December 30, 2007

いよいよ17日間の旅の最終日

バルト三国と北ドイツの旅(第42回・最終回)

今回はこれまでにない長い旅であったが、遂に最終日となった。午前7:00に目覚め、午前7:10にレストランに行く。オムレツ、ヨーグルト、トマト、クロワツサン、コーヒー、ジュースなどを頂き、午前8:15分頃部屋に戻った。本日の出発時間は午前9:30なので、それまでテレビを見るなど、ノンビリ過ごす。午前9:30にバスで空港に向かう。空港での手続きをお世話してくれるガイドさんは、日本人女性の菊池さん。午前9:55、ベルリン・テーゲル空港に到着。午前10:30、チェックインの手続きをするが、手荷物の重量がオーバーのため、荷物を減らすよう指示が出た。10kg制限のところ、14kgあったのだ。荷物の大半は書籍類。コンパクトなのだが、重量がある。私は手荷物一つで旅しているため、分散することが出来ない。仕方がないので、コートの左右のポケットやお腹とズボンの間に書籍を詰め込み、何とか手荷物を10kg以内に納めた。しかしこのようなことで認めてくれるのであれば、カバンに入っていても良いのではないかと考えさせられてしまった。他のメンバーはフランクフルト経由で帰るのだが、私はヘルシンキ経由だったので、ガイドの菊池さんが付き添ってくれていたおかげで、非常に助かった。

午前10:25分、バスで搭乗機まで移動し、午前11:55分に搭乗。午前12:17分に離陸。ヘルシンキまで、1,120km。離陸して約30分後、昼食が出た。メニューは次のとおり。
・ 鹿肉のローストとリンゴのテリーヌ
・ スモーク・フィレ・サーモンとポテトシチュー
・ 干しブドウのケーキ
・ コーヒー、コーラ、水
午後1:15分に昼食を終える。

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午後2:50分(以下フィンランド時間・ドイツ時間は午後1:50分)、エストニアのタリン上空を飛ぶ(写真)。午後2:55分頃、フィンランド湾上空を通過。午後3:15分、予定より25分遅れてヘルシンキ空港に到着した。午後3:30分、出国手続きを行い、ラウンジに入る。このラウンジは、昨年6月、北欧に行った時以来の利用である。読書をして約1時間過ごす。午前4:50分、関空行きの飛行機に乗る。午後5:30分頃離陸。午後7:00頃から夕食。メニューは次のとおり。
・ 蕎麦、味噌汁、お寿司盛り合わせ
・ ストロガノフ、ジャスミンライス
・ アイスクリーム
午後8:00頃夕食終了。翌日、午前7:10分(以下日本時間)に目覚め、午前7:20分から朝食。メニューは、焼き魚の和風朝食。午前8:00頃朝食を終えると間もなく、着陸の案内があった。そして午前8:45分、関空に到着した。

長い旅であったが、天候にも恵まれ、楽しい日々であった。色々な資料も手にしたので、私の貨幣金融史研究に役立てて行きたいと思う。

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December 29, 2007

ポツダム・サンスーシー宮殿

バルト三国と北ドイツの旅(第41回)

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列車は遅れることもなく、予定通り午後4:40分に「ベルリン中央駅」(写真)に到着した。この駅は昨年の5月にオープンした、新しい駅である。駅には現地ガイドが迎えに来ていた。日本語の上手な中年女性、ブリギット・ランガさんだ。駅前で待っていたバスに乗り、30分ほどで本日宿泊するホテル「ヒルトン・ベルリン」に到着した。「博物館島」などにも近く、比較的便利の良い場所に建っている。夕食はホテルのレストランで、午後7:00から。メニューは次のとおり。

・ サラダ(レタス・トマトなど)
・ メイン(ポッチド[鱈]ホワイトソースかけ、ジャガイモ、ほうれん草)
・ デザート(バニラムース)

食事は午後8:50分に終えた。部屋に戻ってからは、いつもどおり資料整理をした後、入浴。明日のプランを確認し、午後10:30頃に寝た。

翌日、午前6:30に目覚め、午前6:40~7:20頃まで朝食を取り、午前7:55分にホテルを出た。ツアーの予定では、午前中に「ブランデンブルク門」や「ペルガモン博物館」などを廻り、午後からフリーとなっていた。しかし一昨年の4月、これらの場所を訪れていたので、今回は「ポツダム」に行きたいと思っていた。実は「ポツダム」行きのツアーに申し込んでいたのだが、最低人員の10名が集まらなかったので催行されなかったのだ。そのため、この日をどのように過ごそうかと迷ったのだが、結局1日かけて電車とバスで「ポツダム」に行くことにしたのである。そのため、本日もツアーとは別行動することになった。ホテルのすぐ側にある、Uバーン「U2」の「Stadtmitte駅」に行き、1日乗車券を6.3ユーロで購入。午前8:02分発の列車に乗り、「ツォー駅」でSバーン「S7」に乗り換え、終点「ポツダム駅」に向かった。午前8:55頃、「ポツダム駅」に到着。バス乗り場を目指してホームを出るが、目的地に行くバスの停留所はない。間違えて駅の裏側に出てしまったのだ。駅ターミナルを抜けて表通りに出ると、「サンスーシー宮殿」方面に行くバス路線「695番」の発着場があった。念のためバスを待っている人に確認すると、間違いないとの事。さらに親切に、バス停を下りてから宮殿に行く道筋も教えてくれた。午前9:10分にバスは出発、午前9:25分「サンスーシー宮殿」前に到着。

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バス停は、宮殿の裏側になるようだ。午前9:32分、受付で、ポツダムの宮殿などすべての施設を見学できる共通券を購入、15ユーロである。宮殿には午前9:40分から入ることが出来る。観光シーズンには2~3時間待つこともあると聞いていたのだが、入り口に行っても誰もいない(写真)。本当にここで良いのか心配になったが、暫くすると10人ほどのドイツ人観光客が現れた。しかしこれ以上増えることはなかった。ラッキーである。中に入ると、イヤホンガイドを貸してくれる。幸い日本語版があった。内部は「入り口の間」から始まり、「小回廊」、「図書の間」、「寝室兼執務室」、「音楽の間」、「謁見および食事の間」など、主たる12部屋からなっている。どの部屋もすばらしいものであったが、中でも中央に位置する「大理石の広間」は印象に残る。楕円形の広間で、イタリアのカラーラ産大理石の太い柱で囲まれている。ローマのパンテオンの変形だという考えを念頭において造られているという。ところで、各部屋には鍵を持った男性が、一部屋一部屋鍵を開けて案内してくれる。部屋に入ると、見学者は一斉にイヤホンガイドのスイッチを入れる。私もほぼ同時にスイッチを入れているのだが、聴き終わるのはいつも他の人達よりも遅いのである。どうやら、日本語の解説は、ドイツ語の解説より長いのだ。スイッチを入れるのが遅れると、他の人達は次の部屋に行っているのに、私一人取り残されることもあった。

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宮殿内の見学を終え、次に向かったのは「庭園」である。ところで、「サンスーシー宮殿」は、フリードリッヒ大王の命により夏の居城として1745年に建てられた。ロココ様式の華麗な宮殿で、ルイ14世が造らせたフランス・ヴェルサイユ宮殿も意識していると言う。宮殿の表側に出て(写真左)、そこから南側を見ると、階段状のブドウ園が続く。下まで降りて行き、噴水辺りから宮殿のほうを振り返ると、すばらしく美しい景観。雲ひとつない青空という天候に恵まれていたこともあるが、下から見上げる宮殿は輝いている(写真右)。Photo_20Photo_21Photo_22

「ブドウ園」のあと向かったのは「中国茶館」(写真左)である。この建物は、金塗りのロココ様式。室内も同様で、壁や天井には中国風の絵画が描かれている。次は5~600m離れた所に建つ「ローマ風浴場」(写真中)だ。庭園と浴場からなる。浴場部分の壁は、モザイク画で飾られていた。続いて200mほど南にある「シャルロッテンホーフ宮殿」(写真右)である。ここはガイドツアーでないと、内部の見学は出来ない。次のツアーは午後12:00からだったので、表で15分ほど待つ。ガイドはドイツ語のみ。ドイツ語が分からない旨伝えると、英語の解説プレートを渡してくれたので、私はこれを見ながらガイドについて行くことになった。この宮殿は、当時太子であったのちの王フリードリッヒ・ウィルヘルム四世の命により建てられたのである。内部は「謁見の間」や「居間」、「寝室」など、主に11部屋がある。最も印象に残ったのは「テントの部屋」だ。白とブルーのテント地で天井・壁が覆われており、ベッドにもテント地の天蓋が付けられている。

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約50分の内部ツアーを終え、次に向かったのは「新宮殿」(写真)だ。「シャルロッテンホーフ宮殿」から北西に約1kmのところに「新宮殿」がある。これは、フリードリッヒ大王によって建てられたバロック様式の宮殿。主に皇帝の大規模な祭典で利用され、住居としては殆んど使われなかったようだ。内部には200以上の部屋がある。ここは主だった部屋について、ガイドなしで見学することが出来る。「大理石回廊」や「青い小部屋」、「赤いダマスクス部屋」、「緑のダマスクス部屋」など美しい部屋が多数ある中で、最も興味深く見たのが「グロッテン(洞窟)の間」だ。4本の太い柱で3つの中廊に区分され、壁と柱の大理石面には、人造洞窟装飾の太い縞模様。そして世界各国からの宝石、珍しい鉱物、化石、貝殻、蝸牛の殻などで装飾されている。なんとも不思議な空間だ。

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午後1:30分頃、「新宮殿」を出て、北東約1kmの所にある「オランジェリー」(写真左)に向かった。「オランジェリー」はフリードリッヒ四世の命で建てられたオレンジの栽培館。オレンジの木だけでなく熱帯産樹木の越冬を主目的としている。建物内部では、「孔雀石の部屋」や「瑠璃の部屋」、「象牙の部屋」など、豪華な装飾の部屋を見ることが出来るのだが、疲れていたこと、また残り時間が少なくなっていたため、屋上からの展望だけで済ませることにした(写真右)。受付に行くと、どこかで会ったことのある美女がいた。朝、「ポツダム駅」のバス乗り場で、親切に「サンスーシー宮殿」への行き方を教えてくれた女性である。ここに勤めていたのだ。「サンスーシー宮殿」とは300mほどしか離れていない。少しお話した後、階段を使って屋上に昇った。数段に分かれた庭が美しい。ベンチに腰掛、休憩を兼ねて景色を眺めた。この時、既に午後2:15分を過ぎていた。どうしても1945年にポツダム会談が行われた「ツェツィリエンホーフ宮殿」に行きたかったので、「オランジェリー」を後にした。

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インフォメーションセンターで、「ツェツィリエンホーフ宮殿」(写真)への行き方を確認し、今朝バスを降りた「サンスーシー宮殿」裏のバス停、「SchloB Sanssouci」でバスが来るのを待った。午後2:37分、「695番」の路線バスに乗り、バス停「Jagertor」で「692番」の路線バスに乗り換え、午後3:15分頃、バス停「SchloB Cecilienhof」に到着した。ヒッソリと静まり返っている。人の気配を感じない。案内板などが出ていなかったので、どちらに行けば良いのか分からなかったが、適当に歩いていると宮殿が見えた。ここには十数人の人達がいて、写真を撮るなど楽しんでいた。観光バスで来ているのだろう。いつの間にか全員いなくなっていた。この宮殿には、ホーエンツォレル家の皇太子ヴィルヘルムが住んでいた。ところでポツダム会談は、米国大統領・ルーズベルトと英国首相・チャーチル、そしてソ連共産党書記長・スターリンの3巨頭の下で、対独日戦逐行上での申し合わせや、可能な戦後処理の構想に関しての取り決めが行われた。この地が選ばれたのは、「ベルリンの近辺」ということで合意されたが、ベルリン自体はひどく破壊されていたためである。会談の準備の大部分はソ連政府の権限下にあったという。かつての皇太子の住居であった各部屋は、会談が開かれている間、各国の執務室になったとの事。最も印象に残った部屋は、皇太子の家族がリビングホームとして使用していた「大会議場」だ。この場所で日本が降伏する条件が議論されたかと思うと、何か重いものを感じる。部屋の真ん中には、直径3.05mの円形テーブルが置かれている。このテーブルは、会議用にわざわざモスクワの家具製作所に作らせたものだという。

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一通りの見学を終え、午後3:40分に宮殿を離れた。先程降りたバス停でバスを待つが、予定時刻になっても来ない。観光バスも出た後だけに、人も少なく、不気味なくらいに静かだ。暫くすると、韓国人ペアと中国人4人組がやって来た。バス停で待つこと15分。ようやくバスに乗ることが出来た。来る時と同じく、バス停「Jagertor」で乗り換え、「ポツダム駅」に向かった。途中にクリーム色の大きな門があったので、あれは何かとバスの乗客に尋ねると、「ポツダムのブランデンブルク門」(写真左)であると教えてくれた。古代ローマの凱旋門に倣って1770年に建造されたようだ。バスは渋滞することもなく、午後4:40分、無事に「ポツダム駅」(写真右)に到着した。そして午後4:50発の列車に乗り、「ベルリン」へ。

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まだ日が沈んでいなかったので、ベルリンの「ブランデンブルク門」(写真)を見るため、ホテル最寄駅より一つ前の「Mohrenstr駅」で下車し、「ウンター・デン・リンデン」に出た。門の東、3~400mの所から写真を撮ろうと思っていたのだが、道路工事のため撮影できなかった。仕方ないので、写真撮影するため、門の側まで歩いた。一昨年に来たときは、朝日を浴びる門であったが、今回は夕日を背にしている。これもなかなか美しい。予定以上に歩いたので、少々疲れ気味。ホテルまでの道中、みやげ物店を覗き、休み休み歩いた。午後6:25分、ホテルに到着。ロビーに数人のツアーメンバーと添乗員がいた。本日は夕食のない日なので、添乗員にハンバーガーショップのある場所を尋ねた。しかしこの辺りにはない様子。確かに歩いて戻る時も注意していたのだが、一軒もなかった。ホテル近くの地下ショッピング街を教えてもらい、一旦部屋に戻った。

午後7:00、夕食のため外出した。先程教えてもらった、地下ショッピング街に向かう。当初、ハンバーガーかサンドイッチを買って帰るつもりだったのだが、カウンター越しにステーキを焼いているお店を見つけた。非常にいい匂い。ステーキから滴る油。非常に美味そうである。結局ここで食べることにした。店の名前は「Lapayete」。後で「ギャラリー・ラファイエット」に隣接し、地下通路でつながっている「クヴァルティーア206」の一角にあるお店であることがわかった。この時頂いたのは、バーベキューステーキとビール。肉は予想していた通り、非常に歯ごたえがある。日本ではフィレなど、霜降った柔らかいお肉が高級とされているが、ドイツやオランダなどでは、歯ごたえのあるお肉でなければ肉ではないと言われているらしい。今日は良く歩いて疲れている上、非常にお腹がすいていたので、本日の夕食は今回の旅で最高のものに思えた。ちなみに、ステーキは19.50ユーロ、ビールは2.30ユーロである。満腹になり、午後7:50分頃、ホテルの部屋に戻った。明日はいよいよ帰国の日。資料整理だけでなく荷物の整理も行い、そして入浴。午後10:30ころに眠った。

(参考文献)
・「地球の歩き方・ドイツ07~08」(地球の歩き方編集室編)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・ 「旅名人ブックス・北ドイツ(中世ハンザ都市物語)」(谷克二・長坂邦宏著)[日経BP刊]
・ 「POTSDAM SANSSOUCI(日本語版)」[SCHONING GmbH & Co. KG]
・ 「サンスーシ宮殿(日本語版)」[ベルリン-ブランデンブルク プロイセン宮殿及び庭園財団]
・ 「サンスーシー公園の新宮殿(日本語版)」[Stiftung Schlosser und Garten Potsdam-Sanssouci]
・ 「ツェツィリエンホーフ宮殿と3巨頭会談(日本語版)」[Schloss Cecilienhof]
・ 「ツェツィリエンホーフ宮殿及び1945年のポツダム会談(日本語版)」[ベルリン-ブランデンブルク プロイセン宮殿及び庭園財団]

ポツダムの観光案内
http://www.potsdamtourismus.de

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December 28, 2007

ハンブルク歴史博物館

バルト三国と北ドイツの旅(第40回)

「リューネブルク」から50分ほどで、宿泊先である「ハンブルク」の「ラディソン・サス・ホテル」に到着した。私は、ハンザ同盟や当時のコインに関する書籍が欲しかったので、「ハンブルク」で有名な書店を訪ねるため、すぐに外出した。ガイドの話では、「ハンブルク中央駅」の南西側に、専門書なども扱う「Talia」という書店があるとの事。ホテル側にある「ダムトーア駅」からSバーンに乗車、次の「ハンブルク中央駅」で降りた。しかし書店らしき建物などはなく、どちらかと言うと怪しい雰囲気だ。飲み屋、成人向け映画館などが並ぶ。降りる方向を間違えたことに気が付き、駅の反対側に向かった。PhotoPhoto_2

こちらは百貨店や飲食店、ブティックなどが並んでおり、探していた書店もすぐに見つけることが出来た。ここでハンザ同盟について書かれた本と、ユーロ以降のドイツのコインについて書かれた本を入手する。しかし、ハンザ同盟に関する書籍が以外に少ないのには驚いた。現在研究されるテーマではなくなっているのだろうか。本日の夕食はフリーだったので、時間の制約は無い。そこで、街中を歩きながらホテルに戻ることにした。最初に、書店から南へ3~400mの所にある「聖ヤコビ教会」(写真左)の前を通り、「聖ペトリ教会」の横を抜けて「市庁舎」(写真右)の前に出た。

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「市庁舎」は、1897年にネオ・ルネッサンス様式で建てられ、ハンブルク州の議事堂でもある。内部はツアーで見学できるとの事だったので、明日の午前中にツアー参加しようと思っている。「市庁舎前広場」(写真)で暫く休んだ後、昨日乗った遊覧船の乗船口近くにある百貨店、「ALSTERHAUS」に入った。すると、ツアー仲間のご夫婦に出会った。ホテルに戻った後、夕食のレストランを探すためブラブラしているとの事。少し疲れてきたので、私はホテルに戻ることにした。ここからは昨日歩いたのと同じルートで、ホテルに戻った。

夕食は、ホテル側の「ダムトーア駅」構内にある「マクドナルド」で、ハンバーガーとチキンナゲットを購入し、ホテルの部屋で頂いて済ませた。ホテルに戻ったのは午後7:00。テレビを見たり本を読んでいるうちに、いつの間にか時間は過ぎて行った。資料整理や入浴していると、寝る時間はいつもと変わらない午後11:00になってしまった。

翌日、午前6:00頃目覚め、午前6:30~7:30頃まで朝食を頂く。ヨーグルト、コーヒー、クロワッサン、トマト、メロン、ジュース、ココア、牛乳など、簡単に済ませた。午前7:55に外出。本日午前中も単独で行動することを添乗員に伝えていたので、早朝から出かけたのである。ただ、本日午後、ベルリンへ列車で移動する予定なのだが、列車ストがあるかもしれないので、途中で確認の連絡を入れて欲しいと言われていたため、一度ホテルに戻ることにしていた。地下鉄などを頻繁に使用することを考え、6ユーロで1日券を購入。午前8:00、「ダムトーア駅」から「ハンブルク中央駅」に出て、そこからUバーンに乗り換え、「Baumwall駅」で下車。港を眺めながら、ハンブルクの倉庫街に向かった。Photo_4Photo_5Photo_6

ここには美しい赤レンガの倉庫が並ぶ(写真左)。19世紀に建てられたものらしい。次に川を渡って「ニコライ運河」を見る(写真中)。かなり水位が低い。現在も運河として使われているのだろうか。運河の西側にある「タイヒ通り」を抜け、「聖ニコライ教会廃墟」(写真右)の前に出た。大きく立派な建物だが、現在は使われていないのだ。ここで午前9:00近くなったので、一旦ホテルに戻ることにした。Uバーンの「Rodingsmarkt駅」から乗車し、「ハンブルク中央駅」経由でホテルに到着。午前9:15分だ。ストは行われておらず、午後に我々が乗る列車にも変更はないとの事。部屋から荷物を出し、他のメンバーと一緒にバスに乗り込んだ。バスは「市庁舎広場」で我々を降ろしてくれた。ここから再び単独行動である。

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最初に「市庁舎」の中に入った。立派なホールである(写真左)。「市庁舎」内ツアーに参加したかったので受付で尋ねると、本日はイベントのためツアーは行われないとの事。かなり立派な内装だと聞いていただけに、見ることが出来ないのは非常に残念である。仕方ないので、中庭(写真右)の見学だけで「市庁舎」を後にした。次の目的地は「ハンブルク博物館」(写真左)である。Uバーンの「Rathaus駅」から乗車し、「ザンクト・パウリ駅」で下車。そこから徒歩2~3分で、博物館に到着した。午前10:22分入館。入館料は7.5ユーロだ。館内はかなり広く、ハンブルクの歴史について詳しく分かるように展示されている。Photo_9Photo_10

現地の小中学生が、ノートを持って歩き回っていた。テーマを決めて学習し、後に発表するのだ。みんな熱心にメモしている。私が最も興味を持ったのは、ハンザ時代のハンブルクのコインについてである(写真右)。ハンブルクやリューベック、ホルステンなど、ハンザ同盟都市間での交易に使われたコイン類について解説されていた。詳しくは別の機会にお話したいと思う。
ところで、博物館で口近くの売店で書籍を見ていたところ、館内にいた小学生たちが十人近く集まってきた。私のことが日本人とわかったのだろうか。「こんにちは」と声をかけてきた。日本人が珍しかったのか、色々と質問をしてきた。その中で最も驚かされた質問は、「日本人は犬や蛇、猿を食べるのですか」と言うものである。「日本人は食べない」と答えると、不思議そうな顔をしていた。また、韓国では赤犬という食用の犬が売られていると聞いたことがある旨説明してあげると、妙に納得していたのが印象に残る。その他、カンフーと空手を混同していたのも気になった。しかし、我々日本人がヨーロッパ各国の人々の違いが分からないように、彼らにとってもアジアの人々は皆同じ様に見えるのであろう。

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午前11:50分に「ハンブルク博物館」を出た後、すぐ東側にある「ブラームス博物館」を訪れた(写真左)。入り口は閉まっており、本日は休館日かと思っていたら、すぐ側に「呼び鈴を押してください」との張り紙があった。その通りに呼び鈴を押すと、奥から男性が現れ、鍵を開けて中に入れてくれた。入館料は3ユーロ。しばらく1Fで待たされたが、2Fから男女2人連れが降りてくると、2Fに案内してくれた。ジックリ見ることができるように、グループごとに案内してくれるシステムのようだ。1~2階に、作曲した楽譜類や写真、ピアノなど、ブラームスゆかりの品々が展示されている(写真右)。日本語の展示品解説もあったので、非常に有難かった。ご存知の通りブラームスは、バッハやベートーベンと並ぶ三大Bの1人で、ハンブルクの生んだ大作曲家だ。それだけに、音楽好きの日本人が、数多く訪ねてくるのであろう。見学を終え、私が出て行くのと入れ替わりに、数人の若いドイツ人女性達が入ってきた。小さな所だが、人気は高そうである。

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次に向かったのは、「ブラームス博物館」から南に200mほどの所にある「聖ミヒャエル教会」(写真)だ。高さ132mの塔を持つバロック様式の教会。塔にはエレベーターで昇ることが出来る。教会の入り口でチケットを購入、3ユーロである。エレベーター乗り場は左手にあるのだが、右手を見ると教会内で、オルガンコンサートが行われていた。ツアーメンバーの人達は、このコンサートを聴いているはずである。少しだけ覗いてみたくなったので、入り口に立っている係りの女性に事情を話すが、途中からの入場はダメとの事。仕方ないので、エレベーターに乗り、塔の展望台に昇った。12

ここからは「聖ニコライ教会廃墟」や「市庁舎」(写真左)、「テレビ塔」(写真右)など、町全体を見渡すことが出来る。景色を楽しんだ後下に降りると、既にコンサートは終了していた。待ち合わせ場所である昼食会場のレストランまで、一緒に行ければ楽だと考えていたのだが、少し甘かった。ここから電車を使って10分程度の時間でレストランまで行くのは非常に厳しかったが、電車の乗り継ぎが奇跡的に上手く行き、約束時間である午後12:50に間に合った。前日に場所確認をしておいたのも良かった。

昼食のレストランは、「FRANZISKANER RESTAURANT」。メニューは次のとおり。
・ レタス、トマトサラダ
・ ポテトと3種類のソーセージ、ザワークラフト(タマネギの酢漬け)
・ チーズケーキ、生クリーム添え

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午後2:00に昼食を終え、レストランを出る。内アルスター湖の前にある、アールヌーボ様式の建物「ハイネハウス」(写真左)の前を過ぎた辺りでバスに乗車。午後2:10分にバスは出発し、午後2:30頃、「ハンブルク中央駅」(写真右)に到着した。我々の乗る列車は、ドイツ新幹線I.C.E。午後3:05分発である。駅にはポーターが居ないため、荷物は自分たちで列車に乗せなければならない。しかし、添乗員と男性で積み込むという。80歳を超えている方も男性だと言うことで、作業に参加していた。一方、若い女性達は全く知らぬ顔。いくら添乗員の指示だとはいえ、代わってあげても良いように思うのだが。普段は力強い発言をする女性達だが、このような時は弱くなるのだ。荷物を無事に積み、座席に向かった。私の席は28号車の72番で、一人席である。席に座りホッと一息ついた頃、列車は走り出した。

(参考文献)
・「地球の歩き方・ドイツ07~08」(地球の歩き方編集室編)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・ 「旅名人ブックス・北ドイツ(中世ハンザ都市物語)」(谷克二・長坂邦宏著)[日経BP刊]
・ 「ハンザ同盟―中世の都市と商人たちー」(高橋理著)[教育社歴史新書・教育社刊]
・ 「HAMBURG city guide」[Kraichgau Verlag刊]
・ 「Kirchen,kanonen und kommerz」[Museum fur Hamburgische geschichte刊]

ハンブルク市
http://www.hamburg-tourism.de
聖ミヒャエル教会
http://www.st-michaelis.de
ハンブルク歴史博物館
http://www.hamburgmuseum.de
ハンブルク市立美術館
http://www.hamburger-kunsthalle.de
ブラームス博物館
http://www.brahms-hamburg.de

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December 27, 2007

塩の町・リューネブルク

バルト三国と北ドイツの旅(第39回)

次に向かう「リューネブルク」は、「リューベック」の南、75~80kmの所にある。「リューネブルク」は、ハンザの時代に「塩」で裕福になった町である。海から離れているこの町の、どこで「塩」が採れるのか。それは、「塩」を含んだ地下水からである。塩水が地上に湧き出ているのを見つけ、石炭を掘るのと同じ要領で掘り進み、塩水を汲み上げたという。塩水の発見については、伝説がある。千年以上前のこと、猟師が猪の毛に白いものが付いているのに気付いた。よく見ると、それは塩の結晶であった。猟師は猪の後を着いて行き、彼らの水浴び場が塩水であることを発見したというもの。この水に、塩分は27%も含まれていたという。最盛期、「リューネブルク」には製塩所が56ヶ所あり、直径1mの鍋が216個もあったとの事。この鍋は亜鉛で出来ていたため、製塩所で働く人々は早死にしたようだ。そのため、鍋を鉄で作ることも試みたが、すぐに使えなくなったので、また亜鉛のものが用いられた。ところで、何故「塩」が必用であったかと言うと、当時ニシンなどの魚を長期に保存するためである。高価なものとして扱われ、「白い黄金」とも呼ばれたようだ。1980年頃まで製塩は行われていたが、現在はすべて閉じられ、そのうちの一つが「塩の博物館」になっている。

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約1時間半バスで走り、午後2:10分頃「リューネブルク」に到着。「聖ヨハニス教会」の横でバスを降り、4~500m離れた「市庁舎」に向かって歩き始めた。町を歩くと、建物の間に作り物の魚が吊るされているのが見える(写真)。昨日「リューネブルク」で、ハンザ都市であったことを祝う祭りが開かれていたからだとの事。午後2:30分、「市庁舎」のある「マルクト広場」に着いた。Photo_2Photo_3Photo_4

「市庁舎」建物の最古の部分は1230年に建てられ、1720年にバロック風に作り変えられている。また鐘楼塔には、ドイツ最大のマイセン陶器の鐘がある(写真左)。ここから我々は、イルミナウ川の方に進んだ。すると川沿いに、「古いクレーン」と「カウフハウス」が見えた(写真中)。「古いクレーン」は木製で、1346年頃には既にあったと言う。その隣に建つ黄色い「カウフハウス」は、その昔市場が開かれていた。バルト海のニシンも売買の対象となったことから、「ニシンの家」とも呼ばれていた。次は南に進み、「プロムゼ・ハウス」だ。1466年に建てられたと言われている、「リューネブルク」で記録された最古の市民の家。豪華な入り口には注目である(写真右)。

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ここから私はツアーを離れ、自由行動にさせてもらった。最初に先程の「古いクレーン」から北西の位置にある「聖ニコライ教会」を訪れた。レンガゴシック様式の建物で、15世紀頃には、航海者たちが通う教会であった(写真左 : 外観・写真右 : 内部)。尖塔に輝く輪は、「船乗りの王冠」と呼ばれていたる。その後、「市庁舎」に戻った。丁度、午後3:00の鐘が鳴り始めた。「市庁舎」内に「インフォメーションセンター」があったので、「リューネブルク」の案内書を購入した。そこで「市庁舎」内の見学方法を尋ねると、午後3:30から約1時間のツアーがあるとの事。しかし出発時間に間に合わないため、断念した。続いて「塩」を含んだ水を汲み上げたため、地盤沈下した地域を訪ねた。Photo_6
「聖ニコライ教会」から、西へ3~400m辺りである。約1平方キロメートルの範囲で地盤沈下が激しく、この地域に建つ家々の殆んどが傾斜している。よく見ると、窓枠や壁が歪んでいるのが分かる(写真)。これらを見たところで、午後3:05分。集合時間は午後3:50なので、残り時間は微妙となった。「塩の博物館」まで行くか否か、少々迷っていたが、その前にとりあえず、「アムザンデ広場」に行くことにした。広場に向かって「バッカー通り」を歩いていると、右手に「ラーツアポテーク」という薬局があったので立ち寄った。Photo_72_2

この建物は、「リューネブルク」で最も壮麗な造りであると言われている(写真左)。店の中に入り、許可をもらって、店内の撮影をさせてもらった。薬瓶が綺麗に並んでいる(写真右)。日本では見かけない雰囲気である。お店を出て、再び広場に向かった。広場の西側には、「ブラックハウス」(写真左)と呼ばれる建物がある。非常に美しい装飾の施された、黒レンガ造りの建物。現在は、政府通産省「リューネブルク」支所として使用されている。Photo_8Photo_9

東側には、「聖ヨハニス教会」がある(写真右)。先程、バスを降りた近くだ。1297年に「リューネブルク」の住民が、初めて洗礼を受けたと言う教会で、ニーダザクセン州では最古の教会の一つ。108.71mの斜塔は、「リューネブルク」のシンボルになっている。

午後3:25分、残り時間は少ないが、「塩の博物館」に行くことにした。博物館を見学する時間はないだろう。しかし、かつて「塩」を精製していた場所を確認するだけでも良いと思ったのである。徒歩で約15分。ようやく「博物館」に到着した。スーパーマーケットの隣に入り口がある。内部を見学する時間はなかったので、入り口受付で、「博物館」の案内書と「塩」に関する資料を入手し、急いで集合場所である「市庁舎」に戻ることにした。あまり時間が無かったので、道を間違えると拙いと思い、道行く人に「市庁舎」の方向を確認しながら歩いた。3人目に訊ねたおばさんは、非常に親切な方で、一緒について行ってくれるとの事。歩きながら、観光案内もしてくれた。Photo_10
「聖ミヒャエル教会」(写真)も見える。しかし、私には時間がなかったので、急ぐ旨伝え、おばさんと別れた。ドイツ人の年配者では珍しく非常に上手な英語を話し、親切に観光案内もしてくれていたので、少し残念でもあり、またおばさんに悪かったなとも思った。午後3:50分、予定時間に集合場所に到着。他のツアーメンバーも、既に集まっていた。午後3:55分、「ハンブルク」に戻るため、バスは出発した。

ところで、「リューネブルク」の町を歩いていて感じたことは、古いレンガの建物がたくさん残っていると言うことだ。これは、製塩業が衰えた後、この地に見るべき産業が無かったことから、第二次世界大戦時に爆撃・破壊されなかったためとの事。何が幸いするか分からないものである。

(参考文献)
・「地球の歩き方・ドイツ07~08」(地球の歩き方編集室編)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・ 「旅名人ブックス・北ドイツ(中世ハンザ都市物語)」(谷克二・長坂邦宏著)[日経BP刊]
・ 「ハンザ同盟―中世の都市と商人たちー」(高橋理著)[教育社歴史新書・教育社刊]
・ 「LUNEBURG」(SCHONING & CO+GEBRUDER SCHMIDT)
・ 「A short guidance through the German Salt Museum」(German Salt Museum)

リューネブルク市
http://www.lueneburg.de
ドイツ塩博物館
http://www.salzmuseum.de
聖ミヒャエル教会
http://www.sankt-michaelis.de

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December 25, 2007

ハンザの女王・リューベック(PART2)

バルト三国と北ドイツの旅(第38回)

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「市庁舎」内のツアーは、午前11:03にスタートした。まず、正面階段に向かって右手にある、「オーディエンスルーム」(写真)に入る。1755年に完成したルネッサンス様式。後にロココ様式の装飾が加えられた。室内には、ステファノ・トレリィによって描かれた10枚の絵が飾られている。ガイドの解説はドイツ語だけなのだが、時々私のほうに向かい、英語でコメントしてくれたのは有難かった。事前に、ドイツ語は全く聴き取れないと言っておいたからだろうか。Photo_2Photo_3Photo_4Photo_5

「オーディエンスルーム」を出て、次は正面階段を上り2階に向かった(写真左)。階段を見上げると、2階に昇る途中の踊り場の後ろに、「大聖堂建設」(写真中左)や「ザクセン公ハインリッヒ二世による議員任命」(写真中右)、「帝国自由都市特権状発給」(写真右)の様子を描いた壁画を見ることが出来る。また柱や壁は、これまでに見たことがないような黒い光りを持つ、深緑色のレンガで覆われていた。これは「牛の血と塩を溶かした液体にレンガを入れて数回焼き固め」て作られたという(「旅名人ブックス・北ドイツ(中世ハンザ都市物語)」より)。

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2Fには、ハンザ諸都市の民間代表が集まるのに使用した「会議場」がある(写真左)。富を蓄えた地位の高いハンザ商人たちが、議員となってこの場に集まり、都市の運営について話し合っていたのだ。「会議場」を出て、2Fの廊下を進む。廊下の壁には、有力ハンザ商人である議員の肖像画が掛けられていた(写真中)。さらに進んで、廊下の突き当たりに来ると、パネルが置かれていた。パネルの表には、城壁のあった頃のリューベックが描かれている。そしてそのパネルを開くと、船の模型が並ぶ棒グラフが現れた。1180年から1939年までの、リューベックが保有した船の数の推移を表している。12~15世紀ころの船は、ハンザの通商で活躍した「コッゲ」と呼ばれる帆船である。さらにグラフの両脇には、リューベック港での荷の積み下ろしの様子を描く絵が続く(写真右)。

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午前11:45分、市庁舎内ツアーは終了した。受付で「市庁舎」のガイドブックを購入し、先程訪れた「聖マリア教会」に再度立ち寄って聖堂内を見た後、レストラン会場に急いで向かった。昼食のレストランは「シッファーゲゼルシャフト」。1535年に建てられた、かつての「船員組合の家」(写真左)の建物をそのまま使用している。入り口に設けられた門柱には、ゴットランド島で切り出された石灰岩が使用されている(写真中)。レストランに入る前に、すぐ近くに「聖霊養老院」(写真右)があるのを思い出したので、写真を撮りに行った。ここは、13世紀末にリューベックの有力商人が設立した、貧者や病人の収容施設。第二次世界大戦中、「市庁舎」や「聖マリア教会」は爆撃、破壊されたが、この「聖霊養老院」は、幸い戦災を免れたと言う。

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写真撮影後、レストランに入った。内部は、天井から帆船の模型がぶら下げられ(写真)、壁にはたくさんの船具が飾られている。ツアー仲間を見つけると、何故か皆が拍手で迎えてくれた。デザートだけ食べるつもりで店員にオーダーしたのだが、すべてを運んできてくれた。他のメンバーはほとんど食べ終わっていたので、大急ぎで食べることにした。メニューは次のとおり。
・ サーモンクリームスープ
・ ラムのロースト、さやえんどう・パスタ添え
・ アイスクリーム、ベリーソースかけ
・ 赤ワイン

出発時間である午後12:30になったので、まだ2割程残っていたが食事を終了した。午後の観光目的地である「リューネブルク」に向かうため、バスに乗り込んだ。普段飲まない私が、すきっ腹にワインを飲んだので、少し眠気を感じ始めていた。

(参考文献)
・「地球の歩き方・ドイツ07~08」(地球の歩き方編集室編)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・ 「旅名人ブックス・北ドイツ(中世ハンザ都市物語)」(谷克二・長坂邦宏著)[日経BP刊]
・ 「ハンザ同盟―中世の都市と商人たちー」(高橋理著)[教育社歴史新書・教育社刊]
・ 「Hansestadt LUBECK(英・仏・ノルゥエー3カ国版)」[SCHONING & CO刊]
・ 「Rathaus Lubeck(英語版)」[Deutscher Kunstverlag GmbH 刊]

リューベック市
http://www.luebeck.de/tourismus_freizeit
シッファーゲゼルシャフト(昼食)
http://www.schiffergesellschaft.de

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December 20, 2007

ハンザの女王・リューベック

バルト三国と北ドイツの旅(第37回)

本日は、待望の「リューベック」と「リューネブルク」を訪れる予定である。特に「リューベック」は「ハンザの女王」と呼ばれ、ハンザの盟主となった町だけに、ハンザ同盟に関心を持つ私にとっては、最も興味深いところなのだ。

午前7:15に目覚め、午前7:25~8:15までホテルのレストランで朝食を取る。午前9:00、「リューベック」に向けてバスで出発した。「リューベック」は「ハンブルク」から北東へ約50kmのところにある。約1時間後の午前10:05、「リューベック」の「ホルステン門」(写真)の前でバスを降りた。私は「ホルステン門」の中にある「市歴史博物館」と「市庁舎」のツアーに参加したかったので、単独行動することにした。昼食の時間には間に合いそうになかったので、添乗員にデザートだけ残しておくようにお願いして分かれた。

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「ホルステン門」(写真)は、かつて城壁に囲まれていた「旧市街」の城門で、2つの塔からなる。ゴシック様式で、1478年に完成したのだが、当時から西側に傾斜している。要塞の門として外敵の攻撃に耐えられるように、西側が3.5mもの厚さで造られたため、その重量と地盤の弱さが重なり、傾いたと言われている。現在内部は、「市歴史博物館」として使用されている。入り口は「旧市街」に向かって右手の塔にある。早速中に入った。入館料は5ユーロ。塔の2F~4Fが展示場だ。塔の階段を上り、4Fから見ることにした。このフロアーには、拷問道具が並んでいた。手錠や手足を縛りつける椅子、拷問棒などである。Photo_2Photo_3

3Fは左右の塔とそれを繋ぐフロアーに分け、それぞれテーマを設けて展示している。「The Market Square Nucleus of town life」の部屋には、「リューベック旧市街」の模型が(写真左)、また「Shipping Travel to the market of the world」では「帆船模型」(写真右)が展示されていた。2Fでは、「Protecting the town」、「The Holstein Gate」、「Long Distance Trade」の各テーマに基づく展示がなされていた。ご存知の通り、ハンザ同盟というのは軍事同盟ではなく、商取引を通じ自然発生的に出来た緩やかな繋がりを持つ都市連合に過ぎない。そのため有事には、自分たちの都市を守るため、商人自らが武装して戦ったのである。都市の住民は、都市防衛の義務を負い、そのための武器は自前で準備したと言う。「Protecting the town」では、そのように揃えられた武器類が展示されている。Photo_4Photo_5

「The Holstein Gate」のコーナーには、「ホルステン門」の構造やどのように使用されていたかが解説されており、門のミニチュア模型も見ることが出来る(写真左)。「Long Distance Trade」の展示で面白いと思ったのは、「リューベック」は海に近いため海上貿易だけに重点が置かれていたように考えてしまうのだが、実は「ハンブルク」との陸路の方も大変重要だったという点だ。西方産毛織物は、「リューベック」貿易中最大の輸入品であるが、これらは「ハンブルク」から陸路で運ばれていたのである(写真右)。「リューベック」と「ハンブルク」が早くから親密だったのは、この陸路を守るためであったとも言われている。午前11:00から「市庁舎」のツアーが始まるため、もう少し見たいところもあったのだが、午前10:35頃「市歴史博物館」を出た。

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途中、東側から「ホルステン門」(写真左)と「塩の倉庫」(写真右)の写真を撮り、「市庁舎」に急いだ。ちなみに「塩の倉庫」は、本日午後に訪れる予定の「塩の町リューネブリク」などから運ばれた塩が保管されていた建物で、現在はスーパーマーケットになっている。「市庁舎」(写真左)は思っていたより近くにあり、10分程で到着した。ドイツ語のガイドだが、「市庁舎」の内部を45分ほどで案内してくれるのだ。チケットは1.5ユーロ。ツアー開始まで少し時間があったので、その間に通りを挟んで北側にある「聖マリア教会」を訪れた。1350年に完成したゴシック様式の建物。レンガ造りの教会ではドイツ国内最大で、尖塔は125mもの高さがある(写真中)。Photo_8Photo_9Photo_10

この教会の見所は2点。一つは8,500本以上のパイプを持つ、大規模なオルガン。もう一つは、飴のように溶けた2つの鐘だ(写真右)。後者については、「第二次世界大戦で英軍の爆撃を受けた聖マリア教会は炎上し、尖塔から落下した鐘が床に食い込んだままの状態で残っている。落下する直前に鐘は熱流で自然に鳴り出し、自らを弔う音が遠くまで響き渡った」(「旅名人ブックス・北ドイツ(中世ハンザ都市物語)」より)という。これらを大急ぎで見た後、再び「市庁舎」に戻ると、受付の前には人で混雑していた。ツアー開始時刻にあわせて、多くの人が来たのである。

(参考文献)
・「地球の歩き方・ドイツ07~08」(地球の歩き方編集室編)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・ 「旅名人ブックス・北ドイツ(中世ハンザ都市物語)」(谷克二・長坂邦宏著)[日経BP刊]
・ 「ハンザ同盟―中世の都市と商人たちー」(高橋理著)[教育社歴史新書・教育社刊]
・ 「Hansestadt LUBECK(英・仏・フィンランド3カ国版)」[SCHONING & CO刊]
・ 「Rathaus Lubeck(英語版)」[Deutscher Kunstverlag GmbH 刊]

リューベック市
http://www.luebeck.de/tourismus_freizeit
ホルステン門(市歴史博物館)
http://www.ludbeck.de/kultur_bildung/museen

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December 19, 2007

ハンブルク・アルスター湖遊覧

バルト三国と北ドイツの旅(第36回)

午後1:45にブレーメンの町を出発し、気が付いたときには既に午後2:50を過ぎていた。昼食後1時間近く、グッスリと眠っていたようだ。バスは高速道路を走り続けている。ハンブルクは、ブレーメンから北東約100kmの所に位置するので、もうすぐ到着しても良いのではないかと思い、ハンブルク到着後の行動計画を再検討した。午後3:18、ドイツで3番目に長いエルベ川(1,165km)を渡った。ハンブルクは、人口約170万人。36,000社ほどの企業があり、日本からも約150社が進出している。町の中心にある「アルスター湖」の湖畔には、日本から贈られた桜が植えられており、2年に一度日本への親善大使として「桜の女王」が選ばれるらしい。また「アルスター湖」は、ハンブルクの真珠と呼ばれている。

午後3:30、本日宿泊する「ラディソンSASホテル・ハンブルク」に到着。駅側にある高層ホテルだ。どこに出かけるのにも便利な場所である。夕食会場へは午後6:30にホテルから出発するとの事。十分時間があったので、部屋に荷物を置き、急いで外出した。ホテル前にある公園の隅に、地下鉄「Stephansplatz」駅がある。1.65ユーロでチケットを購入し、地下鉄に乗車、次の「Jungfernstieg」駅で下車した。ガイドブックによると、ここから「アルスター湖」遊覧船に乗れる。数隻の遊覧船が止まっていたので、乗り場はすぐに分かった。現在午後4:07分。午後4:00に船が出たばかりだ。次の船は午後4:30発。遊覧時間は約1時で、料金は10ユーロとの事。夕食の時間には十分間に合うので、チケットを購入し、船に乗って出発を待つことにした(写真)。Photo
船長に、どちらサイドの景色が良いか尋ねると、右側との回答。右の窓側に座り、テーブルに敷き詰められていた湖の地図を眺めて時を過ごした。出発10分前ぐらいになると、次々に人が乗り込んでくる。いつの間にかほぼ満席だ。ドイツ人の男性2名と女性1名のグループが合席を申し出てきたので、快く了承。定刻の午後4:30になると、遊覧船は走り出した。

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「アルスター湖」は、「内アルスター湖」と「外アルスター湖」に別れており、乗り場は「内アルスター湖」にある。出発した遊覧船は、「ロンバルツ橋」と「ケネディ橋」を潜り、「外アルスター湖」に出た。湖の東側を通って北に向かう。ホテルや湖岸のレストラン、ヨットハーバー、聖マーティン教会などが見える(写真左)。30分ほど進んだ後、方向転換。西岸に沿って南に走り出す。アルスター公園や人で賑わう湖岸のカフェ、さらに湖から西へ1.5kmほど離れた所に建つ「テレビ塔」(写真中)も見えた。そして2つの橋を潜り、再び「内アルスター湖」に戻ってきた。10mほどの高さに吹き上げる噴水が綺麗だ(写真右)。本日は日曜日なので噴水見ることが出来たが、平日は省エネのため止まっているとの事。午後5:20分、遊覧船は「アルスター湖」を一周し、乗り場に戻ってきた。

遊覧船乗り場から宿泊しているホテルまで、1kmほどしか離れていなかったので、ノンビリ歩いて戻ることにした。帰り道、明後日に昼食で利用するレストランがあったので、場所を確認しておいた。ハンブルクの観光も、ツアーを離れて単独行動するつもりだったので、場所を確認しておけば安心だと考えたからである。「内アルスター湖」を右に見ながら北に進み、「クライネ・ヴァル公園」を横切ると、ホテルに到着だ。午後6:00、部屋に戻り、午後6:30、夕食をとるレストランに行くため、ロビーに向かった。バスは、「見本市会場」や先程湖から見えた「テレビ塔」の側を通り、西へ進んだ。「新エルベトンネル」を抜けると、周囲は工業団地のような雰囲気。ここから5分程でレストランに到着した。

レストランの名前は「Finkenwerder Elbblick」。「エルベ川」の側で、ライトを灯した船の行き交うのが見える。なかなか良い雰囲気のレストランだ。メニューは次のとおり。
・ 魚のクリームスープ(鮭・白身魚・海老など)
・ 白身魚・伊勢海老ソースかけ、グリーンアスパラ、ワイルドライス
・ カットフルーツのベビーパイナップル詰め、ウォールナッツアイスクリーム

約1時間30分、午後8:30頃に食事を終え、ホテルには午後9:20頃に戻った。その後はいつも通り、資料整理と入浴、そしてベッドに入ってガイドブックを読んでいたのだが、いつの間にか寝てしまった。

ラディソンSASホテル
http://www.hamburg.radissonsas.com/
ハンブルク市
http://www.hamburg-tourism.de
アルスター湖遊覧船
http://www.alstertouristik.de
レストラン「Finkenwerder Elbblick」
http://www.finkenwerder-elbblick.de


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December 13, 2007

ブレーメン歴史館とブレーマー・ラーツケラー

バルト三国と北ドイツの旅(第35回)

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「海外博物館」を出て、来た道を戻った。堀にかかる橋を渡り、ゼーゲ通りに差し掛かるところで、面白い銅像を見つけた。豚飼いの銅像だ(写真左)。子供たちが豚の銅像に跨って遊んでいる。今回はゼーゲ通りを進まずに、左折して「市庁舎」の北東側にある広場に出た。広場の中央には、噴水がある(写真右)。さらに進んで「マルクト広場」に到着。広場の中央に立つと、北に「市庁舎」、その前に「ローラント像」、南に「商工会議所」、東に「大聖堂」を見ることが出来る。Photo_3

「市庁舎」(写真)は、1405年にゴシック様式で建てられ、その後改修されたため、ルネッサンス様式が加わっているのだが、「マルクト広場」から見る姿は、ほぼルネッサンス様式だ。ハンザの総会はこの建物の2Fにある大会議室で開催された。「市庁舎」と呼ばれているが、現在は展示会や行事の時に使用されている。また地下には、「ブレーマー・ラーツケラー」というワインレストランが入っている。Photo_4「ローラント像」(写真)は、600年もの間この場所に立ち続けており、「自由とブレーメン独立」のシンボルとされている。第二次世界大戦では、ブレーメンの6割以上が破壊されたのだが、「ローラント像」の立つこの「マルクト広場」は一切爆撃されず、「市庁舎」や「大聖堂」は無傷であった。これも「ローランド像」のお力のようだ。ところで、この像の両膝の間隔が1エル(ブレーメンの長さの単位で、約45cm)あることから、マーケットで布地を購入した主婦たちは、布地の長さが正しいか否かをこの膝の間隔を利用して確認したと言う。Photo_6「商工会議所」(写真)は、16世紀に建てられた。建物の頂には海の神であるネプチューン像が立てられ、その下にハンザ船が描かれている。かつて商人のギルドハウスとして用いられた建物なので、海上取引の安全を願う気持ちが表されているのであろう。

食事の時間まで残り1時間ほどになったので、「マルクト広場」を離れ、「ブレーメン歴史館」に行く事にした。この「歴史館」は、朝方訪れた「シュノーア地区」にある。今度はお店がオープンしており、人通りも多く、場所によっては狭い通りを横切れないほどの人だかりが出来ているところもあった。「歴史館」を探して歩いていると、ツアーの人達と出会った。添乗員に「歴史館」の場所まで案内してもらった。すぐ近くにあったのだが、路地が複雑に入り組んで分かりにくかったので、有難かった。Photo_7
「歴史館」に入ろうとすると、入り口に立っていた赤い服の男性が何か語りかけてきた(写真)。ドイツ語訛りのカタコトの英語で、「英語の案内人がいないから、今はダメだ」と言っていた。何のことか分からなかったので、「案内人なしでも大丈夫」と言い、チケット売り場に向かった。入館料は4.5ユーロ。中に入ると、先程の男性が再び現れ、「今はダメ」と言っている。すると奥から別の男性が現れ、赤い服の男性と話し始めた。そして、後から現れた白い服の男性が、英語で案内してくれることになった(写真)。Photo_8
ガイドなしで館内を見ることは出来ないシステムになっており、英語の話せるガイドが他のお客を案内していたため、私の案内が出来ないということだったのである。しかし後から来た男性が、ガイドしてくれたおかげで、無事内部を見ることが出来た。Photo_9
最も印象に残ったのは「ブレーメンの音楽隊」の人形。4匹の動物たちが、泥棒の隠れ家を窓から覗くシーンから始まり、泥棒たちが化け物の出現に驚いて出て行くところまでを、人形が自動で演じてくれるのだ(写真)。

昼食の時間が迫ってきたので、午前11:58に「ブレーメン歴史館」を出で、再び「マルクと広場」に向かった。約束の時間になるが、ツアーの人は誰もいない。暫く待っていると、添乗員がやって来た。皆さん買い物に時間を取られていたようだ。Photo_10Photo_11

午後12:10、「市庁舎」の地下にあるレストラン、「ブレーマー・ラーツケラー」に入った。入り口の上には、ブレーメンの紋章である「鍵」がデザインされている(写真左)。レストランのテーブルの横には、人の背丈よりも一回りほど大きなワイン樽が置かれていた(写真右)。食事が出てくるまでの間、このレストランにあるドイツ最古のワインを見たいと支配人に依頼するが、手元にワイン蔵の鍵がなく、事前に予約がないと見せられないとの事。次にレストランを出て、「市庁舎」へ行き、事務局で2Fの大会議室を見せてくれるように依頼するが、現在行事と重なっており、こちらもダメ。仕方ないので、大人しくテーブルに着いた。
昼食のメニューは次のとおり。
・ スープ(肉団子入りコンソメ)
・ サラダ(レタス、ニンジンなど)
・ グヤージュ(牛肉のパプリカ煮)とポテト
・ デザート(アイスクリーム)

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午後1:30に昼食を終え、ベトヒャー通りを歩いてバスの待つ場所に向かった。ベトヒャー通りの入り口には、「Bringer of Light」と名づけられた、金色に輝くブロンズのレリーフが飾られている(写真)。この通りは僅か100m程しかないが、ここにはブティックやガラス細工の店、美術館、劇場、カフェなど、色々な建物が並んでいる。午後1:45頃、本日の宿泊先であるハンブルクに向かい、バスは走り出した。

(参考文献)
・地球の歩き方・ドイツ07~08」(「地球の歩き方」編集室編)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「旅名人ブックス・北ドイツ(中世ハンザ都市物語)」(谷克二・長坂邦宏著)[日経BP刊]
・「BREMEN in your pocket」(Bremen tourist center)

ブレーメンの観光案内所
http://www.bremen-tourism.de
ブレーメン市
http://www.bremen.de
市庁舎(大会議場)
http://www.rathaus-bremen.de
「聖ペトリ大聖堂・聖ヨハン教会・聖マルティン教会」
http://www.kirche-bremen.de
ブレーメン歴史館
http://www.bremer-geschichtenhaus.de
ブレーマー・ラーツケラー
http://www.ratskeller.de

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December 12, 2007

自由ハンザ都市・ブレーメン

バルト三国と北ドイツの旅(第34回)

本日はブレーメンを訪ねた後、ハンブルクに向かう予定だ。午前6:20に目覚め、午前6:30から7:15頃まで朝食を頂く。今朝は軽めに、フルーツとクロワッサン、目玉焼き、コーヒー、ミックスジュースなどで済ませた。午前8:00、ロビーに集合し、バスでブレーメンに向け出発した。

ブレーメンはツェレから北西に150kmぐらいのところに位置し、北海に流れ込む「ヴェーザー川」に沿って街が広がっている。地図をみると、ブレーメン州はニーダーザクセン州に浮かぶ小島のようだ。これは「自由ハンザ都市」として、また「帝国自由都市」として、独立した地位を保ってきた歴史に由来する。11世紀にアーダルベルト大司教が、ブレーメンにある2つの市場に対して免税特権を与えたことから、商業活動が活発化した。各地から人々が集まることによって通商路が出来、陸路だけでなく、ヴェーザー川を利用した水路も発達。ロンドンやブルージュ、ベルゲンなどとの交易も盛んに行われたと言う。ブレーメンは、ハンザ同盟の中でも中心的都市で、ハンザ集会も数度開かれている。ちなみに、昨日と一昨日に訪れたツェレやヒルデスハイムもハンザ都市である。

午前9:30頃、ブレーメンの町に到着。ガイドは日本人の「ノブコ・ショーリング」さん。ヒルトンホテルでトイレを借り、この後市内観光に出かけた。私は自由に行動したかったので、ここからツアーから離脱した。Photo
最初に「ウィルヘルム・カイザー橋」に向かった。この橋の中央から、かつてハンザ商人が使っていた船着場のあった場所が見えるのだ。現在は遊覧船の乗場になっている。その後ろに建つのは、「聖マルティヌス教会」だ(写真)。朝日を受けた青空とそれを映すヴェーザー川が、何とも美しい。次に向かったのが、橋の北東、川沿いにある「シュノーア地区」だ。この辺りはブレーメンの旧市街で、15~16世紀に建てられた木組みの家と石畳の路地を見ることが出来る。お店のオープンは午前10:00頃なので、それよりも早い時間に行くと、ヒッソリとした中世の街並みを独り占めできる。一回りした後、町の中心部である「市庁舎」の方に向かった。

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途中、「聖ペトロ大聖堂」(写真左)があったので立ち寄ったのだが、午前10:00からミサが始まったので、外から覗くだけで済ませた。この大聖堂の北西側に、「市庁舎」がある。この前には、「ブレーメンの音楽隊の像」が立っている(写真右)。ロバの背中に犬が乗り、その上に猫が、そしてその背中にはニワトリが乗っている。ちなみに、このロバの足に触ると、幸せになれると言われている。ところで、ご存知の方も多いとは思うが、グリム童話「ブレーメンの音楽隊」の話を、以下簡単にご紹介する。

昔あるところに、収穫した麦を水車小屋に運ぶ仕事をしていたロバがいた。しかし最近は、年を取って荷物が運べなくなったので、餌ももらえなくなった。物は運べなくなったが、太鼓なら叩ける。そこでブレーメンの音楽隊に雇ってもらうため、ロバは飼い主の下を飛び出した。途中でロバは、老いぼれた犬に出会う。狩猟犬だったが、最近は獲物も追えなくなったので、近々殺されると言う。獲物は追えなくても笛は吹けるだろうと、ロバから音楽隊に入ることを薦められた犬は、飼い主の下を飛び出し、ロバに付いて行った。今度はネズミを追いかけることが出来なくなった猫に出会う。明日、川の中に捨てられると言う。ロバの誘いで、猫も音楽隊に参加することに。3匹で旅を続けていると、明日開かれる祭りで食べられてしまうという雄鶏と出会った。雄鶏も音楽隊に参加するため、逃げ出してきた。夜になったので森で一泊することにしたが、明かりが見えたのでそちらの方に行ってみると、一軒の家があった。泥棒の隠れ家である。窓から中を覗くと、美味しそうなご馳走がテーブルに並んでいた。そこでロバの背中に犬が、その背中に猫、その上に雄鶏が乗り、4匹が一斉に鳴き始めた。すると泥棒たちはお化けが現れたと思い、全員が逃げ出してしまった。4匹は、残されたご馳走をタップリ頂く。夜中になると、まだお化けはいるのか確認するため、泥棒達は隠れ家に戻ってきた。暗闇の中、泥棒の1人が誤って指を猫の目に入れてしまった。すると猫に顔を引っかかれ、犬に足を噛み付かれ、ロバの大きな影が目に入り、雄鶏が「ドロボ~」と叫んだため、泥棒たちは驚き、隠れ家には二度と戻ってこなかった。以上のようなストーリーである。このお話が、先程の銅像で表されているのだ。

銅像を見た後、向かいにある「インフォーメーションセンター」を訪れ、この辺りの地図をもらい、ガイドブックを購入した。あわせて「ブレーメンの歴史について知りたいので、参考になる博物館などを紹介して欲しい」とセンターの方に訊ねると、バスで20分ほどかかる「民族博物館」を教えてくれた。しかしここまで行くと、昼食の時間までに戻れないかもしれないと思い、別のところがないか聞いてみると、「ブレーメン中央駅」の側にある「海外博物館」を紹介してくれた。歩いて行くことが出来る距離だったので、早速そちらに向かった。Photo_4ゼーゲ通りを北に一直線、約1.2kmのところにある。ゼーゲ通りの途中、堀にかかる橋の手前左手に、風車(写真)が見えた。風車の下にはアートギャラリーが建っている。そこから600mほど北に進むと、中央駅(写真左)が見えた。「海外博物館」は中央駅の北西にある。建物は外装工事のため、ネットで覆われていた。狭い入り口を入ると、中は大ホール。50mほど歩くと、受付がある。入館料は6.5ユーロだ。Photo_5Photo_6

1Fの展示場ではアジアやオセアニアの文化、生活などが紹介されており、ミニ日本庭園もある。2Fにはアメリカやエジプトなどアフリカの美術品が展示されていた。3Fではブレーメンの動植物など、自然に関するものが展示されており、中でも古代恐竜の骨は印象に残った(写真右)。しかしこの博物館では、私が最も知りたかったハンザ同盟やブレーメンの歴史については、ほとんど知ることができなかった。午前11:00に「海外博物館」を出て、再び「市庁舎」に向かった。

(参考文献)
・地球の歩き方・ドイツ07~08」(「地球の歩き方」編集室編)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「旅名人ブックス・北ドイツ(中世ハンザ都市物語)」(谷克二・長坂邦宏著)[日経BP刊]
・「BREMEN in your pocket」(Bremen tourist center)

ブレーメンの観光案内所
http://www.bremen-tourism.de
ブレーメン市
http://www.bremen.de
市庁舎(大会議場)
http://www.rathaus-bremen.de
「聖ペトリ大聖堂・聖ヨハン教会・聖マルティン教会」
http://www.kirche-bremen.de
海外博物館
http://uebersee-museum.de

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December 11, 2007

美しい木組みの家・ホッペナーハウス

バルト三国と北ドイツの旅(第33回)

PhotoPhoto_2Photo_3

「ボーマン博物館」の次は、すぐ東側にある「市教会」を訪ねた。この教会は、1308年に聖母マリアの教会として建てられ、1525年からは、ルター派・プロテスタント教会となった。塔の高さは74.5mあり、234段の階段で上まで昇ることが出来る。内装はバロック様式だ(写真 : 左・教会外観、中・教会内部、右・教会祭壇)。「教会」を出た東隣には「市庁舎」がある。1Fに「インフォメーションセンター」があるのだが、土曜日は午後4:00までで、既に閉まっていた。Photo_4
ここから右折してポスト通りに入ると、最初の四つ角の右手に「ホッペナーハウス」(写真右端)がある。16世紀に建てられた、この町で最も古くかつ最も美しい家と言われている。この通りをはじめ、この周辺に続く木組みの家並も美しい。

「ホッペナーハウス」のほぼ向かいに、ゴスラーで訪ねたのと同じ「KARSTAD」という百貨店があったので、こちらにも立ち寄ってみた。店舗構造、売り場配置などはゴスラー店とほぼ同じで、地下の書籍売り場の一角ではコインや紙幣が販売されていた。ノトゲルドの本以外は、概ねゴスラー店で売られていたものと同じである。

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木組みの家が美しい街並みを見た後、再び「ツェレ城」に向かった。先程見ていない公園を見学するためである。最初に「ツェレ城」の裏側に進む。ベンチがあったので、休息を兼ねて暫く座っていた。木漏れ日を浴びながら、ノンビリする。町で会った学生らしき2人連れの男性と再び出会ったので、軽く挨拶を交わす。可愛い犬を連れて散歩するおばさんに声をかけると、ニコニコと返事を返してくれた。10分ほど過ごした後、再び散策を始めた。公園の緑が美しい。池の向うには馬と人の銅像が立っている(写真左)。ツェレは中世の昔から、世界的に有名なハノーバー種の馬の産地だ。現在でも馬の品種改良が続けられているらしい。公園のなだらかな坂を下り、馬と人の銅像の側まで行く(写真中)。南側から見る「ツェレ城」には、正面から見たときと異なる美しさがある。前面の緑と夕日が白い城を引き立てているからであろうか(写真右)。

次に向かったのは「フランス庭園」である。「ツェレ城」の公園から南へ200~250mぐらいの所にある。公園の入り口を通ると、噴水の出ている大きな池が目に飛び込んできた。池のほとりにいる家族連れにカメラのシャッターを押して欲しいとお願いする。親たちは英語が分からなかったようだが、高校生ぐらいの娘がすぐにOKの返事をくれた。肌の色が浅黒かったので、どこから来たのか訊ねると、すぐ近くに住んでいるとの事。家族で散歩に出かけていたのだ。シャッターを押してくれた娘さんの笑顔は記憶に残る。屈託のない、そして優しさと美しさを持った笑顔だったからだ。Photo_5
娘さんとその家族にお礼を言い、私は公園の並木道を歩き始めた。350~400m程ある一直線に続く並木道(写真)。絵に描きたくなるような景色だ。人も少なく、ノンビリした気分で散歩を楽しむことが出来る。

本日の夕食は、ホテルのレストランで午後7:00から。ホテルに到着し、「ツェレ城」のツアーに参加するため、部屋に荷物を置いて飛び出してきたので、少し早めにホテルに戻ることにした。「フランス庭園」の西側を歩いてホテルに向かっていると、「市教会」の塔から午後6:00を知らせる鐘が聞こえてきた。午後6:15、ホテルに到着。あらためて部屋を見ると、私好みの部屋であった。Photo_6Photo_7

これまでにも数々の4ッ星以上のホテルに泊まったが、内装はここが最も気に入った。緑でまとめたインテリアが良いのか。シンプルさが良いのか(写真左)。これまで泊まったホテルにも、高級感が漂う機能的な部屋や、伝統と歴史を感じさせる部屋など色々あったが、何故か私にはこの部屋が最もフィットするのだ。床に目を移すと、羊柄の絨毯(写真右)。こちらも緑で統一されている。眠れない時は、これを数えればよいのかも。「羊が一匹、羊が二匹・・・・・」と。

午後7:00前、ホテルのレストラン「Endtenfang」に向かった。ここは、ミシュランの星付きフレンチレストラン。メニューは次のとおり。
・ 前菜(生ハムメロン、モツァレラチーズとトマト、サラミと豆、パプリカのオリーブオイル漬け)
・ 茄子のグリルとマッシュルームなど
・ メイン(フィレサーモングリルとライス)
・ デザート(ホームメイドティラミス)
星付きレストランの期待に応える美味しい料理を楽しみ、午後9:00にレストランを出る。部屋に戻ってから、本日もワンパターン。資料整理をした後風呂に入り、午後11:00頃ベッドに入った。

(参考文献)
・地球の歩き方・ドイツ07~08」(「地球の歩き方」編集室編)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「旅名人ブックス・北ドイツ(中世ハンザ都市物語)」(谷克二・長坂邦宏著)[日経BP刊]
・「Discover Celle、the Ducal Residence」(Tourismus Region Celle GmbH)

フェルステンホフ・ツェレ
http://www.fuerstenhof-celle.com/
フュルステンホーフ・ツレホテル
http://www.Fuerstenhof.de
ツェレ市
http://uebernachtung.region-celle.de

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December 06, 2007

リューネブルク伯の居城・ツェレ城

バルト三国と北ドイツの旅(第32回)

ヒルデスハイムの町を出てから、いつの間にか眠っていた。午後2:10頃目覚めて外を見ると、既にツェレの町に入っていた。午後2:20、本日宿泊するホテル「フュルステンホーフ・ツェレ」(写真)に到着。予想していたよりも、かなり早く到着した。Photo
「ツェレ城」の内部ガイドツアーが、午後3:00から始まるので急げば間に合うのではないかと思い、添乗員にホテルのチェックインを急がせた。彼女が手際よく手続きしてくれたおかげで、部屋に荷物を置き、午後2:40には外出することが出来た。ホテルから5~600m離れているので、小走りで「ツェレ城」(写真)へと急いだ。午後2:55、城の入り口に到着。Photo_2
入場券を購入するため受付に行くと、「どうしたの?」と尋ねられた。かなり息切れしていたのであろう。急いできたことを説明すると、「もう少し時間があるから、ロビーの椅子に腰掛けて休んでください」とのアドバイス。4ユーロでチケットを購入し、椅子に座ってツアーが始まるのを待っていた。午後3:00、ガイドがやって来た。私の顔を見ると、「ドイツ語だけの解説だが大丈夫ですか?」と心配そうに声をかけてくれた。本当は大丈夫ではないのだが、「大丈夫」と応えてしまった。

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ツアーに参加する人達は約20名。ロビーから中庭に出て、向かい側の棟に入り、2Fへ。最初の部屋は「控えの間」(写真左端)である。そして順に「謁見の間」(写真中央左)、「ベッドルーム」(写真中央右)、「プライベートルーム」(写真右端)と続く。その後、中央の階段を昇り3Fに。このフロアでは、「クリスチャン・ルイス」や「ジョージ・ウィリアム」など、代々の城主の部屋を見ることが出来る。次に訪れたのは「劇場」だ(写真左)。バロック様式で、現在も劇場として使われている。その後別のホールでツェレの歴史に関する映像を見る。Photo_7Photo_8Photo_9

そして再び中庭を通り、斜め向かいの棟に移動。そこには「台所」がある(写真中)。釜戸や鍋が並ぶ。さらに奥に進むと、「礼拝堂」だ。鮮やかな青を用いた装飾は印象的である(写真右)。これが最後で、午後4:13にツアーは終了した。

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売店でガイドブックを物色したかったのだが、「ボーマン博物館」(写真)の入場が午後4:15までという事だったので、急いで「博物館」に向かった。「ツェレ城」と道路を挟んで向かい側にあるので、到着まで1分もかからない。受付でチケットを求めると、「ダメ」との返事。どうしてかと尋ねると、「入場は午後4:15までで、現在は午後4:20だから」との回答。そこで、「午後4:15分までと言うのは知っている。だから急いで来た。私の時計では丁度午後4:15分だ」と言いながら、私の腕時計を示すと、「わかった。そのかわり閉館時間である午後5:00までには、必ず退館して欲しい」との事。了解すると、時間を制限する分、本来の入場料である3ユーロを2ユーロにディスカウントしてくれた。階段で2Fに上がると、ツェレやニーダザクセン地方の市民生活に関する展示がなされている。残念ながら、私が期待していた貨幣やハンザに関する展示はない。Photo_11Photo_12Photo_13

しかし18~19世紀頃の生活を表すミニチュアハウスなど興味を引くものが並んでいた(写真左)。なかでも、タイル張りの台所は面白い(写真中)。ポルトガル風もしくはオランダ風に見える。タイルはマイセンのものを用いているのだろうか。これらを見学した後、奥の部屋に進むと、絵画が並んでいる部屋に出た。近代的な建物で、非常に明るい雰囲気。「ツェレ美術館」(写真右)に入ったのである。中で繋がっていたのだ。近代絵画を中心に鑑賞していると、午後5:00近くになったので出口に向かった。売店で面白いものは無いかと見ていたら、表紙にコインがデザインされた本が目に付いた。手に取ると、「Vom Taler Zur Mark」(Deutsche Bank編刊)という本で、コインや紙幣のカラー写真が豊富な内容であった。ドイツ語で書かれていたが、読みたいところだけ辞書を引けば良いと思い、即座に購入することにした。1500年頃から1900年頃までの紙幣・貨幣を扱っており、私の資料で手薄な16世紀についてカバーしているので、購入して非常に良かったと思っている。午後5:00前、「ボーマン博物館」を出て、「市教会」に向かった。

(参考文献)
・地球の歩き方・ドイツ07~08」(「地球の歩き方」編集室編)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「旅名人ブックス・北ドイツ(中世ハンザ都市物語)」(谷克二・長坂邦宏著)[日経BP刊]
・冊子「RESIDENZMUSEUM」
・冊子「CELLE BOMANN MUSEUM」

フェルステンホフ・ツェレ
http://www.fuerstenhof-celle.com/
フュルステンホーフ・ツレホテル
http://www.Fuerstenhof.de
ツェレ市
http://uebernachtung.region-celle.de
ボーマン博物館
http://www.celle.de/index.phtml?La=2&sNavID=342.417&mNavID=342.417&object=tx|342.11350.2&sub=0
ツェレ美術館
http://www.kunst.celle.de

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December 05, 2007

世界遺産・大聖堂と聖ミヒャエル教会

バルト三国と北ドイツの旅(第31回)

「マルクト広場」から西へ約600mの処に「聖ミヒャエル教会」(写真)が建っている。この教会は1010年から1033年にかけて建築されたが、第二次世界大戦での爆撃でほぼ半分が破壊された。Photo
1950年から1957年にかけて修復され、1985年に世界遺産に指定された。ロマネスク様式とゴシック様式の両様式を見ることが出来る。一般に、3つの塔を設けている教会が多いのだが、この教会は6つの塔を持つ異例なケース。またベネディクト会の修道院も併設されているが、この場合修道院の奥に教会が設けられるケースが通常のようだが、この教会は修道院の前に建てられているという点も異例のようだ。

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当初、千年祭の準備のため改装中なので、教会内部には入れないとの事であったが、改装が進んでいることから、幸い中に入ることが出来た。ここでの見所は、天井画だ(写真)。「アダムとイブ」やキリスト家の系図を表す「エッサイの樹」などが描かれている。12世紀に描かれたものだが、色は現在でも鮮やか。当時の暗い世相を打破する意味もあり、明るい色使いとなったという。約1,300枚の板絵が見られるが、すべてオリジナルだ。第二次世界大戦の時、イタリアやアジア方面に疎開させていたため、災難を逃れたとの事。

Photo_3
教会の地下には「ベルンバルド司教」の石棺が置かれている(写真)。彼は「大聖堂」の内装も手がける多才な人物であったようだ。100年程前までは、石棺の周りには水が満たされており、信者はその水を持ち帰ったとの事。

「聖ミヒャエル教会」を出て、次に向かったのは「大聖堂」だ(写真左)。Photo_4Photo_5この聖堂は9世紀に建てられ、11世紀から14世紀にかけて増改築された。しかしここも第二次世界大戦時の爆撃により破壊されたため、1950年から1960年にかけて再建された。世界遺産に指定されたのは、「聖ミヒャエル教会」と同じく1985年だ。教会の前には、「ベルンバルド司教」の銅像が立つ(写真右)。午前10:57、「大聖堂」に入った。最初に向かったのは聖堂内陣の外庭だ。伝説のバラを見るためである(写真)。Photo_6
この伝説の概要は、次のとおり。ハインリッヒ王が聖遺物を持って狩に出かけていた。疲れたので聖遺物をバラの樹の下に隠し、少し休息を取ることにした。再び狩に出かけるため聖遺物を取り出そうとするが、バラの枝が深く絡んでビクともせず、取り出すことが出来なかった。これは、ここにお墓を作れという神からのお告げだと察し、王はこの場に礼拝堂を建てたのである。このバラの樹も、第二次世界大戦時の爆撃に遭って消失したのだが、終戦の年である1945年の冬、再びバラが芽を出し、花を咲かせたのである。花びらはハート型をしているとの事。Photo_7
以上のようなストーリーを持つバラの樹。この時期、花は咲いていなかったので、残念ながらハートの花びらを確認することは出来なかった。しかし花の咲いた枝には、花の咲いた西暦を記すプレートが取り付けられていた(写真)。

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外庭見学の次は、礼拝堂(写真左)の拝観である。聖堂の正面に立っていた銅像の人物、「ベルンバルド司教」が献納した「聖堂の扉」(写真中)や「キリストの柱」(写真右)などを見ることが出来る。「聖堂の扉」は、ヨーロッパで始めてのブロンズ製の扉だ。「ベルンバルド司教」がイタリアで見た、素晴らしい彫り物の施された木の扉。木ではやがて朽ちると考え、ブロンズで作らせたという。「キリストの柱」は、約千年前に作られたもので、青銅製。キリストの生涯について彫られている。

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午前11:20に「大聖堂」を出る。昼食は午後12:00からなので、それまでの間自由時間となった。私は「肉屋のギルドハウス」の建物(写真)の中にある、「ヒルデスハイム博物館」に向かった。建物の1Fにあるレストランの中を横切り、裏階段を昇った。3Fが博物館の入り口である。受付には髭を生やしたおじさんが座っている。英語は通じなかったので、カタコトのドイツ語でチケットを求めると、すぐに通じた。チョッと一安心。2.5ユーロであった。展示スペースは4F以上にあるので、内部の階段を昇った。Photo_12Photo_13Photo_14

そこには破壊された時の「肉屋のギルドハウス」(写真左)や再建中の様子(写真中)を残す写真、また木組みの家の構造(写真右)のモデルなどが展示されていた。15分ほど見学した後、午後12:00近くになったので、集合場所である「市庁舎」の前に急いだ。

昼食は、レストラン「DER ANDECHSER IM RATSKELLER」で頂いた。メニューは次のとおり。
サラダ(トマト、レタス、キュウリなど)
ローストポークとクヌーテル(ジャガイモ団子)
サワークラフト(円錐形キャベツの酢漬け)
ハバリア風クリーム・ジャムソースかけ

午後1:20にレストランを出てバスに戻り、午後1:32、本日宿泊するツェレに向かって出発した。

(ご参考)
Image03
今回ツアーをご一緒した方の一人が、木組みの家について熱心に研究されていた。事情を窺うと、ご自身が開業しておられる医院の建物が木組みの家で、国の登録有形文化財に指定されているとの事。HPをお持ちなので、ご紹介する。(写真 : 同HPより)

http://www1.mahoroba.ne.jp/~sgym/
http://www.nara-np.co.jp/graph/gra060312_house.html

(参考文献)
・「旅名人ブックス・北ドイツ(中世ハンザ都市物語)」(谷克二・長坂邦宏著)[日経BP刊]
・冊子・「Hildesheim(英語版)」(tourist information Hildesheim発行)

ヒルデスハイム市
http://www.hildesheim.de
大聖堂
http://www.bistum-hildesheim.de
大聖堂博物館
http://www.dommuseum-hildesheim.de
ミヒャエル教会
http://www.hornemann-institut.de/german/unesco_st_michael.htm
肉屋のギルドハウス
http://www.stadtmuseum-hildesheim.de

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December 04, 2007

ヒルデスハイム

バルト三国と北ドイツの旅(第30回)

本日はヒルデスハイムを経由して、ツェレに行く予定だ。午前6:40頃目覚め、いつものようにバイキングの朝食を頂く。午前8:25、ロビーに集まり、午前8:35にバスは出発した。気温は11℃で、少々冷える。ヒルデスハイムの町は、ゴスラーの北西約30kmの所に位置する。8世紀に商人の居留地として造られた町で、9世紀には司教座が置かれ、その後数多くの教会が建てられた。また「大聖堂」内陣の外庭には、「千年のバラ伝説」を持つバラの木があることで有名らしい。

45分程走った午前9:15頃、バスはヒルデスハイムに入り、午前9:25にジンゲル通りでバスを降りた。ここで本日のガイド「シャルロッテンさん」と合流する。上品な感じの50歳代と思われる女性だ。Photo
最初に向かったのは、「市庁舎」の前にある「マルクト広場」である。バスを降りて2~3分で、「市庁舎」が見え始めた。「市庁舎」裏の広場に人だかりが出来ていたので覗いて見ると、自転車の競売が行われていた(写真)。持ち主が分からず、警察に集められた自転車が対象になっているとの事。落札した男性に、幾らで手に入れたのかを尋ねてみると、15ユーロと言っていた。彼は中古自転車販売店を経営しているとの事で、今回の競売参加は商品仕入れのためのようだ。暫く競売の様子を見学した後、「マルクト広場」に出た。

Photo_2Photo_3Photo_4

広場には沢山のお店が出ており、人で混雑していた。「市庁舎」の向かい側には、有名な「肉屋のギルドハウス」が建っている。オリジナルは1529年にゴシック様式で建てられたが、1945年の連合軍による爆撃のため焼失した。その後7年かけてオリジナルに忠実に再建され、ルネッサンス様式の装飾が施された。世界一美しい木組みの家とも言われており、出窓は上に行くほど出っ張っていく。出窓部分を見上げると、様々な絵が描かれており、その一枚一枚に意味が込められている。例えばロブスターが描かれている絵(写真左)は、食に困らないようにという願いを、また金袋に入っているお金を数えている絵(写真中)は、お金ばかり儲けても幸せになれるわけではないということを表しているという。更に、出っ張った部分を並べるように下から見上げると、芸術作品の展覧会のようで非常に美しい(写真右)。Photo_5
ところでこの建物、「肉屋のギルドハウス」と言われるように、かつては100件近くの肉屋が中に並んでいたらしい。現在はレストランになっているが、レストラン内部の窓に、肉屋の窓口の面影が残されている(写真)。

Photo_6
「マルクト広場」に戻って、もう一度周りを見渡すと、北側には居酒屋と織物工のギルドハウス、南側には「テンペルハウス」が建つ。また先に見た「市庁舎」(写真)は東側だ。広場を離れ、次に向かったのは「聖アンドレアス教会」である。広場の裏、西側には、広場で見る木組みの建物が並ぶ景色とは異なり、モダンな商店が並んでいた。Photo_7
教会に行く途中、かつての「ヒルデスハイム」の町を表すミニチュアがあったので、ジックリ見る(写真)。現在の地図と見比べると良く分かるのだが、やはりこの町もかつては城壁に囲まれており、城壁の跡地は現在道路になっている。そして司教座の置かれていた「大聖堂」は、町の中心に位置していた。「聖アンドレアス教会」(写真)の前に着いた時、丁度午前10:00の鐘が鳴り始めた。この教会は、1389年から建て始められ、何度も増改築された結果、現在では北ドイツで最も大きな聖堂の一つと言われている。Photo_8
塔もこの地域では最も高く114.35mあり、塔の上には364段の階段で昇ることができる。残念ながら、「聖アンドレアス教会」は中には入らず、外からの見学だけで終え、続いて「聖ミヒャエル教会」に向かった。

「聖アンドレアス教会」から西に200mほど進むと、壁にコインのデザインが彫られた建物を見つけた。「エンペラーズ・ハウス」と呼ばれる建物だ。この建物の前にある「アルター・マルクト広場」では、この町で最初の市が開かれたと言う。このことを記念し、1586年に「エンペラーズ・ハウス」は建てられた。Photo_9
壮大なルネッサンス様式で、ローマ式彫像やバビロニア・アレキサンドリア・ギリシャ風のコインの彫り物で装飾されている(写真)。
ここからさらに西に200mほど進むと、世界遺産に指定されている「聖ミヒャエル教会」だ。

ヒルデスハイム市
http://www.hildesheim.de
ミヒャエル教会
http://www.hornemann-institut.de/german/unesco_st_michael.htm
肉屋のギルドハウス
http://www.stadtmuseum-hildesheim.de


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December 03, 2007

ゴスラーの百貨店

バルト三国と北ドイツの旅(第29回)

ヴエルニゲローデの町を出発してから暫くの間、道路の両側には緑の平地が続いていた。平坦な道路をノンビリと走る。なかなか良いものだ。しかし添乗員の話によると、東西ドイツが統合された後、道路工事が続いていたため、景色を楽しむ雰囲気ではなかったとの事。建設資金として約1兆円が、旧西ドイツから旧東ドイツに援助されたらしい。東西統一後、旧西ドイツの経済的負担の大きさを物語っているように感じた。

午後4:45、バスはホテルに到着。本日の夕食は「RAMADAホテル」のレストランで取るため、午後6:45に宿泊ホテルのロビーに集合予定だ。それまでに時間があったので、ゴスラーの町に出かけた。最初にマルクト広場にあるインフォメーションセンターに行き、バスの路線図をもらうことにした。昨日ランメルスベルクに行くために乗車したバスが、どのようなコースを走っていたのかを確認するためである。センターの女性にバスの路線図を請求するのだが、良く分からないようで戸惑っていた。「バスラインマツプ」では通じていないようだった。色々説明していると、隣にいた女性が気付き、バスの路線図を持ってきてくれた。目的の物はもらえたが、何と言えば良かったのか未だに疑問である。

次に「KARSTADT」という百貨店に立ち寄った。マルクト広場からホテルに戻る途中にある。これまでに行ったヨーロッパの百貨店には、日本のように食料品をメインにしたいわゆる「デパ地下」はない。日本ではあれほど流行るフロアであるが、ヨーロッパで試されていないということは、国民性の違いなのか。それとも自由にトッピングできるサンドイッチ店などがたくさんあるという環境の違いなのだろうか。こちらの百貨店に入ると、私の好きな書店やレコードショップなどは地下にある。そしていつも驚かされるのは、本棚の間に古銭類が展示されていることである。未使用のユーロコインは鍵のかかるケースに入っているのだが、古銭類は簡単に手に取ることが出来るのである。店員の目が届かない場所にこのようなコインが並べられるというのは、日本では考えにくい。ドイツ帝国時代以降の紙幣がたくさん展示されているほか、コインや紙幣のホルダー類、カタログなど、コレクターにとって興味を引くものが色々あった。ここで30分以上物色していたのだが、結局何も買わずに終わった。午後6:15に百貨店を出てホテルに向かったのだが、ホテルの近くに「WOOLWORTH」というスーパーがあったので、ここでミネラルウォーターを購入した。外から見ると衣料品店かと見間違える店舗だが、地下で飲料水や食料品を販売している。大きいボトルで0.74ユーロだったので、日本で買うよりは安いように思えた。

ホテルには午後6:40に戻った。ロビーには既に数人のメンバーが集まっていた。急いでミネラルウォーターを部屋に置き、再びロビーに戻った。午後6:46、バスで夕食の会場に向かった。午後7:00、「RAMADAホテル」に到着。レストランの席についた。本日のメニューは次のとおり。

サラダ(キャベツ、トマト、キュウリなど)
ローストビーフ、ポテトとタマネギをグラタン状にしたもの、温野菜(グリンピース、ニンジン、芽キャベツ、ブロッコリー)
デザート(バニラアイスクリーム生クリーム・カスタードクリーム添え)

食事中に聞いた話だが、この地方ではシュパーゲルと呼ばれる白アスパラガスが有名で、春の風物詩であるとの事。5月末頃まで採れるようだ。収穫時期には、若い女性が手で摘み取るという。そして老いた女性はジャガイモを収穫するらしい。ドイツでは、パンは朝に食べるが、昼・夜には食べず、主食にジャガイモを食べるようだ。ジャガイモには20種類ぐらいあり、各家庭にはジャガイモの倉庫が設けられているという。食事を終え、午後9時前にレストランを出た。宿泊しているホテルには、10分ほどで到着。その後部屋に戻り、いつものように資料整理と入浴を済ませ、午後11:00頃に寝た。


KARSTADTのHP
http://www.karstadt.de

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November 21, 2007

木組みの家が美しいヴェルニゲローデ

バルト三国と北ドイツの旅(第28回)

昼食後に向かった先は、ヴェルニゲローデである。この町はベルリンとフランクフルトとの間にあり、ザクセン・アンハルト州に属する。西南にはブロッケン山(1,142m)があるが、東西冷戦時には監視用のアンテナが建てられていたため、この山に登ることは出来なかったそうだ。バスの窓から、右手にこの山が見える。山並みには、十数基の風力発電用風車が立つ。この辺りはハルツ地方と呼ばれている。

2
午後2:15、ヴェルニゲローデの東にある駐車場でバスを降りる。町の中心部、市庁舎のある広場までは約650m。一直線のブライテ通りを歩いて行く。左手には、「ヴェルニゲローデ城」(写真)が見える。高さ350mの山上に立つ城。町のどこからでも見ることが出来る。この城は、12世紀にヴェルニゲローデ伯爵によって建てられたとの事。現在は博物館として使用されている。ブライテ通りは歩行者天国になっているため、車の心配をすることなく安心して観光できる。通りの両側には、木組みの家が並ぶ(写真左)。「クレシェ・シミデ」や「カフェ・ウィーン」の建物などが有名だ。PhotoPhoto_2

前者は1674年に建てられ、1825年に修復され現在に至っている。地震のない地方だからこそ出来ることだが、建物は上に行くほど大きくなっている。敷地面積に応じて税がかけられたため、なるべく1F部分を小さく建てたことから、このような建物になったとの事。壁全体に施された、魔除けの木彫りが美しい(写真右)。現在は鍛冶屋の博物館になっている。また後者は1583年に建てられ、現在は喫茶店として使用されている。

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歩くこと約10分、町の中心街である「マルクト広場」に到着した。広場では市が開かれており、人で賑わっている。正面には、中世の木組み造りの貴重な建造物、歴史的なラートハウス(市役所)がある(写真)。「これは1277年に最初に”スペルフス”として登場し、裁判所としてまた娯楽施設として、あるいは結婚式のような祝い事にも利用されていた。」(ヴェルニゲローデ案内・日本語版)という。なお、当初造られた建物は火災に遭ったため、現在の建物は1544年に再建されたものである。Photo_4
広場から南の方に進むと、「斜めの家」(写真)がある。基礎壁の下が水車用水路に洗い流され、木組み造りの家の一部が下がってしまったことから、このように傾いたという。またコッホシュトラッセ通りには、極小の家「クレインステスハウス(43番)」(写真の中央)がある。Photo_5
「18世紀の半ばのバロックの木組み造りの家で、軒までの高さが4.2m、幅が2.96m、ドアの高さが1.7m。中は、たった10㎡の部屋がひとつあるだけ」(ヴェルニゲローデ案内・日本語版)のようだ。それでも、1Fはキッチンとリビング、2Fは寝室というから驚きである。

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ガイドに連れられて町の中心部を観光した後、約1時間自由行動となったので、私は「ハルツ博物館」(写真)に向かった。「市庁舎」の西側にある。徒歩2~3分で到着。受付は2Fにある。入館料は2ユーロ。チケットを購入し、早速館内を廻った。最初の部屋には、ハルツ地方の自然や動植物が展示されていた。次の部屋には、木組みの家について解説されている。木組みの家の壁の下がどのようになっているのかなど、実物と写真を交えて解説しており、非常に分かり易い(写真左・中)。12_2Photo_7

また、色々な種類の木の組み方も紹介されている。10以上のパターンがある。続く部屋には、貨幣が展示されていた。1483年に造られたグロッシェン銀貨や片面だけ刻印されたペニヒ貨幣、窪みのあるペニヒ貨幣などを見ることが出来た(写真右)。

午後3:35に博物館を出て、「市庁舎」にあるインフォメーションセンターに行った。ここでヴェロニゲローデに関する書籍を購入した。また日本語版のものはないかと尋ねると、最近出来たとの事で、冊子を持って来てくれた。その後バスに戻るつもりでブラブラ歩いていたのだが、まだ30分ほど時間があったので、急遽「ヴェルニゲローデ城」に行くことを決め、早足で歩き始めた。Photo_8Photo_9

山の麓まではすぐに行くことが出来た。城壁(写真左)の側から見る城(写真左)は大きく見え、もう目の前だと思った。しかし、坂道を上り始めるとなかなか辿り着けない。バスに戻る時間は午後4:15。山の途中で午後4:00の鐘を聞いたので、已む無く戻ることにした。もう少し早く来ればよかったと思いつつ、山を降りた。午後4:13、ギリギリで集合場所に到着。午後4:15、バスはゴスラーに向けて走り出した。

(参考文献)
・ 冊子「ヴェルニゲローデ案内・日本語版」(ヴェルニゲローデ観光案内所編・刊)
・ 「Wernigerode・heart of Harz(English version)」(Schmidt-Buch-Verlag)

ヴェルニゲローデの観光案内所
http://www.wernigerode-tourismus.de
ヴェルニゲローデ城(博物館)
http://www.schloss-wemigerode.de

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November 19, 2007

皇帝居城(カイザー・ファルツ)

バルト三国と北ドイツの旅(第27回)

本日は、午前中ゴスラーの街を観光し、昼食の後ヴェルニゲローデに行く予定だ。今朝は何故か早く目が開いた。午前5:50で、外はまだ暗い。午前6:40~7:00頃まで、ホテルで朝食を取る。午前8:40、ロビーに集まり、午前8:50にバスで出かけた。最初の観光予定は、「皇帝居城(カイザー・ファルツ)」だ。歩いて行っても良いぐらいのところにある。バスなので、たった5分で到着した。

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「皇帝居城」の前には緑が広がり、騎馬像が立っている(写真)。12世紀に神聖ローマ帝国の皇帝になったフリードリッヒ一世バルバロッサ(赤髭)(写真左)と、ドイツ帝国の初代皇帝となったウィルヘルム一世(写真右)だ。城に目を移すと、全体が白っぽい感じだ。これは、全体が砂岩で作られているから。壁をよく見ると、黄色い部分も見られる。Photo_2Photo_3
当初、地元の岩場から切り出した石灰を含む砂岩を使っていたのだが、地元で採れなくなると、別の街から石を運んできたらしい。しかしそれらには石灰が含まれていなかったので、黄色い色をしているのだ。11世紀に皇帝ハインリッヒ三世が築いた城だが、現在見られるのは19世紀に再建されたもの。

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午前9:30、城の中に入る。宮殿の広間に向かって階段を昇る途中、窓からは裏庭にあるヘンリー・ムーアのモダンアートの作品(写真)が見える。無名兵士を祭るために設けられたようだ。広間に入ると、窓のある面以外の3面には、すべて壁画が描かれている。壁画に見とれていると、我々のガイドが現地のガイドらしき女性と挨拶を始めた。どのような人かと思い近寄ってみると、ブロンドの綺麗な女性だ。彼女の方を見ていると、私に向かって笑顔を投げかけてくれた。こちらも笑顔を返すと、「昨日は楽しめましたか?」との言葉。最初は分からなかったのだが、「ランメルスベルグでお会いしましたネ」との事。良く見ると、彼女は昨日訪れた「ランメルスベルグ鉱山」で鉱山のトンネルまで案内してくれた、ヘルメットの女性だったのである。彼女は普通のガイドと鉱山ガイドの両方の資格を持っており、昨日は鉱山でガイドをしていたのだ。彼女とは握手をして別れた。我々は広間に並べられている椅子に座り、壁画について説明を受けた。先に銅像を見たフリードリッヒ一世バルバロッサ(赤髭)とハインリッヒ獅子公の、どちらが覇権を握るのかをめぐる争いなどが描かれているという。ちなみにこの広間、現在は高校の卒業式など多目的に使われている。

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壁画の説明を受けた後、地下にあるウルリッヒ礼拝堂に向かった。この礼拝堂は、屋根が木造のロマネスク様式(写真左)。ここには、この城を建てたハインリッヒ三世の石棺(写真中)が安置されている。この棺には、ハインリッヒ三世の心臓が納められているという。また、屋根に飾られていた「鳳凰」のオリジナル(写真右)を見ることが出来る。

午前10:30、「皇帝居城」を出る。私は「ゴスラー博物館」に行きたかったので、ツアーと別れた。昨日「ゴスラー博物館」(写真)の場所を確認していたので、すぐに行けると思っていたのだが、道を間違えて少々遠回りしてしまった。Photo_9
午前10:45、博物館に到着。入り口正面に受付がある。入館料は3ユーロ。チケットを購入し、中庭を通り展示室に入ると、40室程に分かれている。古くはジュラ期の化石から近代の生活様式まで、ゴスラーの歴史が判るように展示されている。中でも教会芸術は、絵画や彫刻など興味を引くものが多数ある。また、1505年~1555年の間に発行された「MarienGroschens」銀貨や、1605~1612年に造られた「Goldgulden」金貨なども展示されていた。造幣は王権に属していたが、13世紀頃になると造幣の権利は市民に移って行ったようだ。交易の支払手段として貨幣の利用は高まり、ハンザ同盟の中では共通化が図られたという。

午前11:53に「ゴスラー博物館」を出て、ツアーと合流するため「マルクト広場」に向かった。広場には午後12:00鳴るからくり時計を見るため、多くの人が集まっていた。私は昨日の夕方、午後6:00の鐘を見ていたので、他のツアーメンバーとは異なり、ぼんやりと時計の方を眺めていた。午後12:00になると鐘がなり始め、人形が出てくる。良く見ると、昨日見ていない人形だ。ラムという名の騎士が山へ狩に行った時、連れて行った馬がヒズメで掻いた跡を見ると、キラリと光るものがあった。Photo_8
これがランメルスベルク銀鉱脈発見の物語である。その時の様子を現しているのが、この人形なのだ(写真)。その後には昨日見たのと同じ、鉱山採掘の様子を人形が出てきた。これらを見終えた後、昼食のため市庁舎内にあるレストラン「ケーニヒ・フォン・バイエルン」に入った。昼食メニューは、次のとおり。
・ 緑ブロッコリーのクリームスープ
・ タイのフライとジャガイモ、ブロッコリー、トマト添え
・ ストロベリーアイスクリーム、キャラメルアイスクリーム
午後1:30頃レストランを出て、次の目的地「ヴェルニゲローデ」に向かうため、バスに乗った。

ゴスラー市
http://www.goslar.de

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November 13, 2007

ランメルスベルク鉱山博物館

バルト三国と北ドイツの旅(第26回)

午後1:30、バスはハーメルンを出発し、ゴスラーに向かった。暫く走ると、ヴェーザ川が見え始めた。2~3日前まで雨が降っていたため、水位は高い。道路の両サイドは、低い山々と緑の草原に囲まれている。バスの窓から、外の景色を楽しんでいたのだが、いつの間にか眠っていた。目覚めた時、既に午後2:15であった。周囲はまだ緑の草原が続いている。左手に、風力発電用の風車が10基ほど見える。

これから行くゴスラーは、ハルツ山系の北側に位置する。この山系は、北ドイツと中部ドイツを分ける。長さ100km、幅30kmあるが、最も高い山であるブロッケン山でも標高1,142mというから、景色を眺めていても圧迫感はない。ご存知の通りゴスラーの街は、968年から始まった「ランメルスベルク鉱山」の金銀採掘で発展してきた。11~13世紀には、帝国都市として神聖ローマ帝国の中心となり、13世紀にはハンザ同盟に加入、16世紀に最盛期を迎えた。①「木組みの家並みとカイザー・ファルツ」、ならびに②「ランメルスベルク鉱山」が世界遺産に指定されている。

本日宿泊する「ホテル・デア・アハターマン」には、午後3:00過ぎに到着する見込み。私は、「ランメルスベルク鉱山」に行きたかったので、予定通りに到着することを願っていたところ、渋滞もなく午後3:02にホテルに着いた。添乗員がチェックインの手続きをしている間に、鉱山に行くバスの時間を調べてもらった。帰りのバスの時間を考えると、午後3:43発のバスが最も都合が良いことが分かった。バス停はホテルの前にあるとの事なので、迷うことはない。手続きを終えた添乗員から部屋の鍵をもらい、大急ぎで部屋に荷物を置いて外出した。まだ午後3:30だったので時間は十分にあったのだが、ホテルの前にあるはずのバス停が見当たらずウロウロしてしまった。ホテルの前といっても、真正面ではなく、東に50mほど離れていた。慣れた人から見れば、確かにホテルの前かもしれないが、初めての人にとってはホテルの前ではないと思った。しかし、細かいことでも確認を怠った自分が悪いと反省した。バスは数分遅れの、午後3:50に来た。料金は1.9ユーロである。

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「ランメルスベルク鉱山」へ行く最寄りのバス停には、午後4:00に到着。ガイドブックに約25分かかると書いてあったが、所要時間はたった10分。バス停の時刻表で帰りのバスの時間を確認し、鉱山の入り口に向かった。現在この鉱山は、実際には使われておらず、「ランメルスベルク鉱山博物館」(写真)になっている。鉱山に関する展示のほか、トロッコ列車に乗って採掘現場を見学することも出来るのだ。入り口の門を潜ると、広いスペースがある。右手の建物から入るようになっていた。シーンと静まり返っていたのが不気味だ。建物の扉を開けると、広いホールの中央よりやや奥に受付のカウンターがあった。受付の男性に、時間がないので博物館の見学と坑道の入り口での写真撮影だけしたい旨伝えると、何か困った様子。尋ねてみると、鉱山ガイドに聞いてみないと分からないとの事。館内のあちらこちらに電話して、ようやくガイドを捕まえることが出来た。白いつなぎ服にライト付きのヘルメット姿の人が現れた。良く見ると女性である。40歳前後の美人だ。私の希望を伝えると、即OKの返事が返ってきた。6ユーロでチケットを購入し、彼女の後をついて行った。他に観光客はいない様子。本当に静かである。貸切り状態だ。Photo_2Photo_3

最初に坑道の入り口(写真左)まで連れて行ってくれた。ガイドブックには、200年前の鉱山を歩いて見学する「歴史的採掘コース」と、近代の鉱山をトロッコに乗って見学する「近代採掘コース」があると書かれていたが、現在は後者しか行っていないとの事。この鉱山は、1988年まで操業されていたそうだ。坑道の中にも、10m程だが入らせてもらえた(写真右)。写真を撮った後、ガイドから簡単に博物館の回り方を教えてもらい、お礼を言って分かれた。

トロッコで坑道内を見学するのには、45分~1時間程必要だが、帰りのバスの時間を考えると、見学するだけの時間がなかったのは残念であった。しかし本当に見たかったのは、「歴史的採掘コース」とガイドブックに書かれていた200年前の坑道である。なぜなら、最近世界遺産に指定された石見銀山や、世界遺産ではないが、生野銀山、佐渡金山、甲斐金山などと比較してみたかったからである。仕方がないので、博物館の展示で比較してみようと考えたのだが、近代化されて以降の機械類の展示(写真)がほとんどだったので、私が最も知りたかった近代化以前のものを見ることは出来なかった。2
こちらでも鎚と鏨(たがね)を使って掘ったのであろうか、また水抜きはどのように行ったのであろうか。疑問は残ったままだが、帰りのバスの時間が近づいてきたので博物館を出ることにした。ところで、途中で出会った観光客は、たったの3人。夕方だったからかも知れないが、普段はどの程度の客が来るのだろう。

午後5:15、予定通りバスは来た。再びバス代1.9ユーロを支払いバスに乗車するが、他にお客はいない。貸切りバス状態だ。午後5:40、ゴスラーの中心で下車する。今度は25分もかかっている。同じ所を廻っていたようにも思えたのだが、気のせいだろうか。「市庁舎」前の「マルクト広場」に行くと、人で賑わっていた。Photo_4
広場の中心にはロマネスク様式の噴水があり、帝国自由都市のシンボルである金色の鷲が飾られている(写真)。また広場の南側には、「カイザー・ヴォールト」(写真左)と呼ばれる建物がある。築500年の歴史を持つ。現在はホテルになっているが、かつては仕立て職人と卸商のギルドがあったようだ。2Fの壁には、歴代皇帝の像が並んでいる。そして北側の角には、金貨のウンチをする裸の男の像がある(写真右)。Photo_5Photo_6

中世の貨幣単位であるデュカートから採って、「デュカーテン・メンヘン」と名づけられている。これは「ギルドの富」を表しているらしい。また「市庁舎」の後方には、「マルクト教会」が見える。色々見て回っていると、鐘が鳴り始めた。丁度午後6時。「市庁舎」の向かいに在る、建物の屋根に設けられた仕掛け時計が奏でている。午前9:00、午後12:00、午後3:00および午後6:00の一日4回、鐘が鳴り、同時に人形が現れる。良く見ると、先程訪れた「ランメルスベルク鉱山」での採掘シーンを再現していた。Photo_7Photo_8

”たいまつ”に手押し車、鍬に金槌を持つ昔のスタイル(写真左)と、削岩機を持つ現代スタイル(写真右)との2種類だ。鉱山採掘1000年を祝って製作されたらしい。

夕食は午後6:30からなので、「マルクト広場」を離れ、ノンビリとホテルに向かって歩き始めた。午後6:20、ホテルに到着。ところで、我々の泊まるこのホテルは、かつてこの街が城壁で囲まれていた時代の、旧市街入り口の城壁を利用して建てられている(写真)。Photo_9
ジックリ見ると、なかなか面白い。午後6:30になったので、ホテルのレストランに入った。今晩のメニューは次のとおり。
・ サラダ(キュウリ、トマト、レタス他)+ヨーグルトドレッシング
・ メイン(グリル風ビーフにブロッコリー、ネギ、キュウリ添え)
・ デザート(ベリー類を甘く煮込んでゼリーで固めたものにミルクがかかっている)

午後8:30に夕食を終え、部屋に戻った。本日も良く歩いたので、熱い湯を張ったお風呂に入ると、一気に疲れが吹き飛んだように思えた。いつものように資料整理をして、午後10:30ころ、ベッドに入った。

(参考文献)
・ 「GOSLAR(英語版)」(Schoning GmbH & CO KG)
・ 「GOSLAR(Map of the Town and Sights)」
・ 「RAMMELSBERG(MINING MUSEUM AND VISITOR’S MINE)」
・地球の歩き方・ドイツ07~08」(「地球の歩き方」編集室編)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「旅名人ブックス・北ドイツ(中世ハンザ都市物語)」(谷克二・長坂邦宏著)[日経BP刊]

「ホテル・デアー・アクターマン」のHP
http://www.hotel-der-achtermann.de/
「ゴスラー市」のHP
http://www.goslar.de
「ランメルスベルク鉱山博物館」のHP
http://www.rammelsberg.de

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November 11, 2007

ネズミのしっぽ料理

バルト三国と北ドイツの旅(第25回)

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午前11:50に、「ネズミ捕り男の家」で昼食である。メニューのメインは、「ネズミのしっぽ料理」だ。料理の名前を聞くと「ギョ!」とするが、実は豚肉の細切りをネズミの尻尾に見立てているだけで、本当のネズミの尻尾を使っているわけではない(写真)。暫くすると、食材が並べられた。我々の目の前で調理してくれるのだ。料理の手順は、次のとおり。
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① フライパンを2つ準備する。(写真左端)
② 一つのフライパンにバターを馴染ませ、みじん切りにしたタマネギを軽く炒める。
③ 炒めたタマネギに白ワインと赤ワインを加える。
④ タバスコを適量入れる。
⑤ サイの目状に切ったトマトを入れ、一緒に炒める。
⑥ 輪切りにしたオリーブを入れ、一緒に炒める。
⑦ ベビーコーン、ピーマン、マッシュルームの順に入れて一緒に炒める。
⑧ マスタードを適量入れる。
⑨ トマトケチャップを大さじ3~4杯分入れる。
⑩ ウスターソースを適量入れる。
⑪ デミグラスソースをカップ5杯分ほど入れる。
⑫ 生クリームをカップ1杯分入れて煮込む(→ソースの出来上がり)。
⑬ もう一つのフライパンで、豚モモ肉の細切りを炒める。(写真中)
⑭ 軽く塩、胡椒する。
⑮ コニャックとラム酒を少々入れて、火でアルコール分を飛ばす(写真右端)。
⑯ 炒めた豚モモ肉の細切りの入っているフライパンに、もう一つのフライパンで作ったソースを入れて軽く煮込む(→料理の完成)。

その他に昼食のメニューとして、野菜入りクリアスープ、サラダ、アップルムースとアイスクリームが出された。どれも美味しく頂いたのだが、「ネズミのしっぽ料理」に関して言えば、尻尾に見立てた豚肉が少し太かった(8mm角ぐらいの太さだった)ことと、ソースに少し甘味が足りなかったことに不満が残った。

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午後1:00前、「結婚式の家」の仕掛け時計を見るため、レストランを出た。家の前に行くと、既に人だかりが出来ていた。午後1:05、鐘が鳴ると共に扉が開いた(写真左)。暫くすると、ネズミ捕り男が現れ、たくさんのネズミたちが男について行った(写真中)。続いて違う服装に着替えたネズミ捕り男が再び現れ、今度は子供たちが彼の後をついて行くのである(写真右)。5分くらいの短い時間であったが、非常に楽しむことが出来た。その後、本日の宿泊先であるゴスラーに行くため、バスに戻った。

ところで、今回の私のテーマである「ハンザ同盟」に関する史跡は、ハーメルンの町には何も残っていなかった。ハーメルンも13世紀頃「ハンザ同盟」に加入し、16世紀から17世紀初頭に繁栄を極めているのだ。ナポレオンの占領時代に城壁ともども崩されてしまったのであろう。ちなみに、バスと「旧市街」の間に広い道路があり、地下道を通らなければならなかったが、かつてはこの広い道路の上に城壁が建っていたのである。午後1:30、バスはゴスラーに向かって出発した。

(参考文献)

・冊子「ハーメルン・ようこそ[日本語版]」
・地球の歩き方・ドイツ07~08」(「地球の歩き方」編集室編)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「旅名人ブックス・北ドイツ(中世ハンザ都市物語)」(谷克二・長坂邦宏著)[日経BP刊]

ハーメルンの観光案内
http://www.hameln.de
ハーメルン市
http://www.hameln.com
笛吹き男(ネズミ捕り男)の家
http://www.rattenfaengerhaus.de
結婚式の家
http://www.erlebniswelt-renaissance.de

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November 10, 2007

ハーメルン旧市街を散策

バルト三国と北ドイツの旅(第24回)

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「ネズミ捕り男の家」を見た後、旧市街の主だった見所を廻るため、一直線の道をさらに西に進んだ。「ライストハウス」と「シュテイーフツヘーレンハウス」の前を通り、「結婚式の家」の前に出た。現在「ライストハウス」には、「ハーメルン博物館」の入り口がある。この建物は、1585年から1589年にかけて豪商ゲルト・ライストのために建築された家。屋根裏部屋の上は、ギザギサ渦巻き装飾の切り妻屋根だ(写真左)。また3F部分の切り妻下には、美しいルクレチア像が立つ(写真右)。Photo_5
隣の「シュテイーフツヘーレンハウス」は、1556年から1558年にかけて市参事会員フリードリッヒ・ポッペンディエックのために建築された家で、「ライストハウス」とつながっており、どちらもヴェーザー・ルネッサンス様式の建築である(写真 : 手前が「シュテイーフツヘーレンハウス」、奥が「ライストハウス」)。

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「結婚式の家」(写真)は、1610年から1617年にかけて市の自治会が市民のために建築した大宴会ホールを持つ建物。ここには、モルヒネ発見者であるフリードリッヒ・ヴィルヘルム・セルトュルーナーが働いていた薬局がある。この建物の2F部分には仕掛け時計があり、午後1:05と午後3:35、午後5:35の1日3回、」ネズミ捕りの男とそれに続くネズミたち」、ならびに「ネズミ捕りの男とそれに続く子供たち」の仕掛け人形が現れる。食後、この仕掛け人形を見に来る予定だ。

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「結婚式の家」の北側には、「マルクト教会」(写真左)があり、その西側には「デンプターハウス」(写真右)が建っている。「マルクト教会」は約800年の間使われてきたが、第二次世界大戦の爆撃でほぼ全壊したため、1957年から1959年にかけて再建された。5月中旬から9月中旬の毎週日曜日には、この教会の前で「ハーメルンのネズミ捕り男」の野外劇が行われるそうだ。Photo_9「デンプターハウス」は、1607年から1608年にかけて市長トビアス・フォン・デンプターのために建築された。3F部分の切り妻下には、美しいウトルフト像が立つ(写真)。この建物も、ヴェーザー・ルネッサンス様式である。

次に我々は南に向かい、「市民の家」(写真)を見ることにした。この建物は1560年頃のもので、正面入り口と後ろの出口が斜めの対角線状という変わった通路を持っている。Photo_10長い間、ビールの醸造所として使用されてきたとの事。典型的なルネッサンス・モチーフを取り入れた木組みの家で、非常に美しい姿を見せてくれている。

続いて訪れたのが、「大聖堂」である。元はロマネスク様式の教会であったが、13世紀の後半以降、再度にわたる改築の末、現在のようなホール式の教会堂の姿になったとの事。Photo_11地下の礼拝堂に入ると、ロマネスク様式が残っている(写真)。ここはこの教会で最も古い部分で、1120年頃に造られたという。


「大聖堂」の見学を終え、旧市街のメイン通りに出ると、多くのお店が並んでいる。中には1300年に操業し、現在も続いているという薬局がある。Photo_12ツアーを抜け出し、薬局に立ち寄った。お客さんで混雑している。処方箋を持った人ばかりなのだろうか。薬剤師さんに許可をもらい、写真を撮らしてもらった(写真)。再びツアーに戻り、皆と一緒に歩いていると、自転車で配達をするドイツの郵便屋さんがいたので、写真を撮らしてもらうことにした。若くて背の高い、ハンサムボーイである。Photo_13
「写真を撮らして欲しい」とお願いをすると、怪訝な顔をされた。「どうして私の写真を撮りたいのですか」と尋ねられたので、「日本の郵便局は赤色ですが、こちらは黄色で面白いし、またこちらの車による集配は見たことがあるのですが、自転車で配達する様子は初めて見たからです」と応えると、即座に撮影をOKしてくれた。唇にピアスをしているところが、また面白い。「ハイ! ポーズ」と撮った写真がこれである(写真)。この後「結婚式の家」の前まで歩き、昼食時間まで自由行動となった。

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午前11:50に、先程見た「ネズミ捕り男の家」の前に集合なので、約45分ある。最初に訪れたのが「ハーメルン博物館」(写真・博物館入り口)だ。入場料は3ユーロ。博物館には、ハーメルンの歴史を知る上で必要なものが展示されている。例えば、15世紀から19世紀にかけてドイツの重要な手工業であった錫製品の製造過程やガラス工芸品のコレクションなどである。また「ネズミ捕り男」についても解説されていた。そしてこの博物館で最も興味を持ったのが「貨幣展示室」である。547
この800年間の希少なコイン(写真・ターレル銀貨 : ハーメルン博物館のHPより)とその製造過程が説明されていた。片面だけ刻印され、切れ分けて使われるコインなど、珍しいものが多数展示されている。またハーメルン発行のノトゲルドもある。代表的な図案は、もちろん「ネズミ捕り男と子供たち」である。ワクワクする展示ばかりなのだが、残念なのは解説がすべてドイツ語で、写真撮影も禁じられていたことである。博物館を出る時、英語版のガイドブックはないか尋ねるが、ドイツ語のものしかなく、かつコインに関する解説が載っていなかったので、購入は諦めた。午前11:45、集合時間まで残り5分。大急ぎで集合場所に向かった。1分前に到着。他のメンバーはレストランに入ろうとしていた。

(参考文献)
・冊子「ハーメルン・ようこそ[日本語版]」
・冊子「ハーメルン博物館(過去を知る)[日本語版]」
・地球の歩き方・ドイツ07~08」(「地球の歩き方」編集室編)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]
・「旅名人ブックス・北ドイツ(中世ハンザ都市物語)」(谷克二・長坂邦宏著)[日経BP刊]

ハーメルンの観光案内
http://www.hameln.de
ハーメルン市
http://www.hameln.com
笛吹き男(ネズミ捕り男)の家
http://www.rattenfaengerhaus.de
結婚の家
http://www.erlebniswelt-renaissance.de
ハーメルン博物館
http://www.hameln.de/m()useum/
ハーメルン博物館・コイン展示
http://www.hameln.com/culture-leisure/culture/museum/coins.htm

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November 09, 2007

笛吹き男(ネズミ捕り男)の町・ハーメルン

バルト三国と北ドイツの旅(第23回)

今日はハーメルンを観光し、その後ゴスラーに行く予定である。午前6:30に目覚め、午前6:40に朝食のため、ホテルのレストランに行く。窓から外を見ると、小雨が降っていた。少し憂鬱な気分だ。気温は15℃と、思っていたほど寒くはない。午前7:40頃朝食を終え、部屋に戻る。集合時間の午前8:50にロビーへ。こちらのツアーは全員で20名。東京から6名、関西から14名で、それぞれに添乗員がいるので、合計22名の集団。フランクフルトで合流したらしい。このようなスタイルは、私にとって初めてである。

午前8:57、バスは出発した。運転手はエミリオ。若くてハンサムなドイツ人。少しシャイな感じだ。今回、ハノーバーは宿泊しただけである。このまま離れるのは残念だが、仕方がない。ハーメルンは、ハノーバーから南西に50kmほど離れたところに位置する。高速道路の両脇は畑が続いているだけだ。午前9:47、信号で停止する。本日はじめての信号だが、森のど真ん中にある。ここから10分ほど走ると、ハーメルンの街に入った。午前9:47、インフォメーションセンターの前でバスを降りる。ここで本日のガイドであるケイティ(女性)が待っていた。最初にインフォメーションセンターで、ハーメルンの街に関するビデオを大画面で見る。Photo
やはりこの街で最も有名なのは「笛吹き男(ネズミ捕り男)」(写真 : ハーメルン・ようこそ[日本語版]」より)だ。そこで、ご存知の方も多いと思うが、子供の頃に聴いただけで忘れてしまった方もおられると思うので、「笛吹き男」のお話をご紹介する。ちなみに、日本では「ハーメルンの笛吹き男」として知られているが、現地では「ネズミ捕り男」と呼ばれているそうである。

ハーメルンの街中にネズミが大発生し、街の人々は大変な被害を受けていた。しかし色々な方法を試みるが、何ら解決することは出来ないでいた。そのような時に、鮮やかな服を身につけた男が現れ、街中のネズミをすべて退治してみせると提案、街の人々は報酬を支払うことに同意し、街中のネズミ退治を依頼した。男は笛を取り出して吹き始めると、街中のネズミが男の周りに集まった。男が笛を吹きながらヴェーザ川のほうに歩き出すと、ネズミたちは男について行き、男が川の中に入ると、ネズミの群れも川に入り、すべてのネズミが溺死してしまったのである。これで街のネズミがすべて退治されたのだが、街の人々は欲を出し、報酬の支払いを踏み倒した。このことに男は腹を立て、街から出て行ってしまった。そして運命の日である1284年6月26日、当日は夏至祭り。男は再び街に現れたのである。今度は真っ赤な帽子に狩人姿だ。この時、街中の大人はミサに出かけ、子供たちだけが留守番をしていた。男が笛を吹くと、4歳以上の子供はすべて男の回りに集まり、男が歩き始めると、子供たちはその後をついて行き、街から消えてしまったのである。たった2人の子供を残して。残った子供の1人は目が不自由で、もう1人は口が不自由だったという。ミサが終わった大人たちが家に帰ると、子供達がいないのに気が付き大騒ぎ。必至に捜索するが、結局見つからず仕舞いである。

このお話については、世界中の学者が色々な説を唱えている。「ハーメルン・ようこそ[日本語版]」によると、最も信憑性が高いとされているのが「ドイツ東部地域(シュレージェン、メーレン、ポメルン、プロイセン地方)への市民らの入植」説である。同冊子には、「当時、貴族たちがハーメルン市民を率いて東方殖民していたことが明らかになっています。特にオルミュッツ(現在のチェコ)地方に移住したシャウムブルク伯爵の名はよく登場します。また、当時町の住民たちは「町の子供たち」と呼ばれることが多かったという事実からも推測できます。「ネズミ捕り男」とのつながりは、その時代によく起こったネズミの大被害に由来しており、実際のネズミ捕り男は、物語よりもっと現実的な方法でネズミ退治をしていたことでしょう。これら二つの史実が、人々の間で語り継がれていく間に一つの物語として合体していったのではないかと見られています」と述べている。

午前10:04、ビデオを見終えてから、ハーメルンの旧市街観光である。インフォメーションセンターから旧市街へは地下道を潜らなければならない。道路面上にネズミの絵が描かれ、行き先を示している。これを辿れば、一通りの観光が出来るようになっているのだ。Photo_2
地下道を抜けると、左手には「ネズミ捕り男の家」(写真)がある。これは「1602年から1603年にかけて、市参事会員ヘルマン・アーレンズのために建築された家。大ホールやファサードは身分をあらわすにふさわしく、豪華な装飾が施されています。正面全体は数多くの小さな飾りのエレメントが組み合わさった「ヴェーザー・ルネッサンス」(注)後期スタイルの装飾で覆われています。この家の名前は子供たちが消え去ったという「ネズミ捕り男」の伝説が壁に刻まれていることに由来している」(冊子「ハーメルン・ようこそ[日本語版]」より)という。現在はレストランになっており、「ネズミのしっぽ料理」が名物だ。昼食はここで取ることになっている。

(注)「ヴェーザー・ルネッサンス」とは、本家イタリア・ルネッサンスから派生した一つのバリエーションで、北ドイツ特有の愛らしい建築様式のこと。この独特の建築スタイルは、特にハーメルンとその近郊に見られる建築様式として解釈することが出来る(冊子「ハーメルン・ようこそ[日本語版]」より)。

(参考文献)
・冊子「ハーメルン・ようこそ[日本語版]」

ハーメルンの観光案内
http://www.hameln.de
ハーメルン市
http://www.hameln.com
笛吹き男(ネズミ捕り男)の家
http://www.rattenfaengerhaus.de

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November 07, 2007

フランクフルトからハノーバーへ

バルト三国と北ドイツの旅(第22回)

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「前史先史博物館」を出た後、ホテルに戻るつもりであったが、「ECB」ビルの北へ約300mのところにある超高層ビル「マインタワー」(写真)が目に入ったので、そちらまで足を延ばした。屋上からフランクフルトの街を眺めることが出来るのだ。54階までは高速エレベータで昇れる。入り口に着くと、行列が出来ていた。待ち時間を尋ねると、約40分との事。万が一のことを考え、空港には早めに行った方が良いだろうと思い、タワーに昇ることは諦めて外に出た。しかし、飛行機の時間は午後8:20なので、十分に時間はあると思い直し、再びタワーに昇ることにした。Photo_2EcbPhoto_3

チケットを購入。4.6ユーロだ。高速エレベータを待つ列に並ぶが、考えていたほど人はいない。待つこと5分。エレベータに乗ることが出来た。待ち時間40分という言葉を聴いて諦めなくて良かったなどと考えているうちに、エレベータは54階に到着。展望テラスから街が一望できる。残念ながら霞んでいたので、見晴らしは良くない。それでも「フランクフルト中央駅」(写真左)や「ECB本部ビル」(写真中)、先程訪れた「旧市庁舎レーマ」、「パウルス教会」、「大聖堂」、さらに「マイン川」(写真左)などを見ることができた。

午後4:40、タワーを出てホテルに向かった。午後5:00、ホテルに到着。預けていた荷物は、自分で地下にある倉庫まで取りに行かなければならない。フロントで倉庫の鍵を求めると、誰かが使用中なので、地下の倉庫に言って欲しいとの事。階段で下りると、丁度鍵を持った人達がエレベータで上がろうとしていたところであった。入れ違いにならず良かったと思いながら、彼らから鍵を受け取った。倉庫に入ると、数多くの荷物が置かれていた。このようなシステムで、盗難などの事故は起きないのだろうかと心配しつつ、自分の荷物を取り出し、鍵をかけたことを確認してロビーに戻った。午後5:20にホテルを出る。

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フランクフルト中央駅(写真)を通り、空港に行くSバーンの駅がある地下に向かった。103番で15分ほど待つと、ようやく空港に行くS8の列車がやって来た。列車に乗るとき気がついたのだが、日本のホームのように列車の停車位置や危険を示すラインなど、一切表示されていなかった。よく言われるように、日本は親切過ぎるのか、それとも企業側が責任を回避しようとしているのか? 列車は15分ほどで空港に到着。空港職員にチェックイン窓口を尋ねると、機械でチェックインできるとの事。簡単便利である。昼食を食べていなかったことを思い出したので、昼食兼夕食としてサンドイッチを購入した。搭乗口と搭乗口との間にあった休憩所のテーブルを占拠し、飛行機が離着陸する様子を見ながら食事をした。ここでは、無料で紅茶やコーヒーを飲むことができる。私が座った時は、すべてのテーブルが開いていたが、段々と人が増え、外が暗くなった頃には、すべてのテーブルが人で一杯になっていた。のんびり、コーヒーを飲んでいると、隣のテーブルにいたドイツ人家族の子供達が、私のところにやってきた。3~4才位の男の子と女の子だ。非常に愛想が良い。「ビーゲーティスイーネン(元気?)」と声をかけると、ニコニコしながら「フート(元気よ)」と応えていた。子供らしい子供という感じで、可愛い兄弟であった。「ビタジン(さよなら)」と言うと、小さな手を目一杯振っていた。

午後7:50に搭乗手続きをしてバスで飛行機まで移動。午後8:05、飛行機の座席に着く。午後8:30に離陸。視界は良好で、夜景が綺麗だ。途中気流の悪い所もあり、少々揺れたが、概ね順調に飛行。午後9:05にハノーバーの空港に着陸した。空港からホテルまではタクシーを利用。運転手は英語もOKとの事で、助かった。ホテル名を告げると共に、ドイツ語で書かれたホテルの名前と住所を見せると、直ぐに了解との返事が返ってきた。暫く走ると、高速道路を使うか否かを尋ねてきた。料金がどれぐらい余分に必要なのかを聞くと、5ユーロぐらいとの返事。少しでも早くホテルに行きたかったので、高速道路を利用することにした。後で気が付いたことだが、こちらの高速道路は無料なので、余分な料金がかかるという意味は、距離が遠くなるということだったのである。今回は結果に問題はなかったが、日本の感覚で話をしていると、こんな所にもズレが出てくる。ところで、ご存知の方も多いであろうが、ハノーバーはメッセ(見本市)の町として世界中から人々が集まる国際都市だ。メッセの頃は、タクシーも休む暇が無いぐらい忙しくなるようだ。ハノーバーの中心街に入ると、美しくライトアップされた「ライネ城(州庁舎)」や「市庁舎」の姿を見ることが出来た。

午後9:30、ホテルに到着。少し多い目のチップを含めて35ユーロ支払う。ホテルのフロントに向かうと、横のロビーで添乗員が待っていてくれた。明日以降のスケジュールや私の観光への希望などを話し、午後9:50に部屋に入った。いよいよ明日から北ドイツ・ハンザの旅が始まる。非常に楽しみだ。

マインタワー
http://www.maintower.de
ハノーバー空港
http://www.hannover-airport.de/
マリティム・スタッドホテル・ハノーヴァー
http://www.jp.asiarooms.com/germany/hannover/maritim_stadthotel.htnl
ハノーバー市
http://www.hannover.com

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November 06, 2007

フランクフルトの大聖堂とゲーテハウス

バルト三国と北ドイツの旅(第21回)

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「ゲーテ広場」に着き、最初に向かった先は「ゲーテハウス」だ。「ゲーテハウス」へは、「ゲーテ博物館」(写真 : 外観)から入る構造になっている。入館料は「ゲーテハウス」と「ゲーテ博物館」共通で、5ユーロ。日本語版の小冊子もあったので購入した。1.5ユーロだ。チケットを購入する際、先程訪れた「貨幣博物館」で割った私の爪が引っかかったのを見て、受付の男性は親切にも、絆創膏を取りに行ってくれた。バンドエイドがつながったようなものを適当な大きさに切って、割れた爪の上に巻いてくれた。また、予備として3枚切って渡してくれたのである。日本で見るバンドエイドは一枚ずつ包装してあるが、こちらのものはロールになっており、必要な大きさに切って使うというもの。このような商品があるのかと感心するとともに、初めて会った旅人である私に対し、大変親切にして頂いたことに感謝した。飛行機へ持ち込む手荷物だけの旅のため、爪きりをカバンに入れることができなかったので、うっかり伸びた爪を棚に引っ掛けて割ってしまったのである。祝日で薬局も開いておらず困っていた時だったので、本当に有難かった。

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受付からホールに入ると、ゲーテの作品類が展示されていた。ホールを出て階段を上ると、「ゲーテ博物館」だ。ここは一般的な文学博物館ではなく、ゲーテ時代の一連の絵画を見せている。印象に残った作品を3点挙げると、第一はモルゲンシュテルンのミニチュアキャビネットだ。モルゲンシュテルン芸術家族3世代によって作られたフランクフルトのコレクション絵画を細密に縮小したコピー作品である(写真左)。第二はJ・Hヒュッスリ作の「悪魔」だ。「ヒュッスリは表現に富んだ、活発な、しかし厳しく構成された作品を情念こめて描出することによって、疾風怒涛期の動きの中で、”本物の天才”と讃えられた」(ゲーテ体験より)画家であり、彼の最も有名な作品が、この「夢魔」なのである(写真中)。第三はJ・Pハケルト作の「アルカディアの川風景」だ。歩きながら観賞していた中で、私が最も魅せられた一枚である(写真右)。何とも言えない”のどかな”雰囲気が魅力的である。冊子「ゲーテ体験」には、「”私もまたアルカディアに” これはゲーテが1816年に”イタリア紀行”の初版で前書きしているモットーです。”こんなに、心身ともに気分がいいことはない”とゲーテは書いているのです。後に、はかない幸福の詩的表現である古代の理想郷アルカディアのように、1786年-1788年のイタリア滞在は、もう2度とこのように幸せだったことはなかったといえます」と書かれていた。この絵を見ていると、ゲーテの気持ちが分かるような気がする。

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「ゲーテ博物館」の1Fにある広間から中庭(写真)に出て、数メートル先に「ゲーテハウス」がある。冊子「ゲーテ体験」によると、「ここで、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは、1749年8月28日の12時きっかりに生まれました。ここでは、妹コルネリアと共に育ちました。1755-56年の改築の折、ゲーテの家は今日の外観を得、それから”三面の縦琴”と名づけられ」たという。中に入ると「玄関の間」があり、右手には「台所」(写真)がある。Photo_6
ここで面白いのは、地下室の井戸とつながっている水ポンプだ。たいていの人々が、数多くある公衆井戸から水を得ていた時代であることを考えると、非常に珍しいものである(「台所」の写真の右手に写っている縦長の箱状の機具)。「台所」の隣には「青の間」と呼ばれる食堂があり、その向かい側の部屋は「黄色の間」と言われる応接間だ。階段を上った2Fには、「控えの間」が広がる。このフロアには、「ペキンの間」や「灰色の間」などがある。前者の部屋の名は、18世紀の中国の流行を取り入れているからであり、家族の祝い事や高級来客の接待に使われたようだ。また後者は、音楽室として使用されたとの事。Photo_7Photo_8Photo_9

3Fに上がると、「控えの間」がある。ここで珍しいのは、「天文時計」(写真左)だ。「上にまわっている輪は日付を示していて、その下では時刻、月の満ち欠け、正座と太陽の位置関係を読み取ることができる」(ゲーテ体験より)という。その他このフロアには、約2,000冊の蔵書を納めた「図書室」(写真中)や、ゲーテが生まれたと伝えられている「誕生の部屋」などがある。最上階である4Fには、ゲーテが数々の作品を生み出した「詩人の部屋」や「人形芝居の部屋」などがある(写真右 :「詩人の部屋」から見た「人形芝居の部屋」)。

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約1時間15分、「ゲーテハウス」の見学を終え、次に向かったのは「パウルス教会」(写真左)だ。「ゲーテハウス」から東へ200mぐらいのところにある。戦後再建された新しい建物。自由・統一・民主主義のシンボルとされ、2Fは巨大なドーム状の集会場になっている(写真右 : 円形ドームとパイプオルガン)。Photo_122f10分程見学し、「旧市庁舎レーマ」(写真左)に行った。1Fに「インフォメーションセンター」があるので、そこに立ち寄り、フランクフルトのガイド付き地図を0.5ユーロで購入する。続けて南側の入り口から、「旧市庁舎レーマ」の中に入った。入場料は2ユーロ。2Fに上がると、皇帝の広間「カイザーザール」(写真右)がある。神聖ローマ帝国の新皇帝の戴冠式が行われた後に祝宴が開かれる場所だ。壁の上部周囲には、歴代神聖ローマ帝国皇帝の等身大の肖像画が並んでいる。午後2:20頃、「旧市庁舎レーマ」を出る。前にある「レーマ広場」ではイベントが催されており、人で混雑していた。その間を縫うようにして、東へ進んだ。目的地は、正面に建つ「大聖堂(聖バルトロメオス教会)」(写真左)である。工事中のため、シートが巻かれている。まるで怪我人のようだ。ゴシック様式の教会で、塔の高さは95m。Photo_13Photo_14

当時の帝国教会で、1356年より選帝教会、1562年から1792年までは神聖ローマ皇帝の戴冠式用教会であった。現在は司教所在教会(大聖堂)である。現在の建物は1953年に再建されたもの。内部にある数々のゴシック様式の祭壇は美しい(写真右)。教会の入り口左手には、「ドーム博物館」がある。見学料は2ユーロ。

午後3:00に「大聖堂」を出て、ホテルの方向に進路を変えた。マイン川沿いの道から一つ北側の通りを歩いた。「歴史博物館」に立ち寄るが、興味あるテーマではなかったので、この先にある「前史先史博物館」に行くことにした。タイムリミットがあるので、どちらかを選ばなければならない。AmfrankfurtGigant1Antike2
「歴史博物館」から東へ200m程で「前史先史博物館」(写真左 : 前史先史博物館のHPより)に到着。入館料は5ユーロ。チケット購入のため受付に行くと、解説はすべてドイツ語だが良いですかと確認の言葉。何とかなるだろうと思い、承諾した。ガラス張りで広々とした館内。入り口から左手に進むと、展示室がある。ドームのように天井が高い。残念ながら、内部の写真撮影は出来ない。石柱(写真中 : 前史先史博物館のHPより)や石像、石や骨で出来た道具類、土器などが展示されている。また別室には、古代ギリシャの黒絵式と赤絵式の土器が多数並べられていた(写真右 : 前史先史博物館のHPより)。発掘された古代ローマ時代の貨幣類の展示もあったが、ドイツ語の解説だったので良く分からず仕舞い。ただ、当時の元老院議員の給与や一軒の家、お墓、一頭の牛、5kgのパンなどの価格が表示されていたので、何かの参考になると思いメモしておいた。ところで、お客は私を含めて4~5人と非常に少ない。監視員の方が多いように思える。午後4:00になったので、博物館を出ることにした。なおこの博物館については、下記のHPで英語の解説を見ることが出来るので、興味のある方はご参照願いたい。

(参考文献)
・「ゲーテ体験」(フランクフルト・ゲーテ博物館他編集・発行)
・「地球の歩き方・ドイツ06~07」(「地球の歩き方」編集室編)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]

フランクフルト・インフォメーション
http://www.frankfurt-tourismus.de
ゲーテハウス
http://www.goethehaus-frankfurt.de
歴史博物館
http://www.historisches-museum.frankfurt.de/kronbergerhaus
前史先史博物館
http://www.archaeologisches-museum.frankfurt.de

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November 04, 2007

ドイツ中央銀行貨幣博物館

バルト三国と北ドイツの旅(第20回)
貨幣ぶらり旅(第130回)

本日は夜の飛行機でハノーバーに行き、次のツアーに合流する予定だ。飛行機の時間までは、フランクフルト市内観光を計画している。朝は出発時間も決まっていないので、久しぶりに時間を気にせずに過ごした。午前7:30に目覚め、午前8:00にホテルのレストランに行く。このレストランも、いわゆるビッフェ形式だ。ハム、ウィンナー、スクランブルエッグ、パン、バナナ、ヨーグルト、フルーツ、コーヒー、フルーツジュースを頂く。バルト三国のホテルと異なり、カットフルーツが少ない。丸ごとのオレンジやリンゴは置いてあるのだが、カットされたパイナップルやメロン、スイカなどは無い。レストランを見渡せるテーブルを確保し、全体の雰囲気を見ていると、宿泊客は西洋人らしい人だけでなく、インド人や中国人も目立つ。日本人はいない。一時間ほどかけて食事を終え、午前9:00前に部屋に戻った。

本日訪問を予定している中で、最も期待しているのが「ドイツ中央銀行貨幣博物館」である。もう一度、そこへの行き方を確認し、午前9:20に部屋を出た。荷物だけ預かってもらい、チェックアウトを済ませた。駅の側なので、非常に便利である。ホテルを出て、「フランクフルト中央駅」の正面から地下道を潜り、北東に向かった。「フランクフルト中央駅」からすぐにSバーンに乗っても良かったのだが、「欧州中央銀行」(以下ECBという)にも行ってみたかったので、途中まで歩くことにした。街を歩いていると、何か変だと感じた。水曜日の平日なのに、店も銀行も閉まっているからだ。しかし、ドイツはオープンするのが遅いのかなと思いながら、先を急いだ。左手に高い建物が見えた。これは「州立中央銀行」の本部である。「ECB」の建物は南東方向なので、正面にある公園沿いに右折した。すると「ECB」の本部が現れた。こちらのビルも超高層である。建物の入り口まで行くが、閉まっていた。ユーロコインを展示するショーケースが見えたので、お店の方にも行くが「CLOSED」の表示。建物の周りをウロウロしていると、1人の男性が声をかけてきた。ロシアのプーチン大統領に似た中年の男性だ。何をしているのかと尋ねるので、日本から観光できたと説明すると、今日は祝日であるとの事。10月3日は「ドイツ統一記念日」なのだ。どおりで商店や銀行が閉まっているわけである。「ECB」も休みなのだ。Photo_4
仕方ないので写真を撮ろうと、本部の入り口方向に歩き始めると、そちらは立ち入り禁止だという。写真を撮りたいのだと説明すると、右の道を回ると良い場所があると教えてくれた。言われたとおりの道を進むと、確かに良いアングルの写真が撮れた(写真)。しかし、彼は一体何者だったのだろうか。警備員???

「ECB」の写真を撮った後、Sバーンに乗るため、北に300mほどのところにある「ゲーテ広場」に向かった。この広場の地下に、駅があるのだ。本日は空港にも行かなければならないので、空港~市内有効の一日乗車券を購入した。5.05ユーロである。地下鉄(以下Uバーンという)の「Hauptwache駅」から乗車して5駅、「Dornbusch駅」で下車。ずっと地下を走るのかと思っていたのだが、途中からは地上を走っており、この駅も地上にある。地下と異なり、地図を見れば迷うことは無いだろうと考えていたのだが、「ドイツ中央銀行貨幣博物館」のHPから得た地図は、縮尺が正確でなかったため、良く分からない。誰かに道を尋ねようかと思っても、無人駅のため駅員はいないし、祝日のためだろうか、誰も通らない。もしかして、「ドイツ中央銀行貨幣博物館」が閉まっていたらどうしようと、少々不安になった。地図に書いてある道の名前を探し、迷いながらも、約15分で目的地に辿り着けた。入り口も開いており、ホッとした。ここまで来た後で地図を見ると良く分かるのだが、この地図だけを頼りにここまで来させるには少々不親切な地図のように思えた。

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午前10:30、「ドイツ中央銀行貨幣博物館」(写真)に入館。入館料は無料だ。入り口から直ぐ右手にショップがある。その前には階段があり、十段ほどの階段を下りると、そこが展示場である。Photo_6そこには牛が置かれていた。古代では、牛が交換の媒介手段だったと言うわけである。その先には、貨幣が生まれる以前の貨幣類が展示されていた。例えば、紀元前6~5世紀頃に使われた魚もしくは木の葉状のマネーや、紀元前5世紀頃のインドの銀板マネー(写真)、紀元前4世紀頃に中欧辺りで用いられた車輪型マネー、紀元前3世紀頃のローマの銅板マネーなどである。

原始的ではあるが最近まで使われたものとして、「塩のバー」(写真左)と「紅茶葉のブロック」(写真右)が面白い。Photo_7Photo_8

前者は、エチオピアとその近隣地域で、20世紀の終わり、つまりつい最近まで使用されていたという。塩は1kg単位で棒状にされており、このバー30~40本がマリアテレジアのターレル銀貨と等しい価値を持っていたようだ。後者は磚茶(たんちゃ)と呼ばれるもので、お茶の葉をブロック状にしたもの。チベットやモンゴル周辺のアジアの一地域では、20世紀半ばまでコインや紙幣代わりに使われていたのである。

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壁側の展示に目を移すと、現在使われているユーロについて詳しく解説されていた。紙幣の印刷原版(写真)や紙幣に用いる紙、ホログラムなどのセキュリティーなど、ここまでディスクローズしても良いのかと思うほどのことが、実物を示しながら説明されていた。スライド式の棚があったので開けて見ると、これまでに発行された紙幣が並べられていた。ライヒスマルクにレンテンマルクなどを見ることができる。Photo_10
たくさんのディスプレーが並んでいるコーナーに行くと、ドイツの貨幣の歴史について知ることができるようになっていた。英語の解説も選択できる。私にとって最も参考になったのは、第一次世界大戦後に起きたハイパーインフレーション前後の貨幣事情についてである。特にノトゲルド(緊急通貨)については、時間を忘れて読み耽った(写真)。

約1時間半の見学を終え、ショップに立ち寄った。40枚(5×8)がつながった5ユーロ紙幣や、ドイツの記念プルーフコインなどが売られていた。私は神聖ローマ帝国時代前後からの貨幣の歴史に関する書籍が欲しかったので、色々と探してみたが、残念ながらすべてドイツ語で書かれており、しかも数百ページある。とても読めないと諦めかけていたところ、ドイツ語で書かれているが、写真の豊富な100ページ未満の本を見つけたので、早速購入することにした。その他、展示されていたコインや紙幣の絵葉書やユーロコイン関連の冊子なども入手した。

午後12:10に「ドイツ中央銀行貨幣博物館」を出て、「Dornbusch駅」に向かった。今度は簡単だ。午後12:25に列車に乗り、午後12:30過ぎ、「Hauptwache駅」で下車。「ゲーテ広場」に戻った。

ドイツ中央銀行貨幣博物館
http://www.geldmuseum.de/sammlung/sammlung_geschichte.en.php
欧州中央銀行(ECB)
http://www.ecb.int/home/html/index.en.html

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November 03, 2007

ヴィリニュスからフランクフルトへ

バルト三国と北ドイツの旅(第19回)

本日は、バルト三国の旅の最終日である。しかし今回は北ドイツの旅と組み合わせているので、今日はフランクフルトに移動する予定だ。午前6:30に目覚め、午前7:10~8:30頃までノンビリと朝食を頂く。本日でお別れとなるツアーメンバーの人達とお話しをしていると、時間が経つのも早い。朝食後、ホテルの近くにある銀行を訪ねた。残ったリトアニアのお金を、ユーロに換えるためである。銀行名は「SIAULY BANKAS」(写真)。Sla
この銀行の外貨両替の窓口はハイカウンターだ。優しそうな中年の女性が受け付けてくれた。329.65リタスが、手数料込みで95ユーロになった。手元に少し残ったツェンタスコインは、コレクション入りである。15分程で手続きを終え、ホテルに戻った。部屋に行くためエレベータに乗ると、仕事のため、チェコから来たという男性と一緒になった。僅かに知っているチェコ語で「ドブリーデン(おはよう)」と「ジェクイット・バーム(ありがとう)」と言うと、彼の表情が急に緩み、「アリガト」、「サヨナラ」と言って笑っていた。いつものことだが、たった一言相手の国の言葉を話すだけで、雰囲気が和むのは面白い。

本日の出発予定は午前9:15だが、チェックインの手続きをするために早めにロビーに降りた。するとツアーメンバーの多くが、既にロビーに集まっている。全員の集合が早かったので、午前9:08にバスは出発し、ヴィリニュス空港に向かった。空港へは午前9:45に到着。午前10:15には、チェックイン、出国手続き、手荷物検査を終えた。午前10::55に搭乗開始だが、直接飛行機には乗り込めない。飛行機の側まで移動するためバスに乗るが、暫く待たされ、午前11:20、ようやく飛行機に乗ることができた。ヘルシンキの空港からタリンの空港へ飛ぶ時は、フィンランド航空の共同運航であるアエロフロートであったが、今回はフィンランド航空の飛行機である。午前11:35、飛行機は飛び立ち、午前11:50に昼食が配られた。メニューは、ハム、ポテト、レタス、パン、コーヒー、コーラ、水、チョコレートだ。Photo_2
ヘルシンキの空港に到着する少し前、大雨が降っていたが、暫くすると雨は止み、今度は灰色の雲をスクリーンにして、最初は1本の虹が、その後2本の虹が映し出されていた(写真)。

午後12:37、フィンランドの空港に着陸。こちらもターミナルまでは、バスで移動だ。空港の地面はかなり濡れていたが、空は薄日が指すほどになっていた(写真)。Photo
午後12:50、とりあえずツアーメンバーの方たちとお別れの挨拶をして、乗り継ぎゲートに向かった。入国審査を済ませ、ブラブラしていると、再びツアーメンバーの方たちと出会った。私の乗る飛行機の出発時間は午後5:02分。かなり時間があったので、添乗員と一緒に空港のレストランで食事をして過ごした。午後3:40、添乗員と別れて1人になる。次の目的地での観光に備えてハンザ同盟に関する本を読み、飛行機の時間が来るのを待った。

搭乗は午後4:45からで、飛行機は予定より10分遅れの午後5:15に離陸した。ヘルシンキからフランクフルトと、フランクフルトからハノーバーの間はエコノミークラスである。窓側で3人の座席。私は窓の席で、隣に座ったのは若い女性2人。フィンランド人である。学生さんか思ったのだが、既にお勤めしているとの事。バカンスでタイ、マレーシア、シンガポールなどに行く計画。日本は予定に入っていない。休暇は1ヶ月。日本とは異なり、長期の休みが取れるのだ。彼女たちと雑談していると、夕食が出てきた。メニューは牛肉、インゲン、ポテト、パン、コーラ、コーヒーである。食後一眠りして目覚めると、もうすぐフランクフルトの空港に到着だという。午後7:15、飛行機は着陸した。ここで時計の時間を変更する。バルト3国とは1時間の時差があるので、現在は午後6:15だ。こちらも、飛行機からターミナルへはバスで移動する。

空港からホテルのあるフランクフルト中央駅へは、都市近郊列車(Sバーン)で行く予定なのだが、案内板を見ても、どのように行けば良いのか分からない。空港の職員らしき人に尋ねた。すると、エスカレーターで2Fに上がり、モノレールでターミナル1に移動、その地下にSバーンの駅があると、親切に教えてくれた。午後7:00にSバーンのチケットを購入し、駅のホームにたどり着く。目の前に停まっている列車に乗れば良いのか分からなかったので、ドア付近にいた男性に尋ねると、この列車でOKとの返事。3つめが、目的のフランクフルト中央駅である。私もドア付近に乗ったので、先程の男性に話しかけた。すると、彼はヘルシンキの空港から私のことを見ていたとの事。理由は、緑の帽子が目立ったから。エストニアとラトビアの国境で、フィンランド人のおじさんから貰った帽子だ。確かに強烈な緑色に赤い羽根。皆が気になるだろう。Photo_3
ところで彼はドイツ人で、フランクフルトには仕事で行くとの事。しかしドイツ人が何故、ヘルシンキから飛行機に乗ってドイツに仕事に来るのかと思ったら、奥さんがフィンランド人で、現在フィンランドに暮らしているからだ。チョッと疲れ気味だとも言っていた。何処の国でも、妻は強し? 列車は10分程でフランクフルト中央駅(写真)に到着した。

ホテルは駅から徒歩1分と、非常に便利な所にある。南出口を抜けると、直ぐにホテルの看板が見えた。ホテルの外観は少々古びた感じだ。フロントでチェックインの手続きをしていると、ホテルのスタッフが私の帽子を見て、フィンランド祭りに参加するのかと尋ねてきた。現在祭りが開催されているとの事で、私の帽子を見てすぐにフィンランドのものだと分かったと言っていた。帽子一つで会話が弾むとは、面白いも。部屋に入ると、薄暗い感じ。ツアーに組み込まれているホテルのグレードは高いので、それらと比べると見劣りする。日本で言えば、昭和50年代後半のビジネスホテルというイメージだろうか。ただ、冷蔵庫に入っている飲み物はすべてフリーというのが良い。コーラ、ビール、ジュースなど、種類も豊富だ。日本のビジネスホテルのように、空の冷蔵庫に自分で持ち込ませる方式と比べると、ホテル代は割高になっているのかもしれない。本日は夕食も飛行機で済ませているので、風呂に入った後、明日の計画を立て、午後10:00前にはベッドに入った。

エクセルシオールホテル
http://www.hotelexcelsior-frankfurt.de/ja/

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November 01, 2007

ゲディミナス塔とヴィリニュス大学

バルト三国と北ドイツの旅(第18回)

自由時間になって最初に訪れたのは、「リトアニア中央銀行」である。昨日下見をしており、所在地はわかっていたので、迷うことなく訪れることができた。午後2:10なので、正面玄関は空いている。中に入ると、ヒッソリしている。二つ目の扉の奥には、冊子類が並べられていた。良く見ると、ユーロ貨幣に関する資料だ。各種を頂戴し、更におくに進んだ。すると右手にガラス張りの守衛室があった。話しかけるが、聞こえない様子。守衛がインターホンのスイッチを入れると、話ができるのである。しかし英語が全く通じない。英語の話せる人を出して欲しいと告げるが、これも通じない。仕方ないので、ガイドブックに載っていた「アル・チャ・カス・ノルス・カルバ・アングリシュカイ(英語を話せる人はいますか?)」とリトアニア語で尋ねると「ニェ(いいえ)」との返事が返ってきた。エストニアの貨幣博物館のところでも書いたとおり、各国中央銀行の受付などにいる人で、英語を話せる人はあまりいなかったが、ここも例外ではなかった。残念だが、最初に入手した資料だけを持って、銀行を出ることにした。

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次に目指したのは、「ゲディミナス城」と「ゲディミナス塔」だ。「ゲディミノ大通り」を通って「大聖堂」の前に出て、「リトアニア民族博物館」(写真左)や「考古学資料展示館」、「工芸博物館」(写真右)の前を歩き、ぐるっと大回りした後、ようやく「ゲディミナス城」に続く道に到着。そこからさらに坂道を昇らなければならない。少々疲れ始めていたので、結構きつく感じる。10分程上がると、目の前に「ゲディミナス塔」(写真)が現れた。Photo_3
この塔は、現在「丘の上の城博物館」になっており、閉館日はないと聞いていたのだが、クローズされていた。本日は月曜日なので、わが国同様、博物館などの休館が多い。月曜日でもオープンしている数少ない博物館だと期待していたのだが、残念である。ところで、「ゲディミナス城」は「上の城」と「下の城」と呼ばれる二つの城からなる。最初に築かれたのが、丘の上に建つ「上の城」で、14世紀前半に首都をトラカイからヴィリニュスに移したゲディミナス大公によって建てられたのである。ここに城を建てたことについては、伝説が残っているのでご紹介する。Photo_4
「ある日トラカイ城から狩に出かけたゲディミナス大公は、ふたつの皮に挟まれた丘の近くに野営を張った。その夜、彼は不思議な夢を見た。それは丘の上に立ち、大きく吠える鉄の鎧を着けた狼の夢だった。祭司のリジェイカはその夢を神の信託と判断し、喜んだ大公はその丘に城を築くことにした・・・・・・。人々の間で語り継がれてきたヴィリニュス創設の伝説である」(「地球の歩き方・バルトの国々07~08」より)。前回お話した、「大聖堂」前の「カテドゥロス広場」で見た「鉄の狼とゲディミナス大公の像」(写真)がこの物語を表しているのである。「下の城」については、「大聖堂」の東側にあり、現在修復中であることなど、前回お話したとおりである。

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ここまで昇って来たことで少々疲れが出たため、ベンチに腰掛けて暫く「旧市街」を眺めることにした。日差しは強いが、心地良い風が吹いている。お年寄りのご夫婦から、若者のカップルまで、十数人の人達が景色を楽しんでいた。ここからは、午前中に見た「十字架の丘」に立つ「白い十字架」が、ほぼ同じ高さに見える(写真左)。また北西の方角には、現在我々が宿泊しているホテルもわかる(写真右)。10~15分ほど休憩した後、坂を下って「旧市街」の中に戻り始めた。すると、エレベータから降りてくるカップルがいるのである。ここに昇るエレベータがあるとは聞いていたが、このようなところにあるとは思わなかった。Photo_7
早速エレベータを利用して下った。1分もかからない。エレベータヲ降りて出口に向かうが、回転式のバーがあり、どのようにすれば出られるのかわからなかった。すると係員のおじさんが、片道だけだと1リタスだと教えてくれた。料金を支払うとバーが回転し、外に出ることができた。ここは「考古学資料館」の中庭である(写真)。本日は休館日だと思っていたため、エレベータがあることを見過ごしてしまったのだ。休館日でも、このエレベータだけは動いているらしい。

次に向かったのは「ヴィリニュス大学」である。午前中、外観だけを見たが、内部にも見るべきところが数多くあるのだ。「大学」に行く途中、気になる文字が目に飛び込んできた。「Hansa bankas(ハンザ銀行)」という看板である。午前中、バロックやルネッサンスなど色々な建築様式の建物を見ることができると案内された、「ピリエス通り」にある。外貨両替のためと言うことで、中に入った。日本の中規模店舗ぐらいの広さで、清潔感あふれる綺麗な内装であった。番号札を取ると「51番」であったが、直ぐに呼ばれた。ローカウンターに座る。受け付けてくれたのは、25歳前後で、映画スターの「アンジェリーナ・ジョリー」に似た美人女性。コレクション目的の両替である旨説明し、新札との交換を依頼すると、面倒がらずに一生懸命準備してくれた。日本人と話す機会はほとんど無いとの事だったからであろうか、少々話し込んでしまった。リトアニアの銀行が午前8:00~午後6:00まで営業していること、またその間職員の休憩時間は、昼にたった30分しかないと言うこと等など・・・。ちなみに彼女は独身で、日本には来たことが無いと言うことも付け加えておこう。100ドルのトラベラーズチェックは237.14リタスとなって返ってきた。手数料は3.66リタスだ。

午後3:30頃に銀行を出て、いよいよ「ヴィリニュス大学」である。入り口は、午前中に訪れた場所にある。多くの学生が自由に出入りしているので、チケットを持っていなくてもわからないのではないかと思いながらも、受付のある建物に行き、5リタスで入場券を購入した。Photo_8
入り口を入ると、広い中庭である(写真)。正面の建物には、日本でいうところの生協が入っている。専門書も多数置かれているので、貨幣関連やハンザに関する書籍があるのではないかと大いに期待しながら探した。しかし見つからないので、係りの人に検索してもらったが、やはり無いとの事。貨幣学の講座など、該当する学部・学科がないと、それに関する書籍も置いていないのだろう。現在「ヴィリニュス大学」には12学部、24,000人の学生がおり、「旧市街」には3学部と図書館があるとの事。

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次に向かったのは校舎の奥にある中庭だ。四角形の中庭の三面はアーケードに囲まれ、東側は「聖ヨハネ教会」の正面壁と巨大な鐘楼(63m)に塞がれている(写真)。教会は、大学構内の見所の一つで、イエズス会の時代から大学の礼拝堂の役割を果たしている。14世紀末頃に建設が始まり、15世紀初頭に完成し。火災後の18世紀の改築では末期バロック様式が取り入れられたが、19世紀の改築に際し、豪華なバロック様式であった教会正面の大部分が取り払われ、古典主義の特徴が加えられた。旧ソ連時代には教会は閉鎖され、一時大学の博物館になっていたが、1991年には再び教会に戻されたという。中庭で写真を撮った後、図書館を探してウロウロしていると、1人の男子学生が声をかけてきた。何かお困りですかと訪ねてくれたので、ガイドブックに乗っていた「古書室」の写真を見せ、ここに行きたい旨伝えると、親切にも案内してくれた。ヴィリニュス大学の学生で、法律を専攻しているとの事。大学構内は広く、迷路のようになっているので、「古書室」の前まで連れて行ってくれたことは、大変有難かった。「古書室」に入るには、大学への入場料とは別にチケットが必要なのだが、その窓口も教えてくれ、そこで彼とは別れた。爽やかな青年であった。「古書室」のチケットは、8リタス。入り口の扉を開くと、目の前にクラシック様式のホールが現れた(写真左)。Photo_10Photo_11

19世紀にミカエル・シュルツとカロル・ポッチャシンスキによって設置されたという。真ん中には長いテーブルと数十個の椅子が並んでおり、両脇には古書が展示されたショーケースが置かれている。また天井中央には、「イエズス会の保護者聖母マリア」というバロック様式のフレスコ画が描かれている(写真右)。十分に楽しんだ後、次は言語学部の2Fにあるという「四季」と呼ばれるフレスコ画を見に行くことにした。少し迷ったが、直ぐに入り口正面左手の建物が目的の場所であると分かった。Photo_12
階段を昇ると、目の前にフレスコ画が広がった。自然崇拝時代の生活を描いた絵であるが(写真)、異次元の人々を見ているような気分になった。これらの絵画を見た後、中庭に出ると、先程とは異なり大学生で混雑していた。丁度授業が終わったのだ。午後5:05、大学生に混じり、私も大学を後にした。

Photo_13Photo_14

今日は朝から歩き回ったからであろうか。少し疲れ始めたので、ホテルに戻ることにした。「ヴィリニュス大学」の前で、かつ「大統領官邸」の前にある「ダウカント広場」を横切り、「ヴィリニアウス通り」に出た。「ラドゥヴィラ家の館」(写真左)の前を通って真っ直ぐ進むと「ゲディミノ大通り」(写真右)だ。本日は夕食が無いので、「行政府広場」の側にあるマクドナルドでハンバーガーを購入し、持ち帰った。ホテルには午後5:30頃到着。ハンバーガーを部屋で食べ、いつものように入浴、資料整理を行った。さらに本日は、明日ツアーメンバーと別れて行動するため、飛行機の乗り継ぎなどを再度確認した。次のツアーである北ドイツのガイドブックを読んでいて、いつの間にか寝てしまった。早く寝たことは間違いないのだが、何時頃だったのか思い出せない。

(参考文献)
・ 「ヴィリニュスとトラカイ」ガイドブック[日本版](トマス・ヴェンツロヴァ著)[パクニース出版社刊]
・ 「地球の歩き方・バルトの国々07~08」(「地球の歩き方」編集室編)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]

ヴィリニュス・インフォメーション
http://www.vilnius-tourism.lt
大聖堂(アルキカテドゥラ)
http://www.katedra.lt
ヴィリニュス大学
http://www.vu.lt
ハンザバンク
http://www.hansa.lt/en/index.html

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October 31, 2007

ヴィリニュス旧市街観光

バルト三国と北ドイツの旅(第17回)

本日、午前中はヴィリニュスの「旧市街」観光で、午後はフリータイムである。午前6:40頃に目覚め、午前7:00に朝食のためレストランへ。約1時間半、ノンビリ食事をする。いつものとおり、バイキング方式。メロン、キーウイ、パイナップルなどの果物、ポテトフライ、トマト、キュウリ、ハム、半熟卵、ヨーグルト、ミックスジュース、コーヒーを頂く。

午前9:00、ロビーに集合し、バスで観光に出かける予定だったが、定刻になってもバスが来ない。交通事故に巻き込まれ、遅れているとの事。結局50分遅れで、代わりのバスがやって来た。バスの運転手はイゴールさん、ガイドはアンドレイさんで、どちらも男性である。アンドレイさんは、3年間日本語を独学し、専修大学で2ヶ月の間日本語を学んだと言う。その間、東京に住み、京都や奈良、札幌、函館などを旅したとの事。砂風呂で有名な指宿にも行ったそうで、砂風呂に入っている写真をリトアニアの友人に見せたところ、死体と一緒に埋められているのかとの感想が返ってきたと言っていた。

午前9:50に出発したバスは、最初「旧市街」から少し東に離れた所にある、「聖ペテロ・パウロ教会」と「3つの十字架の丘」に向かった。午前9:57、「聖ペテロ・パウロ教会」(写真)に到着。Photo
バロックの街ヴィリニュスを代表する建築物と言われており、リトアニア大公国首長ミーコラス・カジミエラス・バツァスの寄付によって建てられた教会である。「1668年、建築家ヤン・ザオルの設計により教会の建築工事が始まり、1676年に教会は現在の形となり、1671年から1704年にかけて教会内は壁画と化粧漆喰細工で飾られた。中央祭壇にはプランチシクス・スムグレーヴィチュスによって描かれたアカデミズム派の“聖ペテロとパウロの告別“と題する絵が飾られている。この教会はクーポラと二つの塔を持ち、その平面図は十字架の形をなしている。教会には身廊と側廊があり、側廊はチャペルになっている。」Photo_2Photo_3
「ヨーロッパにおいても独特である教会の内装は、2,000以上の漆喰彫刻によって装飾されている(写真左)。彫刻のテーマとなるのは、聖書と歴史、神話、寓話に登場する者、様々な民族と社会階級、職業を代表する形象、想像上の生き物、悪魔、植物、動物、天体、軍事を象徴する物、聖具、日常用品から取り入れられたものである」(「ヴィリニュスとトラカイ」ガイドブック[日本版]より)との事。また、教会の天井にはフレスコ画が描かれている(写真右)。

午前10:25に教会を出て、バスで「3つの十字架の丘」に向かった。僅か2分で駐車場に到着。しかし、ここから少し坂道を上らなければならない。小学校の頃、遠足で訪れた地方の小さな公園のような雰囲気である。数分歩き、階段を昇ると、「3つの十字架の跡」(写真左)の前に出た。Photo_4Photo_5

14世紀頃、キリスト教の修道士がこの丘に教会を建てたが、異教徒に教会を焼かれ、修道士達も磔にされたという。彼らを記念して、この場所に十字架が建てられたのだが、旧ソ連時代に破壊された。これが「3つの十字架の跡」である。その背後には白い「3つの十字架」(写真右)が建っている。これは独立運動が盛んになった1989年に建てられたものだ。さらに階段を昇り、「3つの十字架」の前に立つと、「旧市街」を一望できる。残念ながら少々霞んでいたのだが、それでも「旧市街」の美しさは感じられる。

午前10:50、バスに戻り、次に向かった先は「大聖堂」である。昨日の夕方、訪れた場所だ。Photo_6Photo_7

バスを「大聖堂」前の「カテドゥロス広場」(写真左 : 広場から見た大聖堂と鐘楼)で降りる。「大聖堂」の奥には、再建中の「王宮」が見える。「王宮」の右手には、「鉄の狼とゲディミナス大公」の像(写真右)が立っていた。「鉄の狼」については「ゲディミナス城」のところでお話しするつもりだが、リトアニアの人々の間で語り継がれてきたヴィリニュス創設の伝説だ。「大聖堂」の正面、屋根の上には「三聖人の像」が立っている。旧ソ連時代には取り外されていたが、1996年に再度据え付けられた。

午前11:05、「大聖堂」の中に入る。正面を見ると、巨大な柱が立ち並ぶ。異教時代、この「大聖堂」が建てられた場所には、ペルクーナス(雷の神様)を祀る神殿があった。13世紀、キリスト教を受け入れたミンダウガス大公によって、最初の「聖堂」が建てられたが、彼は暗殺され、「聖堂」も取り崩された。しかし、14世紀にヨガイラ王が国をキリスト教化するとともに、新しくゴシック様式の「聖堂」を建設した。Photo_8Photo_9

その後もルネッサンス様式やバロック様式などで増改築が繰り返され、18世紀の大改築で現在のクラシック様式になった。旧ソ連時代の「聖堂」は、絵画の保管場所として使用されていたと言う。この建物が「大聖堂」になったのは1988年の事。「大聖堂」の内部で最も素晴らしいと言われているのが、「聖カジミエルのチャペル」(写真左)だ。バロック様式で、中には、かつてリトアニアのパトロンであった聖カジミエルの石棺が安置されており、壁には聖カジミエルを描いたイコン(写真右)が飾られている。

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午前11:17、「大聖堂」を出て「大学通り」を南に進むと、正面に「大統領官邸」(写真左)が見えた。そして左手には16世紀に創られた「ヴィリニュス大学」(写真右)だ。この時は外から見るだけ。この大学については、午後のフリータイムの時に再び訪れたので、詳しくはそちらの方でお話しする。「ヴィリニュス大学」の後は、「大学」の向かい側で、「大統領官邸」の南側にある「アルムナータスの中庭」(写真)を見学した。Photo_12
ここは、ヴィリニュス大学の学生のために、1582年に建てられた寮だ。中庭に面してアーチを持つ三階建てが印象に残る。その後、「ヨノ通り」から「ピリエス通り」を歩いた。「ピリエス通り」には、バロック様式やルネッサンス様式など、様々な様式の建物が並んでいる。この通りを抜けて、「聖アンナ教会」に向かっていたのだが、ツアーメンバーの1人が、どうしてもトイレに行きたいとの事。仕方ないので、近くにあった琥珀のお店「Amber」に入ることとなった。Photo_13
その店では琥珀の品々を販売しているだけでなく、地下に「琥珀博物館」が併設されていた。10分程であったが、琥珀に関連する知識を得ることができた事は収穫であった(写真)。

琥珀の店を出て東に50mほど歩くと、右手に修復中の「聖ミカエル教会」が見え、更に銃数メートル進むと「聖アンナ教会」と「ベルナルディン教会」が現れた(写真 : 前方が「聖アンナ教会」)。Photo_14
「聖アンナ教会」は、ヴィリニュスで最も有名な建築物の一つであり、フライボワイヤン様式(火炎式、14~16世紀に発達したゴシック晩期の建築様式)の傑作といわれている。ヨガライ朝の建築家ベネディクト・レイトにより、1495年~1500年にかけて造られた。「聖アンナ教会」の後ろに見えるのが「ベルナルディン教会」である。この教会は、ヴィリニュスにあるゴシック様式の建築の中で、最も大きな建物の一つである。15世紀後半に建てられ、16世紀以降改築が繰り返され、17~18世紀にはルネッサンスとバロック様式の特徴も取り入れられている。

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午後12:05、「旧市街」の南端にある「夜明けの門」に行くため、バスに戻った。バスは狭い道を走れないため、一旦「旧市街」から離れた道を通る。昨日の夜、レストランに行く時に使ったのと同じ道だ。坂道からは、「旧市街」を一望できる(写真)。「夜明けの門」へは5分ほどで到着した。かつて「旧市街」は、タタール人の攻撃から街を守るため、約20年の期間をかけて、3kmにわたる城壁を設け、そこには9つの城門があった。現在唯一残っているのが、この「夜明けの門」なのである。Photo_16Photo_17

南側から城門を眺めると、壁の銃眼やリトアニアの国章である「騎乗の騎士」に気付く(写真左)。城門を潜り北側から見ると、ルネッサンス様式で描かれた「聖母マリアのイコン」を見ることができる(写真右)。ここは小さな礼拝所になっており、向かって左側の入り口から階段を昇ると、この場所に行くことが出来る。このイコンは、17世紀半ば頃から奇跡を起こす絵として崇められており、この奇跡を信じて遠くから巡礼者が訪れるという。

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「夜明けの門」から「夜明けの門通り」を北へ進むと、右手に「聖テレサ教会」(写真左)がある。この教会はヴィリニュスの初期バロック様式の傑作と言われている。その左奥には、ピンク色の門を持つ「聖霊ロシア正教教会」(写真右)が見える。1749年~1753年にかけて、建築家グラウビツが教会を改築し、ロココ様式の装飾が施されている。この教会の道を挟んで反対側に建つのが「聖三位一体教会」(写真)だ。Photo_20
「ユニエイトという珍しい宗派で、正教の儀礼を残しながらローマ法王に仕えるという」(「地球の歩き方・バルトの国々07~08」より)スタイルのようだ。さらに北に進むと、右手に「聖カジミエル教会」が建っている。この教会は、リトアニアの聖人である聖カジミエルを記念するために、1604年~1616年にかけてイエズス会によって建てられた。しかし、帝政ロシア時代には正教教会として、また1917年にカトリック教会として、更に第二次世界大戦後は無神論博物館として使用された。Photo_21
元のイエズス会に戻されたのは、旧ソ連邦から独立した後、1991年のことである。なお現在は、修復工事中のため、その美しい姿を見ることはできない(写真)。

午後12:30、本日のツアーの終点である「旧市庁舎広場」(写真)に到着した。Photo_22
昨日の夜、レストランに行くためバスを降りた場所である。「旧市庁舎広場の中心には二階建ての古典主義様式の建築物が見られる。市庁舎は、14世紀末ヨガイラの許可を得て造られたものである。その後、1785年から1799年にかけて、建築家ラウリーナス・ストゥオカ=グツェーヴィチュスの設計によって厳格な古典主義様式のものに改築された」(「ヴィリニュスとトラカイ」ガイドブック[日本版]より)という。

我々はここでガイドと別れ、昼食のためレストランに向かった。レストランへは徒歩で2~3分。昨夜、夕食を取ったレストランからも近い。午後12:37、レストラン「Grasas」に入った。食事のメニューは次のとおり。

リトアニア風サラダ(ジャガイモ、グリンピース、ニンジン、ハムなどが混ぜ合わされ、円盤状に固められている)
・ ポークのフロケット(ポークハンバーグ)
・ デザート(アイスクリーム)
午後1:40分頃に食事を終えて、レストランを出た。ここからは自由行動である。ホテルに戻る人、このまま観光に出かける人に分かれた。もちろん私はホテルには戻らず、ここから観光を始める。最初は「リトアニア中央銀行」を訪れる予定だ。

・ 「ヴィリニュスとトラカイ」ガイドブック[日本版](トマス・ヴェンツロヴァ著)[パクニース出版社刊]
・ 「地球の歩き方・バルトの国々07~08」(「地球の歩き方」編集室編)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]

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October 29, 2007

湖に浮かぶ美しいトラカイ城

バルト三国と北ドイツの旅(第16回)

昼食後に向かったのは、「トラカイ」である。ヴィリニュスから西へ15~20km位の所にある。トラカイは、ヴィリニュスの前に首都が置かれていた地。森と湖に囲まれ、現在自然公園に指定されており、少数民族カライメの古い家なども保存されている。Photo
カライメは、トルコから傭兵として連れて来られた人々で、この地を中心に250名程が自分たちの伝統を守りながら暮らしていると言う。通りに面して建つ3つの窓が並ぶ家は、彼らの伝統的住居である(写真)。窓の左は「神」、真ん中は「大公」、右は「家族」を表すとの事。

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そしてトラカイで最も知られているのが、「トラカイ城」だ。湖上の島に築かれた城で、遠くから見ると、湖に浮かぶ城のようである。チュートン騎士団の攻撃にも耐えた堅固な城で、14世紀後半に建てられ、1961年から修復から始まり、1987年に建設当時の姿を取り戻した。午後3:15、バスから降りて、城に向かって歩いた。澄み切った青空と、それに負けないぐらいの青さを映す湖。この青の中に浮かぶ尖がり帽子の赤茶色のお城(写真)。なんとも美しい!本日は日曜日なので、地元の観光客も混じり、通りは混雑している。昔はこのような通りは無く、城へは船で渡っていたようだ。徒歩で約15分、午後3:30、城の入り口に到着。内部の写真を撮りたい場合は、別料金が必用との事。入場料のほか、写真撮影代として4リタスを支払って城に入った。

Photo_4Photo_3
入り口を通ると中庭が広がる。左手には兵舎があり(写真左)、正面は台所、牢獄、家畜舎だ。右手の建物には、王家の住居やパーティーホール、迎賓室などがあった(写真右)。現在は博物館になっている。かつてはこの建物の周りにも堀があり、ゲートは3箇所あったようだ。Photo_5階段を上って建物の中に入ると中庭があり、その中庭の四面の壁には木造の回廊が架けられ、それぞれの部屋の入り口は回廊によって繋がっている(写真)。2Fでは、ヴィタウタス大公の妻・アンが使っていた部屋、ポーランドやドイツ騎士団などとの戦いを描いた絵が飾られた部屋、陶器に入れて副葬されたコインの展示(写真左)、コインのデザインを用いた銀器の展示を見ることができる。またパーティーホールも2Fにあり、壁に飾られていた「平和の喜び」を描いたタペストリーは見事である(写真右)。Photo_6Photo_7

3Fには、迎賓室として使われていた部屋や、先程ご紹介したカライメ人に関する展示、1918年~1940年までのリトアニアが独立していた時に使用された紙幣の展示(写真左)、城の模型(写真右)などがある。Photo_8Photo_9これらを見学した後、45分程自由時間になったので、旧兵舎棟側の博物館を見ることにした。こちらにも当時の様子を知ることができる数々の品が展示されている。45分程の自由時間といっても、バスに集合なので、歩いて戻る時間を考えると、あまりゆっくりはしていられない。そこで15分程度の見学で済ませ、城を出ることにした。途中、出店を覗きながらバスに戻った。先程、空と湖の青に浮かぶ赤茶色の城が非常に美しかったが、太陽の位置が変わったため、同じ場所から再び見た城の美しさは、少しグレードダウンしていた。景色を見る時間帯も大切である。

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午後5:00、予定通りバスは出発。左手にルコス湖を見ながら、ヴィリニュスに向かった。途中、行楽帰りの渋滞に巻き込まれるが、それほど長く続かなかったので、午後5:40頃ホテルに到着した。本日の夕食は、「旧市街」のレストランで取る予定で、午後7:30にホテルのロビーに集合だ。暫く時間があったので、「旧市街」まで出かけることにした。リトアニア中央銀行の所在地確認が目的だ。「ネリス川」に架かる橋を渡り、右手に「オペラ・バレエ劇場」をみて歩く。ホテルから12~13分で「旧市街」に着いた。「行政府広場」を左手に曲がると、「ゲディミノ大通り」である。一直線の道路で、その先には真っ白な「大聖堂」(写真)が見える。Photo_10Photo_11

歩行者天国なのか。車は一台も通らない。「ゲディミノ大通り」を東へ200m程進むと、右手に「リトアニア中央銀行」(写真左)がある。本日は日曜日なので閉まっている。「貨幣博物館」(写真右)は南側にあるのだが、ネットに表示されていたとおり改修中で、建物は板で囲まれていた。残念だが、明日も中を見ることは出来ない。Photo_12
その後「アカデミック・ドラマ劇場」(写真 : 入り口)と「大聖堂」を外から見学し、午後6:30頃ホテルに戻った。

午後7:30、夕食のためバスに乗り、レストランに向かった。約15分で夕食会場であるレストラン「LOKYS」に到着した。本日の夕食は、リトアニア伝統の「フォークロア・ディナーショウ」だ。アコーディオンに角笛、鐘、太鼓に縦笛・横笛、トライアングルにカスタネットなど、色々な楽器を用いた演奏に歌(写真)。Photo_13
そして我々一人一人に一つずつ楽器が渡され、いきなり合奏である。突然でも、指揮者の指示するとおりに楽器を鳴らすと、一つの纏まった音楽になっているから驚きである。最後は前に出で、全員で踊りだ。踊り終えて席に戻ると、デザートが並んでいた。ナイスコンビネーション!楽しいひと時を過ごし、午後9:00頃食事を終えた。ちなみに夕食のメニューは次のとおり。
・サラダ(白菜、トマト、ピーマン、キュウリなど+マスタードソース)
・ ジューシーチキングリルとライス、野菜(ニンジン、インゲン、ブロッコリー)添え
・ ケーキ、コーヒー

美味しくかつ楽しい時を過ごした後、レストランを出てバスで帰る途中、コートを忘れたことに気が付いた。大型バスなので、簡単にひき返すことは出来ない。一旦ホテルまで戻り、再びタクシーでレストランに向かった。お願いして、添乗員さんにも一緒に来てもらった。片道約10分、バスと違い小回りがきくので、思ったよりも早く到着。添乗員さんにタクシーで待ってもらい、私はレストランに走った。中に入ると、ウエイトレスが直ぐに気付き、保管していた私のコートを出してくれた。歌って踊って、かつ可愛いウエイトレスとお話していて、すっかり舞い上がっていたのだろう。これで外国旅行中に忘れ物をしたのは2回目だ。前回は北スペイン・ポルトガルの旅のとき。イヤホンガイドを部屋のベッドの上に置き忘れたのである。以後、忘れ物をしないように注意しなければならないと、自分を戒めた。外で待たせていたタクシーに戻り、ホテルへUターン。午後10:30にはホテルに着くことができた。タクシー代は35リタス。余分な出費となったが、仕方が無い。添乗員さんにお礼を言って、部屋に戻った。本日は部屋に戻ったのが遅かったので、風呂に入るだけ。資料整理は翌日まわしにした。午後11:30頃眠る。

トラカイ・インフォメーション
http://www.trakai.lt
トラカイ城
http://www.trakaimuziejus.lt
リトアニア中央銀行
http://www.lb.lt/home/default.asp?lang=e
大聖堂(アルキカテドゥラ)
http://www.katedra.lt
レストラン「LOKYS」
http://www.lokys.lt

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October 28, 2007

カウナス城と旧市街

バルト三国と北ドイツの旅(第15回)

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午前11:37、バスは「旧市街」に入り、「カウナス城」(写真左)前の広場に停まった。「カウナス城」は、ドイツ騎士団の攻撃を防ぐため、13世紀に造られた城で、かつては4本の塔と高さ9mの城壁に囲まれていた。城の下部、張り出したところは、大砲などの攻撃にも耐えられるように、16世紀に増築されたもの。現在この建物には、観光センターが入っている。天候に恵まれ、快晴。青空を背景に、レンガ色の白が美しい。塔の頂には、「白い牡牛」の旗が風に靡いている(写真右)。赤地に白い牡牛はカウナスの旗。これも青空に映える。城の南側には、「聖ゲオルギ(ジョージ)教会」と「ベルナルディン修道院」が並んで建っている(写真)。Photo_3
どちらも16世紀に建てられたゴシック様式の建物。「聖ゲオルギ教会」は、旧ソ連時代に放置されていたため、内部は荒れたままの状態である。また「ベルナルディン修道院」は、薬学の教室として使用されていたが、独立後は修道院として修復を行っているという。

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午後11:55、我々は「カウナス城」から歩いて「聖霊教会」の前を通り、「市庁舎広場」に到着した。ここには「旧市庁舎」(写真)が聳え立つ。青空をバックに、白く輝くバロック様式の美しい建物。「白鳥」とも呼ばれているそうだが、納得である。しかしこのように美しい建物も、帝政ロシア時代には、牢獄として使われたこともあったようだ。現在は結婚登記所になっており、金・土・日曜日には、ウエディングセレモニーが行われているとの事。Photo_5Photo_6

「旧市庁舎」に向かって左手には、バロック様式の「イエズス教会」(写真左)がある。旧ソ連時代には、子供たちの運動場として使用されていた。広場を挟んで「旧市庁舎」の向かい側には、「ハンザの商館」(写真右)が並んで建っている。15世紀半ばにハンザ同盟の代表部が設けられ、商業活動の中心地として繁盛した時代の名残と言える。

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「市庁舎広場」から南へ歩くと、右手に「ペルクーナスの家」(写真)が見える。15世紀に建てられたゴシック様式の建物で、現在は図書館となっている。この場所からは、前回ご紹介した「雷神ペルクーナスの像」が見つかったと言われており、このことから、「ペルクーナスの家」と呼ばれるようになったとの事。しかし、残念ながら「雷神ペルクーナスの像」は失われてしまったようだ。さらに南に進むと、「ヴィタウタス大公教会」(写真左)がある。ゴシック様式の教会で、ヴィタウタス大公により15世紀に建てられた。Photo_8Photo_9

教会の入り口横には、水位を現すプレート(写真右)が掛けられている。「ヴィタウタス大公教会」は「ネムナス川」のほとりに建てられているのだが、1946年3月24日、洪水に見舞われた際の最高水位である2.9mが示されている。教会の南側には「ネムナス川」が流れており、この前に小さな広場がある。ここは15~17世紀の間、ハンザ商人が仕入れた品々を荷揚げした場所である。ここで荷揚げされた商品は、「市庁舎広場」で開かれた市で売買されたという。この広場から続く通りに面して、ハンザ商人の家が並ぶ。「アレクソータスの丘」から見えた壁に日時計が設けられた建物も、この一画にある。

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我々は再び「市庁舎広場」に戻り、次の目的地である「聖ペテロ・パウロ大聖堂」(写真)に向かった。大聖堂ではミサが行われており、ガイドによる案内は出来ないため、昼食を予約している午後1:00まで自由行動となった。教会の中も、1人で見学すれば良いのだ。私はミサが終わる頃に見学しようと考え、近くにある博物館を訪れることにした。Photo_11
その前に、「旧市庁舎」の前で発掘された「蝋の製造所跡」(写真)を見に行った。路上にガラスでカバーして公開されているとの事だったが、ガラスが水滴で曇っており、全く中は見えなかった。次にインフォメーションセンターを訪ねた。無料の地図を入手するためである。しかし有料のものしか置いていなかったので、2リタスで立体図の描かれたタウンマップを購入した。「市庁舎広場」の周囲には、「リトアニア医療と製薬史博物館」や「陶器博物館」があるのだが、どちらも閉まっていたので、「逓信博物館」を見に行くことにした。入館料は無料だが、写真を撮る場合は2リタス支払わなければならない。中を見ると、他の国の「逓信博物館」と比べて特徴的なものは無かったので、写真は撮らずに済ませた。電信電話などは、国によって導入される時期は異なるが、各国同じような機器が使われるため、目新しさは感じられない。

午後12:45、「聖ペテロ・パウロ大聖堂」を見学するため中に入るが、まだミサは続いていた。ミサの邪魔にならないように注意しながら、教会の隅を沿うように奥に入っていった。当然写真は撮れないので、目に焼き付けるしかない。この大聖堂は、15世紀にゴシック様式で建てられ、9つの礼拝堂を持つ。19世紀に行われた改築はバロック様式であったため、中と外の雰囲気は違ったものに感じられる。ミサの時は、大人から子供まで静かにしているのだと思っていたが、2~3人の子供達が走り回っていたのには驚いた。誰も注意はしない。そんなものなのだろうか?

Photo_12
大聖堂の見学を終えた後、まだ少し時間があったので、カウナス「旧市街」のメイン通りを歩いてみた(写真)。他のツアーメンバーは、この通りに並ぶお店で買い物をしていたようだ。「KNYGYNAS」という本屋があったので、ハンザとコインに関する書籍を探すため立ち寄った。店員にも尋ねるが、無いとの事。専門書になるので、大きな本屋でなければダメなようである。

Berneliu
時間になったので集合場所に向かい、午後1:04、レストラン「BERNELIU UZEIGA」に到着(写真)。約1時間、昼食を頂いた。メニューは次のとおり。

・ミックスサラダ(トマト・キャベツ・白カリフラワー・ニンジン・キュウリ・パセリなどに甘いドレッシング)
・ コウドゥーナイ(リトアニア風水餃子)
・ アップルパイ

午後2:05、レストランを出てバスに乗車し、次の目的地である「トラカイ」に向かった。

カウナス
http://www.kaunas.lt
カウナス・インフォメーション
http://visit.kaunas.lt
カウナス城
http://www.kaunopilis.lt

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October 27, 2007

カウナス・杉原記念館

バルト三国と北ドイツの旅(第14回)

本日は、カウナスとトラカイ観光の予定である。午前6:15頃に目覚めるが、食事は午前7:30からのため、部屋で時間調整する。出発時間が午前8:15なので、午前7:30から30分ほどで朝食を済ませた。メニューはいわゆるバイキング方式で、クロワツサン、ポテトフライ、ハム、オートミール、コーヒーとミックスジュースを頂いた。バスは予定通り午前8:15に出発。直ぐにネリス川にかかる橋を渡る。左手には「ヴィリニュス城」が見えた。景色を楽しんでいると、「ツアーメンバーが足りない」との声が上がった。お客の1人が、親子の女性2人がいないことに気が付いたのである。添乗員は慌てふためき、バスの運転手にホテルに戻るように指示した。残された2人は、ホテルのロビーで待っていた様子。定時の午前8:15に少し遅れたらしい。いつも慎重に人員の確認を行っていた添乗員だが、今日は他に何か気がかりなことがあったのだろうか。

午前8:25、バスはホテルの前から再び出発した。本日最初の目的地は、カウナスである。ヴィリニュスから東に約100km、バスで1時間程との事である。午後8:40、道路の両脇の木々が紅葉し始めており、暫く走ると湖が見え始めた。更に進むと、急に街らしい風景になる。教会や集合住宅が並ぶ。「VIEVIS」の町だ。この先は道路工事が続いている。EU加盟条件として道路の整備が必要なため、現在あちらこちらで工事が行われているらしい。午前9:12、カウナスまで37kmの表示が見える。道路の両サイドは、再び畑や牧草地が続く。バスの最後尾の席に座っていたので、後ろを振り返ると、道路は一直線だ。何処までも平地。山も無い。北海道でもお目にかかれないぐらいの規模である。とにかく凄い!

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午前9:35、カウナスの街が見え始める。薄日が差す程度で、天候は良い。「新市街」に入ると、そこは広い道路で碁盤の目状に整然と区画にされている旧ソ連邦時代に作られた街だ。集合住宅とトロリーバスのケーブルが目立つ。更に進むと、木々が繁る閑静な街区に入った。ここに最初の訪問予定場所である、「杉原記念館(旧日本領事館)」(写真)がある。午前9:45、バスは「記念館」前に到着した。「記念館」の入り口に行くと、まだ我々より先に来たグループがいるとの事で、入り口付近の展示室で足止めされた。5分程待っていると、十数人のグループが出てきた。内部の見学は、杉原千畝氏に関するビデオを見ることから始まった。同氏の物語については非常に有名なので、ご存知の方も多いと思うが、簡単に触れておく。杉原氏は、1939年にリトアニアの在カウナス日本領事代理に就任。1940年の夏、領事館の周りは、ナチスに占領されたポーランドからリトアニアに逃れてきたユダヤ人で一杯になった。ヨーロッパから北米に逃れるため、日本の通過ビザを求めてのことであった。日本領事代理の杉原氏はビザ発給の許可を求め、何度も日本に電報を打ったが、答えは「否」であった。その頃ソ連邦から、リトアニア併合に伴い、日本領事館閉鎖の要求も出されていた。閉鎖の期日が迫る中、杉原氏は救いを求めるユダヤ人達を無視することはできず、独断でビザを発行することにした。その後寝る間も惜しんでビザを発行し、退去の日には汽車の中でもビザ発行のサインを続けたという。台帳記録によると2,139枚のビザが発行されたことになっているが、途中から台帳への記録を止めていたので、実際はもっと数多く発行されたようだ。一家族一枚のビザで良かったことから、救われたユダヤ人の数は6,000人を超えるとも言われている。

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ビデオの後は、約20分のフリータイムである。執務室は当時のままであり、電話などは当時と同じ型のものを置いているとの事。執務を取った机の後ろには、日の丸が飾られている。この部屋でオリジナルのものは、これだけらしい(写真)。執務室は1Fにあり、2Fは住居として使われていたようだ。残念ながら、見学は出来ない。建物の裏に回ると、リンゴの木が植えられており、数多くの実が芝生の上に落ちていた。外から建物の写真を撮り、再び中に入った。「記念館」のショップで、リトアニアに関する冊子を購入した。また、昨日ホテルでの両替で出に入れることができなかった50センツを入手するため、事情を説明し、1リタスを50センツ2枚に交換してもらった。最後、男性職員と握手をし、「アチュウ(ありがとう)」、「ヴィソギャーロ(さようなら)」と声をかけると、「サヨナラ」と言い、手を振って見送ってくれた。

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午前10:35、バスはカウナスの「旧市街」に向けて走り出した。途中、「杉原記念館」から西へ1.5~2km程の所にある「軍事博物館」前の「ヴィエニーベス広場」で下車した。広場にはマロニエの木が植えられており、たくさんのマロニエの実が落ちていた。もちろん食べられない。またここには、色々な記念碑が立っている。最初に目が向いたのは、火が灯されており、石を積み上げて造られた「独立のモニュメント」(写真左)だ。最初の独立の際に建てられたが、旧ソ連邦時代には撤去されたため、1989年に再度建てられた記念碑。リトアニア独立のため犠牲になった人々を祭っている。次は「自由の記念碑(写真右)」だ。碑の頂きには、旗を掲げる女神像が立っている。旧ソ連邦時代、この女神は博物館に入れられていたが、1991年に復活したらしい。旧ソ連時代、ここには「レーニンの像」が立てられていたが、ソ連邦崩壊とともに取り壊されたようだ。Photo_6
広場を観光していると、「軍事博物館」(写真)から迷彩服を着た兵隊と思われる若者が多数出てきた。話を聴くと、徴兵された若者たちで、軍事訓練の一貫として「軍事博物館」を見に来たとの事。休憩時間になったので、外に出てきたようだ。

午前11:03、バスに戻り、再び「旧市街」に向けて走り出した。「悪魔の博物館」や「高等音楽院」(カウナスが首都であった第一次世界大戦と第二次世界大戦の間、国会議事堂として使われた)の前を通り、ネムナス川に架かる「アレクント橋」を渡って、「旧市街」の対岸にある「アレクソータスの丘」に上った。Photo_7Photo_8

丘には「ペルクーナスの像」(写真左)が立っている。雷の神で、キリスト教が入ってくる以前、地元で信仰されていた神様との事。丘からは、「旧市街」(写真右)が良く見える。「アレクント橋」の直ぐ左手には「ヴィタウタス教会」が、また右手には「ハンザの商館」が並ぶ。三角屋根で、壁に笑い顔のようなものが見える建物、これは日時計になっているらしい。でもどうやって時間を見るのだろうか?バスに戻る途中、大勢の外国人観光客と出会う。ベラルーシから来たとの事であった。色々な国の人に会えるのは、結構楽しいものである。次はいよいよ「旧市街」である。

カウナス
http://www.kaunas.lt
カウナス・インフォメーション
http://visit.kaunas.lt
杉原記念館
http://www.geocities.jp/lithuaniasugiharahouse

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October 26, 2007

リトアニアの現行貨幣

バルト三国と北ドイツの旅(第13回)
貨幣ぶらり旅(第129回)

リトアニアの紙幣とコインについてお話しする。これまでにも幾度かふれたと思うが、リトアニアの基本貨幣単位はリタスで、補助通貨の単位はツェンタスである。リタスについては、自国名「LIETUVA(リエツヴァ)」を短縮して創られた貨幣単位で、ツェンタスは、英語の「CENT(セント)」をリトアニア語化したもの。

現在流通しているコインは5リタイ、2リタイ、1リタス、50センツ、20センツ、10センツ、5ツェンタイ、2ツェンタイ、1ツェンタスの9種類、紙幣は500リツ、200リツ、100リツ、50リツ、20リツ、10リツの6種類だが、今回私が両替したのは、コイン全9種と、10リツ、20リツ、50リツ、100リツの4種類の紙幣である。貨幣単位がリツ、リタイ、センツ、ツェンタイ等となっているのは、リトアニア語における複数形の語尾変化によるもの。なお、街でお金を使うときには、厳密に使い分けなくても通用するので、細かいことを気にする必要は無い。

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次に、コインを個別見ることにする。すべてのコインに共通することは、表面に「馬上剣をかざして疾駆する騎士像」(以下「騎乗の騎士像」と呼ぶ)を用いていることである。「騎乗の騎士像」は、リトアニア大公国時代の紋章であり、1918年に独立した時に国章とされたデザインだ(写真左 : 国章旗・右 : 5リタイコイン)。コインの裏面には、それぞれの額面が表示されている。5lt_rv_22lt_rv_21lt_rv_250ct_rv_220ct_rv_210ct_rv_25ctrev2ctrev1ctrev

素材を見ると、バイメタルの5リタイは、コアの部分がニッケルアルミ銅、周囲が白銅、同じバイメタルの2リタイは逆で、コアが白銅、周囲はニッケルアルミ銅である。1リタスは白銅製、50センツ~10センツはニッケルアルミ銅製、5ツェンタイ~1ツェンタスはアルミニュウム製だ(写真 : 左から順に)。コインの製造は、1991年に設立された国内の造幣局で行われている。

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続いて紙幣を見る。まず100リツ紙幣(写真 : 左が表面)だが、表面は中央に「騎乗の騎士像」を配置、右にダウカンタスの肖像画描かれている。裏面は、ヴイリニュス大学の俯瞰図とヴィリニュス市の街並みがデザインされている。50a_0350r03

50リツ紙幣(写真 : 左が表面)は、表面が医師で政治家であるバサナヴィシウス博士の肖像が、裏面にはヴィリニュス教会の建物と尖塔が描かれている。20a_200720r_2007

20リツ紙幣(写真 : 左が表面)のデザインには、表面に詩人で哲学者のマイロニスの肖像を、裏面にカウナス市にある歴史博物館の建物と自由の女神を用いている。10a_200110r_2001

10リツ紙幣(写真 : 左が表面)の表面には、小型飛行機で大西洋横断に成功した、ダリウスとギレナスの両飛行士が描かれ、裏面は北米大陸と欧州大陸の地図の間に、嵐の大西洋上を飛ぶ小型飛行機がデザインされている。

*コイン・紙幣の写真は、リトアニア中央銀行のHPから用いた。

リトアニア中央銀行
http://www.lb.lt/home/default.asp?lang=e
リトアニア中央銀行貨幣博物館
http://www.lb.lt/eng/museum/index.html

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October 25, 2007

リトアニア・十字架の丘

バルト三国と北ドイツの旅(第12回)

天候に恵まれ、気温も穏やか。うす雲はあるものの、青空が続く。バスの窓から外の景色を眺めているうちに、いつの間にか寝入っていた。気が付くと午後2:45である。目覚めてから5分ぐらい走ると、ラトヴィアとリトアニアの国境だ。エストニアとラトヴィアの国境のように、バスの中に検査官は入ってこない。添乗員から全員のパスポートを検査官に渡していた。旧ソ連時代とは異なり、またEUにも加盟していることから、パスポートチェックも形式的なものになっているのだろうか。ここでもバスを降りて、トイレ休憩と両替の時間となった。トイレはラトヴィア側にあり、トイレ使用にはチップが必用である。0.2ラッツであった。

次に両替所に行った。これはリトアニア側にある。リトアニアの通貨単位は、リタスとツェンタスだ。手元に残った5ラッツと、60ユーロを両替した。224リタスが返ってきた。他のメンバーが両替している間、両替レート表を見ると、US$=2.44リタス、EUR=3.43リタス、LVL=4.65リタス、GBP=4.84リタス、EEK=0.17リタス、PLN=0.86リタス、SEK=0.33リタスと表示されていた。そして1通貨につき、2リタスの手数料を取られる。計算してみると、224リタスでは足りないと思い、再び窓口に行って計算書を請求した。すると225.06リタスである。先程224リタスしかもらっていない旨伝えると、直ぐに不足分の1.06リタスを支払ってくれた。ヨーロッパの人は、端数については大雑把だと感じていたが、両替所も同じだとは思わなかった。受付の人も、224リタスしか払っていなかったことを認識していたのであろう。日本の銀行では考えられないことだ。現金の受け渡しが終わった後に、もし現金が不足しているとしても、直ぐに支払われることはないだろう。勘定を締めてからとかいって、一日かかるのではないだろうか。

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午後3:20、バスは国境を離れ、リトアニアの首都ヴィリニュスに向けて再び走り出した。道路の周囲は平原や畑が続く(写真左)。30分ほど走ると、「十字架の丘」(写真右)が見えてきた。1831年、ロシアに抵抗し、処刑された人々を祭っているそうだ。午後3:53、「十字架の丘」に到着。無数の十字架が建てられ、架けられ、並べられて、お賽銭(?)も置かれている(写真)。Photo_3
リトアニア人のほとんどがローマ・カトリック信者であり、「十字架の国」と呼ばれるだけのことはある。宗教を禁じていた旧ソ連邦時代、この「十字架の丘」は禁域とされ、何度も取り壊されたが、直ぐに立て直されたらしい。一時はこの地を水没させる計画もあったようだが、リトアニア当局も様々な理由でためらい、結局この地は生き残ったという。我々以外にも多くの観光客が訪れていたが、本来この地は観光スポットではない。信者の人々が、色々な思いを込めて参る場所らしい。しかし、結婚式を挙げたばかりのカップル数組と、その親族らしき人達が現れ、記念写真を撮っていたので、広い意味でカトリック信者の聖地と考えればよいのかも知れない。

午後4:10、バスに乗車。リトアニアの首都ヴィリニュスに向けて出発である。リトアニアは、国土面積が約65,000㎡で、北海道の80%程度。人口は約360万人、うち首都ヴィリニュスには55万人程が住んでいる。通貨については別の機会に詳しくお話したいと思うが、先にみたとおり、基本通貨の単位はリタス、補助通貨の単位はツェンタスである。午後5:15頃、「Panevezys」近くにある「VENTS」というガソリンスタンドで、15分ほどトイレ休憩を取り、午後5:35、バスは再び走り出した。Photo_4
午後6:50、夕日が沈む(写真)。周囲には、気球が4~5機飛んでいた。そこから5分も走ると、これまでの“のどか”な風景から、突然街の景色に変わった。多くの商店や旧ソ連時代に建てられた集合住宅が並ぶ。本日宿泊する「ホリディ・イン・ヴィリニュス」は、「旧市街」の北側にある。「旧市街」には徒歩で10分程度の距離であろうか。立地は良い。午後7:05、ホテルに到着。夕食は午後8:00からホテルのレストランで取る。一度部屋に入った後、食事前にホテルのフロントで、コレクション用のリトアニアの紙幣とコインを両替してもらった。

新札に近いものや、輝きのあるコインを探してもらうなど、両替に少々時間がかかったため、レストランに入るのが数分遅れた。空いている席に座ると、直ぐに食事が出てきた。メニューは次のとおり。

チキンサラダ(チキン・トマト・キャベツ・オレンジなど)
サーモン(団子状)、ポテト添え
アツプルパイ風ケーキ

午後9:15、夕食を終えて部屋に戻る。いつものように資料整理と入浴を済ませ、午後10:30頃にベッドに入った。

ホリデー・イン・ヴィリニュス
http://www.holidayinnvilnius.lt/

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October 24, 2007

リーガの街を観光する(その2)

バルト三国と北ドイツの旅(第11回)

ラトビア中央銀行の「Money World」が休みであることを確認した後、ツアーグループのあとを追いかけたが、どこにもいない。次の訪問先である「リーガ大聖堂」に行くが、まだ来ていない様子。Photo
「大聖堂」横の「ドゥァマ広場」では市(写真)が開かれていた。そこで添乗員と出会う。「大聖堂」入場の予約時間が午前11:00のため、20分程自由行動にしたとの事。ツアー集団がいないのは、解散していたからであった。私も集合時間まで、市を見学することにした。大きなかぼちゃが目に付く。その他、ジャガイモ、キュウリ、ニンジンなどの野菜類、手編みや毛皮製品、絵葉書などを売るお店が出ており、地元の人から観光客まで、いろいろな人達が楽しめる。また、ニンジンをかじりながら歩いている人がいたのには驚いた。生でも、臭いは気にならない程度で、甘いという。残念ながら、私自身試すことはしなかった。

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午後11:00、全員集合して「リーガ大聖堂(ドゥァムス教会・ドム教会)」(写真)に入った。この教会は、ルーテル派教会の大聖堂で、13世紀から20世紀にかけての傑出した建築史的記念碑といわれている。「リーガ―数世紀をたどる旅―(日本語版)」によると、「当初ロマネスク様式で建設が開始されましたが、しだいに欧州の建築様式がロマネスク様式からゴシック様式に移行するにつれて、建築面では単純化した構造、大きめの窓、華やかな丸天井をもたらしたゴシック様式をみることができます。18世紀になると、教会東側のペディメント(ドアの上につけた三角形の部分)と塔の先端はバロック様式で作り直され、また、1778年には、修道院上部に市の図書館のための部屋がクラシック様式で増築されました。アールヌーボー調の玄関ホールは、20世紀初期に取り付けられたもの」との事。なお、現在この建物は、教会としての役割の他、コンサートホールや博物館としても利用されている。

教会の内部をみると、目を引くのがステンドグラスとパイプオルガンである。Photo_3
ステンドグラスは、19世紀末から20世紀初めにかけて、リーガ、ミュンヘン、ドレスデンのステンドグラス工房で制作されたもの。ステンドグラスには、アルベルト僧正によるこの大聖堂創設に関する物語なども描かれている(写真)。「物語バルト三国の歴史」によると、「リヴラントの司教に任命されたブレーメン大司教の甥アルベルトが、1200年の春に23隻の船でリューベックから到着し、キリスト教化に向けての本格的な活動を始めたのである。彼はドイツ本土との間を何度も行き来して、植民地化のために必要な手助けを確保してきた。1201年にアルベルトは、リーガ湾に注ぐダウガヴァ川の河口からおよそ13km遡った地で町の建設に着手し、1211年に司教座聖堂を設立(バルト海沿岸では、リューベックに次ぐドイツ人司教の都市)し、リガ司教になった。これが、現在もリーガ旧市街の中心ともいえるドーム教会である。こうしてリーガが宗教のとりでとなるとともに、商業の中心地、さらにドイツ人による殖民地化の拠点ともなっていった」という。Photo_4
パイプオルガンは、ドイツのルドヴィグスブルグの会社製で、1884年に大聖堂に設置されたもの。空気開閉を調節する124本のストップと、6,718本のパイプを持ち、当時世界最大のものであったという。ちなみに、このパイプオルガンより前に使われていたオリジナルのパイプオルガンは、バロック時代に造られたもので、現在でも教会内に保管されており、実物を見ることができる(写真)。教会の側廊の柱には、当時裕福であったハンザ商人の紋章が並んでいる。14~15世紀の頃は、騎士団とハンザが共存した時代で、ハンザからは多額の寄付が行われていたらしい。Photo_13
また、1709年に起きた、ダウガヴァ川洪水の時に達した水位を示すプレートが残されている。この後、疫病が流行り、多くの人が亡くなったという。教会の中庭(写真)に出ると、アルベルト司教の像がある。この辺りに埋葬されたと言われているが、いまだにハッキリしたことは判っていないようだ。

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午前11:20過ぎ、我々は「教会」を出て、「スィルグ通り」を歩き、「猫の家」(写真)、「大ギルド」、「小ギルド」、「リーヴ広場」「聖ヨハネ教会」、「聖ペテロ教会」の前を通り、「市庁舎前広場」に到着した。昼食のレストランの予約は12:00だったので、暫く広場で自由行動である。Photo_6Photo_7

「市庁舎前広場」の中央にリーガの守護神である「聖ローランドの像」が立ち、南側に「ブラックヘッドのギルド」(写真左・聖ローランドの像とともに)、北側に「市庁舎」(写真右)がある。その西には「ラトヴィア占領博物館」が並ぶ。Photo_9
「広場」では催しが開かれており、仮設舞台では民族衣装を身に着けた女の子たちが、歌や踊りを披露していた(写真)。暫く舞台を見ていたが、その後「ブラックヘッドのギルド」を訪ねた。華やかなこの建物は、1334年に建てられ、当初は「ニューハウス」と呼ばれていた。しかし1941年、ドイツ軍の空襲により瓦礫の山と化した。現在の建物は再建されたもので、1999年に完成した。時計の上に、「ANNO1334 RENOV ANNO1999」と表示されている。時計は、上の大きなものが「月、日、時間」を示し、下の小さなものは「月齢」を刻んでいる。時計の下には、「リーガ」、「ハンブルク」、「リューベック」、「ブレーメン」の紋章と、ネプチューンなどギリシャの神々の像が置かれている(写真)。Photo_11
「ブラックヘッドのギルド」は、聖ゲオルギ・ギルドから13世紀に派生したギルドで、未婚の商人と職人によって結成された。未婚男性は、結婚すると「ブラックヘッドのギルド」を退会し、「大ギルド」に加盟していたようだ。「ブラックヘッドのギルド」の組合員は、ほとんどがドイツ系であったが、イギリス人、スコットランド人、オランダ人などの他の民族も含まれていたらしい。建物の中を見学しようと思ったのだが、本日は特別休館日との事で、残念ながら内部を見ることはできなかった。

午後12:00、ツアーメンバーは集まり、昼食のため「市庁舎」の北側にあるレストランに向かった。徒歩3~4分で到着。店名は「PUT VEJINI」。頂いたお食事のメニューは次のとおり。

カリフラワーのスープ
チキンフィレのグリル、チーズ乗せ、ポテト・インゲン・ニンジン添え
ラズベリーアイスクリーム
コーヒー

約1時間食事を楽しみ、午後1:05にレストランを出る。バスに乗るため「市庁舎」の西側で待つが、なかなかバスは来ない。一時停止のスペースが無かったためとの事。午後1:30頃、ようやくバスに乗り込み、いよいよバルト3国の最後になるリトアニアに向かって走り出した。

(参考文献)
・「リガーバルトの貴婦人―(日本語版)」(アンドリス・コルベルグス著)[Astlandia社刊]
・「リーガ―数世紀をたどる旅―(日本語版)」(マーラ・シニリア著)
・「物語バルト三国の歴史」(志摩園子著)[中公新書]
・「地球の歩き方・バルトの国々07~08」(「地球の歩き方」編集室編)[ダイヤモンド・ビッグ社刊]

リーガ大聖堂(ドゥァムス)
http://www.doms.lv
リーガ大聖堂(ドゥァムス)・オルガンコンサート
http://www.concert.lv
聖ヨハネ(ヤーニャ)教会
http://www.janabaznica.lv
聖ペテロ(ペーテラ)教会
http://www.peterbaznica.lv
ブラックヘッドのギルド
http://nami.riga.lv/mn

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October 22, 2007

リーガの街を観光する(その1)

バルト三国と北ドイツの旅(第10回)

午前6:50、起床。午前7:00から約1時間、ホテルのレストランで朝食を頂く。メニューはオムレツ、パイナップル・ピーチ・梨、イチゴヨーグルト、おかゆ、コーヒーだ。オムレツについては、コックがお客の注文に応じて焼いてくれるのだが、まだ準備が不十分だったようで、卵を割った後、それをかき混ぜるものがなかったので厨房に取りに行き、卵を鉄パンに流し、ハム、タマネギなどのトッピングを乗せた後、それをひっくり返すフライ返しがないことに気が付き、再び厨房に取りに行くなど、コックは大忙し。おかげでオムレツは焼け過ぎ、卵の“とろ~り感”がまったくないものになってしまった。時間がかかるので、そのまま食べることにしたが、予想通り不味い物になっていた。残念! また、白いポタージュスープのようなものがあったので、試しに食べてみると、味は全く無く、もち米を練ったような舌触り。名札を見ると「Manna biezputra」と書いてある。「何だろう?」と思いながら食べた後、添乗員に聞いてみると、ラトビア風おかゆとの事。名札には二段書きで、「Semolina Porridge」とも書いてあった。小麦を粉にして作ったおかゆのことである。オートミールの仲間なのであろう。ときたま、取ってきたものが自分の想像していたものと異なり、失敗することがある。たとえば蒲鉾だと思っていたらチーズだったとか・・・・・。(ヨーロッパのホテルのバイキングで、蒲鉾が出ないことぐらい気が付きそうなのだが、日本食が恋しいと騙されてしまうのだ。

午前8:50にチェックアウトし、午前9:04、バスはリーガ観光に向けて出発した。本日最初の観光は、「新市街」にある「ユーゲントシュティール建築群」である。「ユーゲントシュティール」と言うと聞きなれない言葉だが、「アール・ヌーヴォー」といえば御存知の方も多いであろう。「アール・ヌーヴォー」の時代は19世紀末から第一次世界大戦中に砲兵隊の攻撃にあうまでの短い期間。「リーガ中心地にある建物の三分の一がアール・ヌーヴォー様式で、同じ建物は二つとない。他のどの町にもこのように多用なアール・ヌーヴォー様式の建築物が集中した町はない」(リガ・バルトの貴婦人[日本語版]より)と言われている。12

街の中の建築物を見ると、リーガのアール・ヌーヴォーに影響を与えたドイツ、オーストリア、フィンランドの表現形式に気が付く。これらの建物は、旧ソ連時代に国有化され、手入れがなされなかったことから、かなり傷みも激しかった。しかし独立後、修復が行われ、以前の美しさを取り戻しつつあるようだ。建物の高さは、それぞれが揃うように制限されている。そのため、街並みは整然と美しい。左側写真の赤い屋根の建物は、「アルベルタ通り12番地の賃貸住宅」。細部にロマン主義を用いた合理的アール・ヌーヴォー様式の建築で、現在は「ヤーニス・ローゼンタール(画家)とルドルフ・ブラウマニス(作家)」の記念住居博物館になっている。右側の写真は「エリザベーテス通り10b番地の建物」。ブルーのタイルが美しい。またトップ部分の装飾が特徴的である。女性の顔と顔との間には、孔雀が彫られている。孔雀は幸福と富の象徴のようだ。

30分程「ユーゲントシュティール建築群」を見学した後、バスで「旧市街」に向かった。「旧市街」には約10分で到着。「オペラ座」前の広場で下車。その後「ピルセータス運河」沿いにある公園を歩き、「自由記念碑」(写真)の前に出た。Photo
この記念碑は、1935年にラトヴィアの独立を記念して建てられたもので、記念碑の頂には3つの星を掲げる自由の像が建っている。この像は9mあり、全体の高さは51mである。3つの星は、「クルゼメ」、「ヴィゼメ」、「ラトガレ」というラトヴィアの3つの地域の連合を意味する。また記念碑の基部には、「ラトヴィア叙事詩の英雄」のレリーフが並ぶ。ところで、この記念碑の前には、衛兵が立っている。丁度午前10:00だったので、衛兵の交代式を見ることが出来た。3人の衛兵が、銃を肩に立てかけ、一糸乱れず歩いていた。衛兵は、通常午前8:00~午後6:00まで立っており、1時間ごとに交代するようだ。ちなみに冬の間は気温次第、柔軟な運用がなされていると言う。つまり誰も立たない日もあるのだ。

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我々は「自由記念碑」を見た後、更に公園の道を北に進んだ。すると途中に、何百という数の「南京錠」が“ぶら下がる”橋があった。「ブリビーヤス橋」(写真)という小さな橋で、新婚カップルが「南京錠」を付けに来るそうである。ここに鍵を付けると、永遠に別れないという伝説があるようだ。

午前10:10、我々は公園を横切り、北側から「旧市街」に入った。そこで最初に目にしたのが、「火薬塔」(写真)である。Photo_3
「火薬塔は1330年からの記録が残っているが、後の1621年、スウェーデンのグスタヴ2世アードルフが襲撃した際に破壊されてしまった。このときに残った基礎部分をもとに、スウェーデン人が建設した塔が現在の火薬塔である。城壁の厚さは約2mで、球形砲弾の攻撃に耐えることができるほど頑丈なつくりであった」(リガ・バルトの貴婦人[日本語版]より)という。また「この塔は、以前は“砂の塔“とも呼ばれていた。かつてこの塔の下から城外に続く道は郊外に出る主要路となっており、砂を横切って延びていたからだ。当時のリーガの町はぐるっと砂丘に囲まれていたが、15世紀に町を囲む稜郭と堀が築かれた際に砂は使われ、消えてしまった」(地球の歩き方・バルトの国々”07~08“より)ようだ。なお、現在はラトビア軍事博物館として使用されている。

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「火薬塔」から続く「トゥァルニャ通り」の両側には、「ラーメラ塔」を持つ城壁と「ヤコブ兵舎」が並ぶ(写真)。「ラーメラ塔」と城壁は、復元されたものであり、「ヤコブ兵舎」は、現在多数の“みやげ物店”が入っている。ところで、何故このような城壁があるのかというと、「中世のリガの町は要塞化されており、周囲を囲っている赤レンガの城壁は高さ10m、厚さ3mで長さ2kmにも及び、合計29の塔が設置されていた。城壁は幾度も修復され、ことある毎に補強されていた。裕福なリガ市民は所有地を失うことを恐れていたから」(リガ・バルトの貴婦人[日本語版]より)であるという。

城壁に沿って歩いていくと、「スウェーデン門」(写真)に出た。これは数多くあった城門のうち、唯一現存しているもので、城壁と塁壁の間に建てられた家屋から城内へのアクセスを容易にするため、1668年に家屋の一部を取り壊して建設された。Photo_5
「当時向かい側の兵舎に住んでいたスウェーデン兵が良く利用したのでこの名前が付けられた」(地球の歩き方・バルトの国々”07~08“より)という。ちなみに、1629年から1710年までは、リヴォニアはスウェーデンに支配されていた。ところで、この門に纏わる悲しい伝説についてお話がある。外国人と接することを禁じられていた当時のリーガに住む一人の娘が、スウェーデン兵と恋に落ち、この門で密会するようになった。しかしこの娘の行いは直ぐにみつかり、罰としてこの門に塗りこめられてしまう。それ以来、夜中にこの門を通ると、娘のすすり泣く声が聞こえるようになったという。まことに恐ろしい話である。

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「スウェーデン門」を潜ると、「アルダル通り」である。ここにはビールの醸造所や倉庫であった建物が並ぶ。現在はレストランになっていた。最初の通りを右に曲がると、「国会議事堂」と「聖ヤコブ教会」が現れた。「国会議事堂」(写真・左)の建物の壁は、板チョコを貼り付けたように見える。そのため、地元では「チョコレートハウス」と呼ばれているそうだ。「聖ヤコブ教会」(写真・右)は、ローマ・カトリック教会大司教の大聖堂で、1225年の記録に登場する「旧市街」では4番目に古い教会である。この教会にも伝説がある。この教会の鐘は、不貞を行った女性が通ると自然に鳴り出したという。女性には不評だったため、彼女たちの圧力で、この鐘は取り外されていたという。

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次は、「聖ヤコブ教会」から20mぐらい離れた所に建つ「三人兄弟」(写真)である。写真の右、「17」番の建物がリーガ最古の住居である。これは15世紀末に建設された建物で、当時リーガはオランダと密接な商業関係にあったことから、建築様式もオランダの影響を受けている。ちなみに、写真中央の「19」番の建物は17世紀に、左の「21」番の建物は19世紀に建てられたもの。3件を比較すると、15世紀に建てられた建物の窓が小さいのに気付く。当時は窓の大きさで税額が決まったため、なるべく窓を小さく作ったという。またこの時代の建物は、倉庫と住居が一緒になっているのが特徴で、屋根裏の大梁には滑車が設置され、これを利用して商品が上げ下ろしされた。

Photo_9
続いて我々は、「リーガ城」に行くところであったが、この近くに「ラトヴィア中央銀行」(写真)があるので、私はグループを抜けてそちらに向かった。同銀行には「Money World」と呼ばれる博物館がある。インターネットで調べたところ、開館日は火、水、木の週3日。本日は土曜日なので閉館日だが、もしかしたら開いているかもしれないという思いで訪ねることにしたのである。しかし結果はダメ。予定通り閉まっていた。仕方ないので、ツアーに戻るため皆の後を追いかけた。

Photo_10
「リーガ城」(写真)に行くが、外からの見学だけのため、既にツアーメンバーはその先に進んでいた。「リーガ城」は、「リヴオニア騎士団」の城で、1330年、「ダウガヴァ川」の川岸に築かれた。15世紀に一度破壊され、新しい城が築かれたのは1515年である。リヴォニア戦争後は、ポーランド、スウェーデン、ロシアの支配者が住み、ラトヴィア最初の独立期には大統領官邸となった。現在も、ここに大統領府が置かれている。なお、北側の一部は「ラトヴィア歴史博物館」として使用されている。

リーガ
http://www.rigatourism.com
リーガ・インフォメーション
http://www.rigatourism.com
ラトビア・インフォメーション
http://www.latviatourism.lv
国立オペラ座
http://www.opera.lv
ラトヴィア軍事博物館(火薬塔)
http://www.karamuzejs.lv
三人兄弟
http://www.archmuseum.lv
ラトヴィア中央銀行(マネー・ワールド)
http://www.bank.lv/acentrs/par_en.html#4
リーガ城
http://www.president.lv

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October 21, 2007

ラトビアの現行貨幣

バルト三国と北ドイツの旅(第9回)
貨幣ぶらり旅(第128回)

ホテルのフロントで両替してもらったラトビアの貨幣は、コインが8種類、紙幣は3種類である。発行されている紙幣は6種類あるのだが、高額のため500ラツ、100ラツ、50ラツの3種類は入手していない。コインは、大きい方から2ラティ、1ラッツ、50サンティム、20サンティム、10サンティム、5サンティミ、2サンティミ、1サンティムス、紙幣は20ラツ、10ラツ、5ラティだ。

まずコインから見ると、独立後最初のコインは、1992年、ドイツのミュンヘン造幣局に委託して製造され、流通に置かれた。Ls2aLs1aS50_2007aS20aS10aS5a_20072s_reverss1s_reverss

種類別では、2ラティは表面が「国章」で、裏面は草を食む牛のデザインである。1ラッツは、表面は2ラティと同じく「国章」で、裏面は水面から跳ねる鮭が刻まれている。50サンティムも表面は「国章」、裏面が松の苗木が描かれており、この3種類は白銅製だ。20サンティム~1サンティムスは、表が「国章」、裏はそれぞれの額面を表す(写真は左から順に裏面のみ)。20~5サンティミの3種はニッケルブラス製、2サンティミと1サンティムスは銅メッキスチール製である。ちなみに「国章」は、ラトヴィアの象徴とされる太陽を中心に、右にグリフォン、左にライオンをデザインしている。グリフォンは東北地域の紋章を、ライオンは西南地域の紋章から取っている。

次に紙幣であるが、こちらもコイン同様、1992年、ドイツの印刷局で造られた。
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種類別に見ると、5ラティの表面のデザインは緑色を基調色とし、中央に大きな幹の太い樹木を描き、その右にパッチワークの模様のような凹版図柄の中に潜像が入れられている。裏面は6つの花弁を持つ花の渦巻き模様である。102000latiave102000latireve

10ラツの表面には、紫色を基調色とし、中央にダウガヴ川の緩やかな流れと岩山が描かれている。裏面は、原始的な弓の形をした古代のブローチのデザイン。2007ls20ae2007ls20be

20ラツの表面には、茶色を基調とした田舎の藁葺きの農家と樹木が、裏面には伝統的な織物の文様が描かれている。

ところで、貨幣単位について色々な呼び方をしているが、1の単位の場合、基本貨幣単位であるラッツと補助貨幣単位のサンティムスで呼ばれ、2、5に対してはラティとサンティミを使い、10以上の場合はラツとサンティムになる。しかし街で使う場合は、ここまで厳密に言わなくても大丈夫なので、ご心配なく。ちなみにラッツは、国名の「LATVIJAS」から採られている。またサンティムスはフランスのサンチームをラトヴィア語化したもの。なおこの単位は、第一次世界大戦後に独立した際使った貨幣単位と同じである(100サンティムス=1ラッツ)。

ラトヴィアの貨幣に関し、更に詳しく知りたい方は、ラトヴィア中央銀行のHPをご参照願いたい。また、コインと紙幣の写真は、ラトヴィア中央銀行のHPから採ったものであることを申し添えておく。

ラトヴィア中央銀行
http://www.bank.lv/eng/main/all/

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October 20, 2007

「シグルダ城」と「トライダ城」

バルト三国と北ドイツの旅(第8回)

食事を終え、午後1:55、バスに戻った。午後からの観光のため、現地ガイドが来ていた。名前はエリナ(女性)である。レストランからバスで10分ほど揺られ、「シグルダ城址」のある公園に到着した。バスを降りて公園の中を歩いて行く。道の両側には大きな木々が茂る。Photo
これらの中に入ると、キノコが取れるそうだ。そこで「キノコを食べて、笑いが止まらなくなったら困りますね」と現地ガイドに話しかけると、「沢山採れると、嬉しくて笑いが止まらなくなりますよ」との返事。添乗員は“笑いダケ”の意味だと察してくれていたが、ガイドには通じていなかった。毒のあるキノコを食べると、顔が引きつって、笑っているような顔になるという意味である旨説明すると、ようやく理解したようで、「それは大変!」と真顔で応えてくれた。彼女の話しを聞いていると、こちらでは“笑いダケ”という発想が無いようである。そんな話をしながら歩いていると、城門(写真)が見えてきた。それを潜ると、両側に花が咲き乱れる美しい庭が現れた。Photo_2
その先には素敵な御殿。この建物は「市庁舎」(写真)で、現在、結婚の登録などを受け付けているとの事。建物の壁には、ガウヤ川の渓谷から採った石が嵌め込まれていると言う。「市庁舎」の前に、銅像が立っている。「クロンバイダ」というラトビアを代表する文化人で、ロシアの支配下、19世紀にラトビアの伝統的文化、音楽を残すことに尽力した人物のようだ。

Photo_3
「市庁舎」の裏手に廻ると、「シグルダ城址」(写真)が見える。「シグルダ城」は、1207年、帯剣騎士団によって建てられた。ちなみに、今年、「シグルダ城」建築800年の祭りが開催されたとの事。城門には騎士団の紋章が刻まれている。また、教会があったことも分かる。これは、騎士団のお城だからである。その他、城には兵舎や貯蔵庫などもあったが、18世紀の北方戦争で破壊されたため、現在は外壁だけが残る姿になってしまった。「シグルダ城」の横を通りすぎ、奥にある広場から森のある北の方向を見ると、「トライダ城」が建っている。森の中には、ガウヤ川が流れており、二つの城は、この川を挟むように建っているのだ。この森は、かつて狩猟場として使用されていたようで、狐や鹿、ハリネズミなどが獲物だったらしい。

午後2:40、バスに戻り、先程遠くに見た「トライダ城」に向けて出発した。「トライダ」とは、リーブ語で「神様のお庭」と言う意味である。かつてこの地には多くのリーブ人が住んでいたが、今は僅か500人程しかいないとの事。現在、冬にはスキー場として賑わい、ボブスレーの競技場も近くにあるらしい。約10分で「トライダ城」に到着。Photo_5Photo_6

「トライダ城」の公園に入る。受付を通り、右手に進むと、シグルダの歴史を示すパネルが十数枚並んでいた。その中の一枚に、美しい女性の描かれたものがあった。彼女が「トライダ・ローズ」(写真左)である。彼女を描いた絵は、数多くあるらしく、この絵が正しいものとは限らないようだ。パネルの並ぶ場所から50~60m程進んだ処に、彼女のお墓がある(写真右)。彼女は、「トライダのバラ」と呼ばれた美女で、恋人への愛を貫いて死を選び、僅か19歳で亡くなったという。この話は、オペラのテーマにもなっているようだ。毎週末には、世界中から多くの恋人たちが、ここを訪れるとの事。ここから20~30m程先に、教会兼博物館がある。ここではリーブ人男女の遺骨や、副葬品を見ることができる。

Photo_4
更に140~150m程歩くと、「トライダ城」(写真)が現れる。レンガ造りの大きな塔だ。手前に見えるのは、かつての城門。2つあったが、一方だけが残っている。その奥に見える塔は、現在展望台になっており、その右手にある本丸は、博物館として使用されている。この地には、当初リーブ人が建てた木造の城があったが、13世紀はじめに、騎士団がこの城に造り替えたという。Photo_9
午後3:15から約1時間、自由行動になったので展望台に上ることにした。階段は135段。狭く、かつ滑りやすそうなツルツルのステップなので、足下に注意しながら上ると、意外に疲れる。しかし展望台からの見晴らしは非常に良い(写真)。上っただけのことはある。本丸やガウヤ川を下に見ることが出来る。しかし「シグルダ城址」が何処にあるのか、良く分からなかった。次に本丸にある「トライダ博物館」を訪れた。博物館には、シグルダの歴史に関する資料が展示されていた。Photo_7
中でも最も興味を持ったのは、貨幣の展示(写真)である。当時の大司教のコレクションのようで、14~15世紀にタリンで鋳造されたシリング・コインや、16世紀はじめにドイツで製造されたマルク・コインなどを見ることが出来た。

その後、あちらこちらに彫刻が置かれている彫刻の森といった雰囲気の公園(写真 )を散歩し、出口に向かった。Photo_8
出口付近には、ラトビアの小学生低学年らしき子供達がいた。遠足なのだろうか。いつものように、「ラブディエン」(こんにちは)とラトビア語で挨拶するが、まったく反応なし。何か不思議そうな顔をして、私を見つめている。今度は手を振りながら挨拶するが、それでも反応なし。こちらの子供たちは“恥ずかしがりや”なのだろうか。スペインやトルコ、エジプトの子供達とは正反対の反応である。私にとって、今回は期待はずれであった。彼らと別れ、午後4:15、バスに戻り、本日宿泊するリーガの街に向かった。

帰り道、道路の両側にはリンゴの木が植えられており、たくさんのリンゴが実っていた。この辺りは酪農家が多く、乳製品も豊富との事。しかし旧ソ連が崩壊し、EUに加盟したことから、産業競争力のないことが大きな問題になっている様子。その他にも、教育問題、少子化問題、失業問題、インフレなど、課題は多い。午後4:40頃、リーガの街に入り、午後5:15に本日宿泊する「リーヴァル・ホテル・ラトビア」に到着。部屋には午後5:30頃に入った。夕食はホテルのレストランで、午後7:30から。少し時間があったので、資料整理をした後、コレクションのため、ホテルのフロントでラトヴィアの紙幣とコインを両替してもらった。60ユーロが41.23ラッツになったので、1ユーロ=0.687ラッツということになる。国境での両替(20ユーロ=13.40ラッツ)が1ユーロ=0.67ラッツだったので、ホテルの方が良いレートである。なおラトヴィアのお金については、次回取り上げることにする。

午後7:30に、夕食のためホテルのレストランへ。メニューは次のとおり。
ポタージュスープ
ビーフフィレソテー
マッシュポテト
チョコクリームケーキ
紅茶

皆と楽しく食事を済ませ、午後9:00に解散した。部屋に戻るためエレベータに乗ると、後から身長2mを超えると思われる大きな男の人が入ってきた。何処から来たのかと尋ねると、ノルウェーからとの事。彼は26Fにあるスカイラウンジに行きたかったようで、エレベータの24のボタンを探していたのだが、見当たらずに困っていた。横に、「スカイラウンジに行くには専用のエレベータに乗り換えてください」と書いてあったので、そのことを教えてあげると、彼は私の両肩を抱えるようにして、「君は小さいな~。でもそんなこと(専用のエレベータに乗り換える)に気が付くなんて賢いよ」と声をかけてきた。私の降りるフロアーに着いたので、「ナケミン」(さよなら)と言ってエレベータを出ると、「ありがとう」と日本語が帰ってきた。「ありがとう」と「さよなら」という言葉は、結構広く知られているのだと思った。部屋に戻り、この日は泡風呂を楽しんだ後、午後10:00に床に着いた。

シグルダ
http://www.sigulda.lv
シグルダ・インフォメーション
http://tourism.sigulda.lv
トライダ城
http://www.turaida-muzejs.lv
リーヴァル・ホテル・ラトビア
http://www.revalhotels.com/lv/Hotels/Latvia-Riga/Reval-Hotel-Latvija


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October 19, 2007

国境で出会ったフィンランド人と緑の帽子

バルト三国と北ドイツの旅(第7回)

午前5:50頃に目覚めた。時差ボケか、それとも昨日早く寝た効果か。午前7:00、ホテルのレストランで朝食。昨日と同じ様なメニューを頂く。本日の出発は午前8:00と少々早い。午前7:30には部屋に戻り、午前7:50にチェックアウトして、ロビーで他のメンバーが集まるのを待った。ロビーにある温度計は11~12℃を示す。この時期にしては非常に暖かい。午前8:00、バスは予定通り出発した。本日の運転手はフンバルトさんだ。これから訪ねる「シグルダ」は、森と渓谷の国立公園。ここから約4時間かかるという。白樺並木や牧草地の続く道路を走り続けた。

ホテルを出て約1時間半。午前9:25、「NUME」にある「HALINGA」という名のレストランでトイレ休憩をとる。午前9:45まで休憩した後、エストニアとラトヴィアとの国境を目指し、バスは再び走り出した。Photo
再び、牧草地(写真)が広がる。円筒状に巻かれた干草が、点々と置かれている。畑も続く。ジャガイモやサトウダイコンが栽培されているらしい。地元の人達は、黒パンと豚肉を食べることが多く、冬にはスープも良く飲まれているとの事。午前10:00、タリンから125kmの表示が見える。この辺りには、旧ソ連時代の集合住宅が並ぶ。また、ソ連崩壊後に立てられた戸建住宅も見られる。冬の雪対策であろうか。屋根の傾斜は急だ。さらに各家の裏には、暖房用のマキが積み上げられている。お天気は良く、快晴の中、このようなのどかな風景を楽しめるとは、最高の贅沢である。

午前10:50、国境に到着。黄色い建物がエストニアの検問所で、赤い屋根の建物がラトヴィアのそれだ。国境でバスに乗車したまま待っていると、迷彩服を着た女性がバスに入ってきて、各々のパスポートを集め始めた。入国手続きをしている間に、トイレと両替を済ませることにした。ラトヴィアの貨幣単位はラッツとサンティーム。1ラッツ=100サンティームだ。私は、残っているエストニアの通貨176クローンに加え、20ユーロを両替した。176クローンは7.04ラッツに、また20ユーロは13.40ラッツになった。トイレ、両替を終えても、まだパスポートは帰ってこない。私たちよりも先に来ていたバスも、まだ待っていた。退屈なので話しかけると、フィンランドから来たグループであった。ヘルシンキからフェリーでタリンに渡り、そこからバスツアーとの事。これから、ラトヴィアの首都リーガに行く計画のようだ。フィンランド人のうち数人が、鮮やかな緑地に赤い羽根の付いた帽子をかぶっていたので、素敵だと褒めてあげると、帽子をかぶっている一人の男性が、帽子をくれるとの事。一度は断ったのだが、結局、有難く頂戴した。私の知っている数少ないフィンランド語で「キートス」とお礼を言うと、「お前はフィンランド人か」と言いながら、皆が一斉に笑顔になった。すると彼らの中から「ありがとう」という言葉が飛び出した。今度はこちらが「あなたは日本人ですか」と笑顔を返した。退屈な検問の時間も、このように楽しく過ごしていると、直ぐに時間が過ぎ去った。彼等が出発する時、「ナケミン」と別れの挨拶をすると、バスの窓から全員が、最後まで手を振ってくれた。楽しい思い出とともに、頭には緑の帽子が残った。記念写真を撮りたかったのだが、国境での写真撮影は厳禁だ。旧ソ連時代のようなことはないだろうが、万が一のことを考え、断念した。帽子をくれたおじさんの顔は、心に焼き付けておくしかない。

午前11:20分、我々のバスも出発である。ここからはラトヴィアだ。この国の面積は約6万5千㎡で、北海道の八割程度の広さ。人口は約250万人で、そのうち首都リーガには75万人が住んでいるという。添乗員の話によると、ソ連邦時代のリーガは、レニングラード(現サンクトペテルブルク)、モスクワに次ぐ第三の都市であった。当時、工業生産の拠点であったが、ソ連邦崩壊後はその地位を失い、現在は木材業ぐらいしか残っていないようだ。そのため、EU加盟国の中でも、一人当たりGDP(4,700ドル)は、ブルガリア、ルーマニアに次いで低いとの事。

午後12:40、昼食のレストラン「LIVKALNS」(写真)に到着。森の中に建つロッジといった雰囲気の建物で、我々が食事をしたのは地下室。Photo_2
外からの明かりが十分採れているので、地下室の暗いイメージではない。また、新しく作られた部屋なのであろう。切りたての木の香りが漂っていた。食事は、2人の美人女性が運んできてくれた。昼食のメニューは次の通り。

ギリシャ風サラダ(トマト、キャベツ、キュウリ、チーズ、オリーブ、パセリなど)
ツーカス・ツェペティス(ロースト・ポーク)
生クリーム・ラズベリーソースかけ、キーウイ添え

「LIVKALNS」のHP
http://www.livkalns.lv

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October 18, 2007

旧市街のコインショップとレストラン

バルト三国と北ドイツの旅(第6回)

「ブラックヘッドのギルド」を見た後、「ライ通り」、「リュートゥリ通り」、「ムーリヴァヘ通り」を歩き、「旧市街」を出ようとしたが、インフォメーションセンターで「旧市街」の地図をもらうため引き返し、「バナポスティ通り」を行くと、お店のショーウィンドにコインが並んでいるのが見えた。