院 [Birl Mandir,Jaipur : 英語版])
http://en.wikipedia.org/wiki/Birla_Mandir,_Jaipur

約30分で観光を終え、バスでホテルに戻る。

17:00 ホテルに到着

17:10 入室
夕食まで時間があったので、入浴、資料整理、荷物整理を済ませ、しばらくベッドの上で休む。

20:00~22:00 ホテルのレストランで夕食、その後、添乗員と話す
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夕食のメニューは、次の通り。
・トマトスープ(写真左)
・パスタ&チーズソース(写真中)
・野菜&クリームソース(写真中)
・魚&黒豆ソース(写真中)
・野菜だんご、あんかけ(写真中)
・野菜焼きそば(写真中)
・マトンとグリンピースのキーマ(写真中)
・インドスパイスチーズ(写真中)
・インド風デザート(写真右)
・コーヒー

1時間ほどで食事を終える。中庭では、インド・フォークロアダンスがあるとの事だったが、本日訪れた場所でわからないこと、聴き洩らしたことなどを確認するため、レストランで添乗員と話し込んだ。

23:00頃 就寝


(参考文献)
・「地球の歩き方 ‘11~’12 インド」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「図説インド歴史散歩」(岩瀬一郎他編)[河出書房新社刊]
・「インド建築案内」(神谷武夫著)[TOTO出版刊]
・「インド古寺案内」(神谷武夫著)[小学館]
・「週刊世界遺産27(インド)」(菅家洋也編)[講談社刊]
・「週刊世界遺産83(インド)」(伊藤裕編)[講談社刊]
・「イスラーム建築の見かた」(深見奈緒子著)[東京堂出版刊]
・「デリー・アグラ・ジャイプール」(ラジャラマパンダ著)[ミッタルパブリケション刊]
・「デリー・アグラ・ジャイプル」(ダンラジ・アスワニ著)[シュリナート・ニューススタンド刊]



January 23, 2012

ジャイプル観光(その1 : アンベール城)

インドの旅(第14回)

第6日目 (12月12日[月] : 晴れ)

6:00 起床

6:35~8:00 朝食
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朝食は、いつもの通りビッフェ式。スパイシーなものを避けて選ぶ。食後、ホテル内を散歩したが、さすがに250年前に建てられた元大臣官邸だけのことはあり、広々とした庭園に、赤砂岩と大理石をミックスした、素晴らしい建築物が並ぶ。庭の一角には、チェス場がある。大きなチェスの駒を見ていると、夜中、勝手に動き回っているのではないかと想像させられた。

9:05 バスで「ジャイプル」観光へ
この地方を支配していた、ラージプート族のカチワーハ家の王「サワーイー・ジヤイ・スィン二世」が、1728年、城壁に囲まれたこの街を造った。王の名前「ジャイ」と、城壁に囲まれた街を意味する「プル」とを合わせ、「ジャイプル」と呼ばれるようになった。ホテルから南東に約3km、旧市街の西側にある「ニュー・ゲート」から街に入った。この街は「ピンク・シティ」と呼ばれている。というのも、街並みがすべてピンク色に統一されているからだ。しかしピンクと言っても、薄赤茶色といった方が良いかもしれない。街中を通り、東南にある「ゾラワル門」から街を抜け、さらに10kmほど走って「アンベール城」に向かう。

ウィキペディア・フリー百科事典(ジャイプル)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%97%E3%83%AB

9:45 バスを降りてジープに乗り換え、「アンベール城」へ
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「アンベール城」は岩山の上にあり、道が狭く込み入っていることから、バスでその場所まで昇ることはできない。ここから城へ行くのには、歩く、像に乗る、ジープに乗るなどの方法がある。我々は数台のジープに分かれて乗り、城まで行くことにした。岩山の上には、中国「万里の長城」のような城壁が続いているのが見える。約10分で、「アンベール城」の前に到着した。

10:10~11:10 「アンベール城」見学
ムガル帝国と同盟を結んだこの地の王によって、16世紀末に建設が始められた。外観は、いかにも砦といった武骨な印象だが、内部は全く違った雰囲気である。さまざまな壁画や装飾が美しい。

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「月門」(写真左)から城内に入ると、広場に出る(写真中)。右手(南西側)にある階段を上って「シュリー・シーラー・デーヴィ寺院」を抜けると(写真右)、「一般謁見の間(ディーワン・イ・アーム)」と「ガネーシャ門」(写真下左)が見えた。「一般謁見の間」(写真中左)は、「ミルザ・ラジャ・ジャイ・シン」により建てられたもので、支柱部の複雑な装飾で知られている(写真中中・右)。「ガネーシャ門」は、イスラーム風の装飾文様が施されており(写真下中)、その中心には、ヒンドゥー教の神「ガネーシャ」が描かれていた(写真下右)。この門をくぐると、いよいよ本殿だ。

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城壁に上り、ハマムを見た後、庭園に出る。さらに城壁を上り、「勝利の間」の屋上から周囲を見渡す。先ほどの庭園は、上から見ると見事な幾何学模様をしている(写真左)。城壁の外側には池があり、その中央にも、やはり幾何学模様をした庭園がある(写真中)。その後再び下の庭園に戻り、「歓喜の間(スク・ニワース)」を外から覗いて、庭園を挟んだ反対側に建つ「勝利の間」(写真右)に向かった。

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この「勝利の間(ジャイ・マンディル)」では、最盛期のヒンズー・イスラム様式の特徴が見られるという。またここには、小さな鏡がびっしりと嵌め込まれた「鏡の間(シェーシュ・マハル)」がある(写真上段)。「扉、窓を閉めて、蝋燭を点すと、夜空に煌く星のように見える」(「デリー・アグラ・ジャイプル」より)と言われている。ここでは細かな修復作業が行われていた(写真下左)。その上には、「栄光の間(ジャス・マンディール)」がある。美しい透かし彫り細工の施された、アラバスター製の窓があり(写真下中)、そこからの見晴らしもなかなか良い。また宮殿の奥(南側)にも中庭があり、それを囲むように「ハーレム」が建てられている(写真下右)。

ウィキペディア・フリー百科事典(アンベール城)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%9F%8E
ウィキペディア・フリー百科事典(ガネーシャ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A3

約1時間で「アンベール城」の見学を終え、再びジープに乗って丘を下り、バスに乗って来た道を戻る。その途中、「ジャルマハル湖」でバスを降りる。

11:42~11:52 「ジャルマハル湖」で「水の宮殿」の写真撮影
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「ジャルマハル湖」に浮かぶマハラジャの宮殿。湖は16世紀に造られた人工湖で、23.5k㎡の広さを持つ。宮殿は5階建てで、湖の水が一杯になると、最上階しか見えなくなるという(写真)。

ウィキペディア・フリー百科事典(ジャルマハル湖 [Jal Mahal : 英語版])
http://en.wikipedia.org/wiki/Jal_Mahal#The_Palace

12:00~12:30 宝石店で工場見学とショッピング
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ジャイプルは宝石の産地で、エメラルド、ルビー、オパールやアメジストなど、色々な種類の石が採れるとの事。宝石加工の様子を見学(写真)した後、店に移動してショッピングである。色々な石を見せてもらったが、欲しいものはなかったので、ここでも何も買わずに店を出た。

Bhandari Jewellers
http://www.bhandarijewellers.com

12:36~13:35 レストランで昼食
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昼食会場は、レストラン「Durg The Fort」(写真左)。屋外のテーブルで食事をしたのだが、ここもハエが飛びまわっていたので、なかなか食事に集中できない(写真中左)。

メニューは次の通り。
・レモニとコリアンダーのスープ(写真中右)
・カレー料理(写真中右)
・パスタ、トマトソース(写真右)
・インド菓子
・コーヒー

どれもスパイシーだったので、少しずつ頂くに留めた。

Durg The Fort
http://www.durgthefort.com


(参考文献)
・「地球の歩き方 ‘11~’12 インド」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「図説インド歴史散歩」(岩瀬一郎他編)[河出書房新社刊]
・「インド建築案内」(神谷武夫著)[TOTO出版刊]
・「インド古寺案内」(神谷武夫著)[小学館]
・「週刊世界遺産27(インド)」(菅家洋也編)[講談社刊]
・「週刊世界遺産83(インド)」(伊藤裕編)[講談社刊]
・「イスラーム建築の見かた」(深見奈緒子著)[東京堂出版刊]
・「デリー・アグラ・ジャイプール」(ラジャラマパンダ著)[ミッタルパブリケション刊]
・「デリー・アグラ・ジャイプル」(ダンラジ・アスワニ著)[シュリナート・ニューススタンド刊]


January 21, 2012

「アグラ城」と「ファテープル・シークリー」

インドの旅(第13回)

10:55 バスで「アグラ城」へ

11:07~12:10 「アグラ城」見学
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「アグラ城」は、「タージ・マハル」から西へ約2km、「ヤムナー川」沿いに位置する。ムガル朝の中で最も重要な城郭で、1565年から1573年にかけて、第三代皇帝アクバルによって建てられた。城壁や城門がすべて赤砂岩で築かれていることから、「赤い城(ラール・キラー)」とも呼ばれている。城壁の長さは約2.5kmで、高さは77フィートだ(写真 : アマル・シィン門)。

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我々は、城の南側にある「アマル・シィン門」から入り、まっすぐ続く道を歩いて「アクバリー門」(写真左)をくぐった右手、黄緑の芝生が敷かれた庭の奥に「ジャハーンギール宮殿」(写真右)が見えた。赤砂岩で造られた城塞内で最も優れた重要な建築物で、突き出たひさしや彫刻が施された壁、図書館として用いられ部屋の書棚など、見どころも多い(写真下段)。

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宮殿を抜けると、テラスに出る(写真左)。ここから、先ほど訪ねた「タージ・マハル」が見える(写真中)。テラスの北側には、「ムサンマン・ブルジュ(囚われの塔)」(写真右)がある。ここに第五代皇帝シャー・ジャハーンが幽閉されていたのだ。この部屋の窓から「タージ・マハル」を眺め、亡き妻を偲ぶことが、シャー・ジャハーンの唯一の慰めだったという。

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さらに北に進むと、「ディーワン・イ・カース(貴賓謁見の間)」だ。美しい白亜の大理石宮殿で、1637年にシャー・ジャハーンが建てたといわれている。

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西側には、「ディーワン・イ・アーム(一般謁見の間)」がある。シャー・ジャハーンによる、砂岩から大理石への建て替え事業の対象となった最初のホールの一つで、中庭の東面中央部にある。

ウィキペディア・フリー百科事典(アグラ城塞)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B0%E3%83%A9%E5%9F%8E%E5%A1%9E

約1時間で「アグラ城」の見学を終え、昼食のため、宿泊していたホテル「ジェイピーパレス」に戻る。

12:30~13:23 ホテルのレストランで昼食
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ビュッフエ方式だったので、またしてもスパイシーなものを避けてチョイスし、スパゲティ、パスタ、野菜炒め、パン、スープ、ヨーグルト、ケーキを頂いた。

13:25 バスで「ジャイプール」へ出発
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道中、バスの窓から活気ある露天市場を見て楽しむ。

14:46~14:56 トイレ休憩

15:12~15:50 「ファテープル・シークリー」観光
アグラ中心部から、南西約37kmに位置する城跡である。当時世継に恵まれなかったアクバルは、「ここに住む聖者シェーク・サリーム・チシュティーの予言によって男児(後の第四代皇帝ジャハーンギール)を得た。これにちなんでアクバルは、1571年に首都をこの地に移転させた。約5年かけて建設された都は、3km×1.5kmの広大な土地を城壁で囲み、その中央の丘に宮廷やモスクを赤砂岩で築いた壮麗なものであった」(「地球の歩き方 ‘11~’12 インド」より)。

「ファテープル・シークリー」とは、「勝利の都」の意味。1573年、インド西部のグジャラート地方で勝利をおさめたアクバルが、これを記念して名付けたとの事。このようにして造られた新しい都であったが、水不足が原因で、14年後にはラホールに遷都されたのである。

しかし、「後宮の妃五千」と言われるほど多くの妾を抱えながら、世継に恵まれなかったというのだから、不思議としか言いようがない。


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遺跡は「宮廷地区」と「モスク地区」に分けられる。我々が訪ねたのは「宮廷地区」だ。東側から中に入ると、そこは回廊に囲まれた中庭で、正面には「ディーワン・イ・アーム(一般謁見の間)」が見える(写真)。王が国民と接する開放的な殿舎で、主に裁判が行われたようだ。

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その横を通り過ぎ、次の広場に出ると、「ディーワン・イ・カース(貴賓謁見の間)」が建っていた。宮廷地区の政務部分に当たり、王の私的な謁見の建物だ(写真左)。2階建ての吹き抜け構造で、中央にバナナの房のような柱頭を持った柱が、回廊の四隅から伸びて対角状にクロスするブリッジを支えている(写真右)。王は、このクロスする部分の中央に置かれた玉座から、貴賓や賢人を迎え、また討議するのを審判したという。

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さらに西に進むと、宮廷地区で最もユニークな構造物である「パンチ・マハル(五層閣)」が建っている(写真)。柱と梁によるジャングルジムのような構造で、五層の吹き抜けからなる。1Fの列柱は84本あり、その数は上に行くほど少なくなるが、同じデザインの柱はないという。建物前の広場には方眼が刻まれており、ここで人間を駒に見立てたチェスのようなゲームが行われていたとの事。「かつては透かし彫りのスクリーンで覆われ、女性達が展望や涼をとるためにも使ったという」(前掲書より)。

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「パンチ・マハル(五層閣)」の南側には、「ミリアムの館」(写真)がある。アクバルの妃の一人である、マリヤム・ウズ・ザマニ(ジャハーンギールの母)が住んでいた館で、贅を尽くした金箔のため、当初は「ソネフラ・マカン」、または「ゴールデンハウス」と呼ばれていたようだ。

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さらに南西側に進むと、「ジョド・バーイー殿」(写真)が建っている。アクバルの息子、ジャハーンギールの妃の名がつけられている。実際はねアクバルとその妃の住まいであったようだ。

まだまだ見たいところがあったのだが、集合時間が近づいたので、已む無く指定された場所に戻ることにした。「ディーワン・イ・カース」の前で集まり、回廊に囲まれた中庭を通って、バスの待つ場所に向かった。

ウィキペディア・フリー百科事典(ファテープル・シークリー)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC

15:50 バスでジャイプールに向かう。

17:34~17:52 トイレ休憩を兼ね、土産物店でショッピング

20:00~21:05 レストランで夕食
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午後8:00、ようやく夕食会場である「Hotel Glitz Jaipur」に到着した(写真左)。広いスペースの部屋だが、まだお客の数は少ない(写真中)。今回は、インド・フォークロアダンスを見ながらの食事である。特に舞台というのは無く、レストランのフロアでそのまま踊りを見せてくれるのだ。すでに男性二人が楽器の準備をし、女性二人がいつでも踊りを始められるようにスタンバイしていた(写真右)。

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夕食のメニューは、スープとターリー料理(大皿にインドの料理が載せられてくる)だ。料理が配られると、音楽が鳴り始め、踊りが始まった。

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サリーを着た女性が、頭の上に壺のようなものを乗せ、二人揃ってクルクル回転する。頭の上の壺の数は、段々増えてくる。最後は、食事を終えた私たちも参加して、一緒に踊った。おかげで楽しく過ごす事ができた。

Hotel Glitz Jaipur
http://www.hotelglitzjaipur.com
http://www.hotelglitzjaipur.com/showpimage.aspx?catid=48

21:30 ホテル「ジャイ・マハール・パレスホテル」に到着
250年以上前に建てられた、インド・サラセン様式の建物。元大臣官邸であった高級ホテルだ。中庭も広々としており、遺跡に宿泊するような感じである。

21:45 入室
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広々とした部屋。白とブルーでまとめた、爽やかな雰囲気だ。バスタブの横には扉があり、それを開くとベッドルームが見える。残念ながら、資料整理用に便利な、スタンド付きデスクはない。入浴した後、資料整理を済ませ、23:30頃ベッドに入った。

Jai Mahal Palace Jaipur
http://www.tajhotels.com
http://www.tajhotels.com/Luxury/Grand-Palaces-And-Iconic-Hotels/Rambagh-Palace-Jaipur/Overview.html

(参考文献)
・「地球の歩き方 ‘11~’12 インド」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「図説インド歴史散歩」(岩瀬一郎他編)[河出書房新社刊]
・「インド建築案内」(神谷武夫著)[TOTO出版刊]
・「インド古寺案内」(神谷武夫著)[小学館]
・「週刊世界遺産27(インド)」(菅家洋也編)[講談社刊]
・「週刊世界遺産83(インド)」(伊藤裕編)[講談社刊]
・「KHAJURAHO(日本語版)」(アーチャナ・シャンカール著)[ロリ・ブックス刊]
・「イスラーム建築の見かた」(深見奈緒子著)[東京堂出版刊]


January 19, 2012

白亜の大霊廟「タージ・マハル」

インドの旅(第12回)

第5日目 (12月11日[日] : 晴れ)

6:30 起床

6:50~7:30 朝食
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本日もスパイシーなものを避けて選び、コーンフレークにおかゆ、菓子パンにコロッケ、そして出来たてのオムレツを頂く(写真左)。食事の後、10分ほどホテル内を歩く(写真中・右)。

8:00 バスで「タージ・マハル」観光へ出発

8:25~9:50 「タージ・マハル」観光
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昨晩訪れた時とは、全く雰囲気か異なる。道路には障害になるような柵は、一つも置かれていない(写真)。また「タージ・マハル」に入場する前の厳しいチェックもない。やはり夜は異常に厳しかったのだ。バスを降りて、200~300m歩くと「東門」である。チケットを見せて入場する。

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昨晩、警備員と一緒でなければならなかった前庭も自由に歩くことができる(写真左)。200~300m先の右手には、正門が見える(写真中)。赤砂岩造りで、入口周囲にはカリグラフィーが、天井部にはムカルナスでデザインされている。正門に近寄って行くと、そこからは真っ白に輝くタージ・マハルが見えた(写真右)。

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昨晩とは全く違う。月明かりのもとで見た「タージ・マハル」は神秘的であったが(写真左)、昼間のそれは「白亜の美」という感じである。しかし、インド建築の最高傑作と言われているが、私には、どう見てもイスラム建築の最高傑作にしか見えない(写真右)。雰囲気はウズベキスタンで見た霊廟に近い。やはりティムールの後を引き継いでいるのであろう。

ところで、真っ白な大理石で作られた雄大な建物「タージ・マハル」は、第5代皇帝シャー・ジャハーンが、若くしてこの世を去った妻のために建てた霊廟である(※)。敷地面積は42エーカー(約17万㎡)。一日当たり2万人の労働力を投入し、22年かけて完成した(1632年着工、1654年完成)。建設資金は、当時のお金で1億1千万ルピー。この結果、帝国の金庫は空になったと言われている。

(※)第5代皇帝シャー・ジャハーンが「妻ムムターズと知りあったのは、皇帝になる前のこと。王城内で催されたバザールで宝飾品を売る彼女にシャー・ジャハーンは一目惚れをした、そして、5年後に結婚。彼が20歳、ムムターズが17歳のときのことだった。ムムタース・マハルとは、「宮廷の選ばれし者」を意味し、嫁ぐ際に先帝から授けられた名である。皇帝となったシャー・ジャハーンは、遠征にも妻と子供達を伴った。たとえ砂漠や濁流のガンジス川を渡る困難な行軍でも、二人は片時も離れなかった。そんな皇帝の愛に応え、彼女は14人の子供をもうけている。しかし、帝国の版図拡大をはかる皇帝に付き添って出かけた遠征先のデカン地方で、ムムターズは産褥熱(さんじょくねつ)により、36歳の若さでこの世を去ってしまう。シャー・ジャハーン帝の悲しみは計り知れなかった。黒々とした髪は一夜にして白髪となり、国民にも2年間、喪に服することを命じるほどであった」(「週刊世界遺産27(インド)」より)。


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正門をくぐると、正面には、園路で田の字形に分割されたチャハルバーグ(四分庭園)が広がる。これは、イスラム教のコーランで説かれている「天上の楽園」を表しているのだ。中央の水路には、白く輝く「タージ・マハル」の姿が映し出されている(写真)。途中で記念写真を撮りながら、「タージ・マハル」に向かって歩く。霊廟は100m四方の大基壇の上に建っているので、階段を上り傍まで行く。内部は、繊細な透かし彫りが施された大理石に囲まれており、その中心に、王妃の棺が安置されている。棺の表面には、メノウやヒスイなどがふんだんに使われ装飾されている。ご存知の通り、「タージ・マハル」は左右対称の美を持っているのだが、唯一崩れているのが、この棺の置かれている部分なのだ。というのも、第5代皇帝シャー・ジャハーンの棺が、王妃の棺の横に置かれているからである。

では、何故このような事になったのであろうか。それはシャー・ジャハーンが、晩年、息子のアウラングゼーブによって皇帝の位を追われたためだ。シャー・ジャハーンは、ヤムナー川の対岸に、「タージ・マハル」と同じ形の自分の霊廟を黒大理石で建て、二つの霊廟に橋を架ける計画を持っていたというが、「タージ・マハル」だけでも財政が破綻しかけていたというのに、もしこの計画が実行されていたなら、ムガル帝国の終わりは、もっと早まっていたに違いない。アウラングゼーブは、父のために新たな霊廟を建てることはせず、母の棺のそばに父の棺を並べたのだ。
ところで、これらはいずれも本物の墓ではなく、本物は中央の部屋の下、これらの墓の真下に安置されているのだ。本物の墓が踏まれることのないよう、本物の墓とは別にその上部にレプリカの墓を設けるのが当時の風習だったようである。

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霊廟の内部を見た後、裏側に回ると、ヤムナー川が見えた(写真左)。何もない対岸を見ながら、黒い霊廟を想像するのも面白い。もし完成していたなら、どのような感じになっていたのだろうか。霊廟の西側には、赤砂岩で造られたモスクが建っている(写真右)。東側には、モスクと同じ形をした迎賓館が見られる。

ウィキペディア・フリー百科事典(タージ・マハル)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%AB
ウィキペディア・フリー百科事典(シャー・ジャハーン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B3
ウィキペディア・フリー百科事典(アウラングゼーブ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%BC%E3%83%BC%E3%83%96
ウィキペディア・フリー百科事典(ムムターズ・マハル)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%A0%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%AB
ウィキペディア・フリー百科事典(ヤムナー)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%A0%E3%83%8A%E3%83%BC%E5%B7%9D


「タージ・マハル」での見学を終え、次は「シャー・ジャハーン」が幽閉されていたという「アグラ城」に向かう。しかしその前に、トイレ休憩のため、大理石細工の工場を持つお店「U.P.CRAFTS PALACE」に立ち寄った。

10:14~10:55 「U.P.CRAFTS PALACE」で工場見学&ショッピング
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ここでは、象嵌細工の品々を作り、販売している。先ほど、タージ・マハルの霊廟や、「シャー・ジャハーン」とその妃の棺の表面に施されていた見事な細工もこれだ。大理石の板に、深さ2.5mmほど彫り込み、そこにピッタリ嵌るように貴石を削って組み込んでいくのである。何とも細かい作業が必要だ。お店の方に行くと、豪華な作品が何点も展示されていた。しかし、「いいな」と思うものは、テーブルなど大きなものばかりだったので、結局何も買わずにお店を出た。

(参考文献)
・「地球の歩き方 ‘11~’12 インド」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「図説インド歴史散歩」(岩瀬一郎他編)[河出書房新社刊]
・「インド建築案内」(神谷武夫著)[TOTO出版刊]
・「インド古寺案内」(神谷武夫著)[小学館]
・「週刊世界遺産27(インド)」(菅家洋也編)[講談社刊]
・「週刊世界遺産83(インド)」(伊藤裕編)[講談社刊]
・「KHAJURAHO(日本語版)」(アーチャナ・シャンカール著)[ロリ・ブックス刊]
・「イスラーム建築の見かた」(深見奈緒子著)[東京堂出版刊]



記念5百円貨幣(滋賀県、岩手県及び秋田県)を追加でゲット

記念5百円貨幣(滋賀県、岩手県及び秋田県)を追加でゲット

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昨日発行された、地方自治法施行60周年記念5百円貨幣(滋賀県、岩手県、秋田県)を各10枚、計30枚(15,000円)追加入手した。これで昨日分と合わせて54枚(27,000円)になった(写真)。

一つの銀行を訪ねるだけで済んだことを考えると、各金融機関とも余り気味なのではないだろうか。今から行っても十分に間に合いそうだ。

私は500円玉貯金のつもりで追加引換えしてきたが、皆さんも如何だろうか?


January 18, 2012

地方自治法施行60周年記念5百円貨幣(滋賀県、岩手県及び秋田県)を入手

地方自治法施行60周年記念5百円貨幣(滋賀県、岩手県及び秋田県)を入手

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本日は午前中、銀行廻りをして、地方自治法施行60周年記念5百円貨幣(滋賀県 : 写真左、岩手県 : 写真中、秋田県 : 写真右)を各8枚、計24枚(12,000円)入手した。

いつもであれば、10~15の金融機関を廻って引き換えてくるのだが、これまでの経験から、翌日でも十分残っていることが分かったので、今回は地元の金融機関だけを訪ね、数枚ずつ確保するにとどめた。

引き換え初日は1人各2枚までという制限があるが、明日からは在庫がある限り何枚でも引き換えてもらえるので、数多く手に入れたい場合は、明日行った方が効率的である。しかし、コイン商から手に入れる場合、1枚が800~1,000円ぐらいするので、全く入手できないリスクを避けるため、とりあえず本日、最低枚数確保し、明日、再度引き換えに行くことをお薦めしたい。銀行の窓口は、一般に午後3:00までなので、まだ間に合う。


財務省のHP(地方自治法施行60周年記念5百円バイカラー・クラッド貨幣(滋賀県、岩手県及び秋田県)の概要)
http://www.mof.go.jp/currency/coin/commemorative_coin/47_pref_coin_program/kk231201sankou.htm
財務省のHP(地方自治法施行60周年記念5百円貨幣(滋賀県、岩手県及び秋田県)引換取扱機関一覧[都道府県別])
http://www.mof.go.jp/currency/coin/commemorative_coin/47_pref_coin_program/kk231201itiran.htm



January 17, 2012

ムガル帝国時代

インドの旅(第11回)

「タージ・マハル」や「アグラ城」などについてお話しする前に、ムガル帝国の歴史について、簡単にまとめておいた。この先訪ねる場所を理解する上で、これだけのことを知っておくと旅が楽しくなると思うからだ。もちろん、私の独断と偏見による選択である。

歴代王の順に見た、ムガル帝国の年表を挙げると、次の通りである。

<年表>
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初代 バーブル(1526年 - 1530年 : 建国)
第2代 フマユーン(1530年 - 1540年、復位:1555年 - 1556年)
第3代 アクバル(1556年 - 1605年 : 勢力伸長、「ファテープル・スィークリー」(写真左)、「アグラ城」(写真中)、「フマユーン廟」(写真右)を建設)
第4代 ジャハーンギール(1605年 - 1627年)
第5代 シャー・ジャハーン1世(1628年 - 1658年 : 「タージ・マハル」(写真下左)を建設)
第6代 アウラングゼーブ・アーラムギル(1658年 - 1707年 : 最盛期、死去と共に衰退へ)
第7代 バハードゥル・シャー1世(1707年 - 1712年)
第8代 ジャハーンダール・シャー(1712年 - 1713年)
第9代ファッルフシヤル(1713年 - 1719年)
第10代 ラフィー・ウッダラジャート(1719年)
第11代 ラフィー・ウッダウラ(1719年)
第12代 ムハンマド・シャー(1719年 - 1748年 : 「シティ・パレス」(写真下中)を建設)
・サーワーイー・ジャイ・スィン二世(ジャイプール地方に勢力を持つカチワーハ家の王 : 「シティ・パレス」、「ジャンタル・マンタル(天文台)」を建設)
第13代 アフマド・シャー(1748年 - 1754年)
第14代 アーラムギール2世(1754年 - 1759年 : 「プラッシーの戦い」で敗北)
第15代 シャー・アーラム2世(1759年 - 1806年)
・サワーイー・プラタープ・スィン(ジャイプール地方に勢力を持つカチワーハ家の王 : 「ハワー・マハル(風の宮殿)」(写真下右)を建設)
第16代 アクバル・シャー2世(1806年 - 1837年)
第17代 バハードゥル・シャー2世(1837年 - 1858年 : インド人傭兵[シパーヒー]による大反乱、ムガル帝国滅亡)

14世紀後半、チンギス・ハンの子孫と称するティムールが、中央アジアを統一して大帝国を築いた。バーブルは、そのティムールの子孫で、元は中央アジアに領地を持っていたが、勢力争いに敗れてその地を追われ、アフガニスタンから北インドに進出する。1526年に、デリー北部のパーニーパットで、北インドを支配していたイスラムの王朝(デリー・スルタン朝)と対決して勝利し、ムガル帝国を建国。

ムガル帝国が大国へと成長していくのは、第3代皇帝アクバルの時代からである。アクバルは、1556年、2代目の皇帝が急死したため、13歳で即位。成人するまでに、権力を握っていた家臣を倒して、独裁的な権力を手にした。そして彼の時代に、ムガル帝国の領地は、インド亜大陸の北半分にまで広がっていったのである。
帝国の支配は、軍事力で押さえつけた面もあったが、彼は「宥和的宗教政策」、すなわちヒンドゥー教徒とイスラム教徒との融合を図り、支配の基盤を固めようとした。たとえば、彼みずからヒンドゥー教徒の女性と結婚し、また非イスラム教徒に課されていた人頭税(ジズヤ)を廃止して、ヒンドゥー勢力を味方につけたのである。

アクバルの時代に確立した統治制度は、第6代アウラングゼーブの時代まで続き、ムガル帝国の最盛期を迎える。また、インドのほぼ全域に支配を拡大することで、イスラムとインドの文化が融合した、「ムガル文化」も発展した。イスラムの影響を受けたミニアチュール(細密画)もその一つで、ムガル帝国の時代に、その技法がインドにもたらされたのである。
「しかし、その治世はまた、支配の弱体化が進んだ時代でもあった。ムガル支配層は、地租の徴収を強化しただけで、農村や都市で展開した商品生産に積極的にかかわろうとしなかった。また、アウラングゼーブは、イスラム教を深く信仰した一方で、ヒンドゥー教寺院の破壊を命じ、あるいは人頭税を復活するなど、ヒンドゥー教徒を圧迫して反発を招いた。こうした情勢の中で、地方勢力は着実に力をつけ、各地で農民反乱や独立の動きが表面化した。西インドでは、ムガルの支配から独立してヒンドゥー国家の建設を目指すマラーター王国が登場し、西北インドではシク教徒が反乱をおこした。アウラングゼーブの死後にムガル帝国はたちまち解体し、ベンガルやデカンに独立政権が生まれた」(「詳説世界史」より)。

「アウラングゼーブの死後にムガル帝国が解体する一方で、地方の諸勢力が独立し、抗争をくりかえしていた。英仏両東インド会社は、これら勢力間の抗争にまきこまれただけでなく、インドとは無関係のヨーロッパでの対立を持ち込むことさえあった。カーナティック戦争はこうした例であり、英仏両勢力とインド側の政治勢力とが入り乱れた抗争であった。勝利したイギリスは、パリ条約(1763年)でインドでの英仏抗争に決着をつけ、つづいてマイソール戦争に勝利し、南インドを制圧した。同様の事態はインドの他地域でもみられた。イギリスは、東部ではベンガルの地方政権とフランスの連合勢力をプラッシーの戦い(1757年)で破り、税を徴収する権利を獲得して財政基盤を確保した。つづいて西部ではマラーター戦争に勝利し、最後は西北部でシク戦争に勝利した。こうしてイギリスは、一部の王国は藩王国として間接統治とし、ほかは直接に統治する体制をつくりあげ、植民地支配を完成させた」(前掲書より)。


ウィキペディア・フリー百科事典(ムガル帝国)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%82%AC%E3%83%AB%E5%B8%9D%E5%9B%BD


(参考文献)
「詳説世界史」(佐藤次高ほか著)[山川出版社刊]


January 16, 2012

月夜の「タージ・マハル」

インドの旅(第10回)


東群の寺院を離れ、トイレ休憩をとるため、バスで土産物店へ向かう。

10:32~11:00 お土産物店でトイレ休憩&ショッピング
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到着した土産物店は、「KANDARIYA ART&CULTURE」(写真左)である。平屋建てだが、かなり大きなお店で、入口前の広場には、アプサラやミトゥナなどの石像が数多く並べられていた(写真中)。店内も品数豊富で、石像だけでなく、木彫りの彫刻やその他の民芸品、衣類や菓子類も置いてあった(写真右)。店内をひと回りし、買うものもないので店を出ようとしたところ、小さなショーケースの中に、古びた本が並んでいるのを見つけた。気になったので見せてもらうと、ムガール帝国時代に描かれた「カーマ・スートラ」であった(写真下)。文字はアラビア語で書かれており読めないが、図はミニアチュール(細密画)である。ミニアチュールについては、コレクターではないが、非常に興味を持っており、イランに行った時も素晴らしい作品を1点購入した。イスラムのミニアチュールはペルシャの影響を受けており、インドの細密画もその流れをくむ。どのぐらいの価値があるものか私には分からなかったが、自分が払っても良いと思う値段で購入した。日本では、なかなかお目にかかれないのではないかと思うのだが、私が知らないだけかもしれない。しかし、とりあえず満足して店を出た。

午後からは「ジャンシー」に向かい、「ジャンシー」からは特急列車で「アグラ」に行く予定である。バスで2時間ほど走り、レストランで昼食を頂く。

13:10~14:15 レストランで昼食
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昼食会場のレストランは、「Maharaja Motel & Resorts」。このあたりではレベルの高いレストランなのだろうが、日本人から見ると、田舎にある大きな食堂といった感じか(写真左)。蠅が多く飛んでいるのと、食器類に汚れが付いているのが難点。皆さんナイフ・フォークやグラスを、ウェットティッシュで拭いて使っていたのが印象に残った。私は気にせず、食器類をそのまま使ったが、蠅には困った。ちょっと横を向いていると、すぐに食べ物に集るのだ。蠅を手で追い払いながら食べていると、味が良く分からなかった。メニューは次の通り。

・トマトスープ(写真中)
・クミンバターライス、チキンカレー、チーズと豆(写真右)
・ナン
・バナナ
・コーヒー

Maharaja Motel & Resorts
http://www.maharajamotalresort.com

約1時間で食事を終え、14:16 バスで「ジャンシー」へ向かう。約2時間の道のりであったが、その間数度、バスは停まって支払いをしていた。高速道路でもないのに何だろうと思いガイドに訊ねたところたら、「通行税」(州税)の支払いをしているのだとの回答。州の境界で支払はなければならないとの事。ただし、これは黄色のナンバープレートを付けている商用車だけだ。我々の乗っているバスなどは、「200~300ルピー×乗車人員分」を、またトラックなどは「トン数」で金額が決まるようである。しかし、いずれの場合でもワイロ分は上乗せして支払わなければならないという。支払わない場合は、嫌がらせに遭い、なかなか通過させてもらえないとの事。イギリスの植民地時代に、法治主義と民主主義は定着しているはずなのに、運用は全く違うようである。

16:46 「ジャンシー」到着
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白とピンクを基調にした、可愛らしい雰囲気の駅である(写真)。列車の時間まで、まだ1時間以上有ったので、乗車券の確認をした後、自由時間になった。しかしどこかに行くつもりもなかったので、ベンチに腰かけていた。私の右手に日本人らしき若いカップルがいたので、日本語で話しかけたのだが通じない。英語で話すと、返事が返ってきた。私と同じ、アグラに行く予定との事。色々お話しを聞いていると、彼らはハワイ在住の日系三世で、新婚旅行の最中であった。タイのチェンマイを訪れ、その後このインドを廻り、シンガポールで数泊した後、ハワイに戻る予定である。どうりで日本人に見えるわけだ。奥さんは、何ヶ月間か広島の小学校で英語を教えたことがあると言っていた。だから、少しだけ日本語が分かるのだという。雑談していると、時間が過ぎるのは早い。またアグラで会うかもしれないね、といって別れた。

ウィキペディア・フリー百科事典(ジャンシー[Jhansi : 英語版])
http://en.wikipedia.org/wiki/Jhansi

17:56 特急列車に乗車
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列車到着予定時刻の15分ぐらい前にホームに行き、列車が入って来るのを待つ(写真左)。ホームは混雑していたが、すべての人が列車に乗るわけではない。ヨーロッパと同じで、ホームへは切符なしで入れるので、色々な人がいるのだ。私たちの前には、5~6歳の女の子が2人いた。彼女達は前転をして見せた後、空き缶を突き出し、お金を入れろと催促してきた。誰も相手にしない。ツアーメンバーの一人が、甘やかしてはダメ。学校に行って勉強しなきゃ、と言っていた。しかしインドの場合、希望すればだれでも小学校に通うことはできるのだが、義務教育ではないため、親が子どもを学校に行かせようとしなければ、子供は学校に行かないまま過ごしてしまうことになるのだ。インド人の教育水準は高く、特に理数系に強い。人材が育っているので、これからますます有望な国であると言われているが、間違いではないにしても、全くできない人もいるのだ。この面でも混沌としているのではないだろうか。
ところで、インド時間で当然遅れてくると思っていた列車だが、定時に到着、定刻に発車だ(写真右)。飛行機で遅れを経験していただけに、少々驚いた。

INDIAN RAILWAYS
http://www.indianrail.gov.in/

18:01 特急列車で「アグラ」へ
車内の座席は、2列―通路―3列になっていた。私の席は3列の真ん中だ。指定の席に座ると、インド人の男性が席を替わってほしいと言ってきた。どうやら私の右側に彼の妻が、そして左側に彼の母親が座っているのだ。当然替ってあげた。その後添乗員が、気をきかせて、彼の座っている窓側の席と替ってくれた。その席は2列の窓側だったのだが、通路側には、先ほど席を替ってあげた男性の父親が座っていたのだ。何となく彼らと良くなり、彼らの赤ちゃんをあやしたりしながら楽しく過ごした。

18:10~18:30 軽食
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しばらくすると、軽食が提供された(写真)。トレイの上に、サンドイッチやスナック、ジュースなどが並んでいた。ジュースを飲もうと思ったら、ストローがなかったので、サービス係りの男性を呼んだのだが、全く気が付いてくれない。すると隣に座っていた男性が、喧嘩でも始めるのではないかというぐらい大きな声を出し、彼を読んでくれた。これがインド式なのだろうか。しかし、無事ストローをもらうことができた。

18:20 「アグラ」に到着
定刻で「アグラ」到着(写真)。この後「夜のタージ・マハル」観光の予定だが、定刻に着いたおかげで、慌てる必要はない。

20:40 迎えに来ていたバスに乗車

20:58~21:52 レストランで夕食
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夕食の会場はレストラン「Pinch of Spice」だ(写真左)。綺麗で、なかなか雰囲気も良い。当然、蠅も飛んでいない。メニューは、次の通り。

・コーンスープ(写真中)
・ビリアニ、野菜インド風、マトニカレー、カレーソース(写真右)
・コーヒー

Pinch of Spice
http://www.pinchofspice.in

約1時間で食事を終え、本日宿泊するホテル、「シェイピーパレス」に向かう。


22:10 ホテル「シェイピーパレス」に到着
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五つ星の豪華ホテル。道路に面して横に長く伸びているため、我々の部屋はフロントから5~6分歩かなければならない(写真)。

22:21 入室
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床はフローリング。全体を白と茶系統でまとめた落ち着いた雰囲気である。資料整理に使えるスタンド付きのデスクもあり、申し分ない(写真)。

JAYPEE PALACE
http://www.jaypeehotels.com/

22:40 バスで「夜のタージ・マハル」観光へ

22:50 「タージ・マハル」前に到着
夜の「タージ・マハル」見学は、20:30から始まり、翌日の00:30までで、30分ごとに入れ替わらなければならない。1グループ50人で、しかも毎日ではなく、満月を挟む5日間だけの公開だ。当然、予約が必要である。我々の入場時間は23:30から。ここまで来る道中、道には可動式の柵がいくつも置かれ、バスが一直線に走れないようになっていた。テロの車が一直線に突っ込めないようにしてあるのだろう。

タージ・マハルから数百メートル手前でバスを降りる。ここでのチェックも厳しい。まずボディチェックを受ける。ポシェットサイズよりも大きい荷物は、持ち込みを禁じられることもあるようだ。カメラはOkだが、次の部屋でチェックを受け、札が付けられる。次の場所では、チケットヲ見せ、もう一度ボディチェックを受ける。

23:30~24:00 「夜のタージ・マハル」見学
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外でしばらく待っていると、電気自動車がやってきた。これに乗り、タージ・マハルの東門近くまで進む。100mほど手前で降りて、東門まで歩く。ここでチケットを見せ、もう一度ボディチェックヲ受け、ようやく中に入ることができた。しかしここでも警備員と一緒に行動するのだ。前庭を通り抜け、正門をくぐったところでストップである。夜間は、これよりも先には進めないのだ。このテラスから、タージ・マハルを見学するのである。最初の数分はバックライトが点いていたが、その後は月明かりだけでの見学になる。生で見る月明かりの下のタージ・マハルは、何ともいえず神秘的な感じがするのだが、写真に撮ると全くダメ(写真)。「AUTO」で撮影すれば、適当に上手な写真が取れるだろうと思っていたのだが、本当にダメ。隣で撮影していた写真が趣味のおじさんの画面を覗くと、なかなかいい雰囲気に撮れている。私も再度チャレンジするが、やはりダメ。夜間撮影するための技術をマスターしてくれば良かったと後悔するが、時すでに遅しである。途中で写真撮影を止め、このシーンを体で覚えるため、ジックリ観察することにした。

30分というのは短いもので、アッという間に過ぎ去った。交代の時間が来たことを知らせるベルが鳴る。ノンビリしていると、警備員に声を掛けられてしまう。皆さんゾロゾロと正門をくぐり、前庭を通り、東門に向かった。門の外には、次のグループを降ろした後の電気バスが待っている。それに乗って検問所まで戻り、そこから、我々のバスが待つ場所まで数十メートル歩いた。

ウィキペディア・フリー百科事典(タージ・マハル)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%AB

00:25 ホテルに戻る。その後入浴、資料整理、荷物整理などをしていると、深夜になってしまった。ベッドに入ったのは、午前2:00頃である。


(参考文献)
・「地球の歩き方 ‘11~’12 インド」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「図説インド歴史散歩」(岩瀬一郎他編)[河出書房新社刊]
・「インド建築案内」(神谷武夫著)[TOTO出版刊]
・「インド古寺案内」(神谷武夫著)[小学館]
・「週刊世界遺産83(インド)」(伊藤裕編)[講談社刊]
・「KHAJURAHO(日本語版)」(アーチャナ・シャンカール著)[ロリ・ブックス刊]
・「インドのことがマンガで3時間でわかる本」(関口真理編)[明日香出版社刊]



January 15, 2012

カジュラホの寺院群(その2 : 西群の寺院と東群の寺院)

インドの旅(第9回)

・「マハデーヴァ寺院」

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シヴァ神を祀る、小さな祠堂。「カンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院」と「デーヴィー・ジャグダンベ寺院」の間に建つ。堂内には、獅子を慰めるアプサラ(天女)の姿が見られる(写真)。

・「デーヴィー・ジャグダンベ寺院」

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ダンガデーヴァ王の治世(954~1002年頃)後半の11世紀初頭に建立された。当初ヴィシュヌ神を祀っていたが、現在はシヴァ神の妃パールヴアティーを祀っている。この次に訪ねる「チトラグプタ寺院」と、規模も形式も似ている(写真)。

・「チトラグプタ寺院」

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11世紀初頭に建立された寺院で、カジュラホで唯一、太陽神スーリヤを祀っている。現在修復工事中のため、壁面画の一部を見ることができなかった(写真)。

・「パールヴァティー寺院」

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「ヴィスワナータ寺院」の南西に位置する小さな寺院で、当初から至聖所と玄関ポーチだけであった。ポーチは完全になくなっている」(「KHAJURAHO(日本語版)」より)。もともとはヴイシュヌ神を祀るために建てられた寺院であるが、現在はワニに乗るガンガーの像が安置されているらしい(写真)。


・「ヴィスワナータ寺院」

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1002年に建立された寺院で、シヴァ神を祀っている。「ラクシュマナ寺院」と同じく五堂形式をとるが、4つの小祠堂のうち2つが失われている。この寺院の壁面画にも、多くのミトゥナやアプサラの像を見ることができる(写真 )。

・「ナンディ堂」

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「ヴィスワナータ寺院」の東側、同じ基壇に建つのが「ナンディ堂」である。「ナンディというのは、ヴィシュヌ神の乗り物である牡牛で、ヴィシュヌ神に献じられた寺院の前面にはしばしばナンディ像が置かれ、大寺院の場合には堂となる」(「インド建築案内」より)との事。

9:45~10:00 バスで移動
「西群の寺院」での見学を終え、バスで「東群の寺院」に移動する。しかし、これだけのものを見るのに、わずか1時間半では少なすぎる。少なくとも半日かけて見るだけの価値はあると思う。
「東群の寺院」の寺院は、西群から東へ約1.5km。15分ほどで駐車場に到着した。


10:01~10:23 「東群の寺院」を見学
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東群にはジャイナ教の寺院が多く、これから入る塀に囲まれた一画にも、ジャイナ教の3寺院と祠堂群が立ち並んでいる(写真)。ちなみに「ジャイナ教」は、仏教の開祖釈迦とほぼ同時代の「マハーヴィーラ」を祖師とし、殺生を厳禁するほか、徹底した苦行・禁欲主義をもって知られている。白衣を着て修業する「白衣派(びゃくえは : シュヴーターンバラ)」と、裸で修業する「空衣派(くうえは : ディガンバラ)」に分かれる。

・「パールシュヴァナータ寺院」

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チャンデーラ王朝時代に建てられたもので、ジャイナ教の寺院の中では最大である(写真左)。「西群のヒンドゥ教の大寺院の形式が確立するよりも先に建立された。そのために外壁にバルコニーがなく、ほとんど長方形のプランなので、外観の造形的効果は劣る。しかし彫刻のスタイルはすでに完成に達していて、後のものに何ら遜色はない」(「インド建築案内」より)。壁面彫刻を見ると、ミトゥナ像はほとんど見られないが、様々なポーズのスラスンダリの美しい姿を見ることができる(写真右、中段)。なかでも、「アイラインをひく女」は有名だ(写真下)。

・「シャンティーナータ寺院」

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「パールシュヴァナータ寺院」の南西側に建つ寺院で、全体が白く塗られている点、これまでの寺院と大きくイメージを異にする(写真左)。院内は回廊式になっており、中庭の床は大理石仕上げだ(写真右)。イスラム教のモスクをイメージさせる部分も多々ある。観光客だけでなく、礼拝に来ている信者たちの姿も見られた。


ウィキペディア・フリー百科事典(ジャイナ教)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%8A%E6%95%99
ウィキペディア・フリー百科事典(マハーヴィーラ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%A9
ウィキペディア・フリー百科事典(カジュラーホー)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%9B%E3%83%BC


約20分で見学を終えた後、トイレ休憩をとるため、バスで近くの土産物店に向かった。


(参考文献)
・「地球の歩き方 ‘11~’12 インド」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「図説インド歴史散歩」(岩瀬一郎他編)[河出書房新社刊]
・「インド建築案内」(神谷武夫著)[TOTO出版刊]
・「インド古寺案内」(神谷武夫著)[小学館]
・「週刊世界遺産83(インド)」(伊藤裕編)[講談社刊]
・「KHAJURAHO(日本語版)」(アーチャナ・シャンカール著)[ロリ・ブックス刊]
・「インドのことがマンガで3時間でわかる本」(関口真理編)[明日香出版社刊]



January 14, 2012

カジュラホの寺院群(その1 : 西群の寺院)

インドの旅(第8回)

第4日目 (12月10日[土] : 晴れ)

6:00 起床
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窓の外を見ると、プールが見える(写真左)。朝食は7:00からだったので、しばらくの間、ボ~と外の景色を眺めていた。部屋を出て、レストランに向かう途中、ロビーでウロウロしてみたが、ほとんど誰もおらず静かである(写真中)。壁に掛けられていたシヴァ神とその妻パールヴァティーのミニアチュールが印象に残った(写真右)。

6:50~7:30 朝食
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少し早目だったがレストランに行くと、すでに開いていたので、中に入る。いつものようにビュッフェ方式なので、好きな物を選ぶことができるのだが、香辛料の効いたものやカレー味のものが多かったので、それを避けて選んでいると、ほとんどが菓子パン類になってしまった(写真)。

8:00 バスで「カジュラホの寺院群」へ
バスに乗って出かけると、すぐに到着した。ホテルから、僅か500mほどしか離れていないのだ。

8:05 「カジュラホの寺院群」に到着
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駐車場(写真左)から50mほど歩くと、西の寺院群入り口だ(写真中)。このあたりにも「野良牛」が気ままにウロウロしている(写真右)。

8:10~9:45 「西群の寺院」を見学
ここでは、これまで案内してくれたガイドの他に、この場所専門のガイドが付く。これは、ガイドのライセンスが地域ごとに分かれているからである。ちなみに、寺院群は大きく3つに分けられ、最も寺院数の多いのがこの西群で、その他に東群と南群がある。

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中に入ると、北方型建築(ナーガラ式)の特徴である、砲弾型の塔状屋根を持つヒンドゥー教寺院が並んでいる(写真)。これらの寺院群は、カジュラホ一帯を9世紀から14世紀頃まで治めていたチャンドラ王朝の時代のもので、当時85もの寺院が建立されたという。そのうち現存するのは、25の寺院だけ。この中には、3つのジャイナ教寺院(東群などに見られる)も含まれている。これは、王家が両宗教を共に信仰したためだ。また、両宗教の寺院の構造も、神像彫刻を除いてほとんど同じである。「インド古寺案内」によると、「これは現代と同じように、同じ建築家や彫刻家が、ある時はヒンドゥー寺院を、ある時はジャイナ寺院を建てたためである。建築の形を規定するのは宗教の違いよりも気候風土の方がずっと重要なので、同じ地域で生まれた宗教の建築は同じようなスタイルとなる。イスラム建築が異なった形をしているのは、外来の宗教だったからである」との事。

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入口から十数メートル歩くと、正面に「ラクシュマナ寺院」(写真左)が、左手に「ヴァラーハ寺院」(写真右)が見える。我々は、最初に「ラクシュマナ寺院」を訪れた。

・「ラクシュマナ寺院」

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この寺院は、10世紀半ば(930~950年頃)に建立され、ヴァイクンタ(ヴィシュヌ神の化身)を祀っている。チャンデラ朝時代の完成された形式(チャンデラ様式)を備える、最大規模の寺院だ。寺院の中央建物は高い土台を持ち、四つの付属寺院に囲まれている。四つの寺院を現在も有し、完全な形で残っているのはこの寺院だけ(写真)。

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そして注目すべきは、有名な、壁面に施された壁面画である(写真上段)。神像(写真下段左 : ガネーシャ像)や想像上の動物などの像以外に、男女が交わる姿を描いた「ミトゥナ像」(写真下段中・右)が彫られている。あちらこちらに見られる「ミトゥナ像」だが、男女の交わる様子が表現されていることから、エロティックの象徴のように取り上げられることが多い。しかし、数えきれないぐらいの「ミトゥナ像」が彫られたのには訳があるのだ。このカジュラホで寺院建築が盛んであった10世紀頃が、タンドリズムの最盛期と重なったためである。

「タンドリズムとは、男女が肉体を交えることは宇宙と一体となること、とする信仰。禁欲を徹底する修行法とは対極にあり、ヒンドゥー教を始め、仏教(密教)にも影響を与えた。それ以前にもヒンドゥー教の概念では、カーマ(性愛)は、ダルマ(法)、アルタ(実利)と並ぶ人生の三大目的とされてきた。その集大成として、4~5世紀頃、性愛論書『カーマ・スートラ』が成立。そこでは都会の粋な遊び人を主人公に、性愛の技法などが説かれていた。カジュラーホの寺院群を飾る「ミトゥナ像」は、こうしたインドの性愛感の、おおらかな一面を物語っているのだ」(「週刊世界遺産83(インド)」より)。

「タンドリズム」については理解不能なので、説明することもできないが、当地のガイドに言わせれば、ヒンズー教の下では各人が心を満たされれば良く、その方法は幾通りもあるのだとか(精神的満足が宇宙に伝わるらしい)。座禅を組んで瞑想するのもその一つだが、男女が交わるのもその一つなのだ。そういえば前回、「ヒンドゥー教とヒンドゥーの神々」でお話ししたように、四住期の第二期は、家業に務め結婚して家族を養う家住期で、男子をもうけて先祖の祭祀を絶やさないことが重要視されるのだ。性愛を忘れないことが繁栄を導くことと考えれば、納得できないことでもないように思える。

性愛論書『カーマ・スートラ』については、全部で八十四手が書かれている。日本は四十八手、中国は七十二手だとか。ちなみに「カーマ」とは「仕事」を意味し、ここでは「愛する事」を、「スートラ」は「方法」を意味するようだ。

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ところで、これら寺院の壁面像に彫られた「ミトゥナ像」を見ていると、一定のパターンがあるのが分かる。ヒンドゥー教的理想美が定式化されているのだ。「顔は卵型、額の形は弓の形。目は、たいてい、切れ長で魚の形。眉毛は、ニームの木の葉の形。顎は、マンゴーの種の形。手足は、蓮の花のように。ウエストはスズメバチのようにほっそりと。胸とおしりは円く豊かに、といったような基準があった」(「KHAJURAHO(日本語版)」より ・ 写真 : パールシュヴァナータ寺院の壁面像)。

当地のガイドによると、B90、W60、H90が理想形とされているとの事。ところで余談になるが、インドに旅立つ前に読んだ本の一つに、「インドのことがマンガで3時間でわかる本」がある。この中に「国策化したミスコン美女」という項目があり、「インドでは伝統的なインド好み(ふくよかタイプ)を捨て、世界基準に合うような、目鼻立ちが派手で体型も大振りな女性を選んで、許される範囲の美容整形(矯正)やボディシェイプを施し、身のこなし、自己アピール術などを徹底して訓練している」と書かれていた。そして世界の主要なミスコンでインド代表がグランプリや入賞を続けているという。しかし最後に、「典型的なインド人の好みと違うためか、国内市場でのウケがいまひとつ」らしい。

話は「ラクシュマナ寺院」のことから少し離れてしまったが、これまでお話ししたことは、これから訪ねる寺院にも共通することである。


・「カンダーリヤ・マハデーヴァ寺院」

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この寺院は、11世紀頃に建立され、シヴァ神を祀っている。「カジュラホでもっとも壮麗で、彫刻装飾やその建物の構造、スケールの大きさのどれをとっても、チャーンデーラ朝寺院建築の絶頂を示していると言えるのが、このカンダーリヤ・マハデーヴァ寺院寺院である(写真下段)。ラクシュマナ寺院やヴィスワナータ寺院の建築技術や構造が、この寺院に置いて花開いたと言えよう」(「KHAJURAHO(日本語版)」より)。「前廊、玄関、前殿、本殿と徐々に高さを増す各々の高塔(シカラ)が山の尾根のように連なる姿が印象的。84もの小尖塔が集合したデザインの本殿の高塔は30.5mと最も規模が大きい」(「地球の歩き方 ‘11~’12 インド」より : 写真上段)。

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「ラクシュマナ寺院」と同じく砂岩で出来ており、壁面には神像や想像上の動物などの像以外に、男女が交わる姿を描いた「ミトゥナ像」(写真上段・中段)が彫られている。中でも、ヨガのポーズに基づく「マイトゥナ像」は、カジュラホで最も知られた像のひとつだ(写真下)。

ウィキペディア・フリー百科事典(カジュラーホー)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%9B%E3%83%BC
ウィキペディア・フリー百科事典(チャンデーラ朝)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%A9%E6%9C%9D
ウィキペディア・フリー百科事典(ジャイナ教)
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ウィキペディア・フリー百科事典(カーマスートラ)
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(参考文献)
・「地球の歩き方 ‘11~’12 インド」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「図説インド歴史散歩」(岩瀬一郎他編)[河出書房新社刊]
・「インド建築案内」(神谷武夫著)[TOTO出版刊]
・「インド古寺案内」(神谷武夫著)[小学館]
・「週刊世界遺産83(インド)」(伊藤裕編)[講談社刊]
・「KHAJURAHO(日本語版)」(アーチャナ・シャンカール著)[ロリ・ブックス刊]
・「インドのことがマンガで3時間でわかる本」(関口真理編)[明日香出版社刊]


January 12, 2012

ヒンドゥー教とヒンドゥーの神々

インドの旅(第7回)

インドを旅していて、痛切に感じることは、ヒンズー教と仏教の知識を持っていたら、もっと楽しめるのではないかという事だ。カトリック、プロテスタント、正教など、キリスト教に関して簡単にでも知っていれば、ヨーロッパ旅行は格段に楽しさが増す。イスラム圏を旅する時は、イスラム教に関する知識があれば、知らずに見るよりも、はるかに多くの着眼点を持って旅を楽しむことができる。これと同じで、インドの場合は、ヒンズー教と仏教だ。実はムガール帝国時代があるので、イスラム教に関する知識も必要なのだが、これまで何度もイスラム圏を旅しているので、すでにある程度のことが分かっていることから、あえて取り上げないだけである。

ところで、キリスト教やイスラム教は旧約聖書をベースにしており、また一神教でもあるので、何となくわかったような気分になれるのだが、特にヒンズー教の場合は多神教であるところに起因するのだろうが、なかなか分かったような感じになれない。そこで今回は、旅を楽しむという観点で、簡単にヒンズー教について整理してみた。

ヒンドゥー教については、当ブログ「古代インドの歴史」(インドの旅 [第2回])で少し触れたように、紀元前1500年頃、北西インドへ侵入したアーリヤ人は、紀元前1000年頃にガンジス川流域へ進出し、「リグ・ヴェーダ」を聖典としてバラモン教を信仰した。しかし難解なヴェーダ祭式や、バラモンを最高位とみなす「ヴァルナ制」などに反発した力を持つ商人達が仏教を支持すると、バラモン教はしだいに衰退して行った。
ところが、その後バラモン教は、土着の神々や崇拝様式を吸収しながら徐々に同化し、ヒンドゥー教へと変貌していったのである。その結果、ヒンドゥー教が庶民に分かりやすい宗教になる一方で、仏教は次第に理論的で難しいものとなり、庶民が離れてしまううえ、ローマ帝国の混乱に伴う貿易衰退により、支持者である商人たちが、仏教を支えていくことが困難になったことから、紀元後4 - 5世紀、ヒンドゥー教は仏教を凌ぎ、インドの民族宗教として定着したのである。

ヒンドゥー教が庶民に分かりやすい宗教だとお話ししたが、私にはどこが分かりやすいのかが良く分からない。神々を拝むというだけであれば簡単だが、「輪廻」や「解脱」「四住期」など、私には理解できない。しかし、以下その概念だけ見ておくことにする。

まず「輪廻(サンサーラ)」だが、これがヒンドゥー教の根幹になるようだ。世界は創造と破壊を繰り返し、留まる事も終わることもなく、延々と続く。魂もこの中にあり、現世での「信心」と「業(カルマ、karuman)」によって「来世(次の輪廻))での宿命が決まり、「解脱」しないかぎり、生物は永遠に生まれ変わるというのである。来世は前世の業(行為)によって決定されるという「因果応報の法則」が、インド人の死生観・世界観を形成しているのだ。

そして「信心」の中心になるのが、3大神、すなわち「ブラフマー(神宇宙の創造を司る神)」、「ヴィシュヌ(神宇宙の維持を司る神)」、「シヴァ(神宇宙の寿命が尽きた時に世界の破壊を司る神)」である。これらの神は、本来「三神一体(トリムルティ)」とよばれる教義の下、上下はないはずなのだが、「シヴァ神」を創造と破壊の最高の神とし、「ブラフマー神」と「ヴィシュヌ神」をその下に位置づけて信仰する人たちもいるようだ。
これら3大神以外にも、信仰の対象となる神々がいる。例えば「ガネーシャ」だ。「シヴァ神」の子供で、象の頭を持ち、鼠に乗る。富と繁栄、智恵と学問を司る神だ。外見が猿の「ハヌマーン」、雷神「インドラ」なども良く知られている。
ウィキペディア・フリー百科事典(ヴィシュヌ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%8C%E7%A5%9E
ウィキペディア・フリー百科事典(シヴァ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%B4%E3%82%A1%E7%A5%9E
ウィキペディア・フリー百科事典(ブラフマー)
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ウィキペディア・フリー百科事典(ガネーシャ)
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ウィキペディア・フリー百科事典(ハヌマーン)
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ウィキペディア・フリー百科事典(インドラ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9

次に「業(カルマ)」である。「業」はその善悪に応じて果報を生じ、死によっても失われず、輪廻転生に伴って代々伝えられると考えられている。そしてこの輪廻転生から解脱するため、人生を4つの住期に分け、それぞれの段階ごとに異なる目標と義務が設定された。これが「四住期(アーシュラマ : 人生の階段)」だ。

第一期は子供の時期で、就学期間だ。
第二期は家族を持つ時期で、家業に務め結婚して家族を養う家住期である。男子をもうけて先祖の祭祀を絶やさないことが重要視されるという。『カーマ・スートラ』は家住期を充実させるための経典なのだ。
第三期は解脱に向けた人生の段階に入る時期で、質素で禁欲的な生活を営むようになる。
第四期はいわゆる涅槃(ねはん)に向かう時期である。住まいを捨てて遍歴行者となって放浪し、解脱を目指す。
ちなみに、ガンジス川で沐浴するために巡礼するのは、第三期を終え、これから第四期を迎える前に行うという。ガンジス川の聖水で罪を洗い流すためだ。

ウィキペディア・フリー百科事典(ヒンドゥー教)
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ウィキペディア・フリー百科事典(業)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AD
ウィキペディア・フリー百科事典(輪廻転生)
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ウィキペディア・フリー百科事典(解脱)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%A3%E8%84%B1

以上が、旅をする上で最低限知っておくべきではないかと、私が考えるヒンズー教の知識である。学者でもない私がまとめたものなので、誤解は多々あると思う。無責任だが、疑問に思ったところなどは、ご自身で調べながら考えて頂ければ幸いである。
天国も地獄もない。死んでしまえば、そこですべてが終わり。死者は残された者の心の中で生きるだけという考えの私には、どの宗教も理解することはできない。しかし、知識として持っていても悪くはないであろう。
ちなみに、インド人が時間にルーズなのは、輪廻転生、いつまでも時間は続くと考えており、そのような連続の中では、1日や2日遅れても大した期間ではないという考えがあるからだと言う人がいたが、少々考えさせられてしまう。しかしインド人でも、都会のビジネスマンは時間にキッチリしているので、逆に待たせることのないようにしなければならない。



January 11, 2012

「黄金寺院」観光の後「カジュラホ」ヘ

インドの旅(第6回)

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「マニカルニカー・ガート」で船を降り、次の目的地である「ヴィシュワナート寺院(黄金寺院)」に向かう。さすがに薪のうえに遺体を置いて火葬するだけのことはあり、何とも言えない雰囲気であった。ガートを上ったところにあるゲートを出る際、船着き場の写真を1枚撮り(写真)、ツアーの後を追いかけていると、一人の老人が怖い顔をして私の側にやってきた。火葬場の写真撮影は禁じられているのだが、私が火葬場の写真を撮影したと思ったのだろう。両手を前に縛られるようなポーズを取りながら、警察に行こうと言っているのだ。その時ガイドブックに書いてあった一文を思い出した。「このガートに座っていても誰も文句は言わないが、ガート内での写真撮影は厳禁。見張っている人がいて、必ずトラブルになるので、カメラは持っていてもバッグの中にしまっておこう」(「地球の歩き方 ‘11~’12 インド」より)。しばらく無視して歩いていると、ついて来なくなったのでホッとしていると、また現れて警察に行こうと言ってきた。仕方がないので、走って逃げると、ついて来なくなった。このような事を考えるのは彼に悪いが、ついお金が欲しかったのかなと勘ぐってしまった。

7:10~7:20頃 「黄金寺院」(写真 : 現地で購入した絵葉書より)見学
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ツアーの集団に戻り、細い路を歩く。このあたりは、これから行く「ヴィシュワナート寺院」の門前町である。巡礼者は皆、聖都バナーラスの中心地として、またシヴァ信仰の中心地として、この寺院を目指すという。寺院を見るには、さらに細い路地を進まなければならないのだが、この路地の曲がり角には、銃を持った軍人らしき護衛官が2人立っていた。ここですべての荷物を添乗員に預け、セキュリティーチェックを受ける。これまでに何度も、イスラム教徒による爆弾テロがあったとの事で、それ以降チェックが一段と厳しくなったという。カバンを持って入ることはもちろん、上着の内ポケットにボールペンを持っていてもダメなのである。

ボディチェックを受け、ようやく路地を進むことができた。さらに20~30m歩くと、「ヴィシュワナート寺院」の入り口である。中にはヒンズー教徒しか入れないので、我々観光客は、ここからなかを覗くだけだ。路地の向かい側にある石段に上ると、僅かだが黄金の屋根が見えた。

この寺院の「開基は5世紀にさかのぼるが、12世紀以降イスラム教徒の攻撃によって数回移転しており、大伽藍はアウラングゼーブによって破壊され、モスクに改造されてしまった」、「現在の寺院は1777年にインダウルの女王アハリヤー・バーイーの寄進による。尖塔が約790kgの黄金で葺かれているので、通称黄金寺院と呼ばれている」(前掲書より)。

非常に面倒な思いをして、結局、黄金の屋根の一部を見ただけであった。ここまで来たと言うことは思い出になるかもしれないが、やはり物足りなさを感じた。寺院を離れ、添乗員に預けていた荷物を受け取り、バスの待つ場所まで歩いた。

門前町には、至る所に銃を持った警官か軍人らしき人がいる。そのため、迂闊に写真撮影はできない。午前7:31、バスに乗り、北へ5kmほど離れた「バナーラス・ヒンドゥー大学」に向かう。

7:47~8:04 「バナーラス・ヒンドゥー大学」で「ヴィシュワナート寺院」を見学
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15分ほどで、大学に到着。この大学は、19世紀初め、インドの民族文化を総合的に研究するため、「マハマナ・マダン・モハン・マールビーア」氏によって設立された。大学設立にあたり、当初国に援助を求めたが断られたため、全国から寄付を集め、再び国に援助を求めたところ、今度は応じてもらうことができたと言うエピソードがあるとの事。大学は25k㎡のキャンパスで、正門(写真左)に向かって右手が男子校、左手が女子校になっている。なお、正門をくぐって正面すぐの所に、「マハマナ・マダン・モハン・マールビーア」氏の銅像が立っている(写真右)。

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そして大学校内には、「ヴィシュワナート寺院」(写真)がある。先ほどの「黄金寺院」と同じ名前だが、こちらはヒンズー教徒でなくても中に入ることができるのだ。この大学には、世界中からサンスクリット語やヨガ、ヒンズー教の哲学などを学びに来るため、ヒンズー教徒ではない人でも集まれるように、コミュニティーの場とするため建てられたのである。ちなみに、この寺院の建設資金は、ビルラ財閥の援助が大きかったという。

ウィキペディア・フリー百科事典(ビルラ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%A9%E8%B2%A1%E9%96%A5
ウィキペディア・フリー百科事典(インドの財閥)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E8%B2%A1%E9%96%A5

8:04、バスに戻り、大学から5kmほど北に位置する、「バーラト・マーター寺院」に向かう。

8:34~8:45 「バーラト・マーター寺院」(写真上段)見学
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マハトマ・ガンジーが創始した寺院。院内には、インドの立体地図がある(写真下段)。1936年、「シュープレシャーブック」により造られたものだ。インドが植民地であることを当然のように受け入れていた若者に、国家独立の心を起こさせる目的で作られたとの事。地図の山の部分は大理石で、海の部分は花崗岩で出来ている。

ガイドの説明の中で面白いと思ったのは、「ラーマ・ブリッジ」の話だ。インドの古代叙事詩「ラーマーヤナ」で語られている事だが、ラーマ王子がシータ姫を助けに行く時、ランカー島へ渡るため、ここに橋を架けたという伝え。ご存知のように、「ラーマーヤナ」については、当ブログ「アンコールワット(その1 : ラーマーヤナ壁面レリーフ)」でもお話しした通り、カンボジア・アンコールワット遺跡の壁面画になるなど、東南アジアにも広く伝承されている。
「ラーマ・ブリッジ」は、インドとスリランカの間のポーク海峡にある石灰岩でできた浅瀬のことで、長さは48km。水深が1~10mと浅く、船舶の航行を困難にしているため、取り崩すという話もあったようだが、伝承の地として現在もそのまま残されている。「記録によると1480年のサイクロンで壊される前は非常に浅く、歩いて渡ることが出来たという」(ウィキペディア・フリー百科事典[アダムス・ブリッジ]より)。

ちなみに、この「ラーマ・ブリッジ」のことを、イギリスの地図には「アダムス・ブリッジ」と書かれている。「スリランカにあるアダムスピークに、この世で最初の人間であるアダムが行く時に渡ったというイスラムの伝説に基づいた」(前掲より)ものだという。

ウィキペディア・フリー百科事典(バーラト・マーター [Bharat Mata : 英語版])
http://en.wikipedia.org/wiki/Bharat_Mata
ウィキペディア・フリー百科事典(アダムス・ブリッジ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%B8
ウィキペディア・フリー百科事典(ラーマーヤナ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A4%E3%83%8A
2011年12月4日付当ブログ「アンコールワット(その1 : ラーマーヤナ壁面レリーフ)」
http://coinkun.cocolog-nifty.com/coin/2011/12/1-bec0.html


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わずか10分ほどで見学を終え、バスに戻る。するとバスの横に、蛇使いのおじさんが座っていた(写真)。写真の撮影は有料との事。それを知らずに写真を撮ったツアーメンバーの一人とおじさんが少し揉めていたが、ガイドがコッソリお金を渡して解決していた。日本円にすれば20円ぐらいのものなのだが、写真1枚ぐらいで何故お金を払わなければならないのと言った感覚なのであろう。彼女も、1枚20円と書いてあれば、撮らなかったに違いない。しかし蛇使いのおじさんも、値段を書くと誰も撮ってくれなくなるかもしれないし、より多くの金額を貰い損ねるかもしれないので、表示しないのであろう。いずれにしても、外国では、なかでも先進国以外の国では、写真を撮るのにお金が必要なのは常識だと思っておいた方が良い。

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バスでホテルに向かう。早朝とは異なり、道路の両脇にはたくさんのお店が並び、多くの買い物客で賑わっていた(写真)。活気があるというのか、雑然としているというのか、とにかく賑やかである。そのような中を通り過ぎ、午前9:00、 ホテルに到着した。

9:24~10:00 朝食
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ホテルのレストランで、朝食を頂く。ビュッフェ方式なので、なるべくスバイシーなものを避けて選ぶ。結局、オートミール、パン、ソーセージ、ミニコロッケなどを頂戴する。

ウィキペディア・フリー百科事典(ワーラーナシー)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%BC


10:31 バスでベナレスの空港へ

11:07 空港に到着
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11:50 手荷物検査後、搭乗口前で案内を待つ

13:45 搭乗
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12:25発の予定が、大幅に遅れる。昨日は観光が控えていたので、少々焦ったが、本日はホテルに入って夕食まで休憩という予定なので、待たされても諦めることができた。これがインドなのだと・・・・。

14:25 離陸

14:40~14:45 軽食
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メニューは、サンドイッチと水(写真)。ケチャプにチリソースが入っていないか心配したが、普通のケチャップだったので美味しく頂いた。


15:00 カジュラホの空港に到着
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飛行機からタラップを使って降り、ターミナルまでは歩いて行く(写真)。明るい雰囲気で、気持ちが良い。天候に恵まれ、最高の気分だ。

カジュラホ空港の公式HP
http://www.aai.aero/allAirports/khajuraho_generalinfo.jsp
ウィキペディア・フリー百科事典(カジュラホ空港 [Khajuraho Airport : 英語版])
http://en.wikipedia.org/wiki/Khajuraho_Airport


15:25迎えに来ていたバスに乗車

15:35 ホテル「ラディソン・ジャス」に到着

Radisson Jass Hotel Khajurahoの公式HP
http://www.radisson.com/khajuraho-hotel-in/indkhaj

15:40~16:30 ホテルのレストランで昼食
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チェックインは添乗員が手続きしてくれるので、その間に我々はレストラン(写真左)で昼食をとる。到着が遅れたので、夕方になってからの昼食になった。レストランからはプールが見え、緑の芝生と調和し、なかなか良い雰囲気だ(写真中)。昼食よりも、むしろプールで泳ぎたい気分である。インド時間だから仕方がないと思っていた私だが、この時は飛行機の遅れが残念に思えた。
ビュッフェ方式だったので、毎度のことながらスパイシーなものを避けて選ぶ。チキンと白身魚のフライ(どちらもカレー味)、温野菜にライス、そして暖かいマッシュルームスープとナンを頂く(写真右)。デザートは、ケーキとコーヒーだ。

16:40 入室
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広々とした部屋、清潔感もあり申し分ない。嬉しいことに、資料整理をするのに困らないよう、スタンド付きのデスクもある(写真)。

16:45~18:30
ホテルの周囲には何もなかったので、外出もせず、ホテルのショップで買い物をする。結局「カーマスートラ」の本を1冊購入しただけ。1冊500ルピーといっていたものを、350ルピーまでディスカウントさせたのだが、後日100ルピーで売っている店を見つけ、大ショック。どうしても最初に言われた価格がスタートになってしまうのでダメだ。
買い物の後、ツアー客の一人とロビーで雑談する。母親と2人参加の男性で、まだ30代の独身だ。不動産賃貸業を営んでいるということで、いろいろとお話を聞かせてもらった。

その後部屋に戻り、入浴したあと洗濯をする。

19:30~20:40 ホテルのレストランで夕食
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昼食を頂いたのと同じレストラン。メニューは次の通り。
・コーンと野菜のスープ(写真左)
・魚フライ、マッシユルームサラダ、マトンカレー(写真中)
・デザート、コーヒー(写真右)

21:40 就寝
1時間ほどで食事を終え、部屋に戻って資料整理、荷物整理をする。
本日は早朝から動き回り、眠くなったので、21:40頃ベッドに入った。


(参考文献)
・「地球の歩き方 ‘11~’12 インド」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「図説インド歴史散歩」(岩瀬一郎他編)[河出書房新社刊]
・「インド建築案内」(神谷武夫著)[TOTO出版刊]



January 10, 2012

ガンジス川のガート

インドの旅(第5回)

第3日目 (12月9日[金] : 晴れ)

4:00 起床
モーニングコールは午前4:45の予定だが、早く目が覚めてしまう。老人になったのか、遠足に興奮する幼稚園児になったのか?

5:35 ガンジス河の沐浴見学へ出発
まだ暗い中、バスは走る。わずか10分で目的地に到着。昨晩は渋滞のため、わずかこの距離を走ることができなかったのだ。

5:45 バスを降りて徒歩で船乗り場へ
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周囲はまだ真っ暗だが、船乗り場に通じる道だけは明るくライトで照らされている。濃い霧が出ていたので、ライトに照らされた周囲の雰囲気は幻想的だ(写真左)。途中、チャイのお店に立ち寄り、暖かいチャイを頂く(写真中・右)。ヤカンから直接、素焼のカップに入れてくれる。わずかな量だが、暖かくて美味い!
面白いのは、飲み終わったカップを地面に捨てることだ。人の唾液が付いたカップは不浄なものなので、二度使うことはないとの事。地面に捨てたカップが土にかえるように、素焼のものが使われているのだと言う。環境に配慮? でも昔からの事なので、輪廻転生の考えか・・・・。

6:03~6:56 ボートでガンジス川観光
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チャイを飲み終えた後、100mほど歩くと船乗り場である。まだ暗いうえ、霧も濃い(写真)。船と言っても20人程度が乗れるボートだ。船に近寄って行くと、10歳ぐらいの可愛い女の子が2人やってきた。手には籠を持っている。よく見ると、お皿の上に黄色い花の花びらが盛られ、その中央にロウソクがセットされている。ガイドの話では、ロウソクに火を点け、ボートからガンジス川に流すとの事。1つ10ルピ―だ。皆さん購入してボートに乗る。ボートが船着き場を離れたその時、一人のオバちゃん(あえて「オバちゃん」と呼ばしてもらう)が、私の花にはロウソクがないと言いだしたのだ。私のものと代えてあげるというが、それを断り、チャンとしたのが欲しいと言う。仕方がないので、一旦離れた船着き場にボートを戻し、女の子にロウソクの入ったものと交換してもらった。
再びボートを出し、しばらくすると、「足元に落ちてたワ~」と言っていた。さすが大阪のオバちゃんだ。ちなみに私も大阪人なので、このようなパターンには慣れている。

ボートはガンジス川沿いを北上する。川沿いには数多くの「ガート」があるのだが、相変わらず霧が濃く、良く見えない。しかしライトが照らされている場所は、やはり幻想的に感じられた。「ガート」と言うのは、河岸に設けられた階段のことで、ここには84のガートが連なっている。ところでガートには、「○○ガート」といったように、冠が付いている。この「○○」の部分には、王や芸術家、政治家の名前が付けられているようだ。ガイドの説明によると、本人が寄付するなどということではなく、後々人々が自然にそのように呼ぶようになるのだと言う。何か良く分からないのだが・・・。

我々がボートに乗ったガートは、ほぼ中央に位置する「ダシャーシュワメ・ガート」で、最も多くの人々(巡礼者や観光客)がやって来る場所だ。「地球の歩き方 ‘11~’12 インド」によると、「ダシャは10、アシュワメードは古代インドで王位継承の際などに執り行われた特別な儀式のこと。神話によれば、ここで創造神ブラフマーがその儀式を挙行したとされるが、紀元前2世紀頃の王族たちが行ったと言う伝承もある」との事。

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午前6:30前頃、少しだけ周りは明るくなり始めたが、霧は濃いままなので十数メートル先のガートすらハッキリ見えない。しばらくすると、数人の沐浴する姿が見えた。濃い霧の中、ほんの数人が沐浴しているだけである(写真左・中)。カラフルな衣装を身にまとった人々で混雑する様子を想像していただけに、肩透かしを食らったようだ。さらに北上すると、洗濯している女性達の姿が見えた。彼女達はホテルの依頼を受け、シーツなどの洗濯をしているのである(写真右)。薄汚れたように見えるガンジス河で洗濯しても、あまり綺麗にならないように思うのだが、このような事を思うのはヒンズー教徒の方に失礼なのだろうか。

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午前7:00前になると、全体に明るくなってきたのだが、相変わらず霧は濃い。しばらくすると、2~3艘のボートが近づいて来た(写真左・中)。ボートの中を覗くと、お土産物で一杯である。水上を移動するお店で、我々のボートに寄せてきて、セールスするのだ。ヒンズー教の神様の人形や彫刻、絵はがきなどを勧めてくるがすべてお断りした。しかし一つだけ面白いものがあったので、それは何かと尋ねてみたら、ガンジス川の水を汲んで入れておく壺との事。銅で出来た壺に金メッキが施されており、「ガンガー・ジャル」と言うらしい(写真右)。1つ50ルピーだったので、すぐに購入することにした。ヒンズー教の巡礼者は、必ず聖なるガンジス川の水を汲んで帰るとの事。私も壺に水を汲もうとしたのだが、ボートとはいえ少し大型のため落差があり、川に落ちても困るので彼に汲んでもらった。

ボートは「ハリシュチャンドラ・ガート」までやって来た。ガンジス川沿いには火葬場が2つあるのだが、ここはそのうちの一つだ。しかしこちらの火葬場は、機械を使って遺体を焼却するので、ヒンズー教徒はあまりこちらの火葬場を好まないそうだ。もう一つの火葬場である「マニカルニカ・ガート」では、薪の上に乗せて火葬するという違いがあり、こちらの火葬の方が望まれるという。ところで、「ハリシュチャンドラ」は、昔いた王様の名前で、彼は「神様の試練を受け、国をすべて失って火葬職人になったが、約束をすべて守ったのですべてを取り戻すことができたという伝説がある」(「地球の歩き方 ‘11~’12 インド」より)との事。

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この先にもまだまだガートはあるのだが、我々のボートはここでUターンし、川を南に下り始めた。北に向かうボートがガートに近いコースを行くため、南に向かい始めたわれわれのボートは、先ほどよりも少しガートから離れところを進む。今度は流れに乗っているので、船頭はそれ程頑張らなくてもよい。先ほど我々がこのボートに乗った「ダシャーシュワメ・ガート」を通り過ぎ、10分ほどで、もう一つの火葬場がある「マニカルニカ・ガート」に到着した(写真)。

ウィキペディア・フリー百科事典(ガート)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%88
ウィキペディア・フリー百科事典(ガンジス川)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%B9%E5%B7%9D
ウィキペディア・フリー百科事典(ワーラーナシー)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%BC


(参考文献)
・「地球の歩き方 ‘11~’12 インド」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「図説インド歴史散歩」(岩瀬一郎他編)[河出書房新社刊]
・「インド建築案内」(神谷武夫著)[TOTO出版刊]


January 08, 2012

サールナート観光(その2)

インドの旅(第4回)

16:25~16:47 「サールナート遺跡」見学
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「サールナート遺跡」は、「ダメーク・ストゥーパ・モニュメント・サイト」として公園のようになっている(写真)。釈迦がはじめて説教を始めたのがこの地で、先ほども触れたが「初転法輪」の場所である。紀元前から寺院や僧院、ストゥーパが数多く建てられて修行僧を集め、仏教センターのようになっていた。しかし現在は、「ダメーク・ストゥーパ」を除き、レンガ造りの土台を残すだけになっている。

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敷地内に入り、まっすぐ進むと「ダルマラージカ・ストゥーパ」の跡(写真左)があった。かつてアショーカ王によって造られたストゥーパが建っていたのだが、18世紀頃に取り崩されたと言う。残されたレンガの壁を見ると、所々に金箔が貼られている(写真右)。これは韓国の仏教徒がお参りに来て、貼るというのだ。それ以外にも、タイやスリランカの仏教徒の人達もお参りに来るようだが、彼らは線香をあげていくとの事。

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「ダルマラージカ・ストゥーパ」跡の左手には、先ほど博物館で見た「ライオンの像」が乗っていた「アショーカ王の柱」(写真)があった。当時は15.25mあったと言うので、見上げるように高いものかと思っていたのだが、折れて私の身長より低くなっていたうえ、金網で囲まれていたため、感動はなかった。

ウィキペディア・フリー百科事典(アショーカ王柱 [Pillars of Ashoka : 英語版])
http://en.wikipedia.org/wiki/Pillars_of_Ashoka
ウィキペディア・フリー百科事典([Lion Capital of Ashoka : 英語版])
http://en.wikipedia.org/wiki/Lion_Capital_of_Asoka

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「アショーカ王の柱」を離れて東に進むと、そこには巨大な建造物があった。「ダメーク・ストゥーパ」(写真左)である。6世紀頃に造られた、高さ65m、周囲が28mもある巨大なストゥーパだ。高さ30mに及ぶレンガ積みの上を石で仕上げており、その表面には様々な文様が刻まれている(写真中)。私が訪れた時も、この塔の周りで修業する僧や仏教徒が数十名いた(写真右)。

ウィキペディア・フリー百科事典(ダメーク・ストゥーパ [Dhamek Stupa : 英語版])
http://en.wikipedia.org/wiki/Dhamekh_Stupa

16:55~17:04 「ムールガンダ・クティー寺院」
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「ダメーク・ストゥーパ」を離れ、次に向かったのは、「ムールガンダ・クティー寺院」(写真左)である。1931年に建てられた寺で、堂内正面には黄金に輝く「初転法輪仏」(写真中)が置かれ、周囲の壁には、日本人画家「野生司香雪(のうすこうせつ)による仏伝が描かれている(写真右)。堂内に掲示されていた解説によると、このお寺の建築資金は、イギリス人の仏教徒である「ピー・エル・ブロートン」の寄付を始まりに、野生司香雪が展示会を開催したり、日本政府や日本やインドの民間からの喜捨により集められたとの事。


17:10~17:28 「さちこのお土産物店」(New Rokuyaon Buddhist Center)でトイレ休憩&ショッピング
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「ムールガンダ・クティー寺院」を出て、次の観光予定地であるベナレスへ戻る前に、「さちこのお土産物店」(写真)に立ち寄り、トイレ休憩をとることになった。このお店は「ビノード・クマール・ジェイン」氏と日本人である「村越幸子」さんの共同経営。スタッフの男性たちも、皆そこそこ上手な日本語を話す。インドらしい木彫りの像が置かれていたが、皆さん気に入るものがなかったようで、買い物もせずに店を出た。

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これから行くのは、日没後に行われる「プージャ」の見学である(写真 : 現地で購入した絵葉書より)。「プージャ」は、ヒンドゥー教における神像礼拝の儀礼で、日没後に行われる「プージャ」は、礼拝僧が川に花を浮かべ、燭台の火を掲げて祈りを捧げるのだ。この礼拝儀式は、サンスクリット語で「ディーパム・プラジュアリティー」(「ランプに火を灯す」の意味)と呼ばれている。

日没に合わせて現地に行く予定だったが、予想外の渋滞にはまったため、午後7:00近くになっても、まだ目的地へはかなりの距離があった。無理をして行っても、すでに「プージャ」が終わっていると思われたことから、ツアーメンバ全員一致(内心不満の人がいたかもしれないが)で諦めて、ホテルに戻ることにした。

19:00 ホテルに到着。
夕食は、19:30からホテルのレストランで採る予定だったので、部屋に戻り、すぐに風呂に入った。

19:30~20:50 夕食
メニューは、ビュッフェ方式だったので、好きなものを食べることができる。極力スパイシーなものを避けて選んだのだが、1品だけ無茶苦茶辛いものがあった。どうやら唐辛子の種を食べてしまったようなのだ。分からなかったのだから仕方がない。しばらく口の中は火事であった。

20:50~21:20 ホテル内の土産物店でショッピング
食後、ロビーをウロウロしていると、奥の方にお店があるのに気が付いた。1Fにはガイドブックや民芸品、インドの着物などが置かれており、2Fでは絨毯やショールが売られていた。トルコやイランで、絨毯の見方を教えてもらっていたので、ここでもその知識が役だった。このお店に置いている絨毯は、シルクものでも、少し目が粗い感じで、私の好きな色であるトルコブルーやペルシャンブルーのものはなかった。一通り見て廻った後、ガイドブックを1冊買って部屋に戻った。

部屋に戻ってから、荷物整理済ませ、あとは明日訪れる予定の場所について下調べをして、22:45頃ベッドに入った。


(参考文献)
・「地球の歩き方 ‘11~’12 インド」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「図説インド歴史散歩」(岩瀬一郎他編)[河出書房新社刊]
・「インド建築案内」(神谷武夫著)[TOTO出版刊]



January 06, 2012

サールナート観光(その1)

インドの旅(第3回)

第2日目 (12月8日[木] : 晴れ)

本日のスケジュール : デリー→(飛行機)→ベナレス→昼食→サールナート観光→ベナレス(ガンジス河の夕景鑑賞)→ホテル

6:30 起床

7:00~7:40 朝食(写真左・中 : レストラン、右 : ホテルの中庭)
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生野菜や果物には手を着けず。スパイシーな食べ物が苦手な私は、ドーナツとミルクコーヒーを頂く。

8:30 バスで出発

8:55 デリーの空港に到着
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簡単な造りだが、広くて明るく実用的な空港である(写真左・中)。添乗員がグループチェックインしている間、空港内をウロウロしていると、インド人らしい雰囲気の空港職員がいたので、写真を撮らせてもらう。なかなかのインド美人だ(写真右)。

9:50 手荷物検査

10:25 搭乗口前で案内を待つ(写真)。
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10:30発の予定だが、少々遅れるとの事。

11:05 搭乗。
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30分遅れで搭乗するが、離陸までまだまだ時間がかかる様子だ。

11:55 離陸。
約1時間半遅れて飛び立つ。午後からのスケジュールを考えると、ここでの遅れは痛い。

12:05~12:30 軽食
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またしてもベジェタブルカレーだ。日本で食べる甘口カレーとは異なり、非常にスパイシーなので、あまりたくさん食べることができない。リンゴと蜂蜜を入れろ!

12:59 着陸。
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予定より、約1時間遅れで到着。

13:15 ターンテーブル前で荷物を待つ

13:34 迎えに来ていたバスに乗車

14:35 ホテル「ザ・ゲートウェイホテルガンジス」に到着

The Gateway Hotel Ganges
http://www.thegatewayhotels.com/gangesvaranasi/overview.aspx

14:45~15:10 昼食
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ビッフェ方式なので、好きな物を選ぶことができる。なるべくスパイシーなものを避けるが、パスタとブロッコリーはトウガラシが入っており、口の中が火事になった。これからもスパイシーな食事が続くかと思うと、少々うんざり・・・。

15:12 入室
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明るく広い部屋。

15:25 バスで「サールナート」観光に出かける。
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最初に「サールナート考古学博物館」を訪れる予定なのだが、閉館時間(16:45までに入場)があるので、急がなくてはならない。バスは舗装されていない狭い凸凹道を、スピードを出して走る。しかし、向かい側から、何やら賑やかな集団がやって来たため、バスは急停車。ガイドの話だと、イスラム教のお祭りらしい(写真)。しばらく待たされることになった。最初は早く前に進みたい気持ちが強く、少々イライラしたが、バスの窓から見える子供たちの笑顔をみているうちに、これがインド時間なのだと思うようになり、閉館時間なんかどうでもよくなった。しかし、インドでは鉄道やバスが遅れるのは当たり前と言うが、博物館が閉まるのは時刻通りと言うのは面白い。こちらも遅れてくれれば良いのだが、やはり仕事はしたくないのだろう。

ウィキペディア・フリー百科事典(サルナート)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%88

16:08~16:19 「サールナート考古学博物館」見学
入館時間に間に合い、添乗員とガイドはホッと一息。この博物館では写真撮影ができないうえ、手荷物のチェックもうるさい。ポシェットサイズよりも大きなカバンを持って中に入ることはできないという。ツアーメンバーの女性が数人、カバンが大きいと入り口で止められていた。事前に分かっていたのだから、バスの中に置いてくれば良さそうなものだが、貴重品が入っているとの事。確かに女性の服にはポケットが少ないので、カバンが必要なのはわかるが、ポシェットほどの大きさがあれば十分だと思うのだが、私には理解できない。

ところで、ガイドはこの後少々不機嫌になった。後で分かったのだが、多額の「袖の下」を要求されたようだ。何もしてくれなかったのだから、支払う必要はないと言って拒絶したとの事だが、かなり嫌な思いをした様子だ。

ようやく博物館に入って、見学することができるようになったのだが、スケジュールが一杯だったので、重要なもの4点を大急ぎで見て廻った。

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第一は、「アショーカ王の柱」(写真 : ウィキペディア・フリー百科事典(サールナート考古学博物館 [Sarnath Museum : 英語版])より)である。のちほど柱の立っていた場所を見に行く予定であるが、その柱の頂きにあった「ライオンの像」(インドの国章やコインのデザインにも使われている)がここに展示されているのだ。紀元前3世紀頃に造られたもの。砂岩で出来ており、表面はピカピカなのだが、どのように磨かれたのかについては、未だに分かっていないという。

ウィキペディア・フリー百科事典(インド)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89

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第二は、「初転法輪仏」(写真 : ウィキペディア・フリー百科事典(サールナート考古学博物館 [Sarnath Museum : 英語版])より)だ。釈迦が悟りを開いた後、初めて説法を説いた地(初転法輪[※]の地)がここ「サールナート」で、仏教の四大聖地の一つとされている。当時、鹿が多くいたことから、「鹿野苑(ろくやおん)」とも言われている。この像は初転法輪の仏像で、彫刻の技術レベルから見ると、6世紀のグプタ朝時代に造られたものであるとの事。仏像の顔を左から見ると「笑っている顔」が、また右から見ると「考えている顔」が浮かび上がってくる。台座の部分に注目すると、釈迦が元の5人の修行仲間に説法して時に、鹿も一緒に聞いている姿が彫られている。このことから、この仏像は「サールナート」で作られたものだということが分かるのだという。

(※)「初転法輪(しょてんぽうりん)」とは、釈迦が初めて仏教の教義(法輪)を人びとに説いた出来事を指す。具体的には、釈迦が菩提樹下で悟りを開いた後、ヴァーラーナスィーのサールナート(波羅奈国仙人堕処鹿野苑)で元の5人の修行仲間(五比丘)に初めて仏教の教義を説いた出来事を指す(ウィキペディア・フリー百科事典[初転法輪]より)。

ウィキペディア・フリー百科事典(初転法輪)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E8%BB%A2%E6%B3%95%E8%BC%AA
ウィキペディア・フリー百科事典(印相)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B0%E7%9B%B8

第三は、「千体仏」である。仏教を信じない人、仏教に反発する人たちを、千体に分けて彫られた作品だ。紀元後5世紀頃に作られたようだ。

第四は、「シヴァ神の像」である。右手に持つ槍で、悪魔を突き刺している様子が彫られている。左手に鍋状のものを持っているのは、悪魔の血をすべて受け止めるため。一滴でも悪魔の血が地面に落ちると、そこからまた悪魔が生まれてくるからだという。像はチュナール産の砂岩で作られており、紀元後12世紀頃の作品と言われている。丁度、仏教が衰退し、それに代わってビンドゥー教が盛んになり始めた頃だ。

ウィキペディア・フリー百科事典(サールナート考古学博物館 [Sarnath Museum : 英語版])
http://en.wikipedia.org/wiki/Sarnath_Museum


(参考文献)
・「地球の歩き方 ‘11~’12 インド」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「図説インド歴史散歩」(岩瀬一郎他編)[河出書房新社刊]
・「インド建築案内」(神谷武夫著)[TOTO出版刊]


January 05, 2012

古代インドの歴史

インドの旅(第2回)

旅のお話しをする前に、古代インドの歴史について整理しておく。これを知っておくと、これから訪ねる先に関する歴史的位置づけや意味が良く分かるようになると思うからである。

まず、年表を見て大きな流れを確認すると、次の通り。

・紀元前1500年頃 : アーリヤ人が北西インドに進出
・紀元前1000年頃 : アーリヤ人がガンジス川流域に進出→バラモン教
・前563年頃~483年頃 : ガウタマ・シッダールタ(仏陀)→仏教
・前268~232頃 : マウリヤ朝のアショーカ王在位→仏教
・後1~3世紀 : クシャーナ朝→カニシカ王の時代が最盛期→ガンダーラ仏
・後320~550頃 : グプタ朝→ヒンドゥー教

紀元前1000年ごろ、それまでインド北西部に住んでいたインド・ヨーロッパ語系のアーリヤ人が、先住民を征服し、交わりながら、ガンジス川流域の肥沃な平原に進出して、牧畜と農耕に基づく部族社会を築いた。彼らは太陽神スーリヤや雷神インドラなどの自然神を崇拝していたが、こうした神々への賛歌を集めたものが「リグ・ヴェーダ」で、これを聖典とするのが「バラモン教」である。

ウィキペディア・フリー百科事典(バラモン教)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%83%B3%E6%95%99
ウィキペディア・フリー百科事典(ヴェーダ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%80


「バラモン教」の儀式を司ったのが、「バラモン」と呼ばれる司祭者で、彼らは、政治や生産、日常生活にかかわる、複雑な儀礼の体系を作り出し、それを司る者として、社会の中で特権的な地位を得たのである。

「バラモン」を特権的な存在として特徴的にあらわしたものが、「ヴァルナ制」だ。「ヴァルナ」は「色」を意味するが、アーリヤ人と先住民の間には、皮膚の色に違いがあったことから、このような言葉が用いられたという。アーリヤ人は、元は、「司祭や首長」と「一般人」からなっていたが、「ヴァルナ」の考えが加味され、バラモン(司祭者)、クシャトリヤ(王侯・武士)、ヴァイシャ(農牧民・商人)、シュードラ(職人)という身分に分けられた。さらに「ヴァルナ制」の枠外におかれる被差別民がおり、不可触民(隷属民)として差別されたのである。この制度は、後のカースト制度に受け継がれていったが、バラモン以外の人々には受け容れやすい制度ではなかった。

ウィキペディア・フリー百科事典(ヴァルナ・ジャーティ制)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3%E5%88%B6
ウィキペディア・フリー百科事典(カースト)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88


紀元前600年ごろ、部族社会が崩れ、政治・経済の中心がガンジス川上流域から中・下流域に移り、城壁に囲まれた部族国家が多数生まれた。そしてこのような都市国家で勢力を伸ばしてきたクシャトリヤ(特に武士)やヴァイシャ(なかでも商人)の指示を背景に、仏教やジャイナ教、ヒンドゥー教などの新しい宗教が生まれ、影響力を持つようになった。「ヴァルナ制」に対する反発がその背景にあったと言えるのではないだろうか。

ウィキペディア・フリー百科事典(ジャイナ教)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%8A%E6%95%99


新しく生まれた宗教の一つに、仏教がある。仏教は、クシャトリヤ出身の釈迦族の王子、ガウタマ・シッダールタ(仏陀)によって開かれた。彼は若くして人生に悩み、家族も地位も捨てて出家し、6年間の苦行を続けたにもかかわらず、悟りを得ることはできなかったが、苦行をやめた後、35歳のとき、菩提樹の下で瞑想に入り、悟りを開いたという。以後、彼は「仏陀=悟った者」と呼ばれた。

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仏陀は、生涯にわたってガンジス川中流域の国々を伝道して回り、自らの新しい思想を説き続けることで、貧しい人や女性にも支持され、また、バラモンの中にも、仏陀の教えを受けるものが現われたとの事(写真 : ダメーク・ストゥーパ / サールナート)。ご存知の通り、仏陀は伝道の旅の途中に病を患い、クシナガラという土地で沙羅双樹の間に横たわり、80歳の生涯を閉じたのである。

ウィキペディア・フリー百科事典(釈迦)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6


その後も仏教は広まって行ったが、その理由として主に次の3つを揚げることができる。

第一は、仏教の教えが「平等主義」、「非苦行主義」、「救済主義」などであったことだ。動物を犠牲に捧げる供儀や難解なヴェーダ祭式や、バラモンを最高位とみなす「ヴァルナ制」などを否定し、心の内から人々の悩みを解くことなどを重視したのである。

第二は、都市国家で勢力を伸ばしてきた、クシャトリヤ(特に武士)やヴァイシャ(なかでも商人)の指示があったことだ。特に農業や商業が盛んなガンジス川中流域では商人が力をつけてきたが、彼らはバラモンの考えに賛成することができず、仏教を支持したのである。特に資金面でのバックアップは大きかったのではないだろうか。

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第三は、マウリヤ朝の第3代「アショーカ王」が仏教を支持したことである。マウリヤ帝国は、紀元前4世紀に登場したインド最初の統一王朝で、第3代アショーカ王が最盛期を築いた。彼は次々に領土を広げて行き、インド東部の大国「カリンガ国」に攻め入り、南インドの一部を除く、インド史上初の統一国家を作り上げた。しかし、カリンガ征服などで多数の犠牲者を出した(※1)ことを後悔し、彼は武力による政治を放棄し、「ダルマ」(真理と法)に基づく政治に変えることを決意した。また彼は、各地に彼の理念を石碑(※2・写真 : アショーカ王が建てた石の円柱)に刻ませて考えを広めるとともに、道路を作り、並木を植え、旅人のために休憩所や水飲み場も整えるなどの社会事業にも力を入れたのである。

(※1)カリンガには、「即位後8年に、アショーカ王によってカリンガ国が征服された。その際、15万の人々がその土地から引き離され、10万人がその地で殺され、戦禍によってその数の何倍もの人々が死んだ」と刻まれた石碑が残されている。
(※2)アショーカの理念を刻んだ石碑には、「すべての生き物をむやみに殺してはならない。父や母に従い、周りの人に礼儀正しく振る舞うこと」といったダルマの教えが刻まれている。

ウィキペディア・フリー百科事典(マウリヤ朝)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%A4%E6%9C%9D
ウィキペディア・フリー百科事典(アショーカ王)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%AB%E7%8E%8B
ウィキペディア・フリー百科事典(カリンガ国)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AC%E5%9B%BD
ウィキペディア・フリー百科事典(カリンガ戦争)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AC%E6%88%A6%E4%BA%89


ちなみに、多様な部族で構成される広い地域を、ダルマという一つの理念でまとめようとしたアショーカ王だが、官僚組織と軍隊の維持が財政困難を招いたことや、マウリヤ王家に対するバラモン階層の反発などにより、彼が亡くなった後、50年ほどでマウリヤ帝国は崩壊してしまったのである。

ところでインドで生まれた仏教だが、その後、どのように広がって行ったのであろうか。大きく分けると2つのルートがある。ひとつは、スリランカを経由して東南アジアに伝わるルートで、もう一つはインドの北西・ガンダーラを経て、シルクロードを通じて中国、朝鮮半島、日本へと伝わるルートだ。

アショーカ王が亡くなった後、50年ほどでマウリヤ帝国は崩壊してしまったが、その後クシャーナ朝が興り、最盛期のカニシカ王は仏教を保護した。この時に保護された仏教は、出家者が厳しい修業を行って自身の救済を求める従来の仏教とは異なり、あらゆる人の救済を図るという、いわゆる「大乗仏教」である。

またそれまでは、仏陀があまりにも尊いとされたため、具体的な像がつくられることはなかったが、このころからヘレニズム文化の影響を受け、仏像として刻まれるようになったのである。これは、クシャーナ朝が中国とローマを結ぶ交易の要諦、すなわち東西交易の重要なルートであったことによるものだ。そして、ガンダーラで生み出された仏像は、シルクロードを通じて日本にまで伝えられたのである。

ウィキペディア・フリー百科事典(仏教)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99


このように広まっていった仏教だが、現在のインドをみると、ヒンドゥー教徒が8割以上を占めており、仏教とは1%にも満たない。インドでは仏教が消滅してしまったと言っても過言ではない。では何故ヒンドゥー教が主要な宗教になって仏教が消滅してしまったのであろうか。

理由はとしては、大きく2つある。

第一は、ヒンドゥー教が庶民に分かりやすい宗教であったことだ。仏教の思想が盛んになり、バラモン教が弱まりまったことから、彼らも考え方を変え、民間にある神や土俗的な宗教を取り入れ、庶民に分かりやすい宗教、すなわちヒンドゥー教へと変わっていったのである。一方仏教は、数多くの僧侶が研鑽に励んでいたが、次第に理論的で難しいものになり、庶民には理解できないものになり、仏教から離れてしまうようになったのだ。

第二の理由は、仏教を支える後援者たち、すなわち「ヴァルナ制」に対し反発していた商人たちの力が衰え、仏教を支援することができなくなったためである。インドはローマと盛んに取引をしていたが、3世紀、グフタ朝の頃から、ローマ帝国の混乱に伴い、その貿易が衰退したため、仏教徒の商人たちが仏教を支えていくことが困難になったのである。

ウィキペディア・フリー百科事典(インド)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89
ウィキペディア・フリー百科事典(インドの宗教)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E5%AE%97%E6%95%99
ウィキペディア・フリー百科事典(ヒンドゥー教)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E6%95%99

(参考文献)
・「地球の歩き方 ‘11~’12 インド」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「図説インド歴史散歩」(岩瀬一郎他編)[河出書房新社刊]
・「詳説世界史」(佐藤次高他著)[山川出版社刊]



January 04, 2012

「台湾の旅」写真ダイジェスト

台湾の旅(最終回)

今回はこのシリーズの最終回として、写真ダイジェストを作製した。すでにこのブログのどこかで使用したものばかりだが、絵日記のつもりでご覧頂ければ幸いである。

① 九曲橋
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② 慈済宮龍虎の塔
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③ 文武廟「大成殿」
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④ 宝覚寺「金の大仏」
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⑤ 総統府
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⑥ 中正紀念堂
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⑦ 自由廣場門
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⑧ 国父紀念館
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⑨ TAIPEI101
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⑩ 国父史蹟館

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January 03, 2012

台北市散策(その4 : 逸仙公園)、そして帰国

台湾の旅(第10回)

第5日目(11月26日[土] : 晴れ)

7:30 起床
8:15台北市内散策に出かける
8:30~8:50モスバーガー
9:11~9:20台鉄・高鉄「台北駅」
9:23~9:29逸仙公園と国父史蹟館
9:35 ホテルに戻る
9:50 ホテルを出て空港に向かう
10:50 空港に到着
10:53~11:45 チェックイン、手荷物検査、出国手続き、ショッピング
11:45~12:14 ビジネスクラス・ラウンジで休息
12:23~12:41 搭乗口「A9」で搭乗を待つ
12:45 搭乗
13:28(14:28 : 以下日本時間) 離陸
16:27 着陸
16:30 入国手続き、税関、宅配便で手荷物を送付
16:44空港急行で自宅へ


ウィキペディア・フリー百科事典(台北市)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E5%8C%97%E5%B8%82

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本日が「台湾の旅」の最終日。午前9:50にホテルを出て、帰国する予定だ。7:30頃目覚める。本日の朝食は付いていなかったので、外で食べることにした。8:15、朝食と台北市内散策のためホテルを出る。「林森南路」を北に向かう。「市民大道二段」(写真左)の下を通り、「長安天主堂」(写真中・右)の前を歩いて、さらに北に進む。すると「モスバーガー」と「マクドナルド」の看板が見えて来た。どちらで朝食をとるべきか迷ったのだが、昨日「マクドナルド」を利用していたので、本日は「モスバーガー」(写真下左)に入ることにした。店舗(写真下中)は日本と変わらないが、私の好きなカツバーガーは置いていなかった。仕方がないので他のものを探していると、カツサンド(写真下右)があったので、それを頂くことにした。残念ながら、これはすでに出来上がったものを並べてあったので、待たされることはないが、いつものような出来たての美味しさはなかった。

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20分ほどで食事を終え、再びあてもなく、今度は西に向かって歩き始めた。「中國信託」(写真左)や「玉山銀行」(写真中)などの看板が見える。訪ねてみたいのだが、本日は土曜日なので閉まっていた。200~300m進んだところで、片道3車線の広い通りに出た。「中山北路一段」だ。今度はこの通りを南に向かった。「台湾銀行」(写真右)の前を通り、アーケードを歩く(写真下段)。土曜日で朝が早いこともあり、どこのお店も閉まっている。500mほど歩いたところで、右手に賑やかな施設が見えた。台鉄・高鉄の「台北駅」だ。面白そうなので行ってみることにした。

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駅舎は、昨日訪れた、「国父紀念館」のような雰囲気である(写真左)。駅前には小型の機関車が展示されていた(写真中)。構内の切符売場は、次から次へと人が入れ替わる賑わいだ(写真右)。奥には飲食店などのお店が並ぶ。残念ながら、ホームには自由に出入りできない。ご存知の通り、ヨーロッパの駅は切符を持たなくても出入りは自由だが、台湾は日本と同じで切符を買わなければならないのだ。

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10分ほど見て廻った後、駅の東側にある「逸仙公園」と「国父史蹟館」を訪ねるため駅舎を出た。「逸仙公園」(写真)は広さが約3,025㎡(915坪)あり、この公園の中に「国父史蹟館」が置かれている。この「史蹟館」は、中華民国建国の父である孫文(字は逸仙、号は中山)が、1913年に台湾を訪れた際に宿泊した日本旅館「梅屋敷」を再現した建物で、孫文が訪れたことを記念し、「逸仙公園」と名付けられたとの事。

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「梅屋敷」(写真)は1900年に建てられた平屋建ての木造建築物で、建坪は約50坪だ。1946年に「国父史蹟紀念館」に転用され、1983年、台北市の地下鉄工事のため、約50m離れた現在の場所に移されたという。そして1987年に庭園も完成し、正式にオープンする。2007年には、「国父史蹟紀念館」から「国父史蹟館」に改称され、現在に至っている。館内では、孫文に関する文物資料や写真などが展示されており、また孫文が宿泊した当時の装飾がそのまま保存されている。

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出発時間が迫って来ていたので、大急ぎで館内と庭園を見学し、公園を後にした。ここからホテルまでは500~600mほどなので、5~6分もあれば十分である。「行政院」(写真左)や「監察院」(写真中)の前を通り、9:35、 ホテル(写真右)に到着。部屋に戻り、荷物を持ってロビーに行き、9:50バスで空港に向かう。

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10:50、空港に到着。チェックイン、手荷物検査、出国手続きを済ませ、少しだけショッピング(写真左)。11:45、 ビジネスクラスのラウンジに入る(写真中)。ここでラーメンを作ってもらい頂く。30分ほど休んだ後、搭乗口「A9」に向かい搭乗を待つ(写真右)。12:45 搭乗。13:28(14:28 : 以下日本時間)に離陸し、2時間ほどで関空に到着した。入国手続きを済ませ、税関を通り、宅配便で手荷物を送付して、16:44発の空港急行で自宅へ向かった。食事をするのには中途半端な時間であったうえ、今回の旅は短かったので、「トンカツ」は食べずに帰った。
これで「台湾の旅」も終りである。今回も、無事に戻れたことに感謝である。



January 02, 2012

台北市散策(その3 :国父記念館・市政府・TAIPEI101[展望台])

台湾の旅(第9回)

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マクドナルドを出て東に300mほど歩くと、「国父紀念館駅」の入り口(写真左)が見え、その先に「国父紀念館」のゲート(写真中)があった。敷地内に入ると、左手に紀念館(写真右)が見え、右手には孫文の銅像や碑などが並んでいる(写真下段)。

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「国父紀念館」は、中華民国の父といわれる孫文(孫中山)氏の生誕百年を記念し、1972年に建てられたものである。反り返ったオレンジ色の屋根が特徴的で、高さは30.4mとの事(写真)。

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建物の中には、高さが8.9メートルもある孫文のブロンズ像が鎮座している。孫文像の左右には陸・海・空軍から選抜された衛兵が立っており、定時には「中正紀念堂」で見たのと同じような衛兵交代式が行われているという(写真)。

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館内の1Fには、孫文の著作や直筆の手紙、書類などの、貴重な資料を集めた史蹟展示室(写真)や、蔵書数30万冊以上を誇る図書館などが置かれている。また、約2,500人を収容できる大劇場も備えているのだ。

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「国父紀念館」の周囲には、「中山公園」があり、総面積は4万㎡もあるという。

ウィキペディア・フリー百科事典(国父記念館 [Sun Yat-sen Memorial Hall : 英語版])
http://en.wikipedia.org/wiki/Sun_Yat-sen_Memorial_Hall

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約40分で「国父紀念館」の見学を終え、「中山公園」を通り、「仁愛路四段」(写真左)を東に進み、「市政府」(写真中・右)に向かった。「市政府」は台北市の行政機関で、日本の「市役所」である。何故このような所に立ち寄ったのかと言うと、日本の市役所と雰囲気を比べてみたかったこと、また商業登記や不動産登記の現場を見てみたかったためである。

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中に入り、エレベータホールを抜けると、高い天井の広いスペースに出た(写真左・中)。この先に「市政府」の各部局があるのだ。財政局、交通局、民政局、教育局などが表示されている。私が見たいと思っている商業登記や不動産登記の現場は、1Fの「商業處」にあるようだ。この部署に行こうと思って歩き始めたのだが、途中で「台北探索館」という案内が目に入った。台北の歴史や発展を知る事ができる無料の歴史館で、1Fから4Fまでのスペースを使用して展示しているのだ。面白そうだったので、立ち寄ることにした(写真右)。

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「台北探索館」の案内書によると、「2002年12月、台北探索館は市政ビルの一角に正式オープンしました。その前身となったのは「市政資料館」です。台北市政府は、伝統的で「ありきたり」な展示方法を抜け出し、「台北探索館」と改名して、新たに、「市民」、「都市」をテーマに、参観者と対話し、市政建設の成果を表現できる、現代的な展示場としました」との事。1F「台北イメージホール」、2F「特別展示ホール」、3F「都市探索ホール」、4F「時空と対話ホール」として展示している(写真)。

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15分ほどで見て廻り、再び1Fのホールに戻ってきた。少し疲れて来たので、休憩するため、ホールの長椅子に腰かけた。ホールの中央に目をやると、「Shen Pao-chen Hall」(シン・パオ・チェン・ホール)の看板がかかっている。清朝の役人で、台北府設置に活躍した「沈 葆楨(しん ほてい)」を記念しているのであろう(写真)。

ウィキペディア・フリー百科事典(沈葆テイ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%88%E8%91%86%E3%83%86%E3%82%A4

しばらく休んだ後「商業處」に行くと、申請書の用紙や書き方の見本などが置かれていた。分厚い申請書を持って受付を待っている人もいた。会社を設立するのであろうか。台湾の会社法によると、かつての日本と同じで、「合名会社(無限公司)」、「合資会社(両合公司)」、「株式会社(股仇有限公司)」、「有限会社(有限公司)」の4形態があるのだが、やはり「株式会社(股仇有限公司)」の設立が一番多くの書類を求められているようだ。15分ほどの短い時間だが、色々と楽しむことができた。ちなみに、不動産登記について見ることができなかったのだが、これは3Fにある「地政處」の所管らしい。

台北市政府のHP(英語版)
http://english.taipei.gov.tw/MP_100002.html
台北市政府のHP(台湾語版)
http://www.taipei.gov.tw/MP_100001.html
台北探索館のHP
http://www.discovery.taipei.gov.tw

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「市政府」での見学を終え、次は「TAIPEI101(展望台)」である(写真左)。2004年に世界一の超高層ビルとして竣工した、台北のランドマークタワーだ。101階建で、高さは509m。89階には展望台がある。低層階はショッピングモールになっており、多くの人で賑わっていた。展望台の入り口は5F。ここでチケットを購入し、高速エレベーターで一気に89回まで昇るのである。チケット売り場(写真中)で並び、大人1枚400元で購入する。このまま直ぐにエレベーターに乗れるのかと思っていたら、40~50分待ちとの事(写真右)。仕方がないので、本屋にでも行こうかと思い、しばらくこの場を離れる旨受付の女性に伝えると、もうしばらく待った方が良いとの事。いつもに比べて空いているので、意外に早く順番が来るかもしれないからだ。しかし、結局は30分ぐらい待たされることになった。

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エレベーターに乗ると、30秒程で89階に到着(写真左)。さすが高速と言うだけのことはある。お天気は比較的良い方だったので、展望台からの眺めも良い。朝から台北中心部を歩いていたので、展望台から見ていても場所が分かるので面白い。先ほど訪ねた「市政府」の建物が「H型」をしていること(写真中)や、「国父紀念館」の周囲にある「中山公園」の広さ(写真右)を改めて確認することができた。長い距離を歩いたつもりでも、展望台から見るとたいしたことはない。

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この展望フロアでは、台北の景色が眺められるだけでなく、この高層ビルに関する展示を見ることができる。例えば、この展望台まで昇るのに使ったエレベーターについて、1/10サイズの模型が置かれるとともに(写真左)、「台北101の展望台へは、世界で最も早いエレベーター(2台)がご案内します。このエレベーターは、分速1,010mで5階から展望台のある89階へわずか37秒で到達致します。また、このエレベーターは、世界最速であるだけでなく、搭乗者の耳詰まりを軽減するために、世界で唯一の気圧制御装置や振動制御装置、更には、高温の摩擦熱に耐え得る非常止め装置など、科学の粋を集めたエレベーターです」との解説パネルも掲げられている。ちなみにこの世界最高速のエレベーターは、2004年ギネスブックに登録されている。
その他にも気になるパネルがあった。それは、中国の古銭「同治通寶」の写真だ(写真中)。解説文を読むと「金融センターというテーマに呼応し、24階~27階のところに直径ほぼ4階層のある、四角い穴のある古銭の装飾が施されています。中華文化と西洋の科学技術の融合という理念を表現しています」との事(写真右)。

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展望台からの眺めを十分楽しんだので下に降りようと思ったのだが、下りのエレベーターは88階から乗ることになっていた。階段を使って1階降りると、そこは珊瑚などの宝飾品を売るフロアであった。「聚宝88トレジャースカイ」とのことで、台湾特有の天然珊瑚やサファイア、台湾産玉などの貴重な宝石を用いて宝飾品や美術品を製作し、展示販売しているのだ。このフロアを通り抜けないと、エレベーターには乗れないシステムになっている。観光地でよく見かける、お土産物を買わせるための作戦だ。しかし展示されている作品類は、十分見るだけの価値があるものばかりである。特に紅い枝珊瑚は、非常に美しい(写真)。

ウィキペディア・フリー百科事典(台北101)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E5%8C%97101
TAIPEI101公式HP
http://www.taipei-101.com.tw/index_jp.htm
綺麗珊瑚(聚宝88トレジャースカイ宝石藝術店)のHP
http://www.cljewels.com


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待ち時間を合わせて約1時間半、「TAIPEI101(展望台)」を出た。建物を見上げると、24階~27階のところに、四角い穴のある古銭の装飾が施されていた(写真左・中)。それ以外に、地上にも古銭を模ったモニュメントが置かれていた(写真右)。

一日歩き回り少々疲れて来たので、ホテルに戻るため、最寄りのMRT「市政府駅」へ向かうことにした。先ほど訪ねた「市政府」の前を通り、さらに北へ進む。地図を見ると、台湾で最大の書店「誠品網路書店(信義店)」があることに気が付いたので、そこへ立ち寄ることにした。「新光三越百貨」と「統一阪急百貨」の間に建つビルに入っている。2F~4Fが書籍のフロアで、日本の大型書店に負けないぐらいの書籍数だ。台湾語の本だけでなく、日本語や英語の書籍も数多く並んでいる。日本語のものは、文庫や新書、単行本や雑誌など、日本にいるのかと思うぐらい色々な種類の本が並んでいる。また英語の本に関しては、日本の大型書店に並んでいる数よりも明らかに多い。

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書棚を見て廻っていると、賑やかな声が聞こえて来たので、そちらの方に行ってみると、30~40人の観客を前に料理をしていた。台湾で有名な料理研究家の方が、ここで実演しているのだ(写真)。後に数多くの本が並んでいたのは、彼女の著書であろう。いい匂いにつられ、しばらく私も見学させてもらった。荷物が重くなるので、ここでは書籍を購入しなかったが、書店の充実ぶりには驚かされた。

誠品網路書店のHP(台湾語版)
http://www.eslite.com/

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書店を出て、駅に行く途中にある「統一阪急百貨」(写真)にも寄ってみた。中に入ると、改装する前の梅田阪急百貨店を思い出させてくれた。台湾統一グループとの合弁だが、コンセプトは日本の阪急百貨店である。

統一阪急百貨(台北店)のHP
http://www.uni-hankyu.com.tw/taipei/index.asp

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百貨店を出て、MRT「市政府駅」に到着。バスの路線図が欲しかったので、近くにあったバスの案内所を訪ねた(写真)。受付の女性に英語で話しかけるが、分からない様子。すると側にいた高校生ぐらいの女の子がやって来て、私に日本語で話しかけて来た。事情を話すと通訳してくれ、無事に解決。残念ながらバスの路線図は置いていなかった。しかし、ここでも直ぐに私が日本人であることが分かった様子。また”おじぎ”でもしていたのだろうか。

その後MRTに乗り、「善導寺駅」で下車。午後5:20頃、ホテルに戻った。夕食はホテルのレストランで午後7:30から。かなり時間があったので、入浴と資料整理を済ませる。午後7:30前にレストランに向かい、夕食を頂く。個室に用意された円卓を囲む。これがツアーメンバーと一緒に採る最後の食事である。メニューは次の通り。

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・小皿料理(写真左)
・フカヒレの姿煮(写真中左)
・車蝦の姿焼・四川風チリソース風味(写真中右)
・鶏肉の唐辛子&ピーナッツ炒め(写真右)
・タラ蒸し物・特製豆板醤がけ(写真下左)
・チキンオイルかけ汁なし麺(写真下中左)
・季節のフルーツ(写真下中右)
・特製デザート(写真下右)

約1時間半で食事を終え、部屋に戻って荷物整理し、明日出発までの時間を利用した観光プランを考える。そして午後10:30頃、ベッドに入った。


ウィキペディア・フリー百科事典(台北市)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E5%8C%97%E5%B8%82

(参考文献)
・「地球の歩き方 ‘11~’12 台湾」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]



January 01, 2012

あけましておめでとうございます。

あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。
本年も宜しくお願い致します。

毎年、新年を迎えるに当たり、その年の目標を立てるのだが、年末には何が目標だったのかをすっかり忘れてしまい、次の年の目標を考えている。

計画を立てるのは大好きなのだが、その通りに実行したためしがない。途中で思いついたことがあれば、それを始めてしまうからだ。思いついたら即実行である。

このような私だが、本年も例年通り、今年の目標を立てることにした。
今年の目標は2つだ。

第一は、英語で書かれたコイン関連の薄い書籍1冊を翻訳する。
第二は、このブログを使い、英語で日本の貨幣を紹介する。

年末に反省するつもりはないが、第二の目標についてはこのブログを見れば結果が分かるので、少しプレッシャーかもしれない。


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