「ベルゲン貿易事務所」と「ハンザ同盟」
ロシア・北欧の旅(第15回)
ベルゲンとハンザ同盟については、「ロシア・北欧の旅(第6回)世界遺産・ブリッゲン地区」で簡単に触れた。今回は更に詳しく述べることにする。
1. 「ハンザ同盟」について
「ハンザ同盟」とは、北ドイツのブレーメン、ハンブルク、リューベックなどを中心に、バルト海周辺の経済圏を支配した都市同盟のことを指す。13世紀から17世紀頃まで存続し、14世紀が最盛期であった。この頃には加盟都市は200を超え、加えてブルージュ(現ベルギー)、ロンドン、ノブゴロド(現ロシア)、ベルゲン(現ノルウェー)の4箇所に常駐の貿易事務所(「外地ハンザ」とも言われていた)を設け、北方の海産物、木材、毛皮などを取り扱い、ヨーロッパの定期市で毛織物や東方の商品との交換を行った。
「ハンザ同盟」は商業活動のための団体、つまり商人集団であったが、商圏確保のためには戦争をすることもあった。例えば1370年、1435年の2度にわたってデンマークと戦い、勝利して諸特権をデンマークに認めさせている。反対に、15世紀には「カルマル同盟」を結んだデンマーク(ノルウェー、スウェーデンとの同君連合)に敗れ、バルト海での覇権を弱めたこともある。
15世紀に入ると「ハンザ同盟」は、衰えを見せ始めた。これは「カルマル同盟」のデンマークに敗北したことだけでなく、大航海時代が到来し、かつ近代的集権国家が発展したためである。つまり、ドイツは小独立国家が分立しており、貿易など海外利権を守る中央政府が存在しなかったが、イギリス、オランダは政府の後ろ盾で、自国商品を自国船で運び、商圏をバルト海経済圏にまで広げていったのである。「ハンザ同盟」は1618年に起きた「三十年戦争」(1618~1648)で、ドイツ諸侯と都市に完全な主権が認められた(領邦国家)ことから、事実上消滅することになった。
2. 「ハンザ同盟」の「ベルゲン貿易事務所」について
(1)先に見たとおり、「ハンザ同盟」の最盛期には200以上の都市が加盟し、4つの常駐事務所も設けられていた。その一つがノルウェーの「ベルゲン」だ。4つの事務所はどれも重要な役割を果たしたが、現在でも当時の面影を留めているのは「ベルゲン」だけである。これは次の3つの理由によると言われている。
第一に、「ベルゲン貿易事務所」は他に比べて規模が小さく、ハンザの影響をより強烈に受けている。
第二に、ハンザ事務所が閉鎖された後も、建築様式や商業運営がほとんど変わらず受け継がれた。
第三に、ブルージェやロンドンの事務所が解体されてからなお150年から200年もの間、ベルゲンの事務所は存続した。
これらの理由により当時の姿を残す建物群を持つ「ブリッゲン地区」は、1979年に「世界遺産(文化遺産)」として登録された。
(2)「ベルゲン貿易事務所」が開設される以前の様子について「ハンザ博物館」で入手した「ハンザ博物館と集会所」(マルコ・トレッビ著)には「ベルゲンには当時大量の干し魚があり、それを買うためドイツ人が到来した。ベルゲンから干し魚を輸出し、かわりに欲しいものを買い付けるわけだが、1100年代には、小麦の大部分がイギリスから入ってきた。ドイツ商人、特にライン地方の商人が多かったようだ。彼らはドイツからのワインとイギリスで仕入れた麦をノルウェーに持ち込んだものと思われる。1200年代前半から、バルト海沿岸のドイツ商人たちがやって来た形跡がある。この商人たちが小麦や小麦粉、麦芽をこの地にもたらせ、減少するイギリスからの輸入を補った。」と書かれている。
(3) 「ベルゲン貿易事務所」は1360年頃に設置され、ハンザ商人は各種特権を得てブリッゲン地区に居住した。彼らは、ノルウェーが輸入に頼らざるを得なかった小麦の流通を握る一方、ノルウェーの干し魚をヨーロッパ市場で効率よく売り捌いた。より具体的に見ると、干し魚のメインは鱈(タラ)で、1月下旬から3月中旬までロフォーテンで獲れた鱈を吊るし干しにしたものである。またハンザ商人は北部の人から肝油、革、毛皮、バター、獣脂などを買いつけ、穀物、小麦、塩、ビール、ホップ、麻、布地、鉄製品、ガラス器などを売り物にした。
ハンザ商人と北ノルウェー人の交易は主に「物々交換」で行われ、現金が使われることは少なかったようだ。この取引の中で興味を惹くのが「親父借り」(おやじがり)である。魚という自然相手の商品なので、漁獲量は毎年変動する。そのためハンザ商人は顧客と特別な取引関係を持った。つまりハンザ商人は、漁獲量の悪い年でもノルウェー人顧客が1年間生活できる食料資材を貸し与えたのである。これが「親父借り」だ。このクレジットにより、ノルウェー人顧客は不漁のため苦しい年でも生活が保証された。クレジットを受けたノルウェー人顧客は、貸主たる商人と取引する義務が生じるので、他に有利な価格を提示する商人が現れても取引出来ないので、貸主たるハンザ商人にとってもメリットは大きかったようだ。しかし、実際は北ノルウェーでもこっそり取引したり、ベルゲンに向かう途中でも横流しがあったと言う。
ところで、ハンザ商人と北ノルウェー人の交易は主に「物々交換」であったが、ハンザ商人の間の決済は現金で行われた。総勘定元帳とは別に顧客毎の元帳を作り、差額を現金で清算するやり方のようだ。
(4) 「ハンザ同盟」について述べた箇所でお話したとおり、大航海時代の幕開けと近代国家の発展により「ハンザ同盟」は衰えていった。世界貿易の重心が移り、国家権力が強く通商に関与するようになったからである。このような傾向は「ベルゲン貿易事務所」でも見られたが、他の事務所ほど顕著ではなかった。しかし1630年、遂に凋落の兆しが現れた。ベルゲンの市民がハンザ商店を買収したのである。この傾向は年々強まり、1740年にはハンザ商店はたったの9件になってしまった。そのため1754年、ハンザ同盟による「ベルゲン・ドイツ貿易事務所」は、ベルゲン市民によって運営される「ベルゲン・ノルウェー貿易事務所」に取って代わられた。公式には、この時をもって約400年続いたドイツ主導の時代は終わりを告げた。
但しベルゲン市民といっても、ベルゲン市民権を取得したドイツ人達だったので、従来の運営システム、大部分の厳格な規則、事務所内自治権などほとんどが踏襲され、1899年に事務所が解散されるまで、ほぼ「ハンザ同盟」時代と変わらずに存続した。このためブルージェやロンドンなど他の事務所が解体されてから、なお150~200年もの間「ベルゲン・ノルウェー貿易事務所」は化石のように残ったのである。
ブリッゲン地区(ユネスコ)のHP
http://whc.unesco.org/pg.cfm?cid=31&id_site=59
ハンザ博物館のHP
http://www.hanseatisk.museum.no



































