June 29, 2010

「カーシャーン・フィン庭園」観光後、帰国へ

イラン・ペルシャの旅(第23回 : 最終回)

レストランを出て20分ほど走ったところで、遠くに点々と突き出たものがいくつも見え始めた。最初、石油のリグかと思ったのだが、良く見ると高射砲であった。すると間もなく、道路の周囲に有刺鉄線が張り巡らされ、その向こうには見張り台が建ち、そばに戦車が並ぶ。化学工場があるので、警備しているとの事。ウランの濃縮施設を持つ「ナタンズの化学工場」である。観光客が近寄れるような場所には無いと思っていたので、予想外であった。この「イラン・ペルシャの旅」の第一回でも書いたように、イランは当初から核拡散防止条約(NPT)に加盟しており、国際原子力機関(IAEA)の査察も受け入れていることから、隠す必要はないのである。写真撮影は禁じられていたが、見るだけであれば問題はないので、少し緊張しながら雰囲気を確認した。

Dsc00405


その後も砂漠の中を走り続け、14:20、カーシャーンの郊外に建つ「フィン庭園」(写真)に到着した。カーシャーンはテヘランとエスファハーンとの中間に位置する小さな町で、人口は約40万人。「カーシャーンの歴史は古く、アケメネス朝時代から人が住んでいたが、サファヴィー朝の王にこよなく愛された町として知られている。特にアッバース一世のカーシャーンに対する愛着は相当なもの」(「地球の歩き方2009~2010年版・イラン」より)だったとの事で、この「フィン庭園」も彼の命によって造られた。

Dsc00423


「立派な門をくぐると正面に大きな池と離宮があり、糸杉の並木が両脇に立っている(写真)。周りを小川が巡る典型的なペルシャ庭園だ」(前掲書より : 写真)。かつてはカナルを掘り、パイプで庭園内に水を引いていたという。池では侍女や妾たちが水浴びや水遊びをしていたらしい。小川の側に並ぶベンチには、多くの人々が腰掛けて涼んでいる。女子大生らしき人達も多くいた。写真を撮らせてほしいとお願いすると、快くOKの返事。ガイドブックなどでは、男性が女性の写真を撮るのは難しいと書かれていたが、決してそのようなことはないと思う。なぜなら、イランに来て写真撮影を断わられたのは、ご主人と一緒にいる人妻だけだからだ。

Dsc00440Dsc00442Dsc00445Dsc00457Dsc00460Dsc00462Dsc00467Dsc00470Dsc00524


小川沿いの小道を歩き、正面に建つ離宮(写真)に向かう。カジャール王朝時代に建てられたもので、壁に描かれている王子の画などはオリジナルである。庭園内をノンビリ散策するが、木陰に入ると涼しく爽やかで、本当に気持ちが良い。

Dsc00516Dsc00520Dsc00521


庭園の離宮に向かって左手には、博物館がある。カーシャーンやアブヤーネの民族衣装、古い絨毯などが展示されていた(写真)。ここでイラン人の青年たちから、彼らを撮影しろとのリクエストがあった。写真を撮り、ディスプレイで見せてあげると、満足そうに去っていった。以前にもお話ししたが、このような場面に時々出会う。いったい何なんだ! 撮った写真を送ってほしいというのであれば、まだ分からないでもないが、彼らの行動は私には理解できない・・・・。

ウィキペディア・フリー百科事典(カーシャーン / カシャーン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%B3
ウィキペディア・フリー百科事典(フィン庭園[英語版 : Fin Garden])
http://en.wikipedia.org/wiki/Fin_Garden


Dsc00588_2Dsc00580Dsc00587


約1時間でフィン庭園の観光を終え、いよいよ帰国である。15:15、バスはテヘラン空港に向けて走りだした。再び砂漠の中を走り続ける。16:25ころ高速道路を降り、16:30、ゴムの街に建つ「アハレベイト・モスク」(写真)でトイレ休憩を取る。新しいモスクだが、とても立派で美しい姿をしている。ここには土産物店もあるので、観光客もよく立ち寄るのではないだろうか。
ところでこのゴムの街だが、実はマシュハドに次ぐシーア派の聖地なのだ。残念ながら訪ねることはできなかったが、この街には「ハズラテ・マアスーメの聖地(ハラム)」があり、国内外から巡礼者がここを訪れるのだという。

ウィキペディア・フリー百科事典(ゴム[イラン])
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%A0_(%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3)
ウィキペディア・フリー百科事典(ハズラテ・マアスーメの聖地[Fatima al-Masumeh Shrine])
http://en.wikipedia.org/wiki/Fatima_al-Masumeh_Shrine


Dsc00627Dsc00628Dsc00634


15分ほどでトイレ休憩を終え、再びテヘラン空港に向けバスは走り出した。周囲は砂漠が続いていたが、しばらくすると湖が見えた。「コーム湖」という名の塩湖だ(写真左・中)。水深5~6mまで、塩で固まっているとの事。塩分濃度はかなり高く、ここでは泳ぐこともできないようだ。数分後に塩湖は見えなくなったが、塩が吹いて白くなった地面が、何キロにもわたって続く(写真右)。

Dsc00684Dsc00688Dsc00686


長時間砂漠の中を走り、建物が見え始めて間もなく、テヘランの空港に到着した。イラン航空のカウンターでチェックインの手続きを済ませ、18:30に出国。そのままビジネスクラスのラウンジに向かう。それほど期待していなかったのだが、空港に面した部屋だったので、外の景色も見え、部屋全体が明るく、私にとっては予想以上に快適な空間であった(写真左・中)。設備は豪華でも、窓のないラウンジは、私の好みではないからだ。私にとって嬉しかったのは、アイスクリームが置いてあったことだ(写真右)。どこのお店でも売っているような平凡なアイスクリームだが、高級なものよりこちらの方が私には合っている。

Dsc00703Dsc00707Dsc00706


30分ほど休憩し、19:15にラウンジを出て搭乗口「26番」(写真左)に向かう。搭乗口付近には、すでにツアーメンバーの方達が集まっていた(写真中)。19:40、搭乗(写真右)。日本人アテンダントは、イランに来る時と同じ女性であった。座席はほぼ埋まっている。

Dsc00722Dsc00724Dsc00739


20:30に離陸。21:05頃、夕食が出された。ラウンジでサンドイッチなどを頂いていたので、あまりお腹が減っていなかったことから、前菜とスープだけ頂戴した(写真左・中)。夕食を早々と終え、21:30頃から寝始める。北京空港(写真右)に到着する旨のアナウンスがあった、2:50(北京時間6:20 : 以下北京時間)に目覚める。

Dsc00735Dsc00740Dsc00741


約1時間半かけて、機内清掃と整備が行われ、7:55に離陸し、成田空港に向かう。座席は半分以上空席(写真左)。ほとんど北京で降りてしまったようだ。8:40~9:10 に朝食を戴く。メニューは、パンやフルーツ、ジュースなどである(写真中)。その後窓から見える景色を楽しんだが、富士山が見えなかったのは残念であった(写真右)。

Dsc00805Dsc00806Dsc00809


日本時間の12:05、 成田空港に到着(写真)。いつのように関空到着であれば、これから1時間ほどで自宅に帰れるのだが、まだ成田だ。東京駅に出て、新幹線で新大阪まで行かなければならない。しかし、乗り継ぎも比較的順調であったことから、自宅には19:00前に帰ることができた。

Dsc00826Dsc00827Dsc00831Dsc00842Dsc00845Dsc00848

ところで、成田からは「成田エクスプレス」を利用したのだが、東京駅に近づいたころ、「東京スカイツリー」(写真上段)を見ることができたのが収穫であった。どの程度工事が進んでいるのかは分からないが、生で見るのは初めてである。また、いつもは旅の終わりに、関空でトンカツを食べるのだが、今回は「東京―新大阪」間の新幹線で、東京限定「東京弁当」を楽しんだ(写真下段)。1,600円と駅弁にしては高価だが、「浅草今半」の牛肉たけのこ、「人形町魚久」のキングサーモン粕漬、「築地すし玉 青木」の玉子焼などと書かれていたので、つい買ってしまったのである。値段が高かったから美味しく感じたのか、本当に美味しかったのかは分からないが、とにかく美味しく頂いた。やはり日本のご飯は最高である。

今回の旅もこれで終了。事故もなく無事に戻れたことに感謝!

東京スカイツリー
http://www.tokyo-skytree.jp/


(参考文献)
・「地球の歩き方2009~2010年版・イラン」(地球の歩き方編集室編)[ダイヤモンドビッグ社刊]
・「KASHAN,CIVILIZATION GATE」(Zohre Mozdian fard著)



June 28, 2010

アビアネ村散策

イラン・ペルシャの旅(第22回)

7日目 : 5月26日(水)[晴れ]~最終日 : 5月27日(木)[晴れ・曇り]

6:00 起床
7:00~7:10 ホテル内のお店で買い物
7:10~7:25 朝食
7:40 バスで観光に出発
9:02~9:12 トイレ休憩
10:20~11:40 アビアネ村観光
11:45~13:10 ホテル「アビアネ」で昼食
13:35~13:45 ナタンズの化学工場(核施設)の前を走る
14:20~15:15 フィン庭園観光
16:30~16:45 トイレ休憩
17:05頃 ゴムの塩湖の前を走る
17:50 テヘラン空港に到着
18:30 出国手続き
18:43~19:30 ビジネスクラスのラウンジで休憩
20:30 離陸
21:05 夕食
21:30~2:50(北京時間6:20) 寝る

(5月27日)
6:25(北京時間) 北京空港に到着
7:55 離陸
8:40~9:10 朝食
12:05(日本時間) 成田空港に到着


Dsc00044


本日はイラン観光の最終日。「アビアネ村」とカーシャーンの「フィン庭園」を訪れた後、夕方の飛行機でテヘランから成田に向かう予定だ。出発時刻が7:30と早かったので、6:00に目覚めてから荷物を整理し、身支度をすべて整え、朝食を食べるため7:00から開くレストランに向かった。途中、このホテルに到着したときにイランのコインを購入した店(写真)が開いていたので、イラン全土、テヘラン、シラーズ、ヤズドの地図を購入する。レストランでは軽く食事を済ませ、7:30、バスに乗車。7:40に我々は出発した。エスファハーンから最初の目的地であるアビアネ村まで、120kmほど離れているので、しばらくドライブである。

Haftseen2_2Haftsiniran_3-----------------------------------------------------


この日はガイドから、イランの正月について話があったので、ご紹介する。
イラン暦では、西暦の3月20日か3月21日を元日として祝う。丁度「春分の日」にあたり、農業暦上非常に重要な日であったのだ。このイランの正月は「ノウルーズ」と呼ばれているが、これはイランだけでなく、中央アジアからアフリカまでに及ぶ広い地域で祝われている。イランの正月は1日だけでなく、13日間も続く。正月を迎えるに当たって人々は、1週間~1か月前から準備を始めるという。家の掃除をして古くなったものを捨て、新しい絨毯や衣類などを購入する。また正月料理の食材調達も必要だが、忘れてならないのは「ハフト・シーン」(Haft Sin)の準備だ(写真 : ウィキペディア・フリー百科事典(ノウルーズ)より)。これはイラン独特の習俗で、頭文字が「S」で始まる7つの物を飾るのである。ちなみに、「ハフト」(Haft)は「7」、「シーン」(Sin)は「S」を意味する。

一般に7つの「S」として飾られるのは次の通り。

① サブゼ(sabze) : 「復活」の象徴として「草」や「緑」。皿の上に麦や豆を蒔き、正月までに10cmぐらいに育てる。リボンで飾ることもあるようだ。
② セック(sekke) : 「富」の象徴として「コイン」
③ ジブ(sib) : 「健康」の象徴として「赤いリンゴ」
④ セルケ(serke) : 「強さ(忍耐)」の象徴として「酢」
⑤ センジェンド(senjed) : 「愛」の象徴として「グミ」
⑥ ソマク(somagh) : 「日の出」の象徴として「赤い香辛料」
⑦ サマーヌン(samanu) : 「生活の豊かさ」の象徴として「イランの伝統的料理」。甘酸っぱいゼリー状のスープだ。

その他にも、「命」のシンボルとして「金魚」や、「幸福」の象徴として「キャンドル」が飾られることもあるようだ。

正月には家族が集まって祝い、その後親戚の家などを訪ねたりするようだ。このあたりは、十数年前まで日本でも行われていた年始回りに似ている。先に下の者が上の者の家に挨拶に行き、その後上の者は下の者の家を訪ねるのだという。上の者は下の者にお年玉を与える習慣があるようだ。これも日本と似ていて面白い。
正月5日間は職場も休みで、学校は1週間休みである。しかし正月は13日間続くので、休みが終わると、夜、親戚の家を訪ねる。かつては突然訪問していたようだが、最近はアポを取ってから行くようになったとの事。各家庭では、色々な種類のナッツ、ケーキ、クッキーなどとともに紅茶を準備して訪問客を迎えるという。

正月の最終日、13日目は「シズダ・ベダル」と呼ばれ、各家庭は水と緑の多いところに出かけて行く習慣がある。最近では公園に行ったり、ピクニックに出かけたりするようだ。ちなみに、「シズダ」は「13」を、また「ベダル」は「外出」を意味する。「13」は「不運」を意味することから、家庭に「不運」を招かないために外出するのだという。

ウィキペディア・フリー百科事典(ノウルーズ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA
ウィキペディア・フリー百科事典(ノウルーズ[英語版 : Nowruz])
http://en.wikipedia.org/wiki/Nowruz
ウィキペディア・フリー百科事典(シズダ・ベダル[英語版 : Sizdah Be-dar])
http://en.wikipedia.org/wiki/Sizdah_Bedar


Dsc00058Dsc00059

以上のような話を聞いているうちに、トイレ休憩の時間となった(写真)。9:02から約10分休み、再びバスで「アビアネ村」に向け出発だ。バスは「キャルキャス山脈」の谷間を走る。途中、ガイドから「ケシュ村」が紹介された。何があるのかと思ったら、ガイドが生まれた村だという。10歳までここで育ったらしい。8人兄弟で、両親は健在。父88歳、母79歳との事。

Dsc00086Dsc00088Dsc00372


しばらく走ると、丘の斜面に小さな穴が開けられているのが見えた(写真)。羊や山羊、ロバなどを飼っていた穴との事。内部は、幅4m、奥行き20~30mあり、100~200頭を飼うことができたという。

ウィキペディア・フリー百科事典(キャルキャス[英語版 : Kuh-e Karkas])
http://de.wikipedia.org/wiki/Kuh-e_Karkas


10:20、ようやく「アビアネ村」に到着した。アビアネ村は「カーシャーンの約70km南東、キャルキャス山の麓にある、緑の渓谷に囲まれた小さな村。ピンクがかった赤土でできた家が、谷の斜面に段状に建つ景観が美しい。家の窓は外に向かっており、中庭式の家が普通のオアシス都市とは趣が異なる」(「地球の歩き方2009~2010年版・イラン」より)。

Dsc00117Dsc00113Dsc00131


バスを降りて200mほど歩くと、ゲートがある(写真左)。ここをくぐって奥に進むと、丘の斜面に赤茶色の家が並ぶ(写真中)。この村の建物は、日干しレンガと粘土、木製の梁で造られており、壁は赤茶色の粘土で覆われている。各家の扉はすべて木で出来ており、窓は小さい。2Fにベランダのある家もある(写真右)。

Dsc00106Dsc00112

この村の歴史は古く、イスラム以前に遡る。アビアネ村の人々は、古くからの習慣や言語、衣装などの伝統を長い間守り続けており、言語はアケメネス朝やササン朝時代のものも残っているようだ。人々の服装を見ると、女性は白地に赤かピンクのバラ模様のスカーフを着け、ヒザが隠れる程度のスカートをはいている(写真左)。男性はパンタロンのようなズボンをはき、黒い帽子を被っている(写真右)。これらは、「かつてこの村がゾロアスター教徒の村であった名残」(「地球の歩き方2009~2010年版・イラン」より)との事。

Dsc00167Dsc00168Dsc00176


村の一本道を東に進むと、トンネルがあった(写真左中)。トンネルの中では、地元の女性達が、スカーフやネックレス、腕輪などのお土産物を売っている(写真)。上を見ると建物がある様子。ここはゾロアスター教の寺院だったのである(写真右)。

Dsc00224


さらに奥に進むと、イランの学生たちに出会った。彼らも観光に来ているのだ。この村は、イラン人にも人気のスポットらしい。彼らと一緒に写真を撮るなど、しばらく交流を楽しむ(写真)。---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

Dsc00251Dsc00278Dsc00253Dsc00262Dsc00267Dsc00272


その後、少し先に建つ「エイサとヤハヤの寺院」を訪ねた(写真左)。ゲート(写真中)をくぐると中庭に出る(写真右・下左・下中)。中央に小さな池があり、その奥には八角形のドームが建つ(写真下右)。静かで落ち着いた雰囲気の寺院である。

Dsc00268Dsc00276

この寺院の歴史を見ると、15世紀に遡る。建物の完成は1882年で、ここにはイマーム「ムーサー・カーズィム」の二人の息子が埋葬されている。南側に設けられているテラスからは、山や果樹園などの素晴らしい景色を見ることができる(写真)。

Dsc00306Dsc00311Dsc00312Dsc00319Dsc00321Dsc00325

寺院を出て、来た道を戻る。先ほど通ったゾロアスター教寺院のあったところで皆さん立ち止まり、みやげものを物色し始めた。時間がかかりそうだったので、私は一足先村のゲートを出て、アビアネ村の博物館(写真)を訪ねた。小さい博物館であったが、アビアネ村の民族衣装や、生活雑貨、農具などが展示されており、楽しむことができた。

ウィキペディア・フリー百科事典(アビアネ村[英語版 : Abyaneh])
http://en.wikipedia.org/wiki/Abyaneh


Dsc00365Dsc00339Dsc00349


約1時間20分でアビアネ村散策を終え、バスで昼食のためレストランに移動する。3~4分で「ホテル・アビアネ(Hotel Abyaneh)」(写真)に到着。バスの乗降を考えると、歩いた方が早い距離だ。このホテルのレストランが、昼食会場である。

昼食のメニューは次の通り。
Dsc00350_2Dsc00356_2Dsc00351_2Dsc00355_2Dsc00357_2Dsc00358

・スープ(写真左)
・茄子の煮込(写真中)
・ヨーグルトとはちみつ(写真右)
・ライス(写真下左)
・紅茶(写真下中・下右)

1時間15分ほどで昼食を終え、13:13、我々はカーシャーンに向け出発した。

昼食レストラン(Hotel Abyaneh)
http://www.hotelabyaneh.com


(参考文献)
・「地球の歩き方2009~2010年版・イラン」(地球の歩き方編集室編)[ダイヤモンドビッグ社刊]
・「Guidebook Abyaneh」(Mahdi著)[Harpak]


June 27, 2010

ライトアップされたイマーム広場

イラン・ペルシャの旅(第21回)

「マスジェテ・ハキーム」へは、途中まで「バーザーレ・ゲイサリーイェ」を通って行くことができる。このバーザールは、「バーザーレ・ボゾルグ」で「バーザーレ・エスファハーン」と通じているため、「マスジェデ・ジャーメ」まで行くことができるのだ。エスファハーン経済の中心地で、ほとんどがサファヴィー朝時代に造られたという。「マスジェテ・ハキーム」への最短コースを選んだため、「ゲイサリーイェ門」を見逃してしまったのは残念であった。

Dsc09878Dsc09877Dsc09879Dsc09887Dsc09893Dsc09895

ガラス製品や陶磁器類、ミニアチュールなどを売るお店が続き、次は雑貨店が並ぶ通りだ(写真上段・下段左)。250mほど歩いてバーザールを抜けると、「Ostan-dari通り」に出る。さらに通りを北に200mほど進むと、公園らしき場所に出た(写真下段中)。この奥に「マスジェテ・ハキーム」がある。モスクの入り口前まで来ると、噴水の出る池があった(写真下段右)。強い日差しの下を歩き廻った後だけに、このような水を見るだけで少しホットする。

Dsc09900Dsc09901Dsc09906

Dsc09929Dsc09907

Dsc09926Dsc09908Dsc09912

ゲートをくぐり、数メートル続く細い通路を抜けると、中庭に出る(写真上段)。マスジェデ・ジャーメやマスジェデ・エマームほどの豪華さはないが、シンプルな中にモスクとしての落ち着きを見いだせる(写真中段)。ミフラーブの周囲が、カリグラフィーのデザインだけで装飾されているのも面白い(写真下段)。

Dsc09934Dsc09935Dsc09937


このモスクは、シャー・アッバース二世の命により、1656年から1663年にかけて建設されたエスファハーンで最も古いモスクの一つである。見落としてはならないのが東側の出入り口だ。レンガで造られた壁や柱に、漆喰だけで装飾するという独特の方式がとられている(写真)。

モスクに入った時は、2~3人の男性が木陰で昼寝をしていたが、18:30頃になると、一人の男性が立ち上がり、中庭の石畳の上に絨毯を広げ始めた。これから始まるお祈りのための準備である。約30分見学した後、集合場所に戻ることにした。

Dsc09880Dsc09884Dsc09885Dsc09886Dsc09956Dsc09970

帰りは「バーザーレ・ゲイサリーイェ」を通らずに、「Ostan-dari通り」を真っ直ぐ南に向かった。500mほど歩くと、銀行の並ぶ「セパー通り」を東に進み、エマーム広場に戻った。まだ20分ほど時間があったので、面白そうだと思うお店を覗きながら、ノンビリ歩く。ミニアチュール(写真上段)、タイル、陶磁器類、ガラス製品、絨毯など、イランならではのものを売るお店が続く(写真下段)。一つ一つ見ていると、いくら時間があっても足りないが、出来るだけ多くのものを見て楽しんだ。

Dsc09997Dsc09978Dsc09980Dsc09981Dsc09989Dsc09992

西側の回廊の南側の出口まで来る。集合時間の19:00に10分ほど前だったが、集合予定の場所に到着。既にほとんどのツアーメンバーが集まり、雑談をしていた。19:00、夕食のため、全員でレストランに向かう。19:05、エマーム広場の南側にある「バースターニ・トラディショナル・レストラン(Bastani Traditional Restaurant)」に到着した(写真)。豪華な雰囲気のレストランで、「ヴォールト天井の下、床に座ってくつろげる席と、眺めの良い中庭の席がある」(「地球の歩き方2009~2010年版・イラン」より)。

メニューは次の通り。
Dsc09984Dsc09986Dsc09994Dsc09996

・スープ(写真左)
・煮込料理(写真中左)
・四種類のシチュー(写真中右)
・ライス(写真右)
・デザート(りんご)、紅茶

Dsc00017Dsc00027

Dsc00011Dsc00009Dsc00013Dsc00030Dsc00007Dsc00023

約1時間20分で食事を終え、再び「エマーム広場」に向かう。今度はライトアップされた広場(写真)を見るためである。「現在の広場は、市民の憩いの場となっており、夏は夕方から夜遅くまでピクニックに興じる人でにぎわう」(「地球の歩き方2009~2010年版・イラン」より)との事であったが、本日も多くの人が夜景を楽しんでいた。昼間に見た眺めも美しかったが、ライトアップされた広場も違った雰囲気で観光客を魅了する。濃紺の空に、ペルシャ・ブルーのモスクやミナレットが浮かび上がる姿は幻想的だ。しばらくすると、エイヴァーンの左手に月が並んでいた。この時期、20:30頃に月は真南に位置するようである。


「マスジェデ・エマーム」の前でライトアップを楽しんでいると、数人の子供達が近づいてきた。一緒に写真を撮らせてほしいとの事。快く了解し、彼らのカメラ納まる。するともう一人の子供からも同じお願いをされる。こちらも了解したが、その後も次々に同じお願が続く。数人目で断ったが、これと同じ事をモロッコやシリアでも経験した。観光に来る日本人が珍しかったのか。別のケースでは、現地の子供たちが、自分たちの姿を私のカメラで写して欲しいというのもあった。撮った写真をディスプレイで見せてあげると、満足そうに引き上げて行く。集団スリかもしれないので気をつけろという人もいたが、全くそのような雰囲気ではない。何が楽しいのか良く分からなかったが、彼らからすれば、日本人の行動で分からない事も多いのかもしれない。

約30分、エマーム広場でライトアップを楽しみ、21:00、バスに乗ってホテルに戻る。ホテルには10分ほどで到着した。この日も良く歩き疲れが溜まっていたので、風呂に入り体をほぐし、その後資料整理をする。明日は観光の後帰国するので、不要な荷物の選別も行い、22:15頃ベッドに入った。

(参考文献)
・「地球の歩き方2009~2010年版・イラン」(地球の歩き方編集室編)[ダイヤモンドビッグ社刊]
・「Iran Esfahan」(M.Abdollahi)[Elam Publication刊]


June 26, 2010

エスファハーンは世界の半分・エマーム広場

イラン・ペルシャの旅(第20回)

Dsc09397Dsc09403Dsc09412


昼食を終え、ホテルに戻ったのが14:05。しばらく休憩し、15:15にホテルのロビーに集まり、午後の観光に出かけるという。1時間以上無駄に過ごすのはいやだったので、ツアーが最初に訪れる予定のエマーム広場で15:30に待ち合わせることにして、私はエスファハーン観光に出かけることにした。昨日、少し街を歩いているので、概ね地図は頭に入っていた。14:15にホテルを出て、「マドラセイエ・チャハール・バーグ」(写真左)の方に向かって歩く。この時間帯は人も車も少ない。一番暑い時間帯なので、皆さん休憩しているのだ。ツアーが休むのも、この地では合理的だからであろう。しかし、観光客である私にとっては、移動しやすい時間でもある。道路も簡単に横断できるのだ。昨夜訪れた「アッバシィー・ホテル」の南側にある、土産物店が並ぶエリア(写真中)に行ってみるが、ほとんどのお店がクローズしていた。休憩時間のようだ。ミニアチュールのお店(写真右)も、まだ閉まっている。

Dsc09421Dsc09428Dsc09431


「Bagh-e Goldaste通り」を渡り左折、北に進む。150mほど歩くと、立派な建物が見えてきた。「Central Library of Esfahan Municipality」(エスファハーン市の中央図書館 : 写真左)である。さらに100m先の「Beheshti Nezhad通り」(写真中)に入り、「Ostan dari通り」(写真右)に出て左折。ここから「装飾芸術博物館」、「細密美術博物館」、「チェヘル・ソトゥーン庭園博物館」、「自然史博物館」と続く。ところで「チェヘル・ソトゥーン庭園博物館」だが、午前中バスで連れて来られたので、エスファハーンのどの辺りに位置するのか意識していなかったのだが、ここにあったのだという事を改めて認識した。やはりその街を知ろうと思うと、バスで連れて行かれるだけではダメで、地図を見ながら自分で歩くことが大切なのだと感じた。

Dsc09437Dsc09436Dsc09439Dsc09440Dsc09442Dsc09449

「チェヘル・ソトゥーン庭園博物館」、「装飾芸術博物館」(写真左・中)、「自然史博物館」は休み時間だったので、オープンしている「細密美術博物館」を訪ねることにした。正面玄関右手に受付があり、ここで入館チケットを購入する。大人1名、15,000イラン・リアルと、思っていたよりは少々高め。チケットを見ると、「Esfahan Museum of Contemporary Art」(エスファハーン現代芸術美術館)と書かれている。ガイドブックの地図には「細密美術博物館」と書かれていたが、細密画だけではないのだ。ゲート(写真右)をくぐると、中央に池と噴水のイスラム式の庭が広がる(写真下左・下中)。手入れが行き届いており、シンプルだが美しい。部屋を覗くと、コーナーごとに展示物が異なっている(写真下右)。館内に、お客は一人もいない。

Dsc09454Dsc09459Dsc09455


細密画(写真)のコーナーを探し、その部屋を訪ねと、チャードルを身につけた2人女性が私の方にやって来た。話しかけてくるのだが、ペルシャ語のため全く分からない。英語も通じないので、お互いボディーランゲージだ。その結果、写真は撮っても良いが、接写とフラッシュの使用はダメと言っていることが分かった。また、手に持っている紙と絵を指差しながら、何かを言い始めた。紙を見ると、プライスリストだったので、好きな作品があったら値段を教えてくれると言っていることが分かった。その後しばらく作品を鑑賞した後、彼女達のお礼を言って部屋を出ようとすると、水の入ったコップを持って来てくれた。暑いから飲んで行けということらしい。イランの水は生でも大丈夫と聞いていたので、有難く頂く。冷たくて美味しかった。ついでに、彼女達の写真を撮らしてほしいとお願いすると、快く笑顔でOK。何かの本に、男性がイラン人女性の写真を撮らせてもらうことは難しいと書いてあったが、他のイラン人の目がなかったからか、それともボディーランゲージでのコミュニケーションで仲良くなれたからなのか、すんなり写真を撮らせてもらえた。楽しく過ごせたのだが、予定時間を大幅にオーバーしてしまったので、バーザールに行くのを止め、そのまま「エマーム広場」に向かった。

「Esfahan Museum of Contemporary Art」(エスファハーン現代芸術美術館)
http://www.irantour.org/Iran/city/Esfahan%20Museum.html


Dsc09474Dsc09480Dsc09481Dsc09482Dsc09492Dsc09490

「チェヘル・ソトゥーン庭園博物館」、「自然史博物館」(写真左)を左に見て、右折。「セパー通り」を東に進む。ここのあたりは、金融街なのだろうか。「Bank Mellot」(写真中)、「Bank Sepah」(写真右)、「Bank Melli Iran」(写真下左)と、銀行の巨大な建物が並ぶ。150mほど歩くと、「エマーム広場」だ。広場の手前に回廊への入り口がある(写真下中)。非常に細かく、かつ美しいタイルのデザインに驚かされる(写真下右)。

Dsc09518


広場に出ると、想像していた以上に広く美しい。緑の芝生に黄色い花、ブルーのモスクにイーワーンなど、どこを見ても魅了される(写真)。この「エマーム(指導者)の広場」は、縦510m、横163mの長方形をしており、イスラーム革命以前は「王の広場」と呼ばれ、「ナグシェ・ジャハーン広場」(「全世界の図」の意味)の別名を持つ。「有名な「エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン(エスファハーンは世界の半分)」という言葉はこの広場のためにあるといわれるとおり、広場そのものが巨大な美術品かオープン・ミュージアムの様相を呈している」(「地球の歩き方2009~2010年版・イラン」より)。

Dsc09507Dsc09526Dsc09542


広場の周りには、「アーリー・ガープー宮殿」(写真左)、「マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラー」(写真中)、「マスジェデ・エマーム」(写真右)の有名な建築物が建ち、回廊部分には、絨毯、宝飾品、陶器類などを売る店が軒を連ねる。15:30を過ぎても、ツアーの人達は来ないので、広場全体の写真だけでなく、「アーリー・ガープー宮殿」、「マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラー」、「マスジェデ・エマーム」の前まで行って写真撮影を楽しむ。15:45頃、ツアーの集団の姿が見えたので、待ち合わせ場所である「アーリー・ガープー宮殿」の前に向かった。

ウィキペディア・フリー百科事典(エスファハーン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B3
ウィキペディア・フリー百科事典(イマーム広場)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A0%E5%BA%83%E5%A0%B4


Dsc09543


ツアーメンバーと合流した後、最初に訪ねたのは「アーリー・ガープー宮殿」(写真)であった。「アーリー・ガープー」とは「至高な門」を意味し、ザーヤンデ川に向かって広がる宮殿地域への正門であった。この宮殿は、「16世紀末にアッバース一世が創建したが、50年にわたる度重なる増築により宮殿は上へ前へ横へと伸び、階が入り組んだ複雑な構造の高層建築となった」(「すぐわかるイスラームの美術」より)。高さ48mの7階建で、「1~2階はアッバース1世の時代に、バルコニーと3~7階はアッバース二世の時代に造られた、イランで最初の高層建築」(「地球の歩き方2009~2010年版・イラン」より)である。

Dsc09627Dsc09632Dsc09630Dsc09653

「広場側の1・2階を吹き抜けた門は後方の宮殿地域への入り口であり、3・4階を吹き抜けたターラール(高い柱の並ぶテラス)は広場で行われる競技や催しの観覧席であった」(「すぐわかるイスラームの美術」より)(写真左・右)。「バルコニー中央には大きな池があり、18本の柱が屋根を支えている。かつてシャーがポロ観戦を楽しんだというその眺めは素晴らしい(写真下左)。正面にマスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラーが構え、エマーム広場の全容はもちろん、遠くマスジェデ・ジャーメまでも望める。かつては、庭園を通ってチェヘル・ソトゥーン宮殿に行けるようになっていたという」(「地球の歩き方2009~2010年版・イラン」より)。
ちなみに、昨晩購入したミニアチュールは、広場でポロ競技が催されている様子が描かれている(写真下右)。

Dsc09672Dsc09674Dsc09676Dsc09677Dsc09679Dsc09690

「宮殿内部は同時代の著名な細密画師、レザー・アッバースィーによるミニアチュールで美しく飾られている。最も興味深いのは、音楽鑑賞室として使われていたという最上階だ(写真)。天井部分の装飾的な穴は演奏の際に余分な音を効果的に吸収し、美しい演奏を楽しむために計算されて開けられたもの」「木製にも見えるが、良く見ると漆喰で造られている」(「地球の歩き方2009~2010年版・イラン」より)。「着彩ストゥッコのムカルナスが連続し、幻想的な空間を生み出」(「すぐわかるイスラームの美術」より)している。ちなみに、ここで我々のガイドが歌を披露してくれた。もちろん我々に音響効果を体感させるためである。

ウィキペディア・フリー百科事典(アーリー・ガープー宮殿 / アリカプ宮殿[英語版 : Ali Qapu])
http://en.wikipedia.org/wiki/Ali_Qapu


Dsc09529


次に向かったのは、中庭を挟み、アーリー・ガープー宮殿の東側に建つ「マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラー」(写真)である。王族専用のモスクで、アッバース一世の命により18年かけて建造された。マスジェデメエマームと並ぶサファヴィー朝建築の傑作で、モスク全体がほぼ当時のまま残っている。レバノンの著名な説教師、シェイフ・ロトゥフォッラーを迎えるために造られたモスクであることから、彼の名が冠せられた。「アッバース一世は後に彼の娘と結婚した。王族だけが使用するマスジェドなので、こぢんまりとした造り。中庭やメナーレがないことが大きな特徴だ」(「地球の歩き方2009~2010年版・イラン」より)。

Dsc09587Dsc09639Dsc09733Dsc09734Dsc09741Dsc09744

「このマスジェドで特筆すべきはその美しいモザイク模様。ドームの外部、内部ともに絵柄が描かれたタイルではなく、小さな彩色タイルをモザイク状に並べることでさまざまな柄ができている。1601年の着工から完成まで17年かかったというのはうなずける」(前掲書より)。玄関口のモザイクは1603年に出来上がっていたようだが、建物全体の装飾が終わったのは1919年であったとの事。

Dsc09768

Dsc09759Dsc09780Dsc09786Dsc09777Dsc09769Dsc09763

壁に書かれているカリグラフィーなどは、当時有名であったカリグラファーでミニアチュリストの「アリ・レザー・アツバシィ」の手によるもの。ドームの装飾には工夫が凝らされており、釉をかけたタイルと、釉をかけていないタイルの2種類が使われている。背景になる部分には釉がかけられていないタイルを、そしてレモン形をした唐草模様デザインの部分には釉をかけたタイルが用いることで、天窓から入る太陽の光を生かし、幻想的なムードを作り出している(写真中段・下段)。さらに面白いのは、見る角度によって、ドームの頂点から入る光が彗星のように尾を引いて見える事だ(写真上段)。これを見ていると、「内部から見たドーム天井の模様は、華麗な孔雀の羽を思わせる」(「地球の歩き方2009~2010年版・イラン」より)という感想に納得だ。


ウィキペディア・フリー百科事典(マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラー[英語版 : Sheikh Lotf Allah Mosque] / シェイク・ロトフォラー・モスク)
http://en.wikipedia.org/wiki/Sheikh_Lotf_Allah_Mosque
ウィキペディア・フリー百科事典(アリ・レザー・アツバシィ[英語版 : Reza Abbasi])
http://en.wikipedia.org/wiki/Reza_Abbasi


Dsc09542


最後に訪れたのが、「マスジェデ・エマーム」(写真)である。イスラーム革命以前は「マスジェデ・シャー」と呼ばれており、100m×130mの規模を誇る壮大な寺院だ。1611年から約20年かけて造られた、サファヴィー朝時代を代表する建築物である。「すぐわかるイスラームの美術」によると、「キブラを合わせるために建物本体は広場の入り口から四十五度傾いた形に建設されている。中央の中庭のまわりに四イーワーンが建設され、ミフラーブの直前に巨大な二重殻ドームが配されている。五百年ほど前に大モスクで出現した新しい特徴が成熟した形で王のモスクに示されている。さらに内外の壁面は精緻なデザインを多色で描いたタイルで覆われ、建築装飾の点でも完成された美を呈する」との事。

Dsc09560Dsc09558_2Dsc09559Dsc09570Dsc09568Dsc09569

広場に面したエイヴァーンが入口。ここから入る。エイヴァーンの下から見上げると、ムカルナスが素晴らしい。彩色タイルとカリグラフィーによる装飾が美しい。これは、「建設者のオスタード・アリー・アクバル・エスファハーニーが自費で建てたもの。完成に5年を要したという。入口の上にはモザイク文字で、上段には大帝の名と完成年(1616年)が、下段には建造者の名が記されている」(「地球の歩き方2009~2010年版・イラン」より)。

Dsc09810Dsc09813Dsc09815


エイヴァーンをくぐって中に入り、左手に進むと、エイヴァーンとドームの先が見える。先ほども触れたが、メッカの方に向けるため、建物本体は広場の入り口から四十五度傾いた形に建設されているのだ。薄暗い回廊を20~30m歩くと中庭に出る。

Dsc09842Dsc09824

Dsc09866Dsc09871Dsc09846Dsc09828Dsc09845Dsc09857Dsc09852Dsc09834Dsc09843


ここからは、建物本体が正面に見える。強い日差しを避けるためであろう。中庭にテントが張られていたので、景観がイマイチなのは残念である。池の横を通り、建物本体のエイヴァーンの奥に進むと中央礼拝堂がある。「7色の彩色タイルで覆われた天井ドームは息をのむほどの美しさだ。このドームの外側のドームの高さが54m、内側は38mと二重構造になっている。このため、かなり小さな音でも様々に反響し、建物全体にこだまする。中央の床の真ん中に埋められている床石を踏み鳴らしてみるとよくわかる」(「地球の歩き方2009~2010年版・イラン」より)。床石の周りには多くの人が集まり、少し遅れて鳴り響く音を楽しんでいた。

ウィキペディア・フリー百科事典(マスジェデ・エマーム[英語版 : Masjed-e Imam] / イマーム・モスク)
http://en.wikipedia.org/wiki/Masjed-e_Imam


17:45、「エマーム広場」の観光ポイントである「アーリー・ガープー宮殿」、「マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラー」、「マスジェデ・エマーム」の3カ所を見終えたところで、19:00まで自由時間になった。1時間少々あったので、「エマーム広場」から北西へ300~400m離れたところに建つ、「マスジェテ・ハキーム」に行くことにした。

(参考文献)
・「地球の歩き方2009~2010年版・イラン」(地球の歩き方編集室編)[ダイヤモンドビッグ社刊]
・「すぐわかるイスラームの美術」(桝屋友子著)[東京美術刊]
・「イスラーム建築の見方」(深見奈緒子著)[東京堂出版刊]
・「Iran Esfahan」(M.Abdollahi)[Elam Publication刊]


June 23, 2010

チェヘル・ソトゥーン庭園博物館とマスジェデ・ジャーメ

イラン・ペルシャの旅(第19回)

Dsc08962Dsc08966Dsc08968Dsc08976Dsc08980Dsc08978

ヴァーンク教会を出て次に向かったのは、「チェヘル・ソトゥーン庭園博物館」だ。ヴァーンク教会の北東約2.5km、エスファハーンの街の中心に位置する。アルメニア人が住んでいた地区から街の中心に行くには、ザーヤンデ川を渡らなければならない。11ある橋のうち、どの橋を渡るのかと思っていたら、「フェルドウスィー橋」であった。以前お話ししたが、この川に架かっている橋すべてが車の通れる橋ではないのだ。バスは橋の中央で一時停止する。左側に今朝訪ねた「スィー・オ・セ橋」(写真左)が、右側には「チュービ橋」(写真中)が見える。ここで写真撮影。その後橋を渡り、「Ostan-dari通り」を北に進んで「チェヘル・ソトゥーン庭園博物館」の東側にバスは停まる。
庭園の入り口付近には、大勢の子供達がいた(写真右)。この入口は、正面にある「庭園博物館」(写真下左)だけでなく、右手に建つ「自然史博物館」と共通で、彼らは「自然史博物館」(写真下中)に行っていたようだ。建物の前には実物大の巨大な恐竜のレプリカが並んでいる(写真下右)。子供達には、人気の博物館かもしれない。

Dsc08983Dsc08990

我々は通路を真っ直ぐ進み、「庭園博物館」に入った(写真左)。ゲートを抜けると、イスラム式庭園が広がる(写真右)。庭自体はアッバース一世時代に造られたもので、アーリー・ガープー宮殿までつながっていたという。現在の地図を見ると、それぞれがバラバラに位置するように見えるが、当時は有機的一体として機能していたのだ。

Dsc08999Dsc09001

Dsc09005Dsc09003Dsc09004


かつては宮殿の東と西に、長さが100m以上の大きな池があり、その周囲には小さな池や水路があったという。現在、入口正面に見られる池は、東側にあったものだ。池の向こう側に建つ宮殿(写真左)は、1647年、アッバース二世によって建てられたもので、宮殿の玄関口は巨大な20本の柱で支えられている(写真右・下段)。柱は糸杉製で、現在はこれだけしか見ることができないが、建築当時、柱のすべてが金銀の鏡で覆われていたようだ。チェヘル・ソトゥーンとは「四十の柱」という意味。実際の柱は20本しかないのだが、正面の池に映る柱と合わせて40本になることが由来らしい。素晴らしいものを表す時に「40」という数字を使う慣わしがあるので、この宮殿を名付ける時に「40」を用いたのであろうとの事。

Dsc09007Dsc09032Dsc09035


この宮殿は、迎賓館として客人をもてなすために使われたが、現在は博物館になっている(写真)。建築様式は伝統的なもので、中央の大きなホールを幾つもの小さな部屋が取り囲む構造で、東西南北の四方向に小さなエイヴァーンが設けられている。王座の置かれているホール(王座の間)には、6枚の歴史画が掲げられている。西壁には左から、

Dsc09067Dsc09038Dsc09040


・タフマースブ一世がムガール朝の王子フマーユーンをもてなす宴(写真左 : 修復中)
・イスマーイール一世とオスマン軍との戦い(写真中)
・アッバース一世がアシュタルハーン朝のヴァリ・モハンマド・ハーンをもてなす宴(写真右)

が描かれ、東壁には左から

Dsc09040_2Dsc09036Dsc09041


・アッバース二世がアシュタルハーン朝のナーデル・モハンマド・ハーンをもてなす宴(写真左)
・インドのカルナルでの戦い(写真中)
・イスマーイール一世の軍勢がターヘルアーバードでシャイバーニー朝軍を打ち負かす様子(写真右)

が描かれている。

その他にも、ミニアチュールやコーラン、陶器類などが展示されていた。その中からいくつかご紹介する。

Dsc09099Dsc09070Dsc09072Dsc09080Dsc09085Dsc09090Dsc09068Dsc09101Dsc09104


・茶碗(磁器製 : 16世紀)(写真上段左)
・コーラン(紙製 : 18世紀) (写真上段中)
・天文観測儀(銅製 : 1654年)(写真上段右)
・男性用衣装(シルク、錦織 : 15世紀)(写真中段左)
・帽子(木製、織物と銀で装飾 : 13世紀頃)(写真中段中)
・蝋燭立(陶器製 : 10世紀)(写真中段右)
・結婚契約書(写真下段左)
・お祈り用の敷物(ウール製 : 15世紀)(写真下段中)
・皿(磁器製 : 16世紀)(写真下段右)

ミニアチュール(写真)
Dsc09111Dsc09113Dsc09114

ウィキペディア・フリー百科事典(チェヘル・ソトゥーン宮殿[英語版 : Chehel Sotoun] / チェヘル・ソトン宮殿)
http://en.wikipedia.org/wiki/Chehel_Sotoun


Dsc09252


約45分で見学を終え、次の目的地である「マスジェデ・ジャーメ(金曜モスク)」(写真)に向かった。「マスジェデ・ジャーメ」は、西暦771年に建設されたエスファハーンで最も古いモスクで、チェヘル・ソトゥーン宮殿の北東3kmのところに建つ。10世紀後半、ブワイフ朝の時代に建物の大幅な拡張が行われ、教室、図書室、宿泊施設のほか、出入り口には2本の新しいミナレットが造られた。その後増改築が繰り返されたため、現在およそ165m×140mの規模を誇り、随所に様々な時代の建築様式、タイルワークなどが見られる。

Dsc09157Dsc09170Dsc09172


バスを降りてから、バーザールの中を250mほど歩く(写真)。工事中で屋根のないところも通ったため、強い日差しを浴び少し疲れる。15分ほど歩き、ようやくモスクの入口に到着した。

Dsc09338Dsc09188Dsc09193


バーザールに面した南東側からモスクに入る(写真左)。この入口に設けられたエイヴアーンはカージャール朝期のもので、このモスクで最も新しい建造物のようだ。通路をまっすぐ進み(写真中)、広場に出る手前を左に曲がると、礼拝室がある(写真右)。

Dsc09196Dsc09203Dsc09204Dsc09209Dsc09215Dsc09218

「ムザッファル朝期に建てられた部分で、このマスジェデ・ジャーメには古くは創建されたブワイフ朝期からサファヴィー朝期まで各時代に拡張された礼拝堂が現存しているが、そのほとんどは茶色のレンガで造られた小さなドーム形天井を、多数の列柱が支える様式。ドーム天井には全部で484もの異なった建築様式が用いられているという」(「地球の歩き方2009~2010年版・イラン」より)。
礼拝室は25,000㎡の広さがあり、当時ここでは礼拝だけでなく、政治や経済などを話し合う集会場として、また病院代わりに使用されたこともあるという(写真)。天井に使われているレンガは日干しレンガで、現存するものはほぼオリジナルである。アーチ型の建築は1,700年ほど前から始まったが、ササン朝時代のゾロアスター教の礼拝室は、4つの柱、4つの壁、そして拝火壇から出来ていたので、比較的小さなものであったが、イスラム教になってからは、多くの信者が集まって礼拝できるようにするため、規模の大きなものが建てられるようになったとの事。

Dsc09249Dsc09257Dsc09246Dsc09258

列柱の並ぶ礼拝室を抜けて中庭に出ると、四方にエイヴァーンが目に飛び込んできた。「それぞれ名前が付いており、北東はソッフェイェ・ダルヴィーシュ(托鉢僧のテラス : 写真上左)、南東はソッフェイェ・シャーゲルド(弟子のテラス : 写真上右)、南西はソッフェイェ・サーヘブ(主のテラス : 写真下左)、北西はソッフェイェ・オスタード(師のテラス : 写真下右)」(「地球の歩き方2009~2010年版・イラン」より)との事。これらが建築されたのは「1121年から1220年ごろにかけてであるが、建築過程やその理由についてはあまり明らかになっておらず、それぞれのスタイルや建築様式の差異から同時にではなく順番に建てられたものであると考えられている。また、建築されたものはそれまでのイスラーム世界で見られた古典的なイーワーンスタイルではなく、建物との区別をつけるための四角い枠取りが行われた新しいスタイルのイーワーンであった」(「ウィキペディア・フリー百科事典(エスファハーンの金曜モスク)」より)ようだ。

Dsc09260


このイーワーン(エイヴアーン)を設けるスタイルは、「ペルシャ風の建築」と言われている。「ペルシャ風の建築とは、四つのイーワーン、すなわちチャハール・イーワーン形式と呼ばれる。中庭各辺の中央に四つあるいは二つのイーワーンを対称的に配し、中庭の分節に躍動感を与えたのである。それまでの初期イスラーム時代のアラブ風建築では、多柱式モスクの中庭ファサード(立面)を見れば明らかなように、均等なアーケードを繰り返す単調な中庭が通例であった。大きなアーチが立ち上がることによって、その雰囲気はずいぶん変わった。タダシ、チャハール・イーワーン、すなわち四つのイーワーンを中庭に対称配置することは、中世イスラーム建築の発案ではなく、紀元前後のメソポタミア地方の宮殿建築に遡る」(「イスラーム建築の見方」より)との事。

Dsc09194


また南西と北東に、ドームが対で建っているのも特徴的である。「南のドームは1086年から1087年にかけてセルジューク朝第3代スルタンのマリク・シャーとその宰相ニザーム・アル・ムルクによって建てられたもので、高さ20メートル、直径10メートルという大きさは当時のイスラーム世界では最大の規模を誇るドームであった。同時にイランにおける初の本格的なドームを備えたモスクとなり、建築史上においても大きな意味を持った。北のドームは1088年にニザーム・アル・ムルクの政敵であったタージ・アル・ムルクによって建てられた」(前掲「ウィキペディア・フリー百科事典」より)という。「ミフラーブの前のドームは以後イランのモスク建築の伝統となったが、反対側のドームはモスクの建物から離れた独立構造(現在はモスクの増築により屋根続きとなっている)で、その機能は謎に包まれている」(「すぐわかるイスラームの美術」より)との事。

Dsc09261Dsc09263Dsc09282


中庭を見た後、北西のエイヴァーンの北側にある小さな扉から部屋に入った(写真左)。中には漆喰造りの見事なミフラーブとミンバルがある(写真中)。13世紀、イル・ハン時代に作られたもので、木製のように見えるが、すべて漆喰で作られているという。ただし特製の漆喰なので、石のように硬く固まっているとの事。さらに奥に進むと、ティムール朝時代に建てられた冬用の祈りの間がある(写真右)。

ウィキペディア・フリー百科事典(エスファハーンの金曜モスク / ジャメ・モスク)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%81%AE%E9%87%91%E6%9B%9C%E3%83%A2%E3%82%B9%E3%82%AF


Dsc09341Dsc09343Dsc09348Dsc09161Dsc09368Dsc09360

12:28、約40分で見学を終え、再びバーザールを歩いてバスに戻る。バーザールでは色々なものが売られていたが、中でも子供服の売り方が面白い。マネキンに子供服を着せ、吊るして並べられているのだ(写真上段)。最初に見た時は、着せ替え人形を売るおもちゃ屋かと思ってしまった。香辛料が大きな袋に入れて並べられていたり(写真下左)、カバンや靴が通路に突き出て吊るされている(写真下中)光景は、他の国のスークやバーザールでも見かけるが、子供服を着たマネキンが吊るされているのは初めてである。その他に気になったのが、緑色の小さな丸い実が売られていた事だ(写真下右)。ガイドに訊ねると、「アルチェ」という名前の甘酸っぱい果物だと言っていた。

Dsc09379Dsc09382Dsc09385


バーザールを15分ほど歩き、12:46、バスに乗車。これから昼食である。バスで約15分、宿泊しているホテルの西側、150mほど離れたところに建つレストラン「Shahrzad (シャフルザード)」に到着した(写真)。階段を上り2Fに進むと、そこは宮殿内部のように美しい内装だ。地元のイラン人だけでなく、旅行客にも人気のお店らしく、結構賑わっていた。

メニューは次の通り。
Dsc09388Dsc09389Dsc09391Dsc09395

・サラダ (写真左)
・スープ(写真中左)
・タ・チーン(ターメリックやサフランを使って焼き上げたケーキ型のごはん)(写真中右)
・紅茶と菓子(写真右)

14:00過ぎに昼食を終え、15:30まで自由行動になったので、荷物などを置くためホテルに戻ることにした。

(参考文献)
・「地球の歩き方2009~2010年版・イラン」(地球の歩き方編集室編)[ダイヤモンドビッグ社刊]
・「Iran Esfahan」(M.Abdollahi)[Elam Publication刊]
・「すぐわかるイスラームの美術」(桝屋友子著)[東京美術刊]
・「イスラーム建築の見方」(深見奈緒子著)[東京堂出版刊]


June 16, 2010

ヴァーンク教会とアルメニア博物館

イラン・ペルシャの旅(第18回)

6日目 : 5月25日(火)[晴れ]

6:15 起床
7:00~7:35 朝食
8:35 バスで出発
8:40~8:55 スィー・オ・セ橋を徒歩で渡る
9:16~9:29 ヴァーンク教会
9:30~10:00 アルメニア博物館
10:25~10:26 フェルドウスィー橋で写真撮影のため一時停止
10:33~11:15 チェヘル・ソトゥーン庭園博物館
11:30~12:28 マスジェデ・ジャーメ
13:10~14:00 シェラザード・レストランで昼食
14:05 ホテル到着
14:15 外出(「装飾芸術博物館」、「細密美術博物館」)
15:25 エマーム広場
15:45 ツアーと合流
15:50~16:27 アーリー・ガープ宮殿
16:32~16:50 マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラー
17:05~17:45 マスジェデ・エマーム
17:45~18:55 自由行動(「マスジェデ・ハキーム」、「バーザーレ・ゲイサリーイエ」)
19:05~20:25 レストランで夕食
20:25~21:00 ライトアップされたエマーム広場を見学
21:10 ホテルに到着
21:10~22:15 入浴、資料整理
22:15 就寝


Dsc08796Dsc08797Dsc08800


本日は、「ペルセポリス」と並ぶイラン観光のメインである「エマーム広場」に行く予定だ。昨晩が遅かったこともあり、6:15に目覚める。中途半端な時間だったので、朝の市内散策は中止。7:00からレストランで朝食を頂き(写真)、8:35、バスで本日の観光に出かけた。

Dsc08848Dsc08846

Dsc08808Dsc08810Dsc08811Dsc08825Dsc08831Dsc08838

最初に訪れたのは「スィー・オ・セ橋」である。昨晩ライトアップしたこの橋を見たが、明るい時に見ると、また違った雰囲気だ。バスを降りて、歩いて橋の向こう側に渡る。前回もお話しした通り、エスファハーンの街の中心を流れるザーヤンデ川には11の橋が架かっているが、その中でも「スィー・オ・セ橋」はメインと言って良い。夜と違い、橋を渡る人々も忙しそうだ。通勤途上なのだろうか。橋の中央から川の西側を見ると、水が噴き出し、その先には小さな虹が出来ている。橋を渡ると、昨日訪れた「ハージュ橋」同様、川辺の緑の公園が続く。休日や夕方には、憩いを求めて多くの人がやってくるのだろう。ところで、公園側から少し離れて橋を見ると、全体を見渡す事ができた。橋の名の通り(「スィー・オ・セ」とは「33」を意味する)、橋上部のアーチが33あることが分かる。この美しい橋の眺めをしばらく楽しみ、8:55、次の目的地である「ヴァーンク教会」に向かった。

ウィキペディア・フリー百科事典(スィー・オ・セ橋[英語版 : Si-o-se Pol])
http://en.wikipedia.org/wiki/Si-o-se_Pol


「ヴァーンク教会」はザーヤンデ川の南、「ジョルファー地区」に位置する。前回少し触れたが、「17世紀初頭、アッバース一世がアルメニア人の優れた職人や商人を呼び寄せたのがその始まり。「ジョルファー」というのは、現在アゼルバイジャン共和国との国境に位置する彼らの故郷の町の名である。ここには6万人ものアルメニア人が住んでいた時期もあったといわれている。アッバース一世は、エスファハーンの栄光に寄与する彼らに信仰の自由を与えたため、独自のキリスト教世界が作られた」(「地球の歩き方2009~2010年版・イラン」より)。

Dsc08862Dsc08879Dsc08878


9:00過ぎ、教会の近くでバスを降り、細い道を南に200mほど歩くと(写真左)、教会の入り口に到着(写真中・右)。この界隈には最も古いベツレヘム教会をはじめ13のアルメニア教会があるが、「ヴァーンク教会」は最も大きく、最も良く知られている教会だ。1605年の創建で、現在の建物は1655年に再建されたものである。ゲートから受付を通ると、右手に「大聖堂」、左手手前には「アルメニア人大虐殺記念碑」が、そしてその奥に「アルメニア博物館」が建つ。

Dsc08882Dsc08896Dsc08893

最初に「大聖堂」を訪ねる。外観は、マスジェドを思わせるドームがあるので、イスラム教寺院(モスク)と間違えてしまいそうだが、良く見ると、ドームや鐘楼の先端に十字架が立っており、モスクではないことを示している(写真左)。しかし大聖堂に近づくと、ミフラーブに似たくぼみがあり(写真中)、入口の上はムカルナスで飾られる(写真右)など、上手くイスラム教世界に溶け込ませた建物になっていることが良く分かる。

800pxvank_paintings


内部は荘厳な雰囲気で、壁のデザインは大きく3種類に分かれる。一番下は床から1~2mぐらいまでで、イスラム式のタイル装飾、それより上の中段部分は花がメインのアルメニア独特のデザイン、そして最上部には旧約聖書の場面やアルメニア人にとっての聖人画などが描かれている。さらに天井部分はイスラム式のタイルで飾られていた。写真撮影が禁じられていたので、同教会で購入した絵葉書と、ウィキペディア・フリー百科事典(ヴァーンク教会[英語版 : Vank Cathedral])から内部の様子をご紹介する。

Dsc09644Dsc09646Dsc09643Dsc09647Dsc09645Dsc08928800pxvank_cathedral_interior800pxinside_the_armenian_cathedral_


1. 最後の審判(絵葉書より : 写真上段左)
2. イエスの誕生(絵葉書より : 写真上段中)
3. キリスト降架(絵葉書より: 写真上段右)
4. キリスト昇天(絵葉書より: 写真中段左)
5. 最後の晩餐(絵葉書より: 写真中段中)
6. 外から写した教会の内部(写真中段右)
7. 天井部分(ウィキペディア・フリー百科事典より: 写真下段中)
8. 内部の様子(ウィキペディア・フリー百科事典より: 写真下段右)

ウィキペディア・フリー百科事典(ヴァーンク教会 / アルメニア・ヴァンク教会)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%AF%E6%95%99%E4%BC%9A
ウィキペディア・フリー百科事典(ヴァーンク教会[英語版 : Vank Cathedral])
http://en.wikipedia.org/wiki/Vank_Cathedral
ウィキペディア・フリー百科事典(アルメニア教会)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%8B%E3%82%A2%E4%BD%BF%E5%BE%92%E6%95%99%E4%BC%9A
ウィキペディア・フリー百科事典(非カルケドン派正教会)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%83%89%E3%83%B3%E6%B4%BE#.E9.9D.9E.E3.82.AB.E3.83.AB.E3.82.B1.E3.83.89.E3.83.B3.E6.B4.BE.E6.AD.A3.E6.95.99.E4.BC.9A


Dsc08956_3450pxarmenian_genocide_memorial2c_m

教会内部の素晴らしいアートを鑑賞した後、「アルメニア人大虐殺記念碑」を見る(写真左)。1915年、オスマン・トルコによって行われたアルメニア人大虐殺の記念碑である。「アルメニア人虐殺問題」は、19世紀末から20世紀初頭のオスマン帝国において、帝国の少数派・辺境住民であるアルメニア人に対して、多数派のムスリム(イスラム教徒)住民たちが行ったとされる迫害事件を巡る問題のことで、二度にわたり、オスマン帝国領内でアルメニア人に対する大規模な迫害が起こったことは歴史的事実として知られているという。二度目の虐殺は、第一次世界大戦中の1915年から1916年にかけて行われたもので、数百万人単位の犠牲者が出たとも言われていることから、「アルメニア人虐殺」といえば、この二度目の虐殺を指す事が多いようだ。ここに建てられた碑も、この第二回目の虐殺を記念したものであるが、この地「エスファハーン」とは全く関係がない。ちなみにこのような記念碑はイランだけでなく、アメリカ、フランス、スペイン、シリア、レバノンなと゜各国に建てられているようだ(写真右 : ウィキペディア・フリー百科事典(アルメニア人大虐殺記念碑のリスト)より・米国カリフオルニア州の碑)。

ウィキペディア・フリー百科事典(アルメニア人大虐殺記念碑のリスト[英語版 : List of Armenian Genocide memorials])
http://en.wikipedia.org/wiki/Armenian_Genocide_memorial
ウィキペディア・フリー百科事典(アルメニア人虐殺問題)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%8B%E3%82%A2%E4%BA%BA%E8%99%90%E6%AE%BA%E5%95%8F%E9%A1%8C


Dsc08936_2Dsc08939Dsc08941


続いて訪れたのは「アルメニア博物館」だ。ヴァーンク教会の敷地内にある博物館で、エスファハーンに移住したアルメニア人が、いかにして信仰と文化を守ってきたかを伝えている。入口の両脇には胸像が立っている(写真左)。正面向かって右側が、アルメニア文字を作った「S.T.メソロップ・マシュト」 (361~441年)(写真中)で、左側はアルメニアに印刷技術を導入した「カチャトゥール・ヴァルグベッド・セセラ」 (1590~1646年)(写真右)だ。台座に名前が書かれているのだが、アルメニア文字だったので、博物館の館長と呼ばれていた人物に読んでもらったものを筆記したため、正しく表す事が出来ているか少し自信がない。

ウィキペディア・フリー百科事典(メスロプ・マシュトツ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%B9%E3%83%AD%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%88%E3%83%84


館内には、大小様々な聖書のほか、印刷機、アルメニアの民族衣装、陶器、レンブラントのデッサンなどが展示されている。これらの中で見逃せないのが、「0.7mgの聖書」と「聖書の言葉を記した髪の毛」だ。館内は写真撮影が禁じられていたので、お見せすることができないのは残念だが、それぞれ簡単にご紹介する。

まず「0.7mgの聖書」だが、虫眼鏡で拡大して見るように展示されている。展示解説によると、世界最小の本で、重さは0.7mg。ハジャットという人物によって著されたものだが、出版時期は不明。14ページあり、7言語でキリストの祈りの言葉が書かれている。

1. 英語 : The Lords Prayer
2. アルメニア語 : The Lords Prayer
3. ドイツ語 : Das Vater Unser
4. オランダ語 : Het Onze Vader
5. スペイン語 : El Padrenuestro
6. スウェーデン語 : Fadervar
7. フランス語 : Le Notre Pere

何故この7言語で書かれたのかは不明。また、この聖書について、「printed in German」と解説されていたのだが、「print=印刷」という意味ではないと思われるので、ドイツで「出版」されたと解すべきなのであろう。しかし、次にお話しする「聖書の言葉を記した髪の毛」があるぐらいだから、「印刷」も不可能ではないかもしれない。

次は「聖書の言葉を記した髪の毛」である。顕微鏡を覗き込むように展示されている。太さ0.1mm、18~20歳の女性の髪の毛で、1974年にテヘランで発見された。文字は、5世紀、先ほど紹介した「S.T.メソロップ・マシュト」が、アルメニアに招かれた時に、髪の毛の二十分の一の太さのペン先を持つダイヤモンドタンプのペンで書いたとの事。書かれている内容は次の通り。
「TO KNOW WISDOM AND INSTRUCTION : TO PRECEIVE THE WORDS OF UNDERSTANDING」

30分ほどの見学であったが、私にとっては非常に楽しいものであった。

教会の出入り口のそばに売店があったので、参考書籍を求めるため訪ねてみると、ペルシャコインについて書かれた本を見つけた。12米ドルと安かったので、即購入。英語版と思っていたのだが、バスに乗ってからジックリ見ると、表紙は英語で書かれているが、中はすべてペルシャ語であった。一瞬戸惑ったが、オールカラーなので参考資料としては非常に有益。手持ちのペルシャコインの書籍と併用すれば十分活用できるであろう。
10:05、バスで次の目的地である「チェヘル・ソトゥーン庭園博物館」に向け出発した。

(参考文献)
・「地球の歩き方2009~2010年版・イラン」(地球の歩き方編集室編)[ダイヤモンドビッグ社刊]


June 15, 2010

ペルシャ絨毯とミニアチュール

イラン・ペルシャの旅(第17回)

Dsc08656


20:50、希望者だけ夜のツアーに出かけた。バスは使わずに歩いて廻る。ホテルを出て北に向かう。ライトアップされた「マドラセイエ・チャハール・バーグ」が美しい(写真)。暗闇にペルシャ・ブルーのドームが浮かびあがる。

我々が最初に訪れたのは、ここから東へ20~30m先に建つ「アッバースィー・ホテル」だ。このホテルは、「マドラセイエ・チャハール・バーグ」のキャラバンサライを改造して造られたホテルで、5つ星を得ている。前回少し触れたが、「マドラセイエ・チャハール・バーグ」と同じく、サファヴィー朝最後の王、スルタン・ホセイン(在位1694~1722年)の母によって建てられたもので、ここで上げた収益を「マドラセイエ・チャハール・バーグ」の財源に充てたとの事。ホテルへの改築は、1960~1967年、フランス人オリエンタリストで建築家の「Andre Godard氏」の指揮の下、イランの保険会社「Bimeh Iran」の資本で行われた。ホテルそのものが歴史的また文化的遺産と考えられており、「生きている美術館」とも呼ばれているようだ。

Dsc08664Dsc08720Dsc08712Dsc08711Dsc08715Dsc08713

なかに入ると、広い空間を確保したロビーがゆったり感を与えてくれる(写真左)。天井は煌びやかなタイルで飾られ(写真中)、床は花模様でデザインされている(写真右)。壁には、幾つものペルシャ風人物画が飾られており(写真下左・下中)、すべてをトータルすると、ペルシャとイスラムを融合した独特の雰囲気を味あわせてくれる。客室は、一直線に伸びる廊下の両脇に並ぶ(写真下右)。

Dsc08704Dsc08700Dsc08671Dsc08676Dsc08683Dsc08692

中庭に進むと、いたるところに丸テーブルが置かれ、皆さん食事を楽しんでいた。当然、ライトアップされた「マドラセイエ・チャハール・バーグ」も見える。20分ほどの短い時間であったが、異次元空間を楽しむことができた。次回は是非ここに宿泊したいと思う。

アッバースィー・ホテル
http://www.abbasihotel.com
http://www.tripadvisor.jp/Hotel_Review-g295423-d320767-Reviews-Abbasi_Hotel-Esfahan.html
ウィキペディア・フリー百科事典(ルタン・ホセイン[英語版 : Soltan Hosein])
http://en.wikipedia.org/wiki/Husayn_(Safavid)
ウィキペディア・フリー百科事典(英語版 : Andre Godard)
http://en.wikipedia.org/wiki/Andr%C3%A9_Godard
Bimeh Iran Insurance
http://bimeh-iran.co.uk/site/index.html


Dsc08727Dsc08730Dsc08733Dsc08737Dsc08740Dsc08741Dsc08743Dsc08746Dsc08747


次に訪れたのは、カーペットのお店「CARPET WAREHOUSE」である。お店には、地下ガレージに通じる通路を下りて行く。店内は2つのパートに分かれており、手前の部屋では絨毯を織る様子を見せてくれ、奥の広い部屋では絨毯の販売が行われる。トルコなど、他のイスラム諸国で入ったカーペットのお店と変わらない。夜遅く、機織りの女性がいなかったからであろう。絨毯織りの実演は30秒程の説明で終わり、すぐに絨毯販売の会場に案内された。店主の簡単なあいさつの後、店員達が次から次へと絨毯を広げていく。誰かが興味を示すと、すかさず店員がそのお客の側に行きセールスを始める。しばらくするとチャイが出された。これも他のイスラム諸国の絨毯屋と同じだ。
カーペットについては、トルコのカイセリでトルコ・ブルーの素敵なものを購入していたが、今回はペルシャ・ブルーの素敵なものを購入しようと考えていた。トルコの時は日本に輸入代理店があり、送ってもらっても心配なかったので、玄関マットぐらいの大きさのもの購入したのだが、今回はその場限りで、確実に送られてくるかどうか保証がなかったため、カバンに入る大きさのものを買うことにした。今回購入したのは、主にペルシャ・ブルーを使ってミフラーブをデザインした、花瓶敷きぐらいの大きさのものである。小型のリックサックサイズのかばん一つでイランに来たので、この大きさのものが見つかり丁度良かった。詳しくは分からないが、皆さんも大小様々なカーペットを購入していたようだ。

カーペットのお店(CARPET WAREHOUSE )
http://www.carpetwarehouse-isf.com
ウィキペディア・フリー百科事典(絨毯)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%A8%E6%AF%AF
ウィキペディア・フリー百科事典(イランの芸術)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%81%AE%E8%8A%B8%E8%A1%93


Dsc08751Dsc08755Dsc08773


続いて訪ねたのは、ミニアチュールのお店「Fotowat Miniaturist」だ。カーペットのお店を先に出たツアーメンバーの数人で、お店は混雑していた。ミニアチュールを物色しているのかと思ったら、手の甲にミニアチュールを描く時に使う筆で絵を描いてもらっていた。私はイラン旅行の記念に一品買うつもりだったので、すぐに品定めに入った。ご存知の通り、ミニアチュールには大きく分けて2種類あり、一つは人物、動物、風景などを描いたもの、もう一つは文様やカリグラフィーなどをデザインしたものである。私は前者が欲しかったので色々探してみたのだが、どうしても欲しいというものが見つからなかったので、店主に自信作はどれかと尋ねてみた。すると明日行く予定の「エマーム広場」を描いた作品を見せてくれた。「マスジェデ・エマーム」や「アーリー・ガープ宮殿」、「マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラー」などとともに、広場で馬上の騎士たちが「ポロ」競技をしている場面が描かれている。イランの観光名所の一つが描かれていることから、良い記念になると思ったので、自分へのお土産として購入することにした。私の後から、他の皆さんも値引き交渉などを始めたため、お店を出た時23:00頃になっていた。
次はライトアップした「スィー・オ・セ橋」を見に行く予定だったが、ホテルの前を通ると、数人の人達がホテルに戻った。

ミニアチュールのお店(Fotowat Miniaturist)
http://www.fotowatminiaturist.com
ウィキペディア・フリー百科事典(ペルシアンミニアチュール[Persian miniature])
http://en.wikipedia.org/wiki/Persian_miniature


Dsc08782Dsc08783Dsc08787Dsc08788Dsc08789Dsc08791

残りのメンバーが「スィー・オ・セ橋」(写真)に向かって歩いていると、先ほどホテルに戻った人たち全員が後を追いかけてきた。せっかくだから見に行こうというのである。再び10人前後のメンバーで、橋の方にブラブラと歩いた。
ところで、「ハージュ橋」を訪れた時に、エスファハーンの街の中心を流れるザーヤンデ川には11の橋が架かっているというお話をしたが、その中でもこの「スィー・オ・セ橋」はメインの橋である。1602年、アッバース一世の下、エスファハーンを南北に貫く「チャハール・バーグ通り」をつなぐために造られた橋で、長さは330m、幅が14mある。当時、川の北側は街だったが、南側は畑であった。しかし、エスファハーンの街を造るため、多くのアルメニア人を招いて川の南側に移住させたことから、こちら側にも街が開けたとの事。
ちなみに、「スィー・オ・セ」とはペルシャ語で「33」を意味するが、これは橋上部のアーチが33あることからこの名が付いたのだという。すでに23:00を過ぎていたので、人通りは少なかったが、そのライトアップされた姿は非常に美しかった。約10分ほどであったが、十分ライトアップを楽しみ、橋を離れる。23:35、ホテルに到着。いつもであればこの時間は夢の中だが、本日はこれからシャワーを浴び、資料整理である。結局ベッドに入ったのは00:45であった。

ウィキペディア・フリー百科事典(スィー・オ・セ橋[英語版 : Si-o-se Pol])
http://en.wikipedia.org/wiki/Si-o-se_Pol


(参考文献)
・「地球の歩き方2009~2010年版・イラン」(地球の歩き方編集室編)[ダイヤモンドビッグ社刊]


June 14, 2010

マドラセイェ・チャハール・バーグとハシュト・ベヘシュト宮殿

イラン・ペルシャの旅(第16回)

Dsc08504


最初に向かったのは、ホテルから北に150mほどのところに建つ「マドラセイェ・チャハール・バーグ」(写真)である。すぐにブルーの美しいドームが見えてきた。サファヴィー朝最後の王、スルタン・ホセイン(在位1694~1722年)の母によって建てられたもので、以前は「マドラセイェ・マーダレ・シャ」(王母のマドラセ)と呼ばれていたようだ。ところで彼女は、「マドラセイェ・チャハール・バーグ」の建設資金や運営資金を稼ぐため、隣に「キャラバンサライ」を建てた。現在このキャラバンサライは、「アッバースィー・ホテル」になっている。

Dsc08534Dsc08538Dsc08539


「マドラセイェ・チャハール・バーグ」の入り口は、エスファハーンの街を貫くメイン通りである「チャハール・バーゲ・パーイーン通り」に面している。多くの人通りで賑わっているなか、扉を開けて入ると、外の喧騒が嘘のように静かだ。正面にはイスラム式庭園が広がる。ただし、何故か池に水が張られていない。すると数人の男の子たちが、私に何か話しかけてきた。ペルシャ語だったので分からなかったのだが、一人の男の子が片言の英語で、「本日はクローズしました」と伝えてきた。仕方がないので、記念のため写真を撮っていると、「写真はダメ」との事。残念だったが、そこを離れることにした。

ウィキペディア・フリー百科事典(マドラセイェ・チャハール・バーグ[英語版 : Chahar Bagh School])
http://en.wikipedia.org/wiki/Chahar_Bagh_School
アッバースィー・ホテル
http://www.abbasihotel.com
http://www.tripadvisor.jp/Hotel_Review-g295423-d320767-Reviews-Abbasi_Hotel-Esfahan.html
ウィキペディア・フリー百科事典(ルタン・ホセイン[英語版 : Soltan Hosein])
http://en.wikipedia.org/wiki/Husayn_(Safavid)


Dsc08542Dsc08546Dsc08547


次は、「マドラセイェ・チャハール・バーグ」の北側の回廊であった場所にできた「ハーザーレ・ボナル」を訪れた。エスファハーンで最も貴金属店が集まっているバーザールだ。回廊の入り口だけのことはあり、ムカルナスや壁は、ブルーのタイルで美しく装飾されている。通りに入ると、いきなり金ピカのショーウインドが続く。ネックレスやイアリング、指輪などのほかに、金貨を並んでいた。金は世界相場が立っているので、金貨の値段もそれ相応のものであった。パフラヴィー時代の金貨があったので、記念に1枚購入しようかとも思ったが、今回の旅では少額しかもっておらず、イランの絨毯やミニアチュールも買いたかったので、ここで金貨を買うのは諦めた。

Dsc08548Dsc08551Dsc08553Dsc08555Dsc08556Dsc08557

バーザールを歩いて行くと、金だけではない。銀やブラックパールを売るお店も並ぶ。250mほど歩いたところで、バーザールは終りである。その先には噴水の出ている池があった。ここで休憩を取る人々もいる。振り返って出口側のゲートを見ると、「MUSEUM OF HANDICRAFTS」との表示が目に入った。ここの2F辺りに、手工芸品の博物館があるのだろう。興味はあったが、時間がなかったので先に進んだ。

Dsc08572Dsc08575Dsc08580Dsc08581Dsc08592Dsc08596

次に目指したのは、「ハシュト・ベヘシュト宮殿」である。「Bagh-e Goldaste通り」を南に100mほど歩いて右折すると、先ほどお話ししたキャラバンサライを改装して造られた「アッバースィー・ホテル」が建つ。こちらも中に入りたかったのだが(この日の夜のツアーで入る事ができた)、時間がなかったので諦め、再び「チャハール・バーゲ・パーイーン通り」に戻って北に200mほど進んで右折する。そこにあるのは緑豊かな「シャヒード・ラジャーイー公園」(写真左)だ。この公園のなかに、「ハシュト・ベヘシュト宮殿」(写真中・右・下段)が建っている。「ハシュト・ベヘシュト(Hasht Behesht)」とは、「8つのパラダイス(天国)」という意味で、サファヴィー朝後期の1669年に、シャー・ソレイマーンの命によって建てられた。夏の離宮として、またハーレムとして使われていたという。こちらも19:00にクローズされていたので、中に入ることはできなかった。

Dsc08584Dsc08603Dsc08604Dsc08605Dsc08606Dsc08607

面白いと思ったのは、アーチの隅にデザインされたタイル画だ。植物だけでなく、動物や人間も描かれている点、ペルシャ的である(写真)。

ウィキペディア・フリー百科事典(ハシュト・ベヘシュト宮殿[英語版 : Hasht Behesht])
http://en.wikipedia.org/wiki/Hasht_Behesht


Dsc08633Dsc08636Dsc08641


もう少しゆっくりしていたかったのだが、すでに19:20を過ぎていた。夕食の19:30に間に合うように、急いでホテルに戻ることにした。公園を抜け(写真左)、「マドラセイェ・チャハール・バーグ」(写真中)を見ながら「チャハール・バーゲ・パーイーン通り」を南に進む。途中、ショッピングセンターらしき建物(写真右)があったので、少しだけ覗くが、すぐにホテルに向かう。19:29、何とかホテルに到着した。ホテルのレストランで食べるのだから、少々遅れても問題ないのかもしれないが、時間だけは守りたかったので、ギリギリ間に合いホッとした。

Dsc08645Dsc08647Dsc08648Dsc08650Dsc08651Dsc08652

夕食のメニューは、ナン、スープ、野菜サラダ、焼き魚、デザートのプリンとゼリーであった。約1時間で夕食を終える。この後、希望者だけ夜のツアー、と言っても絨毯やミニアチュールのお店に行くのだが、連れて行ってくれるというので、私も参加することにした。参加希望者は、20:50にロビーに集合するということで解散する。

(参考文献)
・「地球の歩き方2009~2010年版・イラン」(地球の歩き方編集室編)[ダイヤモンドビッグ社刊]
・「イスラムものしり事典」(紅山雪夫著)[新潮社刊]


June 13, 2010

ヤズドのマスジェデ・ジャーメ、バラバード村近くのカナート

イラン・ペルシャの旅(第15回)

Dsc08079Dsc08083Dsc08084


約30分で「アーテシュキャデ(ゾロアスター教寺院)」の見学を終え、次は「マスジェデ・ジャーメ」に向かった。先ほど訪ねた「アミール・チャグマーグのタキーイェ」の北500~600mに位置する。途中、日干しレンガで出来た水のタンクと「風の塔」があったので、写真撮影のため7~8分バスを停めてもらう(写真)。

Dsc08099Dsc08097Dsc08098


9:15、「エマーム・ホメイニ通り」でバスを降り、200~250m北西に歩いて行く。一直線の道なので、正面には「マスジェデ・ジャーメ」が見えている(写真左)。道路の両サイドには、衣料品店や雑貨店、布地を売るお店などが並ぶ(写真中)。珍しいと思ったのは、こちらの数珠が売られていた事だ。白やシルバーのほか、カラフルなものも並べられていた(写真右)。イランでは、お祈りの時に使うのだという。

Dsc08114Dsc08134Dsc08130


「マスジェデ・ジャーメ」の近くまで来ると、修復工事中のため、正面から中に入ることができないことが分かった。仕方がないので、右手にあるバーザールを通り、横の入り口から入ることにした(写真左)。バーザールでは、綺麗に刺繍された壁掛け(写真中)や、美しく絵付けされた陶器(写真右)などが売られていたが、お店を見るのは見学を終えてからだ。

Dsc08126Dsc08119

「マスジェデ・ジャーメ」は、「サーサーン朝時代のゾロアスター教神殿の跡地に14~15世紀にかけて建てられたヤズドのシンボル的寺院。イランで最も高いというメナーレは建造された当時のままに現存し、空高く天を突き刺すさまは見る者を圧倒する。正面入り口やドームのタイルワークはすばらしくイスラーム建築の傑作のひとつに数えられている」(「地球の歩き方2009~2010年版・イラン」より)との事。

Dsc08214Dsc08150

Dsc08145Dsc08152Dsc08210Dsc08159Dsc08162Dsc08166

中庭に入ってすぐ、モスク側のエイヴァーン(イーワーン)の方に歩いて行った。壁面から天井(下段右)まで、カリグラフィーや唐草模様、幾何学模様でデザインされたブルーのタイルで飾られており美しい。正面中央にはミフラーブが見える。こちらはムカルナスと組み合わさることにより、美しさを増している。

ウィキペディア・フリー百科事典(ジャメ・モスク[英語版 : Jameh mosque of Yazd])
http://en.wikipedia.org/wiki/Jame_mosque_of_Yazd
ウィキペディア・フリー百科事典(イーワーン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%B3


Dsc08204


このミフラーブの前で、ガイドがお祈りの仕方を教えてくれた。アラブ人イスラム教徒の祈り方と違いはないように見えるが、イランはシーア派なので、スンニ派の多いアラブ人イスラム教徒のやり方とは、やはり異なるようだ。私にも分かる違いとしては、礼拝した時に頭を床に付けるが、頭の来る位置に「モフル」という石を置く事だ。この石は、聖地からもって来たものだという。写真の通り、絨毯を敷き、頭の来るところに別の布を敷いて、その上に「モフル」を置く。その左手には数珠である。これだけを準備してから、お祈りが始まる。

Dsc08200Dsc08201

お祈りは、メッカの方向、即ちミフラーブに向かって立つことから始まる。次に礼拝の種類を唱えた後、コーランの一節を唱える。その後一礼しながら「我らの主よ、御身を称え奉る」と唱え、正座する。次に頭を地に付けて平伏し、「至高なる我が主に称賛あれ」と唱え上体を起こす。その後立ち上がり、再び同じ動作を繰り返すのである。なお、正確な描写が出来ているとは思えないので、正しいお祈りの仕方が知りたい方は、東京や京都、神戸などにあるモスクに訊ねて頂きたい。

東京ジャーミイトルコ文化センター
http://www.tokyocamii.org/publicViews/home/lang:jp/
京都モスク/イスラム文化センター
http://www2.dokidoki.ne.jp/islam/benri/kyotobunka.htm
神戸モスク
http://islam3.hp.infoseek.co.jp/benri/kobe.htm


Dsc08197


ところで、ミフラーブの前に長方形の穴が掘られているが、ここは先生が立つ場所である。一段低く掘られているのは、先生が神より偉くなってしまわないようにするためとの事。これもアラブ人イスラム教地域では見られなかったように思うのだが、どうなのであろうか。

ウィキペディア・フリー百科事典(ミフラーブ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%96


Dsc09648Dsc09649

一通りモスクの見学を終えた後、自由時間になった。10:20に、バスを降りた場所で集合することになった。皆さん、バーザールのお店でショッピングだ。私はイスラム暦のカレンダー(写真)が欲しかったので、お店を見て廻る。しかしどこのお店にも売っていない。仕方がないので諦めようかと思っていたところ、陶器類を売る店の壁にカレンダーが貼ってあるのが目に飛び込んできた。売り物ではないかもしれないが、どうしても欲しかったので、お店の方に訊ねると、そのカレンダーヲ壁から剥がし、私のところに持って来てくれた。すると、傍にいたもう一人の男性が隣のお店まで走り、イスラム暦のカレンダーを持って来てくれた。こちらも店先に貼っていたものを、剥がして来てくれたのである。いくらかと尋ねると、「持って行きなさい」との事。聞き間違いではないかと思い、ガイドに確認すると、タダでくれると言っているので貰っておけば良いとの回答。嬉しかったので、ペルシャ語で「ヘイリー・マムヌーン」(どうもありがとう)と言うと、ニコニコしながら「ハーヘシュ・ミコナム」(どういたしまして)との返事が返ってきた。

Dsc08249


今回の旅で手に入れたいと思っていたものの一つだったので、非常に嬉しかった。ここではこれ以上欲しいものがなかったので、時間は早かったが集合場所に向かった。すると、集合場所のすく傍に銀行があることを添乗員が教えてくれた。コレクション用の紙幣を集めるため銀行に行きたい旨、彼女に話していたので、知らせてくれたのだ。「Iran Melli Bank」(写真)である。早速店舗に入るが、結構混雑している。外貨両替ではないので、どこの窓口に行けば良いのか迷っていると、親切なイラン人が窓口まで案内してくれた。ここで50,000イラン・リアル、2,000イラン・リアル、1,000イラン・リアルの3種類の紙幣を入手する。残念ながら、500イラン・リアル、200イラン・リアル、100イラン・リアルについては、銀行にも無いとの事であった。これら少額の紙幣については、すでにコインにとって代わられているのだから仕方がない。現在の日本で、500円や100円の紙幣を求めるのと同じであろう。

Iran Melli Bank
http://www.bmi.ir/En/default.aspx


10:30、予定より10分ほど遅れてバスは出発。いよいよエスファハーンに向かう。途中、バラバード村近くにあるカナートとキャラバンサライを訪ねる予定だが、ヤズドとエスファハーンとは、300km以上離れているので、長い時間バスに揺られなければならない。二度の検問とスイカを購入するために一時停車したのを除けば、バスは砂漠の中、一直線に続く道を走り続けた。

Dsc08295_2Dsc08302Dsc08286


約3時間後の13:20、ナインの街に到着。この街にあるホテル、「ナイン・ツーリスト・イン」(Naein Tourist Inn)のレストランで昼食を戴く。この地方の伝統的スタイルのホテルで、中庭を通ってレストランに行く。店内はシンプルだがクリーンな感じだ。

Dsc08288Dsc08289Dsc08290Dsc08292

昼食のメニューは次の通り。
・スープ(写真左)
・野菜サラダ(写真中左)
・ミンチ・ケバブ(牛とラム)と干しブドウのご飯(写真中右)
・アイスクリーム(写真右)

約1時間10分で食事を終え、14:40、再びバスで走り出す。今度は30分ほど走ったところでバスを降りた。バラバード村の近くにある「カナート」と「キャラバンサライ」を見学するためである。

「カナート」については、これまでにも何度か登場したが、もう一度整理しておく。「カナート」とは、イランに見られる地下用水路の事で、地下水を水源とし、蒸発を防ぐために地下に水路が設けられる。カナートの発祥はイランの西北部あたりと考えられ、東は中国の北辺まで、西はモロッコまで伝わった。イランの東北部からアフガニスタン、中央アジア、中国にかけてはカレーズと呼ばれ、北アフリカではフォガラと呼ばれている」(「イスラムものしり事典」より)。

800pxqanat3svg1


どのように造られるのかというと、「山麓に掘られた最初の井戸で水を掘り当ててその地点から横穴を伸ばし、長いものは数十kmに達する。水路の途上には地表から工事用の穴が掘られ、完成後は修理・通風に用いられる。水路が地表に出る場所には、耕地や集落のあるオアシスが形成されている」(「ウィキペディア・フリー百科事典(カナート)」より・写真も同じ)との事。

Dsc08375Dsc08372Dsc08377Dsc08371Dsc08367Dsc08369

この場所にあるカナートは、日常生活で使えるように水路が表に出ており、水はプールに溜められていた。我々が見学している時、ちょうど地元の女の人が、バケツに入れた「スブース(麦の皮と藁を混ぜたもの)」を洗いに来ていた。牛の餌用で、これを与えるとミルクが多く出るようになるとの事。

ウィキペディア・フリー百科事典(カナート : 地下用水路)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%88

Dsc08319Dsc08321Dsc08340Dsc08328Dsc08330Dsc08332

カナートの近くには、昔の「キャラバンサライ」がある。ご存知の通り「キャラバンサライ」は「隊商宿」の意味だが、宿泊施設としてだけではなく、商売の場としても使用された。20~30kmごとに設けられていたという。荷物を背負ったラクダやロバが、1日に歩ける距離を目安にしていたからだ。昔の君主たちは、キャラバンサライの設置に努めたが、これは隊商を保護することで交易や産業を盛んにし、多くの税収を得ようとしたからである。
キャラバンサライは、分厚い壁に囲まれ、四隅に塔を持つ。遠くから見ると要塞のようである。「昔は、特に治安の悪い地域では、守備隊がキャラバンサライに常駐していた。彼らは、昼間は街道をパトロールして安全の確保に努め、夜間はキャラバンサライの守りについた。隊商の大敵は略奪をこととする遊牧民の集団や、武装強盗団であった。これに襲われて荷を奪われると、元も子もなくなってしまう。人間までも連れ去られて、身代金を払わされたり、奴隷として売りとばされたりする危険もあった。そこで隊商は、たとえ道が険しくてもね遠回りであっても、より安全なルートを選ぶのが常であった。交易を盛んにするためには、街道の安全確保がまず第一に必要だったのである。君主は隊商から通行税を取りたてて収入をはかるとともに、守備隊を維持するための経費に当てた」(「イスラムものしり事典」より)との事。

ここのキャラバンサライは廃墟となっているが、場所によってはホテルなどに改装されているものもあるようだ。鉄格子があるため、中に入ることはできないが、内部を覗いて見ると、比較的シッカリと残っている。一般に街道沿いのキャラバンサライは、城壁の中に広い方形の中庭があり、中央に人間や動物のための水飲み場がある。そして城壁を背にし、同じタイプの部屋が中庭を取り囲む。ここは1F建てだが、大きなところでは2F建て、3F建てのものもあるという。日干しレンガ造りのものが多いため、崩れてしまっているものも見かけるが、このキャラバンサライは石造りの部分が多いのであろう。比較的シッカリと残っている。

ウィキペディア・フリー百科事典(キャラバンサライ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%A9%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%82%A4


約20分で「カナート」と「キャラバンサライ」の見学を終え、次はイスファハーンだが、まだ100kmほど離れている。15:28、バスは出発。退屈しのぎのため、バスの中では1995年4月8日に放送された「世界不思議発見」のビデオが流された。もちろん主題は「イラン」だ。その中で印象に残った話をひとつご紹介する。それは未亡人がカナートと結婚し、カナートの妻になるという話だ。「カナート」の水が少なくなってきた時、水量を取り戻す儀式として、未亡人がカナートの妻になるという宣言をするのである。その後彼女は一生独身を通さなければならないというから、貴重な水を確保するため、生贄を捧げるようなものなのかもしれない。カナートとの結婚後、水量が戻ったらカナートで沐浴をするというのもユニークだ。

1Dsc08409


6:30頃、本日4~5回目になる検問のためバスは停車した。ここを通ると、いよいよエスファハーンである。先が見えないくらいの砂塵が舞う場所を抜け(写真)、エスファハーンの街に入り、ここで20分ほどトイレ休憩を取る。そして17:23、エスファハーン最初の観光である「ハージュ橋」に到着した。

Dsc08467Dsc08468Dsc08459_2Dsc08463Dsc08454Dsc08471Dsc08478Dsc08475Dsc08480


エスファハーンの街の真ん中に「ザーヤンデ川」が流れているが、これには全部で11の橋がかけられている。そのうちの一つが、この「ハージュ橋」である。この橋はアッバース二世時代の1666年に完成。長さ133m、幅は12mあり、23のアーチを持つ二層構造だ。上部も下部も歩くことができるうえ、車が通れないことから、川の景色を楽しみながらノンビリ散歩することも可能である。橋の下にある堰の前には人が並んで座っていた。橋の木陰で水の流れる音を聴きながら、家族や友人と雑談する。こちらの人達がリラックスするための生活スタイルなのだろう。

Dsc08440


川辺は公園になっており、こちらにも多くの人が来ていた。我々はここでスイカを戴く。ガイドがここに来る途中で買いに行ってくれていたのだ。強い太陽の光を浴びて育ったスイカだけに、甘味は十分にある。川辺の公園で夕涼みしながら頂くスイカは、最高に美味しかった。

Dsc08472


ところで、「橋の北側のたもとには小さなライオンの像があるのだが、それにまたがるとたちどころに結婚できるという説がある」(「地球の歩き方2009~2010年版・イラン」より)との事(写真の右下に小さく写っている)。しかし私は見落としてしまった。残念!

ウィキペディア・フリー百科事典(ハージュ橋[Khaju Bridge] )
http://en.wikipedia.org/wiki/Khaju_Bridge


Dsc08505Dsc08507Dsc08511


17:20~18:02までの約40分、「ハージュ橋」や周囲の公園を散策した後、本日宿泊するホテル「アリカブ」に向かった。ホテルには10分ほどで到着。添乗員がチェックインの手続きをしている間、土産物店でイランの紙幣やコインを購入した。すでに入手済みのものも含まれていたが、銀行で手に入れることができなかった500イラン・リアル以下の紙幣をゲットできたことは収穫であった。

Dsc08512Dsc08514Dsc08513


部屋は2Fで、階段の近く。エレベータを使わなくて良いので便利だ。室内は赤茶系でまとまっており、落ち着いた雰囲気だ。ベッドの奥にあるテーブルは、資料整理をするのに丁度良い感じである。天井には、メッカの方向を示す印が貼られていた。夕食はこのホテルのレストランで、19:30から。まだ40~50分時間があったので、ホテル近隣の散策に出かけることにした。

ヤズド「ガーデン・モシール・アル・ママレク・ホテル」
http://www.aryahotels.com/english/moshir_home.asp
http://www.hgm.ir/english/


(参考文献)
・「地球の歩き方2009~2010年版・イラン」(地球の歩き方編集室編)[ダイヤモンドビッグ社刊]
・「イスラムものしり事典」(紅山雪夫著)[新潮社刊]


June 12, 2010

ヤズド観光(アミール・チャグマーグのタキーイェ、アーテシュキャデ)

イラン・ペルシャの旅(第14回)

5日目 : 5月24日(月)[晴れ]

6:15 起床
7:00~7:30 朝食
8:07 バスで出発
8:10~8:25 アミール・チャグマーグのタキーイェ
8:30~9:00 アーテシュキャデ(ゾロアスター教寺院)
9:02~9:10 カナート
9:15~10:00 マスジェデ・ジャーメ
10:15~10:30 メッリ・イラン銀行
10:45~10:50 スイカを買うため一時停止
12:40~12:42 休憩のため砂漠の中で一時停止
13:10~13:15 検問
13:20~14:40 ナインの街「ナイン・ツーリスト・イン」で昼食
15:05~15:28 バラバード村のキャラバン・サライとカナート
16:25~16:30 検問
16:50~17:10 エスファハーンの街でトイレ休憩
17:20~18:02 ザーヤンデ川に架かるハージュ橋散策
18:15「アリカブ」ホテルに到着
18:40 入室
18:50~19:30 外出(「マドラセイエ・チャハール・バーグ」、「バザーレ・ボナル」、「ハシュト・ベヘシュト」)
19:30~20:30 夕食
20:50~23:35 外出(「アッバースィー・ホテル」、「CARPET WAREHOUSE」、「Fotowat Miniaturist」、「スィー・オ・セ橋」)
23:35~12:45 入浴、資料整理
12:45 就寝


Dsc07970Dsc07967Dsc07969Dsc07978Dsc07979Dsc07982

本日は、ヤズドのモスクなどを見学した後、エスファハーンに向かう予定だ。
6:15に目覚めるが、ホテルは街の中心から離れており、周りに何もなかったことから、朝はホテルの屋上や中庭を散歩するにとどめた(写真上段)。7:00から朝食を頂き(写真下段)、30分ほどで部屋に戻って、身支度を整える。8:07、バスで本日の観光に出発した。

「ヤズド」は、イランのほぼ中央に位置する砂漠都市で、海抜1,220mにある。人口は約60万人。「ヤズド」という名前はササン朝の王「ヤズデギルド一世(399~420年)」に由来し、1,600年もの古い歴史をもつ都市である。またゾロアスター教文化の中心地で、今なお多くのゾロアスター教徒が住んでいるという。

ウィキペディア・フリー百科事典(ヤズド)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%82%BA%E3%83%89
ウィキペディア・フリー百科事典(ヤズド[英語版 : Yazd])
http://en.wikipedia.org/wiki/Yazd
ヤズド市(英語版)
http://www.yazdcity.ir/index.php?l=EN


Dsc07997Dsc08002Dsc08024Dsc08011Dsc08009Dsc08014

本日最初に訪れたのは、「アミール・チャグマーグ広場」(写真左)である。ここに建つ「タキーイェ」は、「15世紀に建てられた、寺院やバーザールなどの複合施設。同名の広場を望むバーザールの入り口には、2本のメナーレがそびえ建つ(写真中)。またここは十二エマームの3代目エマーム、ホセインゆかりの地でもある」(「地球の歩き方2009~2010年版・イラン」より)。モスクは広場の南西に隣接する小規模なもの(写真右)。残念ながら、内部を見ることはできなかった。バーザールの入り口にあるエイヴァーンを見ると、タイル装飾がなかなか美しい(写真下左)。中でもムカルナス(写真下中)は、シンプルながら調和のとれたデザインである。バーザールに入るが、まだ8:00過ぎと早い時間であったためか、一軒もお店は開いていなかった(写真下右)。

Dsc08017


入口に向かって右手には、「ナフル」という神輿が置かれていた(写真)。モハッラム月(1月)には、ここでシーア派の殉教劇が催されるという。「ムハッラム月の10日目は「ヤウム・アル=アーシューラー(「10番目の日」の意)」ないし単に「アーシューラー」と呼ばれ、この日はイマーム・フセインの殉教日であることから、とくにシーア派の信徒の間で熱心に宗教行事が行われている。このフサインの死を追悼する殉教祭をさして「ムハッラム」と言う場合もある」(ウィキペディア・フリー百科事典(ムハッラム)より)との事。

ウィキペディア・フリー百科事典(フサイン・イブン・アリー[イマーム])
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%BC_(%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A0)
ウィキペディア・フリー百科事典(ムハッラム)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%8F%E3%83%83%E3%83%A9%E3%83%A0


「アミール・チャグマーグ広場」での観光は15分ほどで終え、次に向かったのは「アーテシュキャデ(ゾロアスター教寺院)」だ。「アミール・チャグマーグ広場」の南、約1.5km辺りにある。「アーテシュキャデ」は、「ヤズドにいくつもあるゾロアスター教寺院のうち、最も重要とされ、異教徒でも見学可能な神殿。アーテシュキャデとは「火の家」という意味」(「地球の歩き方2009~2010年版・イラン」より)。

Dsc08037Dsc08040

神殿の境内は塀に囲まれている。ゲートをくぐって70~80m通路を歩くと、真中に池のある広場に出る(写真左)。左手には神殿だ。神殿の前廊に並ぶ石柱の柱頭や台座、軒まわりや窓枠の装飾を見ると、ペルセポリス宮殿の建築様式が取り入れられているのが分かる(写真右)。

Dsc08048


前廊の上、正面上部には、ゾロアスター教の最高神である「アフラ・マズダの像」だ(写真)。有翼光輪の王者の姿で表されている。ご存知の通り「アフラ・マズダ神」は、善と悪とを峻別する正義と法の神。手に持つ黄色い「輪」は、「約束」のシンボルでもある。イラン・ペルシャの旅(第9回)「ナグシェ・ロスタム」でご紹介したが、騎乗のアルダシール一世が、騎乗のアフラ・マズダ神から帝王権を授与されているシーンを表す「アルダシール一世の騎馬徐任式図」で、「アフラ・マズダ神」がアルダシール一世に「輪」を渡していたのを記憶されている方もおられるだろう。もう一つの腰の部分にある「輪」は「輪廻」を表すという。翼に見られる黄色い線は、ゾロアスター教の教義である「良い考え」、「良い話」、「良い行い」を表現し、尻尾の部分は「下(地獄)に落ちる」という意味で「悪」を表すとの事。

Dsc08066Dsc08060Dsc08063


神殿内はシンプルなものである(写真左)。正面中央にガラス張りの窓があり、その奥に置かれたチューリツプ形に開いている銅製の火鉢の中で火が燃えているだけ(写真中・右)。しかし、この火がメインなのである。神殿自体は新しく、1934年に建てられたものだが、この火は1500年以上燃え続けているという。シラーズで約500年、アルダカンで約700年、そしてヤズドで300年以上受け継がれているのだ。しかも、ガスなどで燃えているのではなく、薪を燃料に燃やし続けているというから驚いてしまう。
ところで、ゾロアスター教のことを日本では「拝火教」と呼ぶので、火を礼拝の対象にしているように思えるが、実は違うのである。「イスラムものしり事典」によると、「光明の象徴である火を通じて、目に見えない神アフラ・マズダに思いを致し、悪を捨てて、善に心を向けるように祈るのである。つまり、火は礼拝の対象そのものではなく、光明と善の神に祈るための機縁にすぎない」との事。

ウィキペディア・フリー百科事典(ゾロアスター教寺院[英語版 : Fire temple])
http://en.wikipedia.org/wiki/Agiary
ウィキペディア・フリー百科事典(ゾロアスター教)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%AD%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E6%95%99
ウィキペディア・フリー百科事典(アフラマズダー)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%BA%E3%83%80%E3%83%BC


(参考文献)
・「地球の歩き方2009~2010年版・イラン」(地球の歩き方編集室編)[ダイヤモンドビッグ社刊]
・「イスラムものしり事典」(紅山雪夫著)[新潮社刊]