January 27, 2012

「インドの旅」写真ダイジェスト

インドの旅(第17回 : 最終回)

今回はこのシリーズの最終回として、写真ダイジェストを作製した。すでにこのブログのどこかで使用したものばかりだが、絵日記のつもりでご覧頂ければ幸いである。

① ダメーク・ストゥーパ(サールナート)
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② ラクシュマナ寺院(カジュラホ)
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③ 月夜のタージ・マハル(アグラ)
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④ タージ・マハル(アグラ)
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⑤ アグラ城(アグラ)
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⑥ ファテープル・シークリーのパンチ・マハル(アグラ)
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⑦ アンベール城(ジャイプール)
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⑧ ハワー・マハル[風の宮殿](ジャイプール)
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⑨ クトゥブミナール(デリー)
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⑩ フマユーン廟(デリー)
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January 26, 2012

デリー観光(クトゥブ・ミナール、フマユーン廟など)

インドの旅(第16回)

第7日目 (12月13日[火] : 晴れ)

6:00 起床

6:30~7:00 朝食
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ホテルのレストランで、ビュッフェ式の朝食。ノンスパイシーなオムレツを焼いてもらい、甘いドーナツ、コーヒーと一緒に頂く(写真)。

7:32 バスで「デリー」へ
途中、旧市街、ピンクシティにある「風の宮殿」に立ち寄る。この宮殿は、昨日訪れた「ジヤンタル・マンタル(天文台)」の隣に位置するのだが、現在道路工事中のため、昼間はバスが止められないとの事で、本日の朝訪れることになったのである。

7:45~7:55 「風の宮殿(ハワー・マハル)」(写真)の写真撮影
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1799年、この街を治めていたラージプートの王サワーイー・プラテープ・スィンによって建てられたもので、シティー・パレスの一部である。ピンク色をした5階建てで、953の小窓が通りに面している。石の格子スクリーンのついた出窓になっているので、宮廷の女性たちは、自らの姿を外から見られることなく、街の様子を見たり、祭を見て楽しむことができるのだ。
また、暑いときでも涼しい状態に保つことができるように、この小窓を通して風(ハワー)が循環するような構造をとっている。これが「風の宮殿」の由来だ。
数多くの観光バスが止まり、道路を挟んだ宮殿と反対側の歩道は、カメラを持った観光客であふれている。お天気が良く、青空を背景にピンク色の宮殿が映える。絶好の写真日和だ。約10分ほどだが、写真撮影を楽しんだ。ちなみに、この宮殿の裏には階段があり、上に上ることもできるようだ。

ウィキペディア・フリー百科事典(ハワー・マハル)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%AB

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写真撮影を終え、ピンク・シティを東に抜けて、昨日訪れた「アンベール城」(写真)を左に見ながらデリーに向かった。

10:40~10:55 「GANGAUR MIDWAY」でトイレ休憩
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12:00頃 周囲に近代的なビルが立ち並ぶ(写真)。デリー市街に入る
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13:50~14:55 レストラン「THE ASIA KITCHEN」で昼食
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デリー市街に入ってから、やや渋滞で時間がかかった。バスを降りてからレストランまで少し歩いたのだが、こんな街中なのに「野良牛」が歩いている(写真)。田舎で見るほどの数はいないが、それでもインド、ヒンドゥー教の国だということを感じてしまう。

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レストランは中華風料理の店(写真左)。スパイシーなものや、カレー味に飽きる頃であろうということから、中華風料理が選ばれたようだ。メニューは次の通り。

・野菜スープ(写真中左)
・鶏肉の餃子(写真中右)
・焼きそば(写真右)
・鶏肉&黒豆ソース(写真下左)
・フリスビー・フライド・ベジェタブル・フリッター(写真下中左)
・スパイシーフレンチフライと野菜の揚げもの(写真下中右)
・チリチキン(写真下右)

メインディッシュが終わりかけた頃、私は少し早目にレストランを出て、近くの銀行に走った。もちろん目的は、まだ手に入れていない紙幣を入手するためである。このような場所にある銀行へ、日本人が訪ねてくることはないのだろうか。私が店内に入ると、皆さん一斉に私に注目した。近くにいた女性に用件を伝えると、親切に案内してくれた。窓口で応対してくれた男性職員も、私の目的を察し、出来るだけきれいなお札を探して交換してくれた。デリーではこの銀行を訪れただけなので、確かな事ではないが、田舎に比べて新札の出回り具合が良いのではないかと感じた。この時に替えてもらった10ルピー札がすべて新券だったことも、このような印象を持った理由かもしれないが・・・。

両替を済ませてからレストランに戻り、トイレを借りてから、皆さんと一緒に再び外に出る。バスに乗って、デリーで最初の観光予定地である「クトゥブ・ミナール」に向かった。

15:25~16:00 「クトゥブ・ミナール」(写真左・中)観光
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デリーから南へ約15km、高さ72.5m、基底部の直径15mの巨大な塔が建つ。石で造られた建造物としては、インドで最も高い構造物である。塔は5階層になっており、上に昇るに連れて細くなり、頂上部の直径は2.5mだ。下の三層は赤砂岩、その上は大理石と砂岩で築かれている。いずれの層にも、外部に突き出したバルコニーがあり、壁面にはコーランの文句を図案化して刻まれているのが分かる。

「ミナール」とは「ミナレット」のことで、本来はモスクに付属して礼拝の呼びかけをする塔だが、奴隷王朝のスルタン、「クトゥブウッディーン・アイバク」がヒンドゥー教徒との戦いに勝利した記念(※)に建てられたものなので、戦勝記念塔の意味が強いといえる。残念ながら、現在この塔に上ることはできない。過去に、見学中の学童が殺到し、死亡事故が発生したためだという。

近くには、「クトゥブ・モナール」よりも高い塔を建てようとしたが、財政難のため挫折した、「アラーイーの塔」の基部が残されている(写真右)。直径は25mあり、完成していたならば、100mを超えていたであろうとの事。

(※)クトゥブ・ミナールの隣には、「イスラムの力」を意味するインド最古のクッワト・アルイスラム・モスクがある。この地区には、もともとヒンドゥー教やジャイナ教の寺院が多くあったが、熱心なイスラム教徒だったアイバクは、それらを27の寺院を像で破壊し、偶像彫刻を削り取った。そして、跡地に転がる石材を用いてモスクを建立したのだ。建設にはヒンドゥー教徒の建築家や労働者が多く携わったため、イスラム以前のインドの建築技術が各所に見られる(「週刊世界遺産27(インド)」より)。

ウィキペディア・フリー百科事典(クトゥブ・ミナール)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%AB


16:47~17:15 「フマユーン廟」観光
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「フマユーン廟」(写真)は、デリーの中心部、「ニューデリー駅」から南東約6kmに位置する。これは、第三代皇帝、アクバルの時代に建てられた、前皇帝フマユーンの霊廟だ。墓を作る習慣のなかったインドに初めて作られた本格的なイスラムの霊廟建築で、9年の歳月をかけて、1570年ごろ完成した。10万㎡以上もある敷地の中央に、90m角の基壇が設けられ、その上に霊廟が建つ。高さ38mで二重構造のドーム屋根を持ち、ペルシアの影響を大きく受けながらも、インド産の赤い砂岩が巧みに取り入れられ、白い大理石を組み合わせて、洗練された装飾が造り出されている。霊廟の四方には、正方形に区切られた庭園があり、水路が通る。「タージ・マハル」のところでもお話ししたが、水が流れる緑の庭園は、天国を表わしているのだ。以後この形が、ムガル朝霊廟建築の基本になった。

この形式が確立された後、ムガル朝霊廟建築の頂点を迎えたと言われる「タージ・マハル」との大きな違いは、「フマユーン廟」では霊廟が四分された庭園の中央に置かれているのに対し、「タージ・マハル」はヤムナー川を背後にして、広大な四分庭園を前面に置いている点にある。しかし、川の対岸にもう一つ黒い霊廟を建て、橋で繋ごうとしたのだから、この違いは当然なのかもしれない。

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霊廟の四方の部屋には、「シャー・ジャハーン」の王子「ダーラー・シコー」など一族の棺が置かれ、中央の広間には白大理石で出来た「フマユーン」の棺が置かれている(写真)。この棺も、「タージ・マハル」に置かれていた棺と同じく仮の棺(模棺 : セノターフ)で、遺体はこの真下に安置されている。

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午後5:00、見学を終える頃、日が沈み始めた。夕陽に照らされる「フマユーン廟」は、砂岩がさらに赤くなり、なかなか美しい(写真)。そういえば、「タージ・マハル」が夕日に照らされ、真紅になるところも見てみたいものだ。

ウィキペディア・フリー百科事典(フマーユーン廟)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%B3%E5%BB%9F


約30分、大急ぎで見学を済ませ、次の目的地である「インド門」に向かった。「フマユーン廟」の北西、約3kmに位置する。バスに乗り、10分ほどで到着。

17:28~17:34 「インド門」写真撮影
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バスを降りて、写真撮影をする。この門は、第一次世界大戦で戦死したインド兵士の慰霊碑だ。1931年に完成、高さが42mもある。「インドは戦後の独立を条件にイギリスに協力して参戦したが、大きな犠牲と引き換えの独立は実現しなかった。壁面には戦没者1万3,500人の名前が刻まれている」(「地球の歩き方 ‘11~’12 インド」)。

ウィキペディア・フリー百科事典(インド門)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E9%96%80

「インド門」の写真撮影を終えた後は、「ラージガート」である。「インド門」から北東へ約3.5kmに位置する。やや渋滞しており、30分ほどかかる。

18:00~18:05 「ラージガート」写真撮影
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すっかり暗くなっているうえ、ゲートの外から撮影したので、何が何だかよく分からない状況での撮影になってしまった。ところでこの場所は、「マハトマ・ガンジー」が1948年に暗殺され、埋葬された場所なのである。黒色大理石の壇の見える場所がそれだ。現在は公園になっており、近くにガンジー記念館が建てられている。

ウィキペディア・フリー百科事典(ラージガート[Raj Ghat and associated memorials : 英語版])
http://en.wikipedia.org/wiki/Raj_Ghat_and_associated_memorials

以上で、インド観光はすべて終了した。これから空港方向に向かう。途中、土産物店に寄って残ったお金を使い切り、その後レストランで食事をした。

18:55~19:30 お土産物店「S.L.CRAFT EXPORTERS PVT.LTD」でショッピング
民芸品や菓子などのほか、絨毯やサリーなども販売している。私はすぐにミニアチュール売り場に向かい、色々な作品を見せてもらった。ジックリ見ながら選んでいると、他のツアーメンバーが私の方にやってきた。皆さんミニアチュールについて知らなかったようで、色々説明してあげると、興味を示し始めた。しかし、1枚で1万円以上すると言うと、ほとんどの人は離れて行った。再びジックリ見ようと思っていたら、一人の女性が「これが欲しい」と言いだした。私が気にいったので、横に取り置きしていたものだった。しかしその女性は非常に気に入っていたようだったので、彼女に譲ることにした。マハラジャの乗った像が行進しているデザインで、色合いもなかなか良いものであったと思う。結局、私は何も買わずに店を出ることにした。

土産物店からは、歩いてレストランに向かう。バスを止めるだけのスペースがないためとの事。

19:40~20:10 レストランで夕食
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都会のレストランという雰囲気である(写真左)。メニューは次の通り。
・タンドリーチキン(写真右)
・チーズロースト(写真右)
・ミックス野菜(写真右)
・蒸しごはん(写真右)
・コーヒー

デザートにアイスクリームが付いていたのだが、氷を使っているということで、ガイドの指示により、注文から外してもらうことになった。

WAVES
http://www.bchgroup.org

20:45 デリーに空港に到着
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21:20 出国手続、手荷物検査
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搭乗までの時間、ショッピングしていたら、ジャンシーの駅で話し込んだ、日系三世のハワイ人夫婦とみたび出会う。ここでも話し込んでしまい、ビジネスクラスのラウンジ(写真)に入る時間が亡くなった。

22:30 搭乗
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23:40 離陸


第8日目 (12月14日[水] : 晴れ)

00:00~3:50 睡眠

4:04 香港の空港に到着

5:50 離陸

6:00~7:55(日本時間9:30~11:25 以下日本時間) 睡眠
機内で出る朝食をパスし、ひたすら眠っていた。


11:35 関空に到着

11:50~12:30 関空ターミナル内のKYKで、「厚切り琉香とんかつ膳」を頂く
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以上で「インドの旅」も終りである。この3~4か月、頻繁に海外に出かけ、旅についてのブログを書き終える前に次の旅に出かけていたので、その都度資料整理をしていたにもかかわらず、記憶が薄れ、色々と思いだせないこともあった。しかし、とりあえず書き終えることができたので、少しホッとした気持ちだ。いずれにしても、無事に旅から戻れたことに感謝である。

(参考文献)
・「地球の歩き方 ‘11~’12 インド」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「図説インド歴史散歩」(岩瀬一郎他編)[河出書房新社刊]
・「インド建築案内」(神谷武夫著)[TOTO出版刊]
・「インド古寺案内」(神谷武夫著)[小学館]
・「週刊世界遺産27(インド)」(菅家洋也編)[講談社刊]
・「週刊世界遺産83(インド)」(伊藤裕編)[講談社刊]
・「イスラーム建築の見かた」(深見奈緒子著)[東京堂出版刊]
・「デリー・アグラ・ジャイプール」(ラジャラマパンダ著)[ミッタルパブリケション刊]
・「デリー・アグラ・ジャイプル」(ダンラジ・アスワニ著)[シュリナート・ニューススタンド刊]



January 24, 2012

ジャイプル観光(その2 : ジャンタル・マンタル、シティ・パレス、ビルラー寺院)

インドの旅(第15回)

昼食を終え、我々は次の目的地である「ジャンタル・マンタル」に向かった。旧市街の中にあるので、「アンベール城」から朝来た道を戻り、「ゾラワル門」から街中に入る。旧市街の中心より東側に位置する。

13:45~14:10 「ジャンタル・マンタル」見学
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「ジャンタル・マンタル」とは天文台のことで、「ジャンタル」は「機械装置」を、「マントラ」は「魔法の手法」を意味する。この天文台は、1728年、ジャイプルの街を築いた「ジャイ・スィン二世」によって造られた。彼はここだけでなく、1724年にデリーで、また1734年ウッジャイン、1737年バナーラス、1738年マトゥーラにも天文台を造っている。これらの中でもジャイプルのものが最大で、最重要視されており、1901年の修復作業を経て、保存状態も良好だ。

「ジャイ・スィン二世」は、生涯を通じて天文学に取り組んでおり、インド最後の古典天文学者だと言われている。ペルシャやヨーロッパの文献を読み解き、ウルグ・ベクの天文台(現ウズベキスタン・サマルカンド)も参考にしながら、天文観測をより正確に行うべく、日時計や照準儀、子午線儀などの観測儀を巨大な寸法に拡大して屋外に造ったのである。

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全部で20種類以上の巨大な観測儀が置かれていたが、見学する時間があまりなかったので、数種類を見るだけで終わった。最も印象に残ったのは、「サムラット・ヤントラ(大きな日時計)」(写真左)だ。世界最大の日時計で、最も高い部分は27.4mもある。2秒単位の時間計測ができるという。その他には、「ラグ・サムラット・ヤントラ(小さな太陽)」や「ジャイ・プラカッシュ・ヤントラ」、「ラーシ・ヴァラヤ・ヤントラ(黄道12宮儀)」や「ナリ・ヴァラヤ・ヤントラ」なども面白い。「ラグ・サムラット・ヤントラ」(写真右)は、「サムラット・ヤントラ」の小型版で、20秒単位で時間を計ることができる日時計である。


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「ジャイ・プラカッシュ・ヤントラ」(写真左)は、半円球の形をしており、太陽の位置、日の出、その他天体の位置観測に使用され、観測所内の他の観測機器すべてのダブルチェックとして機能するのだ。「ラーシ・ヴァラヤ・ヤントラ(黄道12宮儀)」(写真右)という12体からなる観測儀もある。それぞれが12の各星座の方向に向かっており、占星術師が利用したとの事。皆さん、それぞれ自分の星座の前で、記念写真を撮っていた。当然私も一枚、シャッターを押してもらった。ちなみに、私は蠍座である。

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「ナリ・ヴァラヤ・ヤントラ」には、二つの円が付いており、一方が北半球、もう一方が南半球での太陽の位置を観測するのに使われたという。


ウィキペディア・フリー百科事典(ジャンタル・マンタル)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%AB
ウィキペディア・フリー百科事典(ウルグ・ベク)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%99%E3%82%AF

「ジャンタル・マンタル」での見学を終え、その後我々は、隣接する「シティ・パレス」に向かった。

14:15~14:48 「シティ・パレス」見学
「シティ・パレス」は、1726年、「ジャイ・スィン二世」によって造られた宮殿だ。旧市街の中心に位置し、街の七分の一の面積を占めている。「シティ・パレス」と呼ばれるのは、旧アンベール宮殿や新近代のラムバーグ宮殿と区別するためのようだ。宮殿には「サワイ・ジャン・シング」がアンベールから移り住み、今も王族が暮らしているとの事。

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「ビレンドラ・ポル」(写真左)と呼ばれる装飾門をくぐり敷地内に入ると、中庭が広がる。その中央にあるのが「ムバラク・マハル(迎賓館)」(写真右)だ。1899年、賓客を迎える目的で、「サワイ・マドー・シン二世」により建てられた。設計は、英国の建築家「サミュエル・ジェイコブ」である。現在は、歴代の王が使っていた衣類などを展示する、「テキスタイル博物館」になっている。最初に我々は、博物館の見学から始めた。なお、内部の写真撮影は、固く禁じられている。

博物館には、「9kgの金糸を使ったマハーラーニーのサリーやマハーラージャが寺参りに行く時に着たサンガネール染めのローブなどがある。展示品の中で特に目を引くのが、シタールの後ろに展示されている真紅のガウン。バナーラスで特別に作らせたシルクのガウンは、サワーイー・マド・スィン一世(在1750~68)のもの。その巨大さから想像できるように、KONISHIKI並みの体の持ち主だったそうだ」(「地球の歩き方 ‘11~’12 インド」より)。

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博物館を出て後、「ラージェーンドラ門」(写真左)を通り抜けて次の広場に向かう。そこにあるのは「ディーワン・イ・カース(貴賓謁見の間)」(写真右)だ。

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「1730年の竣工で、大理石舗装の美麗なギャラリーがあり、現在は折に触れ式典などに使用されています。ホールの外にはガンガリジャスと呼ばれる巨大な銀製の壺が2個置かれています」(「デリー・アグラ・ジャイプル」より : 写真)。「1902年、エドワード七世の戴冠式に出席するためにマハーラージャがイギリス旅行に行く際、持って行ったといわれるもの。大変敬虔なヒンドゥー教徒だったマハーラージャは、この壺にガンガーの水を入れて、旅の途中でも常に体を清められるようにはるばるイギリスまで船で運ばせて、毎日沐浴をしていたそうだ。この銀の壺は人間の背丈ほどの高さがあり、ギネスブックにも登録されている世界で一番大きな銀製品」(「地球の歩き方 ‘11~’12 インド」より)との事。

約30分で見学を終え、トイレ休憩を兼ね、カーペットとテキスタイルのお店に行く。後で気が付いたのだが、「シティ・パレス」で有名な「月の宮殿」は訪ねていない。博物館ではなく、この宮殿を見に行けば良かったと、少々後悔している。

14:58~15:44 カーペットとテキスタイルのお店でショッピング
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ここでは最初に染色の工程を見せてくれ(写真上段)、その後店に案内された。一通り見て廻るが、特に欲しいものはない。しかし、奥の一角にミニアチュールが見えたので行ってみた。カジュラホで手に入れたような書籍ではなく、こちらは一枚ものである。十数枚見せてもらっている中に、街と庶民の生活(写真下段左)を描いたものがあり、なかなか良い作品だったのでこれを購入することにした。これはライスペーパー上に描かれたものだが、絹の上に描かれた像の作品(写真下段右)もあったので、これも追加した。こちらは、「Mazanu」という作家が描いた最近のものだ。時計を見ると少し時間オーバーである。しかし、他の皆さんも買い物に忙しく、予定の時間を大きく超えてしまった。

Shree Carpet & Textile Mahal
http://www.sarrafgroup.com

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旧市街から西へ約2km。バスで「ビルラー寺院」に向かう。途中、「中央博物館(アルバート・ホール)」(写真)の前を通る(写真)。この博物館は、1863年、イギリスのアルバート王子により建てられたもので、インド・サラセン様式の秀逸な建築物と言われている。設計はサー・スィントン・ジェイコブの手によるもので、建築様式は英国に現存する建物がモデルになっているにもかかわらず、アーチ付ベランダやドーム型のパビリオンなど、ムガル様式の影響を受けているのが分かる。博物館は1887年に開館され、考古学に関する品々や、手芸工芸品などを所蔵する、ラジャスタン州最古の博物館だ。

16:14~16:40 「ビルラー寺院」(写真)見学
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1988年、ビルラー家によって建てられたヒンドゥー教の寺院。「ラクシュミ・ナラヤン・マンディル」とも呼ばれる。この寺院が建てられている敷地は、ビルラー財団が、わずか1ルピーというお印(しるし)だけの金額でマハラジャから購入したものだ。真っ白な外観のノーマルなヒンドゥー教寺院だが、「その内部が非常にユニーク。キリスト教教会のような色鮮やかなステンドグラスがあるのだ。もちろんそのモチーフはヒンドゥーの神話の神々」(前掲書より)である。なおここでは、門をくぐる前に靴を脱がなければならない。雨の日も同じ?

ウィキペディア・フリー百科事典(ビルラー寺院 [Birl Mandir,Jaipur : 英語版])
http://en.wikipedia.org/wiki/Birla_Mandir,_Jaipur

約30分で観光を終え、バスでホテルに戻る。

17:00 ホテルに到着

17:10 入室
夕食まで時間があったので、入浴、資料整理、荷物整理を済ませ、しばらくベッドの上で休む。

20:00~22:00 ホテルのレストランで夕食、その後、添乗員と話す
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夕食のメニューは、次の通り。
・トマトスープ(写真左)
・パスタ&チーズソース(写真中)
・野菜&クリームソース(写真中)
・魚&黒豆ソース(写真中)
・野菜だんご、あんかけ(写真中)
・野菜焼きそば(写真中)
・マトンとグリンピースのキーマ(写真中)
・インドスパイスチーズ(写真中)
・インド風デザート(写真右)
・コーヒー

1時間ほどで食事を終える。中庭では、インド・フォークロアダンスがあるとの事だったが、本日訪れた場所でわからないこと、聴き洩らしたことなどを確認するため、レストランで添乗員と話し込んだ。

23:00頃 就寝


(参考文献)
・「地球の歩き方 ‘11~’12 インド」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「図説インド歴史散歩」(岩瀬一郎他編)[河出書房新社刊]
・「インド建築案内」(神谷武夫著)[TOTO出版刊]
・「インド古寺案内」(神谷武夫著)[小学館]
・「週刊世界遺産27(インド)」(菅家洋也編)[講談社刊]
・「週刊世界遺産83(インド)」(伊藤裕編)[講談社刊]
・「イスラーム建築の見かた」(深見奈緒子著)[東京堂出版刊]
・「デリー・アグラ・ジャイプール」(ラジャラマパンダ著)[ミッタルパブリケション刊]
・「デリー・アグラ・ジャイプル」(ダンラジ・アスワニ著)[シュリナート・ニューススタンド刊]



January 23, 2012

ジャイプル観光(その1 : アンベール城)

インドの旅(第14回)

第6日目 (12月12日[月] : 晴れ)

6:00 起床

6:35~8:00 朝食
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朝食は、いつもの通りビッフェ式。スパイシーなものを避けて選ぶ。食後、ホテル内を散歩したが、さすがに250年前に建てられた元大臣官邸だけのことはあり、広々とした庭園に、赤砂岩と大理石をミックスした、素晴らしい建築物が並ぶ。庭の一角には、チェス場がある。大きなチェスの駒を見ていると、夜中、勝手に動き回っているのではないかと想像させられた。

9:05 バスで「ジャイプル」観光へ
この地方を支配していた、ラージプート族のカチワーハ家の王「サワーイー・ジヤイ・スィン二世」が、1728年、城壁に囲まれたこの街を造った。王の名前「ジャイ」と、城壁に囲まれた街を意味する「プル」とを合わせ、「ジャイプル」と呼ばれるようになった。ホテルから南東に約3km、旧市街の西側にある「ニュー・ゲート」から街に入った。この街は「ピンク・シティ」と呼ばれている。というのも、街並みがすべてピンク色に統一されているからだ。しかしピンクと言っても、薄赤茶色といった方が良いかもしれない。街中を通り、東南にある「ゾラワル門」から街を抜け、さらに10kmほど走って「アンベール城」に向かう。

ウィキペディア・フリー百科事典(ジャイプル)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%97%E3%83%AB

9:45 バスを降りてジープに乗り換え、「アンベール城」へ
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「アンベール城」は岩山の上にあり、道が狭く込み入っていることから、バスでその場所まで昇ることはできない。ここから城へ行くのには、歩く、像に乗る、ジープに乗るなどの方法がある。我々は数台のジープに分かれて乗り、城まで行くことにした。岩山の上には、中国「万里の長城」のような城壁が続いているのが見える。約10分で、「アンベール城」の前に到着した。

10:10~11:10 「アンベール城」見学
ムガル帝国と同盟を結んだこの地の王によって、16世紀末に建設が始められた。外観は、いかにも砦といった武骨な印象だが、内部は全く違った雰囲気である。さまざまな壁画や装飾が美しい。

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「月門」(写真左)から城内に入ると、広場に出る(写真中)。右手(南西側)にある階段を上って「シュリー・シーラー・デーヴィ寺院」を抜けると(写真右)、「一般謁見の間(ディーワン・イ・アーム)」と「ガネーシャ門」(写真下左)が見えた。「一般謁見の間」(写真中左)は、「ミルザ・ラジャ・ジャイ・シン」により建てられたもので、支柱部の複雑な装飾で知られている(写真中中・右)。「ガネーシャ門」は、イスラーム風の装飾文様が施されており(写真下中)、その中心には、ヒンドゥー教の神「ガネーシャ」が描かれていた(写真下右)。この門をくぐると、いよいよ本殿だ。

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城壁に上り、ハマムを見た後、庭園に出る。さらに城壁を上り、「勝利の間」の屋上から周囲を見渡す。先ほどの庭園は、上から見ると見事な幾何学模様をしている(写真左)。城壁の外側には池があり、その中央にも、やはり幾何学模様をした庭園がある(写真中)。その後再び下の庭園に戻り、「歓喜の間(スク・ニワース)」を外から覗いて、庭園を挟んだ反対側に建つ「勝利の間」(写真右)に向かった。

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この「勝利の間(ジャイ・マンディル)」では、最盛期のヒンズー・イスラム様式の特徴が見られるという。またここには、小さな鏡がびっしりと嵌め込まれた「鏡の間(シェーシュ・マハル)」がある(写真上段)。「扉、窓を閉めて、蝋燭を点すと、夜空に煌く星のように見える」(「デリー・アグラ・ジャイプル」より)と言われている。ここでは細かな修復作業が行われていた(写真下左)。その上には、「栄光の間(ジャス・マンディール)」がある。美しい透かし彫り細工の施された、アラバスター製の窓があり(写真下中)、そこからの見晴らしもなかなか良い。また宮殿の奥(南側)にも中庭があり、それを囲むように「ハーレム」が建てられている(写真下右)。

ウィキペディア・フリー百科事典(アンベール城)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%9F%8E
ウィキペディア・フリー百科事典(ガネーシャ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A3

約1時間で「アンベール城」の見学を終え、再びジープに乗って丘を下り、バスに乗って来た道を戻る。その途中、「ジャルマハル湖」でバスを降りる。

11:42~11:52 「ジャルマハル湖」で「水の宮殿」の写真撮影
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「ジャルマハル湖」に浮かぶマハラジャの宮殿。湖は16世紀に造られた人工湖で、23.5k㎡の広さを持つ。宮殿は5階建てで、湖の水が一杯になると、最上階しか見えなくなるという(写真)。

ウィキペディア・フリー百科事典(ジャルマハル湖 [Jal Mahal : 英語版])
http://en.wikipedia.org/wiki/Jal_Mahal#The_Palace

12:00~12:30 宝石店で工場見学とショッピング
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ジャイプルは宝石の産地で、エメラルド、ルビー、オパールやアメジストなど、色々な種類の石が採れるとの事。宝石加工の様子を見学(写真)した後、店に移動してショッピングである。色々な石を見せてもらったが、欲しいものはなかったので、ここでも何も買わずに店を出た。

Bhandari Jewellers
http://www.bhandarijewellers.com

12:36~13:35 レストランで昼食
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昼食会場は、レストラン「Durg The Fort」(写真左)。屋外のテーブルで食事をしたのだが、ここもハエが飛びまわっていたので、なかなか食事に集中できない(写真中左)。

メニューは次の通り。
・レモニとコリアンダーのスープ(写真中右)
・カレー料理(写真中右)
・パスタ、トマトソース(写真右)
・インド菓子
・コーヒー

どれもスパイシーだったので、少しずつ頂くに留めた。

Durg The Fort
http://www.durgthefort.com


(参考文献)
・「地球の歩き方 ‘11~’12 インド」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「図説インド歴史散歩」(岩瀬一郎他編)[河出書房新社刊]
・「インド建築案内」(神谷武夫著)[TOTO出版刊]
・「インド古寺案内」(神谷武夫著)[小学館]
・「週刊世界遺産27(インド)」(菅家洋也編)[講談社刊]
・「週刊世界遺産83(インド)」(伊藤裕編)[講談社刊]
・「イスラーム建築の見かた」(深見奈緒子著)[東京堂出版刊]
・「デリー・アグラ・ジャイプール」(ラジャラマパンダ著)[ミッタルパブリケション刊]
・「デリー・アグラ・ジャイプル」(ダンラジ・アスワニ著)[シュリナート・ニューススタンド刊]


January 21, 2012

「アグラ城」と「ファテープル・シークリー」

インドの旅(第13回)

10:55 バスで「アグラ城」へ

11:07~12:10 「アグラ城」見学
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「アグラ城」は、「タージ・マハル」から西へ約2km、「ヤムナー川」沿いに位置する。ムガル朝の中で最も重要な城郭で、1565年から1573年にかけて、第三代皇帝アクバルによって建てられた。城壁や城門がすべて赤砂岩で築かれていることから、「赤い城(ラール・キラー)」とも呼ばれている。城壁の長さは約2.5kmで、高さは77フィートだ(写真 : アマル・シィン門)。

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我々は、城の南側にある「アマル・シィン門」から入り、まっすぐ続く道を歩いて「アクバリー門」(写真左)をくぐった右手、黄緑の芝生が敷かれた庭の奥に「ジャハーンギール宮殿」(写真右)が見えた。赤砂岩で造られた城塞内で最も優れた重要な建築物で、突き出たひさしや彫刻が施された壁、図書館として用いられ部屋の書棚など、見どころも多い(写真下段)。

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宮殿を抜けると、テラスに出る(写真左)。ここから、先ほど訪ねた「タージ・マハル」が見える(写真中)。テラスの北側には、「ムサンマン・ブルジュ(囚われの塔)」(写真右)がある。ここに第五代皇帝シャー・ジャハーンが幽閉されていたのだ。この部屋の窓から「タージ・マハル」を眺め、亡き妻を偲ぶことが、シャー・ジャハーンの唯一の慰めだったという。

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さらに北に進むと、「ディーワン・イ・カース(貴賓謁見の間)」だ。美しい白亜の大理石宮殿で、1637年にシャー・ジャハーンが建てたといわれている。

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西側には、「ディーワン・イ・アーム(一般謁見の間)」がある。シャー・ジャハーンによる、砂岩から大理石への建て替え事業の対象となった最初のホールの一つで、中庭の東面中央部にある。

ウィキペディア・フリー百科事典(アグラ城塞)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B0%E3%83%A9%E5%9F%8E%E5%A1%9E

約1時間で「アグラ城」の見学を終え、昼食のため、宿泊していたホテル「ジェイピーパレス」に戻る。

12:30~13:23 ホテルのレストランで昼食
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ビュッフエ方式だったので、またしてもスパイシーなものを避けてチョイスし、スパゲティ、パスタ、野菜炒め、パン、スープ、ヨーグルト、ケーキを頂いた。

13:25 バスで「ジャイプール」へ出発
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道中、バスの窓から活気ある露天市場を見て楽しむ。

14:46~14:56 トイレ休憩

15:12~15:50 「ファテープル・シークリー」観光
アグラ中心部から、南西約37kmに位置する城跡である。当時世継に恵まれなかったアクバルは、「ここに住む聖者シェーク・サリーム・チシュティーの予言によって男児(後の第四代皇帝ジャハーンギール)を得た。これにちなんでアクバルは、1571年に首都をこの地に移転させた。約5年かけて建設された都は、3km×1.5kmの広大な土地を城壁で囲み、その中央の丘に宮廷やモスクを赤砂岩で築いた壮麗なものであった」(「地球の歩き方 ‘11~’12 インド」より)。

「ファテープル・シークリー」とは、「勝利の都」の意味。1573年、インド西部のグジャラート地方で勝利をおさめたアクバルが、これを記念して名付けたとの事。このようにして造られた新しい都であったが、水不足が原因で、14年後にはラホールに遷都されたのである。

しかし、「後宮の妃五千」と言われるほど多くの妾を抱えながら、世継に恵まれなかったというのだから、不思議としか言いようがない。


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遺跡は「宮廷地区」と「モスク地区」に分けられる。我々が訪ねたのは「宮廷地区」だ。東側から中に入ると、そこは回廊に囲まれた中庭で、正面には「ディーワン・イ・アーム(一般謁見の間)」が見える(写真)。王が国民と接する開放的な殿舎で、主に裁判が行われたようだ。

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その横を通り過ぎ、次の広場に出ると、「ディーワン・イ・カース(貴賓謁見の間)」が建っていた。宮廷地区の政務部分に当たり、王の私的な謁見の建物だ(写真左)。2階建ての吹き抜け構造で、中央にバナナの房のような柱頭を持った柱が、回廊の四隅から伸びて対角状にクロスするブリッジを支えている(写真右)。王は、このクロスする部分の中央に置かれた玉座から、貴賓や賢人を迎え、また討議するのを審判したという。

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さらに西に進むと、宮廷地区で最もユニークな構造物である「パンチ・マハル(五層閣)」が建っている(写真)。柱と梁によるジャングルジムのような構造で、五層の吹き抜けからなる。1Fの列柱は84本あり、その数は上に行くほど少なくなるが、同じデザインの柱はないという。建物前の広場には方眼が刻まれており、ここで人間を駒に見立てたチェスのようなゲームが行われていたとの事。「かつては透かし彫りのスクリーンで覆われ、女性達が展望や涼をとるためにも使ったという」(前掲書より)。

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「パンチ・マハル(五層閣)」の南側には、「ミリアムの館」(写真)がある。アクバルの妃の一人である、マリヤム・ウズ・ザマニ(ジャハーンギールの母)が住んでいた館で、贅を尽くした金箔のため、当初は「ソネフラ・マカン」、または「ゴールデンハウス」と呼ばれていたようだ。

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さらに南西側に進むと、「ジョド・バーイー殿」(写真)が建っている。アクバルの息子、ジャハーンギールの妃の名がつけられている。実際はねアクバルとその妃の住まいであったようだ。

まだまだ見たいところがあったのだが、集合時間が近づいたので、已む無く指定された場所に戻ることにした。「ディーワン・イ・カース」の前で集まり、回廊に囲まれた中庭を通って、バスの待つ場所に向かった。

ウィキペディア・フリー百科事典(ファテープル・シークリー)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC

15:50 バスでジャイプールに向かう。

17:34~17:52 トイレ休憩を兼ね、土産物店でショッピング

20:00~21:05 レストランで夕食
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午後8:00、ようやく夕食会場である「Hotel Glitz Jaipur」に到着した(写真左)。広いスペースの部屋だが、まだお客の数は少ない(写真中)。今回は、インド・フォークロアダンスを見ながらの食事である。特に舞台というのは無く、レストランのフロアでそのまま踊りを見せてくれるのだ。すでに男性二人が楽器の準備をし、女性二人がいつでも踊りを始められるようにスタンバイしていた(写真右)。

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夕食のメニューは、スープとターリー料理(大皿にインドの料理が載せられてくる)だ。料理が配られると、音楽が鳴り始め、踊りが始まった。

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サリーを着た女性が、頭の上に壺のようなものを乗せ、二人揃ってクルクル回転する。頭の上の壺の数は、段々増えてくる。最後は、食事を終えた私たちも参加して、一緒に踊った。おかげで楽しく過ごす事ができた。

Hotel Glitz Jaipur
http://www.hotelglitzjaipur.com
http://www.hotelglitzjaipur.com/showpimage.aspx?catid=48

21:30 ホテル「ジャイ・マハール・パレスホテル」に到着
250年以上前に建てられた、インド・サラセン様式の建物。元大臣官邸であった高級ホテルだ。中庭も広々としており、遺跡に宿泊するような感じである。

21:45 入室
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広々とした部屋。白とブルーでまとめた、爽やかな雰囲気だ。バスタブの横には扉があり、それを開くとベッドルームが見える。残念ながら、資料整理用に便利な、スタンド付きデスクはない。入浴した後、資料整理を済ませ、23:30頃ベッドに入った。

Jai Mahal Palace Jaipur
http://www.tajhotels.com
http://www.tajhotels.com/Luxury/Grand-Palaces-And-Iconic-Hotels/Rambagh-Palace-Jaipur/Overview.html

(参考文献)
・「地球の歩き方 ‘11~’12 インド」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「図説インド歴史散歩」(岩瀬一郎他編)[河出書房新社刊]
・「インド建築案内」(神谷武夫著)[TOTO出版刊]
・「インド古寺案内」(神谷武夫著)[小学館]
・「週刊世界遺産27(インド)」(菅家洋也編)[講談社刊]
・「週刊世界遺産83(インド)」(伊藤裕編)[講談社刊]
・「KHAJURAHO(日本語版)」(アーチャナ・シャンカール著)[ロリ・ブックス刊]
・「イスラーム建築の見かた」(深見奈緒子著)[東京堂出版刊]


January 19, 2012

白亜の大霊廟「タージ・マハル」

インドの旅(第12回)

第5日目 (12月11日[日] : 晴れ)

6:30 起床

6:50~7:30 朝食
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本日もスパイシーなものを避けて選び、コーンフレークにおかゆ、菓子パンにコロッケ、そして出来たてのオムレツを頂く(写真左)。食事の後、10分ほどホテル内を歩く(写真中・右)。

8:00 バスで「タージ・マハル」観光へ出発

8:25~9:50 「タージ・マハル」観光
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昨晩訪れた時とは、全く雰囲気か異なる。道路には障害になるような柵は、一つも置かれていない(写真)。また「タージ・マハル」に入場する前の厳しいチェックもない。やはり夜は異常に厳しかったのだ。バスを降りて、200~300m歩くと「東門」である。チケットを見せて入場する。

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昨晩、警備員と一緒でなければならなかった前庭も自由に歩くことができる(写真左)。200~300m先の右手には、正門が見える(写真中)。赤砂岩造りで、入口周囲にはカリグラフィーが、天井部にはムカルナスでデザインされている。正門に近寄って行くと、そこからは真っ白に輝くタージ・マハルが見えた(写真右)。

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昨晩とは全く違う。月明かりのもとで見た「タージ・マハル」は神秘的であったが(写真左)、昼間のそれは「白亜の美」という感じである。しかし、インド建築の最高傑作と言われているが、私には、どう見てもイスラム建築の最高傑作にしか見えない(写真右)。雰囲気はウズベキスタンで見た霊廟に近い。やはりティムールの後を引き継いでいるのであろう。

ところで、真っ白な大理石で作られた雄大な建物「タージ・マハル」は、第5代皇帝シャー・ジャハーンが、若くしてこの世を去った妻のために建てた霊廟である(※)。敷地面積は42エーカー(約17万㎡)。一日当たり2万人の労働力を投入し、22年かけて完成した(1632年着工、1654年完成)。建設資金は、当時のお金で1億1千万ルピー。この結果、帝国の金庫は空になったと言われている。

(※)第5代皇帝シャー・ジャハーンが「妻ムムターズと知りあったのは、皇帝になる前のこと。王城内で催されたバザールで宝飾品を売る彼女にシャー・ジャハーンは一目惚れをした、そして、5年後に結婚。彼が20歳、ムムターズが17歳のときのことだった。ムムタース・マハルとは、「宮廷の選ばれし者」を意味し、嫁ぐ際に先帝から授けられた名である。皇帝となったシャー・ジャハーンは、遠征にも妻と子供達を伴った。たとえ砂漠や濁流のガンジス川を渡る困難な行軍でも、二人は片時も離れなかった。そんな皇帝の愛に応え、彼女は14人の子供をもうけている。しかし、帝国の版図拡大をはかる皇帝に付き添って出かけた遠征先のデカン地方で、ムムターズは産褥熱(さんじょくねつ)により、36歳の若さでこの世を去ってしまう。シャー・ジャハーン帝の悲しみは計り知れなかった。黒々とした髪は一夜にして白髪となり、国民にも2年間、喪に服することを命じるほどであった」(「週刊世界遺産27(インド)」より)。


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正門をくぐると、正面には、園路で田の字形に分割されたチャハルバーグ(四分庭園)が広がる。これは、イスラム教のコーランで説かれている「天上の楽園」を表しているのだ。中央の水路には、白く輝く「タージ・マハル」の姿が映し出されている(写真)。途中で記念写真を撮りながら、「タージ・マハル」に向かって歩く。霊廟は100m四方の大基壇の上に建っているので、階段を上り傍まで行く。内部は、繊細な透かし彫りが施された大理石に囲まれており、その中心に、王妃の棺が安置されている。棺の表面には、メノウやヒスイなどがふんだんに使われ装飾されている。ご存知の通り、「タージ・マハル」は左右対称の美を持っているのだが、唯一崩れているのが、この棺の置かれている部分なのだ。というのも、第5代皇帝シャー・ジャハーンの棺が、王妃の棺の横に置かれているからである。

では、何故このような事になったのであろうか。それはシャー・ジャハーンが、晩年、息子のアウラングゼーブによって皇帝の位を追われたためだ。シャー・ジャハーンは、ヤムナー川の対岸に、「タージ・マハル」と同じ形の自分の霊廟を黒大理石で建て、二つの霊廟に橋を架ける計画を持っていたというが、「タージ・マハル」だけでも財政が破綻しかけていたというのに、もしこの計画が実行されていたなら、ムガル帝国の終わりは、もっと早まっていたに違いない。アウラングゼーブは、父のために新たな霊廟を建てることはせず、母の棺のそばに父の棺を並べたのだ。
ところで、これらはいずれも本物の墓ではなく、本物は中央の部屋の下、これらの墓の真下に安置されているのだ。本物の墓が踏まれることのないよう、本物の墓とは別にその上部にレプリカの墓を設けるのが当時の風習だったようである。

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霊廟の内部を見た後、裏側に回ると、ヤムナー川が見えた(写真左)。何もない対岸を見ながら、黒い霊廟を想像するのも面白い。もし完成していたなら、どのような感じになっていたのだろうか。霊廟の西側には、赤砂岩で造られたモスクが建っている(写真右)。東側には、モスクと同じ形をした迎賓館が見られる。

ウィキペディア・フリー百科事典(タージ・マハル)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%AB
ウィキペディア・フリー百科事典(シャー・ジャハーン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B3
ウィキペディア・フリー百科事典(アウラングゼーブ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%BC%E3%83%BC%E3%83%96
ウィキペディア・フリー百科事典(ムムターズ・マハル)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%A0%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%AB
ウィキペディア・フリー百科事典(ヤムナー)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%A0%E3%83%8A%E3%83%BC%E5%B7%9D


「タージ・マハル」での見学を終え、次は「シャー・ジャハーン」が幽閉されていたという「アグラ城」に向かう。しかしその前に、トイレ休憩のため、大理石細工の工場を持つお店「U.P.CRAFTS PALACE」に立ち寄った。

10:14~10:55 「U.P.CRAFTS PALACE」で工場見学&ショッピング
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ここでは、象嵌細工の品々を作り、販売している。先ほど、タージ・マハルの霊廟や、「シャー・ジャハーン」とその妃の棺の表面に施されていた見事な細工もこれだ。大理石の板に、深さ2.5mmほど彫り込み、そこにピッタリ嵌るように貴石を削って組み込んでいくのである。何とも細かい作業が必要だ。お店の方に行くと、豪華な作品が何点も展示されていた。しかし、「いいな」と思うものは、テーブルなど大きなものばかりだったので、結局何も買わずにお店を出た。

(参考文献)
・「地球の歩き方 ‘11~’12 インド」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「図説インド歴史散歩」(岩瀬一郎他編)[河出書房新社刊]
・「インド建築案内」(神谷武夫著)[TOTO出版刊]
・「インド古寺案内」(神谷武夫著)[小学館]
・「週刊世界遺産27(インド)」(菅家洋也編)[講談社刊]
・「週刊世界遺産83(インド)」(伊藤裕編)[講談社刊]
・「KHAJURAHO(日本語版)」(アーチャナ・シャンカール著)[ロリ・ブックス刊]
・「イスラーム建築の見かた」(深見奈緒子著)[東京堂出版刊]



January 17, 2012

ムガル帝国時代

インドの旅(第11回)

「タージ・マハル」や「アグラ城」などについてお話しする前に、ムガル帝国の歴史について、簡単にまとめておいた。この先訪ねる場所を理解する上で、これだけのことを知っておくと旅が楽しくなると思うからだ。もちろん、私の独断と偏見による選択である。

歴代王の順に見た、ムガル帝国の年表を挙げると、次の通りである。

<年表>
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初代 バーブル(1526年 - 1530年 : 建国)
第2代 フマユーン(1530年 - 1540年、復位:1555年 - 1556年)
第3代 アクバル(1556年 - 1605年 : 勢力伸長、「ファテープル・スィークリー」(写真左)、「アグラ城」(写真中)、「フマユーン廟」(写真右)を建設)
第4代 ジャハーンギール(1605年 - 1627年)
第5代 シャー・ジャハーン1世(1628年 - 1658年 : 「タージ・マハル」(写真下左)を建設)
第6代 アウラングゼーブ・アーラムギル(1658年 - 1707年 : 最盛期、死去と共に衰退へ)
第7代 バハードゥル・シャー1世(1707年 - 1712年)
第8代 ジャハーンダール・シャー(1712年 - 1713年)
第9代ファッルフシヤル(1713年 - 1719年)
第10代 ラフィー・ウッダラジャート(1719年)
第11代 ラフィー・ウッダウラ(1719年)
第12代 ムハンマド・シャー(1719年 - 1748年 : 「シティ・パレス」(写真下中)を建設)
・サーワーイー・ジャイ・スィン二世(ジャイプール地方に勢力を持つカチワーハ家の王 : 「シティ・パレス」、「ジャンタル・マンタル(天文台)」を建設)
第13代 アフマド・シャー(1748年 - 1754年)
第14代 アーラムギール2世(1754年 - 1759年 : 「プラッシーの戦い」で敗北)
第15代 シャー・アーラム2世(1759年 - 1806年)
・サワーイー・プラタープ・スィン(ジャイプール地方に勢力を持つカチワーハ家の王 : 「ハワー・マハル(風の宮殿)」(写真下右)を建設)
第16代 アクバル・シャー2世(1806年 - 1837年)
第17代 バハードゥル・シャー2世(1837年 - 1858年 : インド人傭兵[シパーヒー]による大反乱、ムガル帝国滅亡)

14世紀後半、チンギス・ハンの子孫と称するティムールが、中央アジアを統一して大帝国を築いた。バーブルは、そのティムールの子孫で、元は中央アジアに領地を持っていたが、勢力争いに敗れてその地を追われ、アフガニスタンから北インドに進出する。1526年に、デリー北部のパーニーパットで、北インドを支配していたイスラムの王朝(デリー・スルタン朝)と対決して勝利し、ムガル帝国を建国。

ムガル帝国が大国へと成長していくのは、第3代皇帝アクバルの時代からである。アクバルは、1556年、2代目の皇帝が急死したため、13歳で即位。成人するまでに、権力を握っていた家臣を倒して、独裁的な権力を手にした。そして彼の時代に、ムガル帝国の領地は、インド亜大陸の北半分にまで広がっていったのである。
帝国の支配は、軍事力で押さえつけた面もあったが、彼は「宥和的宗教政策」、すなわちヒンドゥー教徒とイスラム教徒との融合を図り、支配の基盤を固めようとした。たとえば、彼みずからヒンドゥー教徒の女性と結婚し、また非イスラム教徒に課されていた人頭税(ジズヤ)を廃止して、ヒンドゥー勢力を味方につけたのである。

アクバルの時代に確立した統治制度は、第6代アウラングゼーブの時代まで続き、ムガル帝国の最盛期を迎える。また、インドのほぼ全域に支配を拡大することで、イスラムとインドの文化が融合した、「ムガル文化」も発展した。イスラムの影響を受けたミニアチュール(細密画)もその一つで、ムガル帝国の時代に、その技法がインドにもたらされたのである。
「しかし、その治世はまた、支配の弱体化が進んだ時代でもあった。ムガル支配層は、地租の徴収を強化しただけで、農村や都市で展開した商品生産に積極的にかかわろうとしなかった。また、アウラングゼーブは、イスラム教を深く信仰した一方で、ヒンドゥー教寺院の破壊を命じ、あるいは人頭税を復活するなど、ヒンドゥー教徒を圧迫して反発を招いた。こうした情勢の中で、地方勢力は着実に力をつけ、各地で農民反乱や独立の動きが表面化した。西インドでは、ムガルの支配から独立してヒンドゥー国家の建設を目指すマラーター王国が登場し、西北インドではシク教徒が反乱をおこした。アウラングゼーブの死後にムガル帝国はたちまち解体し、ベンガルやデカンに独立政権が生まれた」(「詳説世界史」より)。

「アウラングゼーブの死後にムガル帝国が解体する一方で、地方の諸勢力が独立し、抗争をくりかえしていた。英仏両東インド会社は、これら勢力間の抗争にまきこまれただけでなく、インドとは無関係のヨーロッパでの対立を持ち込むことさえあった。カーナティック戦争はこうした例であり、英仏両勢力とインド側の政治勢力とが入り乱れた抗争であった。勝利したイギリスは、パリ条約(1763年)でインドでの英仏抗争に決着をつけ、つづいてマイソール戦争に勝利し、南インドを制圧した。同様の事態はインドの他地域でもみられた。イギリスは、東部ではベンガルの地方政権とフランスの連合勢力をプラッシーの戦い(1757年)で破り、税を徴収する権利を獲得して財政基盤を確保した。つづいて西部ではマラーター戦争に勝利し、最後は西北部でシク戦争に勝利した。こうしてイギリスは、一部の王国は藩王国として間接統治とし、ほかは直接に統治する体制をつくりあげ、植民地支配を完成させた」(前掲書より)。


ウィキペディア・フリー百科事典(ムガル帝国)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%82%AC%E3%83%AB%E5%B8%9D%E5%9B%BD


(参考文献)
「詳説世界史」(佐藤次高ほか著)[山川出版社刊]


January 16, 2012

月夜の「タージ・マハル」

インドの旅(第10回)


東群の寺院を離れ、トイレ休憩をとるため、バスで土産物店へ向かう。

10:32~11:00 お土産物店でトイレ休憩&ショッピング
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到着した土産物店は、「KANDARIYA ART&CULTURE」(写真左)である。平屋建てだが、かなり大きなお店で、入口前の広場には、アプサラやミトゥナなどの石像が数多く並べられていた(写真中)。店内も品数豊富で、石像だけでなく、木彫りの彫刻やその他の民芸品、衣類や菓子類も置いてあった(写真右)。店内をひと回りし、買うものもないので店を出ようとしたところ、小さなショーケースの中に、古びた本が並んでいるのを見つけた。気になったので見せてもらうと、ムガール帝国時代に描かれた「カーマ・スートラ」であった(写真下)。文字はアラビア語で書かれており読めないが、図はミニアチュール(細密画)である。ミニアチュールについては、コレクターではないが、非常に興味を持っており、イランに行った時も素晴らしい作品を1点購入した。イスラムのミニアチュールはペルシャの影響を受けており、インドの細密画もその流れをくむ。どのぐらいの価値があるものか私には分からなかったが、自分が払っても良いと思う値段で購入した。日本では、なかなかお目にかかれないのではないかと思うのだが、私が知らないだけかもしれない。しかし、とりあえず満足して店を出た。

午後からは「ジャンシー」に向かい、「ジャンシー」からは特急列車で「アグラ」に行く予定である。バスで2時間ほど走り、レストランで昼食を頂く。

13:10~14:15 レストランで昼食
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昼食会場のレストランは、「Maharaja Motel & Resorts」。このあたりではレベルの高いレストランなのだろうが、日本人から見ると、田舎にある大きな食堂といった感じか(写真左)。蠅が多く飛んでいるのと、食器類に汚れが付いているのが難点。皆さんナイフ・フォークやグラスを、ウェットティッシュで拭いて使っていたのが印象に残った。私は気にせず、食器類をそのまま使ったが、蠅には困った。ちょっと横を向いていると、すぐに食べ物に集るのだ。蠅を手で追い払いながら食べていると、味が良く分からなかった。メニューは次の通り。

・トマトスープ(写真中)
・クミンバターライス、チキンカレー、チーズと豆(写真右)
・ナン
・バナナ
・コーヒー

Maharaja Motel & Resorts
http://www.maharajamotalresort.com

約1時間で食事を終え、14:16 バスで「ジャンシー」へ向かう。約2時間の道のりであったが、その間数度、バスは停まって支払いをしていた。高速道路でもないのに何だろうと思いガイドに訊ねたところたら、「通行税」(州税)の支払いをしているのだとの回答。州の境界で支払はなければならないとの事。ただし、これは黄色のナンバープレートを付けている商用車だけだ。我々の乗っているバスなどは、「200~300ルピー×乗車人員分」を、またトラックなどは「トン数」で金額が決まるようである。しかし、いずれの場合でもワイロ分は上乗せして支払わなければならないという。支払わない場合は、嫌がらせに遭い、なかなか通過させてもらえないとの事。イギリスの植民地時代に、法治主義と民主主義は定着しているはずなのに、運用は全く違うようである。

16:46 「ジャンシー」到着
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白とピンクを基調にした、可愛らしい雰囲気の駅である(写真)。列車の時間まで、まだ1時間以上有ったので、乗車券の確認をした後、自由時間になった。しかしどこかに行くつもりもなかったので、ベンチに腰かけていた。私の右手に日本人らしき若いカップルがいたので、日本語で話しかけたのだが通じない。英語で話すと、返事が返ってきた。私と同じ、アグラに行く予定との事。色々お話しを聞いていると、彼らはハワイ在住の日系三世で、新婚旅行の最中であった。タイのチェンマイを訪れ、その後このインドを廻り、シンガポールで数泊した後、ハワイに戻る予定である。どうりで日本人に見えるわけだ。奥さんは、何ヶ月間か広島の小学校で英語を教えたことがあると言っていた。だから、少しだけ日本語が分かるのだという。雑談していると、時間が過ぎるのは早い。またアグラで会うかもしれないね、といって別れた。

ウィキペディア・フリー百科事典(ジャンシー[Jhansi : 英語版])
http://en.wikipedia.org/wiki/Jhansi

17:56 特急列車に乗車
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列車到着予定時刻の15分ぐらい前にホームに行き、列車が入って来るのを待つ(写真左)。ホームは混雑していたが、すべての人が列車に乗るわけではない。ヨーロッパと同じで、ホームへは切符なしで入れるので、色々な人がいるのだ。私たちの前には、5~6歳の女の子が2人いた。彼女達は前転をして見せた後、空き缶を突き出し、お金を入れろと催促してきた。誰も相手にしない。ツアーメンバーの一人が、甘やかしてはダメ。学校に行って勉強しなきゃ、と言っていた。しかしインドの場合、希望すればだれでも小学校に通うことはできるのだが、義務教育ではないため、親が子どもを学校に行かせようとしなければ、子供は学校に行かないまま過ごしてしまうことになるのだ。インド人の教育水準は高く、特に理数系に強い。人材が育っているので、これからますます有望な国であると言われているが、間違いではないにしても、全くできない人もいるのだ。この面でも混沌としているのではないだろうか。
ところで、インド時間で当然遅れてくると思っていた列車だが、定時に到着、定刻に発車だ(写真右)。飛行機で遅れを経験していただけに、少々驚いた。

INDIAN RAILWAYS
http://www.indianrail.gov.in/

18:01 特急列車で「アグラ」へ
車内の座席は、2列―通路―3列になっていた。私の席は3列の真ん中だ。指定の席に座ると、インド人の男性が席を替わってほしいと言ってきた。どうやら私の右側に彼の妻が、そして左側に彼の母親が座っているのだ。当然替ってあげた。その後添乗員が、気をきかせて、彼の座っている窓側の席と替ってくれた。その席は2列の窓側だったのだが、通路側には、先ほど席を替ってあげた男性の父親が座っていたのだ。何となく彼らと良くなり、彼らの赤ちゃんをあやしたりしながら楽しく過ごした。

18:10~18:30 軽食
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しばらくすると、軽食が提供された(写真)。トレイの上に、サンドイッチやスナック、ジュースなどが並んでいた。ジュースを飲もうと思ったら、ストローがなかったので、サービス係りの男性を呼んだのだが、全く気が付いてくれない。すると隣に座っていた男性が、喧嘩でも始めるのではないかというぐらい大きな声を出し、彼を読んでくれた。これがインド式なのだろうか。しかし、無事ストローをもらうことができた。

18:20 「アグラ」に到着
定刻で「アグラ」到着(写真)。この後「夜のタージ・マハル」観光の予定だが、定刻に着いたおかげで、慌てる必要はない。

20:40 迎えに来ていたバスに乗車

20:58~21:52 レストランで夕食
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夕食の会場はレストラン「Pinch of Spice」だ(写真左)。綺麗で、なかなか雰囲気も良い。当然、蠅も飛んでいない。メニューは、次の通り。

・コーンスープ(写真中)
・ビリアニ、野菜インド風、マトニカレー、カレーソース(写真右)
・コーヒー

Pinch of Spice
http://www.pinchofspice.in

約1時間で食事を終え、本日宿泊するホテル、「シェイピーパレス」に向かう。


22:10 ホテル「シェイピーパレス」に到着
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五つ星の豪華ホテル。道路に面して横に長く伸びているため、我々の部屋はフロントから5~6分歩かなければならない(写真)。

22:21 入室
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床はフローリング。全体を白と茶系統でまとめた落ち着いた雰囲気である。資料整理に使えるスタンド付きのデスクもあり、申し分ない(写真)。

JAYPEE PALACE
http://www.jaypeehotels.com/

22:40 バスで「夜のタージ・マハル」観光へ

22:50 「タージ・マハル」前に到着
夜の「タージ・マハル」見学は、20:30から始まり、翌日の00:30までで、30分ごとに入れ替わらなければならない。1グループ50人で、しかも毎日ではなく、満月を挟む5日間だけの公開だ。当然、予約が必要である。我々の入場時間は23:30から。ここまで来る道中、道には可動式の柵がいくつも置かれ、バスが一直線に走れないようになっていた。テロの車が一直線に突っ込めないようにしてあるのだろう。

タージ・マハルから数百メートル手前でバスを降りる。ここでのチェックも厳しい。まずボディチェックを受ける。ポシェットサイズよりも大きい荷物は、持ち込みを禁じられることもあるようだ。カメラはOkだが、次の部屋でチェックを受け、札が付けられる。次の場所では、チケットヲ見せ、もう一度ボディチェックを受ける。

23:30~24:00 「夜のタージ・マハル」見学
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外でしばらく待っていると、電気自動車がやってきた。これに乗り、タージ・マハルの東門近くまで進む。100mほど手前で降りて、東門まで歩く。ここでチケットを見せ、もう一度ボディチェックヲ受け、ようやく中に入ることができた。しかしここでも警備員と一緒に行動するのだ。前庭を通り抜け、正門をくぐったところでストップである。夜間は、これよりも先には進めないのだ。このテラスから、タージ・マハルを見学するのである。最初の数分はバックライトが点いていたが、その後は月明かりだけでの見学になる。生で見る月明かりの下のタージ・マハルは、何ともいえず神秘的な感じがするのだが、写真に撮ると全くダメ(写真)。「AUTO」で撮影すれば、適当に上手な写真が取れるだろうと思っていたのだが、本当にダメ。隣で撮影していた写真が趣味のおじさんの画面を覗くと、なかなかいい雰囲気に撮れている。私も再度チャレンジするが、やはりダメ。夜間撮影するための技術をマスターしてくれば良かったと後悔するが、時すでに遅しである。途中で写真撮影を止め、このシーンを体で覚えるため、ジックリ観察することにした。

30分というのは短いもので、アッという間に過ぎ去った。交代の時間が来たことを知らせるベルが鳴る。ノンビリしていると、警備員に声を掛けられてしまう。皆さんゾロゾロと正門をくぐり、前庭を通り、東門に向かった。門の外には、次のグループを降ろした後の電気バスが待っている。それに乗って検問所まで戻り、そこから、我々のバスが待つ場所まで数十メートル歩いた。

ウィキペディア・フリー百科事典(タージ・マハル)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%AB

00:25 ホテルに戻る。その後入浴、資料整理、荷物整理などをしていると、深夜になってしまった。ベッドに入ったのは、午前2:00頃である。


(参考文献)
・「地球の歩き方 ‘11~’12 インド」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「図説インド歴史散歩」(岩瀬一郎他編)[河出書房新社刊]
・「インド建築案内」(神谷武夫著)[TOTO出版刊]
・「インド古寺案内」(神谷武夫著)[小学館]
・「週刊世界遺産83(インド)」(伊藤裕編)[講談社刊]
・「KHAJURAHO(日本語版)」(アーチャナ・シャンカール著)[ロリ・ブックス刊]
・「インドのことがマンガで3時間でわかる本」(関口真理編)[明日香出版社刊]



January 15, 2012

カジュラホの寺院群(その2 : 西群の寺院と東群の寺院)

インドの旅(第9回)

・「マハデーヴァ寺院」

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シヴァ神を祀る、小さな祠堂。「カンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院」と「デーヴィー・ジャグダンベ寺院」の間に建つ。堂内には、獅子を慰めるアプサラ(天女)の姿が見られる(写真)。

・「デーヴィー・ジャグダンベ寺院」

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ダンガデーヴァ王の治世(954~1002年頃)後半の11世紀初頭に建立された。当初ヴィシュヌ神を祀っていたが、現在はシヴァ神の妃パールヴアティーを祀っている。この次に訪ねる「チトラグプタ寺院」と、規模も形式も似ている(写真)。

・「チトラグプタ寺院」

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11世紀初頭に建立された寺院で、カジュラホで唯一、太陽神スーリヤを祀っている。現在修復工事中のため、壁面画の一部を見ることができなかった(写真)。

・「パールヴァティー寺院」

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「ヴィスワナータ寺院」の南西に位置する小さな寺院で、当初から至聖所と玄関ポーチだけであった。ポーチは完全になくなっている」(「KHAJURAHO(日本語版)」より)。もともとはヴイシュヌ神を祀るために建てられた寺院であるが、現在はワニに乗るガンガーの像が安置されているらしい(写真)。


・「ヴィスワナータ寺院」

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1002年に建立された寺院で、シヴァ神を祀っている。「ラクシュマナ寺院」と同じく五堂形式をとるが、4つの小祠堂のうち2つが失われている。この寺院の壁面画にも、多くのミトゥナやアプサラの像を見ることができる(写真 )。

・「ナンディ堂」

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「ヴィスワナータ寺院」の東側、同じ基壇に建つのが「ナンディ堂」である。「ナンディというのは、ヴィシュヌ神の乗り物である牡牛で、ヴィシュヌ神に献じられた寺院の前面にはしばしばナンディ像が置かれ、大寺院の場合には堂となる」(「インド建築案内」より)との事。

9:45~10:00 バスで移動
「西群の寺院」での見学を終え、バスで「東群の寺院」に移動する。しかし、これだけのものを見るのに、わずか1時間半では少なすぎる。少なくとも半日かけて見るだけの価値はあると思う。
「東群の寺院」の寺院は、西群から東へ約1.5km。15分ほどで駐車場に到着した。


10:01~10:23 「東群の寺院」を見学
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東群にはジャイナ教の寺院が多く、これから入る塀に囲まれた一画にも、ジャイナ教の3寺院と祠堂群が立ち並んでいる(写真)。ちなみに「ジャイナ教」は、仏教の開祖釈迦とほぼ同時代の「マハーヴィーラ」を祖師とし、殺生を厳禁するほか、徹底した苦行・禁欲主義をもって知られている。白衣を着て修業する「白衣派(びゃくえは : シュヴーターンバラ)」と、裸で修業する「空衣派(くうえは : ディガンバラ)」に分かれる。

・「パールシュヴァナータ寺院」

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チャンデーラ王朝時代に建てられたもので、ジャイナ教の寺院の中では最大である(写真左)。「西群のヒンドゥ教の大寺院の形式が確立するよりも先に建立された。そのために外壁にバルコニーがなく、ほとんど長方形のプランなので、外観の造形的効果は劣る。しかし彫刻のスタイルはすでに完成に達していて、後のものに何ら遜色はない」(「インド建築案内」より)。壁面彫刻を見ると、ミトゥナ像はほとんど見られないが、様々なポーズのスラスンダリの美しい姿を見ることができる(写真右、中段)。なかでも、「アイラインをひく女」は有名だ(写真下)。

・「シャンティーナータ寺院」

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「パールシュヴァナータ寺院」の南西側に建つ寺院で、全体が白く塗られている点、これまでの寺院と大きくイメージを異にする(写真左)。院内は回廊式になっており、中庭の床は大理石仕上げだ(写真右)。イスラム教のモスクをイメージさせる部分も多々ある。観光客だけでなく、礼拝に来ている信者たちの姿も見られた。


ウィキペディア・フリー百科事典(ジャイナ教)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%8A%E6%95%99
ウィキペディア・フリー百科事典(マハーヴィーラ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%A9
ウィキペディア・フリー百科事典(カジュラーホー)
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約20分で見学を終えた後、トイレ休憩をとるため、バスで近くの土産物店に向かった。


(参考文献)
・「地球の歩き方 ‘11~’12 インド」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「図説インド歴史散歩」(岩瀬一郎他編)[河出書房新社刊]
・「インド建築案内」(神谷武夫著)[TOTO出版刊]
・「インド古寺案内」(神谷武夫著)[小学館]
・「週刊世界遺産83(インド)」(伊藤裕編)[講談社刊]
・「KHAJURAHO(日本語版)」(アーチャナ・シャンカール著)[ロリ・ブックス刊]
・「インドのことがマンガで3時間でわかる本」(関口真理編)[明日香出版社刊]



January 14, 2012

カジュラホの寺院群(その1 : 西群の寺院)

インドの旅(第8回)

第4日目 (12月10日[土] : 晴れ)

6:00 起床
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窓の外を見ると、プールが見える(写真左)。朝食は7:00からだったので、しばらくの間、ボ~と外の景色を眺めていた。部屋を出て、レストランに向かう途中、ロビーでウロウロしてみたが、ほとんど誰もおらず静かである(写真中)。壁に掛けられていたシヴァ神とその妻パールヴァティーのミニアチュールが印象に残った(写真右)。

6:50~7:30 朝食
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少し早目だったがレストランに行くと、すでに開いていたので、中に入る。いつものようにビュッフェ方式なので、好きな物を選ぶことができるのだが、香辛料の効いたものやカレー味のものが多かったので、それを避けて選んでいると、ほとんどが菓子パン類になってしまった(写真)。

8:00 バスで「カジュラホの寺院群」へ
バスに乗って出かけると、すぐに到着した。ホテルから、僅か500mほどしか離れていないのだ。

8:05 「カジュラホの寺院群」に到着
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駐車場(写真左)から50mほど歩くと、西の寺院群入り口だ(写真中)。このあたりにも「野良牛」が気ままにウロウロしている(写真右)。

8:10~9:45 「西群の寺院」を見学
ここでは、これまで案内してくれたガイドの他に、この場所専門のガイドが付く。これは、ガイドのライセンスが地域ごとに分かれているからである。ちなみに、寺院群は大きく3つに分けられ、最も寺院数の多いのがこの西群で、その他に東群と南群がある。

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中に入ると、北方型建築(ナーガラ式)の特徴である、砲弾型の塔状屋根を持つヒンドゥー教寺院が並んでいる(写真)。これらの寺院群は、カジュラホ一帯を9世紀から14世紀頃まで治めていたチャンドラ王朝の時代のもので、当時85もの寺院が建立されたという。そのうち現存するのは、25の寺院だけ。この中には、3つのジャイナ教寺院(東群などに見られる)も含まれている。これは、王家が両宗教を共に信仰したためだ。また、両宗教の寺院の構造も、神像彫刻を除いてほとんど同じである。「インド古寺案内」によると、「これは現代と同じように、同じ建築家や彫刻家が、ある時はヒンドゥー寺院を、ある時はジャイナ寺院を建てたためである。建築の形を規定するのは宗教の違いよりも気候風土の方がずっと重要なので、同じ地域で生まれた宗教の建築は同じようなスタイルとなる。イスラム建築が異なった形をしているのは、外来の宗教だったからである」との事。

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入口から十数メートル歩くと、正面に「ラクシュマナ寺院」(写真左)が、左手に「ヴァラーハ寺院」(写真右)が見える。我々は、最初に「ラクシュマナ寺院」を訪れた。

・「ラクシュマナ寺院」

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この寺院は、10世紀半ば(930~950年頃)に建立され、ヴァイクンタ(ヴィシュヌ神の化身)を祀っている。チャンデラ朝時代の完成された形式(チャンデラ様式)を備える、最大規模の寺院だ。寺院の中央建物は高い土台を持ち、四つの付属寺院に囲まれている。四つの寺院を現在も有し、完全な形で残っているのはこの寺院だけ(写真)。

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そして注目すべきは、有名な、壁面に施された壁面画である(写真上段)。神像(写真下段左 : ガネーシャ像)や想像上の動物などの像以外に、男女が交わる姿を描いた「ミトゥナ像」(写真下段中・右)が彫られている。あちらこちらに見られる「ミトゥナ像」だが、男女の交わる様子が表現されていることから、エロティックの象徴のように取り上げられることが多い。しかし、数えきれないぐらいの「ミトゥナ像」が彫られたのには訳があるのだ。このカジュラホで寺院建築が盛んであった10世紀頃が、タンドリズムの最盛期と重なったためである。

「タンドリズムとは、男女が肉体を交えることは宇宙と一体となること、とする信仰。禁欲を徹底する修行法とは対極にあり、ヒンドゥー教を始め、仏教(密教)にも影響を与えた。それ以前にもヒンドゥー教の概念では、カーマ(性愛)は、ダルマ(法)、アルタ(実利)と並ぶ人生の三大目的とされてきた。その集大成として、4~5世紀頃、性愛論書『カーマ・スートラ』が成立。そこでは都会の粋な遊び人を主人公に、性愛の技法などが説かれていた。カジュラーホの寺院群を飾る「ミトゥナ像」は、こうしたインドの性愛感の、おおらかな一面を物語っているのだ」(「週刊世界遺産83(インド)」より)。

「タンドリズム」については理解不能なので、説明することもできないが、当地のガイドに言わせれば、ヒンズー教の下では各人が心を満たされれば良く、その方法は幾通りもあるのだとか(精神的満足が宇宙に伝わるらしい)。座禅を組んで瞑想するのもその一つだが、男女が交わるのもその一つなのだ。そういえば前回、「ヒンドゥー教とヒンドゥーの神々」でお話ししたように、四住期の第二期は、家業に務め結婚して家族を養う家住期で、男子をもうけて先祖の祭祀を絶やさないことが重要視されるのだ。性愛を忘れないことが繁栄を導くことと考えれば、納得できないことでもないように思える。

性愛論書『カーマ・スートラ』については、全部で八十四手が書かれている。日本は四十八手、中国は七十二手だとか。ちなみに「カーマ」とは「仕事」を意味し、ここでは「愛する事」を、「スートラ」は「方法」を意味するようだ。

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ところで、これら寺院の壁面像に彫られた「ミトゥナ像」を見ていると、一定のパターンがあるのが分かる。ヒンドゥー教的理想美が定式化されているのだ。「顔は卵型、額の形は弓の形。目は、たいてい、切れ長で魚の形。眉毛は、ニームの木の葉の形。顎は、マンゴーの種の形。手足は、蓮の花のように。ウエストはスズメバチのようにほっそりと。胸とおしりは円く豊かに、といったような基準があった」(「KHAJURAHO(日本語版)」より ・ 写真 : パールシュヴァナータ寺院の壁面像)。

当地のガイドによると、B90、W60、H90が理想形とされているとの事。ところで余談になるが、インドに旅立つ前に読んだ本の一つに、「インドのことがマンガで3時間でわかる本」がある。この中に「国策化したミスコン美女」という項目があり、「インドでは伝統的なインド好み(ふくよかタイプ)を捨て、世界基準に合うような、目鼻立ちが派手で体型も大振りな女性を選んで、許される範囲の美容整形(矯正)やボディシェイプを施し、身のこなし、自己アピール術などを徹底して訓練している」と書かれていた。そして世界の主要なミスコンでインド代表がグランプリや入賞を続けているという。しかし最後に、「典型的なインド人の好みと違うためか、国内市場でのウケがいまひとつ」らしい。

話は「ラクシュマナ寺院」のことから少し離れてしまったが、これまでお話ししたことは、これから訪ねる寺院にも共通することである。


・「カンダーリヤ・マハデーヴァ寺院」

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この寺院は、11世紀頃に建立され、シヴァ神を祀っている。「カジュラホでもっとも壮麗で、彫刻装飾やその建物の構造、スケールの大きさのどれをとっても、チャーンデーラ朝寺院建築の絶頂を示していると言えるのが、このカンダーリヤ・マハデーヴァ寺院寺院である(写真下段)。ラクシュマナ寺院やヴィスワナータ寺院の建築技術や構造が、この寺院に置いて花開いたと言えよう」(「KHAJURAHO(日本語版)」より)。「前廊、玄関、前殿、本殿と徐々に高さを増す各々の高塔(シカラ)が山の尾根のように連なる姿が印象的。84もの小尖塔が集合したデザインの本殿の高塔は30.5mと最も規模が大きい」(「地球の歩き方 ‘11~’12 インド」より : 写真上段)。

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「ラクシュマナ寺院」と同じく砂岩で出来ており、壁面には神像や想像上の動物などの像以外に、男女が交わる姿を描いた「ミトゥナ像」(写真上段・中段)が彫られている。中でも、ヨガのポーズに基づく「マイトゥナ像」は、カジュラホで最も知られた像のひとつだ(写真下)。

ウィキペディア・フリー百科事典(カジュラーホー)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%9B%E3%83%BC
ウィキペディア・フリー百科事典(チャンデーラ朝)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%A9%E6%9C%9D
ウィキペディア・フリー百科事典(ジャイナ教)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%8A%E6%95%99
ウィキペディア・フリー百科事典(カーマスートラ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%A9

(参考文献)
・「地球の歩き方 ‘11~’12 インド」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「図説インド歴史散歩」(岩瀬一郎他編)[河出書房新社刊]
・「インド建築案内」(神谷武夫著)[TOTO出版刊]
・「インド古寺案内」(神谷武夫著)[小学館]
・「週刊世界遺産83(インド)」(伊藤裕編)[講談社刊]
・「KHAJURAHO(日本語版)」(アーチャナ・シャンカール著)[ロリ・ブックス刊]
・「インドのことがマンガで3時間でわかる本」(関口真理編)[明日香出版社刊]