March 02, 2007

帰国の途に

スペインの旅(第20回)

本日は最終日。長いようで短かったスペイン旅行であった。午前6:00に起き、朝食を部屋で頂いた。レストランが開いていないので、各部屋にランチボックスが配られたのである。サンドイッチ以外はバナナ、リンゴ、オレンジと言った果物が丸ごと入っている。

午前7:00にホテルを出発した。日曜日なので道路が空いており、午前7:30にはバルセロナの空港に到着した。チェックイン手続き後ラウンジに行き、コーヒーなどを頂いた。午前9:00過ぎに搭乗する。アテンダントにスペイン語で挨拶すると、反応がおかしい。エールフランス航空なので、彼女たちはフランス人だったのである。今度はフランス語で問いかけると、にこやかな笑顔が返ってきた。午前9:30頃に離陸。飛び立って暫くは海が見える。薄っすらと雲がかかっていたので、景色は霞んでいる。その後は畑の続く陸地の上を飛ぶ。午前10:00頃、雪で覆われたピレネー山脈を横切りフランスに入る。午前10:20頃、山々は低くなり、再び畑が見え始めた。やがて平地が続くようになると、パリである。午前11:05に、飛行機は「ドゴール空港」に着陸した。

パリから関空に向かう飛行機への搭乗は、午後12:40からである。それまでの間、空港内のショップでおみやげ物を買うことにした。手荷物だけで旅行していると、液体類のお土産はここで買うしか方法は無いのだ。また免税手続きに時間を取られるのも嫌だったので、値の張るものもすべてここで購入した。買い物と言うのは意外と時間がかかるもので、買い物を終えたときにはラウンジに行く時間はなくなっていた。

午後12:40に搭乗手続きが始まったので中に入り、バスで飛行機まで移動した。午後12:55に飛行機に乗り、指定の席に着いた。来る時と同じ「3E」である。給油と客待ちのため少し待たされたが、午後2:15に無事離陸した。午後3:30頃から昼食である。メニューは次の通り。前菜は来る時と同じで、「栗と鴨フォアグラのテリーヌ」、「アプリコットといちじくのチャツネ」、「ゴートチーズトマトケーキとルッコラ、バルサミコヴィネグレット」である。メインは和風スペシャルで、「舌平目の蟹餡かけ」、「豆ご飯」に「味噌汁」だ。デザートには「レモンメレンゲケーキ」を頂いた。午後4:40頃に食事を終えた。丁度モスクワあたりを飛んでいることが、モニターに映し出されていた。

食後アテンダントと雑談をしたり、読書をして過ごしたが、少しお腹が減ってきたので、カップうどんを頂いた。午後10:00を過ぎていたこともあり、その後いつの間にか寝ていた。日本時間の午前7:30頃から、今度は朝食である。ジュースにコーヒー、クロワッサンやヨーグルト、スクランブルエッグなどを頂く。午前8:55、9,600kmを超える距離を飛んで関空に到着した。今回の旅はこれで終了した。楽しくかつ勉強にもなる有益な旅であった。この成果は何時かまとめて発表したいと考えている。

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March 01, 2007

カタルーニャ美術館で見たコインコレクション

スペインの旅(第19回)

午後12:30にホテルに戻り、午後12:45、昼食抜きで出かけた。目的地は「カタルーニャ美術館」である。ツアーでご一緒のご夫婦も同じ場所に行くとの事だったので、ホテルの前からタクシーに乗り、美術館に向かった。タクシーの運転手にカタラン語について訊ねると、スペイン語の「グラァシィャス」(ありがとう)がカタラン語では「グラーシャ」となり、「アディオス」(さようなら)は「アディォ」になるなど、色々と教えてくれた。約15分で美術館の前に到着。チップを含めて6.5ユーロ支払う。ここから美術館の入り口までは、階段を含めて5~6分歩かなければならない。

美術館の正面入り口を入るとセキュリティーチェックがあり、その先の階段を数段上ったところ、左手でチケットを販売している。入館料は8.5ユーロ。売り場の脇に置いてあるパンフレットを見ると、コインの掲載されているものがあった。手に取ると、スペインのコインに関する解説が書かれており、2Fに展示されていることが分かった。嬉しくなり、急いでそのコーナーを訪れた。この美術館にカタルーニャ地方のロマネスクやゴシックの美術品があること、中でもロマネスクの美術について世界有数のコレクションを有することは知っていたのだが、コインの展示があることは全く知らなかった。

最初にコインが展示されているコーナーを訪れた。マドリッドの貨幣博物館よりも規模は小さいが、内容は充実している。全部で27のテーマに分けて展示されており、嬉しいことに英語の解説も付けられていた。Col_numismatica_ambit_19_2_big
貨幣博物館と異なり、世界の観光客が訪れることを前提にしているからであろう。詳しいことは別の機会にお話したいと思うが、今回最も興味を持ったのは、フランス占領下に発行されたコイン(写真 : カタルーニャ美術館(コイン展示より)のHP)である。以前お話した、「ピカソ美術館」の近くにあった「カタルーニャ造幣局跡地」。ここでこのコインは造られたのである。この時代のスペイン、カタルーニャ地方のコインについて調べてみるのも面白いテーマではないだろうか。

コインコーナーの次は、ゴシックとロマネスクの美術鑑賞である。最大の見所は、「サン・クレメンテ教会」の壁画を移した「栄光のキリスト」(写真 : カタルーニャ美術館(コイン展示より)のHP)で、ロマネスクの宝庫と言われているスペイン、カタルーニャ地方を代表するキリスト像だ。Col_romanic_ambit_5_1_big
その他にも多数のフレスコ画が展示されている。しかしそれだけではない。ルネッサンス以降、現代アートも展示されているのだ。鑑賞したい所はまだまだあるのだが、「カタルーニャ歴史博物館」にも行きたかったので、午後3:00過ぎに美術館を後にした。

美術館正面の階段を歩いて下り、博物館に向かう車線でタクシーに乗り込んだ。そう言えば、バロセロナのタクシーのボディは黄色と黒のツートンカラーで、白いボディに赤いストライプのマドリッドとは異なる。空車の表示もバルセロナは、赤字で「LIBRE/LLIURE」と書かれた札が出されているが、マドリッドは緑字の「LIBRE」という札が示されていた。日本のタクシーにも色々な車種があるのだから不思議ではないが、すべてのタクシーが同じボディなので、両方の街の違いがハッキリしていて面白い。タクシーの運転手は英語で楽しそうに車の話をしてきた。どうやらトヨタのランドクルーザーを買いたいようなのだ。私が日本人なので、トヨタの車のことは何でも知っていると思ったのだろうか。車の値段など、質問攻めである。私はあまり車に関心が無いので、逆に何が魅力なのかと言った質問を投げ返した。そのような会話を続けているうち、午後3:45、ヨットハーバーの見える海辺にある「カタルーニャ歴史博物館」に到着した。チップ込みで8ユーロを支払い、タクシーを降りた。

博物館正面のガラス戸を潜ると、左手にチケット販売所がある。ここは外国人観光客が少ないのだろうか。ほとんどの表示が、カタラン語とスペイン語だけである。チケットを購入し、シールを胸に張り、反対側にあるエスカレータで3Fまで上がった。入り口には男の係員がいたが、胸のシールを見るとそのまま通してくれた。イベリア半島の起源に始まり、古代ローマ時代からイスラムの時代やレコンキスタ、そしてフランコ政権から現代までのスペインの歴史を、模型やパノラマ、映像などで綴っている。解説がスペイン語というのは難点だが、事前に調べていたスペインの歴史に関する知識を動員し、想像力を働かせながら展示物を見学した。中でもカタルーニャが自治国として地中海貿易を行い、繁栄していた時代については興味深く、非常に面白かった。

約1時間半見学の後、ホテルまでタクシーに乗ることも考えたのだが、途中にガウディの建築物が建っているので、それを見るため歩くことにした。博物館横のヨットハーバーは多くの人で賑わっている。そこを通り抜け、「ビア・ライエタナ通り」を北に進んだ。500mほど歩くと、「カテドラル」があった。13~15世紀に建設されたカタルーニャ・ゴシック建築の代表作だ。土曜日の午後なので、凄い混雑である。Frontup
さらに500mほど行くと、「カタルーニャ音楽堂」(写真 : BARCELONA,SPAINのHPより)だ。「モデルニスモ建築」の美の極致といわれている世界遺産である。中には入らなかったが、外壁のカタルーニャ守護聖人の彫刻を見ることが出来た。

次に訪れたのは、スペインを代表する百貨店「エル・コルテ・イングレス」である。目的はCDの購入だ。実は10年以上前にNHKのスペイン語講座で紹介され、その当時メキシコでも流行っていたスペイン語の曲を探していたのである。曲のタイトルも歌い手も覚えていないのだが、リズムだけはハミングできる程度。日本で探すことは難しく、この間スペイン語のヒット曲CDなどを買ったのだが、すべてハズレであった。しかしスペインであれば、私のハミングでも分かるのではないかと思い、再び探すことにしたのである。
トレドからグラナダに向かう途中で休憩した「HOTEL CASA MARCOS」にCDを売っていたので、店員にハミングを聞いてもらい、該当のCDを購入していた。確認は出来なかったが、きっと考えている曲が入っているものと信じていた。しかし昨日宿泊したホテルのCDプレーヤーで聴いてみると、該当の曲は入っていない。そのため、百貨店のCD売り場の店員であれば知っているのではないかと考え、ここ「エル・コルテ・イングレス」に立ち寄ることにしたのである。最初地下のCD売り場に行くと、スペインの曲は2FのCDコーナーにあるといわれたので、そちらに行った。地下は外国のCDを販売しているようだ。2Fの店員に事情を話し、ハミングを聞いてもらうと、歌手の名は直ぐに分かった。しかし曲名は分からなかったので、本社の音楽に詳しい方に電話をして題名を聞き、該当のCDを探してきてくれたのである。タイトルは「AYER」、歌手は「GLORIA ESTEFAN」。DVDとセットなので17.95ユーロと少々高かったが、即購入した。今度こそ間違いないようだ。

ルンルン気分で百貨店を出ると、午後6:00前であった。少々お腹が減ってきたので、またしても夕食に代えて、目の前にあったマクドナルドでハンバーガーを購入した。コーラは高いので、ホテルの近くのスーパーで買うことにした。Cid_2340344jpg2
ハンバーガーとCDを持って、「カタルーニャ広場」を通り、「グラシア通り」に出た。この通りには、世界遺産に指定されている「ガウディ」の建築物などが並ぶ。最初は「カザ・アマトリエール」。これは「プーチ・イ・カダファルク」の作品。中世ロマネスク様式を取り入れた建物で、鮮やかな色の切妻屋根と浅彫りのレリーフを用いた壁面が美しい。その隣には、「ガウディ」作の世界遺産「カサ・バトリョ」(写真 : カザ・バトリョのHPより)が並ぶ。正面の壁は波打っており、その表面は青や緑、茶のガラス片や円盤状のタイルで装飾されている。この建物を見ていると、同じ様なデザインが施された建物が並ぶ「グエル公園」を思い出した。さらに500mほど歩くと、道路の向かい側に「カサ・ミラ」(写真 : カザ・ミラのHPより)が見えてきた。Cid_863614jpg2
これも波打つ外観で、鉄で作られた彫刻のようなバルコニーの欄干が面白い。この独特の形状から、市民から「ラ・ペドレラ」(石切り場)の愛称で親しまれているようだ。午前中に訪れた「モンセラット」の奇岩をモチーフにしたと言われており、「モンセラット」の石灰岩を使用して建築されている。

ここから先には特に見るべきところはないが、ホテルまでの約2kmを歩いて帰ることにした。ホテルの近くでスーパーに立ち寄り、コーラを一本購入して部屋に戻った。早速CDを聴くと、間違いない。探していた曲であった。嬉しかったので、リピート機能を使い、同じ曲を流しながら、夕食のハンバーガーを食べ、荷物整理を行い、風呂にも入った。寝るときもスリープ機能を使い、1時間で切れるタイマーをセットした。午後10:00に床に着き、音楽を聴きながら、いつの間にか熟睡していた。

カタルーニャ美術館のHP
http://www.mnac.es/
カタルーニャ美術館(コイン展示)のHP
http://www.mnac.es/colleccio/col_numismatica.jsp?lan=001
カタルーニャ歴史博物館のHP
http://www.en.mhcat.net/
カタルーニャ音楽堂のHP
http://home.palaumusica.org/
BARCELONA,SPAINのHP
http://www.bluffton.edu/~sullivanm/spain/barcelona/domenechmusica/musica.html
カザ・バトリョのHP
http://www.greatbuildings.com/buildings/Casa_Batllo.html
カザ・ミラのHP
http://www.greatbuildings.com/buildings/Casa_Mila.html

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February 28, 2007

ガウディがインスピレーションを受けた「モンセラット」

スペインの旅(第18回)

本日はオプショナルツアーを利用して、「モンセラット」に行く予定だ。午前7:00に起きて、午前7:20から朝食を取り、午前8:30にホテルに迎えに来ていたバスに乗って、「モンセラット」に向けて出発した。道中、バスではガイドが、カタルーニャ地方について色々と話してくれた。その中の幾つかをご紹介する。

カタルーニャの人口は約700万人で、言語はスペイン語ではなくカタラン語を話す。学校では週に何回かはスペイン語の授業があるようだが、最近は英語の方が好まれており、スペイン語は第三外国語扱いになっているところもあるという。英語は3歳から学び始めるのが流行っているらしいが、どこかの国と同じなのか。カタルーニャは中央政府のあるカスティージャとは文化的にも異なるため、歴史をみても揉め事は多い。例えば1711~1714年におきたスペイン王位継承戦争がある。激しい戦闘の結果は敗北。敗戦日の9月11日は、現在バルセロナだけ祝日となっている。また、1936~1939年のスペイン市民戦争も同じで、カタルーニャは敗北し、フランコ政権の時代にはカタラン語の使用は禁じられ、書籍類もすべて焼き払われたと言う。1995年にフランコが亡くなり、1977年に自治権が認められてから、カタラン語も復活したのである。以前どこかでお話したと思うが、カタルーニャはオランダやポルトガルなどと同じ様に、独立しておくべき地域であったのかもしれない。

バスは進み、午前9:00ごろ、遠くに「モンセラット」が見え始めた。周りにはアーモンド畑が続いている。日本の桜と同じ様に、アーモンドの開花が春の訪れを告げてくれる。「モンセラット」は、海抜1,235m、長さ10km、幅5kmぐらいある山だ。「モン」とは「山」のことで、「セラット」は「のこぎり」または「のこぎりで切り刻んだ」という意味である。Montserratbarcelonaspainl36
午前9:10頃、「モンセラット」の全景を撮ることが出来るポイントで下車し、写真撮影をする。バスは更に山を上り、午前9:30に駐車場でバスを降りる。そこから「大聖堂」までは歩いて行く。午前9:50、「大聖堂」の前に到着。(写真 : tourist guide barcelonaのHPより )正面には「ガウディ」がインスピレーションを得たと言う、巨大な奇岩が立ち並んでいる。そしていよいよ「大聖堂」への入場だ。

ここは「ベネディクト派」の教会で、西暦888年に建てられたが、その後何度も破壊、修築が繰り返されている。Montserratbarcelonaspainp03建物の奥にある礼拝堂には、カタルーニャの守護聖母「黒いマリア像」(写真 : tourist guide barcelonaのHPより )が安置されている。像の素材である木の肌が、自然に黒くなっていったことからこのように呼ばれている。マリア像が右手に持つ「玉」に触れ、お祈りをすると願い事が叶うとか・・・。ところでこの大聖堂の祭壇は、スペインの特徴である中央には置かれていない。スペインの文化とは異なっていることが窺われる。

「大聖堂」を見た後、1時間半ほどの自由時間となった。他のメンバーに誘われ、ケーブルに乗って「SANT JOAN」に行くことにした。乗車券は往復6.5ユーロ。20分毎にケーブルは出る。午前10:20に出発。ケーブルは急勾配を上る。見晴らしは良い。約10分で山頂だ。山頂からの見晴らしは一段と良い。下には先程訪れた「大聖堂」が小さく見える。そして先程見上げていた山々を、横に見ることが出来るのだ。絶景である。またここには小さな「博物館」がある。「モンセラット」が、かつては海であったことを示すような化石類も展示されている。山の魅力的な形は、太古の地殻変動によって出来たのだ。

景色を眺めるなど楽しんだ後、帰りのケーブルに乗るため、発車時刻の午前10:40前、ホームに行くが、ホームの扉は開かない。そして目の前にあるケーブルは出て行ってしまった。他のメンバーと何故だろうかと雑談していたら、トイレ掃除のオバちゃんが、ここは出口で、入り口ではないことを教えてくれた。表示が無かったので分からなかったのである。教えてもらったとおり階段を上って待っていると、扉が開き、無事次のケーブルに乗ることが出来た。ここで時間をロスしたのは、少々勿体なかった。

午前11:10下山。急いで「大聖堂」の横にあった「モンセラット美術館」に向かった。中に入って鑑賞する時間は無かったので、ショップで「モンセラット公式案内書」などの資料を買い求め、急いでバスに向かった。途中地元の人達が、露天でチーズや蜂蜜などの販売をしていた。いろいろと試食させてくれるのだが、時間が無いと断ると、「何故だ」と不思議そうな顔で問いかけられた。

午前11:30、バスはバルセロナに向かって走り出した。山を降りる途中、バスの窓からマリア様の横顔に見える岩や、ラクダのように見える岩などを見ることが出来た。しかし暫くすると霧が出始め、周りの景色も見えなくなった。青い空の下、山頂から美しい景色を見ることが出来たことは幸運であった。午後12:30にバスはホテルに到着した。

tourist guide barcelonaのHP
http://barcelona-tourist\guide.com/montserrst-spain.html
Abadia de MontserratのHP
http://www.abadiamontserrat.net
MontserratのHP
http://www.montserratvisita.com

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February 27, 2007

バルセロナのピカソ美術館

スペインの旅(第17回)

「サグラダ・ファミリア聖堂」を出てから10分ほどで「ピカソ美術館」に到着した。この美術館は、中世の雰囲気を残すゴシック地区にある。ピカソの幼少時代と1901~1904年に描かれた作品が中心に展示されている。ピカソと言うと、マドリッドの国立ソフィア王妃芸術センターで見た「ゲルニカ」のように、キュビズムのイメージが強く、写実性のない理解しがたい作品を思い出してしまうが、ここに展示されている少年時代の作品を見ると、ピカソのイメージが変わってしまう。基本に忠実なデッサン力や筆使いを見ると、ここでは「ピカソ以前のピカソに会える」といわれていたことが納得できた。紙切れやノートの切れ端に描かれた作品類の展示には興味をそそられる。

今回鑑賞したのは常設展で、全部で12部屋に分かれている。この中から印象に残った部屋の幾つかをご紹介する。
最初は、ピカソが9~13才の頃に描いた作品が展示されている第一の部屋だ。マラガで生まれたピカソだが、経済的理由から幼少期をラ・コルニャで過ごすことになった。この頃はガリシア地方のおじいさんを数多く描いている。美術学校の講師をしていたピカソの父は、ピカソの描いた絵を見た後、その力量に驚き、二度と筆を持たなくなったと言うエピソードが残っている。次は第三の部屋で、ピカソが美術学校に通っていた14歳の頃の作品が展示されている。自画像や母親を数多く描いており、当時は「パブロ・ルイス・ピカソ」とフルネームのサインを使っていた。

特に印象に残る作品が展示されていたのが第七の部屋である。この頃のピカソは、マドリッドのサン・フェルナンド美術学校で学んでおり、マドリッドの国立美術展に出品するために準備された号数の大きい作品だ。「科学と慈悲」というタイトルで、絵を向かって左側から右側に歩きながら見ると、ベッドが段々と伸びてくるのである。いわゆる「だまし絵」の技法を使っているのだ。当時のピカソはベラスケスの絵を見て感動して以来、ベラスケスの絵の模写に耽ったと言う。
次は第十一の部屋で、「青の時代」と言われているピカソ20歳のころの作品が展示されている。青色を基調にした物悲しい絵が多く描かれた時期だ。続いて第十二の部屋は、「バラ色の時代」である。バラ色を使った楽しいテーマの絵が描かれ、この頃から世間にも認められるようになり始めた。また「キュビズム」の方向に走り出したのも、この時期からである。

各部屋を日本人ガイドの案内の下鑑賞した後、約20分の自由時間となった。もう少し他の作品もジックリと見たかったのだが、もう一箇所行きたいところがあったので、急いで「美術館」を出ることにした。その場所とは「バルセロナ造幣局跡」(写真)である。Zouhei
19世紀初めのナポレオン戦争時代、バルセロナは貨幣不足のため、ナポレオンの支配下で緊急通貨を発行した。このときの造幣局がゴシック地区、「ピカソ美術館」から歩いて2~3分のところに在ったのである。裏通りのため人影は少なく、薄暗い。警戒感を強めながら路地を進むと、「造幣局跡」にたどり着いた。特に感動するような場所ではないが、「とりあえず来たぞ」という満足感には浸れた。

午後4:45に「ピカソ美術館」を発ち、本日宿泊予定の「デルビー・ホテル」に向かった。ホテルには15分ほどで到着し、午後5:20には部屋に入ることが出来た。本日の夕食は、カタルーニャ・フレンチの高級レストラン「ラ・ダマ」で取る予定だ。集合時間の午後8:10まで時間があったので、近くのスーパー「CAPRABO」にミネラルウォーターを買いに出かけた。スーパーから戻り、部屋にCDプレーヤーがあったので、出発時間まで音楽を聴きながら荷物の整理をした。ヨーロッパのホテルで、CDプレーヤーが置いてあったのは初めてである。

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午後8:10にロビーに集合、レストランまではバスで10分ほどの距離だ。本日のレストランは、ディアゴナル大通りにある高級レストランというだけの事はあり、その雰囲気は落ち着いており、上品な感じがする(写真 : ラ・ダマのHPより)。「ラ・ダマ」の「ダマ」とは「貴婦人」のことらしい。名前も高級だ。ところで、夕食のメニューは次の通り。
① カタルーニャのスパークリングワイン
② 前菜(ミニコロッケ、サーモン・ニンジン・イチゴ)
③ アサリとほうれん草のクリーム
④ アーテチョーク(アサリとカニ)
⑤ 舌平目とウィキョウとアニスのソースかけ
⑥ レモンミント・シャーベット
⑦ 鹿肉のステーキとスグリ実コショウソースかけ
⑧ デザート(マロンのショートケーキチョコレートかけ、ウイスキーのアイスクリーム)
⑨ エスプレッソ
⑩ プチフール
食事は午後10:30頃に終わり、午後10:30にはホテルに戻った。その後ホテルのフロントに行き、コスタ・デル・ソルのホテルでお願いしたのと同じ様にユーロコインを探して欲しい旨依頼するが、冷たく断られてしまった。面倒で儲からないことをする必要がないというのも尤もである。仕方がない。次に、明日時間があれば訪れるコイン商を電話帳からリストアップした。どこの業者も街の中心から少しはなれた所にあるので、訪ねるのは難しいかと思いながらも、8社ピックアップした。このような作業をした後、風呂に入ったので、寝るのが午前12:30と遅くなってしまった。明日の午前中は、オプショナル・ツアーで「モンセラット」に行く予定。午後は自由行動だ。

デルビー・ホテルのHP
http://www.derbyhotels.es/
ラ・ダマのHP
http://www.ladama-restaurant.com/
ラ・ダマ(ぐるなび海外版ヨーロッパ)のHP
http://www.gnavi.co.jp/world/europe/barcelona/w311013/

(参考文献)「Museu Picasso ガイド(日本語版)」[Ajuntament de Bardelona刊]

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February 26, 2007

グエル公園とサクラダ・ファミリア

スペインの旅(第16回)

本日は飛行機でバルセロナに向かう。午前5:50に起きて、午前6:00に朝食会場に行った。いつものようにクロワッサンに玉子、ベーコン、フルーツなどを食べ、午前6:30には部屋に戻った。午前8:00、マラガのパブロ・ピカソ空港に向けホテルを出発した。道路の混雑も無く、予想外に速く進み、午前8:10には空港に着いた。チェックインを済ませ、午前9:30頃搭乗し、10分後には離陸した。スパンエアーのJK6687便で、マグドネルダグラス社のボーイング717型機だ。座席は118で、アテンダントは2名である。機内で新聞を読んだりしていると時間が経つのは速く、午前11:10、バルセロナの空港に到着した。

お天気は快晴。雲ひとつ無い。迎えに来ていたバスに乗り、昼食を取るためレストランに直行した。午後12:30頃「お食事処・小雪」に着いた。本日の昼食は、待望の日本食なのだ。「幕の内」で、玉子、焼き魚、煮物など、嬉しい食べ物ばかりだ。ご飯のお代わりは1杯だけOKとの事だったので、お願いした。ツアーメンバーの1人がお茶のお代わりを申し出たが、断られていた。日本では当然のように出してくれるお茶だが、バルセロナでは貴重品なのだろう。

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午後1:15、いよいよバルセロナ市内観光の開始だ。最初の目的地は「グエル公園」(写真)である。有力な実業家であり、芸術後継者でもあったエウセビ・グエルは、庭園都市を建設するため、土地の開発をガウディに命じた。1903年、ガウディは回廊、高架道、外壁などを完成させたが、当初予定していた60区画のうち、販売されたのは僅か1区画だったことから、1914年に工事は中止された。1918年にグエルが亡くなり、1922年、市がこの土地を取得して公共の公園になったのである。敷地面積は159h。正面玄関には鉄格子の門扉がある。これは後から設置されたものらしい。中に入ると、右手に2段の道路が見えた。上の段は車道で、下が歩道になっている「高架道」だ。更に進むと、ピンク色の家が見えてきた。かつてガウディが自宅として使用していた建物で、現在は「ガウディ博物館」になっている。その先には広場があり、多くの人々がベンチに座り、楽しいひと時を過ごしていた。Antonigaudiparkguell09
この広場は「百本広場」と呼ばれている。それは公園の半分が大地の上にあり、残りの半分は86本の円柱に支えられているからである。これらの柱のうち何本かは空洞になっており、公園に降り注いだ雨は地面の砂を潜り、空洞の柱を伝って貯水されていたという。公園のベンチは、割れたタイルや食器・瓶の破片などを利用してデザインされている。予算が無くなった頃には、屑タイルも使っていたようだ(写真 : グエル公園のHPより)。

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次に広場から階段を下りて、86本の柱を見学した(写真 : グエル公園のHPより)。古典的なドーリア式寺院とは異なり、柱廊の円柱は不規則な配列になっている。ここの天井にも、タイルや瓶、皿などの廃品を利用してデザインされている。ここから続く階段を降ると、その途中に「グエル公園」で最も有名な像がある(写真 : グエル公園のHPより)。カラフルな像で、「ドラゴン」か「サンショウウオ」と言われており、口から水を吹いている。観光客はこの前で順番待ちをしながら写真を撮っている。私もその1人だ。Antonigaudiparkguell18
スペインの小学生たちが遠足で来ていたので話しかけると、スペイン語が話せるのかと思ったのだろう。逆に色々と質問されることとなった。「ドラえもん」の話をすると、噂どおりスペインでも人気らしく、益々話が弾んだ。添乗員の女性が小柄で丸い体型をしていたので、彼女のことを「ドラえもん」だというと、子供たちはイメージにピッタリだったのか、大喜びして彼女のことを「ドラえもん」と呼ぶようになってしまった。添乗員さんゴメンナサイ。

自由時間の後、午後2:25にバスは次の目的地である「サクラダ・ファミリア聖堂」(写真)に向けて出発した。約5分で到着した。入り口は人で一杯だ。この聖堂は、当初「フランシスコ・デル・ビャール」の設計で建てはじめられたが、建築方法での意見の相違から、当時31歳の「ガウディ」が2代目の主任建築家に就任した。Sakurada
彼の構想では、イエス・キリストの「生誕」、「栄光」、「受難」を描く各ファザードを建設し、各ファザードに建てる4本ずつの鐘塔を含む合計18本の塔が建つ予定である。しかし現在完成しているのは、「地下聖堂」と「後陣」、「生誕」、「受難」の各ファザード、8本の鐘塔だけである。入り口は「受難」のファザード側にある。このファザードには、左下からS字を描くように上に向かってキリスト受難のストーリーが「最後の晩餐」、「ユダの接吻」、「イエスの裁判」、「十字架磔刑」など彫刻で表現されている。これらの彫刻は、現在最も活躍している「ジュゼップ・マリア・スビラックス」が行ったそうだ。

「聖堂」の内部に入ると、現在工事中だ。まるでビルの工事現場である。私たちが訪れた時はシエスタの時間だったので静かだったが、工事の真最中に来ると、非常にうるさいらしい。石で出来た建物の内部を森のようにしたかったようで、実際に陽が当たると、森の木漏れ日の感じが上手く表現されている。しかし完成まで後25~30年かかるとか。生きているうちに完成した「サクラダ・ファミリア聖堂」を見るのは難しい。

次に「聖堂」を通り抜け、「生誕」のファザードを見ることに。ここは3つの門と4つの鐘塔から出来ている。3つの門とは、「愛徳の門」、「希望の門」と「信仰の門」である。ここの像もセビーリャの「大聖堂」の像と同じく、高い所にある像が低い所にある像と同じ大きさに見えるように、高いところの像ほど大きく造っている。その後「地下聖堂」にある「博物館」を訪れた。ここには「サクラダ・ファミリア聖堂」の模型や設計図、建築の経過を映した写真など、参考になるものが多数展示されていた。最も興味を持ったのが、「暗号板」だ。縦横4×4の数字が並んでおり、310通りの足し算の結果が常にイエスの年齢である33になるというもの。ちなみに一段目左から「1・14・14・4」、二段目「11・7・6・9」、三段目「8・10・10・5」、そして四段目「13・2・3・15」である。念願の「サクラダ・ファミリア聖堂」の観光を終え、午後3:20にバスは次の訪問予定地である「ピカソ美術館」に向かって出発した。

グエル公園のHP
http://www.barcelona-tourist-guide.com/gaudi/park-guell.html
サグラダ・ファミリア聖堂のHP
http://www.sagradafamilia.org/
(参考文献)
「フォトガイド・グエル公園(日本語版)」[Triangle Postals刊]
「ガウディ(日本語版)」[Editorial Escudo de Oro刊]
「サクラダ・ファミリア(日本語版)」[MUNDO FLIP EDICIONES.S.C.P.]

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February 24, 2007

白壁の家並みが続く村「ミハス」

スペインの旅(第15回)

「ロンダ」と「ミハス」は、約110km離れている。バスで走ること約1時間、「マラヴェーリャ」の街に入った。右手には地中海、その向うにはモロッコが見える。この街は人口12,000人ぐらいで、周辺人口を合わせると5万人ぐらいになるようだ。アラブの富豪が夏を過ごす所として有名で、現在建設ラッシュ。山の上まで開発されている。地価もこの5~6年で倍になったらしい。オランダ人やイギリス人で、このあたりに別荘を持つ人も多い。マラガ空港まで車で3~40分と便利なので、多くの外国人が移住して来ているとの事。

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更に15~20分程走ると、「ミハス」が見え始めた。「ミハス」の歴史は古く、フェニキア人が銀や錫の鉱山を開いたことで始まったのである。午後3:20「ミハス」に到着し、観光を始めた。「ミハス」は小さな村なので、歩いて見て廻ることが出来る。バスの駐車場の近くに観光案内所があったので、そこで「ミハス」の地図をもらった。周りは白壁の家が並んでおり、まさに「アンダルシアの白い村」という看板に偽りは無い(写真 : 冊子・「Mijas観光ガイドブック」より)。これらの家々の間を通り抜け、最初に訪れたのは「サン・セバスチャン教会」だ。白壁の質素で小さな教会である。教会内の祭壇の前にたち、ボックスに1ユーロを入れると、数十秒間マリア様をライトアップしてくれる。Mijas
教会の次は「展望台」だ。地中海と裾野に広がる町を見ることが出来る、大パノラマである。少々霞んでいたので、残念ながらモロッコを見ることは出来なかった(写真 : 冊子・「Mijas観光ガイドブック」より)。

ここから約1時間自由行動となったので、展望台に来る途中にあった「闘牛場」に向かった。ここでは子牛の闘牛が行われている。普通の闘牛に使われる牛は500~550kg位あるのだが、ここで使われる牛は300~400kgだという。入場料3ユーロを支払い、受付向かいの階段を昇ると「闘牛場」に続いている。「ロンダ」で見た「闘牛場」に比べると少し小さい。しかし観客席の一番上からの眺めはなかなか良い。黄色い土に赤い壁、そして白い観客席。太陽が降り注ぐアンダルシア地方らしい色使いだ。ここでデンマークから観光できていた5人組と出会った。ロングバケーションのようだ。昨年デンマークに行った時のことを話し、日本にもチボリ公園があることを教えてあげると非常に驚いていた。

次に訪れたのは「郷土資料館」である。印象に残ったのは、中世の農民の生活である。日の出から日の入りまで働いても、十分な食べ物は得られず、漸く採れた作物も領主に取られてしまう。農業技術や農機具も未熟なので、生産性も低かったのであろう。現在の自分と比較すると、私は何と恵まれた時代に暮らしているのだろうかと感じざるを得なかった。
面白かったのは、「闘牛場」のミニチュアが展示されていたのだが、よく見ると観客が牛で、闘牛場では人間が牛に追われているのである。牛たちの歓声が聞こえるようで、思わず「にっこり」してしまった。

時間は直ぐに過ぎてしまい、集合場所に急いで戻った。午後5:00にバスは本日宿泊するホテル「メリヤ・コスタ・デル・ソル」(写真 : メリヤ・コスタ・デル・ソルのHPより)に向かって出発した。外気温は16℃と、夕方になっても暖かい。Hotel_melia_costa_del_sol_home1
午後5:30頃ホテルに到着。部屋のチェックを済ませ、午後6:00前に再び外出した。まだ外は明るいので、海岸のビーチを散歩することにした。波はあるが穏やかで、海風に当たると心地良い。思わず深呼吸をしてしまった。海辺を見ると、所々に散歩する人たちの姿が見える。犬を連れている人も多い。貝殻を3枚拾い、ティッシュに包んでポケットに入れた。

3~40分散歩した後、今晩は夕食が無いことを思い出した。午後7:00前だったので、レストランなどはオープンしていない。仕方ないのでいつものようにマクドナルドに駆け込んだ。と言っても、海岸から歩いて15分ほど離れた所にあるのだ。看板が出ていたので近いのではないかと思ったのが失敗であった。ハンバーガーなどを買い求め、午後7:30前にホテルに戻った。食後、趣味のコイン収集のため、ホテルのフロントを訪ねた。ユーロコインのカタログを見せ、まだ入手出来ていない種類のコインを探してもらった。結果、全部で4種類ゲットすることが出来たのである。コスタ・デル・ソルは田舎のリゾート地なので、人は皆親切だと聞いていたが、私の面倒なお願いを、嫌がりもせず、レジにあるコインの1枚1枚を見てくれたのには感謝である。その後部屋に戻り、いつものように泡風呂を楽しみ、荷物整理を終えた後、午後11:00頃寝た。

ミハス市役所のHP
http://www.mijas-digital.es/mijas/extranet/
メリヤ・コスタ・デル・ソルのHP
http://www.solmelia.com/solNew/hoteles/jsp/C_Hotel_Description.jsp?codigoHotel=2916

(参考文献)「Mijas観光ガイドブック(日本語版)」[グリーンツアー刊]

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February 23, 2007

闘牛場と絶壁の街”ロンダ”

スペインの旅(第14回)

本日は、「ロンダ」と「ミハス」を観光した後、スペインを代表するリゾート地「コスタ・デル・ソル」(太陽海岸)に向かう予定だ。午前7:30頃モーニングコールで目覚め、午前7:45に朝食のためレストランに行った。ビュッフェ形式だったので、トルティージャや玉子の目玉焼きに、パイン、ピーチ、スイカなどの果実類、カステラの原型らしきケーキ、コーヒーに各種ジュースなどを頂いた。午前8:50ホテルロビーに集合し、バスで出発した。

昨日訪れた「スペイン広場」の裏を抜け、午前9:10頃には「ロンダ」方面に続く高速道路に乗った。セビーリャからロンダに向かう途中、一面ひまわり畑であった。当然今は咲いていないが、夏になると黄色の花で埋まるようだ。観光ガイドでよく見る景観である。暫く走った午前10:00頃、道路の両サイドに牛牧場が見え始めた。緑の中に浮かぶ、白い角で茶色のボディーをした牛が多数いる。「ロンダ」は、アンダルシア地方の山間部に位置するため、標高も750mと高く、気温も少し低い。現在の外気温は8℃だ。人口は約3万人で、オリーブやぶどう、牧畜が盛んである。近代闘牛発祥の地としても知られている。

Torerob1
午前10:45頃、「ロンダ」の「闘牛場」に到着した。入り口には伝説の闘牛士「オルドニェス親子」の銅像(写真 : ロンダ観光のHPより)が並んで立っている。この「闘牛場」は、1785年に完成、直径約66m、収容観客数5,000人の円形ドームで、周りにはトスカーナ様式の石柱が並ぶ(写真 : 冊子・「一日散策ロンダ」より)。現在は祭りの時だけ使用されているそうだ。観客席や避難柵、馬場、密閉牛舎、アレナ(闘牛場)などを見学し、闘牛士の真似をして写真を撮るなど楽しんだ。Tougyuuところで、闘牛が終わったあとの牛はどのようになるのだろうか。ガイドによると、「闘牛場」の裏にある「牛の解体所」で直ぐに解体され、翌日朝、肉屋で「トロ」として販売されるとの事。栄養十分に自然の中で育てられているため、質の良い赤身肉で、値段も高いらしい。

「闘牛場」の次は、側にある「闘牛博物館」を見学した。闘牛の歴史や闘牛に使われる道具などが展示されている。中世の闘牛は現代とは異なり、馬に乗って牛と戦う騎馬闘牛であったことには驚いた。ここ「ロンダ」で現在のような徒歩闘牛が始まったので、近代闘牛発祥の地と言われるのである。ところで闘牛は、1人の闘牛士と牛との戦いではなく、一つのパターンがあるのだ。まず4者で一チームが作られる。メンバーはノビリェーロ、ピカドール、バンデリリェーロとマタドールである。最初にこれら闘牛士が入場し、次に見習い闘牛士であるノビリェーロが、カポーテ(表がピンク、裏が黄色のマント)を用いて牛を捌く。続いて馬に乗ったピカドールが牛の首の後ろにあるコブをやりで突き、その後を受けたバンデリリェーロが、飾りのついた銛を4本、牛の体に打ち込む。そして最後にマタドールが現れ、牛と1対1の真剣勝負が始まる。”とどめ”は、牛の肩甲骨の間にある急所に剣を突き刺すのである。この良し悪しで、拍手喝采かブーイングかが決まるのだ。

Rondakeikoku
見学を終え、午前11:45頃闘牛博物館を出た。次はロンダのシンボル「ヌエボ橋」(写真 : 冊子・「一日散策ロンダ」より)である。この橋は18世紀半ばに約12年かけ、高さ100mの断崖に架けられた。下を覗くと吸い込まれるような感じだ。この橋を渡ると旧市街になる。イスラム時代には、この厳しい渓谷が要塞代わりになり、キリスト教徒からの攻撃を防いだという。

この橋の横にある展望台から見学した後、30分ほど自由時間になったので、もう一度闘牛場に戻り、その近辺を散策した。通りの側に銀行「Unicaja」があったので、中に入ってみた。ハイカウンターには多くの客が並んでいる。その反対側には個別にテーブルが並んでおり、客と向かい合って座り、何やら相談事に応じている。日本の銀行であれば、運用相談窓口に相当する場所であろうか。ここは混雑していたので、店頭に並んでいたチラシ類だけを貰い、別の銀行「blueBBVA」を訪ね、円・ユーロの両替することにした。ユーロは十分に持っていたので、千円札1枚だけの両替を申し出ると、窓口の人がスペイン語で「どうする?」と私に尋ねてきた。どうしたのかと聞き返すと、千円の両替だと、手数料が一律6ユーロかかるので、手取りは16セントになってしまうとの事であった。日本と異なり、売りレートで表示されていないのだ。つまり固定手数料なので、金額が大きいほど割安になる。余りにも手取額が少なくなるので、両替は止めにした。

銀行を出て再び街を散策し、その後皆と一緒に昼食のためレストラン「DONA PEPA」に入った。午後12:35である。メニューはアスパラのスープ(アスパラ、マッシュルーム、豆、パンなどが入った赤い色のスープ)、カルネ・ド・チャダ(牛ヒレ肉とポテト)、バニラビーンズ入りアイスクリームにフルーツだ。食事を終え、午後1:40頃バスで次の目的地である「ミハス」に向かった。

ロンダ観光のHP
http://www.turismoderonda.es/indexeng.htm
UnicajaのHP
https://www.unicaja.es/PortalServlet?pag=1110902071492
blueBBVAのHP
https://www.bbva.es/TLBS/tlbs/jsp/esp/jovenes/index.jsp

(参考文献)「一日散策ロンダ(日本語版)」{Aldeasa刊}

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February 22, 2007

カルメンの街セビーリャ

スペインの旅(第13回)

コルドバの街を出発して暫く走ると、美しい緑が続く。空は澄み切っており、青さが冴えている。外気温は22℃もある。スペイン内陸部のマドリットやアビラ、セゴビアとは大違いだ。午後12:30過ぎにセビーリャの街に入った。人口は80万人、アンダルシア地方最大の都市である。スペインを代表する画家ベラスケスやムリューリョは、ここの出身だ。

午後1:00頃バスを降り、「ムリューリョ公園」を横切って、「サンタ・クルス街(ユダヤ人街)」にあるレストラン「オステリア・ロレアール」に到着した。本日はここで昼食だ。メニューはタパス(小皿料理)。トルティーリャ(スペイン風オムレツ)にカラマレス・フリートス(いかリングのフライ)、アセイトゥーナス(塩漬けのオリーブ)、ポークソテー、パタタス・フリタス(フライド・ポテト)、ほうれん草の炒め物、鶏肉のフライ、デザートケーキなどである。美味しく頂き、午後2:00過ぎにレストランを出た。

アンダルシア地方の典型的な家々が並ぶ「サンタ・クルス街」を歩き、午後2:30頃「カテドラル」(大聖堂)に到着。ここはスペイン最大のカテドラルで、ローマのサン・ピエトロ大聖堂、ロンドンのセント・ポール大聖堂に次ぐ、世界第三の規模を持つキリスト教の聖堂である。1185年にモスクとして建てられたが、レコンキスタ後の1401年から約120年かけて聖堂に建替えられたのだ。Seviryacatedoralu
内部には86のステンドグラスがあり、光が差し込んで美しく輝いている(写真)。「主祭壇」は「カテドラル」の中央にあり、典型的なスペイン式の聖堂である。「主祭壇」はプラテレスコとゴシックがミックスされたような様式で、高さ25m、幅18mある。胡桃の木に約1トンの金で出来ている。約千体の人物像が並んでいるが、下から見上げた時、どれもが同じ大きさに見えるように、下の像は約80cm、上に行くほど大きくなり、最上段の像は2mぐらいあるようだ。いわゆる遠近法である。

そして「主祭壇」の左手には「合唱台」があり、その両脇には約8千本のパイプを持つパイプオルガンがある。現在も毎朝10時から行われるミサの時に使われているようだ。また、主祭壇の手前には「コロンブスのお墓」がある。1899年にキューバの首都バハマのカテドラルから運ばれてきたのである。「コロンブスのお墓」の横にある「聖杯室」にはゴヤやムリューリョ、スルバランなどの絵画が展示されている。

Giralda
最後は「ヒラルダの塔」(写真 : セビーリャ市のHPより)だ。イスラム時代は「ミナレット」だったが、16世紀に鐘楼塔に改造された。高さ98mあり、内部は階段ではなく、スロープ状になっているのだが、一番上まで昇るのは少々キツイ。しかし、塔の上からはセビーリャの街を見渡すことが出来たので、苦労の甲斐はあったようだ。

午後3:30分過ぎに広場に集合し、トラムの工事をする並木道を歩き、アルフォンソ13世ホテルの横を通り過ぎ、バスに乗った。環境に配慮し、街中にトラムを走らせるための工事が行われていたので、バスは離れた所にしか止まれなかったのだ。次の目的地は「スペイン広場」(写真 : セビーリャ観光案内のHPより)である。Sevilla
このあたりは、1927年に開催された博覧会の時に使用されたパビリオンが、そのまま残っている。「スペイン広場」は、「カテドラル」から南東に7~800m離れた所にある。アーチが続く柱廊のある直径170mの半円形で、両端には高さ80mの塔が建つ。建物を縁取る水路には、ヴェネチア風の端が架かっている。ここで暫く見学した後、本日宿泊する「セビーリャ・センターホテル」(写真 : セビーリャ・センターホテルのHPより)に向かい、午後4:30頃に到着した。非常に大きく、綺麗なホテルである。Photo1


本日の夜は、フラメンコショーを見に行く予定だ。それまで時間があったので、ホテルの部屋をチェックした後、街中を散歩することにした。午後6:45頃ホテルに戻り、午後7:00にバスでフラメンコ会場に向かった。お店の名前は「エル・パティオ・セルビジャーノ」。舞台の1~2列目が我々の席だ。「かぶりつき席」である。ドリンクが一杯だけ付いているので、地元のぶどうジュースをオーダーした。なかなか良い香りで美味しい。

ショーは午後7:30頃から始まった。ギター演奏者(トーケ)2名と手拍子を取る人2名、歌い手(カンテ)1名が後ろに控え、後は男性2名と女性5名が入れ替わり踊り(バイレ)を披露してくれる。ご存知のとおり、フラメンコはスペインを代表する民俗芸能だ。15世紀頃、アンダルシア地方に流れ着いた東方のジプシーが、土地の民謡を自分達流にアレンジしたのが始まりだという(写真)。P02_1

フラメンコは次の点に注目してみると良い。
① 踊り子、歌い手、弾き手、手拍子の4者のコンビネーション
② 6種類の手拍子
③ 踊り子の手と足
今回見た踊りの中で、非常に魅力的な踊り手が1人いた。アナさんという名のダンサーだが、クラシックバレイの基礎を持つ女性で、現在はフラメンコの指導者でもあるとのことだ。フラメンコの激しさだけでなく、華麗さが伝わってきたのはクラシックバレイの要素が入っていたからかも知れない。午後9:00にショーは終了した。会場は比較的空いていたのが気になったので訊ねてみると、スペインではこれから皆が集まる時間だとか。2回目のショーは一杯になるそうだ。確かにスペインのレストランはオープンするのが昼も夜も遅い。日本の時間感覚とは異なるのだ。

午後9:30頃ホテルに戻り、直ぐにホテルのレストラン「RESTAURANT AL ZAGAL」に向かった。やっと夕食である。メニューはトスタ・デ・アベ(グリルドチキン)、サラダ、スパゲティー・ボロネーゼ、アンダルシア風白身魚料理にヨーグルトケーキだ。お腹が減っていたこともあり、すべて美味しく頂くことが出来た。午後10:30にレストランを出て、部屋に戻った。いつもは寝る時間なのだが、荷物の整理をしたり、風呂に入ったりしていると遅くなった。午後11:30頃に床に着いた。

セビーリャ市のHP
http://www.andalucia.com/cities/sevilla.htm
セビーリャ観光案内のHP
http://www.aboutsevilla.com/
セビーリャ・センターホテルのHP
http://www.holidaycityeurope.com/sevilla-center-seville/index.htm
エル・パティオ・セルビジャーノのHP
http://www.elpatiosevillano.com

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February 21, 2007

コルドバの「メスキータ」

スペインの旅(第12回)

本日午前中は「メスキータ」を拝観する予定だ。前回お話したように、ホテルの直ぐ側にある。午前6:50に起きて、午前7:30に朝食のためロビー階のレストランに行く。ここもバイキング形式である。いつものように、ハムや卵、クロワッサンにコーヒーなどを頂き、午前8:00頃部屋に戻った。今日の出発は遅く、午前9:00なので少し横になった。一昨日のホテルが寒く、風邪気味だったのが続いており、少々熱があるようにも感じられたからである。

集合時間が近づいたのでロビーに降り、他のメンバーと一緒に歩いて「メスキータ」に向かった。ここへの入場は午前10:00からなので、「メスキータ」の庭を抜け、「旧ユダヤ人街」の散策を始めた。ここコルドバは、紀元前にローマ帝国によって建設され、8世紀中頃、後ウマイヤ朝の時代に首都となり、10世紀頃には人口100万人近くに達し、全盛期を迎えた。Photo_2この頃に「旧ユダヤ人街」は造られ、14世紀にキリスト教の王に追い出されるまでユダヤ人が住んでいたのである。迷路のように入り組んだ細い道。その両側には美しい花の飾られた白壁の家が並んでいる。暑さを凌ぐため、家は「八の字型」に建てられ、壁は乳白色に塗らなければならないとの事。道路沿いには各家の美しいパティオ(中庭)があり、毎年5月の4~16日頃には「パティオ・コンテスト」が開催されるという。さらに散策を続けると、いわゆるユダヤ人の教会である「シナゴーグ」があった。現在スペインには3箇所しか残っておらず、トレドの2箇所とここコルドバのみだ。ユダヤ教のシンボルの一つである「七枝の燭台」も見ることが出来る。「シナゴーグ」のすぐそばには、「マイモニデスの像」がある。コルドバが栄えた時代のユダヤ人の哲学者であり、医師でもあった人物だ。午前9:30には、「メスキータ」にある鐘楼の大きな鐘が左右に揺れ、街中に鳴り響いた(写真)。その他「花の小道」などを歩き、革製品のお店に入る。午前10:00に店を出て、「メスキータ」に戻った。

Meskita午前10:10、「メスキータ」の中に入ると、最初に目に飛び込んでくるのが「円柱の森」である。建築材料の組み合わせによる白と赤のコンビネーションによって決定的な中心軸を持たず、ダイナミックで幻想的な空間を造り出している(写真)。レコンキスタでキリスト教徒に破壊される前、1,013本の柱があったが、現在は856本が残っている。この柱は、古代ローマ時代にあった神殿の柱を利用したものと言われている。ご存知のように、西暦750年にイスラム帝国で起きたアッバース革命により、カリフの座を追われたウマイヤ家の1人が、アフリカを経てイベリア半島に逃れ、756年に新たに後ウマイヤ朝を起こした。彼は、アブドゥル・ラフマーン一世としてコルドバで即位し、785年にこの「メスキータ」を造らせたのである。当初、キリスト教のサン・ビセンテ教会をイスラムのモスクとして共同使用していた建物を、彼がキリスト教徒から買い取り、改築させたのが「メスキータ」なのである。その後も増加するイスラム教徒の数に合わせて、さらに大きなモスクが必要とされたことから、約200年の間に3回の大規模増改築が行われ、793年に現在の規模になった。3回目の増築に際しては予算が無かったため、白と赤のコンビネーションのアーチは建築材料の組み合わせによらず、白と赤の色を塗ったに過ぎない。

先にも少し触れたが、レコンキスタ後の「メスキータ」は、再びキリスト教の聖堂に転用された。暫くは、キリスト教徒達はモスクに敬意を払い、建物もそのままの姿で残ったが、16世紀に一部取り崩しの上大聖堂を建築することになった。モスクの美しさを守るため、コルドバ市民は猛反対をしたが、国王カルロス一世は増改築に許可を与えた。工事完了後、「メスキータ」に大聖堂の屋根が突き抜けていた様子を見た国王が、「どこにでもある建物のために、世界に一つしかない建物を崩してしまった」嘆いたことは有名である。以後「メスキータ」の改築は行われなかったと言う。

内部の見学を終え、午前11:00にホテルに集合し、午前11:15頃バスはセビーリャに向けて出発した。離れたところから「コルドバの歴史地区」を見ると、世界遺産の中にあるホテルに泊まったことを改めて感じさせられた。

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February 17, 2007

コルドバの街へ

スペインの旅(第11回)

昼食後バスに乗り、コルドバに向けて出発した。山と畑に囲まれた国道を走る。平行して鉄道の線路が敷かれているのが見えた。同じ様な景色の中、ドライブは続いた。午後3:00頃、休憩のため「エスタシオン・ド・ルケ」に留まった。ここはかつての駅舎で、現在は廃線で使われなくなったことから、ドライブインになっている。建物の裏手に廻ると、赤い貨車2輌が置かれていた。倉庫代わりに利用しているようだ。午後3:15に再びバスはコルドバに向かって走り出した。10分ほどするとバエナの街が、更に20ほど進むとエスペロの街が見えた。この辺りから、街路樹にオレンジが使われている。イスラムがもたらした樹で、オレンジは美味しそうに沢山実っているが、非常に不味いらしく、鳥も突かないようだ。

Fachada午後4:10頃にコルドバの街に入った。街境には金網で仕切られた住宅が多数建てられていた。この近辺はヒターノ(ジプシー)の街で、治安も良くないらしく、金網で仕切っているとの事。人権問題にはならないのだろうか。狭いながらも綺麗な住宅が与えられるのだから良いのか。午後4:15、「コルドバ歴史地区」全体を写真に収めることが出来る、グアダルキビール川の対岸に止まって写真撮影を行い、その後「コルドバ歴史地区」入り口にある駐車場でバスを降りた。ここから先の道は狭いので、バスは入れない。本日宿泊する「ホテル・コンキスタドール」(写真 : ホテル・コンキスタドールのHPより)まで徒歩約10分だ。このような時、手荷物だけで旅していると不便だ。本を買って重くなったカバンを引きずりながら、ホテルまで歩いた。

Habitacion
ホテルの部屋(写真 : ホテル・コンキスタドールのHPより)をチェックした後、コルドバの街を歩くため外出した。最初に、明日訪問する「メスキータ」の庭に入ると、街路樹に使われていたのと同じオレンジの樹が一杯植えられている。「オレンジの中庭」と呼ばれているところだ。樹の根元は溝になっており、どこからか水を流せば、すべての樹に水が行き渡るようになっている。庭を横切り、鐘楼(写真)の前を通って西側の出口から外に出た。そこからは「聖ラファエルの勝利のモニュメント」が見える。そこから「メスキータ」の北側の通りを北に向かい、「ホセ・クルス・コンデ通り」を歩く。このあたりは歴史地区とは異なり、普通の繁華街である。銀行回りをしたかったのだが、夕方なので何処も開いていない。しかし郵便局は営業していたので、中に入ってみた。受付窓口は2箇所開いているだけで、残りの数箇所は閉じられていた。携帯電話の申し込みなども受け付けている。Logo_header「CORREOS TELEGRAFOS」という名称で、他の街でも黄色いポストにこの名前が付けられていたのを思い出した。角笛の上に王冠が載ったデザインの下に「CORREOS」と書かれたマークが印象的である(写真 : CORREOS TELEGRAFOSのHPより)。

通り周辺を見て歩いた後、通りからはずれて東側にある「プエンテの門」を見に行くことにした。市役所の南側にあり、コリント式の柱が何本か残っていた。古代ローマ時代の城壁の一部を成していた門だ。その近くに本屋があったので立ち寄る。色々な種類の本が並んでいる。書店の主人が話しかけてきたので、貨幣関連とスペインの歴史に関する本で、子供レベル(私でも読めるレベル)のスペイン語で書かれた本はないかと訊ねると、一生懸命に探してくれた。貨幣に関する本は1冊あったのだが、とても子供が読めるレベルの本ではなかったので、お礼を言ってお店を出た。本屋の斜め向かいに、「サン・パブロ教会」があったので、中に入ってみた。夕方だったので光は弱く、教会の中は一段と暗く感じられた。中には誰もいない。ろうそくの火だけがゆらゆらと灯っているだけだ。昼間にツアーで廻っている時は、人気もあるので何とも思わなかったが、暗い教会に1人でいると、何か俗世間から切り離された感じがした。中世にこのような雰囲気の中、キリストの像を見つめながら、神父の話を聞いていると、きっと厳かな気持ちになったであろう。その後「聖ドミンゴ教会」を外から見て、ホテルに戻ることにした。途中「アルカサール」に行くのを忘れていたのを思い出したが、既に閉館時間を過ぎていた。残念!

ホテルには、午後7:00頃に着いた。本日の夕食は午後8:00からなので、荷物を整理した後、テレビのスイッチを入れると、日本でもお馴染みの漫画「天才バカボン」を放送していた。面白いことに、私レベルのスペイン語の理解力でも、十分に分かるのである。先日もお話したように、マンガは外国語会話習得の近道ではないだろうか。

夕食の時間になったので、ホテルのレストランに行くことにした。メニューは食前酒のポンテーリャにサラダ、ポークフライ、フライドポテト、チョコレートケーキ、りんごジュースだ。食前酒は甘く、非常にフルーティー。ポークフライは日本のトンカツ風で、美味しく頂くことが出来た。サラダはバイキング形式。採り放題である。午後9:30頃部屋に戻り、風呂に入る。本日は、日本から持っていった温泉の素(よもぎ湯)をお湯に入れたので、泡風呂以上にリラックスすることが出来た。午後10:30頃寝る事に。明日は「コルドバ歴史地区」の観光である。

CORREOS TELEGRAFOSのHP
http://www.correos.es
コルドバ市役所のHP
http://www.ayuncordoba.es/portal/web/index.jsp
ホテル・コンキスタドールのHP
http://www.hotelconquistadorcordoba.com/

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