December 20, 2009

タシケント(ウズベキスタン工芸博物館、ティムール広場、ナヴォイ劇場)

ウズベキスタンの旅(第17回)

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サマルカンドの朝の散歩を終え、出発の準備をして、ホテルのロビーに向かう。午前10:00、バスで出発し、20分ほどでサマルカンドの駅に到着(写真左)。駅の外観は空港のような感じである。中に入ると天井は高い(写真中左・中右)。殺風景だが、シンプルで機能性を重視した造りだ。構内で約30分、乗車案内があるまで待ち、10:50、地下道を通りホームに入る。10:55、タシケント行きの特急列車「シャルク号」(写真右)に乗車。11:10、定刻通り列車はサマルカンドに向け走り出した。

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車内は2列の座席、通路、2列の座席になっており(写真左)、座席の前にはテーブルと据え付け型のTVがある(写真中左)。リクライニングも150~160度ぐらいであろうか。ウズベキスタン航空のビジネスクラスよりも、座り心地は良い。窓からの眺めも、バスから見るものとは少し違うように思える。走る場所が違うからであろうか。列車が動き始めてから30分くらい過ぎた頃、昼食用に渡されたランチボックスを開け、食事にする。パン、ゆで卵、チーズ、ハンバーグなどが入っていた(写真中右)。30分ほどで食べ終え、再び車窓を楽しむ(写真右)。

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朝から歩き廻ったことによる心地よい疲れと満腹感からか、いつの間にか30分程眠っていた。午後1:15頃目覚め、また窓の外の景色を眺める。約3時間半でウズベキスタンからタシケントに到着(写真左・中左 : 駅の外から)。午後2:45過ぎ、タシケント駅のホームに降り(写真中右・右 : 駅構内)、午後2:56、駅まで迎えに来てくれていたバスに乗った。このようにスムース゛に乗りかえられたのには、理由がある。実はウルゲンチからサマルカンドまで乗せてくれていたバスは、我々が列車で移動している間、我々の荷物だけを乗せて、タシケントまで運んでくれたのだ。おかげで、我々は手荷物だけで移動ができたのである。

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タシケントで最初に訪ねたのは、「ウズベキスタン工芸博物館」だ(写真上段左・中左・中右)。15分ほどで到着。この博物館の建物は、1907年に建てられたロシア公使(ポーロクソフ大使)の元私邸で、ここには「陶器」(写真上段右)や「磁器」(写真中段左)、「ガラス製品」(写真中段中左)、「浮き彫り」(写真中段中右)、「楽器」(写真中段右)、「寄木細工」(写真下段左)、「壁掛け」(写真下段中左)、「宝飾品」(写真下段中右)、「ナイフ」(写真下段右)など、ウズベキスタンの工芸品が多数展示されている。

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展示品の中でも、最も充実しているのが「スザニ」(写真左)で、サマルカンド(右上)やタシケント(写真右中)、ブハラやヌラタ(写真右下)など、ウズヘキスタン各地で作られたものが並ぶ。中には100年以上前、19世紀の作品もある。「ウズベキスタン滞在記」によると、「スザニの原点は十八世紀頃から広く中央アジアの民族、ウズベク人やタジク人の間で作られ、婚礼時の持参品として壁掛けや物掛け布として使われてきた。また、スザニは娘が生まれると作り始めるとも聞く。その続きを娘が引き継ぎ世代を超えて作って行く過程に、家族の安全や繁栄の祈りを見ることができる。ゆえにスザニは親から子へ代々伝えられる貴重なものなのだ。スザニの語源はペルシャ語の針を意味する「スザン」から来ていて、タジク語では「糸で刺繍をすること」を意味している。中央アジアの女性達の間で綿々と受け継がれてきたスザニは、芸術的価値も大変素晴らしいものだ。図案は地域によって特徴があり、タシケントの図案は比較的現代的な紋様であるが、タジク人の多いサマルカンドやブハラ地域では古典的な植物や花の紋様、組み紐紋様などであり、古典紋様の源流はケルト紋様にあるとも聞く」、「刺繍糸は基本的にはクルミやザクロ、桑の木など自然の素材で染色されたものが使用されている」との事。

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約45分で「ウズベキスタン工芸博物館」の見学を終え、次は「ティムール広場」に向かった。サマルカンドでティムールの座像を見たが、この広場ではティムールの騎馬像をみることができる(写真左 : ウィキペディア・フリー百科事典(ティムール)[英語版]より)。5~6分で広場の前まで来るのだが、少々様子がおかしい。広場が全面改装のため工事されており、広場には入ることができないのだ。昨日、サマルカンドの「国立文化歴史博物館」が突然取り壊されていたのと同様、こちらの全面改装についても、ガイドにとっては突然の出来事だという。事前予告などはないらしい。仕方がないので、ガイドの誘導に従い、広場の東側に建つ「ホテル・ウズベキスタン」(写真中左)の、展望フロアに上ることとなった(写真中右)。夕陽で眩しかったが、そこからの眺めは抜群である(写真右)。改装工事のため、植木の抜かれた跡が残る「ティムール広場」(写真下左)。中央には「ティムールの騎馬像」の後ろ姿が見える。右手、北方向には、丸い建物の上にブルーのドームの建物がある。「ティムール博物館」だ(写真下中)。左手、南西方向には、初日に宿泊したホテル「タシケント・パレス」も見える(写真下右)。15分ほど展望フロアから街の景色を楽しみ、ホテルを出た。

ホテル・ウズベキスタン
http://www.hoteluzbekistan.uz
ウィキペディア・フリー百科事典(ティムール)[英語版]
http://en.wikipedia.org/wiki/Timur


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サマルカンドからのバスとはここで会い、荷物の受け渡しは終わっていた。引き続きタシケントのバスに乗り、ティムール広場の周りをほぼ一周してから、次の目的地である「ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場」に向かった。劇場は、初日に宿泊したホテル「タシケント・パレス」の東側に建っていたので、ライトアップされた姿は記憶に残っている。バスに乗ってから、5~6分で到着した。「ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場」(写真左・中左・中右)は、1947年に完成した1500人収容の劇場で、バレエの学院も併設されている。内装は素晴らしく、6つの休憩ロビーでは、タシケント、サマルカンド、ブハラ、ホレズム、フェルガナ、テルメズなど各地方のスタイルの装飾を見ることができる。かつて屋外にて音楽演奏がなされていたが、これを屋内で出来るようにするため、1930年に劇場づくりが始まった。1941年、第二次世界大戦のため建設工事は中断したが、1945~1946年頃に工事を再開した。このとき劇場建設に携わったのは、第二次大戦後タシケントに抑留されていた旧日本兵などの捕虜であった。約20,000人いた捕虜のうち、2,000人ほどがウズベキスタンで亡くなったと言う。現在日本人の墓が、800ほど残っているとの事。捕虜たちは、現在劇場前の噴水のある場所に柵が造られ、ここに捕らわれていたとの事。ちなみに、噴水の変わった形はウズベキスタンの作物である「綿花」を模っているという(写真右)。

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1966年4月26日、この地で大地震が発生したが、この劇場はびくともせず、この辺りで唯一崩れずに残ったという。ちなみに、劇場の北側の壁には、「1945年から1946年にかけて、極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォイー名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した。」との碑が残されている(写真)。

ウィキペディア・フリー百科事典(シベリア抑留)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%8A%91%E7%95%99


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20分ほどで「ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場」の見学を終え、次は皆さん小銭整理のため、近くのスーパーマーケットに行くという。私は書店に行きたかったので、ツアーを離れ、地図で確認していた近くの書店に急いだ。ガイドからは午後6:00まで開いているとの事であったが、店の前まで来るとすでに閉店されていた(写真)。まだ午後5:15頃なのに何故か分からない。店主がガラス越しに見えたので呼び出して確認すると、すでに閉店したとの事。添乗員によると、明日お祭りなので、その準備のために早く閉めたのではないかとの事であった。旅先の書店で本を探すことは、私の楽しみの一つだったので、非常に残念である。しかし、博物館などで見つけた本を、直ぐに購入しておいて良かったとも思った。重たいからとか、高いからと言って、後で買おうと思ってもダメである。本は見つけた時に買う。これは日本でも同じだが・・・。

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書店が閉まっていたので、私もみなさんが行っているスーパーに向かった。今度は少額紙幣とコイン入手のためである。お店は、1Fが食料品や日用品などを売る一般的なスーパーで、2Fは衣料品や化粧品、美容院などのテナントが並ぶ(写真)。小型のショッピングセンターと言ったところか。一通り見て廻るが、買いたいものがない。お釣りで小銭を受け取るつもりだったのだが、困ったことになった。すると添乗員が、ガイドに両替してもらうように頼んでくれるとの事。これまで手確認したところ、入手できていない紙幣は3種類(1スム、3スム、10スム)であることが分かったので、コイン商に行って入手を試みるが、まだ1スム紙幣しか手に入れていない。

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グループのうちの一部の人達だが、買い物に時間がかかり、予定より10分ほど遅れて店を出る。次は夕食だ。午後5:50「ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場」内のレストラン「ニュー・ワールド」に入る(写真左)。天井は高く、広々としたスペースに、贅沢な間隔でテーブルが並べられている(写真中左)。メニューは和食、中華、韓国料理。いわゆるヴァイキング方式なので、好きな物を好きなだけ食べることができる(写真中右)。昼食がランチボックスだったからなのか、それとも和食や中華が恋しかったからなのか。久しぶりに満腹になるまで頂いた(写真右)。これがこのツアー最後の食事。約1時間、楽しく過ごし、レストランを後にした。


ウィキペディア・フリー百科事典(タシュケント)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%B7%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%83%88
タシケント
http://www.advantour.com/jp/uzbekistan/tashkent.htm

(参考文献)
・「地球の歩き方シルクロードと中央アジアの国々 09~10」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド社刊]
・「ウズベキスタン滞在記」(矢島和江著)[早稲田出版]
・「文明の十字路=中央アジアの歴史」(岩村忍)[講談社学術文庫]
・「標準 世界史地図」(亀井高孝他編)[吉川弘文館]
・「最新世界史図説タペストリー」(川北稔他監修)[帝国書院]
・「新詳世界史図説」(浜島書店編集部)[浜島書店]

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December 16, 2009

サマルカンド観光(その2)[ アフラシャブ博物館とウルグベク天文台]

ウズベキスタンの旅(第13回)

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「シャーヒズィンダ廟群」の次に訪ねたのは、「アフラシャブの丘」の麓にある「アフラシャブ博物館」だ(写真左)。この博物館では、ゾロアスター教の祭壇や偶像(写真中左)、その他陶器(写真中右)やコインなど様々な時代の出土品が展示されている。中でも注目されるのは、サマルカンドの「イッシュヒッド宮殿」(7~8世紀)から発見された、玉座の間を飾るソグド人のフレスコ壁画だ。このフレスコ壁画は、博物館の入り口正面の部屋で展示されており、発掘地のレイアウトが再現されている。部屋に入って左手を見ると、結婚式の一行を、チャガニアン王国の娘である白い像に乗った花嫁が率いている(写真右)。そして彼女を仲間たちやラクダと馬に乗った上流階級の人々が随行する(写真下左・下中左)。その次に騎乗者として描かれているのは、イッシュヒッドである。正面の壁には、韓国人や中国人などが貢物を運ぶ様子が、また右手に壁には、猛獣に対抗する騎乗者の戦い(写真下中右)と小舟に乗っている男性と女性の画(写真下右)が描かれている。
※壁画の写真は、「”HALL OF AMBASSADORS” IN THE MUSEUM ON AFRASIAB(英語版)」より

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このフレスコ壁画と同様に、私にとってもう一つ気になる展示があった。それはコインである。アレキサンダー大王のコイン(写真左)に始まり、ササン朝ペルシャやグレコ・バクトリア(写真中左)、ソグディアなどのコインが展示されている。中でも、ソグディアのコイン(写真中右)に注目した。いわゆる穴銭のスタイルに、ソグド文字が描かれているのだ(写真右)。この時代にはローマやペルシャよりも、むしろ隋や唐の時代に発行された銅銭の影響を受けているのだろう。

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館内の写真撮影には1,500スムが必要だが、「イッシュヒッド宮殿」から発見された、玉座の間を飾るソグド人のフレスコ壁画を展示する部屋は撮影できない。仕方がないので、別に「”HALL OF AMBASSADORS” IN THE MUSEUM ON AFRASIAB(英語版)」、「CULTURE AND ART OF ANCIENT UZBEKISTAN(1)(ロシア語・英語版)」、「CULTURE AND ART OF ANCIENT UZBEKISTAN(2)(ロシア語・英語版)」の計3冊を購入した。まだまだ見ていたかったのだが、30分ほどで見学を終え、次の目的地である「ウルグベク天文台跡」に向かった。なお「アフラシャブの丘」については、バスの中からチラリと見ただけだが、何もないただの丘と言う感じだ(写真)。チンギス・カーンによって破壊されるまで、何世紀もの間ここに街が栄えていたと言われても、想像できない。

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バスで約5分、「ウルグベク天文台跡」に到着した。バスを降りると、目の前には公園のように緑に囲まれたエリア。右手前方上には、六角形の建物が見える(写真左)。階段を上ると、正面に「ウルグベク天文台跡」だ(写真中左)。ここはサマルカンドの北東、チュパン・アタという丘の上である。現在は円い天文台の基礎と六分儀の地下部分約11mだけしか残っていないが、当時は半径46m、高さ30mの建築物によって取り囲まれていた。また、メインホールには、当時としては非常に珍しい天体を観測するための施設が設置されていたという(写真中右・右・下段)。

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天頂儀の半径は約40m、円弧は63mあり、メインの6分儀は驚くべき正確さで子午線を指し示していたとの事。また望遠鏡もない時代であるにもかかわらず、ウルグベクの天文表として知られる綿密な天文表には、正確な観測の結果、1,018もの星の軌跡が記されている。さらにウルグベクは、1年間を365日6時間10分8秒と計算したが、今日の最新技術で測定した365日6時間10分9.6秒と比べ、誤差は1分未満にすぎないという。このような数々の成果には驚かされる。しかし、ウルグベクの死後、天文台は保守的なイスラム教徒によって破壊されたため、1908年、ロシア人のアマチュア考古学者ヴィヤトキンが、天文台の位置に言及している文書を見つけるまで、天文台の位置は長年の間謎とされていたという。これらのことについては、バスを降りた際右手に見えた、六角形の建物で詳しく知ることができる(写真)。

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「ウルグベク天文台跡」(写真)の方を訪ねると、多くの子供達が六分儀の地下の部分に降りていた。我々も下りて行くのかと思ったら、実は下に入ってはいけないとの事。子供達を引率して来た先生が、誤って彼らを中に入れてしまったようなのである。それを知った管理のおばさんは、先生たちに厳しい言葉を浴びせていた。ちなみに地下部分は11mほどの深さがあるのだが、横に階段が付いているので、上り下りするのは簡単である。

ウィキペディア・フリー百科事典(六分儀)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E5%88%86%E5%84%80
ウィキペディア・フリー百科事典(ウルグ・ベク)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%99%E3%82%AF

ここも30分ほどで見学を終え、昼食のため、一旦宿泊しているホテルに戻ることになった。ちなみに、ここ「ウルグベク天文台」の写真撮影にも別料金で1,500スムを支払わなければならない。

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「ウルグベク天文台跡」を出て、15分ほどでホテルに到着。ホテルのレストランで昼食を頂く。メニューは、前菜(写真左)、ペリメン(水ぎょうざ : 写真中左)、ビーフ・ストロガノフとポテト・蕎麦の実添え(写真中右)、ケーキ(写真右)にチャイである。1時間で昼食を終え、30分ほど部屋で休憩し、午後1:30から午後の観光に出かけた。

(参考文献)
・「地球の歩き方シルクロードと中央アジアの国々 09~10」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド社刊]
・「ウズベキスタンの歴史的建造物(日本語版)」(N.ノルマトフ編)[SMI-ASIA]
・「ガイドブック サマルカンド」(ムラドワ・エーラ訳)[UNESCO]
・「サマルカンド 中央アジアの傑作(日本語版)」(アラポフ・アレクセイ著)[SMI・アジア出版社]
・「”HALL OF AMBASSADORS” IN THE MUSEUM ON AFRASIAB(英語版)」
・「CULTURE AND ART OF ANCIENT UZBEKISTAN(1)(ロシア語・英語版)」
・「CULTURE AND ART OF ANCIENT UZBEKISTAN(2)(ロシア語・英語版)」

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November 17, 2009

「睡蓮池のほとりにて」展

「睡蓮池のほとりにて」展

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アサヒビール大山崎山荘美術館で、「睡蓮池のほとりにて―モネと須田悦弘、伊藤存―」展を見てきた。アサヒビール創業120周年を記念した企画展で、同美術館が所蔵するモネの『睡蓮』のすべて、全5点が展示されている(写真 : アサヒビール大山崎山荘美術館のHPより)。

アサヒビール大山崎山荘美術館のHP
http://www.asahibeer-oyamazaki.com/

ご存知の通りクロード・モネは印象派の巨匠で、「光の画家」と呼ばれた。1899年から1926年に亡くなるまでの間に描かれた、パリ郊外ジヴェルニーの自宅の庭に作った睡蓮の池をモチーフとする作品は、200点以上にのぼるという。今回展示されている絵画も、この時期に描かれたものである。モネの作品の中で印象に残っているのは、今年3月に訪ねたフランス・オランジュリー美術館の睡蓮の間で見た、8枚の睡蓮の連作である。部屋いっぱいに並べられた睡蓮の絵は圧巻であった。これに比べると今回展示されているモネの作品のサイズは小さいが、ひとつひとつの作品にはそれぞれモネの良さが溢れている。彼が求めた時間や季節とともに移りゆく光と色彩の変化は、これらの作品からも見て取れる。

2009年4月28日付当ブログ「オランジュリー美術館」
http://coinkun.cocolog-nifty.com/coin/2009/04/post-3821.html
ウィキペディア・フリー百科事典(クロード・モネ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%8D

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ところで今回の展示は、クロード・モネの作品だけではない。企画展のタイトルにもあるように、須田悦弘と伊藤存の作品も展示されている。須田悦弘は、木を彫り、それに彩色して睡蓮を作り出している。自然光の下に展示されている作品を見ると、本物の睡蓮が池で咲いているように見える(写真左 : アサヒビール大山崎山荘美術館のHPより)。伊藤存は、動植物、人などをモチーフに刺繍で作品をつくる。睡蓮の葉の重なりや池に泳ぐ巨大な草魚(そうぎょ)に注目して作品を作ったとの事だが、私には少し難しく感じられた(写真右 : 同前より)。

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最後に、この美術館での楽しみは、企画展だけではない。美術館の建物それ自体をも楽しむことができるのである。この美術館は、本館と新館から成るが、本館は、実業家加賀正太郎が自らの山荘として設計、大正時代に木造で建てられたのち、昭和初期に増築されたものだ。上棟部はイギリスのハーフティンバー工法による建物で、構造は鉄筋コンクリート造、屋根部分には鉄骨組みがなされている(写真左 : ウィキペディア・フリー百科事典(アサヒビール大山崎山荘美術館)より)。素晴らしいのは内部だけではない。テラスからの眺めも抜群である(写真右 : 同前より)。一方、新館は日本を代表する建築家、安藤忠雄氏の設計によるもので、「地中の宝石箱」とも呼ばれる地中に造られたギャラリーだ。本館とは対照的で、現代的な建築物である。

ウィキペディア・フリー百科事典(アサヒビール大山崎山荘美術館)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B5%E3%83%92%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E5%B1%B1%E8%8D%98%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8
ウィキペディア・フリー百科事典(安藤忠雄)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%97%A4%E5%BF%A0%E9%9B%84


現在開催されている「睡蓮池のほとりにて―モネと須田悦弘、伊藤存―」展は、来年の1月31日(日)まで。一度ご覧になることをお薦めする。

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November 07, 2009

アンマン国立考古学博物館

シリア・ヨルダンの旅(第24回)
貨幣ぶらり旅(第172回)

10日目・11日目(最終日) : 10月7日(水)~8日(木)

7:00 起床
7:30~8:15 朝食
8:20~9:30 ビーチを散歩
10:07 バス出発
11:17~12:13 アンマン城砦・国立考古学博物館
12:40~13:42 昼食
14:30 アンマン「クイーン・アリア国際空港」に到着
15:10 チェックイン手続き終了
15:52~16:30 ファーストクラスラウンジで過ごす
16:48 搭乗
17:17 離陸
19:35 カタール・ドーハ国際空港に着陸
19:45 バスでターミナルに到着
19:45~20:05 ターミナルのショツプで買い物
20:05~00:12 ビジネスクラスラウンジで過ごす
00:15 バスで飛行機まで移動
00:30 搭乗
1:30 離陸
1:50 軽食
2:50~8:00(日本時間14:00 : 以下日本時間) 睡眠
14:30~15:00 昼食
16:18 関空に着陸


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本日は、アンマンでこの旅最後の観光をする予定だ。10:00出発なので、朝はノンビリ出来る。7:00に起きて、7:30から朝食を頂く。ツアーメンバー人達が少なかったので、添乗員に尋ねると、すでに食事を済ませ、海に行った人たちがいるとの事。皆さんお元気である。食後、私もビーチに行ってみることにした。もちろん、海には入るつもりはない。同じツアーの人達はすでに上がっていたようで、外国人の方達が数人海に浮かんでいるだけだった(写真左)。海岸の岩は、塩で白くなっている(写真中左・中右)。泥の壺の方を見ると、朝から全身に塗っている御婦人がいた(写真右・下左)。その横を見ると、ライフガードの人が暇そうにしていたので、2つ質問をしてみることに(写真下中左)。第一は、壺に溜められている泥について、どこから持ってくるのかを尋ねた(写真下中右)。すると、死海の北の方にたくさんの泥の取れるところがあり、毎朝トラックで運んでくるとの事。壺に入れられた泥はすぐに無くなるので、壺数配分を持ってくるようだ。それでも足りないときは、電話で連絡して業者に持ってこさせると言っていた。第二は、沖に張られているロープについて。鮫もいないし、沈むこともないのだから、沖にロープを張る必要はないのではないかと尋ねたところ、流れがあるので、ウッカリ沖に出過ぎると、遠くに流されてしまうためだという。後で添乗員から聞いた話だが、死海の中央にある国境線を越えてイスラエル側に入ってしまうと、大変なことになると言うのも理由のようだ(写真下右 : イスラエル側)。

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1時間ほどビーチやホテル内を散策し、9:30頃部屋に戻った。荷物を再度チェックし、10:00にロビーに集合。バスはアンマンに向け走り出した。30分ほどで、海抜ゼロメートルのポイントを通過(写真左)。砂漠の中を走りつづけ、11:00頃、街中に入る。車で混雑する道路(写真中左)。その先には、山の斜面にギッシリと立ち並ぶ家々(写真中右)。そして、アンマンのダウンタウンの中心へ。右手にニンファエウム(写真右)、ローマ劇場(写真下左)と続き、次いで左手に王宮(写真下中左)が見える。アンマン城砦は丘の上にあるのだが、この丘は「ジャバル・エル・カラ」と呼ばれている。坂道を登り、大きなカーブを曲がると王宮の入り口(写真下中右)があり、さらに進むと、箱をギッシリ積み上げたような住宅街が見える(写真下右)。

ウィキペディア・フリー百科事典(アンマン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%B3
ウィキペディア・フリー百科事典(アンマン : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Amman


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11:17、アンマン城砦跡に到着。バスを降りて少し歩く。途中、地元の子供達が、親しく声をかけてきた。自分たちの写真を撮れと言うのだ。みんな良い笑顔だ(写真左)。城砦跡の入り口は新しく、出来たばかりである(写真中左)。現在工事中のため、何か落ち着かない雰囲気。舗装工事中の道を歩く(写真中右)。その先には、ヘラクレス神殿跡が見える(写真右)。もともとこの場所には古代のアクロポリスがあり、ローマ時代に要塞が築かれ、その度幾度となく改築されたのである。城壁はダブルウォール、二重構造だ(写真下左・下右)。

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城砦の南側からは、アンマンの街が一望できる。先ほどバスの中から見えた「ローマ劇場」も、その全体像が分かる(写真)。このローマ劇場は、紀元169~177年に、丘の斜面を自然のまま生かして造られている。階段席は三層からなり、収容人員は約6,000人。保存状態が良いうえ、修復もなされていることから、現在も様々な文化的催しに使用できるようになっているとの事。またステージの両袖には、「ヨルダン伝統文化博物館」と「ヨルダン民族博物館」が併設されている。

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この劇場の北東に、紀元2世紀に建てられた小さな天井付き劇場「オデオン」が見える(写真)。内部のオーケストラ、舞台共に往時の姿をとどめており、500人を収容できる観客席は近年改築され、コンサートなどに用いられているという。

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アンマンの街を眺めた後、城砦の跡を歩き、ヘラクレス神殿跡に立つ円柱のそばにやって来た(写真)。この神殿は、紀元2世紀、マルクス・アウレリウス帝(A.D.161~180年)を記念して建てられたもので、かつては神殿から丘の下の町まで壮大な階段が伸びていたと言われるが、現在はその名残はない。ファサード(建物正面)には4本のコリント式円柱があったが、完全な形で残っているのは三層のアーキトレーブ(横石)を載せた2本の円柱のみである。円柱の高さは約17mとの事。

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ヘラクレス神殿の横を通り100mほど西に進むと、青い屋根の右手にドームが見えた(写真)。この一帯は、近年発見された中世初期の遺跡群「アル・カスル」である。紀元720~750年頃、ウマイヤ朝後期に築かれたもので、為政者の住居、行政府の置かれた場所であったと推測されている。青い屋根のドームは、「謁見の間」と呼ばれる、一辺25mの壁に囲まれた正方形のホールで、4つの角にはさらに方形の部屋が続いている。このギリシャ十字式設計の中央にあたるホールの装飾は見事だという。

さらに西に200mほど進むと、「ヨルダン考古学博物館」がある。階段を昇り館内に入る(写真左)。入口の外、左手にあった指の形をした彫像の断片は印象的だ(写真中)。館内を覗くと、それほど広くないスペースが、展示物でギッシリ詰まっているといった感じである(写真右)。

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ここには、新石器時代からオスマントルコ時代の遺物が集められ、次のような区分で展示されている。

1. The Paleolithic (1,000,000 – 10,000 years ago) (写真上左).
2. The Pre-pottery Neolithic (8300-5500 BC) (写真上中左).
3. The Pottery Neolithic (5500-4300 BC) (写真上中右).
4. The Chalcolithic (4300-3300 BC) (写真上右).
5. The Early Bronze Age (3300-1900 BC) (写真中上左).
6. The Middle Bronze Age (1900-1550 BC) (写真中上中左).
7. The Late Bronze Age (1550-1200 BC) (写真中上中右).
8. The Iron Age (1200-550 BC) (写真中上右)
9. The Persian Period/Iron III (550-350 BC)
10. The Hellenistic Period (332-63 BC) (写真中下左).
11. The Nabataean Period (312 BC-AD 106)
12. The Roman Period (63 BC – AD 324) (写真中下中左・中下中右・中下右).
13. The Byzantine Period (AD 324 – 636) (写真下左).
14. The Islamic Era (AD 636 – the present) (写真下中左・下中右・下右):

ヨルダン国立考古学博物館(英語版)
http://www.visitjordan.com/default.aspx?tabid=113#1
ヨルダン国立考古学博物館(英語版)
http://wiki.blogjordan.com/Jordan_Archaeological_Museum


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なかでも注目されるのは、「死海文書」である(写真)。「死海写本」とも呼ばれ、ヘブライ語聖書の断片を含む約850巻の写本の集まりである。「文書は、ヘブライ語のほかにアラム語・ギリシア語で、紀元前2世紀から紀元後1世紀の間に書かれている。この時代に書かれたものとしては事実上唯一のユダヤ教聖書の文書であり、聖書本文の内容が写本を通して劣化されることなく比較的正確に伝えられてきた歴史を証明するものとして、貴重な資料であるとみなされる」(ウィキペディア・フリー百科事典(死海文書)より)との事。

ウィキペディア・フリー百科事典(死海文書)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E6%B5%B7%E6%96%87%E6%9B%B8
ウィキペディア・フリー百科事典(死海文書 : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Dead_Sea_scrolls


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2番目に注目されるのは、漆喰と瀝石(れいせき)で出来た像である(写真)。紀元前6,500年頃、「The Pre-pottery Neolithic時代」に作られたもので、1985年にアンマンで発見された。高さは1m前後ある。

ヨルダン国立考古学博物館(英語版)
http://www.art-and-archaeology.com/jordan/amman/am01.html


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その他にもジェベル・クスールのテラコッタ製の人型石棺(写真左)やヘレニズム期の大理石によるダイダロス像(写真中)、テラコッタ製のアフロディテの小像群(写真右)など、貴重な品々が展示されており、ジックリ見ているといくら時間があっても足りない。

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このような中、私が最も興味を持って見たものはコインである。ナバテアのコインやローマ支配下デカポリスのコイン、イスラム支配下のコインなど、非常に面白い。ナバテアのコインを見ると、紀元前2世紀、ナバテアがもっとも繁栄した時代に、国王アレタス三世は銀貨と銅貨を発行するのだが、ギリシャコインと同じものが造られていたのである。しかし、アレタス三世を継いだオバダス二世は、コインのスタイルを変え、表面に王または女王の、もしくは両者の像を刻み、裏面には豊穣の角をデザインさせた(写真左)。デカポリスについては以前お話ししたので省略するが、これらの都市では当然のことながらローマコインが流通していた(写真中左・中右)。イスラム時代のコインが展示されているコーナーには、ササン朝ペルシャのディレハムやビザンチンのデナリウスなども一緒に並べられている(写真右・下左・下中・下右)。これらを見ていると、イスラム支配下になっても、コインはペルシャやビザンチンの影響が残っていたことが分かる。特に偶像を嫌うイスラムであるにもかかわらず、初期のころのコインには、キリスト教などに関する像が残されているのだ(写真)。後にアラビア文字が加えられ、その後完全にイスラムスタイルであるアラビア文字だけでコイン面がデザインされていくのである(写真)。

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約1時間で、城砦並びに博物館の見学を終えた。これで今回の旅の観光はすべて終了である。我々は昼食を取るため、バスで移動する。中心街から北西方向に15~20分ほど走ると、昼食会場であるレストラン「Tawaheen Al-Hawa」(タワーヒヌ・アル・ハワー)に到着した。「Hawa」とは「風車」の意味らしい。レストランの入り口に、風車のデザインがあった理由が分かった。中に入ると、中庭にテントを張り、その下にテーブルが並べられていた。我々はそのうちの一つに座る。何となく楽しい雰囲気のレストランである。メニューはアラブ風前菜にミックスグリル、そしてフルーツだ。今回の旅行では、何度も食べたパターンだが、それぞれお店によって味が異なるので、飽きることはない。約1時間、ツアーメンバー全員で囲む最後の食事を終え、13:42、空港に向けバスで出発した。

レストラン「Tawaheen Al-Hawa」
http://www.lonelyplanet.com/jordan/amman/restaurants/418103


・「地球の歩き方ヨルダン・シリア・レバノン 07~08」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド社刊]
・「芸術と歴史の国ヨルダン(日本語版)」(Francesca Casule著)[ BONECHI刊]


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October 24, 2009

パルミラ博物館

シリア・ヨルダンの旅(第14回)

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昼食後レストランを出て、「墓の谷」を抜け、再びパルミラ遺跡内に入る。ナボ神殿や記念門などの前を走り、13:55、パルミラ博物館に到着(写真左)。にある。この博物館は1961年8月に開館され、古代のガラス製品や陶器、漆喰やブロンズなどで出来た彫刻など、パルミラで発掘されたものを中心に展示している。玄関口を見ると、幾つかの遺物が並んでいる。中でも目立つのがライオン像だ(写真右)。これはアラビアの有名な女神、アラート神殿の近くで発見された断片から復元されたものである。女神が動物を庇護している姿と、この神殿が動物の避難場所であることを示していたようだ。

ウィキペディア・フリー百科事典(アラート : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/All%C4%81t


正面口から館内に入り、最初に右手の展示室から見ることとなった。この部屋にはたくさんの碑文が並んでおり、大部分はパルミラ語で書かれている。館内写真撮影禁止のため、映像でお見せ出来ないのが残念である。面白いのは、22個のフエニキア文字に基づくパルミラ文字のアルファベットの図。初めは丸みを帯びていたのが、紀元後2~3世紀になると多少変形しているのだ。

次の部屋に進むと、部屋の中央に、シリアの芸術家ワファ=アル=ダジャーニが作成したベル神殿の復元模型が見られる。現在は崩れてしまっているが、ディオクレティアヌス城砦の再現模型も展示されていた。

第3室には、列柱の「持ち送り」に掲げられていた彫像が並ぶ。都市功労者の彫像である。ラクダ引きやラクダ兵、騎兵を表す浮き彫りも見られる。彼らは隊商の安全を保障し、またローマ軍に協力した人達だという。

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その隣の陳列室を覗くと、バールシャミン神殿の神像安置所の中央にあった祠の大きな上枠が展示されていた(写真 : 「Discover Palmyr」より)。バールシャミンは豊穣の神。この神に従属する鷲が、すべてを保護するように翼を大きく広げ、その左右から、二羽の鷲がバールシャミンの撒く豊穣の象徴であるオリーブの小枝をその大きな鷲に差し出している。中央の大きな鷲の下にも小さな鷲がいて、肩に三日月をつけたアグリボール神(月神 : 左側)とマラクベル神(太陽神 : 右側)の方を向いている。

ウィキペディア・フリー百科事典(バールシャミン : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Beelshamen
ウィキペディア・フリー百科事典(マラクベル : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Malakbel
ウィキペディア・フリー百科事典(アグリボール : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Aglibol


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同じ部屋の中央に置かれている陳列棚を見ると、パルミラの家屋を飾っていた装飾品や墓室から出土したガラス製品などが展示されていた。その中に、「泣き壺」と呼ばれる品があった。亡くなった人に対する悲しみで流した涙をこの壺に溜め、墓に納めるのだという。別の棚には、焼粘土札が置かれていた。これは以前お話ししたように、神殿への入場券で、これを購入することでお布施になるとの事。これら以外に、青銅製品や墓に納められていた像などを展示する棚が並ぶ。これらの一つに、貨幣を展示する棚もあった。古代ローマ、ビザンティン、イスラム時代のコインだ。アレキサンダーの銀貨、ローマ皇帝アウレリアヌスとパルミラ王ワーバラトの名の入った銅貨、ローマ皇帝フィリップス=アラブスの銅貨、ウマイヤ朝、アッバース朝、アイユーブ朝など、数多くの貨幣が並ぶ中、最も注目したのはパルミラの女王・ゼノビアのコインである(写真)。「ダマスカス国立博物館」でも見たのだが、是非コレクションに加えたい1枚だからである。

ウィキペディア・フリー百科事典(ゼノビア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%8E%E3%83%93%E3%82%A2


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一度正面入り口に戻り、今度は左手の展示室に向かった。この部屋には、紀元後1~3世紀までのパルミラの陶器や10~14世紀までのイスラム陶器が並んでいる(写真左・中左・中右)。その先を見ると、部屋の隅にアラート神の大理石像が立っている(写真右)。紀元前5世紀半ばごろ、ギリシャの彫刻家フィディアスが作成した有名なアテナ=パルテノス像に由来するローマ時代の模倣像のようだ。ただ、パルテノンのアテナ神は右の手のひらに小さな勝利女神像をのせているが、この像は右手に槍を持っている点が異なる。この作品は、アンティオキアかアナトリアで作られ、アラート神殿に飾られていたとの事。

ウィキペディア・フリー百科事典(アテーナー)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%BC


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隣の展示室に移動すると、そこには石棺が置かれている。中央に亡くなった本人が横たわり、左端にその妻、本人と妻の間に子供達の像が彫られている(写真)。このような配置は、パターン化されているため、他の石棺を見る場合も同じだという。これについては、「ダマスカス国立博物館」のパルミラの地下墳墓を再現した展示室のところでご紹介したので、覚えている方もおられるのではないだろうか。

平成21年10月14日付当ブログ「ダマスカス国立博物館」
http://coinkun.cocolog-nifty.com/coin/2009/10/post-e2ff.html


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次に2Fに上がり、右手の部屋に入る。驚かされたのは、地下墳墓から持ってきた4体のミイラである。シルクやウールなどに巻かれ、石棺に納められていたのだという。これらに用いられた布地(写真)の展示もされており、この隣の部屋では、ベドウィンの衣装などを見ることができた。

ウィキペディア・フリー百科事典(ベドウィン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3


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約1時間で、博物館の見学を終えた。少しだけ自由時間があったので、シリアの紙幣とコインを入手するため、近くの両替商の建物に向かうがクローズされていた。私のコレクションのことを知っていた添乗員の配慮で、近くの飲食店で外貨両替をしてもらうことができた(写真)。紙幣のコンディションはそれほど良くはなかったが、一通りそろえることが出来てひと安心である。添乗員さん、有難う。

本日は、アラブ城から夕日を見るので、遺跡観光は終了し、一旦ホテルに戻ることとなった。バスで遺跡の中を走る途中、本日観光していない「ディオクレティアヌス城砦」と「アラート神殿」の前に来たので、これらを見たい人のためにバスを止めてくれた。皆さん少々お疲れ気味だったので、バスを降りてきたのは半分ほど。4~50m歩くと、ゼノビアの城壁とディオクレティアヌス城砦だ。その先にはアラート神殿が建つ。

① 「ディオクレティアヌス城砦」
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遺跡の北西の端に位置する軍事基地の跡。ローマ皇帝の名をとり、「ディオクレティアヌス城砦」と呼ばれている。かつてこの場所にはゼノビア女王の宮殿が建っていたが、273年、アウレリアヌスによるパルミラの破壊後、30年以内に城砦が建てられたと言われている。298年、ニシビス条約でローマとペルシャの国境が定められたが、この時パルミラ東部が無防備状態となったため、この城砦が造られたとの事。城砦は城壁に囲まれているが、次にお話しする「アラート神殿」もこの城壁内に建つ。これはアラートが、アテナやミネルヴァなど戦争の神と同一視されたからだという。

ウィキペディア・フリー百科事典(ミネルウァ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%A6%E3%82%A1


② 「アラート神殿」
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この神殿の正式な祭神はアラブ女神アラートで、先にお話しした通り、この神はアテナやミネルヴァと同じ女武神である。神殿の境内は横28m、縦46m。本殿には6本の円柱の立つ入口があり、全体が横10m、縦19m程度の土台の上にある。この構造は「バールシャミン神殿」とよく似ており、建立も同時期である紀元103~164年ごろと考えられている。最初にご紹介した「パルミラ博物館」の玄関口に置かれているライオン像や、博物館内で見たアラート神の大理石像は、この神殿発掘されたのである。

5~6分で「ディオクレティアヌス城砦」と「アラート神殿」の観光を済ませ、そこからバスで7~8分、15:12にホテルに到着した。アラブ城へ出発するのは17:15からとの事だったので、まだ2時間ほどある。もう一度近場の観光をすることも考えたが、入浴と資料整理を済ませることにした。


※展示物の写真は、「Discover Palmyr」から引用した。

(参考文献)
・「地球の歩き方ヨルダン・シリア・レバノン 07~08」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド社刊]
・「芸術と歴史の国シリア」(Patrizia Fabbri編)[BONECHI刊
・「パルミラの遺跡」(アドナン=ブンニ他著 : 日本語版)[東京新聞出版局刊]
・「Discover Palmyr」(KHALILALHARIRI著)[Palmyra Museum刊]


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October 17, 2009

アゼム宮殿(民芸民族博物館)

シリア・ヨルダンの旅(第9回)

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ウマイヤド・モスクを出た後、約30分の自由時間となったので、モスクの東側を散策することにした。しかし通路が複雑に入り組んでおり、日本で入手したガイドブックの地図とは少々異なる様子。モスクの南側の塀沿いに東に進み(写真左)、突き当りを北に数メートル歩き、再び東に向かった。雑貨を売るお店や布地を売るお店などが並んでいる(写真中左・中右)。しばらくすると道に迷いそうになったので、モスクに行く方向を示した看板(写真右)を見つけたので、早めに集合場所であるモスクの前の広場に向かった(写真下左)。予定時刻の5分ほど前に到着するが、他のツアーメンバーは買い物に出かけているようで、まだ半分も集まっていなかった。12:20、全員が集まったところで、次の観光予定地である「アゼル宮殿」に向かう。ウマイヤド・モスクのすぐ南側にあったので、ゴールド(写真下中左)やスパイス(写真下中右)を売るお店が並ぶ通りを抜けると、すぐに到着した(写真下右)。

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「アゼム宮殿」は、1749年にダマスカスの統治者であったアッサード・パシャ・アル・アゼムによって建てられた邸宅である。1925年の火災で被害を受けたが、1970年代に入って復元され、現在は民芸民族博物館として使用されている。宮殿はイスラムの慣習により、来客用の「セラムリク(公的空間)」とかつて一般の人は見ることができなかったプライベートな部屋が集まる「ハラムリク(私的空間)」の二つの部分に分かれている。入口の門をくぐると中庭があり、周囲には10以上の部屋が並ぶ(写真左・中左)。この空間は「ハマムリク」だ。それぞれの部屋が展示室となって、イスラムの生活習慣が分かるように、マネキンなどを使って展示されている。例えば、イスラムの婚礼準備の様子やメッカへの巡礼の様子、イスラムの学校の様子などである。それ以外に、アラブ独特の楽器や武器、宝飾品を展示する部屋、またハマムを再現した部屋もある。ここも館内展示の写真撮影が禁じられていたので、ビジュアルにご紹介できないのだが、雰囲気はチュニジアで訪れた「ダル・シュライト博物館」や「ダル・エル・アンナビ」に似ていた。中庭には噴水が点在しており(写真中右)、壁や柱にはイスラム調のデザインが施されている(写真右)。またアカンサス(写真下左)やカバード(写真下右 : ザボン系)等の草木も植えられ、涼しげな木陰ができていた。ちなみにアカンサスは、コリント式デザインに表されている。

ウィキペディア・フリー百科事典(アゼム宮殿 : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Azm_Palace
平成21年2月2日付当ブログ「トズール観光(コーラを飲むラクダ)」(「ダル・シュライト博物館」)
http://coinkun.cocolog-nifty.com/coin/2009/02/post-0cda.html
平成21年2月19日付当ブログ「シディ・ブ・サイド観光」(「ダル・エル・アンナビ」)
http://coinkun.cocolog-nifty.com/coin/2009/02/post-f3cd.html
ウィキペディア・フリー百科事典(アカンサス)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%82%B9


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約30分でアゼム宮殿の見学を終え、次は昼食である。路地のようなスークを抜け(写真左)、スーク・ミドハド・パシャから続く「真っすぐな道」に出る。ローマ時代の街道だ。この道を東に進む。ウマイヤド・モスクに行く途中に通ったスーク・ハミディーエのように屋根は無いが、この通りの両側にも店が並ぶ(写真中左)。3~400m歩くと、白い門が見えてきた。「ローマ記念門」だ(写真中右)。ここから東側はキリスト教地区になる。かつてこの地区の南側にはユダヤ人が住んでいたことから、ユダヤ地区と呼ばれていたが、第二次世界大戦後、ほとんどの住民がアメリカやイスラエルに移住したと言う。ローマ門から100mほど進むと、大勢の子供達の姿が見え始めた(写真右)。小学校と中学校があるのだ(写真下左)。小学生の男の子はブルーのワイシャツのような制服を、また女の子はピンクのTシャツのような制服を着用していた。中学生には、別のタイプの制服があるらしい。ローマ門から500mほど歩くと、旧市街の城壁の東の端、バーブ・シャルキー(東門)が現れた(写真下中)。我々はこの手前を左折し、北に向かって200mほど進むと、昼食会場であるレストラン「ニュートロン」に到着した(写真下右)。

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レストランの入り口からは、二人がギリギリすれ違えるほど狭い通路を通らなければならないが(写真左)、中は広々とした明るい空間である(写真中左)。中庭に半透明の屋根を付け、レストランとして使用しているのだ。メニューは前菜と中華風チキン(写真中右)、フルーツ(写真右)である。前菜はテーブルに数品並べられ(写真下段)、それぞれのお皿から各自採り分けて食べる。トウガラシやスパイスの効いたものがあったため、皆さん大騒ぎしながら頂いた。

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約1時間で昼食を終え、先ほど来た道を引き返し、バーブ・シャルキー(写真左・中左)を出て数分バスが来るのを待つ。その間車道を眺めていると、日本では30~40年前に走っていたような車が見られる。14:52、我々はバスに乗り、次の目的地であるパルミラに向けて出発した。走り出して30分ほどすると、周りは砂漠になった。砂漠と言っても、砂砂漠ではなく礫砂漠だ。左手に発電所と、燃料を運ぶための引き込み線が見える(写真中右)。バスのフロントガラスを覗くと、道は一直線に伸びている(写真右)。何もない砂漠に造られた道路だけに、ただひたすら真っ直ぐな道が続いているのだ。雲ひとつない青空と砂漠が続く景色に、旅行中滅多に眠らない私だが、久しぶりにウトウトしてしまった。

ウィキペディア・フリー百科事典(砂漠)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%82%E6%BC%A0


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16:26、パルミラまで140kmの標識が見える。さらに20分ほど走ったところで、トイレ休憩となった。「バグダッド・カフェ」と言う名の小さなお店(写真左)。砂漠のど真ん中に、ポツンと建っている。店の周囲は砂漠の丘(写真中左)、店の横には風車で汲み上げる井戸が、また店の裏にはベドウィンの人達が暮らすテント(写真中右・右)や土の家(写真下左)も見られた。約40分休憩し、17:22、再びバスはパルミラに向けて走り出した。20分ほどすると、リン鉱石の採掘場と精製工場が見えてきた(写真下右)。チュニジアでもリン鉱石の工場があったのを思い出したが、砂漠地帯にはリン鉱石が眠っているのだろうか。

平成21年1月31日付当ブログ「観光列車「レザー・ルージュ」」(リン鉱石)
http://coinkun.cocolog-nifty.com/coin/2009/01/post-30d6.html
ウィキペディア・フリー百科事典(リン鉱石)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%B3%E9%89%B1%E7%9F%B3

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17:47、パルミラまで60kmの表示が出る。18:05、バスを道路脇に止めてパルミラの夕日の写真を撮る(写真左・中左・中右)。明日パルミラ遺跡から夕日を見る予定なのだが、お天気が悪かった時に備え、本日も見ておこうという考えである。なかなか美しい夕日だったが、太陽が沈むのは早い。アッと言う間に山の陰に隠れてしまった。ここから10分ほどで、本日宿泊する「デデマン」ホテルに到着した(写真右)。

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ホテルのロビーにはコリント式の柱が並び、バシリカ様式を思い出させる(写真左)。大理石で包まれ、シンプルだが豪華さをも併せ持つ感じだ(写真中左)。部屋に入ると、クリーム色の壁と茶系統で統一された調度(写真中右・右)。非常に落ち着いた雰囲気である。夕食は19:30からだったので、その前に入浴と詩利用整理を済ませた。夕食は、ホテルの地下にあるレストラン「ALNAKHIL」(写真下左)。本日もバイキング方式だったので、少しずつ色々な味を楽しむことにした(写真下中左・下中右・下右)。中でも私の好物であるスイカは非常に美味しかった。強い太陽の下で育つためだろうか。非常に甘味が強く、大量に食べても食べ飽きないのだ。食事が終わると、いつもはすぐに部屋に戻るのだが、この日は2時間ほど添乗員の方と話し込んでしまった。22:30過ぎ、部屋に戻り、22:45頃ベッドに入った。

DEDEMAN HOTEL(デデマン : 旧パルミラ)
http://www.dedeman.com/Palmyra.aspx

(参考文献)
・「地球の歩き方ヨルダン・シリア・レバノン 07~08」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド社刊]
・「芸術と歴史の国シリア」(Patrizia Fabbri編)[BONECHI刊

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October 14, 2009

ダマスカス国立博物館

シリア・ヨルダンの旅(第7回)

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9:02、館内に入る。玄関口の部屋には、ウマイヤ朝時代の街から持ってきた、建物の窓枠がいくつも展示されていた。この部屋を中心に、左右の棟に分かれて展示されている。我々は、正面に向かって左側の棟から見学を始め、その後右側の棟を廻った。館内の写真撮影が禁止されていたので、十分にご紹介できないのだが、印象に残ったもの6点を、ガイドの説明や現地で購入した書籍、そしてインターネットのHPを参考に整理してみた。
※写真は入口外側の「カスル・アルヒーラの門柱」

1.パルミラの地下墳墓

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パルミラにあった墓から出土した、ヤルハイ家の地下墳墓を原寸大に復元したもの。2世紀頃に造られたもので、1908年に発掘、1938年にこの博物館で再現展示された。地下墳墓の入り口は、石で作られた観音開きの扉で、約3トンの重さがある。扉を通り階段を下りると広間があり、正面には妻や子供などの親族に囲まれ、クリネの上に横たわり、バアル教祭司特有の髪型で高く頭上に髪を結いあげている故人の像が置かれていた。広間では、故人を祀るセレモニーなどが行われたようだ。その周囲の壁には色々な方の胸像が縦に4つずつ規則正しく並ぶ。これらは亡くなった親族の方達の像で、この奥にはシルクと木綿の布で包んだ亡骸が入れられる。遺体はやがてミイラ化するのだが、必ずしも上手くいったわけではなかったという。もちろん、この地下墳墓は復元したものなので、胸像の後ろにミイラは入っていない。明日観光するパルミラの遺跡で本物を見ることができるので、記憶しておくとよいとの事であった。

2.シナゴーグのフレスコ画

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パルミラから300kmほど東、ユーフラテス川近くにあったドゥラ・エウロポスのシナゴーグから移設されたフレスコ画で、2世紀半ばに制作されたもの。旧約聖書のお話が描かれている。例えばモーセの誕生や出エジプト、ソロモン王の誕生などだ。ちなみに、これらは別室に展示されており、見学できる時間は各10分と決められている。

ウィキペディア・フリー百科事典(出エジプト記)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E3%82%A8%E3%82%B8%E3%83%97%E3%83%88%E8%A8%98
ウィキペディア・フリー百科事典(モーセ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BB


3.ローマ時代のモザイク画

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シリアの南、約90kmで発見された。3世紀頃、ローマ帝国時代に作られた床のモザイク画。シリアで最も美しいと言われており、繁栄する地球を表現したもの。中心に描かれた女性は地球を表す。彼女を囲む、色々な種類のフルーツを持った子供達は、豊饒な大地を、その上を飛ぶ水をまく天使は雨を意味する。画の左右両端に描かれた息を吹く顔は風を、中央左の4人の女性は四季を、左下角に描かれた車輪を持つ女性は太陽の運行と日、時間を表している。また、右下角の男性たちは芸術を意味しているという。

4.ウル・ナンシェの像

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シリアの東部、ユーフラテス川近くに栄えたマリ王国のイシュタル神殿から出土した有名な坐像。紀元前2,700年ころのもの。この像に刻まれた碑文のおかげでエビ・イルの歌人ウル・ナンシェの肖像だということが分かった。顔の輪郭が女らしいので、この男性は去勢されていたのかもしれないと言われている。高さ25cmぐらいの小さな像だ。

ウィキペディア・フリー百科事典(マリ(シリア))
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA_(%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%82%A2)
ウィキペディア・フリー百科事典(マリ(シリア) : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Mari,_Syria


5.シブンの像

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イク・シャマガン王時代に、土地台帳管理の長を務めていたシブンの像。こちらもマリ王国の神殿から出土した。独特な衣装カウナケスを身につけ、手を合わせて祈りのポーズで現わされている。髪を剃り、目の部分は嵌め込みで、目のふちどりはラピスラズリ。このような彫像は、奉納物として信者が神殿の中に飾ったとの事。ちなみに、本物のカウナケスは粗毛ウールの束を重ねた布である。

6.ウガリットの粘土板

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世界最古と言われるウガリットのアルフアベットが彫られた粘土板である。わずか4~5cmほどの長さで、重さは4gと、非常に小さなものだ。
ウガリットは、地中海東岸、現在のシリア・アラブ共和国西部の都市ラス・シャムラにあった古代都市国家。当時の国際的な港湾都市であり、西アジアと地中海世界との接点として栄えたという。

ウィキペディア・フリー百科事典(ウガリット)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%88


以上6点、印象に残ったものをご紹介したが、これら以外にも貴重な展示が数多くあるので、「NATIONAL MUSEUM OF DAMASCUS」のHPなどもご覧頂きたい。

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ところで、嬉しいことにこの博物館には、かなりの数のコインが展示されている。パルミラ王国の女王、ゼノビアのコイン(写真左)や、初期イスラムのディレハムコイン(写真中左)、ウマイヤ朝時代の金貨(写真中右)、アッバース朝時代のディナールコイン(写真右)、オスマントルコ時代のコイン(写真下)など。それ以外にもアレキサンダー大王の時代やセレウコス朝時代、ローマ時代に出された銀貨なども展示されている。

午前10:25、約1時間半で博物館の見学を終え、我々は次の目的地である「ウマイヤド・モスク」に向かった。

※写真については、冒頭の「カスル・アルヒーラの門柱」以外はすべて、「A GUIDE TO THE NATIONAL MUSEUM OF DAMASCUS」またはNATIONAL MUSEUM OF DAMASCUSのHPから用いた。

NATIONAL MUSEUM OF DAMASCUS(国立博物館: 英語版)
http://www.geocities.com/encyclopedia_damascena/index.htm
ウィキペディア・フリー百科事典(国立博物館 : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/National_Museum_of_Damascus
Sacred Destinations (国立博物館 : 英語版)
http://www.sacred-destinations.com/syria/damascus-national-museum.htm

(参考文献)
・「地球の歩き方ヨルダン・シリア・レバノン 07~08」(地球の歩き方編集室)[ダイヤモンド社刊]
・「芸術と歴史の国シリア」(Patrizia Fabbri編)[BONECHI刊]
・「A GUIDE TO THE NATIONAL MUSEUM OF DAMASCUS」(Abed Issa編)[ NATIONAL MUSEUM OF DAMASCUS刊]


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September 25, 2009

シリア・ヨルダンの旅(準備編その10)

シリア・ヨルダンの旅(準備編その10)[岡山市立オリエント美術館]

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先日、3年ぶりに「岡山市立オリエント美術館」(写真 : 岡山オリエント美術館のHPより)に行ってきた。シリア・ヨルダンの旅に出かけるので、何か予備知識を得ることができるのではないかと考えてのことだ。展示内容は、前回訪れた時とほとんど変わっていなかったのだが、旅行準備のために色々な事を調べたからであろうか。前回よりも、展示されているものがより面白く感じられた。特に展示解説を見ると、オリエント史を理解するためのヒントがあちらこちらに散りばめられていたので、今後、書籍や資料を読む時に、非常に役立つのではないかと思えた。

例えば「セレウコス朝シリア」についての解説を見ると、アレキサンダー大王に征服されたアケメネス朝ペルシャだが、アレキサンダーの死後、彼の帝国の中心部を継承したセレウコス朝シリアは、「当初はバクトリアからシリア・アナトリアに及ぶ広大な版図を誇っていました。また、帝国の理念もアレクサンドロスの理想と最も近く、ギリシャ人植民都市を核とした民族融和策を推進しました。しかしアケメネス朝の勢力下で雌伏していた諸勢力の台頭は避けられませんでした。特に、西の新興勢力ローマによる執拗な東方干渉に端を発した対立抗争は、セレウコス朝を次第に疲弊させ、これに忙殺される間に、東方ではバクトリア、パルティアなどが次々と独立していったのです」と書かれている。

「ローマによる執拗な東方干渉」が、セレウコス朝シリアからバクトリア、パルティアなどを独立させた原因になっているようだが、では何故ローマは東方干渉を行ったのであろうか。これについては「地中海オリエントのヘレニズム以後」を見ると、「紀元前1世紀の中頃、ローマが地中海制覇に成功すると、西方オリエント世界はローマ、ビザンティンの属国・属州あるいは植民市・同盟市として、その巨大な胃袋を支える役目を負うことになったのです。と言うのも、国土の狭小なギリシャ、ローマ世界に比べて、これら地中海沿岸の諸地方は、極めて豊かな農業生産を誇っていたからです。逆に言うと、ローマ、ビザンティンにとって西方オリエントの大地は資源の供給源として重要視せざるを得なかったわけです」と書かれている。

しかし「ローマによる執拗な東方干渉」だけが原因で、セレウコス朝シリアはバクトリア、パルティアなどの独立を許したのであろうか。これについては「アルサケス朝パルティア」を見ると、「セレウコス朝は外来勢力としてその広大な版図を統治するために、アケメネス朝伝統の地方分権策(サトラップ制)を継承せざるを得ませんでした。この制度は旧来の地方勢力の均衡に便乗して広域統治を目指すという、ある種の妥協策でもありましたから、中央政府に少しでも弱体の兆しが見えると、地方独立の動きが起こる危険性がありました。紀元前3世紀中頃に相次いだバクトリアとパルティアの独立は、古代大帝国の持つこうした構造上の弱点に起因するもの」と書かれている。

以上のように各展示解説を読み、相互の関連性を考えながら展示を見ると、面白さは倍加する。最後にもう一つ、私が興味を持った展示解説「オリエント史は東洋史か」をご紹介する。「考えて見ると、オリエントは常に一体だったわけではありません。特にオリエントの西半分、つまり地中海に面した地域(レヴアント地方)は、半ばヨーロッパ世界でもありました。オリエントのこうした二面性は極めて古い時代から認められます。例えば農耕文化の成立にも、イラン、イラクを中心にしたザグロス系統の新石器文化と、シリア、パレスチナに展開したレヴァント系統の新石器文化が、互いに別の経過を辿ったと推測されています。その場合、両者の境界線はユーフラテス河辺りにあったと考えられます。ユーフラテス河は、このように史上何度もオリエントを東西に二分してきました。とりわけ紀元前後頃から7世紀頃までの期間は、ローマ対パルティア、あるいはビザンティン対ササンの抗争が絶えず、東西勢力の境界線はユーフラテス河を挟んである時期は東に、またある時期は西に移動したのです。この時代のオリエントの西半分はローマやビザンティンの文化圏に属していたわけで、これは正に西洋史の世界なのです。このように、オリエントは複雑であり、だからこそ、オリエント独自の歴史が語られるべきなのです。西洋史・東洋史・日本史という区分の中でオリエントの占める位置を捜している限り、本来のオリエント史は永久に浮かび上がってこないのではないでしょうか」。このあたりの複雑さがゆえに、現在の私は、オリエント史やオリエント文明に興味を抱いているのかもしれない。

平成18年10月19日付当ブログ「岡山オリエント美術館」
http://coinkun.cocolog-nifty.com/coin/2006/10/post_03e4.html
岡山オリエント美術館のHP
http://www.city.okayama.jp/orientmuseum/

(参考文献)
・「岡山市立オリエント美術館展示あんない」(岡山市立オリエント美術館編・刊)
・「岡山市立オリエント美術館総合案内」(岡山市立オリエント美術館編・刊)
・「オリエント史の見かた」(岡山市立オリエント美術館編・刊)

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September 15, 2009

特別展・道教の美術

特別展・道教の美術―道(タオ)! 老子からはじまる終わりなき旅―

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本日から始まった特別展「道教の美術―道(タオ)! 老子からはじまる終わりなき旅―」(写真)を見るため、大阪市立美術館に行って来た。初日なので混雑しているのかと思っていたのだが、予想外に空いていた。天候が悪く、また昼時だったからなのか。おかげで各作品をジックリ鑑賞することができた。

本展は、日本と中国の文化に深く根ざす「知られざる道教の世界」がメインテーマ。展示解説によると、「道教とは、道(タオ)を説き不老長寿を究極の理想とする中国でうまれた宗教です。老子をその祖として崇め、神仙思想や風水や星宿、易学をはじめとする古代の思想や信仰・神話、そして仏教をも取り込みながら発展し続けてきました。現代も中国の人生観や世界観の根幹をなし、東アジアの思想や文化、芸術のベースとなっています。道教に関わる美術はその思想と同様に多種多彩です。老子や仙人、北斗七星といった星座を擬人化した図像、閻魔王に代表される道服を身に着けた地獄の裁判官。さらには陰陽道でも用いられた呪符・まじないや占い、そして現在も信仰をあつめる関帝や媽祖などなど。難解でつかみどころがないような道教ですが、今日の日本でもその影響は色濃くみられ、浦島太郎、七夕やお中元、妙見や庚申といった慣れ親しんだ物語や習俗、信仰も実は道教にルーツがあります」との事。

ウィキペディア・フリー百科事典(道教)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%95%99

展示内容を見ると、中国・漢時代から現代までの2000年間にわたる、国宝・重要文化財約50件を含む約330件を、12の章に分けて見せている。
【1 中国古代の神仙思想】(展示NO.001~025)
道教のバックボーンともいえる不老長寿の希求や仙人の存在といった神仙思想について紹介している。
【2 老子と道教の成立】】(展示NO.027~064)
春秋時代の思想家「老子」、その人物像について明らかにし、次いで後漢時代の五斗米道(ごとべいどう)から始まる、教団としての道教の成立過程を、書聖・王羲之(おうぎし) 『黄庭経(こうていきょう)』などの拓本を通じて辿る。
【3 道教の信仰と尊像】】(展示NO.065~112)
道教において、礼拝の対象となる尊像の出現は南北朝時代(5世紀後半)であり、それ以降、彫刻・絵画様々な像が作り続けられることになる。唐時代になると老子は唐皇帝の祖先と位置付けられて神格化し、道教は国家宗教としての位置を確固たるものにした。さらに道教経典の体系化も進み、その集成として『道蔵(どうぞう)』が編纂されている。
【4 古代日本と道教】】(展示NO.113~131)
飛鳥時代の呪符(じゅふ)木簡を端緒に、空海の著作や天台の守護神などに注目する。
【5 陰陽道】】(展示NO.132~158)
安倍晴明(あべのせいめい)に代表される陰陽道に取り入れられた道教的要素を様々な角度から紹介する。
【6 地獄と冥界・十王思想】】(展示NO.160~187)
日本へ伝えられた仏教では、既に中国において道教的信仰が取り入れられたり、融合した信仰や尊格が少なくなかったのだが、その代表として「地獄」と「星」(次章)を取り上げている。
【7 北斗七星と星宿信仰】】(展示NO.188~257)
【8 禅宗と道教】】(展示NO.258~269)
禅宗における三教(さんきょう)図や伽藍神(がらんしん)像などを通じ、禅宗が中国で成立した段階での道教との強い結びつきを示す。
【9 仙人/道教の神々と民間信仰】】(展示NO.271~331)
関羽(かんう)=関帝をはじめとする実在の人物や様々な仙人が道教に取り込まれ、民間信仰と一体となって広がりをみせていく諸相を概観する。こうした神々・仙人たちの図像は、『列仙全伝(れっせんぜんでん)』をはじめとする版本を通じ日本にも多大な影響を及ぼした。
【10 道教思想のひろがり】】(展示NO.337~396)
とどまるところを知らない道教のひろがりを実感するために、中国の医学や占術、さらには日本の庚申(こうしん)信仰や七夕・浦島物語などを取り上げている。
【11 近代日本と道教】】(展示NO.399~410)
その著書『The book of tea』 (茶の本)において「茶は、姿を変えた道教である」と述べた岡倉覚三(おかくらかくぞう) [天心(てんしん)]を中心に、近代美術における道教的画題を集めている。
【12 拡散する道教のイメージ】】(展示NO.411~413)
カタカナ表記の「タオイズム」という言葉や思潮と結び付いた、これまでの宗教的・歴史的理解による造形活動とは全く異なる展開について触れる。

次に、個別の展示作品についてご紹介する。なお、注釈は展示解説より引用した。

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1. 「仙人像(羽人[うじん])」(写真左)[後漢時代・1世紀 / 大阪市立美術館蔵(展示NO.001)]
漢時代にさかのぼる仙人の彫刻作品として貴重な造像。動物のような顔つきであるが、体は人間のようであり、独特のポーズで膝をついて坐る。本来膝の内側に、別材が取り付けられていたと考えられる。

2. 「金立(きんりゅう)神社縁起図」(写真中左)[桃山~江戸時代・16~17世紀 / 佐賀・金立神社蔵(展示NO.014)]
徐福(じょふく)の日本渡来伝承による現存最古の絵画作品。徐福は秦始皇帝の命により、不老不死の仙薬、仙術を獲るため、東方の三神山(蓬莱、方丈、瀛州[えいしゅう])に向かったとされる。金立神社は徐福を主神として祀り、本縁起図では、社殿と徐福の上陸する場面が描かれる。

ウィキペディア・フリー百科事典(徐福)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E7%A6%8F

3. 「牧谿筆・老子像」(写真中右)[南宋時代・13世紀 / 岡山県立美術館蔵(展示NO.028)]
日本で名高い牧谿(もっけい)による老子図で、画中に義光の「道有」印が押されている。老子は口を開け、胸前で手を組む半身像として描かれている。僧牧谿によって老子像が描かれたこと自体、当時の仏道融合を物語っている。

ウィキペディア・フリー百科事典(牧谿)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E8%B0%BF
ウィキペディア・フリー百科事典(老子)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%81%E5%AD%90

4. 「四聖大帝・三官大帝図」(写真右)[明時代・崇禎16年(1643) / 京都・六道珍皇寺蔵(展示NO.082)]
武装形の四聖大帝と笏を手にする三宮大帝が描かれる。四聖大帝は北帝に従う神格である。三宮大帝は、天・地・水の神々を管理する尊格で、三宮の誕生日は上元、中元、下元と称され、道教の祭日であった。


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5. 「安倍晴明像」(写真左)[室町時代・14世紀 / 大阪・阿部王子神社蔵(展示NO.132)]
陰陽道のカリスマとして知られる安倍晴明(921~1105)の現存最古の肖像画。晴明は藤原道長(966~1027)の日記「御堂関白記」(国宝)などに陰陽師として登場する。官職は気象や天文を観測し、異変を占う陰陽寮の天気博士であった。

ウィキペディア・フリー百科事典(安倍晴明)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%99%B4%E6%98%8E
ウィキペディア・フリー百科事典(藤原道長)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E9%95%B7

6. 「神道秘符書」(写真中左)[江戸時代・17世紀 / 大将軍派八神社蔵(展示NO.144)]
呪符とは災を除いたり、幸福をもたらす図形や文字が書かれたお札のことで、霊符とも称される。もともと呪符は道教で用いられてきたもので、日本にも早くから伝わった。本書は陰陽道で用いられる呪符を集成したもの。

7. 「大将軍神立像」(写真中右)[平安時代・10世紀 /大将軍派八神社蔵(展示NO.151)](重要文化財)
迫力のある武装形神像で、台座も含めて一木で造られる。武装形は束帯像に先だって造像が始められたと考えられる。すなわち中国の道教尊像を範とする武装形がまず成立し、これに日本式の神像が加わったことが想像される。

8. 「六道絵[閻魔王庁図]」(写真右) [鎌倉時代・13世紀 / 滋賀・聖衆来迎寺蔵(展示NO.170)](国宝)
肉身を朱色とし、髭を長く伸ばした閻魔王が鎮座する王庁を真正面から描く。閻魔王の周囲には諸王や司禄・司命、善悪童子らが侍り、手前ではさまれた亡者の審判が行われている。こうした亡者たちの描写は、南宋~元代に制作された十王図を継いでいる。

ウィキペディア・フリー百科事典(十王)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%8E%8B

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9. 「焔口餓鬼図[面然大士]」(写真左) [明時代・16世紀 / 千葉・観音教寺蔵(展示NO.179)]
焔口餓鬼は面然大士とも称される道教、民間信仰の神であり、また仏教では観音菩薩の化身ともされる。本国では中央に恐ろしい形相の焔口餓鬼、上方小園内に観音が描かれる。また下方には焔口餓鬼を供養する阿難と救済される多くの人々が表される。

10. 「星曼荼羅図」(写真中左)[平安時代後期・12世紀 / 大阪・久米田寺蔵(展示NO.028)](重要文化財)
円形式の法隆寺本に対して方形式の代表作。主として円形式は天台宗、方形式は真言宗で用いられるという。中央に須弥山と金輪仏頂(釈迦金輪)、その周囲に九曜星と北斗七星、十二宮、二十八宿が配される。

ウィキペディア・フリー百科事典(曼荼羅)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BC%E8%8D%BC%E7%BE%85
ウィキペディア・フリー百科事典(須弥山)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E5%BC%A5%E5%B1%B1
ウィキペディア・フリー百科事典(釈迦金輪)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%AD%97%E9%87%91%E8%BC%AA%E4%BB%8F%E9%A0%82

11. 「鎮宅霊符神像[玄天上帝]」(写真中右) [明時代・15~16世紀 / 大阪・能勢妙見・真如寺蔵(展示NO.239)]

12. 「雪村周継筆・呂洞賓図」(写真右)[室町時代・16世紀(展示NO.282)]
呂洞賓(ろどうひん)は八仙の一人に数えられ、中国で最も親しまれた仙人である。通常、剣を背負った姿で現れることが多いが、本図では龍の頭の上に立ち、水瓶を持つ姿で描かれる。室町から戦国時代にかけて東国で活躍した雪村らしく、躍動感あふれる作品である。

ウィキペディア・フリー百科事典(雪村)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%AA%E6%9D%91
ウィキペディア・フリー百科事典(呂洞賓)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%82%E6%B4%9E%E8%B3%93
ウィキペディア・フリー百科事典(八仙)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E4%BB%99

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13. 「顔輝筆・蝦蟇仙人図」(写真左)[元時代・13~14世紀 / 京都・知恩寺蔵(展示NO.298)](重要文化財)
元時代に活躍した顔輝の作として名高い。蝦蟇を肩に乗せ、桃の枝を手にした蝦蟇仙人は、明代以後、財神として人気を博した劉海蟾(りゅうかいせん)である。

14. 「浦島図」(写真右)[明治26年(1893) / 岐阜県美術館蔵(展示NO.410)]
山本芳翠(1850~1906)は岐阜県生まれ。明治中期の洋画家界の形成に大きな役割を果たした。本図は竜宮城を海上遠くに配置し、現世に帰還する浦島子を描く。ヴィーナスのように貝に乗る乙姫など、芳翠の西洋芸術見聞の成果が垣間見える。

ウィキペディア・フリー百科事典(山本芳翠)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E8%8A%B3%E7%BF%A0

以上、14点についてご紹介したが、これら以外にも見どころは多い。あまり馴染みのないテーマではあるが、本展を見るだけで新しい世界に接したような気分になれる。是非会場に出向き、実物をご覧頂きたい。なお、前期と後期で展示作品が一部入れ替わるのでご留意を(前期 : 9/15~10/4 ・ 後期 : 10/6~10/25)。

※ 写真はすべて、同展案内書より

(本展に関連するHP)
道教の美術展公式サイト
http://taoism-art.main.jp/concept.html
大阪市立美術館・道教の美術
http://www.city.osaka.lg.jp/museum/page/0000038116.html
ストリート・アートナビ
http://plaza.harmonix.ne.jp/~artnavi/10pab/211025-osakasi-taoism.html

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June 23, 2009

世界遺産・トラキア人の墓

ブルガリア・ルーマニアの旅(第12回)

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「薔薇の収穫祭」を楽しんだ後、ユネスコの世界文化遺産である「トラキア人の墓」に向かった。墓は、「トュルベト公園」内にある。1944年、防空壕建設中に発見されたという。公園の階段を上りきったところを南に進むと、「トラキア人の墓」を囲う建物がある(写真左・中左)。残念ながら、中を見ることが出来ない。我々が見学するのは、忠実に再現されたレプリカである。墓を囲う建物の前を通り、さらに南に進むと、レプリカの墓だ(写真中右)。中は狭く、一度に沢山の人は入れないので、入口付近には大勢の人が並んでいた。受付を通って奥に進むと、展示室があり、その先に狭い回廊と丸天井の埋葬室がある。展示室には、1944年の発見時から1979年の世界遺産登録までの過程が写真を使って説明されている(写真右)。

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展示室奥の埋葬室は、丸天井型の墳墓(カタコンベ)だ。回廊、埋葬室ともに壁画で飾られている(写真)。

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これらは、「紀元前4世紀後半から紀元前3世紀頃のものとされるトラキア人のフレスコ画で、戦闘場面や葬送儀礼の様子が数種類の色を使って描かれている」(「’09~’10地球の歩き方 ブルガリア・ルーマニア」より : 写真上)。なかでも、慣例的な葬儀の宴におけるトラキア人夫婦の画のうち、「座っている夫婦が互いの手首をつかみ、告別の身振りをしている」(「ウィキペディア・フリー百科事典(カザンラクのトラキア人の墳墓)」より)シーンは印象的である(写真下)。これらの壁画は、ヘレニズム時代のブルガリアの美術の中で、最も保存状態が良いものであるとの事。

(参考HP)
ウィキペディア・フリー百科事典(カザンラクのトラキア人の墳墓)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%81%AE%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%AD%E3%82%A2%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%A2%B3%E5%A2%93
トラキア人の墓
http://www.digsys.bg/books/cultural_heritage/thracian/thracian-intro.html
ウィキペディア・フリー百科事典(カザンラクのトラキア人の墳墓 : 英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Thracian_Tomb_of_Kazanlak


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次は「TRAVEL AGENCY “ROSE TRAVEL” Ltd」で、ローズジャムなどの試食だ。お墓の近くにあるお店だったが、年配者がいることも考慮し、バスで移動。大回りしたので、位置関係が良く分からなくなってしまった。地図を見ながら歩くのが、街を覚えるのには最も良いのだが、残念。お店の案内書を求めるが、2週間前にオープンしたばかりなので、まだ出来ていないとの事。代わりにくれたのが、「TRAVEL AGENCY “ROSE TRAVEL” Ltd」の住所やHPアドレスの書かれた紙一枚である。テーブルに着き、用意されていた軽食を頂く。チーズケーキにブルガリアヨーグルト、ローズジャム、バラのリキュールだ(写真)。お酒の飲めない私にとって、リキュールはアルコールが強すぎたので、一口だけに終わったが、香、味、甘さなどは非常に良いものであった。ローズジャムもヨーグルトに混ぜて頂くと美味しい。味覚を楽しんでいる間、他のテーブルでは薔薇の香水についての説明会が行われていたが、食べるのに忙しく、まったく話を聞いていなかった。今になって、説明を聞かなかったことを少々後悔している。お店を出る前に、ローズオイルのプレゼントをもらう。

カザンラクの旅行代理店「TRAVEL AGENCY “ROSE TRAVEL” Ltd」(※)
http://www.rose-travel.com
http://rose.iscona.com/?act=show_razdel&id=2&change_lang_to=en


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40分程ここで過ごし、その後徒歩で観光に出かけた。坂道を上ると、「シティリア教会」がある(写真上段)。ここで約10分、写真を撮る。教会に関する説明書きが見当たらなかったので、1865年に建てられたと言うこと以外、詳しいことは分からない。中に入ると、正面にはイコノスタシス。金がほとんど使われていなかったので、質素に見える。王門の両脇には、お約束通り、キリストと聖母マリアのイコンがあったが、「最後の晩餐」のイコンは掲げられていなかった(写真下段)。

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教会を出てから3~4分歩き、次は「カザンラク・クラタ民族博物館」(写真左)に入った。ここに来て初めて「トラキア人の墓」のすぐ近くにいたことが分かった。中に入ると、緑と花に囲まれた庭があり(写真中左)、その先には平屋建ての家屋が建つ(写真中右)。19世紀の初め頃に建てられたもので、建物の中を見ると、19世紀終わり頃の、カザンラク地方の伝統的な中流クラスの農家の暮らしが再現されている。「キッチン」(写真右)に「ベッドルーム兼ゲストルーム」(写真下)がある。

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ここから庭を横切り、井戸(写真左)や農具置場(写真中左)の前を通り過ぎると、2階建ての家屋の建つ庭に出た(写真中右・右)。この建物は民族復興様式の建築物で、19世紀の中ごろに建てられたもの。こちらは19世紀終わり頃の、中流クラスの農家の暮らしから、都会の暮らしへの変遷を見ることが出来る。「ベッドルーム」(写真下左)に「出っ張り構造のベランダ」(写真下中左)、「食料保管庫付きのキッチン」(写真下中右)、「ゲストルーム」(写真下右)など、少しお洒落な感じだ。こちらの庭では、外国人のグループがパーティーを催している。「’09~’10地球の歩き方 ブルガリア・ルーマニア」によると、「ここのメインはバラ祭りのときの蒸留祭だ。来訪した人々に香水を惜しげもなく振りかけ、周囲はバラの香りに満たされる」との事であったが、我々が訪問した時はこのようなことはなかった。「蒸留祭」とは、何時行われるのであろうか。

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博物館の出口近くに、昔の蒸留釜が置かれていた(写真)。どのように使うのか説明を受けたのだが、バラの油がどこに溜まるのか、もう一つ良く分からない。どうやら、解説してくれたカザンラクのガイド自身も良く分かっていなかったようだ。現役高校生で、今日が初めてのガイドなのだから仕方がないと思っていたら、このことを知らない他のツアーの人達は、「ガイドなんだから、もっと勉強してもらわないと困る」といって怒っていた。可愛いだけでは済まされないようである。結論は、次に訪ねる「バラ博物館」で出す事になった。

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カザンラク観光の最後は、「バラ博物館」である(写真左)。民族博物館の北西、バスで数分のところにある。ここには、「薔薇の芳香と薬効の研究所」(写真中左)があり、広場では色々な種類のバラが育てられていた(写真中右)。館内では、バラの香油の製造過程の写真(写真右)や蒸留釜(写真下左・下中)、バラの女王の写真(写真下右)などが展示されている。先ほどの疑問点についてだが、次のような工程で出来るとの事。
「釜の中にバラの花と蒸留水を入れる→釜を熱する→最初に水、次に香油が蒸発する→水を張った桶の中を通る管を通過する間に冷やされ、液体になる→バケツに水と香油が溜まる→分離した香油だけを採取する」。結局、バラの油はバケツに溜まるのである。

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ところで、香油を採取するためのバラは、何でも良いわけではない。香油用には、「薔薇の収穫祭」の会場で見たような、通常よりひと回り小さい薄いピンク色のバラを使う(写真)。観賞用ではない、この香油用のバラのことを「ギュル・トレンダフィル」と呼ぶ。博物館と同じ敷地に「薔薇の芳香と薬効の研究所」があることからも分かるように、バラの香油には治療作用もあると言う。ところで、ローズオイルの塊は、「ブルガリアの金」と呼ばれているとの事。1gで6,000円程になることを考えると頷ける。本当に貴重なものなのだ。

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約30分で「バラ博物館」の見学を終え、昼食のためバスでレストランに向かう。10分程で到着。レストランの名前は「KANCHE」(写真左)。ここでは子供達のフォークダンスを見ながら、バーべキューを楽しむことが出来るという。我々の到着と同時に、別のバスがやって来た。バスからは、民族衣装を着た可愛い子供達が降りてきた。彼らがフォークダンスを踊り、我々に見せてくれるのだ(写真中左・中右・右)。

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中庭の屋根の下にあるテーブルに着き、皿を持ってバーベキューを採りに行く。庭の周りでは、炭火で肉や野菜を焼いているが、まだ生焼け状態(写真左)。しかし、そのようなことはお構いなしで、皿に盛り付けてくれる。少し離れたところでは、鶏や羊、ウサギが丸焼きにされていた(写真中左・中右)。こちらはまだ出来上がるまでに時間がかかる様子。飲み物は飲み放題。アルコールの飲めない私は、コーラとファンタを貰い席に戻る。しばらくすると、子供達のフォークダンスが始まった(写真右・下段)。みんな元気よく、きれいに揃って踊っている。毎日学校で練習しているのだろうか。踊りと食事を楽しみ、午後2:00に昼食を終えた。


(参考文献)
・「’09~’10地球の歩き方 ブルガリア・ルーマニア」(地球の歩き方編集室編)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「ブルガリア・名所と穴場(日本語版)」(ヴァラ・カンジェヴァ/アントニー・ハンジースキー著)[BORINA刊]
・「図説バルカンの歴史(ふくろうの本)」(柴宣弘著)[河出書房新社刊]

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