May 29, 2005

EURO紙幣と建築様式

貨幣ぶらり旅(第27回)

今回中欧を旅するまで、建築物についてほとんど関心を持っていなかった。しかし、先日も投稿したように、帰国後、建築様式などについて簡単に学習したところ、興味が一段と湧いてきた。人というのは関心・興味のあることが増えると、理解力も深まると言われるが、本当のことである。これまでも新たな関心・興味が理解を深めてくれるという経験をしてきたが、今回は意外にも趣味のコインに対する関心と理解を深めてくれた。
簡単な例を挙げると、ユーロ紙幣のデザインについてである。欧州の先史時代から今日までの典型的な建築様式を用いており、表面には、古代、ロマネスク様式、ゴシック様式、ルネッサンス様式など各時代を代表する建築物を、そして裏面には、具体的なモデルになる建築物ではないが、概念的な図柄として橋梁が描かれている。
具体的な建築物を描かなかったのは、ユーロ加盟12カ国の何処にも偏らないようにするための配慮の結果である。個別に見てみよう。

5ユーロ
5front
表面 : 古代アーチ状の柱を持つ建物を描いている。ギリシャ中期、イオニア式の優雅な建築物がモデル。
5back
裏面 : 石造りの水道橋が描かれている。

10ユーロ
10front
表面 : ロマネスク時代のアーチ状の回廊を描いている。キリスト教建築として10世紀頃から欧州に広まった建築様式である。
10back
裏面 : ロマネスク様式で建築されたレンガ造りの丈夫な橋が描かれている。

20ユーロ
20front
表面 : ゴシック様式の建造物の窓を描いている。この絵には無いが、ステンドグラスが盛んになった時期である。
20back
裏面 : 中世末期、ルネッサンス直前頃のゴシック様式を用いた、端正でスリムな橋が描かれている。

50ユーロ
50front
表面 : 14世紀から16世紀初頭にかけて欧州に広まったルネッサンス様式の建物の回廊と窓を描いている。
50back
裏面 : ルネッサンス様式の飾りが特徴となっている橋が描かれている。

100ユーロ
100front
表面 : 16世紀から18世紀にかけて欧州で流行した華麗な芸術様式であるバロック様式の回廊を描いている。


100back
裏面 : 繊細で華麗な曲線を持ち、欄干に彫像を置いたロココ様式の橋を描いている。

200ユーロ
200front
表面 : 19世紀の鉄とガラスを用いた建築様式で、装飾性の高いアール・ヌーボウ様式の建物の入り口が描かれている。

200back
裏面 : 鉄を用いた軽やかで、繊細な感じを持つ19世紀時代に建造された鉄橋を描いている。

500ユーロ
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表面 : ガラスとアルミの軽い素材を生かした20世紀の近代的で機能的な建物を描いている。
500back
裏面 : 放射状に美しくワイヤーが広がる現代的な大型の吊り橋を描いている。

これまで以上に紙幣のデザインに関心を持てたのは旅のおかげかも知れない。
なお、紙幣の写真はECBのサイトから持ってきた。
ECBユーロのHP
http://www.ecb.int/bc/html/hires.en.html

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May 25, 2005

旅で見つけた記念コイン

貨幣ぶらり旅(第25回)

中欧の旅行から戻り1ヶ月近くなる。興奮も冷めて少し落ち着き始めていたのだが、また思い出すことになった。と言うのも、オーストリアのコイン商で予約注文していたコイン2枚が届いたからである。(5月1日付投稿ご参照)
1つはオーストリアが第二次世界大戦後、第二共和制国家となって60年になることを記念して発行された銀貨、もう1つはオーストリアが国家条約で独立し、永世中立国宣言をしてから50年になることを記念するバイ・メタル貨である。
旅行中に終戦60周年記念式典を行っていたので、記念コインの発行がないのか、偶然立ち寄ったコイン商で問い合わせた結果、今回の購入になったのである。
5月11日に発行されるため、4月28日に同店を訪れた際、購入予約して帰国した。発行日から丁度2週間で手元に届いたことになる。
以下、今回購入したコインについて簡単に解説する。
File0005
まず、60年を記念する銀貨から。
額面 : 10ユーロ
直径 : 32mm
重量 : 16g
材質 : 銀・925/1,000、銅・75/1,000
発行枚数 : プルーフ 60,000枚(コインの表面を鏡状に仕上げている)
       ブックレット 40,000枚(通常貨を解説書にパックした状態)
      通常貨 130,000枚
File0007
デザイン : 表面・ウィーンの国会議事堂前にある“アテナの女神像”と、独立の契約書に調印したオーストリアの9つの州の各紋章が並び、10EUROの表示がされている。
      裏面・ウィーンにある国会議事堂と独立を喜ぶ人々の図を囲むように第二共和制60年の文字が書かれている。


次は50年を記念するバイ・メタル貨(2種類の金属に分かれている)について
額面 : 2ユーロ
直径 : 25.75mm
重量 : 8.5g
材質 : 外周は銅とニッケル、内側は黄銅とニッケル
デザイン : 表面・欧州大陸と2ユーロの表示(通常貨と同じデザイン)
      File0006
裏面・外周は12個の星、内側は1955年の独立に際して為された9州の署名とシールが描かれている。

これらのコインに関連して歴史を振り返ると、オーストリアは、第一次世界大戦で敗北し、ハンガリー、チェコスロバキアなどと分離され、国土・人口とも大戦前の四分の一に減少した。また、第二次世界大戦前の1938年にはドイツに吸収された。戦後はドイツと切り離され、英・米・仏・露の共同管理下に置かれたが、ドイツと異なり、ウィーンの中央政府には大幅な自治権が与えられていた。また、ソ連圏に吸収されず、東西に分裂することも無く、さらに4占領国との粘り強い交渉の結果、1955年5月に国家条約で独立を回復し、同年10月には永世中立国として宣言、同国の憲法に定めた。この時から50年、終戦から60年になるのだ。
ハプスブルグ家の全盛期に比べ小さな国になったが、当時の芸術や文化は今に引き継がれている。

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May 20, 2005

作曲家ヘンデルもバブルの被害者?

芸術も経済次第?

音楽の街オーストリア・ウィーンに行ったのだが、もう少し音楽についても知っておけば良かったと反省し、自分なりに整理してみた。私同様、初心者の参考になればと思う。
まず、中・近世・近代の音楽の流れをみると、概ね次の通り。
「中世音楽→ルネッサンス→バロック→古典派→ロマン派」
そして、中世音楽はグレゴリオ聖歌に代表される教会音楽、ルネッサンスは脱教会を目指す音楽、続くバロックは器楽伴奏を伴う大規模音楽、そして古典派・ロマン派は管弦楽付きの大作の時代と言えよう。
① 中世音楽
 6世紀頃から15世紀にかけての音楽のことをいい、キリスト教を中心とする聖歌などが代表的である。西洋美術と対比させると、やはりキリスト教美術と言われるロマネスクや大聖堂が建てられたゴシックの時代に相当する。
② ルネッサンス
 15~16世紀のルネサンス期に作られた音楽の総称。イタリアを中心に14世紀から16世紀にかけてヨーロッパ全域に広がった美術・文芸・文化上の革新運動をルネッサンスと言うが、それまでの中世が完全に“神の支配下の世界”であったのに対し、ルネッサンスは“人間を中心とした世界観”で、人間性の回復を目指した。西洋美術の場合、ルネッサンスの風潮は、古代ギリシャ・ローマの世界観を見直し、その芸術を賛美する形をとっているが、音楽については、古代ギリシャ・ローマの音楽の復興ではなく、ルネッサンス時代に作られた音楽という意味でこのように呼ばれている。
また、西洋美術のルネッサンスはイタリア中心で始まったが、音楽は現在のベルギー・フランドル地方から栄えた。
③ バロック
 17世紀初頭から18世紀中頃までの、ヨーロッパ音楽をいう。J.S.バッハの死去した1750年代までとすることが多いようだ。ヨハン・セバスチャン・バッハ以外にジョージ・フレデリック・ヘンデルも有名である。(小中学校レベルでは・・・)
西洋美術と同様、激しい動勢、燃え立つ情念、躍動ある生命力といった激しい感情の表現が特徴の様である。
④ 古典派
 18世紀後半を中心とする音楽。フランス革命や人権宣言など、その影響はヨーロッパに広がった。音楽もこれまでとは異なり、貴族や教会中心のものから一般市民のものへと移っていった。
古典派の特徴は器楽曲という点にある。それまでは、声楽が中心で、器楽はオペラなどを盛り上げる役割を果たすに過ぎなかったが、この時代にはシンフォニーなど音楽芸術として器楽を楽しむようになったと言われている。
この時代にはフランツ・ヨーゼフ・ハイドン、ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルト、ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーベンなど多数の音楽家が活躍した。
⑤ ロマン派
 ロマン主義の精神によって古典派を発展させた音楽で、概ね19世紀のヨーロッパを中心として栄えた。ヨハン・シュトラウス父子ともこの時代に活躍した。
ロマン派音楽はベートーヴェン、ウェーバー、シューベルトを筆頭に、メンデルスゾーン、シューマン、ショパン、ベルリオーズらが続いた。 彼らの多くは、交響曲、協奏曲等の管弦楽を中心とするが、歌曲、ピアノ曲においても特徴的な作品を発表している。
ロマン派音楽は、19世紀を半ばで前期と後期に分けられ、後者は後期ロマン派と言われる。 後期ロマン派としては、リスト、ブルックナー、ワーグナーなどを揚げることができる。
さらに「新古典派」としてブラームス、チャイコフスキーがいる。19世紀末から20世紀初頭にかけての時期は多様なスタイルが共存した時代でもある

以上が、中・近世・近代の音楽についての概略であるが、先日投稿した西洋美術とあわせて考えると、建築・彫刻・絵画などとともに音楽も、当初はキリスト教をベースにしており、布教や教会の権威付け、神秘さの保持のためにスタートしたと言えるのではないか。勿論、古代に遡れば、自然への恐れに対抗するために、また喜びを表現するために自然発生的に生まれたものだとは思う。しかし、神の教えが人々の行動を規律するようになると、重厚な建築物は威厳を表し、彫刻は崇拝の対象になり、絵画は字を読めない人に対しても教えを説き、音楽は神秘性を持たせるといったことに十分に役立ったであろう。これは当時、領主でもあった教会が荘園制封建社会のなかで、経済的基盤を守るのにも貢献したのではないだろうか。
やがて王政からルネッサンスを経て、市民革命が起きる。これまで芸術家のパトロンであった教会や封建領主は没落し、貨幣経済が発達する中で蓄積を増やしてきた富豪たちが次のパトロンになった。絵画なども、それまではいわゆる“おかかえ”だったのが、市場原理にさらされることになったが、音楽も大衆の支持により新しく生まれ変わってきたように思える。
多様な芸術が生まれるには、自由で豊かな社会が求められると共に、芸術家個人の豊かさも求められる。現代でも芸術で生きていくのは大変である。こぐ少数の認められた者だけが豊かな生活ができるのである。才能を発揮する前に、生活に追われてしまうのだ。
話は少々ズレルが、わが国でも色々な人の才能を引き出すため、映画、絵画、ゲームソフトなどへ、投資ファンドを通じての出資が検討されている。可能性のある人に、広く薄く大衆からお金を集めて作品を作らせる。アメリカなどではかなり前から行われている手法だ。新しい芸術が生まれるためには、実はファイナンスの発達が重要なのではないだろうか。西洋美術や音楽の概説的な書物と歴史書を数冊読んだに過ぎないのだか、そのように思えて仕方がない。
ところで、色々な音楽に関する本を読んでみたのだが、その中で音楽以外に関心を引いた記述があった。引用・紹介して終わることにする。
バロック期、イギリス・ロンドンで作曲したジョージ・フレデリック・ヘンデル関連である。
「大陸諸国と異なり交易中心に経済を活性化させたイギリスでは、貴族たちも金儲けに夢中になった。この国では、貴族は資産にあぐらをかく遊び人ではなく、株式投資で富を増やす実業家だった。ヘンデルのオペラを上演すべく設立されたロイヤル音楽アカデミーも、出資額に応じて配当を支払う株式投資会社なのである。その背景には異常な投機ブームがあった。象徴的なのが貿易会社“南海会社”(南海泡沫事件はオランダ・チューリップバブルと並んで有名―注釈筆者)株で、1720年に100ポンドだった株価は半年で10倍に跳ね上がった。ところがこれが文字とおりのバブルで、年末には株券が紙切れ同然。同社に500ポンド投資したヘンデルも被害を被った。(中略)再起を図ったヘンデルはイギリスに帰化すると持ち株を手放し、その利益で新ロイヤルアカデミーを立ち上げる。ところがヘンデルを嫌う投資家たちがこれに対抗して“貴族オペラ”を設立、人気絶頂のカストラーネ、ファリネッリを招聘して泥試合になった。数年後、この二つの株式オペラ会社は両者共倒れで終わった。多額の負債を抱えたヘンデルを救ったのがオラトリオの成功だった。多額の収益を上げ続けた“メサイヤ”こそ、作曲者にとっての救世主になったのである。」[一冊でわかるクラシック音楽ガイド(後藤真理子監修)成美堂出版 : 2005年1月1日発行・1,300円+税]より。


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May 18, 2005

音楽の街ウィーンとヨハン・シュトラウスⅡ世

金ピカのヨハン・シュトラウス

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先日(16日深夜、正確には17日)TVのスイッチを入れると、NHK教育で名曲アルバム選を放送していた。画面には、金色に輝く立像が映っている。「あれは!」と思わず小声を上げた。オーストリア・ウィーンの市立公園で見た“ヨハン・シュトラウス”の像である。
音楽を聴くのは好きだが、音楽に関する知識はほとんど無い。“ヨハン・シュトラウス”の名前ぐらいは知っているが、それ以上は何も知らない。ウィーンでこの像を見た時も、「金ピカで綺麗だナ」思いながら、「何でバイオリンを持っているのだろう」程度の疑問を抱いたに過ぎなかった。
しかし、TVで放送している音楽と解説を見ていると、音楽の街“ウィーン”と、“ヨハン・シュトラウス”のことが、少し分かったように思えた。
放送された曲は、すべて“ヨハン・シュトラウス”作曲、東京フィルハーモニー交響楽団の演奏である。曲目は①ワルツ「酒、女、歌」、② 「こうもり」のカドリール、③ ワルツ「ウィーンかたぎ」である。“ヨハン・シュトラウス”は父・子とも音楽家で、これら三曲のほか、「皇帝円舞曲」や「ウィーンの森の物語」なども息子のヨハン・シュトラウスⅡ世の作品なのだ。
金ピカの像もⅡ世である。バイオリンを持っているのは、彼が作曲家・指揮者でかつバイオリニストであったこと、またバイオリンを演奏しながら指揮していたからだということを知り、驚いた。指揮者は指揮棒しか持たないと思っていたので・・・。
ヨハン・シュトラウスⅡ世の父は、息子が音楽家になることに反対し、経済学の勉強をさせたようだ。しかし、父が愛人をつくり、家出した後、息子は音楽家になった。父の生存中はお互いライバル関係にあったようだが、父が亡くなった後は、息子のヨハン・シュトラウスⅡ世が名実ともに“ワルツ王”になり、一世を風靡した。
ところで、ウィーンは音楽の中心地の一つ。他にも多数の優れた音楽家を輩出している。モーツアルト(お土産に買ったチョコレートではない?)、ベートーベン、シューベルトなど、小・中学校で習った有名音楽家達である。あらためて彼らの作品を聴いてみると、昔とは違った良さを感じる。
実は今、「皇帝円舞曲」を聴きながら、この文章を書いている。目を閉じると、ハプズルグ家の人たちや皇族・貴族が優雅に、また流れるように踊っている様子が目に浮かぶ。
この文も流れるように書ければ良いのだが、なかなか上手くは行かない。心だけが躍っている?

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May 17, 2005

チェスキー・クルムロフ城はゴシック?バロック?それとも・・・

初歩の初歩、入門者が見た中・近世の西洋美術

今回の旅行で新たに興味を持ったのが、西洋の美術である。
これまでほとんど関心を持っていなかったのだが、この度、中・近世の建築・絵画・彫刻などを見て、その美しさや素晴らしさに魅かれた。単に素晴らしいと思うだけでも、心にとって良いことであろうが、理解出来ればさらに良い。西洋の美術と言っても、時代によって異なる。つまり、政治・宗教・市民の意識・そして経済的背景が異なることにより、表現される芸術も異なるのだ。
そこで西洋美術を見るにしても、これら諸要素をベースにした、自分なりの“ものさし”が必要だと思い、簡単に纏めて見た。詳しい方にとっては、「なんだそんなことか」と言う内容であろうが、入門者が、興味を深めていく第一歩として役に立つのではないかと考えている。題して、「初歩の初歩、入門者が見た中・近世の西洋美術」である。
まず全体の流れから。中世・近世の西洋美術の流れを大きく捉えると、「ロマネスク→ゴシック→ルネッサンス→バロック→ロココ」の順である。
①ロマネスク
歴史的に見ると、ゲルマン民族の大移動の後、ヨーロッパ各地にゲルマン民族の独立国家ができ、各国は主にキリスト教を国教にした。諸国の中ではフランク族が勢力を伸ばし、さらにその中でもメロヴィング朝が栄え、独特の装飾文様を持つメロヴィング朝美術が生まれた。次いで同じフランク族のカロリング王朝が栄えた。この時代は古代ギリシャ・ローマの芸術の復興を目指していたのだ。その後カロリング朝の分裂、ノルマン人の侵入などでヨーロッパは混乱したが、やがて封建制度が確立され、キリスト教文化が全ヨーロッパに広まると共に、メロヴィング朝以来の美術も統合され、一つの様式を生み出すことになった。これがいわゆる「ロマネスク美術」である。10世紀から13世紀のキリスト教美術と言える。この時代には、各地に教会が建てられ、この教会を中心に浮彫や壁画、写本芸術が盛んになった。
ロマネスク建築は石造りで、その重い屋根を支えるため、壁も分厚く、重々しい構造になっている。天井のアーチは特徴的である。
②ゴシック
12世紀ころのフランスが起源。政治・経済の中央集権化が進み、都市が発達、大聖堂などが次々に建てられた。ゴシックはこの建築から始まり、その特徴は尖った屋根、それを支える無数のアーチ、そして高窓である。垂直線が強調され、建物内部にふんだんに外光が取り入れられているのも魅力。壁を窓で埋めるゴシック建築ではステンド・グラスが全盛となった。円柱に人物像を刻むゴシックの彫刻も面白い。
ところで、「ゴシック」という言葉は、16世紀のイタリア人が用いたもので、「ゴート人の粗野な建築様式」という意味のようだ。
③ルネッサンス
イタリアを中心に14世紀から16世紀にかけてヨーロッパ全域に広がった美術・文芸・文化上の革新運動をルネッサンスと言うが、それまでの中世が完全に“神の支配下の世界”であったのに対し、ルネッサンスは人間を中心とした世界観、人間性の回復を目指した。ルネッサンスの風潮は、古代ギリシャ・ローマの世界観を見直し、その芸術を賛美する形をとっている。
建築では、豪華な宮殿や私邸が多く、世俗的な市民の建造物が次々に建てられた。彫刻も中世のように建築の付随的芸術としてではなく、独立した芸術として造られるようになった。
人間性回復と言う点は、絵画に最も良く表われており、礼拝堂の壁画などにも数々の作品が残されている。ルネッサンス期は、一般に初期、前期、盛期、後期に分けられているが、ここでは触れない。
④バロック
ルネッサンスの近代精神の波は、16世紀後半、全ヨーロッパに広がり、17世紀にはドイツ・オランダが新教国として出発し、国内の統一も果たした。このような時代に広まった美術様式がバロックである。理知と均衡を特徴とするルネッサンスに対し、バロックは不規則で、激しい動勢、燃え立つ情念、躍動ある生命力といった激しい感情の表現が特徴である。建築では、静かで秩序正しいルネッサンス様式に対し、バロック様式は不均衡で力強い動感を有している。また、周囲の空間を構想に入れた彫刻にも特徴が見られる。
⑤ロココ
貴族社会から生まれたこともあり、軽快、優美、典雅さが特徴である。フランス・パリを中心とした自由奔放な貴族趣味と、富豪たちの享楽主義という当時の時代背景から生まれた。しかし、18世紀末の人権宣言をはじめとするフランス革命の勃発によりブルボン王朝と貴族階級は衰え、それと共に貴族的趣味であるロココに対する反発も強まり、やがて衰退していったのである。
さて、以上を予備知識として、今回の旅行で見た芸術、特に教会、礼拝堂、お城などの建築物を中心に見てみると、これまでとは違った感じで鑑賞できる。
まず中・近世の建築物が混在して残るチェコのプラハ市内からみる。
旧市街広場の真ん中に立ち、グルリと一回転すると、ゴシック、ルネッサンス、バロックを見ることができる。
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「ティーン教会」、先の尖った屋根。まさにゴシック。そしてルネッサンス様式の美しい飾り屋根と案内書に書いてあるのだが、どの部分か私には分からない。
「旧市庁舎塔」、これもゴシック。これにもルネッサンス期の装飾が施されているという。
「聖ミクラージュ教会」はバロック。ゴシック様式とは明らかに違う。たまねぎ型の大きなドーム状屋根、丸みのある塔が特徴的である。ただ、不均衡で力強い動感というのが分からない。この建物のような感じがそうなのであろう。
「ゴルツ・キンスキー宮殿」、これはロココ。優雅さを感じることが出来る。波打ち際の波が丸くなったようなソフトな感じ、ロココの特徴が出ている。
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旧市街広場から少し東に行ったところにある「火薬塔」。これは疑いなくゴシック。屋根の尖り、垂直な線、高窓とゴシックの特徴を備えている。
今度は旧市街広場から少し西に行くと、「カレル橋」がある。橋の旧市街側橋塔はゴシック。これも典型的なゴシック建築だ。
次は「カレル橋」を渡った向こうにあるプラハ城。城内にある「聖ヴィート大聖堂」もゴシック。ここは中に入ったが、ステンド・グラスが美しい。このステンド・グラスの中には、ミュシャの作品もある。余談であるが、先日(5月15日)、TVでミュシャがチェコの独立、スラブ民族の統一に尽力したと言う内容の番組と、チェコのユダヤ人地区について解説する番組を放送していた。これまでであれば見なかったと思うが、先日は興味を持って見てしまった。
同じく城内にある「聖イジー教会」はロマネスク。2本の白い尖塔を持っているので、お城の高いところから見ても良く分かる。しかし、ロマネスクの重量感を感じることはできなかった。どこかロマネスクの特徴とは違うように感じたので、解説書を読むと、17世紀に初期バロック様式のファサード(家屋の正面の外観)が造られているという。様式が混在しているので、初心者の私にも違和感があったのだ。
最後にチェスキー・クルムロフ城をみる。ここは、ガイドの話だと、「それぞれの時代の様式が見事に調和した複合建築物」と言うことである。領主が変わる毎に増改築が行われたため、複合建築物になったようだ。
案内書を見ると、13世紀にヴィートコヴィツ家の分家の居城としてゴシック様式で建てられ、16世紀にロジェンベルク家がルネッサンス様式で、18世紀初頭にエッゲンベルク家がバロック様式で、さらに18世紀後半にはシュヴァルツェンベルグ家がロココ様式でお城に手を加えていったという解説がされていた。
写真で振り返ると、多分この当たりがバロックで、ここがロココではないかといった推測は出来る。旅立つ前に、今回まとめた程度の知識を得ておけば、当日はもっと楽しかったのではないかと考えると残念である。絵画や彫刻についても同じである。
本稿では中・近世の西洋美術について概観したが、古代ギリシャやローマ、エジプトやメソポタミアの美術もあるし、新しいところでは新古典主義やロマン主義、印象主義など様々なスタイルが見られる。今後の旅の楽しみを増やすためにも、政治・経済などの背景と共に美術についての知識を増やしていく必要性を感じた。

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May 16, 2005

カタカナドイツ語・チェコ語

関空からウィーンへ向けての飛行機の中で


海外旅行に行く場合、いつも現地の言葉を勉強して行く。と言っても、ほんの僅かなフレーズを覚えていくだけなのだ。
今回はドイツ語とチェコ語、私にはどちらも初めての外国語である。無理をしなくても、旅先では英語で十分。しかし現地の言葉を話すと、その後の会話が楽しく弾むような気がするのだ。僅かでも日本語を話す外人に好感を持ってしまうのは私だけか?
ドイツとオーストリア・ウィーンはドイツ語、チェコはチェコ語。まず滞在日数の多いドイツ語を重点的に覚えた。珍しく頑張って十数のフレーズと食べ物や観光に使えそうな名詞を幾つか記憶した。カタカナで書かれている本だけが頼りである。
普段は全く頭に入らないのだが、旅先で使うつもりになると、何故か覚えられる。帰国後、テレビやラジオでドイツ語講座を聞くが、全く頭に入らないのは使う当てが無いからであろう。
実践はウィーン行きの飛行機から始まった。客室乗務員に話しかける。5~6人の乗務員がやって来たが、そのうち若い男性のアテンダントが私に関心を持ってくれた。まず知っている飲み物や食べ物の名前をフルに使ってみた。赤ワイン、白ワイン、水、ビール、オレンジジュース、りんごジュース、日本茶、コーヒー、紅茶、砂糖2つ、ミルク付き、氷を入れてなどなど注文の嵐。そのうち面白がって乗務員の方から話しかけてくれる。チョコレート、ケーキ、チーズ、パン、チキンラーメンなど次々と持ってくる。他のお客に比べ、明らかに私に話しかけてくれる回数は多い。その都度飲み食いしていると、お腹が一杯になった。
「お腹が一杯」とドイツ語で言うと、笑いながら「よかったネ」と言っていた。
色々話しているうちに、カタカナで覚えただけのドイツ語の発音の感じが分かってきた。飛行機の中の数時間だけでこれだけの効果。驚くばかりである。
ウィーン空港に着いた頃には変な自信が湧いてきた。両替所で「こんにちは」と「両替お願いします」をドイツ語で言うと、飛び切りの笑顔をもらった。変な外人と思ったのだろうか? 後は英語で話すのだが、私の願いを一生懸命に聞いてくれた。願いとは、既に別の投稿で述べたように、各国のユーロコインを入れて両替して欲しいというもので、面倒なことなのだが、手元の両替用コインを1枚1枚見て、探してくれたのである。
レストラン、デパート、土産物屋、両替店などあらゆる所でこの調子。カタカナドイツ語でも通じるものだと思い楽しい旅を続けていた。
チェコ語は、ほとんど教材も無く、滞在日数も少ないので、数フレーズと僅かな名詞を覚えただけである。しかし、一人の人にチェコ語で挨拶するだけで、周りの人も振り向いてくれた。日本人がチェコ語を話すのが珍しいのか。ガイドをしてくれたチェコ人の女性も、「こんなにチェコ語を話す日本人はいない」と言いながら、会話の相手になってくれた。短期の観光客で、私のようにノー天気に、知っている僅かなチェコ語を話して自己満足している人はいなかったのかも知れない。
日本人旅行客が少ない地域で、マイナーな言葉を話すと面白いので、もう少しチェコ語を覚えてくれば良かったと思いつつホテルに戻った後、次の日に使うため、少しずつ新しい単語を覚えていった。
ドイツ・オーストリア・チェコ共に、私が接した若い人(40歳代ぐらいまで)は皆、英語が話せたが、年配者は話せない人が多かったように思う。しかし、それでも道などを尋ねると、親切に一生懸命ドイツ語で説明してくれた。感謝である。
ベルリンからチェコを廻ってウィーンに戻ってきた頃には、ドイツ語にも慣れてきたので、知っているフレーズを流暢に(?)話すと、スピーディーなドイツ語で話しかけられて困惑、一瞬「ポカ~ン」としてしまった。何事も調子に乗りすぎると良くない。
ヨーロッパの旅は今回が初めてだったが、ドイツ語圏だけでなく、イタリア語、スペイン語、フランス語を話す国からも多数観光に来ていたので、これらの言葉も復習して行けば、もっと楽しさが広がったのではないかと思った。
帰国後は、頭に入らないながらも、NHKの各ラジオ講座の初級編を聴いている。次の旅行はもっともっと楽しく過ごせるのではないだろうか。

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May 14, 2005

昭和天皇より長い在位期間の王様の金貨

貨幣ぶらり旅(第22回)

今回はフランツ・ヨーゼフⅠ世の金貨について。
関空から飛行機に乗りウィーン空港に到着。入国審査を済ませ、ベルリン行きの飛行機を待っている間、ウィーン空港内をウロウロしていた。目的は、コインの収集である。色々な国のユーロコインを両替しようと思っていたのである。
最初に目にした両替所。両替のレート表の横に金貨の写真が掲示されていた。ウィーンのハーモニー金貨とフランツ・ヨーゼフⅠ世の金貨である。
どちらも地金型金貨であるが、ハーモニー金貨は日本でも田中貴金属などで購入できるのに対し、フランツ・ヨーゼフⅠ世の金貨はコイン商からでないと入手できない。普通、地金型コインは世界の金相場と円・ドル為替で決まるが、コイン商を通じて購入する金貨は、かなりの手数料が上乗せされる。チャンスと思い早速フランツ・ヨーゼフⅠ世の金貨を購入した。1枚157.5ユーロ、純度98.60とほぼ純金である。(純金は99.99)
以下このコインについて述べる。

フランツ・ヨーゼフⅠ世(1848-1916)について
フランツ・ヨーゼフ皇帝は、1848年18歳でオーストリアの王位を継承した。以後68年間王位にあった。この在位期間は現在のところ、史上最長である。彼は第一次世界大戦中の1916年に亡くなった。彼が統治している間のオーストリアは政治、産業、経済、技術、輸送・交通など、あらゆる面で著しい進歩を遂げた。
その時期は、”ゴールデンエイジ”と言われており、その良き時代が美しい金貨に表わされている。

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デュカット貨
 デュカット貨の発祥は、北イタリア、中世のベニスである。16世紀の初頭、オーストリアは様々な種類のデュカット貨を発行した。デュカット貨は、1858年までオーストリアの法定通貨であり、その後は貿易用通貨として発行された。
1デュカットと4デュカットは、第一次世界大戦時下、金本位制が廃止される1915年まで製造が続けられた。現在再鋳されているデュカット金貨のデザインは、1872年に新しくデザインして発行されたデュカット金貨と同じであり、年銘は1915年を使用している。

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グルデン貨
 19世紀のグルデン貨は、銀貨であった。1865年にフランス、ベルギー、イタリア、スイスはラテン同盟を結び、同じ重量、品位、サイズ、等価のコインを発行することを取り決めたことから、各国のコインは同盟国間で相互に流通した。オーストリアは1870年、同盟に加盟し、8グルデン金貨と4グルデン金貨を発行した。これらの金貨はコロナ金貨が発行される1892年まで造られた。

100krav

コロナ貨
 1892年に作り直された通貨はオーストリアの歴史上最初のコインとして紹介された。1コロナは銀貨であったが、基本通貨はコロナ金貨であり、10コロナと20コロナ金貨がグルデン金貨に替わって発行された。10コロナ金貨は1912年まで発行、20コロナ金貨は第一次世界大戦中の1915年まで発行された。また、1908年にはフランツ・ヨーゼフⅠ世の在位60年を記念して、100コロナコインも発行されている(通称 : 雲上の女神)。
さらに、1909年にはニューサイズのコインが出され、1915年まで製造された。

現在の再鋳貨
 1920年から1936年の間、第一次オーストリア共和国はフランツ・ヨーゼフⅠ世の亡くなった年である1915年銘で1デュカットと4デュカットコインを発行した。
さらに、1950年から始まる第二次オーストリア共和国は、グルデン金貨を1892年銘で、コロナ金貨を1915年銘で再鋳した。
これらの金貨は、現在も再鋳されており、贈り物に、また貯蔵用として非常に人気が高く、地金価格に僅かなプレミアムを乗せて販売されている。

* オーストリアで入手した資料(英語・ドイツ語)をベースに、世界史の参考書や貨幣カタログで確認しながら本稿を作成した。

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May 13, 2005

ウクライナ帰りの大工さん

楽しかった旅行も最終日

今日は最終日。午前11時まではフリータイム。6:30に朝食。7:30から外出する。
まず、昨日行けなかった証券取引所を目指す。朝早くても開いていると思ったからである。
ホテルからリンク内を横切るように進み、中ほどよりやや北に、昨日教えてもらった住所の表示が出ていた。しかし、肝心の証券取引所が分からない。ビジネスマンの通勤時間帯になったのであろう。地下鉄の駅から大量の人が出てきた。と言っても東京・大阪のビジネス街に比べれば遥かに少ない。行き交う人々に色々尋ねた結果、最も証券取引所らしくない建物の中にあった。神戸の港町にある、古い石造りの建物に似た感じである。
中に入って受付嬢に見学したい旨伝えると、見学コースは無いとのこと。日本の証券取引所の見学コースについて説明し、同じように見ることが出来ないか聞くが、ダメであった。
ウィーンの証券取引所も現在はコンピュータ化されており、立会いは無いようだ。また、メインの取引はドイツに移っており、日本の地方の証券取引所と同じく、寂れてきている様子である。
その後、以前投稿したが、ウィーンのコイン商の店と銀行を廻り、街中でお土産のチョコレートを追加購入してホテルに戻った。
出発まであと1時間。荷物が増えたが、カバンは手荷物の1つだけ。購入した本やコインが入りそうにないので仕方なく、日本から持っていった幾つかの物を捨てることにした。
カバンの半分以上がコイン・コイン関連の本、コイン関連の小冊子・チラシである。
他人から見ると紙くずの山であろうが、私にとっては宝の山である。
出発時間にホテルを出て、ウィーン空港へ行く。空港には30分ほどで着いた。
チケットをもらった後、免税等税関手続きの必要な方たちと別れ、ラウンジへ行くと、ウクライナから帰るところの大工2名と出会った。
金持ちのウクライナ人が日本式の家を建てるため、請負契約を結び、現地で建築しているとのこと。当初簡単に出来ると思っていたらしいが、使用する木の材質は違う、日本の工具が使えない、現地にある日本の工具会社に調達に行くが、日本人仕様ではなく使い勝手が非常に悪い、現地で使う人が思ったように動かない、などなど想定外のことが一杯起きているとの事。
しかも、日本式の家とは言うものの、畳部屋は1部屋だけで、後は竹を敷いて土足で入れるようにしている様子。そう言えば地盤も柔らかく、基礎固めが日本以上に必要なのだが、肝心のコンクリートの質が悪く、上手く固まらないとも言っていた。
追加工事で工期も延びている模様。甘く見積もった大工のおかげで、注文主のウクライナ人は幾らぐらい追加投資を余儀なくされたのだろうかと思いつつ、話を聞いていた。
出発の時間、関空目指し13:55にウィーンの空港を発つ。翌日8:00ごろ無事に帰国した。
色々と、本当に楽しく、有意義な旅であった。

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May 12, 2005

子供の頃マリー・アントワネットも過ごした宮殿

豪華絢爛シェーンブルン宮殿

今日はオーストリアのウィーンである。今回の旅の実質最終日。楽しみにしていたことが沢山ある。
午前中はツアー仲間と一緒に観光、午後からは自由行動である。
まず、リンクから南西に約3km離れたところにあるシェーンブルン宮殿である。ウィーンに来たからには、絶対に見落とせないポイントのようだ。
本日のガイドは日本人。遠目には若く見えるが、近くで見ると、「ん~ 」年齢不詳 ?
内部の見学は順路が定められており、係員が順番に部屋の鍵を開けて通してくれる。
宮殿内部は豪華絢爛。ブルボン家のベルサイユ宮殿に対抗して建てられたというシェーンブルン宮殿だけのことはある。ハプスプルグ家の威信をかけた作品か。
ここで、有名なマリア・テレジア、フランツ・ヨーゼフⅡ世が生活していたのだ。さらに、ベルバラで有名なマリー・アントワネットも子供の頃をここで過ごしたのである。
素晴らしい、ということは分かっても、それ以上が理解出来ない。建築や美術に興味を持つ人にとっては、何時間いても飽きないのではないだろうか。
約1時間、一通り見学を終え、外に出る。
次は庭園である。宮殿を出て、左へ左へと行くと、広場に出た。そこから見えたグロリエッテはまた美しい。当初宮殿を作る予定であったのを変更して、対プロイセン戦勝記念かつ戦没者慰霊のため建てられたものらしい。時間がなかったので、側まで行くことは出来なかったが、記念写真を撮る。

シェーンブルン宮殿のHP
http://www.schoenbrunn.at

さて、次はシュテファン寺院である。ガイドに連れられて中に入る。ウィーンのシンボル的なカトリック系の寺院だそうだ。高さ72mの監視塔に上ることが出来るとのことだったが、時間がなかったので諦める。地下にはペストの犠牲者とハプズルグ家王族の内臓が納められているという。そう言えば、中世ヨーロッパはペストで人口の三分の一を失ったのだ。
モンゴルが大陸を支配したことにより、文化や人の交流が盛んになったが、病気もアジアからヨーロッパに伝染したのである。ペスト菌はもともと、アジア原産の野生のクマネズミ類が保菌していた。ネズミに寄生するノミに噛まれることで、人間にも感染したそうだ。
現代も世界の隅々まで人が行き交う時代。エイズ・エボラ熱などなど恐ろしい病気が蔓延しなければ良いのだがと思わずにはいられなかった。
中を見終わって外に出ようとした頃、ミサの時間と言うことで、その間新たに来た観光客は中に入れないようだ。良い時間に連れてきてもらった。

シュテファン寺院のHP
http://www.stephanskirche.at

その後、ショッピングに最適であるリンクのメイン、ケルントナー通りを歩き、国立歌劇場近くにあるお土産物屋に行く。ここには日本人スタッフがいる。一通り説明を聞いた後、解散・自由行動である。
ここから私の好きなところに行けるということで、昼食も採らずに動き始める。
まずは美術史美術館でコインの展示をみる。コインのポスターを買い、次はトラムに乗ってウィーン大学の前で下車、ヴォティーフ教会の前を通りオーストリア国立銀行の貨幣博物館を見学。ここでの詳細は既に投稿済みなので省略する。

美術史美術館のHP
http://www.khm.at

貨幣博物館を出た後、徒歩で約15分。日本大使館の前を通り、ウィーンの証券取引所に到着。中に入るが、取引所がある様子はない。1階のエントランスの壁には、多数の事務所の案内が掲示されていた。ジッと見ていると、日本経済新聞社のウィーン駐在事務所があった。ここなら事情がわかるかもしれないと思い、訪ねてみる。
ノックをして入ると、ブロンドの可愛い女性が1人座っている。突然の訪問で驚いた様子。事情を説明すると、駐在員は外出中だったが、証券取引所は移転していることを教えてくれた。さらに親切なことにネットで移転先を調べ、プリントアウトしてくれたのである。

ウィーン証券取引所のHP
http://www.wienerboerse.at/cms

移転先は近いので、探すが直ぐには見つからない。歩き回っていると、これも以前の投稿でお話したが、偶然コイン販売店を見つけ色々な資料をもらって来た。
しかし、肝心の証券取引所が見つからない。造幣局にも行きたかったので、証券取引所は諦めて、トラムに乗る。荷物も増えたので、一旦ホテルに戻り、荷物を置いて再度出かける。
余談になるが、トラムに乗っていると賑やかな老外国人のおばちゃんたち。何処から来たのか尋ねるとアメリカからとのこと。私は日本から来たというと、「電車の事故は大変ですネ」の一言。JR西日本の福知山線脱線事故のことだ。朝からCNNのニュースで流れていたからであろう。しかし、意外な反応にビックリした。
さて、ウィーンの造幣局は市立公園の裏にある。昨夜来た金色に輝くヨハン・シュトラウス像の前を通り、公園を抜けて造幣局に行く。これも以前の投稿でお話したように、金貨などを購入する。その後、またトラムに乗って王宮庭園の前で下車、ホーフブルグ宮殿に行く。残念ながら王宮の中には入らなかったが、庭園を歩き回る。芝の緑が非常に綺麗である。鮮やかな緑。我が家の庭の芝とは種類が違うのだろう。もっと手入れしなければダメなのか・・・。
市民庭園には沢山の人が芝の上に座ったり、寝転んだりしている。平和でのんびりした雰囲気である。一通り見て回った後、お店で賑やかなケルントナー通りに行く。留守番をお願いしたお向かいのおばさんにお土産を買わなくてはと思い、探し回る。かさ張らないものという事で、無難な”モーツアルト”のチョコレートを購入する。
お腹が減ったので、何か食べようと思い歩き回ると、マクドナルドを見つける。本当に世界中どこにでもある。ウィナー・シュニッツェルを挟んだようなハンバーガーとコーラを注文する。バーガーが2.75ユーロ、コーラ(Mサイズ)は1.8ユーロである。そう言えば、経済学の購買力平価の説明に際し、ハンバーガー購買力平価なるものを解説する先生方は多い。世界中同じものであれば、物価も比較しやすいと言うことである。昔、海外旅行を頻繁にしていた頃は、必ず現地のマクドナルドに行って、物価比べをしていたことを思い出した。
コーラで比較すると、1ユーロ=140円としても250円ぐらいになるので、日本の1杯150円に比べて割高であるように思う。
食後、ケルントナー通りにある両替屋で、ユーローコインセットというのを見つけたので購入する。14.99ユーロ。今考えると超高い。よく考えて購入すべきであった。
かなり疲れてきたので、またホテルに戻る。ホテルの入り口に着くと、ツアー仲間のうちオペラ観賞などに行く数人と出会う。皆さんドレスアップしていたのでビックリである。
ホテルのロビーに添乗員さんとツアー仲間の1人がいたので雑談する。
そのとき観覧車は行きましたかの質問。忘れていたのを思い出した。疲れは吹き飛んだ。そこでまたもや外出する。
ホテルの前からトラムに乗り、3つ目で下車、地下鉄カールスプラッツ駅からU1で4つ目のプラーターシュルテン駅で降りる。そこから徒歩で10分、目的地であるプラター公園に着いた。元々はハプスブルグ家のお狩り場だったところで、公園内の直径61mの観覧車は有名。「第3の男」では、この観覧車が重要なシーンを演出したそうだ。
technik_04

日本の観覧車を想像していると、大違い。1つの箱(?)に20人ぐらい乗れるのである。真ん中にテーブルのような大きな椅子がある。私以外に4組の老夫婦、計9名が乗車。2~3台毎に人を乗せていた。乗せる毎に観覧車は停車する。既に乗っている人は、その間ゆっくり展望できるのだ。観覧車のチケットは7.5ユーロ。既に日は沈み、周りは公園の遊園地のネオンで綺麗である。小雨が降り始めたので、見晴らしはイマイチであったが、それでもリンクの方の様子は良く分かる。
観覧車のHP
http://www.wienerriesenrad.com

観覧車を降りた後、地下鉄・トラムを乗り継いで帰る。
今日も目一杯遊んだ。また泡風呂を楽しんで寝る。
明日は帰国。午前中は11時まで自由時間。さてどのように過ごしたかは、次回の投稿で。


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May 11, 2005

チェスキー・クルムロフ城

お城から見た素晴らしい中世の姿

今日はチェスキー・クルムロフ、ここは1992年にユネスコの世界遺産に加えられた世界で最も美しい街の1つと言われている。
プラハからバスで約3時間。漸く到着する。本日のガイドはチェコ人で英語を話すが日本語は話せない。チェスキー・クルムロフ城の中に造幣局があったようなので、確認を取ると、現在は建物だけが残っているとのこと。少し残念。お城を見物し、帰る頃には出入り口付近で昔のコインの作り方でメタルを作るお店が出るとのこと。楽しみにする。
チェスキー・クルムロフ城の入場は人数制限があり、予約制である。時間が来るまで、開いていた売店を覗く。カレンダーや絵葉書を売っている。コインはない。
入場時間がきた。このお城は、チェコでプラハ城に次ぐ大きさ。城主が変わるごとに増築されたため、ルネッサンス様式、バロック様式、ロココ様式が混在した複合建築と言われている。
お城の中の見学は、ガイドブックに載っている城内見学コースのルートⅡに従っていた様に思う。あちこちで同じようなもの(よく分かっている人には違うのでしょうが・・・)を見た上、メモを取っていなかったので、記憶がハッキリしないのが残念。シュバルツェンベルグ家の肖像画や19世紀のインテリアなどを見学したように思う。
見学を終え、外に出ると、素晴らしい見晴らし。ヴルダヴァ川に囲まれた中世の町並みは感動である。ここで初めてツアー参加者全員の記念写真を取る。

チェスキー・クルムロフについてのHP
http://www.ckrumlov.cz/uk/zamek/oinf/i_sthrza.htm
その後旧市街に出て、スボォルノスティ広場で解散、ランチタイムまでの間暫く自由行動である。ここでは、両替店2つと、銀行1行を訪れる。50コルナコインが無かったことに気付いたので探すが、ない。ところが、1つの両替店を見ると、チェコのコインセットを販売しているではないか。早速購入した。プルーフではないが、未使用貨がパックされている。価格は458コルナ。中に入っているのは50・20・10・5・2・1の各コルナコインと50ハーレルコインの7枚である。やはり昨日苦労して手に入れた20・10の各ハーレルコインはない。ついでに紙幣も集めようと思い、高額紙幣を置いている別の両替店に行く。なるべく新しい紙幣でとお願いして、1,000・500・200・100・50コルナの各紙幣を両替した。5,000と2,000コルナは高額なので両替しなかったのだが、帰国してから両替しなかったことを後悔している。他のツアー仲間は、なるべくチェコの通貨を残さないようにしているのに、必死で集めている自分の姿を、客観的に見ると、少しおかしくなって笑ってしまった。コレクターとはこういうものなのか・・・。
昼食後バスに戻る。途中、朝方案内のあったメダルを作っているお店(露天)が出ていた。
溶かした金属を入れ、その上から刻印するようにして作る鍛造方式。中世のコインが作られる様子を簡単に再現している。面白いので2枚購入する。1枚60コルナであった。
さて、バスに乗り、チェコとはお別れ。次はウィーンである。ウィーンに入るには、チェコ出国とウィーンの入国が必要だが、運転手が日本人ツアーであることを告げるだけで、アッサリ通してくれた。
大分疲れが溜まってきたのか、バスで初めて居眠りをする。ウィーンの街近くになると、目が覚め、またワクワク状態になった。
ウィーン川沿いのナッシュマルクトを見ながら遂にウィーン中心部のリンク、そしてホテルに到着した。
食事については、別の機会に語りたいと思うが、この日の夕食は、名物ヴィーナーシュニッツェル。大きな薄いビフカツである。本当に美味しく思った。また食べたい気持ちである。
いつもなら、ここで話は終わるのだが、ツアーに一人で参加していた女性が、明日行く国立オペラ劇場の下見に行きたいという。予約券の引換え場所も確認したいとのこと。夜景も良いかなと思い、一緒に出かける。オペラ劇場まで歩いて10分程度。確認は終わり目的達成。しかし、このまま帰るのは勿体ないので、トラムでリンクを1周する。乗車券は1人2ユーロ。1周30分ぐらいであろう。途中小雨が降り出した。
東から北東方面へ進む。左手に宿泊先のホテル、右手には市立公園が見える。やがて曲がって西北方向へ。ドナウ川沿い。あまり見るものはない。また曲がり、今度は西南の方角へ進む。途中勤め帰りのサラリーマン風の人たちが多数乗車してくる。ビジネス街があるのか? 今度少し左手に曲がり南の方向へ行くと、急にライトアップされた建物が増えた。市庁舎、ホーフブルグ宮殿、自然史博物館、美術史美術館などが多数並んでいた。
そして1周を終え、ホテルに戻るつもりで下車したが、目の前の公園の中に、金色に輝く像が見えたので、行って見ることにした。金色のヨハンシュトラウス像がライトアップされていたのである。そして、近くにあるクアサロンも中を覗いてみた。毎日コンサートが行われている。1ヶ月ぐらいは毎日同じ催しをしているとのこと。この時一緒にいた女性の方はコンサートに行かれたそうで、後からお話を伺うと、ウィンナーワルツをやっていたそうである。
夜遅くまで良く遊びました。部屋に戻って泡風呂を楽しんで、本日は終わり。

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